ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の戸田は沖浦村の中心地だった地 

2021年03月27日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         戸田(へた)は屋代島の南部、南へ突出した半島の分水嶺境に位置する。三方を山に囲まれ
        南は海に面する。
         地名の由来は戸田氏の名田(みょでん)の名残か、屋代を中心として周辺部にあるため、「
        へり」「はし」「はた(辺)」の意味からこの名がついたとも考えられる。(歩行約1.4km)

        
         JR大畠駅から防長バス橘病院前行き30分、沖浦支所前バス停で下車する


        
         戸田の海岸線。

        
         東端より旧道を歩く。

        
         赤石大明神は腰から下の病気に霊験があるとされる。ご神体は1個の自然石で、赤黒い
        色から赤石さまという名が生まれたのであろうと伝える。大明神とはいっても線香をたて
        て祈願するという。

        
         海上安全を守る神・金毘羅宮。

        
         慶長年間(1596-1615)東和町長崎から来た長崎和泉守元直が土地を開き、産業を興し新宮
        大明神を祀る。この宝篋印塔は、1634(寛永11)年没した長崎和泉守の墓とされる。

        
         境内から見る戸田の家並み。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、秋・出井(いずい)・戸田・横見・日見の各村を
        もって沖浦村が発足するが、その中間である戸田に村役場が置かれた。1955(昭和30)
        年に蒲野村・大島町と合併し沖浦村は廃止される。(現在のJAふれあい館が役場跡) 

        
        
         更新された家が続く。

        
         戸田神社は伊勢神宮の分霊を村内の新宮山に祀るが、室町期の1534(天文3)年8月戸
        田村の出火で類焼に遭い、1538(天文7)年現在地に移転したとある。 

        
         かってここに吉田屋という醸造場があり、屋代村の藤村伝太郎に引き継がれたが、19
        35(昭和10)年頃に廃業したとされる。土地は分割されたが煙突は残されたままとのこと。

        
         源空寺は松尾の里にあって禅宗の古刹であったが、室町期の1532(天文元)年の頃、廃
        頽した寺を長崎和泉守自らが開基となり、今の地に一宇を建立して浄土宗に改宗する。

        
         狛犬の起源は古代エジプトのスフィンクスといわれているが、その当時、河馬(かば)は女
        性と妊婦の守護神として崇められていた。これは河馬を題材にした作品を手がけている村
        中保彦氏に作品を依頼したとのこと。

        
         周防大島八十八ヶ所第11番札所。詠歌は「み仏の 光に仰げ 法(のり)の舟 瀬戸の波
        間に 映えし慈愛も」

        
         旧道の1つ山手側の通りには平入りの家屋が並ぶ。

        
         みかんと海の風景が描かれた旧大島町の集落排水用マンホール蓋。

        
         集落内には山からの雨水を海に流す水路が3本設けてある。

        
         
旧沖浦郵便局は、1904(明治37)年三等郵便局として開設され、1932(昭和7)年に
        改築竣工した局舎である。大正から昭和初期にかけて、役所らしさを備えた洋風局舎が推
        奨され、それに従って建てられた。
         当初の外観は空色のペンキ塗りであったが、後にピンク色に塗り替えられたそうだが、
        現在はこの姿である。

        
         旧道を西進する。

        
         山手にのびる松本川。

        
         照林寺(真宗)の大谷八郎こと周乗は、19歳で住職となるが尊王攘夷派の僧・月性に学
        び、1866(慶応2)年の幕長戦争では機械方(大砲)として奮戦中、敵弾をうけて25歳の
        若さで戦死する。
         当寺の由緒については詳細不明だが、幕末当時は現在地でなく高地にあったとされる。


周防大島の出井は浜と郷を合わせ持つ集落 

2021年03月26日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         出井(いずい)は屋代島の西南部、法師崎のある出岬の東側の付け根に位置する。北に馬の
        背があり、その支脈によって東西が区切られ、南は海に面する。
         地名の由来は、菅原道真が西下の時、西風が強かったので繋船して飲水を求められたの
        で、里人は競って良水を献じたのを喜ばれ、「良き水の出づる所なり」の意味の歌を詠ま
        れたことによると出井神社誌が伝える。(歩行約1.8km)

        
         家房(かぼう)から県道を歩いてくると出井の集落が見えてくる。
        
        
         外海にあるため波消しブロックが並ぶ。

        
         海岸線に細い道があったとのこと。

        
         山に降った雨をスムーズに流す水路だが、出井はこの1本だけである。

        
         明治期に出井の開発に尽力された故徳永菊蔵翁の彰徳碑。 

        
        
