ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

長門鉄道(岡枝~西市)の鉄道敷跡を巡る (下関市)

2024年05月21日 | 山口県下関市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         長門鉄道は小月駅から旧豊田町の西市駅を結ぶ18.2㎞の軽便鉄道であったが、今回は
        岡枝駅跡から西市駅跡までの鉄道敷跡を巡る。

        
         JR小月駅からサンデンバス大泊行き約16分、岡枝バス停で下車する。

        
         中間の主要駅だった岡枝駅は、倉庫との間がかなり広いが、倉庫に積み下ろしするため
        の貨物用側線が設置されていた。廃止後は農協用地に転用され、現在も木造農業倉庫は健
        在である。 

        
         木造倉庫の軒下に文字が見えるが、蔦ですべてが読めないが「□□村産業組合農業倉庫」
        とある。

        
         県道233号線(美祢菊川線)の南側に、鉄道敷跡と思われる土留めされた道がある。

        
         県道を横断すると北に延びる草地の道が鉄道敷跡。

        
         草地から解放されるとサングリーン菊川までは舗装路。

        
         サングリーン菊川の先で鉄道敷跡は消滅する。

        
         お会いした高齢者の方にお聞きすると、「いつ頃か忘れたが、圃場整備が行われて消滅
        してしまった」とのことだった。(この中を走っていた)

        
         込堂(こみどう)停留所は歌野川の北にあって、同名のバス停後ろ辺りにあったようだ。

        
         三界萬霊塔と富成橋を過ごすと、山の斜面と木屋川の間に敷設されていた。

        
         右に分岐する道が、さらに二手に分かれるが、左手の道が鉄道敷跡である。

        
         右手に数軒の民家を過ごすと、正面に函渠が見えてくる。西部利水事務所への取付道路
        で、木屋川に設置された工業用水用の2つのダム(木屋川と湯の原)を管理する。

        
         県道の一段低い道が鉄道敷跡で、現在はサイクリングロードになっている。

        
         県道を少し離れるとトンネルへの案内がある。

        
         案内の先にトンネルへの分岐。

        
         計画では込堂から木屋川沿いに敷設されることになっていたが、経費が嵩むとの理由で、
        1814(大正3)年に路線変更されてトンネルが掘削されることになったという。(岡枝側
        入口) 
          概要 全  長 104m
             掘削開始 1915(大正4)年6月
             開  通 1817(大正6)年春 

        
         内面側壁には煉瓦が用いられ、直線的なトンネルでなく、中央付近で湾曲しており、当
        時としては高度な掘削工事であったと思われる。

        
         路線唯一のトンネルは、煉瓦の剥離もなく線路はないが現役時代のままに残っていた。
        湾曲しているが入口の明かりも見え、路面は砕石混じりの土だがぬかるみもない。

        
         アーチ部分は長手積み、坑門部分はイギリス積みで構成されている。(西市側)

        
         トンネルの先は藪と化しており、舗装路の出口はトラロープで進入禁止とされている。
        岡枝側には何もなかったので、トンネル内部だけは見せようとの配慮だろうか。

        
         この道と鉄道敷の離合地点はわからなかったが、湯の原ダムの竣工は、1991(平成3)
        
年3月なので河岸に沿って敷設されていたと思われる。
         川向こうの東中山集落は、かつて長府藩の御用和紙村と名を馳せた。

        
         県道下の鉄道敷跡は、左右に半円形を描きながら西中山集落に入る。 

                
                      (西中山~石町区間)

        
         橋台の下部が石積み。

        
         県道に合わすと猿猴塚があるが、各地にこのような伝承が残されている。昔、この下の
        淵に悪戯好きの猿猴が住んでいた。ある年の夏、影山家の下男が馬を洗いに行くと、猿猴
        が馬の手綱を体に巻き淵へ引き込もうとしていた。下男は驚き、青竹で猿猴目がけて打ち
        下ろしたが手元が狂い、馬の尻を叩きつけた。馬は驚き影山家に猿猴を引きずって一目散
        に逃げ帰った。
         猿猴は捕まり、働かされて弱りきると涙を流し哀願したとある。

        
         中山橋の正面にある西念寺(真宗)は、1576(天正4)年創建と伝えられ、毛利家の御休
        息所として毛利の家紋使用が許されたという。 

        
         中山橋の近くに西中山停留所があったが、同名のバス停がある。

        
         庚申塚の先に鉄道敷跡が延びる。

        
        
         途中の城戸バス停を過ごし、さらに県道に沿って北上する。

        
         案内板のようなものが見えたので立ち寄ると、平安・鎌倉時代の関所跡という石柱が立
        っている。
         平安時代の中頃に豊田氏が定住すると、この要害の地に城戸(木戸)を設けて関所とし、
        南(小月側)からの侵入者を警戒したという。今、この地を城戸といい、関所の地を節所(せ
          つそ)
というと説明されている。 

        
         中山橋から石町入口まで約3㎞の道程であるが、城戸から石町駅までの鉄道敷跡は県道
        の拡幅によって消滅したとされる。

        
         鉄道敷跡は県道より離れるが、現在は生活道路に転用されている。

        
         石町駅は旅客とともに筑豊炭鉱の坑内用坑木が毎日のように積み出され、豊田下村の範
        囲で米穀や肥料などが入出荷された。
         小月駅から石町駅までは14.7㎞で、飯塚山付近で約15㎞とされ、「15」を示すキ
        ロ程の石柱があったという。

        
         案内に「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロな煉瓦造の建物が残されている」
        とあるが、取り壊されたようだ。(石町駅方向を見返る)

        
         江良川付近からの農免道路が鉄道敷跡。

                
                      (石町から西市)

        
         江良地区に入ると、左手に菊川のシンボルである華山が聳える。

        
        
         江良古墳は古墳時代末期の7~8世紀の古墳群とされる。全体的に小さめの古墳で、墳
        丘はほとんどなく天井石もない。

        
         豊田神社前を過ごすと緩やかに左へカーブする。

        
         阿座上集落の鉄道敷跡は直線的で、前方に西市が見えてくる。

        
         阿座上停留所があった場所に駅標板が設置されている。

        
         切通しの鉄道敷跡。

        
        
         旧豊田町を流れる木屋川のゲンジボタルがデザインされたマンホール蓋。

        
         県道65号線(山陽豊田線)に合わして北上する。 

        
         約320mの先で県道と分かれて市街地に入る。(入口に材木店) 

        
         現在は梨選果場となっているが、ここに西市駅があり給炭水設備が設けられていた。 

        
         西市駅は豊田中、殿居に加え、俵山や豊東との流通の基点になり、倉庫が足りないため
        付近の民間倉庫を借りるという盛況ぶりであったという。列車は客車と貨車を併結した混
        合列車であった。 

        
         道の駅蛍街道西ノ市には、長門鉄道で使用された101号機関車が保存展示されている。
        西
市バス停から片道400mほどなので立ち寄る。

        
         機関車の銘板には、アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ビッツバーク ヘンリー・カー
        ク・ポーター社 1915(大正4)年の製造年と製造番号がある。

        
         アメリカの鉱山で採掘された鉱石の運搬や、山岳鉄道に使用する目的で開発された。
        「速度は出ないが力は強い」という機関車は、小月~西市間を平均時速21.8㎞ほどで走
        り、ゆったりとして愛らしい姿から「長門ポッポ」と呼ばれた。
         1947(昭和22)年滋賀県の東洋レーヨン㈱に売却され、その後、宝塚ファミリーラン
        ドを経て、京都府与謝野町の加悦(かや)SL広場に展示されていたが、2020(令和2)年3
        月の閉鎖に伴い、この地へ里帰りする。


長門鉄道(小月~岡枝)の鉄道敷跡を巡る (下関市)

2024年05月15日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         長門軽便鉄道は、1918(大正7)年から1956(昭和31)年まで小月ー豊田町の西市
        間18.2㎞で営業された民営鉄道である。当初は大津郡の温泉地・俵山、さらには北浦
        の水産基地である仙崎までを結ぶ計画であったが、開業時からの営業不振で路線の延長は
        実現しなかった。
         第二次大戦が始まると、1942(昭和17)年に政府の交通事業統制令を受けて、山陽電
        気軌道に併合されて山陽電気長門線となった。1949(昭和24)年営業収入の少ない本路
        線は、分離されて再び長門鉄道に戻った。
         しかし、その後も石炭産業の不振と自動車の普及により、経営は極度に悪化して廃止を
        余儀なくされる。

        
         現在のJR小月駅が長門鉄道の終始点であった。

        
         右手の駐車場に長門鉄道小月駅があったという。

        
         駐車場内にはプラットフォーム跡のような遺構がある。

        
         工事中で通れなかったが、この付近が鉄道跡と思われる。手前にバス停のような構築物
        が現存する。(隣はスーパー)

        
         スーパーの敷地内から正面に見える市営住宅の中を通っていた。

        
         消滅した先は浜田川に沿う形で北上するが、民地になった所もあるようだ。

        
         旧山陽道に合わすと、北へ向かう細い道が鉄道敷跡である。

        
         長門上市駅は、明円寺前の通り筋にあったそうだが場所は特定できなかった。開業時の
        小月駅は貨物専用で、この駅で乗客は乗降しており、ここに機関車庫、給水塔、本社があ
        ったという。本社は後に昭栄通りに移転する。

        
         鉄道敷跡は拡幅されて生活道路となり、山陽新幹線が横断する。

        
         生活道路は右折するが鉄道敷跡は直進している。

        
         両側にある煉瓦造の構築物は、「通い樋(かよいどい)」と呼ばれるもので、高低差を利用
        して導入管で送水する江戸時代に開発された持術である。長門鉄道では軌道を敷設する
        ため、分断される田畑に水を送るため、軌道下に送水管を設けた。
         高い方の煉瓦造の枡に水が溜まると、サイフォンの原理で低い方に水が送られる仕組み
        である。(上小月側より)

        
         用水路を渡った先で、中国自動車道小月ICの取付道路により消滅している。

        
         国道491号線を横断して自動車道の下を潜るが、ここも橋脚の設置により消滅してい
        るが、付替え道路が設けてある。

        
         鉄道敷跡は国道が接近するまでは直線道である。

        
         鉄道敷跡は国道の左側だったようだが、横断が難しいので上小月交差点まで進む。

        
         上小月停留所は針路を北東に変えた上小月交差点付近にあったようだ。道路工事により
        鉄道敷跡は消滅したが、この細い道に接続していたと思われる。現在は交差点近くの国道
        に上小月バス停が設置されている。

        
         小川を渡ると県道260号線(宇賀山陽線)に合わす。どうも歩道部分が鉄道敷跡のよう
        だ。

        
         鉄道敷跡は高速道にシフトしているようだが、遺構もないようなので県道を下って行く。

                

        
         Y建設の裏附近から県道と高速道の間を抜け、下大野停留所に繋がっていたようだが、
        このまま県道を利用する。

        
         地元の方にお尋ねすると、ここに下大野駅があったとのこと。下大野バス停(下関行き)
        の向い側だが、交換設備を有していたとされるが遺構は残されていない。
         1922(大正11)年に停留所から下大野駅に変わっているが、駅名は「しもおうの」で
        あったという。

        
         その先に下大野バス停があり、鉄道敷跡は県道に沿っている。

        
        
         大野神社の鳥居が見えたので、昼食を兼ねて参拝する。神社の創建は、平安期の859
        (貞観元)年に山城国の男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請したと伝える。厄除けや武運長久
        などにご利益があるという。 

        
         下大野停留所から200m足らずで、県道から分かれて左の道に入る。やっと鉄道敷跡ら
        しい道幅になる。長門鉄道はもともと木材輸送を目的としたため、軌間(レール間の幅)は、
        JRの在来線と同じ1,067ミリメートルであった。

        
         トンネルを作るほどではない山の斜面を切り開き、切通しにした鉄道敷跡である。

        
        
