ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門市の渋木・真木は深川川沿いの山村集落 

2022年08月29日 | 山口県長門市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         渋木は深川川の上流域と同支流の大地川流域、背後には長門山地を構成する主峰・花尾
        山を中心とする花尾山地をひかえた扇状地に位置する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、真木・渋木・東および西深川・深川湯本の5
        ヶ村が合併して深川(ふかわ)村が発足する。昭和の大合併で長門市となり今日に至っている。
         (歩行約3.5㎞)

        
         JR渋木駅は、1924(大正13)年美祢線の於福駅~正明市駅(現・長門市駅)間の延伸
        により開業する。

        
         「渋停建第12號 本屋」とあるので木造駅舎は開業当時のものと思われ、「停」なの
        で貨物は扱わず旅客のみであったようだ。
         渋木は美祢線を利用しての散歩は可能であるが、真木は約4.5㎞の距離にあるので徒歩
                で訪れるのは難しい。デマンド交通が運行されているが、登録制で事前予約が必要なため
        
車での対応となる。(駅に駐車)

        
         駅舎側に保線用の引込線と、広い空地は保線用資材置き場だったと思われるが、給水塔
        のようなものが残されている。

        
         深川川左岸に渋木の中心地。

        
         右岸の山裾には石州瓦で彩られた民家が並ぶ。(美祢線山小根踏切あり)

        
         長門市農村婦人の家の先は国道316号線の渋木交差点。

        
         中央に花尾山と思われる山とゲンジボタル、周囲には尻を光らせているホタルが描かれ
        た農業集落排水用のマンホール蓋。

        
         国道は右に大きく湾曲して南下しているが、旧道は山裾に沿いながらトンネル手前で合
        わす。

        
         右手に訂心寺(ていしんじ)参道の石段。

        
         訂心寺(曹洞宗)は、周布家によって石州長浜(現・浜田市)に建立されたが、石州から長
        州に移り、周布吉兵衛長次が慶安の頃(1648-1652)知行地であったこの地に移したと伝える。

        
         右手は理容「まえだ」には、9月の営業は3回と貼紙がしてある。採算面なのか高齢の
        ためか不明だが、理美容もこの地で生活する者にとって必要不可欠なものである。

        
         理容「まえだ」の先で畦道を利用して国道に出る。大地川に架かる瀬戸橋付近から瀬戸
        集落。

        
         トタン屋根も1軒のみだった。

        
         県道豊田三隅線の真木川橋梁を列車が走り去るが、背後の森が渋木八幡宮の社地である。

        
         石段を上り鳥居を潜ると長い参道が延びているが、近年は車での参拝によるものか少々
        荒れ気味である。

        
         渋木八幡宮の社伝によると、往古、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したという。慶安年中(1
        648-1652)の頃、村内に切支丹宗徒の三輪某・三井五郎左衛門なる者が住み、神社・仏堂を
        焼き討ちにしたという受難の伝承がある。その際に縁起などが焼失してしまったので、勧
        請年代を知ることはできないという。

        
         深川川沿いに設けられた小道を利用して駅に戻る。

        
         浄土寺へは距離があるので車で訪れる。

        
         浄土寺(真宗)は、大内氏の家臣であった俗名・萩原次郎宗時が、大内義隆が自刃した後
        に主君の菩提を弔うため、当地に来て小庵を構えた。室町期の永正年中(1504-1521)に本山
        に上がり、1637(寛永14)年2世の代に本仏・寺号が免与された。
         本堂は元和年中(1615-1624)に建立されたが、宝永年中(1704-1711)に焼失する。その後、
        老朽化や再度の火災で再建を繰り返し、1832(天保3)年に9間4面のものが再々建され
        る。 

        
         大地川左岸の家並み。

        
         渋木駅から約1.3㎞の大畑地区に大畑小学校と深川中学校大畑分校があったが、小学校
        は2010(平成22)年に125年の学び舎を閉じ、分校は2006(平成18)年に閉校し、
        屋内運動場のみが残されている。

        
         さらに深川川を奥に詰めると市の尾集落。「延喜式」にみえる古代の陰陽連絡路は、深
        川川沿いに開かれ、渋木から真木の市尾を経て美祢郡嘉万(現・美祢市秋芳町嘉万)に出た
        といわれている。
         ここは花尾山登山口でバス停の待合所もあるが、すでに廃止されて長門市のコマンド交
        通の停留所になっている。

        
         真木は深川川の支流である大谷本浴と奥畑川の流域に位置する。地名の由来は、「延喜
        式」の長門国宇養馬牧のマキからとする説もあるが、槙の繁茂に起源をもつとみるのが適
        当か。(歩行約1.9㎞)

        
         学校風の大きな建物は真木公民館。(ここに駐車)