         海岸線に石垣を築くことで高波と強風を防いだ。

        
        漁業の守護神・恵比須社。

        
         分岐は山手から下ってくる道。

        
         亀甲模様に町名があるシンプルな集落排水用マンホール蓋。

        
         古い家屋のほとんどが空家である。

        
         建物の更新が進んでいるが古民家も残っている。

        
         前方に標高538mの馬の瀬。

        
        
         出井神社の由緒によると、平安期の904(延喜4)年当地の何某らが草創する。901(延
           喜元)
年菅原道真が太宰府に左遷させられる際に当浦へ寄船する。ここに上がって眺めた当
        山に、3年後に怪しき雲がなびいたので神廟を建立したのが始まりとある。

        
        
         浜と郷に分けるとすれば郷に該当する地のようだ。

        
         強風に耐えるため瓦は漆喰で塗り固めてある。

        
         流川に合わすと無残な様相を見せる。

        
         流川に沿って下ると住宅が密集する付近まで古民家が見られる。

        
         浄土宗の智光院に周防大島八十八ヶ所第9番札所がある。詠歌は「み仏の 知恵の光に
        導かれ 出井の里の 札所尋ねん」とある。

        
         県道大島環状線から見る出井の家並み。

        
         出井バス停(14:42)から大畠駅に戻る。         


周防大島の家房は海と三方を山に囲まれた集落 

2021年03月26日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         家房(かぼう)は旧大島町の南東部に位置し、南は海に面し、三方を山に囲まれている。集
        落は県道の山側に立地する。(歩行約3km)

        
         JR大畠駅(9:48)から防長バス橘病院行き30分、家房バス停で下車する。(バス停前に
        🚻) 
        
         道路の前は外海であるが、波消しブロックに守られて穏やかな海岸線を見せる。

        
         バス停から旧道に入ると崩壊の途にある民家。

        
         旧道を東に進む。

        
         海からの風が強くないのか、屋根等に補強を見せない地域である。

        
         周防大島八十八ヶ所第8番札所だった大師堂。

        
         1807(文化4)年家房の地で生まれた龍門好五郎は、巨漢と怪力のため相撲の修業に励
        み大坂陣幕部屋に属した。シコ名を「龍門」と名乗り前頭別格として登場し、相撲は取ら
        ず巨体の相撲入りだけを見せた後に姿を消したといわれる。

        
         大島看護専門学校は、1996(平成8)年廃校となった沖浦東小学校の校舎を利用して、
        1998(平成10)年に開校した看護師養成機関である。

        
         東家房バス停付近から見る海岸道路。

        
         背後に標高625mの源明山を控える大東川。

        
         浜と郷との間に田園地帯。

        
         みかん畑の中に民家。

        
         耕地を確保するためか、民家は山の傾斜地に立地する。

        
         丸信味噌醤油製造場付近。(看板は作業場に立て掛けてある)

        
         青年団活動などの集会所として個人が建てたとされるが、現在は家房公会堂となってい
        る。

        
         大歳社も個人建立という。

        
         家房の石風呂は源明山の麓にある笛吹峠下方にあったが、1927(昭和2)年移
住者が多
        くなったことや海藻を敷き詰めることから、海に近いこの地に移設された。農繁期の疲労
        回復・体力保全などに利用されたという。

        
         山手に向かうと赤石川の傍に須賀神社。由緒がないので詳細不明。

        
         周防大島八十八ヶ所第8番札所の明保寺。

        
         札所から見る家房の家並み。

        
         移動手段のない人にとって、JAの移動販売車は不可欠なものとのこと。

        
         出発地に戻るとバス時間まで時間があるので、出井(いずい)まで約1.4mだったので歩く
        ことにする。

        
         晴天のもと、海を見ながらチンタラ歩きも悪くはない。

        
         家房集落の西端。            


柳井市新庄は旧岩国竪ヶ浜往還道が横断する地

2021年03月19日 | 山口県柳井市

        
                 この地図は、国土地理院の
2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         北の大平山と南の赤子山に挟まれた低地に位置する。そのほぼ中央の低地を堀川が西
        
から東へ流れ、土穂石川(つつぼいしかわ)となって柳井港へ注ぐ。
         地名の由来は、柳井庄に付属する新立の荘園によるが、開発年代は不明とされる。(青
        線は岩国竪ヶ浜往還道、歩行約4.9㎞)

        
         JR柳井駅(13:25)から防長バスJR田布施駅行き10分、土穂石バス停で下車する。進
        行方向にある築出橋手前を左折するが、この道が岩国竪ヶ浜往還道で、平生町の竪ヶ浜に
        至る。