         どの辺りが下大野と上大野の境界なのかわからないが、山裾に舗装路が続く。

        
         集落入口に庚申塚と地蔵尊。

        
         人道橋には石積みの橋台が残されている。

        
         再び切通しの鉄道敷跡。 

        
         ここにも導入管が設けられていた。

        
         「遠くに見える村の屋根 森や林や田や畑 後へ後へ飛んで行く」という鉄道唱歌「汽
        車」の一節にあるような光景だったのだろうか。今は長閑な放牧地となって多くの牛に見
        送られる。 (下大野方向を見返る) 

        
         車窓から見えたであろう大堤溜池。上大野停留所付近の緩やかな坂を登るのに、乗客や
        荷物によっては、一旦バックして助走をつけて登ったというエピソードも残されている。

        
         上大野停留所跡は豊東小学校前方に三角の緑地帯が取られ、大きな木の下に小さな駅跡
        碑が設置されている。碑の表面に「長門鉄道 上大野(かみおうの)停留所跡」、裏面に「
        大正7年10月7日 昭和31年3月末日」とある。

        
         「町の木・やまざくら」と「菊川町農業集落排水」の文字と、中央にやまざくらと町章、
        周囲に川を流れる桜がデザインされた農業集落用のマンホール蓋。

        
        
         上大野から田部への鉄道敷跡は、サイクリングロードになっている。

        
         田部地区に入ってくると桜並木が続くが、桜街道と呼ばれている。

        
         桜並木の下を流れる水路に橋台が残る。

        
         田部停留所のプラットホームが現存するが、全長45m、ホームの高さ0.65mであっ
        た。
         長門鉄道の駅と停留所の違いは、駅は貨物と乗客、停留所は乗客のみで区分されていた。

        
         田部停留所を過ごすと小川を跨ぐ橋台が残っている。水路は水を分岐するようになって
        いる。

        
         山口県十八不動三十六童子霊場の4番札所である千寿院。平成に入ってから開創された
        新しい霊場だそうだ。

        
         岡枝駅から右に湾曲しながら田部川に至る。

        
         田部川橋梁の正式名称は「吉賀川橋梁」で、3m3連の39.5mの橋長であった。19
        17(大正6)年10月5日に設置されたが、護岸の改修などで遺構は残されていない。

        
         田部川左岸から岡枝駅間ははっきりしないが、民家に至る道が鉄道敷跡のようだ。 

        
         岡枝駅は交換可能駅で、長門鉄道時代の倉庫が残されているが、現在はJAの倉庫とな
        っている。岡枝駅で歩きを終えて、岡枝バス停よりJR小月駅に戻る。


下関市高畑から壇ノ浦と野久留米街道を巡る

2024年04月02日 | 山口県下関市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         高畑は霊鷲山(りょうじゅせん)の南麓、前田川上流域の山間に位置する。地名の由来につ
        いて長府旧蹟案内によると、平家の残党が当地に隠棲し、平家は赤旗であるため赤旗と称
        していたのが、高畑に転訛したものという。
         壇ノ浦は関門海峡の東口、早鞆の瀬戸の下関市側の海岸部に位置する。(歩行約7.9km)

        
         JR長府駅からサンデンバス下関駅行き約8分、城下町長府バス停で下車する。

        
         壇具川に沿って功山寺まで進む。

        
         兼崎地橙孫(1890-1957・本名は理蔵)は山口市に生まれ、第五高等学校(現熊本大学)へ進
        学する頃には、荻原井泉水の「層雲」に投句を始める。卒業後は京都帝国大学法科に進学
        し、卒業後は弁護士となる。しばらくして下関市に住み、弁護士業の傍ら創作活動を開始
        するが、下関空襲により被災して徳山市に疎開したが病に倒れる。
         書家でとしても知られており、この句も六朝体の書で刻まれている。
                 「虹の弧に 故郷の山河 収めたり」

        
         功山寺山門の左手に「回天義挙之所」の碑がある。1864(元治元)年12月15日の夜
        半、高杉晋作が長州藩の俗論派を打倒するために挙兵する。功山寺に結集したのは84名
        で、死を覚悟した高杉は、大庭伝七(白石正一郎の弟)に遺書を託し、功山寺に下野してい
        た三条実美ら五卿に挨拶を済ませて、下関新地会所を襲撃する。

        
         功山寺門前から辻堂峠への道は緩い上りで、長府の町を外れるため山間の道である。

        
         野久留米街道(山陽道の一部)は功山寺から前田に抜ける道だが、藩政時代には政事の中
        心地長府と、商業と港町赤間関を結ぶ大動脈であった。
         決起した高杉晋作たちも、あるいはこの道を走り抜けて赤間関の新地会所に向かったの
        かも知れない。(見返って撮影)

               
         壇具川の脇に「軍神広瀬中佐亡友展慕記念碑」がある。軍神広瀬武夫中佐とは、日清・
        日露戦争に従軍した軍人で、1904(明治37)年の日露戦争において、旅順港閉鎖作戦を
        指揮していた福井丸から撤退することになった際、行方不明となった部下の杉野兵曹長を
        探した結果、自らもロシア軍の砲撃で戦死する。
         この碑は、1894(明治27)年に広瀬中佐が日清戦争出征の際に、その前年に病死した
        海軍兵学校時代の親友・福田久槌の墓参に訪れたことを記念して、1935(昭和10)年に
        建立されたとある。

        
        
         小さい橋を渡ると右手の道路脇に「庚申塚」がある。いつ頃に祀られたかはわからない
        そうだが、街道を行き交う人々を静かに見守ってきた。(まだ上り坂) 

        
         左手にパルク浜浦台を見ると下り坂に入る。

        
         高畑への別れ道の手前に温水地蔵が祀られている。祀られた年代は不明とされる。 

        
         高畑への道に入る。

        
        
         僧都地蔵の水(霊鷲山の湧水)について、僧都地蔵菩薩は長府毛利公に仕えた岡田栄蔵直
        水が参勤交代のおり、渓谷湧水の清水を主君に捧げると満悦格別の詞を賜る。
         国許のこの地より薬水が噴くのを見て、地蔵尊を刻み、平家末裔の生活守護菩薩とし、   
        「丘の一杯水」と名付けられたとか。

        
         曲りくねった道を進むと、一部関門海峡が見える場所がある。

        
         山間の里である高畑は、壇之浦合戦で滅んだ平家の落人が隠れ住んだところといわれて
        いる。平家塚はその落人の墓と伝えられている。

        
        
        
        
         古い五輪塔が6基のほか墓石がひっそりと佇んでいるが、3基のみ拝見できた。市道の
        向い側にもあるようだが、時間の関係で霊神社側のみとする。
         ここは「平家やぶ」といわれ、かつてはここに一歩でも入ると、祟りがあると恐れられ
        ていたという。

        
         壇ノ浦の戦いで傷ついた平家の落武者が、平家の赤旗をかけた松があったという。現在
        の松は、1976(昭和51)年に寄贈植栽されたというがわからなかった。

        
        
         平家の落人の霊が祀られているという霊神社は、初め平家塚の近くにあったが、明治の
        中頃の大火でこの地に移され、2つの祠も新しく建立されたようである。
         一対の灯籠には、寛政元年(1789)と刻まれ、狛犬と奥の灯籠は、1907(明治40)年頃
        に忌宮神社へ合祀された旧高畑八幡宮にあったものという。

        
         最奥部の集落と光證寺。
 
               
         前田までは1本道で民家などは存在しない。

        
         前田までは1本道で民家などは存在しない。

        
         前田簡易郵便局前に出て前田集落に入る。 

        
         地元の方に貴船神社の場所をお聞きすると、右側を見ながら下って行くと、鳥居がある
        ので見落とさないようにとのことであった。

        
         由緒によると、平家の大将・平知盛は、西下にあたり京都鞍馬山に鎮座する貴船神社よ
        り勧請して、貴船尻に祀ったという。後世、長府毛利氏の命により、火の山の中腹を霊地
        と定めて祀られて今日に至るという。

        
         曹洞宗の慈雲寺。

        
         前田集落から壇ノ浦に出る旧山陽道は、この国道9号線よりも、5ないし10数メート
        ル高い山裾を縫うように通っていたようである。今はこの道を辿ることはできないが、現
        在の国道9号線ではないことだけは確かである。 

        
        
         壇ノ浦の戦いは始め平家側が有利であったが、潮の流れが逆になると形勢は逆転して源
        氏の勝利に終わる。この戦いで平家側のある者は捕らわれ、また海に落ち傷を負いながら
        岸にたどり着いた者もいた。
         そのうちの武将一人は、傷を負いながら命がけで岸に泳ぎ着き、あたりを見渡すとわず
        かな水溜まりを見つけて、その水を手のひらですくい喉を潤したという。武将にとって命
        の水とも思えるもので、2度目を口にしたところ、大きくむせて吐き出してしまった。不
        思議なことに真水は塩水に変わっていたといわれる。(平家の一杯水の説明より) 

        
        
         壇ノ浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしたが、四ヶ国艦隊に大敗してしまう。
        外国の進んだ軍備に目覚めた長州藩は、開国・倒幕へと転換して明治維新を実現する原動
        力となる。壇ノ浦は、武家社会の出発点となった源平合戦からおよそ700年後に、はか
        らずも武家社会を終わりに導く歴史の転換の舞台となった。
         長州藩の加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球状の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて
        損害を与えるものであったが、連合艦隊の新しい大砲は、距離・威力ともはるかに優れた
        ものであった。
         これは長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型を参考に、原寸大に復元されたレプリカ
        である。

        
         天保製長州砲は、1844(天保15)年萩藩の鋳砲家・郡司喜平治作とされ、1864(元
        治元)年の関門海峡での攘夷戦において、下関海岸砲台に装備された青銅砲は、すべて戦利
        品として運び去られた。
         フランス政府の好意により、1984(昭和59)年6月に貸与という形で里帰りし、フラ
        ンス政府の了解を得て原寸大かつ精密に模造されたものである。

        
         作家・松本清張は、幼少期(11歳まで)を下関の壇之浦で過ごした。自叙伝的小説「半
        生の記」には「家の裏にでると、渦潮の巻く瀬戸を船が上下した。対岸の目と鼻の先には
        和布刈神社があった。山を背に鬱蒼とした森に囲まれ、中から神社の甍(いらか)などが夕陽
        に光ったりした。夜になると、門司の灯が小さな珠をつないだように燦めく」という一節
        が刻まれた文学碑が建てられた。中央に空けられた穴からは、対岸にある和布刈神社(小説
        「時間の習俗」)の舞台が望める趣向になっている。 

        
         平家の末路は、屋島の戦い後に瀬戸内海の制海権を失い、長門へと撤退するが、源範頼
        軍に九州を制圧されたことで包囲される形となる。
         1185(元暦2)年3月24日に関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた。彦島を根拠
        地とした平知盛軍は、田ノ浦へ進めば、源氏軍は満珠・千珠の島影より兵を進める。紅白
        (赤旗は平氏、白旗は源氏)入り乱れて死闘数刻、平家一門は急潮に敗走する。
               今ぞしる 身もすそ川の 御ながれ
                   波の下にも みやこありとは (長門本・平家物語) 

        
         公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで、早鞆の瀬戸といわれ、その幅700メ
        ートルにすぎないが、潮流も一番早く関門海峡の景色が堪能できる場所である。国道9号
        線を挟んで向かい側に、関門トンネル人道口がある。  

        
         1939(昭和14)年に試堀隧道が完成し、同年から10ヶ年継続事業として本隧道に着
        手した。この間、第二次世界大戦もあって困難を極めたが、1944(昭和19)年12月全
        線の導坑が貫通する。
         しかし、終戦間近の6・7月に戦災を受けて工事は一時休止となったが、1952(昭和
        7)
年に有料道路として工事が再開され、1958(昭和33)年3月9日開通の運びとなる。
        
