ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市長野は小瀬上関往還道筋の集落

2024年04月10日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         長野は峰山東麓の長野川流域に位置し、東は瀬戸内海に面する。海岸に平地は少なく、
        長野川流域に少し平地がみられる。
         小瀬上関往還道は、岩国市小瀬から上関町まで全長15里(約60㎞)、通津から長野の
        辻堂峠を越え、生屋(しょうや)に出て由宇川沿いを経て長田尻から柳井市日積へ至っていた。
         1889(明治22)年の町村制施行により、長野村と通津村が合併して通津村となる。昭
        和の大合併で岩国市に編入されて今日に至る。(歩行約6.8㎞)

        
         JR由宇駅は、1897(明治30)年広島ー徳山間の開通と同時に開業する。駅前に出る
        と笠塚カープ練習場行きの防長バスが待機している。

        
         駅から生屋バス停まで約8分のバス旅である。

        
         この辺りは旧由宇町で、町の花「ユリ」を中心に町の木「カエデ」がデザインされたマ
        ンホール蓋。

        
         県道149号線(柳井由宇線)を山手に進み、小瀬上関往還道だったと思われる県道14
        1号線(祖生通津停車場線)を通津方面へ向かう。

        
         坂を上り詰めると右手に教覚寺(真宗)

        
        
         岩国市高森にある受光寺末寺とされ、室町期の1495(明応4)年創建開基と伝える。
        1902(明治35)年現在地に寺地を開き、翌年に本堂を建立して今日に及んでいる。最初
        の梵鐘は戦争中に供出し、戦後に作った梵鐘は材質が悪くひび割れしたため、1997(平
          成9)
年に鐘撞堂及び梵鐘すべてを作り直したという。

        
         長野上地区の舞々集落。

        
         長野上の火伏地蔵尊。

        
         高台から教覚寺方向を望むと、遠くに瀬戸内海が望める。

        
         坂を上がって行くと長徳寺入口を示す案内がある。

        
         長徳寺(臨済宗・永興寺末寺)は中世に創建された古寺であったが、吉川氏入封の時には
        衰微して住職もいなかったので、堂宇を解体して普請用木に流用されたという。
         1684(元禄7)年堂宇が再建され、寺領10石が付与されたが、現在は無住のようで周
        囲は荒れ放題である。

        
         境内から瀬戸内海を望む。

        
         道端に石仏が見られるが、道しるべとされた地蔵尊か? 

        
        
         通津小学校通西分校と案内されているが、1879(明治12)年長野小学として創立され
        る。のち通津小学校の分校となり、1997(平成9)年に休校となる。

        
         小瀬上関往還道がどの道なのかわからず終いとなる。

               
         河本先生碑とあるが、1902(明治35)年に小学校が山崩れで倒壊し、河本慶三郎校長
                が殉職されたが、それまでの功績を称える碑のようだ。

        
         石仏から下って県道を横断して長野川に出る。

        
         長野川を渡って向いの山を上がって行く。

        
         1906(明治39)年の神社合祀令により、長野地区9つの小規模神社や荒神様などが合
        祀させられ、杵築(きづき)神社となる。

        
         注連石、鳥居や灯籠が多いのは、この社に集められたことによるという。右手には明治
        32年(1899)に建立された鳥居。 

        
         内務省令により「神社は基本財産2,000円以上有すること。これに足らない場合は合
        併してこれを満たすこと」との通達を受けて、大歳神社(5ヶ所)・杵築神社・疫神社・鎮
        守社(2ヶ所)の9社を菅原社に合祀する。
         参拝するのに便利さと広さを考慮して、菅原社(通称長野天神)に合併されたが、社は未
        登録社であったために登録済みの杵築神社とし、名目上の基本財産をクリアして届け出た
        という。

        
        引き返して長野川に沿うと長野中の集落。

        
         再び山裾を上がって行くと墓石が並ぶが、この付近に知足寺という寺があったという。
        1779(安永8)年頃に「知足庵」として再興されたが、檀家がなかったため廃寺となり、
        のち景福寺に合併された。

        
         長野中の火伏地蔵は農道あたりにあったようだが、道ができたため移動させられた。 

        
         四反田バス停付近だが、県道が往還道だったかどうかはわからない。 

        
         擁壁に石仏。

        
         蓮華花、菜の花と桜を見ながら旧道を下る。

        
         長野入口に出る。

        
         国道188号線を柳井方面へ向かうと、大きな桜の木の下に火伏地蔵尊と厄徐地蔵尊。

        
         長野尻火伏地蔵尊は、嘉永年間(1848-1854)に長野尻地区において火災が続き、地区内協
        議の結果、火伏地蔵尊を祀ることとなった。四国八十八ヶ所霊場第19番立江寺より勧請
        し、現在地より10メートル奥地に安置すると、当地から「ボヤ」など火災もなくなった
        という。
         風水害により現在地に移転したが、1964(昭和39)年国道拡張により一部が国道とな
        る。その補償金で鉄骨のお堂を建立し、記念として桜の木を植えたという。隣の祠は脇地
        蔵尊と厄徐地蔵尊とのこと。

        
         国道筋からJR通津駅に出る。


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