        
         右手の大師堂には「四國北一遍 弘法大師 供養佛」とある。
      
        
         1665(寛文5)年古開作を干拓した際、土穂石川は湿地帯を耕地化する目的で堀削され
        
た人口の川とのこと。

        
         水の流れを止めるような巨石(土穂石)は、カメさんの楽園となっているが、「玖珂郡志」
        には、昔、貧民夫婦あり、滞(落)穂を拾って神に供える穀物とした。滞穂を土器に入れて、
        巨岩の上に置き神に献ず。多年怠りなく、神はその実心に福を降したまふ。夫婦は富む人
        となったとある。
       
        
         川は昭和初期に改修されたとのこと。(次の橋を渡る)

        
         土穂石の奥に石碑が見えたので立ち寄ると、松尾芭蕉句碑だそうだが風化してはっきり
        読めないが、「蝶の飛ぶばかり野中の日かげ哉」と彫られている。1875(明治8)年俳人
        の会によって建立されたものである。

        
         1937(昭和12)年建立の土穂石八幡宮二の鳥居。

        
         土穂石八幡宮の創建年代は不明。現在の社殿は1956(昭和31)年に再建された。

        
         欣慶寺(ごんけいじ)は曹洞宗の寺で、慶長年間(1596-1615)に創建された古刹である。開基
                は織田清範で織田信長の家族とされ、はじめは紀伊国を領していたが、理由があって周防
        国に移って旧新庄村の郷士となった。織田を小田に改め仏門に入り、織田一族の供養のた
        め寺を建立したといわれている。

        
         一の鳥居は、1693(元禄6)年岩国領主吉川広紀が奉納したとされる。1874(明治7)
        年創立の新庄小学校は、1886(明治19)年現在地に移転する。その後、グラウンドが拡
        張されたため参道を挟んだ学校地となる。 

        
         土穂石川と左岸の道が岩国竪ヶ浜往還道。通りの家々はほとんどが更新されている。

        
         往還道に合わすと県道光柳井線と山陽本線の横断は
歩道橋を利用する。県道は1887
          (明治20)年に開通したが、それ以前は余田・新庄地区の人々は往還道が主要道だった。

        
         歩道橋から見る柳井の町並み。

        
         道は3本に分かれているが、中央が往還道である。郵便局の北側に新庄公民館があるが、
        この地に村役場があったようだが確証を得ることができなかった。

        
         線路に沿うと右手に国学者岩政信比古(1790-1856)を顕彰する碑がある。1955(昭和
        30)年に岩政家の屋敷跡に建立されたが、国学を修めた信比古(さねひこ)の人柄と学問を慕
        って多くの門人が集まったとされる。その中に秋良敦之助、世良修蔵、月性らが名を連ね
        る。

        
         白壁の町並みがデザインされた柳井市のマンホール蓋。

        
         街道筋には新たな家、更新された家が占める。

        
         台座を含めて2m以上のある火伏地蔵。昔、火事が頻繁に起こり、鎮火を祈って176
        5(明和2)年に建立された。

        
         往還道は田園地帯に入る。

        
         往還道は余田地区へとつながるが、四差路を右折して法師田川に沿う。

        
         道筋に大きなラクショウ(落羽松)の木がある。北アメリカ産の落葉針葉高木だが、日本
        ではヌマスギと呼ばれ、湿地に植えると、幹の周りに呼吸根(気根)が出てくる。1901
        (明治34)年に小田邸の庭に植えられたものだが、空家のため近くで拝見することができな
        い。(市天然記念物) 

        
         市街地方向に戻ると岩政次郎右衛門奥都城(おくつき)がある。次郎右衛門(1656-1736)は、
        1689(元禄2)年に3年の歳月を費やして柳井川から取水し、新庄を経て余田まで全長7
        ㎞におよぶ灌漑用水路を完成させた。これにより干害に悩み続けた村一帯がよみがえった
        とされる。 

        
         高林寺(真宗)前を過ごす。

        
         やまぐちフラワーランドへの道に合わすと、山裾の道は急坂であるので川に沿って平坦
        道を歩く。

        
         源義経主従の供養塔とされ、平安期の1185年源平合戦で源義経主従が柳井に上陸し
        た際、この地に一行を支援した土豪がいたとされる。その子孫らが義経主従を供養するた
        め、五輪塔や宝篋印塔を安置する石祠を設けて祀ったという伝承が残っていると案内され
        ている。