        
         昭和の初期には、早鞆の瀬戸にトンネルはできないといわれていたが、世界的な視野か
        ら研究されて出来ぬことはないと決断したのが、関門国道建設事務所の初代所長であった
        加藤伴平氏である。
                人の才を集めて成りし水底の
                     道にこの世はいやさかゆかむ 

        
         陸路の輸送力を拡張するため、トンネル開通から15年後の、1973(昭和48)年11
        月に開通した関門橋。 

        
         立岩稲荷の正面海中に烏帽子岩という注連縄のかかる立石は、立石稲荷の御神体とされ、
        毎年12月10日に航海安全と豊漁を祈願して、重さ20㎏の注連縄交換が風物詩となっ
        ている。 

        
         国道を挟んで山側にへばりつくようにあるのが立石稲荷神社。平家が西下したとき伏見
        稲荷の分霊をここに祀ったといわれている。(みもすそ川バス停よりJR下関駅)


下関市唐戸はセブンハーバーの町 ② 

2024年03月13日 | 山口県下関市

        
         歩道橋から見る秋田商会と南部町郵便局。

        
         1900(明治33)年に建築された下関南部町郵便局は、下関に現存する一番古い洋風建
        築で、現役の郵便局の中では国内最古である。
         煉瓦造で2階建て、モルタル仕上げ木造瓦葺きで、新築当時は屋根ペデイメント付(屋根
        の上にデザイン上の小屋根を設けたもの)であったという。

                
         局前に赤い丸ポストが設置してあるが、丸ポストを考案したのが下関に居住していた俵
        谷高七(1854-1912)である。島根県で生まれた俵谷は、その後、赤間関の南部町に居住し、
        指物師として生計をたてていた。その一方で赤間関郵便局(現南部町郵便局)の郵便作業道
        具の制作などに取り組み、なかでも丸ポストの考案は画期的なものであった。

        
         1915(大正4)年に秋田商会の事務所兼居宅として建築されたもので、西日本最初の鉄
        筋コンクリート造のビルとされる。屋上には日本庭園がある和洋折衷のユニークな建物で
        ある。

        
         日清戦争以後の海外進出機運に乗って創設された海運会社である。当時、海岸が間近に
        迫り、屋上の搭屋が灯台の役目を担う。(3階大広間) 

                
         1階が事務室、2・3階が住居で窓際には板張りをめぐらせている。(火・水曜日は休
        館のため2009年撮影分)

        
        金子みすゞ詩の小径⑦ (旧秋田商会ビル)
         詩の「障子」は、みすゞが仰ぎ見たのは秋田商会、郵便局や英国領事館であったのであ
        ろう。
         ビルディングには48の部屋があるが、いま棲んでいるのは蠅(ハエ)だけとある。どこ
        の家にも必ず天井からハエ取りリボンが吊り下げてあった時代があったという。

        
         関門ビルは門司港ー唐戸の連絡船などを運航する関門汽船㈱が、1931(昭和6)年に建
        てたもので、数少ない戦前の事務所ビルである。

        
         防波堤の両端に向かい合うように赤と白の一対の灯台ある。恋人灯台と呼ばれ、恋人同
        士が両方の灯台に触れて愛を誓うと必ず結ばれるといわれている。(後方に関門橋)

         
         はい!からっと横丁の海側に、2本の刀が刃を合わせるような大きな彫刻は、2003
        (平成15)年に完成した彫刻家・澄川喜一氏の「青春交響の塔」という作品である。
         新時代を共に夢見た高杉晋作と坂本龍馬の友情が2本の石柱で表現されている。共に小
        倉戦争を戦ったが、天は時代を先駆けた両雄に、その時からわずか1年の命しか与えなか
        った。

        
         歴史のドラマが繰り広げられた関門海峡。   

        
         200(平成20)年4月から2013(平成25)年3月まで、JR下関駅から城下町長府
        間の路線バスとして運行されていたロンドンバスである。引退後は「あるかぽーと」内の
        一画に展示されている。
         1962(昭和37)年製のバスは、英国領事館があった縁で下関市に譲渡されたとか。

        
         海響館前と姉妹都市ひろば、巌流島にポケモンマンホール蓋4枚が設置されている。㈱
        ポケモンより寄贈されたものという。 

        
         ボードウォークの途中に「ザビエル上陸記念碑」がある。室町期の1550(天文19)
        にフランシスコ・ザビエルは、全国での宣教の許可を得ようと、天皇のいる京都に向かう
        ため九州を発ち、本州最初の地である下関に上陸する。
         この地は埋め立て地であり、実際に上陸した地は、亀山八幡宮の鳥居下辺りではないか
        とされている。

        
         堂崎(道先)の渡し場跡碑には、「山陽道はここで終わり、関門海峡を渡って九州へと続
        いている。いつごろか堂崎の渡し場と呼ばれた公式の船着場があって、江戸時代には旅人の
        往来手形を改める津口の船番所も置かれていた」とある。

        
        金子みすゞ詩の小径⑧ (唐戸市場前)
         「私と小鳥と鈴と」の詩の最後にある“みんなちがって、みんないい”は、いま誰も知
        っている言葉だが、これになるためには一行前の“鈴と、小鳥と、それから私”が大切だ
        といわれている。自己中心の「私とあなた」から、自他一如の「あなたと私」になってい
        る。
         一人ひとりが素晴らしいということだけでなく、誰をも丸ごと認めて傷つけないという
        まなざしに立つことで成り立つという。

        
        
         「魚」のイメージが強い唐戸市場だが、1909(明治42)年に野菜や果物の路上販売が
        許可されたのが市場の始まりという。1924(大正13)年に魚市場が阿弥陀寺町から移転
        して「唐戸魚市場」ができ、1933(昭和8)年に双方が合併して「唐戸魚菜市場」が開設
        される。施設が手狭になったこともあって、野菜部門が他所へ移転したため魚中心の市場
        となる。2001(平成13)年再開発事業により現在地に移転して、観光の要素が色濃くな
        るが、業者向けの卸市場機能と市民向けの小売市場の機能が共存するという珍しい市場で
        もある。(午後2時頃の市場) 

        
        
         豊臣秀吉は文禄・慶長の役(1592-1598)で、拠点の佐賀・名護屋城にいたが、母危篤の報
        に急ぎ大坂へ戻る。小倉から船で関門海峡を航行中、岩礁に乗り上げてしまうが、船頭だ
        った明石与次兵衛は、秀吉を危険な目にあわせたと斬首されたともいわれている。
         「死の瀬」を与次兵衛ヶ瀬と呼び、岩礁を知らせるため碑が建てられたが、明治期の工
        事で岩礁は取り除かれ、碑は和布刈公園に設置された。この碑は、1979(昭和54)年に
        第四港湾建設局が「関門航路草創の地」の記念碑と一緒に建立する。

        
         唐戸に2つあるポケモンマンホール蓋の1つ。

        
         平家物語は鎌倉時代に成立したといわれ、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。
        台座には平家物語の冒頭部分が刻まれている。
            祇園精舍の鐘の声 / 諸行無常の響きあり
            娑羅双樹の花の色 / 盛者必衰の理をあらはす
            おごれる人も久しからず / ただ春の夜の夢のごとし
            たけき者もつひにはほろびぬ / ひとへに風の前の塵に同じ 

        
         朝鮮通信使の「通信」とは“信(よしみ)を通わす”という意味だそうだ。1607(慶長1
        2)年に朝鮮との国交が回復し、3回の回答兼刷還使と、1636(寛永13)年から1811
        (文化8)年まで9回の通信使が江戸に赴く。ここ赤間関に上陸した後、さらに瀬戸内海を船
        で大坂へ向かったとされる。

        
         1185(元暦2)年3月24日関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた。序盤は平氏が
        優勢であったが、途中から潮の流れの向きがかわり、それが平氏の敗北につながったとい
        われている。
         敗色が濃厚となると平家の武将は海へ身を投じる。平家の大将であった平知盛は平氏滅
        亡の様を見届けて、乳兄弟の平家長と共に海へ身を投じる。これに想を得た歌舞伎「義経
        千本桜」の「渡海屋」および「大物浦は別名「碇知盛」とも呼ばれ、碇とともに仰向けに
        入水する場面がある。(みもすそ公園に平知盛像)
         海参道入口に碇を奉納し、「海峡守護碇」として海峡の平安を祈るとされる。

        
         海参道から見る赤間神宮。

        
         国道9号線の阿弥陀寺町に道標がある。「右上方道 左すみよし道/天保八丁酉歳(1837)
        正月吉日/網屋大左衛門/魚屋□太郎」とある。

        
         極楽寺の東に赤煉瓦倉庫が現存する。建築年代や当時の所有者を知ることはできなかっ
        た。

        
                 極楽寺(真宗)は、鎌倉期の1256(康元元)年に阿弥陀堂が建立されたが、寺号公称の許
        可を得たのは、1641(寛永18)年のことである。
         1863(文久3)年6月8日に結成された奇兵隊は、白石正一郎宅から阿弥陀寺(現赤間
        神宮)へ移動するが、さらに隊員が多くなり、隣にあった極楽寺が分屯地となる。第二次世
        界大戦の空襲で焼失し、後に再建されて今日に至る。

        
         赤江漠(本名は長谷川敬、1933-2012)は下関市で生まれ、溝口健二に憧れて映画監督を志
        し、日本大学芸術学部演劇科に入学するも中退する。その後は放送作家としての活動を経
        て小説の執筆を手掛ける。
         文学碑は「オルフェの水鏡」の冒頭「陽ざかり囲い」の一部で
               崩れかけた枇杷 / 色の土塀に陽ざしが溶け
               歩いても歩いてもわれ一人 / 無人の迷路
               和やかに五感が崩れ / 矇朧(もうろう)たる
               静謐(せいひつ)がやってくる。 

        
         極楽寺から赤間神宮へ向かうと鎮守八幡宮の鳥居と参道。

        
         神門には「神徳無偏」の神額がある。神徳無偏とは「神の功徳,威徳は平等に広く行き
        渡り、一方に偏っていないこと」の意味だそうだ。

        
         神門と鳥居の間に置かれている壇ノ浦漁釣船と由来記を見て、石段を上がると大きな唐
        破風の付いた大連神社がある。1906(明治39)年10月に日露戦争終焉と共に満州国の
        玄関口である大連市の総氏神として建立される。第二次世界大戦が終結するとソ連軍保護
        のもと、1947(昭和22)年3月14日宮司だった水野氏の手によって御神体が持ち帰ら
        れ、福岡市の筥崎宮に仮安置された。その後、水野氏が赤間神宮宮司に赴任した際、境内
        に小祠を建てて大連神社の御神体を遷座させた。
         伊勢神宮の式年遷宮の際に古社殿を譲り受け、1980(昭和55)年現在地に移築して正
        遷座する。

        
         大連神社と同じ境内地に紅石稲荷神社がある。由緒によると、平安期の1183(寿永2)
        年平氏は木曽義仲に攻められ、安徳天皇を奉じて都落ちするが、船には京都伏見稲荷大明
        神を勧請して乗船する。長門国壇ノ浦に到着すると、紅石山に安置したことに始まりと伝
        えられる。
         1945(昭和20)年の戦災で社殿を焼失したが、1984(昭和59)年現在地に再建され
        た。

        
         鎮守八幡宮は、平安期の859(貞観元)年に宇佐から京都の岩清水へ分霊を勧請する際、
        関門の風光明媚な当地に、日本西門の守り神として創建された。
         この八幡宮も先の大戦による戦災で焼失したが、後に宇佐神宮の例に倣い朱色の社殿に
        再建された。

        
         赤間神宮は、平安末期の1185(元暦2)年3月24日に壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門
        とともに、わずか8歳で入水した安徳天皇を祀っている。
         もとは阿弥陀寺で、1875(明治8)年に寺を廃して明治天皇の勅で赤間宮となる。