        
         公民館の傍に真木バス停と火の見櫓。 

        
         公民館の奥谷川沿いにあるのは、JA山口真木出張所だそうだが使用されていないよう
        だ。

        
         願生寺(真宗)は、往古、真言宗の東福寺という古跡があったのを、寛永年間(1624-164
        4)の頃、西念という僧が再興して真宗に改宗する。西念が死去して後住がなく中絶して古
                跡となっていたのを、三隅の豊原にある宗善寺5世が相続したい旨を願い出て、1688
          (貞亨5)年に今の寺号に改めたと伝える。

        
         秋芳町から仙崎港に石灰石を運ぶ住友セメントベルトコンベアが横切る。

        

        
        
         真木は、元来、渋木から独立した村であり、氏神は渋木八幡宮であるが、大歳神を信仰
        の中心にしてきたものと思われるが、いつ頃創建されたかは定かでないという。

        
        
         神社からは実りの秋を感じながら公会堂に戻る。


長門市油谷の伊上は油谷湾に面する農村集落

2022年08月27日 | 山口県長門市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         伊上(いがみ)は泉川流域に位置し、北は油谷湾に面する。地名の由来は、往古、新別名に
        最明寺という寺があり、その付近に古い井戸があったため近在の村すべてが井上(いがみ)
        称していた。しかし、いつの間にか当村だけが井上と称するようなり、文化年間(1804-18
        18)に代官の佐藤権兵衛の命により、井上では「いのうえ」と誤りやすいので伊上と書くよ
        うになったという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、久富村(ひ)、新別名村(し)、河原村(か)、伊上
        村(い)が合併し、各1字をもって「菱海村」となる。その後、昭和の合併で油谷町、平成の
        合併で長門市油谷となる。(歩行約2.5㎞、🚻なし)

        
         1930(昭和5)年に開業したJR伊上駅。

        
         西光寺(真宗)に駐車させていただいて伊上集落を散歩する。

        
         石段を上がって行くと左手に椎の木の巨樹が並ぶ。樹齢は不明のようだが13本が群生
        しているとか。

        
         西光寺(真宗)は、往古、現在地に真言宗か天台宗があった。大内氏の家臣・三井十蔵が
        大内氏滅亡後、本願寺において僧となって帰国し、この地に一宇を創建して開基する。
         この年代は諸説あって、寺院沿革史は室町後期の天文年中(1532-1555)としているが、大
        内義隆の自刃が1551(天文20)年なので天文末期となる。風土注進案は安土・桃山期の
        1573(天正元)年創建としている。

        
         西光寺前で道は分岐するが、この旧道が赤間関街道と思っていたが、宮の馬場付近から
        JR山陰本線の山手側を通っていたようだ。

        
         Sセメント工場を左に見ながら直線道を進む。

        
         新旧の民家が入り混じる。

        
         学校の校門らしい石柱を見て、立入禁止の表示もないので入ってみると、旧伊上小学校
        の敷地内であった。

        
         1879(明治12)年伊上小学校が創立されるが、のちに河原小学校の分校、尋常小学校、
        国民学校と校名変更し、1947(昭和22)年伊上小学校と改称したが、児童数減少により、
        2010(平成22)年廃校となる。

        
         旧小学校付近からやや下り坂だが、周囲に見るべきものはない。

        
         泉川の新泉橋を渡り、ふれあい通りに入ると様相が変わる。(街道筋)
        
         建築年代はわからないがこのような建物が数軒見られる。

        
         塀の一部をくり抜いて地蔵尊が祀られている。 

        
         伊上八幡宮は距離もありそうなので、上里野(あがりの)踏切を確認して車で参拝する。 

        
         この看板に誘われて狭隘な道に入ってしまう。

        
         長安寺(浄土宗)は、1873(明治6)年新別名の大願寺跡に移って現在に至るが、市指定
        の木造阿弥陀如来像が安置されているようだが、施錠されて拝見することができなかった。

        
        
         伊上八幡宮の由来によると、勧請された年月は不明。伝承では左衛門という漁師が漁を
        しているとき、波間に一羽の鴨が浮き沈みしているのを見つけ、鉾で捕まえようとしたと
        ころ急に姿が消えてしまい、近くの大岩に鏡が現われ、その神々しさにうたれて拝んでし
        まう。夢の中で八幡神であるとお告げがあったので、鴨野の小高い丘に祠を建てて祀った
        のが始まりという。
         1697(元禄10)年頃現在地に遷座し、享保年間(1716-1736)頃に再建されたと伝える。


長門市深川は赤間関街道が分岐した地

2021年09月29日 | 山口県長門市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         深川(ふかわ)は深川川の右岸に位置し、平野部に長門市の中心街が開ける。国道191
        号が東西に走り、南北に美祢線・国道316号が走る。(歩行 約4.4km)

        
         JR長門市駅は、1924(大正13)年美祢線の延伸により開業した駅で、当初の駅名は
        正明市駅(しょうみょういちえき)であったが、1962(昭和37)年に現駅名となる。山陰本線
        と美祢線、山陰本線仙崎支線が乗り入れをする北浦地区では大きな規模を持つ駅である。
        (美祢線で9:37下車)

        
         山陰本線より南側が長門市の中心部で、駅北側はひっそりとした町並みである。(旅館と
        仏壇店)