        
         少し下ると正念寺境内に「伝 佐藤継信・忠信の供養塔」がある。1185年の源平合
        戦で義経の郎党として平家追討軍に加わった佐藤継信・忠信兄弟であったが、兄継信は屋
        島の戦いで戦死、弟の忠信は壇ノ浦の戦い後、義経は官職、忠信も兵衛職に任官されたた
        め、源頼朝と対立する。忠信は都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し離
        散し、京都で居場所を密告され自刃に追い込まれる。
         この石祠が両名の墓という伝承が残されており、「ただのぶさん」として大事に供養し
        てきたとある。この辺りの地名が忠信という。
 

        
         新庄の町並みを見てイオン柳井新庄ショッピングセンターに出るが、ここにはバス路線
        がなく、タクシーを呼ぶか駅まで歩くことになる。(駅まで約1.2㎞)


柳井市伊陸は難読地名の1つだが自然豊かな地

2021年03月17日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         伊陸(いかち)は由宇川上流に位置し、北は氷室岳山地、南は標高300m余の山地に囲ま
        れた
山間盆地に立地する。
         地名の由来について玖珂郡志は,「承平5年(935)梅津中将、2頭鹿ヲ追テ、余鏃(あまが
          ね)
ニテ射損ジ玉ヘバ、忽鹿怒テ通リケルヲ以、恚鹿路(いかじ)ト云」とあり、二鹿大明神
                (現岩国市)の縁起に由来すると伝えを記すが、難読な地名である。(歩行約3.8㎞)

        
         JR柳井駅から防長バス宮の原行きがあるが、便数が少なく利便性に欠けるので車で訪
        れる。(宮の前バス停付近に駐車)

        
         バス停から氷室亀山神社への長い参道は、1915(大正4)年に県道まで延長されたもの
        である。一の鳥居は、1722(享保7)年亀山神社に建立されたものが移設されている。

        
         伊陸日積往還道と参道が重なる。

        
         氷室亀山神社の正面に目通り2.5m、樹幹の高さ約18m大モミがある。いつ頃どこか
        ら移植されたかは不明とのこと。(市天然記念物) 

        
         奈良期の711(和銅4)年氷室岳の8合目に祀られた氷室大明神は、村内の戸数が増えた
        ため、祭祀の便を考えて室町期の1508(永正5)年現在地へ遷座した。1907(明治40)
        年域内の中村にあった亀山八幡宮と氷室大権現が合併して氷室亀山神社となった。

        
         「こほり(氷)し 氷室の池も冬ながら こち(東風)ふく風にとけやしぬらん」という歌は、
        平安期の939(天慶2)年紀貫之が周防守に任じられて下ってきたとき、歌会で詠まれたも
        のだが詠み人知らずとされる。

        
         神水の由来によると、神社周辺に5ヶ所の湧水があり、その1つがこの井戸の湧水であ
        る。どんな時でも涸れたことはなく水神様としてお祀りしているとある。

        
         周東広域農道を横断すると棟に瓦を載せる家。

        
         大きな門を構える民家だが、庭木の状況から無住のようだ。

        
         高山寺(こうざんじ)へ向かうと正面に氷室岳。

        
         禅宗などの寺院の前にある戒壇石(結界石)。寺院全体を戒壇に見立てたものだそうで、
        よく目にするのは「不許葷酒入山門」の石碑である。

        
        
         高山寺(臨済宗)の寺伝によれば、鎌倉期の1320(元応2)年紀州国守内藤氏の夫人、妙
        観尼が建立したのに始まるという。
         室町期の1345(貞和元)年足利尊氏は南北朝期の戦死者の追善と国家安穏の祈祷場とし
        て、安国寺利生塔を諸国に置くにあたって、当寺を周防
国安国寺に定めた。

        
         廓念寺(かくねんじ)という浄土宗の寺は、当郷には浄土宗の寺がなかったため、河田忠實
        の内儀が懇願し、室町期の1556(弘治2)年に開山したとされる。

        
         再び周東広域農道を横断すると麦畑。

             
         日積・大畠に向かう伊陸日積往還道と、岩国・竪ヶ浜往還道の分岐点に「六道能化(ろく
          どうのうげ)
」と刻まれた地蔵菩薩がある。
地蔵菩薩の傍に並んでいる石祠はいずれも、圃場
        整備の際に集められたものである。

        
         岩国竪ヶ浜往還道は県道を横断すると未舗装の道に入る


        
         大正期に平生町西の町を起点に、柳井駅で国鉄に接続して伊陸に至る鉄道が敷設される
        予定だったが、岩徳線の敷設や関東大震災の影響もあって中止を余儀なくされた。

        
         宮ヶ原バス停付近に鉄道の伊陸駅が設置される予定だった。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の伊陸村が単独で村を構成する。村
        役場を藤ノ木に設けたが、1896(明治31)
年この地に移転し、1954(昭和29)年柳井
        市の一部となり役目を終える。(解体中の市役所伊陸出張所)