        
         十三重塔は水没者の霊を供養するため、石塔の台下には幾多の小石に名を留めて納めら
        れている。一番下の層が不動明王で最上層が虚空蔵菩薩。1950(昭和25)年に建立され
        たが、神社に仏教的要素が混在する。

        
        
                 琶法師の芳一堂は、小泉八雲の平家伝説をもとにした「耳なし芳一」で、芳一の木造が
        祀られている。
         平家の亡霊を弔うため体中に魔除けのお経を書いて平家物語を演奏していたら、耳にお
        経を書いていなかったため、平家の怨霊が耳をもぎ取ったことから「耳なし芳一」と呼ば
        れた。 

        
        
         平家一門の七盛塚は、平家の武将で「盛」のつく名が多かったことからこの名がついた。
        前列に知盛他6塚。後列には従二位尼である平時子ら7塚。

        
         壇ノ浦を望む水天門は鮮やかな竜宮づくり。「海の中にも都がある」という二位の尼の
        願いを映したものと云われている。

        
         水天門の左隣に安徳天皇阿弥陀寺陵。

        
         水天宮の下には竜造寺家が壇ノ浦に落とした巨石が祀られている。

        
         赤間宿本陣・伊藤家は春帆楼の下に邸宅があり、唐戸南部町の本陣佐甲家とともに、赤
        間関の大年寄りを務めた。シーボルトや坂本龍馬も滞在したが、先の大戦の災禍により焼
        失する。

        
         1895(明治28)年に日清講和条約が旧春帆楼で行われたが、講和条約の意義を後世に
        伝えるため、1937(昭和12)年隣接地に記念館が建設される。
         旧春帆楼は戦災で焼失したが、鉄筋コンクリート造であったため戦災を免れる。(国登録
        有形文化財) 

        
         講和会議場が再現されているが、椅子は浜離宮で使用されていたものといわれる。

        
         3月19日に清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊。翌日から日清講
        和会議が開催され、日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代
        表11名が出席した。講和に向けて会議は繰り返し行われ、4月17日に講和条約が調印
        された。 

        
         清国の講和使節団は引接寺(いんじょうじ)に宿泊して講和会議に臨んでいたが、1895
        (明治28)年3月24日に第3回目の会議を終えた李鴻章は、帰途、小山豊太郎という青年
        狙撃される。
         負傷したが快復して4月10日の会議から復帰したが、大通りを避けて小径を往復する。   
        のちに、この道が「李鴻章道」と呼ばれるようになったとか。

        
         瓜生商会は長崎に本店を置くホーム・リンガー商会の代理店として設立されたもので、
        1936(昭和11)年同商会が社長の息子・M.リンガーのために建てた住宅である。暖炉
        用の高い煙突以外に、装飾的な要素は一切排除されている。(国登録有形文化財) 

        
         藤原義江はわが国にオペラを根付かせた功労者であるが、義江の父、N・B・リードが
        瓜生商会の支配人として住宅を使用したが、義江は住んだことがなかった。
         1978(昭和53)年3月より、資料を公開する記念館として活用されている。

        
         尊皇攘夷運動を資金面で援助した白石正一郎は、明治維新後、赤間神宮の2代目宮司を
        務めた。1880(明治13)年に69歳で死去し、赤間神宮背後の紅石山に奥津城(おくつき)
        が建てられた。(右手は真木菊四郎の墓)
         赤間神宮からは通行不可で、藤原義江記念館側から行くことができる。

        
         引接寺(いんじょうじ)は、1560(永禄3)年に現在の北九州市門司区から亀山の麓に移し
        たのが創建とされる。当時の建物は下関空襲で焼失したが山門は難を逃れた。日清講和会
        議が開かれた際に、李鴻章ら中国全権一行の宿泊場所となった。

        
                 「三門の龍」の彫刻があるが、龍にまつわる伝説が残されている。江戸末期頃に寺前を
        通りかかった人が、次々に襲われるという事件が起きた。その犯人は三門の龍で、武士に
        よって龍は退治されたという。三門の龍をよく見ると胴体がスパッと切られている。
         龍の彫刻は、制作年や誰の作なのか、資料が焼失してわからないそうだが、出来栄えか
        ら左甚五郎の作ではないかといわれている。

        
         鎌倉時代の中頃、御所勤めの公家・藤原采女亮が宝刀紛失の責任をとって、職を辞して
        下関に住み込み、新羅人から髪結いの技術を学び、髪結い所を始めた。
         床の間には天皇を祭る祭壇があったことから「床屋」と呼ばれるようになった。(床屋発
        祥の地・櫛と剃刀)

        
        
         亀山八幡宮の鳥居前にある山陽道碑は、1878(明治11)年9月に渡船場が新たに築か
        れたことを記念して建てられた。1954(昭和29)年12月に亀山八幡宮東鳥居下から現
        位置へ移したとされる。

        
         亀山八幡宮の由緒によると、平安期の859(貞観元)年2月平城京鎮護のため、宇佐八幡
        宮から石清水に勧請の途次、赤間関の南岸亀山の麓に係船する。その際に神宜によって仮
        殿を造営したのが始まりとされる。  

         
        金子みすゞ詩の小径⑨ (亀山八幡宮境内)
         詩碑には「夏越(なごし)まつり」があるが、夏越祭は7月末に2日間にわたって行われる。

        
                 幕末の攘夷戦で、亀山、壇ノ浦、前田などに長州藩の砲台が置かれた。1863(文久3)
        年5月11日久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船への攻撃が亀山砲台から始まり、攘夷戦
        の火ぶたが切られる。

        
         1865(慶応元)年の初夏、刺客に追われた伊藤博文が亀山八幡宮の境内で、茶屋のお茶
        子だった木田梅子に助けられたのが二人の出会いで、その1年後に夫婦となる。伊藤公は
        初代内閣総理大臣となり、梅子夫人は我国最初のファーストレディである。
         日本の近代化と発展に身命をかけていたが、1909(明治42)年凶弾に倒れる。
               国のため光をそへてゆきましし
                  君とし思へども悲しかりけり(梅子) 

        
         この亀山は島であったが、馬関(下関の古称)開発のため人柱となり、海底に消えたお亀
        さんは下関の発展の功労者である。時の人が功績を称え、記念に銀杏の木を植えた。木は
        年輪を重ねて名木となり、お亀銀杏と称えられた。
         1989(平成元)年にお亀明神社を再建して、池を整え玉垣を巡らせたという。

        
        金子みすゞ詩の小径⑩ (亀山八幡宮下)
         1930(昭和5)年2月27日正式に離婚して上山文栄堂に戻り、みすゞは亡くなる前日
        の3月9日に八幡宮傍の三好写真館で最後の写真を撮る。その時の心情はいかほどだった
        だろうか。
         詩碑には「鶴」があるが、八幡宮の亀の池に、一羽の鶴が舞いおりて住みつく。人間が
        つくった網の中で鶴は寂しく、一方の人間のつくった汽車は動くことができる。静と動の       
        2つが1つになっている。
 
         ここで唐戸の散歩を終えて、唐戸バス停よりJR下関駅に戻る。


下関市唐戸はセブンハーバーの町 ①

2024年03月13日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         唐戸は幕末から明治期にかけて、世界に門戸を開く上で大きな役割を果たした7つの港
        町(函館・新潟・横浜・下田・神戸・下関・長崎)の1つである。1894(明治27)年に唐
        戸湾の埋め立て工事が開始され、1896(同29)年に完成してできた町で、市街地東部の
        中心的な地域である。
         地名の由来は、唐戸湾が入海であった時代の樋・樋門による説と、唐渡(唐への渡し)があ
        ったからとする説など諸説あるようだ。(歩行約8.9㎞)

        
         JR下関駅からサンデンバス長府方面行き約6分、三百目バス停で下車する。

        
         蜂谷ビルは、1926(大正15)年に「東洋捕鯨株式会社」の下関支店として建てられた。 
        近代における日本捕鯨事業の中核を担い、大正期に日本の捕鯨事業をほぼ独占していた同
        社は、昭和期に企業合併して日本捕鯨㈱(後に日本水産)となり、日本で初めて南氷洋捕鯨
        を行う。(国登録有形文化財)

        
         関門海峡に面する岬之町(はなのちょう)の段上に建つビルで、窓の間にある垂直の間柱に
        はタイルが貼られ、外壁はモルタル仕上げとなっている。

        
         今は施錠されて内部を拝見することはできないが、2019(平成31)年に訪れた時、近
        所の方(所有者?)に内部を案内していただく。外観は捕鯨業の盛行を偲ばせる事務所建築
        であるが、内部は古びた空間で意匠などは見られない。

        
         2017(平成29)年3月から一部を飲食店として利用されていたが、看板は目にするが
        閉じられたようだ。説明によると、絵画など当時にあったものがここに保管されていると
        のこと。

        
         ビルから見える海峡タワーと下関商港。

        
         国道9号線を横断して観音崎へ向かう。

        
         永福寺入口に山陽道・赤間関街道の起終点一里塚跡の碑がある。1739(元文4)年の
        「地下上申絵図」や有馬喜惣太の「御国廻行程記」によると、門前に一里塚が描かれてい
        るとのこと。 

        
         石段の左手にある宝篋印塔は刻銘が読めず。

        
         永福寺(臨済宗)の寺伝によると、飛鳥期の611(推古天皇19)年に百済の琳聖太子が入
        朝の際、風光明媚な関門の地に念仏観音像を安置し、一宇を建立されたことに始まり、こ
        の地の地名が「観音崎」になったという。初め天台宗であったが、のちに衰微して荒廃し
        たが、鎌倉期の1327(嘉暦2)年南禅寺三世が中興して臨済禅の道場に改めたとされる。
         その後は代々大内家、毛利家の庇護を受けたが、1945(昭和20)年7月の空襲で一朝
        にして灰塵に帰す。

        
         お堂の中に「お賓頭盧(びんずる)さま」がお座りになっているが、釈迦の弟子の一人で神
        通力に優れていたが、世間の人に多く用いたため、釈迦の呵責を受けて涅槃を許させず、
        釈迦入滅後も衆生を救い続けるとされる。
         この像を堂の前に置き、自分の悪い部分を撫でると徐病の功徳があるとされ、撫で仏の
        風習が広がったとされる。

        
         寺は現在のやまぎん史料館の地にあったが、1917(大正6)年諸堂の老朽化により現在
        の地に移転する。
         「港の見える丘の径」は、JR下関駅近くの大歳神社から永福寺を経由して、南部町の
        寿公園に至る散策コースである。境内からは港の見える丘の1つとして、関門海峡を見渡
        すことができる。

        
         1920(大正9)年まで永福寺があった地に三井銀行下関支店の建物が竣工し、1933
          (昭和8)年に山口銀行の前身である第百十銀行本店となり、山口銀行の創立(1944年)か
        ら本店新築(1965年)まで本店として使用された。
         建物の外部は御影石で覆われ、古典主義様式のデザインを採り入れた意匠となっている。
        2008(平成20)年にやまぎん史料館として開館し、銀行の変遷などが紹介されている。
        
        
         1階は高い吹き抜けの営業室で、営業カウンター、亀甲張りのロビーが復原されている。

        
         南階段は建築当時の欅造り、手摺りはワニス塗りで絨毯も当時のものとされる。

        
         格天井と内部の壁は漆喰塗で、2階部分の四周には回廊が設けられている。回廊は2階
        の窓を開閉するためと思っていたが、アメリカの銀行を真似て建築されたが、当時のアメ
        リカでは強盗が多く発生していたため、銃を所持して警備する回廊であったという。(現在
        は2Fに上がれない) 

        
         萩藩馬関越荷方役所は、もと伊崎新地にあったが幕末期に移転する。倉庫業や廻船の荷
        主に資金を貸し付けるなどの業務を行う。収益は「撫育方」という特別会計に蓄え、明治
        維新実現の軍資金となる。(現西尾医院前)

