ぶらっと散歩

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山口軽便鉄道(小郡~山口)の鉄道敷跡を巡る (山口市)

2024年05月29日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。(左は1910(明治43)年陸軍が作成した地形図)
         1907(明治40)年12月に山口軽便鉄道を建設することで山口軌道会社が設立され
        たのだが、資金の問題で大日本軌道㈱と合併することになる。その翌年に山口支社が発
        足し、11月に軽便鉄道として小郡新町―湯田間が開通する。12月に湯田―山口新道
        (後に亀山駅)間が、1909年2月には小郡新町―小郡間が開通する。
         その後、普通鉄道開設運動が起こり、1913(大正2)年2月に山陰縦貫鉄道の一環と
        して小郡―山口間の山口線が開通する。わずか4年半の営業で廃止となった路線である。
         普通鉄道は現在の在来線でレールの間隔(軌軸)が1,067㎜だが、軽便鉄道は762
        ㎜と狭く、安定性や機関車の性能が劣っていたとされる。

        
         山陽鉄道㈱は三田尻ー下関間の敷設に際し、三田尻から県庁所在地の山口を通って小郡
        に出る路線を計画していた。これに対し旅館業者が、「客足が留まらなくなり商売に困る」
        と反対したため計画は取りやめになる。
         しかし、後に県庁を鉄道沿線の便利のよい場所に移転すべきとの意見が出たため、18
        99(明治32)年に山口町は鉄道委員会を設置して鉄道建設を推進するという背景があった。

        
         新山口駅在来線口前の一帯に軽便鉄道小郡駅があったとされる。

        
         明治通りが鉄道敷跡と思っていたが、地形図によると通りの左側は田圃で、その中に鉄
        道敷が記載されている。

        
                 明治西会館付近を北に向けて敷設されていたようだ。

        
         旧国道2号線と旧山陽道を横断して、光明寺裏から旧国道9号線に至っていたと思われ
        る。この路地は用水路に蓋がされているので、この付近に鉄道敷があったようだが消滅し
        ている。

        
         旧国道9号線が鉄道敷跡のようで、信光寺裏附近に津市停車場があったとされるが、場
        所は特定できなかった。

        
         津市から中領八幡宮までは道路拡幅工事で消滅している。

        
         国道9号線を横断して、中領八幡宮前から四十八瀬川に至っていたようだ。

        
         四十八瀬川を横断しているが、護岸改良工事で遺構は消滅している。

        
         当時の新町は、旧石州街道筋で民家などが連なっており、駅の設置は困難だったと思わ
        れる。裏手の田園の中に駅が設置されたようである。

        
         中郷八幡宮前から国道9号線を横断して、JR上郷駅付近から椹野川沿いに至っていた
        と思われる。(駅にトイレあり) 

        
         椹野川右岸には旧石州街道があったが、その脇に設置されていたようだ。

        
         小郡桜とSLやまぐち号、種田山頭火の句がデザインされた旧小郡町のマンホール蓋。 

        
         一部狭隘な場所もあったが、並行して山口秋吉台自転車道が設置されている。(小郡の仁
        保津地区)

        
         車を気にしないで歩ける自転車道を利用して中国自動車道下を潜る。

        
                        (仁保津~大歳)
         山口支社長の中村竹兵衛は山口の銭湯小路で旅館を営み、山陽鉄道の山口経由を反対し
        た中心人物だったという。県庁移転に絡んで鉄道の便利さに気付いたのか建設運動に取り
        組んだ。

        
         右手に権現堂橋を見て車道を横断する。

        
         権現堂橋の先に仁保津停留場があったとされるが、明治の地形図には記載がない。

        
         朝田川に架かる関屋橋の橋台に遺構は見られない。この付近が旧小郡町と旧山口市の境
        界。

        
        
         国鉄は軽便鉄道跡でなく洪水の少ない北側を、また煙害を避けて敷設された。

        
         和田橋停留場付近に残る和田橋の欄干。

        
         吉敷川はこの先で椹野川と合流する。

        
         この附近は昔から洪水による被害を受けてきた地域である。そのため土盛りをして敷地
        を高くし、石垣を築いた「水塚」と呼ばれる構えをした民家が見られる。


        
         天明三年(1783)年建立の石仏、三界萬霊塔などが祀られている。

        
         鉄道敷跡は吉敷川の大歳橋で左岸に移動している。(左岸側より) 

        
        
         大歳橋を渡ると石州街道筋となるが、黒川市とされて民家などが軒を連ねていたためか、
        吉敷川の左岸に敷設されたようだ。

        
         鉄道敷跡は千代松橋で吉敷川左岸から離れる。

        
         明治の地形図によると、大歳小学校校内を縦断していたようだ。

        
         小学校内を縦断した鉄道は、山口線下湯田踏切付近に大歳駅(停)があったようだが位置
        は特定できず。

        
         軌道は道路併用であり、軌道条例(明治23年)により道路幅は6間(10.98M)以上とされた。
        小郡~湯田間の旧石州街道は規定の道幅でなかったので、「拡幅予定」として認可された
        という。(短命だったため拡幅されず)

        
                  (石州街道筋から湯田経由で山口駅間) 

        
         この先で鉄道敷は旧石州街道筋を離れ、現在の湯田温泉市街地へ敷設されていた。

        
        
         県道200号線を横断し、井上公園の南東側から北西側に縦断して湯田市街地に至って
        いた。

        
         ホテル松田屋前付近で旧国道9号線と合わしていたようで、湯田駅もこの付近にあった
        と思われる。

        
         湯田温泉から市民会館まで約2.5㎞の距離には、遺構もないことや讃井停留場があった
        ようだが、位置ははっきりしないためバスで移動する。

        
         営業当初はこの付近に山口駅(後に亀山駅)があったという。 

        
         1910(明治43)年7月20日に一の坂川の御茶屋橋まで延伸されて山口駅(停)が設置
        された。

        
         明治の地形図を頼りに歩いてみたが、目標物がないため鉄道敷跡を外れた箇所や曖昧な
        地点もあったが、史跡探索ではないので納得してJR山口駅へ向かう。


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