        
         硲俊聰(はざましゅんそう)は、1852(嘉永5)年に村岡家の三男として生まれ、大阪師範
        学校に入学して卒業後は大阪方面の学校で教師をしていたが、病のため帰郷して伊陸村の
        硲家の養子となる。
         その後、伊陸村長、山口県議会議長、衆議院議員などを歴任し、晩年は神代村に帰郷し
        て神代村長を務めたが、80歳で逝去する。

        
         通りには市出張所、小学校、JA、郵便局が並ぶ。

        
         石碑が塀の上に頭を出していたが、陸軍軍人だった秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902-1953)
        が休息された所とか。

        
         県道沿いの家々は改築などで更新されていた。


萩市の弥富は田万川左岸に位置する山間集落

2021年03月14日 | 山口県萩市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         弥富(やどみ)は田万川が東流し、川沿いを県道日原須佐線が走る。県道と主要地方道益田
        阿武線が合流する新市は、弥富の中心地で公共施設や商店がある。
         この地域には生活バスがあるものの、JR江崎駅での乗り換えができないため車に頼ざ
        る得ない。(歩行約3.3㎞) 

        
         1889(明治22)年町村制施行により、弥富上村、弥富下村、鈴野川村が合併して弥富
        村が発足する。この付近に村役場があったとされるが、確証を得ることができなかった。

        
         田万川を渡る大きな橋の向こう側に小さな橋があるが、昔の橋跡に架けられた橋とされ
        る。

        
         土床道は昔の土橋を渡ると、この道を山手に向かう。

        
         街道は山の中に消える。

        
         弥富小学校は、1877(明治10)年小川小学校弥富分校として創立されたが、2019
        (令和元)年閉校となる。

        
         丸山八幡宮は、奈良期の725(神亀2)年宇佐神宮より勧請し、弥富と福田の境である八
        幡原に創建された。その後、江戸期に弥富村馬場へ遷座したが、1684(貞亨元)年現在地
        に建立され、給領主である益田氏の祈願所となった。

        
         現在の社殿は18世紀末頃建築されたと推測され、境内社として祇園社(右)と荒神社(中)
        が祀られている。 

        
         街道は丸山八幡宮前から市の台へと上がって行く。

        
         上り坂の途中に高さ180㎝の蔵尊があるが、1721(享保6)年建立とされる。

        
         市の台付近の民家は、その多くが空家状態。(県道まで引き返す)

        
         県道を西進して行くと、右手に西秀寺(真宗)がある。かって真言宗の寺としで弥富上楢
        木にあり、寿楽寺と称して平山星の城城主・吉見安房守が建立する。1594(文禄7)年改
        宗して現寺号に改め、1953(昭和28)年現在地に移転してきた。

        
         寺の向かい側に「一万のはな」と呼ばれる場所があり、小さな祠と「三界万霊□」と刻
        まれた石碑と石灯籠が立つ。石碑銘文「維持宝暦十歳・□正月七日造立・願主立野七良兵
        衛」とある。(□は読めず)
         戦国時代、吉見氏の出城であった星の城落城の際、城兵が多数討死した地として伝わる。
        地域の伝説によると、戦死者の鼻を集めて葬ったという。

        
         田万川に沿って新市に入る。

        
         石州瓦の屋根が並ぶ。

        
         丸山八幡宮への橋を左折すると蔵が見えてくる。  

        
         風土注進案によると「御本陣壱ヶ所、蒲原有田貞右衛門所」とある。藩主の御国廻の際
        に、本陣として使われたようだが、同地には大きな家が残されている。

        
         土塀に囲まれていたようで、門と思われる空間があるが、木々の生長などで中の様子は
        わからない。

        
        
         全柳寺(曹洞宗)の寺伝によれば、永亨年間(1429-1441)津和野城主吉見氏が創建した興禅
        寺の後であり、1672(寛文12)年給領主の益田就宣の3男七兵衛が早世したので、追福
        のため当寺を開基し、法名に因んで現寺号に改めたという。   

         1863(文久3)年大和十津川の戦いに敗れた中山忠光(明治天皇の叔父)は、長門に亡命
        し、10月には生雲村(現山口市阿東)の大谷忠兵衛宅より当寺に移り、同年11月11日
        須佐を経て海路で下関の白石邸に至るまで潜伏した。


        
         阿武火山群の火山の1つとされる伊良尾山は、約40万年前に噴火し、溶岩が約14㎞
        も流れ下る。現在は「龍が通った道」と呼ばれ、溶岩流は谷を埋め、肥沃な土壌と豊富な
        水を生んだ。弥富特産の蕎麦の花が田んぼ一面に咲きそろい、10月上旬には「そばの花
        