        
         どこでも見られるような町並み。

        
         前角の跨線橋から見る駅方向だが、駅の南北は歩道橋で繋がっている。こんもりした山は
        城山。

        
         長門警察署前で国道191号を横断すると赤間関街道北道筋に出る。

        
         街道筋に出ると「帰ル堤」(溜池)がある。ここに大きなエノキがあるが、エノキは一里
        塚によく植えられたといい、注進案にある「帰ル堤一里塚」の可能性があるされるが確証
        はないという。

        
        
         「帰ル堤」の南端に長門高校。

        
         国道191号を横断して市役所通りに入る。

        
         亀甲模様に「下水」だけの長門市マンホール蓋。

        
         城山の麓にある法蓮寺(真宗)は、1715(正徳5)年この地に移転してきたという。

        
         長門市役所は江戸期の前大津宰判勘場跡で、1751(宝暦元)年三隅村豊原からこの地に
        移転し、1870(明治3)年に廃止された。それ以降、大津郡役所、大津地方事務所と変遷
        してきた。1807(文化4)年に寄進された石灯籠とともに、新庁舎建設の際に現在地に移
        された。

        
        
         市役所前の北道筋を西へ進むと、吉亀(よしかめ)旅館前の四叉路に出る。かって四叉路に
        は道標があり「北・せんざき、南・下のせきみち」、他の一面には「東・はぎ、西・先大
        つみち」と刻まれていたようだ。

        
         四叉路を西へ進む道は赤間関街道北浦道筋だが、踏切の先で民家は途絶える。

        
        
        
         四叉路を南へ進む道が北道筋で、ここからが旧深川村の中心地であった。国道を横断す
        ると少し古民家が見られるが、1868(明治元)年の正明市大火で大半が焼失したとのこと。

        
         庭先にある橋の親柱は泉橋と刻まれている。

        
         道は2つに分かれるが、街道は右手の道。

        
        
         深川川にかかる観月橋(つきみばし)を渡れば西深川。

        
         西深川には印象に残るものはない。

        
         踏切の先は板持集落。

        
         小っちゃな簡易郵便局。

        
         どうも街道を踏み外したようだが板持橋を渡る。

        
         住宅と田園が混在するエリアである。

        
         板持団地バス停を左折すればJR板持駅。途中の観月橋バス停でバス利用も一計だった。

        
         JR板持駅は1958(昭和33)年長門湯本と長門市間に新設された駅。(11:43乗車)


長門湯本は温泉町と大内氏終焉の地・大寧寺 

2021年09月29日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         深川湯本(ふかわゆもと)は深川川の中流域およびその支流域に立地する。深川川に沿って
        美祢線、国道316号が走る。
         深川川中流域を通称・音信(おとずれ)川といい、河畔に湯本温泉街がある。(歩行約4.5
        km)

        
         1924(大正13)年開業のJR長門湯本駅は、温泉街より約500m離れた所にあるた
        め、駅前は何もなくて、だだっ広く感じられる。

        
         2012(平成24)年3月まで乗車券の委託販売をされていたふじた商店さん。既に店は
        廃業されていたが、1996(平成8)年に訪れた時の看板は健在だった。

        
         駅から県道までの間に民家が集中する。

        
         県道を俵山方面に少し歩き、大寧寺川に架かる橋を渡る。(右手に湯本観光ホテル西京)

        
         石仏が並ぶ道は大寧寺旧参道で、赤間関街道北道筋と合わすと「旧街道入口」の標識が
        ある。

        
         県道に出て左折すると大寧寺前で、大寧寺川にかかる盤石橋は、1668(寛文8)年に建
        架され、のちに再建築されたようだが、橋長は14.2mで自然石を組積みされている。
         かって岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と共に防長三奇橋の1つとされている。

        
         盤石橋を渡ると山門跡の礎石が残る。天正年間(1573-1592)毛利家家老・益田藤兼が山門
        を寄進。のちに野火によって焼失してしまうが再建される。桧皮葺入母屋重層の山門であ
        ったが、明治以降庇護が亡くなり明治末期に倒壊したとされる。

        
        
         大寧寺(曹洞宗)は、永亨年間(1429-1441)長門守護職・鷲頭弘忠が石屋真梁に帰依して建
        立する。1829(文政12)年に再建された現在の本堂は、「衆寮」を基体にして、向背や
        後陣が増設されており、1914(大正3)年には桧皮葺屋根を瓦葺きに変更された。

        
        
         室町期の1551(天文20)年大内義隆の家宰(かさい)陶隆房(晴賢)が謀反を起こし館を襲
        うと、義隆は嫡子義尊及び山口客寓中の公卿三条公頼、その他重臣を伴って長門に逃れた。
        瀬戸崎港から分国の筑前に向かおうとしたが、暴風雨のために出航できず、大寧寺に立て
        籠る。(一説には津和野の吉見正頼を頼ろうとしたとも) 
         陶勢が山門に急迫するに及び義隆は自刃。義尊やその他の公卿たちも殉難し、仏殿諸堂
        も兵火によって全焼する。