        
        金子みすゞ詩の小径① (明治安田生命ビル)
         1923(大正12)年20歳となった童謡詩人・金子みすゞは大津郡仙崎村から母の嫁ぎ
        先である上山文英堂書店本店に移り住む。この地で結婚したが、1930(昭和5)年2月に
        離婚し、3月10日この地で26歳の短い生涯を閉じる。
         終焉の地には「みんなを好きに」の詩碑がある。
              私は好きになりたいな、
              誰もかんでもみいんな‥‥
         1927(昭和2)年頃の作品とされ、子供ができたが夫の素行に悩まされ始めていた。

        
         専念寺(時宗)の寺伝によれば、福生寺と号して飛鳥期の611(推古天皇19)年、百済の
        琳聖太子が開いた霊場であった。久しく天台宗であったが、鎌倉期の弘長年間(1261-1264)
        に一遍上人がこの地に留まった時に、これに帰依し、時宗に転宗して現寺号に改めたとい
        う。
         1945(昭和20)年の戦災で堂宇を焼失したが、後に再建されて今日に至る。また、幕
        末の下関攘夷戦当時、当寺の横に木守社砲台があり、大砲一門が据えられていたという。

        
         境内には明和九壬辰(1772)九月吉日、願主・山内□□?と刻まれた山内家の宝篋印塔が
        ある。

        
         菅原神社は平安期の正暦年間(990-995)に太宰府より分霊を勧請する。江戸中期に建て替
        えられた社殿は、戦災で焼失して再建立された際に、拝殿は亀山八幡宮より移設されたも
        ので、現在は亀山八幡宮の末社である。
         恵比須神社は岬之町の海岸線(素浦)に鎮座していたが、1857(安政4)年に菅原神社に
        相殿となる。2月9日の「ふくの日」には、豊漁や航海安全・商売繁盛を願って祈願祭が
        行なわれる。

        
         「港の見える丘の小径」を歩いて終点の寿公園前に出る。途中の左手には浄土宗の酉谷
        寺(ゆうこくじ)がある。。1576(天正4)年に建立されたが、引接寺から見て酉の方向にあ
        たることから、酉谷寺と称したともいわれている。

        
        金子みすゞ詩の小径② (寿公園内)
         右側の碑文には、明治36年(1903)長門市仙崎で生まれる。本名 金子テル。
         左側の「はちと神さま」という詩は、蜂から始まって蜂に戻っている。この世のすべて
        は無縁な存在でなく、1つとして無用なものは存在しないという。

        
         店舗の片隅にある道標。

        
         ろうきん下関支店は、1934(昭和9)年に旧不動貯蓄銀行下関支店として建築された。
        飾り気の少ない建物でオーダーも一番おとなしいトスカナ式である。

        
         下関市役所本館棟の片隅にある大国神社は、1802(享和2)年に出雲大社の分霊が勧請
        された。何回か遷座した後、2014(平成26)年に市役所新庁舎建設のため、又も移動さ
        せられたという。

        
        
         奈良期の741(天平13)年聖武天皇が国家の平安を祈り、全国に国分寺を建立する。長
        門国では下関の長府に設けられ、大内氏や長府毛利氏の庇護を受けていたが、維新後に寺
        勢が衰退する。
         1890(明治23)年旧地から廃寺となった大隆寺跡に移転したが、1945(昭和20)
        の戦災で堂宇などを焼失する。

        
        金子みすゞ詩の小径➂ (黒川写真館跡)
         1923(大正12)年5月3日に20歳の記念写真を撮ったのが、この地にあった黒川写
        真館(現在は村田写真館)といわれている。この頃からペンネーム「みすゞ」で詩を書いて、
        雑誌「童話」などに投稿を始める。
         詩碑には「山の子濱の子」があるが、町を見てきた山の子が見つけのは「小さなグミ」、
        町を見て浜の子が見つけたのは「鱗(うろこ)」とある。

        
         下関役所立体駐車場の西側に「赤間関在番役所」碑がある。「在番役所」とは長府藩が
        赤間関の行政を行うために設けた役所とのこと。
         赤間関は赤馬関とも書いたので、「馬関(ばかん)」と呼ばれることが多かったという。

        
        金子みすゞ詩の小径➃ (田中川弁財天橋)
         みすゞが商品館に通勤するために利用した橋とのこと。橋の欄干には「すなの王国」の
        詩がある。
         この大通りは、かつてのメインストリートで、明治後期には外国系の商社が軒を並べ、
        華やかな洋館が数多く建っていたという。

        
         下関市役所第一別館は、逓信省が全国主要都市に建設した電話局舎の1つで、現存する
        のは門司郵便局電報局庁舎の2棟だけである。1924(大正13)年に建築されたもので、
        フルーティングのある柱が並び、階段室塔屋のパラボラ・アーチ、三階には半円形の窓を
        配置している。
         1966(昭和41)年まで使用されたが、その後、下関市の手に移り、市庁舎別館として
        使用された。現在は田中絹代ぶんか館として利用されている。

        
         宮崎商館は、宮崎義一により石炭輸送業を営む商社として神戸で設立され、1893(明
        26)
年に下関支店を開設後、拠点を下関に移し大規模な石炭事業を営む。
         棟札から1907(明治40)年築とされ、旧英国領事舘と同様に、赤い煉瓦と白い石を使
        用し、正面の1階には、中央にアーチの玄関を設け、左右に縦長の窓を納めている。2階
        は5連アーチのベランダや軒の持ち送りの意匠が施されている。

        
        金子みすゞ詩の小径⑤ (商品館跡)
         下関に移り住むと、この場所にあった商品館内の上山文栄堂支店で働く。1926(大正
        15)年23歳の時に上山文栄堂の店員・宮本啓喜と結婚し、文栄堂の2階で新婚生活を始
        める。4月に文栄堂を出て関後地村に新居を移し、11月に長女が誕生する。詩碑には
        「キネマの街」が掲載されている。

        
         県道57号線(下関港線)の傍に貴布祢神社(五穀神社)がある。この付近を田中町といい、
        大古、平地は唐戸湾の入海だった所で、川の土砂が堆積して河原になり、やがて土地や田
        ができたとされる。

        
         林芙美子は、1903(明治36)年貴布祢神社入口にあったブリキ屋の2階で生まれたと
        いわれている。自叙伝でもある「放浪記」に下関が書かれている。
            どんなに苦しくっても
            田舎に居た時代が今では
            なつかしくてなりません。
            わたしの生まれたのは、
            山口県の下関です。  「思い出の記より」の一文 

        
         五穀の神(保食の神)が祀られ、1799(寛政11)年に神社が建立された。境内には福徳
        稲荷社が祀られている。

        
         教法寺(真宗)は、鎌倉期の元応年間(1319-1321)の創建と伝えられるが、記録がないため
        不明とされる。
         1863(文久3)年長州藩士で結成された撰鉾隊の屯所となったが、この寺に奇兵隊士が
        押しかけて騒動となり、この事件で高杉晋作は奇兵隊総督を免ぜられ、奇兵隊の本拠は秋
        穂へ移された。事件当時の本堂は、1945(昭和20)年の戦災で焼失する。

        
         本行寺(法華宗)は本能寺12世日承上人が、1552(天文21)年に九州種子島からの帰
        途、当地に立ち寄り随行した日圓上人が、日承上人の命で当地に留まり、約20年間布教
        活動の後、1571(元亀2)年に創建された。
         1718(享保3)年4月の大火で一切を焼失し、その後に中興されて今日に及んでいるが、      
        1945(昭和20)年の戦災で再び焼失したという。

        
         境内左側には、1864(元治元)年8月の四ヶ国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)で、戦
        死した11人の名を刻んだ戦士塚や、1866(慶応2)年の小倉戦争(幕長戦争)で、戦死し
        た奇兵隊士の墓がある。

        
        
         平安期の809(大同4)年創建の末広稲荷神社は、赤間関最古の稲荷神社で町名にもなっ
        ている。 

        
         稲荷神社麓の稲荷町は、平家伝説とかかわって古い起源をもつが、遊郭が整備されたの
        は近世に入ってからである。全国25ヶ所の公許遊女町の1つであった。
         菱屋平七の「筑紫紀行」には、稲荷町という遊女町はありて、遊女屋34軒ありと記す。      
        北前船が日本海の荒波を多くの日数をかけて赤間関に着くため、船員はここでしばらく休
        息するのが慣行となっており、遊里の発達を促すことになる。汽船が発達して北前船の往
        来が少なくなるとともに衰退し、遊里は豊前田、新地へと移った。

        
        
         この辺り一帯は戦災で焼失し、当時の面影は残されていないが、遊女たちが安徳帝の命
        日には綺羅(きら)をかざって御陵に参拝したのが先帝祭の始まりという。その参拝道中は稲
        荷町の大坂屋という奴楼から出発したという。
         大坂屋は東京第一ホテル(廃業)がある地にあり、戦災で焼失するまでは、3階建ての豪
        華な店構えが遺っていたという。

        
         大きなドーム屋根が載っている赤間本通商店街。

        
        金子みすゞ詩の小径⑥ (赤間町銀天街商店街)
         1927(昭和2)年の夏に下関駅で西條八十に会い、11月には夫が上新地で食料玩具店
        を始めるが、この頃に発病する。「日の光」と題する詩碑が建立されている。

        
         銀天街商店街はシャッター通りとなっている。

        
         1901(明治34)年に全国3番目(箱館、横浜)の英国領事館が下関に開かれ、その5年
        後に英国人技師によって建築された。
         1941(昭和16)年太平洋戦争が始まると領事館は閉鎖され、1954(昭和29)年に下
        関市が所有して、下関警察署唐戸派出所などに活用されたが、旧英国領事館として復活す
        る。(国重文) 

        
         延べ面積323㎡の本館は、イギリス積みされた赤い煉瓦と窓、戸口のまわりは石を配
        置するというビクトリア調ゴジックを基調としている。付属屋(68㎡)は厨房、使用人、
        石炭庫の部屋などとして使用された。
         正面切妻中央の石には「1906」の年号が刻まれている。

        
         三連のアーチと1・2階の軒および腰に、ハンドコース(帯状石飾り)をめぐらせている。

        
         1階は領事室、海事監督官室、書記官室などで構成されていた。(旧領事室)

        
         2階は居間、寝室、浴室だったが、現在は飲食店として利用されている。(2009年撮
        影) 

        ~唐 戸②へ続く。


下関市長府の櫛崎城跡から功山寺

2023年10月04日 | 山口県下関市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         長府(ちょうふ)は現下関市の南東部にあたり、北および西は丘陵に囲まれる。東は周防灘
        に面し、海岸に沿って平地が続き、西の丘陵から壇具川と印内川が東流する。域内を国道
        9号が町地と工場群を分けるように走っている。
         長府の町を1日で見て歩きはできないので、壇具川を境に南北に分けて歩くことにする。
        (歩行約6.5㎞、🚻各所にあり) 

        
         JR長府駅前からサンデンバス下関行き約15分、市美術館前(関門医療センター)バス
        停で下車する。

        
         バス停に降り立つと関門医療センター前には、1934(昭和9)年3月14日軍司令部総
        長伏見宮博恭が、海軍志願兵の徴募状況を視察するため、呉より荒天の中、水上偵察機で
        長府町外浦海面に着水して下関に赴かれた旨の塔が立つ。当時はこんな出来事でも碑が建
        つ時代でもあった。

        
         近代捕鯨発祥の地である下関市と長門市が共同制作した「らーじくん」を囲むように、
        関門橋・赤間神宮・海峡ゆめタワー・火の山・角島灯台・角島大橋がデザインされたマン
        ホール蓋。ちなみにらーじくんとは、「くじら」を逆さ読みしたものと思われる。

        
        
         バス停から東方向に櫛崎城跡の本丸跡が見える。

        
        