まつり」が行われる。

        
         市支所、診療所、郵便局、JA、ガソリンスタンド等があり、日常的には地域内での移
        動で済みそうである。 
                


阿武町福田は四方を山に囲まれた農村集落

2021年03月14日 | 山口県阿武町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         福田は福賀地区の中央に位置し、福田盆地や大井川流域に水田中心の農地が広がる。中
        村に公共施設や商店などがあり、福賀の中心地となっている。(歩行約3.8㎞)

        
         土床道(街道)は大井川を渡って道路を横切ると中村に入る。

        
         地区内をほぼ直線的な道が走るが、街道は左手の消火栓がある所で山側に入る。

        
         山裾を道なりに進む。

        
         福田の家並み。

        
         次の山裾へ向かう。

        
         山手側に大きな砂防堰堤。

        
        
         石州瓦の赤と漆喰が際立つ。
 
        
         福田八幡宮の二の鳥居と神楽殿。

        
         室町期の1525(大永5)年周防国玖珂郡山代から移住した松原将監美則が、宇佐神宮よ
        り勧請したという。本殿の建築年代は、彫刻などから19世紀半ば頃と推測されている。

        
         この先で街道は途切れるため、参道を利用して旧道に合わす。

        
         野坂三差路バス停を過ごすと街道は左手に入る。(バスは月・水曜日のみ運行)

        
         街道を道なりに進むと、「剣豪・佐々木小次郎の墓」が案内され、約170mの山道は整
        備されている。 

        
         1512(慶長17)年巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻ユキはキリシタン信者で、
        当時、懐妊中で小次郎の遺髪を抱き、厳しいキリスト教の禁令により、多くの信者と共に
        山陰の地に安全な場所を求めた。
         ユキはこの地にあった正法寺(真言宗)に身を寄せて剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥
        福を祈り、菩提を弔うため墓を建て、その墓下の庵で一生を終えたという。我が子に対す
        る因果応報の絆を断ち切るため、小次郎の名を「古志らう」と変えて墓に記したという伝
        説がある。墓には仏像のような彫り物がある。

        
         墓の上の段には方形の台座、丸みを帯びた幢身(どうしん)の上にかん部が乗り、その上に
        笠がある。かん部には手を三角形に組んだ石像が刻まれているが、妻ユキが信じていたバ
        テレン墓と伝えられている。

        
         その隣には粟屋元吉の墓跡がある。元吉(もとよし)は毛利輝元に仕え、1625(寛永2)
        阿武郡福田高佐800石を拝領、隠居後剃髪して法正寺に入り、1628(寛永5)年に死去。
        後に元吉の法号から太用寺に改名して、現在は福田上に移転し、墓も1978(昭和53)
        同寺の境内に移された。

        
         今度は旧道を引き返す。

        
         亀甲模様の中央に阿武町の町章と汚水と記されたマンホール蓋。

        
         JR奈古駅から町営バス約30分で福賀小学校前バス停に下車できるが、バス利用だと
        滞在時間1時間と短い。

        
         いろんな店が並んでいたようだが、静かな通りとなっている。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、福田上、福田下、宇生賀村をもって福賀村が発
        足する。1955(昭和30)年奈古、宇田郷と合併して阿武町になるが、村役場の位置は現
        在の阿武町福賀支所付近にあったものと思われる。
             


阿武町木与は海と国道、鉄道に挟まれた集落

2021年03月14日 | 山口県阿武町

        
                  この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         木与(きよ)は阿武山地が日本海に迫り、木与川下流に小平野がある。木与駅付近を除けば
        ほとんどが岩石海岸である。地名の由来について「長門木与史」は、木与は喜世で大内氏
        の末族が、この地に逃れて安住を許されとか、また、益田の旧臣が主家に許されて遠根に
        転任したときに喜びの世の意味であったとしている。(歩行約3.3㎞)

        
         1931(昭和6)年に開業したJR木与駅は、集落の端にあって駅舎を出ると日本海に面
        する。構内は相対式2面2線を有する地上駅だが、跨線橋が撤去されたため、萩・長門方
        面は別通路からホームへ行かなければならない。

        
         駅前を国道191号線が走る。

        
         海岸線に沿って木与集落。

        
        