        
         四叉路まで戻って温泉街に入る。

        
         大寧寺川、美祢線を過ごすと雰囲気が変わる。

        
         とらや商店前の橋から見る温泉街。

        
         川から山手の道は竹林の階段とされ、夜間はライトアップされるそうだ。

        
        
         川沿いに温湯広場、川床にはテラスと4ヶ所に飛び石がセットされている。

        
         亀甲模様に「下水」の文字が入ったマンホール蓋。

        
         せせらぎ橋ときらきら橋との間には4本の橋と飛び石で対岸と往来できる。13時40
        分の厚狭行きに乗り遅れると、1時間48分待ちになるので早々に温泉街を引き上げる。


長門市日置の古市に日置八幡宮と町並み 

2021年09月26日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         古市は北を日本海に面し、南は草添山や大笹山を境に長門市俵山、西は油谷町に接する。
        域内をJR山陰本線、国道191号が並行して走る。(歩行約4.6km)

        
         JR長門古市駅は、1929(昭和4)年美祢線の黄波戸駅から延伸し、終着駅として
開業
        する。2001(平成13)年に駅舎が改築され、「ふれあいプラザはまゆう日置」というコ
        ミュニティ施設となっている。

        
        
        
         駅前には商店などがあったようだが、今は静かな駅前である。

        
         日置町内にある大師霊場八十八ヶ所の内の一基(84番?)

        
         変則五差路の中心地点に交通安全標語。

        
        
        古市の町並み。

        
        
         域内を経由する赤間関街道は、江戸初期には十分に整備されておらず、その後、藩主の
        初入国や領内巡検などのため街道の整備が進められ、街道は椎木峠から台ヶ原を経由して
        久富村へ通じる南路に変更された。
         そのため、1664(寛文4)年には本宿を日置市から台ヶ原に移して新市と称し、これに
        対し、従来の日置市を古市と呼ぶようになった。1793(寛政5)年本宿は古市に戻された。

        
         間口が狭くて奥行が深い家。 

        
         西光寺(真宗)の地には、往古、真言宗か天台宗の寺があったとされる。大内氏の家臣・
        三井十蔵が大内氏滅亡後、僧となってこの地に一宇を建立した。創建年代については天正
        元年(1573)、文禄元年(1592)、天文年間(1532-1555)などの諸説がある。

        
        
         平入りの家が並ぶ。

        
         この四叉路までが古市の商店街だったようだ。

        
         四差路の先はその多くが民家であったようだ。

        
         東専寺の由来等については知り得ず。日置の郷は里山に囲まれた盆地で、湧水が少なく
        飢饉の歴史を持ち、当然ながら「雨乞神事」が行われてきた。その1つとして「千挺洗い」
        と称する雨乞法は、古い井戸の底に沈めてある硯を取り上げ、近郊の家々の硯を集めて、
        魚切小祠に持参して雨乞神事を行い、魚切の滝上流より硯の墨汁を流すと、滝壺の竜神が
        驚いて昇天すると降雨なるという。 

        
        
         変則五差路まで戻って東進すると、大きな屋敷(N邸)の傍に、四隅の一角を
玄関とする
        建物がある。


        
         平入りで門構えがある吉村薬局さん。 

        
         亀山八幡宮と称していたが、日置八幡宮に改称されて鳥居の額束も「日置八幡宮
」とな
        っている。

        
         社伝によると、往古、黄波戸浦の居石の浜に祭神が現れた際、海上に黄金の波が立った
        ことから浦の名を黄波戸と称し始めたという。祭神は黄波戸浦から唯越を越え、現在地の
        亀山に鎮座されたという。

        
         天和年中(1681-1684)古市村の切支丹宗徒が難渋を起こし、その結果、末社に至るまで焼
        失したとされる。 


長門市油谷の津黄は元乃隅神社に近い漁村集落

2021年09月24日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         津黄(つおう)は日本海を北面にする地で、海食崖が高さ250mをなす中にあって、入江
        奥のすり鉢状に集落を形成する。
         地名の由来について、注進案は向津の奥だから津奥(つおう)で、奥と黄の音が似ているこ
        とから津黄となったのではないかと推論している。(歩行3.0約km) 

        
         津黄地区への公共交通機関は、デマンド交通(予約制)のため利用できない。やむを得ず
        車で訪れたが、漁港付近の駐車地は住民用とされているので、津黄大橋近くの空地を利用
        させてもらう。

        
         大橋から見る元乃隅神社と竜宮の潮吹がある岩場。

        
         橋を渡り終えると右手に厳島神社。

        
         厳島神社の由緒については知り得ず。

        
         1968(昭和43)年漁港関連道路が魚市場まで完成し、後背には県道が整備されて、今
        では元乃隅神社への観光車両が利用する。

        
         漁港前がデマント交通の乗降場。

        
         津黄浦の漁業は捕鯨に特色があり、1699(元禄12)年立石・津黄鯨組を創設し、幾度
        か中断しながら明治中期頃まで操業していた。現在はいか釣りを主体とするようで、漁船
        に集魚灯が設けてある。