         櫛崎は長府の南端にあって、周防灘に向かって突き出した半島である。東・南の2面は
        断崖絶壁で、北・南は堅固に人工を加えて人を寄せ付けない要害の地である。
         豊府誌略には、昔日、大内氏の家臣・内藤隆春が在城するとあり。1602(慶長7)年に
        入部した毛利秀元は、長府櫛崎を城地として選定して修築するが、1615(元和元)年幕府
        の一国一城令により破却されて廃城となる。

        
         正面のくじら館は、1958(昭和33)年に建設された体長25m、重さ130トンのシ
        ロナガスクジラをモデルに作製された。この地にあった下関水族館(1956-2000)のシンボル
        的存在で、現在は閉館されてモニュメントとして活用されている。

        
         右手に関門橋。

        
        
         櫛崎城とも雄山(かつやま)城とも称したが、前述のように取り壊され、城だったことを示
        すものは自然石のままの石組み(高さ約8m、長さ110m)が残るのみである。

        
         城郭絵図によると松崎口、浜之坂口、三軒屋口に櫓建てがあったようだが、ここは松崎
        口とされる。

        
         豊功神社境内から東1.2㎞沖合に「千珠(かんじゅ)島」、さらにその3㎞沖合の周防灘に
        「満珠島」の2つの島が浮かぶ。この島は忌宮神社の飛地境内として禁足地であり、現在
        も立入りが制限されている。
         もとは国土地理院と忌宮神社の古絵図では島名が逆になっていたが、現在は整合されて
        いる。

        
         豊功(とよこと)神社の由緒によると、この宮崎の地には古くから串崎若宮(櫛崎八幡宮)が
        祀られていた。1602(慶長7)年毛利秀元が城を構えるにあたり、毛利氏の守護神宮崎八
        幡宮を安芸国より勧請して中殿に祀り、左に櫛崎八幡宮、右に高良大明神を祀って宮崎八
        幡宮と称した。のちに松崎八幡宮と改称する。
         1834(天保5)年毛利秀元の霊祠に豊功大明神の称号が許され、忌宮神社境内に豊功社
        (のち豊功神社)として創建される。1917(大正6)年現在地に鎮座する松崎八幡宮と豊功
        神社が合祀されて豊功神社となる。

        
         松崎口から県立豊浦高校と同校グランドの間を進む。長府藩は豊浦郡の大部分を長府藩
        領としたが、幕府の一国一城の命によって城は取り壊され、隣接する現豊浦高校の敷地に
        居館を構えた。
         1863(文久3)年攘夷の決行に対する報復攻撃に備え、居館を内陸の勝山に移す。

        
         田中隆は中国革命の父とされる孫文を支援したとされ、その邸宅(未完成)があるとのこ
        とで行って見ると、三菱重工の社地となり立入禁止になっていた。
         長府苑は海運業で巨額の富を築いた田中隆(1866-1935)が、イギリスの著名な建築家アレ
        クサンダー・ネルソン・ハンセル氏に設計を依頼し、大正時代に工事が開始された。
         しかし、大戦後の不況の中で破綻を迎え、建築中の西洋館は内装を残して中止となり放
        置された。

        
         孫文蓮の開花時期ではないが長府庭園内を散歩する。(入園料210円)

        
         長府毛利藩の家老格であった西運長(にしゆきなが)の屋敷跡で、小高い山を背にした約3
        1,000㎡の敷地には、池を中心に書院や東屋などがある。

        
         林兼商店(後の大洋漁業)の創始者である中部幾次郎が自邸として購入する。戦後は進駐
        軍(ニュージーランド軍)の司令官宿舎となるが、現在は下関市の所有となり一般開放され
        ている。 

        
        
         池泉回遊式庭園には椿、梅、つつじ、桜、菖蒲、紫陽花、水連、つわぶき、山茶花と四
        季折々に楽しめるように築造されている。
         ここには中国の革命家・孫文が、下関市長府の海運業・田中隆から支援を受けた返礼と
        して、中国の古代ハスの種4粒を贈ったとされる。田中の死後、大賀一郎博士の手によっ
        て発芽させたもので、「孫文蓮」と命名され、当庭園に株分けされて長府に戻ってきた。
         色を楽しむには端境期でよくなかったが、静かな庭園も味わいがある。

        
         日頼寺への道筋の土塀。

        
         長府藩家老・三吉周亮邸宅跡。説明によれば、幕末、20代半ばの若さで長州藩の内政
        ・外交に辣腕を振ったとされる。

        
        
         日頼寺の由緒によると、当初は天台宗で極楽寺と号したが、創建年代は不明とのこと。
        毛利秀元の時代に伽藍が整えられて臨済宗に改められ、毛利元就の法号「日頼洞春」から
        「日頼寺(にちらいじ)」に改称されたという。明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、その後、
        再興されて現在に至る。

        
         塚への参道より長府の町並み。

        
         山門を潜って右の石段を上がると、土盛りされた仲哀天皇の墓陵と伝えるものがある。
        4世紀頃の大和朝廷伝承の1つで、熊襲討伐の際に仲哀天皇が筑紫において急死したため、
        神功皇后がここに仮埋葬したとする塚(殯斂地(ひんれんち))である。

        
         下関の「し」にフグがデザインされたマンホール蓋。

        
         旧野々村家表門とされるやや簡略な形式の薬医門には、左右に毛利家の家紋入りの鬼瓦
        が見られる。幕末に毛利藩邸が移転する際に、この門を拝領し移築したと伝わる。

        
         1792(寛政4)年長府藩は藩校・敬業館を創設する。その後、四ヶ国連合艦隊の襲撃を
        避けて、ときの藩主が勝山に居館を移した際に敬業館も移転する。藩学跡には庶民の子弟
        を教育するために集童堂が移転してくる。入学資格は10歳から15歳までで、在籍者に
        は乃木無人(希典)や桂弥一らがいた。
         1866(慶応2)年敬業館は集童堂を吸収合併し、維新後は豊浦中学校、豊浦高校とへと
        変遷する。

        
         壇具川沿いにある侍屋敷長屋は、長府藩家老職であった西家の分家(馬廻役220石)の
        本門に付属していた長屋で、現在の位置より500mほど南にあったものが移築保存され
        た。
         中央に出入口を配した一見長屋風であるが、構造の重厚さがあり、中間(ちゅうげん)部屋
        の格子窓等は上級武士の住居の趣をよく残している。

        
                 山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く
                      春 夏 秋 冬
                 あしたもよろし ゆふべもよろし
         1932(昭和7)年種田山頭火が長府の近木圭之介邸を訪ね、しばらく宿泊した際に詠ま
        れた句とされる。

        
         壇具川は霊鷲山(りょうじゅせん)の東中腹を発し、長府地域に東流する総延長2㎞の川で
        ある。神功皇后が出陣の際、ここで壇を築いて祭事を行い、これに使った祭具を流したと
        いう古事にちなんで命名されたという。

        
         ちょっと気になる橋。

        
         壇具川に沿って上流へ向かうと、御影の井戸と案内されている。右折して20mほど行
        ったところに、瓦屋根に囲まれた井戸がある。
         菅原道真が太宰府に左遷される途中、忌宮神社の大宮司家に宿泊される。出発の前日に
        壇具川沿いを歩かれ、勧学院の井戸で自分の姿を映し「この井戸で二度と私の顔を見るこ
        とはあるまい」と‥。
         この井戸は人々の暮らしに寄り添い、歳月を重ねてきた井戸でもある。

        
         桂弥一(1849-1939)は長府藩士の子として長府侍町に生まれる。少年時代は乃木無人(希
        典)と共に集童場で机を並べて学び、同じ道を歩んでいたが病を得て断念する。
         牧畜の技術を学び、長府に帰り自営牧場を営みながら、維新の志士たちの顕彰事業に尽
        くす。(旧宅跡)

        
        
         曹洞宗の笑山寺(しょうざんじ)は、廃寺であった潮音寺を毛利秀元が移し、父の母である
        乃美大方(のみのおおかた)の菩提寺とする。1652(承応元)年秀元の父・元清の霊位を移し、
        法号にちなんで現寺名とする。

        
         境内に高さ3.38mもある十三重石塔と、瀧川辨三の彰功碑がある。幕末には報国隊
        の一員として北越戦争に参加したが、維新後は神戸でマッチ製造に取り組む。碑は荒廃し
        ていた寺を修復した縁で建てられたものである。

        
        
         境内の左奥に2代毛利光広、7代毛利師就の墓がある。上段の光広の五輪塔は、墓標の
        高さが4.13mもあって県内最大級ともいわれている。

        
         功山寺は禅宗寺院の古刹で、鎌倉期の1327(嘉暦2)年大内氏によって創建され、当時
        は臨済宗で長福寺といった。室町期の1557(弘治3)年大内義長自刃の場となってから戦
        乱で荒廃したが、1602(慶長7)年長府藩初代藩主毛利秀元が修復して曹洞宗に改宗する。
        秀元死去後に法号から功山寺と改称し、長府毛利氏の菩提所とした。(石碑は回天義之碑)

        
         功山寺の惣門をくぐると左に地蔵堂、坂を登ると三重門の山門があり、前方に仏殿があ
        る。右に法堂と鐘楼、仏殿の裏には長府藩主の墓所がある境内となっている。惣門は木造
        瓦葺き、間口4.4mであるが仏殿の次に古いとされる。(国登録有形文化財)

        
         1773(安永2)年10代毛利匡芳(まさよし)が山門を再建する。

        
         寺伝によると、仏殿は鎌倉期の1327(嘉暦2)年の創建とされるが、内陣柱上部に「此
        堂元応2年(1320)卯月5月柱立」の墨書きがあるとのこと。
         二重屋根の化粧垂木は放射状に配置されていて扇棰と称し、入母屋造の屋根は曲線を描
        き、唐様建築の特徴をみせる。(国宝)

        
         1864(元治元)年11月17日から2ヶ月間、三条実美ら五郷が功山寺に潜居する。同
        年12月15日の夜半、高杉晋作は五卿に告別の挨拶をして藩論統一のため挙兵する。境
        内には王政復古実現のきっかけを作った高杉晋作の銅像が建立されている。

        
         心字池を中心とする池泉式庭園がある。

        
         功山寺にも初代秀元をはじめ歴代6藩主に加え、藩主の正室、側室・子女といった長府
        藩主毛利家墓所がある。
         墓域は土塀に囲まれており、門は不開だが隙間から内部を伺うことができる。墓所の中
        央に毛利秀元、周辺が歴代藩主のようである。

        
         仏殿裏に三吉慎蔵(1831-1901)の墓がある。坂本龍馬が寺田屋で襲われた時、彼を助けよ
        うと自ら重傷を負った。維新後は宮内省御用掛を務め、晩年は故郷の長府で暮らす。

        
         墓所の上部に大内義長(1532-1557の死後、陶晴賢によって大友宗麟の弟である晴英(後に
        義長と改める)が大内家の当主となる。
         しかし、室町期の1557(弘治3)年4月毛利氏に攻め込まれて長福寺(現功山寺)で自害
        する。義長の死により名門大内氏は滅亡する。

        
        
         境内隣りの長門尊攘堂は、1933(昭和8)年地元篤志家の桂弥一が品川弥二郎の遺志を
        受け継ぎ、維新時に活躍した勤王の士を顕彰し、尊王精神の高揚を図る目的で京都の尊譲
        堂にならって創設した。
         鉄筋コンクリート造石貼り外壁、和風屋根は2重瓦葺きで外観全体の構成は功山寺仏殿
                と似ている。2016(平成28)年11月まで長府博物館の建物として利用されてきた。

        
        
         隣接する万骨塔は、明治維新を中心とした国事に命を捧げた名も無き人々の霊を供養す
        るため桂弥一が建立する。
         塚には「一将功成って万骨枯る」の碑と、全国の明治維新関係史跡から寄せられた石が
        供えられている。 