         萩・長門方面のりば入口と国道からの道。

        
         阿武町内バスの木与駅前バス停付近。

        
         木与集落は海、国道、線路に挟まれた中に立地する。

        
         粋な造りの消防器庫。

        
         民家の山手側に山陰本線。

        
         木与川右岸の小神社は、何が祀られているのかはわからないが、海に関係するものだろ
        う。

        
         防波堤の先に舩溜改築記念碑がある。「明治15年(1882)埠頭の改築の議を得て、釣す
        るものは5/1000、網するものは1/100その獲る所を貯蓄し、これに村費の補助と隣浦の義金
        をもって、明治44年(1911)4月工を起こし8月に至り成す。海に生活する住民が生活防
        衛のため30年間蓄積した結晶である」とある。 

        
        
         防波堤内と外側の海岸線とは対照的である。

        
         現在は国道で道幅も広くなったが、藩政時代は萩唐樋高札場から津和野藩領との境にあ
        る仏坂までの街道(仏坂道)であった。

        
         家並みが途絶えるところで街道は右折する。

        
         山陰本線木与踏切を過ごすと木与八幡宮。

        
         この地方に見られる舞殿形式の楼門。

        
         平安期の885(仁和元)年宇佐神宮より勧請された木与八幡宮は、当初は迫田の森林中に
        あったが社殿が流失し、1419(応永26)年現在地に再建された。現在の社殿は1883
          (明治16)年、舞殿は1981(昭和56)年に建て替えられた。

        
         町花のしゃくなげと町章がデザインされた阿武町の集落排水用マンホール蓋。

        
         線路の山手側は農地。

        
         仏坂道はこの先で消滅しているとのこと。

        
         木与地区の棚田(やまぐちの棚田20選)は、元来、急傾斜地形に逆らわず、畦畔(けいは
          ん)
石組みで構築されていたが、1997(平成9)年の圃場整備で今日の棚田となる。棚
        田上部からは日本海が見渡せる。

        
         棚田から見る木与の家並み。
 

        
         石州瓦の屋根が青空に映える。

        
         木与川沿いの家並み。

        
         この道も狭く高さ制限がある。

        
         万寿寺(曹洞宗)は阿武郡吉部村の古跡・阿弥陀寺の寺号を当所の観音堂に移し、176
        2(宝暦12)年開山したとされる。境内に入らず大急ぎで駅に戻る。     


岩国市美和町の秋掛は旧山代街道筋の集落

2021年03月11日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         秋掛(あきがけ)は羅漢山と二代木山、姥石山などの山塊に囲まれ、北東から南西にかけて
        開けた低平地に
位置する。
         地名の由来は、戦国の頃、ここ山代街道を通って安芸へ軍勢が駆けたことから安芸駆(あ
          きかけ)
と名付け、これが秋掛となったという。(歩行距離1.9㎞)

        
         公共交通機関は岩国市生活交通バスがあるが、毎週水曜日の1便のみで利用は難しい。
        (バス停近くに駐車)

        
         右手の道が安芸境から秋掛集落を通って萩に至る山代街道。

        
         街道は左へ下って行く。

        
         秋掛の町並み。

        
         この先の三差路で再び山代街道と合わす。

        
         三差路にある民家。

        
         「さいき商店」の壁に鏝絵らしいものがある。

        
        
         2001(平成13)年廃校となった美和町立秋掛小学校は、1951(昭和26)年築の懐か
        しい木造校舎が現存する。玄関には校名が残り、建物は地域住民に開放されているようだ。

        
         山代街道の説明によると「校門前の通りは山代街道の一部です」とある。江戸時代、紙
        の産地であった山代地域(旧玖珂郡北部)と城下町萩を結ぶ24里(約100㎞)の道は、萩
        藩にとって重要な街道であった。

        
         山と川に挟まれて集落は途切れる。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、秋掛村と北中山村が合併して、旧村の各1字を
        とって秋中村となる。その後、1955(昭和30)年には賀見畑村と合併して美和村が発足
        する。

        
         板塀に囲まれたS家。

        
        
         人口減少などで空家が目立つ。
昔は「山の幸(木材、薪、炭、キノコなど)」が里へ流れ、
        おカネが里から山へ流れ、山に暮らす人々の生活を可能にしていた。海は「さかな」とい
        う資源で、この循環が機能しているといえる。
         ところがこの流れが止まると山の暮らしは立ち行かなくなり、人の流入もなく長い時間
        をかけて細ってきたと思われる。

        
         町木だった「松」と町花「ツツジ」がデザインされ、中央に町章がある旧美和町の集落
        排水用マンホール蓋。

        
         街道は三差路を左折して県道2号(岩国佐伯線)に合わす。

        
         この地にあった道標は県道2号との分岐に移設された。

        
        