        
        
         港は狭いが深く、嵐の時に打ち寄せる波が大きくて高いため、以前は港内でのつなぎ船
        が不用心で浜に引き上げて繋いでいたとのこと。
         1962(昭和37)年から数次にわたって漁港の整備が施行され、大型防波堤の構築、港
        内の拡充と施設の整備がすすめられた。港入口には波消しブロックが高く積み上げられて
        おり、波の高さを計り知ることができる。

        
         津黄漁港の西方500m付近の海食崖に、「竜宮の潮吹」とよばれる国の天然記念物が
        ある。その途中に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が、海を拝む形で建てられている。海
        難事故なのかわからないが鎮魂の碑のようだ。

        
         一帯は第四紀洪積世(現在より約200万年~1万年前)の玄武岩からなり、潮吹きは打
        ち寄せる海の激浪が岸壁の孔内に突入し、気象条件が揃うと海水を最大30mも吹き上げ
        る噴潮現象を見せる。その様子が竜が天に向かって昇る様から「竜宮の潮吹」といわれる
        ようになったとか。

        
         竜宮の潮吹は気象条件が悪く見ることができなかったが、その反対側の元乃隅神社には
        多くの観光客が押し寄せていたのにはびっくりする。以前は中腹に石鳥居と小さな祠があ
        って、津黄側からの階段があるのみであった。

        
         1955(昭和30)年地元の網元がお告げにより建立した個人所有物で、1987(昭和6
        2)年から10年かけて123基の鳥居が設置されたとのこと。
         もとは元乃隅稲荷神社だったが、外国人観光客にも覚えやしようにと現神社名に改称さ
        れた。

        
         米国のニュース専門局のCNNが、2015(平成27)年3月「日本で最も美しい場所3
        1選」として紹介したことで観光スポットになったようだ。

        
         山からの雨水は水路で海へ注ぐのだが、その途中が崖のため滝のようになっている。

        
         すり鉢状の地形に家が密集し、家々を結ぶ道は狭くて急坂である。

        
         2つの生活道には商店があるが、こちらはすでに廃業されている。 

        
         曲がりくねりながら山手に延びる道。

        
         漁港と津黄大橋。

        
         山手の県道に近い住宅は、軽自動車が進入できるほどの道幅である。

        
         2つの生活道は横道で繋がっている。

        
         橋のある道がもう1つの生活道。 

        
         見返ると先ほど歩いた家並みが広がる。

        
         生活道から枝分かれして各家を繋いでいる。冷蔵庫など重たいものは、業者さんが二輪
        運搬車を利用して複数人で運び込むとのこと。

        
         生活道を下ると川傍に谷村商店。

        
         郵便局は開局されておらず、漁協津黄支店があるものの毎日の営業ではないようだ。

        
         大橋に設置された吹き流し標識。棒と吹き流しの角度によって、受ける風速の強さが表
        示されている。ちなみに大橋の強さは、概ね62度なので風速6m/S(秒)である。


長門市油谷の新別名・河原は赤間関街道北浦道筋の町

2021年06月30日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         新別名(しんべつみょう)・河原(かわら)は、掛淵川河口左岸及び同支流・大坊川流域に位置
        する。この流域の沖積平野に耕地が開け集落が散在し、域内を東西に国道191号、JR
        山陰本線が走る。
         1889(明治22)年町村制施行により久富村、新別名村、河原村、伊上村が合併し、各
        旧村の一字をとって菱海(ひしかい)村となる。(歩行約7.7km)

        
         JR人丸駅は、1930(昭和5)年長門古市駅ー阿川駅間延伸時に開業する。単式・島式
        の2面3線を持つ交換可能な地上駅。駅舎前には「元乃隅稲荷神社」玄関口を示す赤鳥居
        が設置されている。(10:13長門市駅より)

        
         駅前通りを左折して長門方面へ直進する。

        
        
         久富八幡宮は「防長寺社由来」によると、勧請年代はわからないが永禄年中(1558-1570)
        に社を造立したと棟札にあったと記す。風土注進案は、室町期の1479(文明11)年宇佐
        神宮より勧請したと伝えられると記す。

        
         境内に薬師如来が祀られ、石祠には天明四甲辰六月(1784)と刻字されている。長く放置
        されていたようだが、1993(平成5)年に各位の寄進により修復された。

        
         神社前から街道に出ると左手に、1879(明治12)年に開校した啓廸(けいてき)小学校
        (創立時は久富小学校)があったという。1961(昭和36)年に廃校となり、跡地は町営住
        宅、グランドは
稲石農村公園となった。

        
        
         街道を引き返すと門を構えた平入りの民家と、その奥にある浄泉寺(真宗)は、1634
        (寛永11)年に寺号が免許され、1701(元禄14)年現在地に移転する。

        
         長安寺(浄土宗)のある地には、往古、真言宗の人丸寺があり、人丸社の社坊であった。
        天正年中(1573-1592)浄土宗に改め、大願寺と称して人丸社を兼務した。