        
         壇具川の鴨と一緒に河口へ下って、城下町長府バス停よりJR長府駅に戻る。


下関市長府の旧山陽道と長府毛利邸

2023年10月01日 | 山口県下関市

                        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         長府(ちょうふ)は現下関市の南東部にあたり、北および西は丘陵に囲まれる。東は周防灘
        に面し、海岸に沿って平地が続き、西の丘陵から壇具川、印内川が東流する。域内を国道
        9号線が町地と工場群を分けるように走っている。
         地名の由来は、長府には長門国の国府が置かれ、鎌倉時代には長門守護が居館を構え、
        「長門府中」という呼称が登場する。この長門国府あるいは長門府中に因んだものとされ
        る。(歩行約6.6㎞)

        
         JR長府駅は長府の中心部より2㎞以上離れて、1901(明治34)年5月山陽鉄道が厚
        狭ー馬関(下関)間の開通と同時に開業する。ここからまっすぐに下関に出ることを避けた
        のは、当時、関門海峡は要塞地帯であったため、軍部の意向によるものとされる。201
        2(平成24)年橋上駅舎に生まれ変わった。

        
         下関竹崎町にあった荷受問屋(小倉屋)の白石正一郎は、新時代を築き上げた人材を陰で
        支えた人物で有名だが、援助を続けた結果、自身は破産して建物等は売却する羽目になる。
        小倉屋の海側にあった門(浜門)がこの地に移築されている。
         JR長府駅前の旧山陽道を南下し、新川に架かる橋先を左折して2つ目の路地を入ると
        左手にある。

        
         JR長府駅前から旧山陽道筋を南下するが、すぐそばを山陽本線が並走する。山手の小
        山は佐加利山城跡とされているが、後方にある四王司山城の出城としての役割をし、長府
        の入口に構えられた。
         大内家では度々跡目問題で内訌戦が繰り返されたが、ここでは大内弘茂と大内盛見との
        戦いが行われた。

        
         八幡宮の御旅所には神輿台と安永三甲午(1774)六月建立の鳥居がある。(町名は八幡(やは
          た)
町)。

        
         土塀が見られるようなる。

        
         旧山陽道を南下すると右手に駐車場があり、その奥の道筋に狩野芳崖宅址がある。近代
        日本画の創始者狩野芳崖(1828-1888)は、父が長府藩の御用絵師であり、芳崖も幼い頃から
        画道に励む。時代は激動の中にあって、幕末には長府に帰って武具などを作ったが、維新
        後も彼の新しい絵は世間に認められず日々の生計にも事欠き、50歳のとき再び上京する
        も不遇の日が続く。
         しかし、日本文化のよき理解者アーネスト・フェノロサや岡倉天心にめぐり会ったこと
        から進路が開けた。時の首相伊藤博文を説いて美術学校(現東京美大)創立に努めるが、開
        校1ヶ月前に名作「悲母観音」を残して61歳の生涯を閉じた。

        
         田上菊舎(1753-1826)は、加賀の千代女と並び称される江戸期の代表的女流俳人である。
        豊浦郡田耕(たすき)村の長府藩士の娘として生まれ、同じ村の村田家に嫁いだが24歳にし
        て夫を失う。
         のち、田上家に復籍して28歳で尼となって俳道修業の旅に出発する。以来、句作風雅
        の旅を過ごすが、文人殿様の長府藩主・毛利元義からその才知を愛されて、恵まれた晩年
        を送り、この地で生涯を閉じた。

        
         旧山陽道は関門トンネルへ向かう国道2号線と合わすが、その右手にある妙真寺(日蓮宗)
        は「烈婦鏡山お初誕生之地」とされる。女忠臣蔵として有名な歌舞伎「加賀見山旧錦絵(か
          がみやまこきょうのにしえ)
の主人公「お初」のモデルが、長府で生まれた松田さつといわれて
        いる。

        
               印内川に架かる鞏昌橋(きょうしょうばし)は、上方から長府府中に入る重要な橋であった。
        橋を渡ると右側に寺の山門が続く。(長府金屋町界隈) 

        
           旧山陽道に面する浄土宗の大乗寺山門は、建築時期は不明だそうだが、装飾の特徴から
        江戸期後半に建てられたとされる。切妻造本瓦葺きの四脚門で、棟門形式の脇門を付けて
        いる。(国登録有形文化財)

        
         開基は長府藩初代藩主毛利秀元、開山は摂津国の一得恵林で、室町期の1558(永禄元)
        年当国へ下向の際に建立して恵称寺と称した。
         1617(元和3)年秀元の舎弟宮吉丸が早世し、当寺に位牌を安置し、法名にちなんで浄
        厳寺と改称する。1872(明治5)年に大乗寺と改められたが、毛利家の位牌は覚苑寺と功
        山寺に集められ、毛利家との縁が無くなってしまう。

        
         境内北側に位置する鐘楼は、1858(安政5)年に建てられたもので、木造2階建て入母
        屋造本瓦葺きの袴腰付きとなっている。(国登録有形文化財)
         寺裏手の墓地には、1866(慶応2)年6月17日第二次幕長戦争小倉口の戦いの初日を
        勝利で飾り、下関に帰陣する船が前田沖に流されて庚申艦に衝突して沈没する。奇兵隊二
        番砲隊の両名(中村・橋本)の海難事故を悼み、その名誉を守るために墓が建立された。 

        
         1571(元亀2)年織田信長の家臣だった了恵(内藤正吉)が徳応寺(真宗)を開基する。1
        775(安政4)年に本堂、1845(弘化2)年に山門が再建されて今に至っている。

        
         境内墓地には一字庵(田上)菊舎の墓がある。1826(文政9)年8月23日に74歳の生
        涯を終え、真宗帰依の尼僧であったので徳応寺に葬られた。
         本堂前には、1819(文政5)年長府に落ち着いた時期に建てた句碑がある。旅中に父母
        から届いた手紙を句碑下に収めたので文塚と呼ばれている。
               「雲となる花の父母なり春の雨」と刻まれている。

        
         法華寺の先にある正円寺(真宗)には、本堂を覆い隠すような銀杏の巨木があり、幹から
        は乳といわれるものが垂れ下がっている。

        
         本覚寺(浄土宗)の開創年は不明だが、かって土肥山の麓にあって称念寺と称していた。
        その後、度々無住となり縁起などが無くなり、現在地に移された年次も不詳の寺である。

        
         山門の木鼻は類例をみない馬頭が施してある。山門には龍の彫刻が多いが、ともに天界
        に結びつく動物であることから、天馬を想像して馬頭とされたようだ。

        
                本堂の左手前に、「菊舎」と「鏡山お初こと松田さつ(察)」の墓が並んでいる。二人の
        実家が菩提寺だったということから、ここに墓が建てられた。(左側に菊舎の墓)
         松田さつは1701(元禄14)年~没年不明。長府藩士松田助八郎の娘として生まれたが、
        その後、故あって浜田藩松平家の江戸屋敷の側女岡本道の召使いとして奉公した。たまた
        ま道が同家の局・沢野の履物を間違えたことから争いが生じて道は自害した。
         さつは沢野を刺して主人の仇討ちを果たし、自分も死のうとしたが藩主松平康豊は松尾と
        改名させて助けた。その後、さつは出家し妙真尼と称し、二人の菩提を弔ったという。

        
         立善寺(真宗)を過ごし、次の角の通りには乃木神社参道への大きな石鳥居が立っている。
        このためか商店街は「乃木さん通り」と銘打ってある。
         その先右手に忌宮神社の石段と大鳥居があるが、石段から鳥居の延長線上に神社の飛地
        境内である「満珠島・千珠島」がある。

        
         この先の角で旧山陽道を離れて忌宮神社の正面参道へ向かう。神社は長府府中の中心に
        位置する古社で、地元では「二の宮さん」と呼ばれ親しまれている。

        
         仲哀天皇7(367?)年に新羅の塵輪が攻めてきたが、天皇自ら弓矢を取って射止め、その
        首を庭に埋め、戦勝を祝ってその周りを矛や刀を振りかざして踊ったのが「数方庭」の起
        源とされる。
         塵輪の首を落とし、地に埋めて石を置いたが、塵輪の顔が鬼のようであったため、その
        石を石鬼と呼ぶという。

        
         長門二の宮で仲哀天皇・神功皇后が西国平定の折に、豊浦宮を建てて7年間滞在された
        地といわれている。社殿は対面の仲哀天皇仮埋葬地に向かって建てられているという。
         1876(明治9)年1月5日夜、火災により社殿が焼失するが、翌年に現在の社殿が造営
        された。

        
         1906(明治39)年の神社合祀令により、長府においても合祀が進められて八坂神社に
        まとめられる。この本殿と拝殿は野久留米にあった塩竈神社が移築され、八坂、春日、日
        吉など13社が域内から姿を消したことになる。

        
         1862(文久2)年長州藩士福田扇馬が、南之浜の自宅に開いた私塾・桜柳亭を母体とし
        て、1864(元治元)年古江小路に創設されて集童場と命名される。この建物は古江小路に
        あった集童場の場長室が移築保存されたものである。

        
         乃木神社は忌宮神社の北西に隣接して鎮座する。1919(大正8)年社殿を造営して乃木
        希典・静子夫妻を祭神とする。

        
         乃木希典(1849-1912)は江戸の長府藩邸で出生し、10歳の時に長府へ戻り、15歳で集
        童場に入り、のちに萩藩校・明倫館に入学する。
         1866(慶応2)年の幕長戦争では小倉口で戦い、のちに日清・日露両戦争で活躍、19
        07(明治40)年には学習院院長に就任する。1912(大正元)年夫人とともに明治天皇崩御
        を受けて自刃する。この乃木旧邸は、1914(大正3)年ゆかりの地に忠実に復元されたも
        のである。 

        
        
         忌宮神社の西側から乃木神社横を東西に抜ける横枕小路の塀は美しい。地名の由来は定
        かではないようだが、「横、真っ暗」だったからともいわれている。(上は東の出入り口、
        下は西の出入り口)

        
         横枕小路から覚苑寺へ向かう途中に2階建ての蔵。

        
         下関の「し」の中にフグがデザインされたマンホール蓋。

        
         吉岡家がある地には、御馬廻役100石の大久保家があったとされる。間口3間(5.4
        5m)、奥行6間(10.91m)の建物は長屋として用いられていた。建築年代は不詳であ
        るが江戸後期の特徴を残している。

        
         奈良期の741(天平13)年聖武天皇は諸国に国分寺・国分尼寺を建立させた。
         しかし、756(天平勝宝8)年までにすべてが完成しておらず、発願者である聖武天皇の
        忌日までに建立するように督励され、およそ3年後にすべてが完成したといわれる。長門
        国分寺もこの頃に建立されたが、他国の国分寺よりも小規模であった。
         1890(明治23)年下関市南部町に寺が移建されて、寺院跡は民有地として払い下げら
        れた。現在は道路の片隅に礎石が一基残されている。(吉岡家長屋の斜め向かい)

        
         覚苑寺(かくおんじ)は、1698(元禄11)年長府藩3代藩主・毛利綱元が創建した黄檗宗
        の寺である。 

        
         覚苑寺境内と隣接地に古代貨幣である和同開珎の鋳銭所があった。「続日本記」天平2
        年(730)3月13日条に長門鋳銭と記されているが、これより以前に設置されていたと思わ
        れる。その後、長門鋳銭所は周防国(現在の山口市鋳銭司)に移されて廃止となった。 

        
         長府毛利家の菩提寺の1つで、幕末の攘夷戦では勝山御殿築城までの間、藩主元周(もと
          かね)
の本拠にもなった。
         明治に入ると寺禄を失い、廃仏毀釈の影響もあって諸堂は取り壊された。1873(明治
                   6)
年頃に解体された勝山御殿の玄関部分が当山の庫裏として、また、1875(明治8)年に
                は三田尻(現防府市)の廃寺となっていた黄檗宗寺院・醍醐寺の本堂が解体され、当山の本
        堂として双方が移築された。

