ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の八道は旧肥中街道と旧長府街道が交わる地

2022年08月16日 | 山口県下関市

         
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、八道(やじ)、浮石など6ヶ村をもって豊田中村
        が発足し、八道に村役場を設置する。昭和の合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町の
        大字である。
         八道は日本海に注ぐ粟野川と瀬戸内海に注ぐ木屋川の分水嶺をなし、粟野川の最上流域
        に立地する。地名の由来について地下(じげ)上申は、地内に四辻が2ヶ所あり、いずれも往
        還道で、両所の四辻で八つの道になることから起こったという。(中八道の歩行約2.3㎞)

        
         域内へはバス便があるが、JR小月駅からのバス便との接続が悪く車に頼らざるを得な
        い地域である。
         杢路子へ向かう途中にある農業公園「みのりの丘」は、宿泊施設、特産品販売、体験施
        設、昼食が可能な茶屋などがある。

        
         円正寺(日蓮宗)は、1893(明治26)年同地の信者や地区外の協力者があって、現在地
        に創建された。

        
         地蔵は総高71㎝の舟形地蔵で、1780(安永9)年4月とある。浮石原の路辺にあり、
        ここが八道村と杢路子(むくろうじ)村の境とされる。

        
         浮石原は旧豊北町肥中浦と山口を結ぶ肥中街道、俵山と長府・赤間関を結ぶ長府街道が、
        みのりの丘の茶屋の所で十文字に交差していたので、「十文字原(じゅうもじばら)」とも呼ば
        れていた。(見える道は肥中街道)

        
         みのりの丘から国道491号交差点を直進し、呉ヶ畑川手前の四叉路を右折する。橋を
        渡って道なりに進むと藤輪伊佐衛門碑があるが、獣用防護柵があって開閉するのに苦労す
        る。
         説明によると、藩政期の八道は長府藩家老・細川織部の給領地であったが、領主が農民
        を人夫にかり出し、酷使するため畦頭(くろがしら)だった伊佐衛門が使役の軽減を藩に直訴
        した。願いは聞き入れられたが直訴はご法度のため投獄された。処遇が決まらないうち、
        1847(弘化4)年牢破りをして福岡県星野村へ逃亡し、1878(明治11)年病没する。遺
        髪は呉ヶ畑の願成寺原に埋められ、顕彰碑が建立された。

        
         飛松バス停近くの国道435号線と、下八道に向かう旧町道(かっての肥中街道)分岐点
        に道標がある。

        
         道標には正面に「右たきべみち凡(およそ)四里」、左側面に「左くるそん山へ凡三里」と
        あり、右側の上部には「大正8年(1919)7月」と刻まれている。

        
         中八道集落の覚証寺(真宗)は、1567(永禄10)年頃に常阿弥が当村の民家に寄宿し、
        7日後に名号を残して立ち去った。その後、1593(文禄2)年常現という僧が来て、かの
        名号を拝み歓喜して住みついたのが創始とされる。(中八道集落センターに駐車)

        
         境内には15代住職篁(たかむら)研道氏の「研道師之碑」があるが、師は1862(文久2)
        年寺子屋を開いて子弟の教化に努めた。向かい側には氏が建立した芭蕉の句碑がある。
               「ものいえば くちびる寒し 秋の風」

        
         八鷹八幡宮は、1907(明治40)年11月に八道と鷹子の両八幡宮が合併し、現社号に
        改称して旧八道八幡宮の地に鎮座する。
         旧八道八幡宮は、鎌倉期の1202(建仁2)年宇佐八幡宮より勧請、鷹子八幡宮は南北朝
        期の1348年に創建された。

        
         参道に石段がないので車だと拝殿前まで行くことができる。鳥居は明和4(1767)丁亥正
        月と刻まれている。

        
         荒廃農地の解消等に向けた振興交付金で維持されているのか、見事まで管理された農地
        が広がる。

        
         江戸期に長府藩の年貢米を運ぶ道を御米道(ごまいみち)といっていたそうだ。浮石の奈留
        から市庭・下組・中組を通って、金道の田尻から御駕籠建場のある四辻に出て、この道か
        ら鷹子・庭田・阿座上を経由して赤間関街道北道筋につながっていた。今は使われていな
        い場所や位置が移動したり、消滅したところもあるようだ。

        
         旧肥中街道の家並み。

        
         豊田中公民館がある辺りを四辻という。昔は肥中街道と北は浮石方面、南は庭田・赤間
        関方面へ通じる道が交わっていた。

        
         公民館のある地は、削り取られて平地となっているが、江戸期には「御駕籠建場」があ
        り、藩主や巡見使等が駕籠から降りて休息する場所であった。

        
         上八道に移動すると、道路脇に明教寺(真宗)があるが、開基は武門より出家した僧と思
        われるが俗性等はわからないという。

        
         八道窯の案内があったので行ってみるが見当たらず。最奥民家でお尋ねすると既に解体
        されたとのこと。ここでは水瓶や鉢、壺などが焼かれていたそうだが、陶土を掘りつくし
        石州瓦の販売店へと変わっていったという。肥中街道でお会いしたのは鹿の親子だった。

        
         この参道の上に赤崎神社(牛馬防疫の神)だが、上がれる状況にないので残念する。


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