        
         1871(明治4)年の神仏分離・廃仏毀釈の風潮の中で、当時の住職は大願寺を廃し、人
        丸社専任の神職となる。
         一方、大願寺の末寺・長安寺が伊上にあったが、本寺の廃寺と共に、一応廃寺となった
        が、檀家の人たちの復興の願いによって、本寺跡に長安寺として復興された経緯を持つ。

        
         1907(明治40)年新別名八幡宮と人丸神社が合祀されて八幡人丸神社と称する。

        
         神社下に大きな民家が並ぶ。(Ⅿ家と空家)

        
        
         街道は右手の道(下の写真は左)だが、途中で消滅しているため掛淵川土手までは別ルー
        トを歩く。

        
         国道を横断して中心部へ入って行く。

        
         油谷郵便局前の四差路を右折して、山陰本線新別名踏切を横断する。

        
         次の三差路で街道と合わし、掛淵川左岸を西進する。

        
         土手は桜並木となっているが見るべきものはない。

        
         川と線路の間は田園地帯で、近世、この一帯は農地もしくは沼地であり、街道が迂回し
        たものと思われる。(左手にJR人丸駅)

        
         溜池を思わすような掛淵川の先に蔵小田集落と雨乞岳。

        
         大坊川に架かる見返橋を渡り、左岸を川上に進むとJR大坊踏切。

        
         街道は大坊橋前で右折して西下すると、この一帯の中心だった河原集落。

        
         電気屋さんの真向かいに猿田彦と三体地蔵尊。その傍には悪霊除けの御幣が立てられて
        いる。

        
         萩と赤間関を結ぶ赤間関街道には3つの往還道があり、萩から秋吉宿を経る中道筋、深
        川~俵山~小月に至る北道筋、日本海の海岸沿いに約24里余の北浦道筋があった。この
        北浦道筋は3路線の中で行程が最も長かったため、萩と赤間関を結ぶ交通に利用されるこ
        とは少なかった。
         しかし、毛利一門・阿川毛利氏の陣屋まで行くには、この道筋を通らなければならなか
        った。

        
         街道筋の民家は更新されて見るべきものは残されていないが、地蔵尊など石仏が往時の
        名残をとどめている。ここには庚申塔、安政7年(1860)と刻まれた三界萬霊塔、右に地蔵
        尊が祀られている。

        
        
         少し右にカーブする地点に三体地蔵が鎮座する。三体地蔵の由来はわからないが、病気
        平癒の時、頭巾腹掛けなどを布で作り、地蔵の体に取り付けてお願い果たしをするそうだ。

        
         工場跡なのか煙突と思しきものに蔓が巻き、緑の十字架を思わせる。

        
         菱海村役場跡には現在、河原公民館と河原消防団ポンプ庫が建っている。やがて街道は
        国道191号と合流するが、その手前に庚申塔。

        
         江戸期には菱海中学校グラウンド内に、現在の油谷町、日置町と豊北町の一部を統括す
        る先大津宰判の勘場があり、その横に本陣であった久保本家の屋敷があったという。 

        
         河原八幡宮は久安年中(1145-1150)宇佐神宮より勧請。ご神体を乗せた船が河原浦の笠岩
        で着岸し、亀山に鎮座していたが、室町期の1490(延徳2)年現在地へ移転する。

        
         久保家は藩政初期より日置下村に在住して町野姓を名乗り、代々庄屋・大庄屋を勤めて
        いた。1826(文政9)年に河原に移住して久保姓を名乗り、ここでも大庄屋などを務める。
        現在の住宅は、1890(明治23)年の設計図が残っているとのことで、その頃の建築と思
        われる。(当日は工事中であった)

        
         大坊橋まで戻って旧道を人丸駅へ向かう。

        
         橋から駅までは見るべきものはなかった。


長門市油谷の立石に岩峰の島と東後畑の棚田

2021年06月29日 | 山口県長門市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         立石(たていし)は雨乞山の北麓に位置し、北は日本海に面する。半農半漁で立石漁港を有
        する。(歩行約1.8km) 

        
         この集落へはバス運行がなく、乗合タクシーは1日3便と少ないため車を利用する。

        
         立石漁港前に聳え立つ玄武岩からなる高さ約41mの「沖の島」と、高さ約20mの「
        地の島」と呼ばれる岩峰の島がある。

        
         「地の島」には立石観音が祀られ、断崖絶壁の道を辿れば登ることができる。

        
         立石観音は島原の乱後に伝来したと伝えられ、金箔の木造観音菩薩像が安置されている。
         かつて大津波が来た時に荒波を打ち砕き、港を守る防波堤の役割を成したと言い伝えら
        れ、漁民の守り神として崇敬されている。

        
         頂上から立石集落が一望できる。(手前の建物は漁協)