         生見(いきみ)川と山裾に挟まれた中に集落。

        
         河内(かわち)神社は秋掛の総鎮守で、都濃郡鹿野の二所大明神を勧請したとか、室町期の
        1428(正長元)年隠岐国の水祖神社より勧請したとも伝える。

        
         神社付近で民家は途切れる。

        
         県道2号にある道標には「此方ひろしま道、此方いわくに道 此方本郷道」とある。

        
         赤瓦が映える秋掛集落。

        
         秋掛から生見川に沿って約5.5㎞下ると北中山バス停がある。川右岸の北中山小学校は
        秋掛小学校と同じような木造校舎であるが、2001(平成13)年に廃校となる。


岩国市美和町の渋前は岩国往来の街道町

2021年03月11日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         渋前(しぶくま)は渋前川流域、南と北に小起伏状山地に挟まれた河岸段丘や谷底平野から
        なり、美和地域の中心部に位置する。地名の由来については不明であるが、古来より渋前
        の字を志部前としたり、渋熊または渋隈と書きあらわす場合があったというが、難読な地
        名である。
(歩行約2.9㎞)

        
         岩国往来は県道岩国美和線を横切って渋前市へ向かうと、市手前の約100mは坂道で
        ある。(許可を得て民地に駐車)

        
         坂の両側には旅館や民家などが並んでいたようだ。

        
         〇一旅館の向かい側にある門構えの家はK醤油屋さん。

        
         渋前の市は坂の上にあって、県道北中山岩国線が横断するが、この交差点手前が市頭で
        あったとされ、市は200mほどであったようだ。 
         中世の大内時代は、錦川下流域の岩国は未開の地で、安芸国から周防山口に至るには渋
        前を通って須々万、鹿野を経ていた。渋前はこの地域の中心であって、毎月8、18、2
        8日には市が開かれていたが、近世、岩国城下町があらゆるものの中心となり、1729
        (享保14)年に市の伝馬が廃止される。今では商家も少なく、建物も更新されて市だった面
        影は失われている。

        
         坂上郵便局前から見る県道筋。

        
         岩国往来は旧本郷村と岩国市今津を結ぶ約30㎞の街道であった。関ケ原の戦い後、初
        代岩国領主・吉川広家一行が出雲の国からこの道を通り岩国に入った。
         その後、萩の役人が岩国領を視察するために整備され、和紙の原料を運ぶ道としても利
        用された。

        
         「芸防民具館之発足」と案内されている恩田民俗資料館。

        
         東林寺(臨済宗)の現本堂は火災で焼失した後、1689(元禄2)年に再建されて昭和期に茅
        葺き屋根を瓦葺きとした。
         1864(元治元)年岩国領主吉川経幹は坂上地区の荒廃した惨状をみて、ここ本寺に撫育
        役所を設置して、玉乃東平を任命し地域の更生を図る。
         そんな中、幕長戦争が起こり、坂上地区でも農民兵「北門団」が結成され、同寺が本営
        にもなった。北門団解体後、日当の値上げなどを要求して騒動が起こり、玉乃は撫育方を
        罷免されたが、明治後は初代大審院長となる。

        
         寺前には岩国南八十八ヶ所特別霊場(右)と、台座に鎮火祭と刻字された地蔵尊など3体
        が祀られている。

        
         商店などであったのだろう看板建築が目立つ。

        
         街道は市尻から右折する。

        
         渋前川に架かる田中橋を渡ると横田地区。

        
         橋の袂に脇本陣を務めた横田田中屋がある。案内によると江戸期より酒造業を営み、水
        車で精米を行っていた。現存する本宅は1887(明治20)年築。
 

        
         酒蔵のシンボル「杉玉」が保存されている。

        
         横田田中屋より100m北に本陣の庄屋榎田家があった。萩藩主が岩国領などの御国廻
        りの際、山代本郷で宿泊して当家を昼休所に利用したとされる。

        
         市尻まで戻ると下り道となる。

        
         左手の山本佳次翁頌徳碑には、ハワイに移民し、帰国後は坂上村長、初代美和町長など
        を歴任、その功績を称えたとある。

        
         下って行くと旧県道だろうかT字路に合わす。

        
         JR大竹駅から美和総合支所近くの鮎谷まで、大竹市と岩国市共同運行のバス路線があ
        り、平日6便、土・日・祝日4便が運行されている。(大竹から下迫まで約45分) 

        
         この筋の建物は更新もしくは近年に建てられたようだ。
  
        
        
         金郷八幡宮について社伝は、往昔、康応元巳(1389)4月11日当国遠石八幡宮を勧請し、
        3ヶ村の産土神になったという。 
         本殿の建築年代は不明だが、一説には元小田にあった祇園社を移築したという。拝殿は
        1893(明治26)年築だが昭和期に改築された。

        
         往路を引き返す。