        
         西立石の家並みと、海岸線には波消しブロックがずらりと並ぶ。

        
         コバルトブルーの海に「地の島」の端はトンネルとなっており、背後に「沖の島」が高
        く聳える。

        
         西立石に漁業の守護神・えびす社。

        
         冬の荒波から身を守るため、山斜面を利用した高台に石垣を積み上げて宅地としている。

        
         海岸道路からは急坂で、所々に手摺りが設けてある。

        
         山手に向って民家が見られるが空家が多い。

        
         陸側に頁岩(けつがん)の互層が露出している。デコボコは地層の構成粒子の違いによって
        できたもので、未固結の堆積物では粒子の粗い地層の方が出っ張っている。

        
         階段状となった民家の間を細い路地が蛇行する。

        
         路地から枝分かれして、さらに奥の民家に接続している。

        
         後背地は急斜面に棚田が幾重にも重なりあうように続いており、海に向かってすり鉢状
        状の地形である。

        
         正面の空地が保育園跡、その右手に門柱があるので小学校跡と思ったが、民地だそうで
        学校は山手側とのこと。

        
         路地を抜けると海岸線からの道に合わす。

        
         石碑の正面に「大内義隆□□ 三輪藤太エ門、右横に天文□年八月 行年二十六才」あ
        るが、詳細を知り得ない碑となる。

        
        
         ここが小学校と思ったが寺跡で、住職が亡くなり廃寺・解体されたが、僧の像は残され
        たとのこと。

        
         町(市)道に出ると使われなくなったバス停待合所。

        
         引き返して漁港に向けて下る。

        
         立石川の傍に「馬の神様」とされる石碑があるが、刻字は風化して読み取ることができ
        ない。

        
         1699(元禄12)年立石・津黄鯨組の本拠地となり、鯨漁のあった頃は賑わったとさ
        れる。(海岸道路の一部は駐車場)

        
         立石川に新旧2つの橋。日本海の荒波が正面に押し寄せ、港が狭隘なため、1959(昭
        和34)年から漁港の拡張、係留施設の整備などが行われた。

        
         漁港東側から見る「沖の島」と「地の島」。立石漁港は第一種漁港(地元の漁業者が主)
        だが、出漁されているのか漁船の数が少ない。近年、高齢化により廃業された方も多いと
        か。 

        
         東立石の家並みだが、医療、交通手段、金融機関、下水道がないなどが住みづらさを助
        長しているようだ。この豊かな自然と漁村の原風景が維持されることを願うばかりである。

        
         向津具半島の海を見渡す位置に日本棚田百選の「東後畑棚田」がある。日本海に面した
        斜面に段々と水田が作られている。眼下に「沖の島」と「地の島」のある立石、突き出た
        半島が川尻岬。

        
         5月下旬~6月上旬に水田が水面となり、夕日が沈む日本海と漁火が見られる絶景が楽
        しめるそうだ。この時期は一面に緑が広がる「夏の棚田」も必見の1つである。


長門市油谷の川尻は背負い駕籠が活躍する集落

2021年04月02日 | 山口県長門市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         川尻(かわじり)は向津具(むかつく)半島の北東部に位置し、東は日本海に面する。背後に
        200m前後の丘陵が迫り、川尻川河口周辺に集落と川尻漁港がある。(歩行約3.4km)

        
         JR人丸駅(11:41)からブルーライン交通油谷島行き20分、川尻バス停で下車する。

        
         一段高い道が県道久津小田線。

        
         山手側にある住宅は、細い階段道で結ばれているため、運搬手段は背負い駕籠で対応さ
        れているとのこと。

        
         漁業の神である恵比須神社。

        
         神社横から路地に入ると急階段。

        
         階段を上がると道路沿いにある家の屋根と同位置になる。

        
         家々は山の急斜面にへばりつくように建てられ、道のほとんどが階段で、この道を中心
        に各民家は枝道で繋がっている。

        
         川尻は全戸が真宗で、向津具上白木にある向岸寺の檀家であったが、先祖の命日等に参
        詣するには遠くて不便であった。そこで大島郡屋代村の古跡・奥之坊の引寺を出願し、1
        733(享保18)年許可され、1947(昭和22)年法泉寺と改称する。

        
         更に上がって行くと、地元の方が港を一望できる場所があると案内していただく。

        
         背負い駕籠はなくてはならない必需品のようだ。

        
         防波堤の中は波穏やかである。

        
        
         かっては商店などもあって、集落の中心であったと思われる通り。

        
         この階段の右手が河内神社、左手が浄念寺への道。

        
         階段の途中にある火除けの神・河内神社は、1700(元禄13)年河内国より勧請し、川
        尻鯨組が社を建立して鎮守同様とする。

        
         冷蔵庫など重たい荷物はどのように運搬されているのであろうか。 

        
         浄念寺(真宗)の旧寺号は潮声庵と称し、元河内神社の社地にあったが創建開基は不明で
        ある。1868(明治元)年に廃庵となったが、後に再興されて現在地へ移転し、戦後に現寺
        号となる。

        
         寺前より川尻の家並み。

        
         田代堤を源にする川尻川沿いの家並み。

        
         家も地形に沿って形成されている。

        
         1873(明治6)年に創立された川尻小学校は、その後、校名や所在地を変えたが、川尻
        地区の小学校としての役割を果たす。児童数の減少により、2004(平成16)年廃校とな
        るが、1971(昭和46)年築の校舎は、当時のままの姿で佇んでいる。
 
        
         当地は捕鯨漁が盛んで、創業は1698(元禄11)年鯨組を取り立てたことに始まる。
         しかし、獲れる鯨の量は一定せず1807(文化4)年には多大な負債を抱え、事業を一時
        代官所に移譲する。川尻には増船しようにも波止がなく、1845(弘化2)年波止の築造が
        始められ、5年の歳月と巨費が投じられた。 

        
         1951(昭和26)年第4種漁港(離島その他辺地にあって避難上必要とされる漁港)に指
        定され、翌年から30余年間大改修工事が行われ、その後も防波堤の改良もあって外海の
        漁港としての機能を有することなった。

        
         最近は少なくなった風景の1つである。

        
         川尻バス停よりJR長門市駅に戻る。


長門市油谷の久津は楊貴妃の墓で知られた地

2021年04月01日 | 山口県長門市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         久津(くづ)は向津具(むかつく)半島の中央部に位置し、南は油谷湾に、三方は丘陵地に囲
        まれ平坦地はほとんどない。(歩行距離2.8km)

        
         大浦中央バス停からブルーライン交通長門市駅行き4分、久津バス停で下車する。車窓
        から集落を一望できる場所があったので引き返す。

        
         二尊院のある対岸。

        
         集落北側の丘陵地に棚田。

        
         JAのヤマサキショップ前から県道久津小田線を上がって行くと、左手に階段が見えて
        くる。1889(明治22)年町村制施行により、向津具上、向津具下、川尻村の区域をもっ
        て向津具村が発足し、この地に村役場が置かれた。
         向津具の地名由来は、かってこの地が「向国(むかつくに)」や「向津(むこうつ)」などと呼
        ばれ、これが転じたとされる。(建物は高齢者センター)

        
         峠のお地蔵さん。

        
         小・中学校と日置農高向津具分校がある時代の通学路であった。今も昔も変わらず急な
        坂道で道幅も狭い。

        
         1945~1955年代には文具店、菓子屋、旅館、映画館などもあって、必要なもの
        は地元で調達・利用できたようだが、その多くは姿を消して閑散とした通りになっている。

        
         1873(明治6)年久津小学校として創立された向津具小学校は、1912(大正元)年現在
        地へ新築移転して現校名に変更する。1960(昭和35)年築の校舎は建物耐震化に問題が
        あって、耐震化の完了している旧向津具中学校跡へ移転し、旧校舎はそのままにされてい
        る。

        
         往路を引き返して久津郵便局前から海側に下って行く。(油谷湾に浮かぶのが江ノ島)

        
         民家の間を抜けると漁港に出る。

        
         1970(昭和45)年から漁港改修事業が開始され、新防波堤、沖防波堤、漁港広場など
        が整備される。

        
         後背地は急傾斜地で棚田を形成し、狭い海岸部にへばりつく形で民家が並ぶ。

        
         二尊院は、平安期の807(大同2)年最澄が帰朝の途次、当地に立ち寄り創建したと伝承
        される。当初は天台宗であったが、のちに真言宗に改宗された。
         本尊である釈迦・阿弥陀如来は、唐の玄宗が楊貴妃追善供養のため贈ったという伝承が
        ある。 

        
         本寺の楊貴妃伝説と結びつき、地(じげ)上申及び風土注進案は、この五輪塔が楊貴妃と侍
        女の墓と伝えている。鎌倉末期の様式をふまえた調和のとれた五輪塔である。

        
         本堂前に立つ楊貴妃像は、町おこしのシンボルとして整備されたものである。楊貴妃は、
        奈良期の756(天平勝宝8)年38歳で亡くなったので、石像の高さが3.8mになっている
        とのこと。

        
         本堂前に願地蔵尊が祀られている。願いごとから水子供養まで、ただ1つだけを深く祈
        ることによって願いが叶うと‥

        
         宝篋印塔は罪障(ざいしょう)を消滅させ、災難を未然に防ぐことを願って、1814(文化
          11)
年向津具村の人々によって建立された。(後方の方形屋根が本堂)

        
         半島の道路が改修される以前は、半島部と本土間(粟野)を渡海船が結んでいた。

        
         集落内の狭い道はバス路線である。

        
         漁村集落であるが漁村の雰囲気を持たない。

        
         大避神社は,1645(正保2)年播州坂越浦(さこしうら)の大玉五郎左衛門が久津に来て祀
        ったと伝える。祭神は秦河勝が疱瘡を患った故事により,疱瘡の守護神として信仰されて
        きた。

        
         右手の戸嶋医院には、1932(昭和7)年築の洋風総モルタル仕上げの建物があったよう
        だが解体されたようである。 

        
         医院前の久津下バス停からJR長門市駅へ戻る