        
         裏手の墓地には、長府藩主六代匡広、三代綱元と十三代元周および元周正室(智鏡院)の
        墓がある。

        
         松嘯館(しょうしょうかん)は旧松岡家の別称で、敷地内に大きな松があって松風の音が響い
        たことに由来する。松岡家は長府藩の藩医で、7代目はシーボルトと交流があり、各地か
        ら教えを受けるために集まったといわれている。(旧松岡家長屋門) 

        
         松岡家の隣が長府藩の馬廻役だった梶山家の表門。整備前には部材の大半が欠失してい
        たが解体修理された。

        
         長府の町並みにあってある種の異様な建物は、1913(大正2)年築の旧長府町立図書館
        書庫(現在は文書館)である。鉱滓煉瓦と上下窓が用いられている。

        
         道路の角にある樹木の下に池があり、傍の石碑には「豊浦池舊跡」とある。詳細は知り
        得なかったが石碑があるので謂れのある池と思われる。 

        
         城下町の面影を残す古江小路。

        
         菅家は長府毛利藩主の毛利秀元に招かれ、侍医兼侍講師を務めた家である。伏せ瓦の下
        に施された格子窓は、武家屋敷とは違った趣を見せる。

        
         長府毛利邸側から見る切通しの小路。

        
         毛利邸の高い石垣には2ヶ所ほどアーチ型の痕跡が残されている。先の大戦中に地下防
        空壕が設置されたが、戦後に埋め戻されたという。

        
         功山寺の北東に位置し、毛利邸入口左側に総社宮として小さな祠があったが、1972
        (昭和47)年忌宮神社に合祀される。
         かって任地に赴いた国司は、管内の官社を巡拝することとされていたが、官社を国府の
        1ヶ所に勧請して国司の参拝の便を図ったものが総社宮である。

        
         1871(明治4)年の廃藩置県後、明治政府は旧藩主に東京居住を命じた。西南の役後に
        世の中が平静を取り戻すと、ほどなく旧藩主は国元居住が許可された。
         1903(明治36)年長府毛利藩最後の藩主であった毛利元敏が、東京から長府へ帰住し
        て建てた邸宅である。 

        
         表門から入ると武家屋敷造りの主屋は一段高い位置にある。

        
         川端玉章(1842-1913)の「丹頂鶴と青竹図」(裏は白い鷹と松図)の襖絵がある。京都生ま
        れ、11歳で丸山派の中島来章に学び、小田海僊(防府市富海出身)に師事し、丸山派の伝
        統である花鳥山水を得意とした。 

        
        
         付け書院のある間。

        
         1902(明治35)年11月完成間近の邸に、熊本で行われた陸軍特別大演習を視察する
        際、明治天皇の行在所(あんざいしょとは仮の御所)として利用されたという。

        
                 棟を分けて右側が公的な空間、左が私的な空間であったようだ。

        
         中庭の枯山水には、苑路に飛石が設けてある。 

        
         古美術・達磨堂の側面にあるホーロー看板。

        
         長府毛利邸から旧山陽道の右側付近を長府総社町と呼び、長門国の神を祀る総社が建て
        られていたことに因む町名である。今も総社町の中央部分に総社宮と守宮司神社が祀られ
        ている。

        
         ひっそりとした街道筋は車が通るが人影を見ることはない。

        
         説明によると、1866(慶応2)年1月23日伏見の寺田屋で坂本龍馬とともに遭難して
        以来、熱い友情で結ばれた三吉慎蔵の屋敷跡と紹介されている。
         1867(慶応3)年坂本龍馬が長崎から土佐に向かう途中、下関に立ち寄り廻船問屋・伊
        藤家に妻のお龍を預けた。この際、龍馬は慎蔵に書簡を送り、お龍の後事を託し、慎蔵は
        長府の自宅に引き取って3ヶ月後に高知の坂本家へ送り届けている。

         この後、国道に出て城下町長府バス停よりJR長府駅に戻る。


下関市の蓋井島は本州最西端の島 

2022年09月30日 | 山口県下関市

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         蓋井島(ふたおいじま)は響灘に浮かぶ本州の最西端の島で、吉見漁港から約10㎞の海上
        にあって2.44㎢の小島である。
         地名の由来について、「みずしまの池」という清水をたたえる池があり、往古、住吉神
        社(現八幡宮)の神事には、この池から御神水を汲み、汲み終った後は固く蓋がされたこと
        から蓋井島という名が付いたという。地名辞書には「島勢中分し、遠望すれば二島に似た
        り、蓋井はニ処の義と云う」ともいう。(約6㎞、🚻渡船待合所のみ)

        
         JR吉見駅から徒歩約6分と案内されているが、土地勘がないため地図を頼りに約10
                分かけて渡船場に到着する。(渡船場に有料駐車場あり)

               
         吉見港を出港すると正面に竜王山。

        
         吉見本町を訪れた時は、この賀茂島が3つの島に見えたが、船上から見る島は1つに繋
        がっている。この付近でイルカやスナメリが見られるとのことだが、潮流と餌が関係する
        こともあってか拝見できず。

           
         正面に乞月山、左手に城山、最高峰の大山などが見えてくる。

        
         平地が少ないため階段状に民家が並ぶが、三方を山に囲まれた中に立地する。

        
         約40分の船旅を楽しむと蓋井島漁港に入港する。乗船の多くは釣り人や工事関係者な
        どで、下船数分後には姿が見えなくなる。(背後に灯台と城山) 

        
         1933(昭和8)年に防波堤を築造した旨の記念碑が建つ。山口知事の菊山嘉男は農山漁
        村経済更生計画を推進した知事であった。

        
         天日干しの「ひじき」は漁村センター脇の加工場で煮沸して、ここで乾燥させて袋詰め
        されるとのこと。天候が続くこの時期がベストで、夏場はハエが商品に卵を産むので不適
        とのこと。

        
         港から乞月山への道を進むと、ナンバープレートがない車を多く見かける。

        
         島周辺の環境悪化を防止する観点から、2002(平成14)年に下関市漁業集落排水事業
        として整備された。下関市の「し」にフグがデザインされたマンホール蓋。

        
         すぐ左手に八幡宮への参道。その手前は蓋井小学校職員住宅への道である。

        
         参道石段から見る湾内。

        
         蓋井八幡宮は、元々住吉大神のしずまり給う岩戸があるという謂れから氏神として拝し
        ていたが、室町期の1395(応永2)年に八幡宮を勧請したと伝える。

        
        
         第一次世界大戦後は航空機の発達が著しく、下関要塞地帯の防空体制の確立が急務とな
        り、1934(昭和9)年島の海岸2ヶ所に練石積埠頭と取付道路の工事が開始された。この
        工事は近郊村の出役で約1ヶ月の短期間に構築され、下関重砲連隊の第一大隊の本部と2
        つの中隊(1中隊でおよそ200人)が配備される。
         現在も正面に見える乞月山と反対側の大山には砲台や弾丸庫、兵舎跡などが残存するが、
        乞月山への道は廃道化して足を踏み入れる状況ではないようだ。(旧陸軍蓋井島砲台西繋船
        場と乞月山) 

        
         山の神の一ノ山・三ノ山へは左の道を進む。

        
         古来、この「山」と呼ばれる森は神聖な場所として、立ち入ることも枯れ枝を拾うこと、
        枝を切ることも禁じられ、7年毎に島を挙げての神事が行われる時のみ山に入ることが許
        されているという。(三ノ山入口は木などで封鎖)

        
         説明によると「山ノ神」は、島内各家の祖先が、それぞれ四つの「山ノ神」の森に帰属
        するという祖霊祭祀とも関連付けられていることが特色とされる。
         一ノ山(爺さんの森・神木はスダジイ)、二ノ山(婆さんの森・神木はヤブツバキ)、三ノ
        山(爺・婆の娘の森・神木はスダジイ)、四ノ山(娘婿の森)で、この御神木は特に大きくな
        く、この樹の周りを2~3mの長さの枯れ木を組んで作った神籬(ひもろぎ)に、当元(山ノ神
        の祭に関わる最も古い家系と考えられる4つの家)の祭壇から持参した御幣を入れ、縄で巻
        きつけてあるようだが、島にとって神聖な場所とされるので森に入らず。

        
         二ノ山には鳥居が設置されている。神事は2018(平成30)年11月に行われたので、
        次は2025年に行われることになる。

        
         乞月山の軍事遺構は残念して集落に戻る。

        
         32世帯84人が暮らす島には商店や民宿がある。

        
         海岸道路から集落内に入る。

        
         蓋井島漁港は利用範囲が地元を主とする第一種漁港である。 

        
         屋敷地のみと思っていたが畑地もある。

        
         島特有ではあるが、ここもネコが多い。

        
         地図がないと歩けそうもない迷路が続く。

        
         一段上がれば一段下の屋根。集落は四組に分けられいるが、強い連帯感で結ばれた集落
        のようだ。

        
         正覚寺(浄土宗)は室町期の1443(嘉吉3)年、恵全法師が開山した真言宗であったが、
        1598(慶長3)年に下関の引接寺(いんじょうじ)の和尚が来島して浄土宗に改めたという。

        
        
         車道に出ると対面に灯台への石段があるが、地元の方が言うように荒れ放題の道だが、
        近道のため難を押して上がる。 

           
         蓋井島灯台は、1912(明治45)年に石油蒸発白熱灯を光源として業務が開始されたが、
        1951(昭和26)年日本で初めての風力発電装置が導入され、発電には直径9mの風車が
        使用されたとのこと。1967(昭和42)年吉母~島内に海底ケーブルが敷設されて送電が開
        始され、灯台も電力による点灯となる。

        
         蓋井島の湾内と乞月山、遠くに下関の山並みが連なる。

        
         少し進むと金毘羅社の鳥居と金毘羅山(城山)の山頂が見えてくる。

        
         鳥居から三叉路までは下り坂の舗装路であるが、展望は期待できない。(三叉路は右手に
        進む) 

        
         次の三叉路を右折すると左手に畑地が広がる。

        
        
         小学校への道を下って行くと、小屋にエミューのイラストが描かれている。二足歩行の
        飛べない鳥に属するエミューは、オーストラリア原産のダチョウに次ぐ大きな鳥で、島お
        こしの一環として飼育が始められたという。 

        
         1883(明治16)年に開校した蓋井小学校は、のちに尋常小学校などを経て今日に至る
        
が、終戦の年には機雷が爆発して校舎が大破するという戦禍を受けた。中学校は1947
          (昭和22)年豊西中学校蓋井分校として開校するが、1968(昭和43)年廃校となる。
         しかし、2023年4月から小学校の児童が進学するのに合わせ、小中一貫校にするた
        め小学校の一部を改修中である。

           
         海が見える地に龍神が祀られている。 

        
         路地筋の屋根にネットが張られている家を見かけるが、風で瓦が飛ばされないようにさ
        れているのだろう。

        
         15時50分が最終便のためか工事関係者、釣り人、行政関係者など大勢が乗り込む。
        湾外に出ると白波が立つ中を少し揺られながらの船旅であった。

        
         夕日に映える風景が美しいとされる賀茂島だが、夕日には少し早い時間帯であったが、
        その雰囲気を十分に味わう。港から大急ぎでJR吉見駅に戻り、16時59分の下関行き
        に乗車して島旅を終える。


下関市豊田町手洗・中村は豊田平野の中央に位置する農村集落

2022年08月19日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、中村、手洗村、阿座上村、東長野村など11ヶ
        村が合併して豊田下村が発足する。昭和の大合併で豊田町(ちょう)となり、現在は下関市豊
        田町(まち)で旧村は大字とされている。
         手洗(たらい)は木屋川の右岸地域に立地し、豊田盆地の南端をなす。地名の由来は、往古、
        岡田某が井戸を掘り、手を洗ったところ井戸から牛鬼が現われて岡田某を井戸に引き込ん
        だことから、手洗と称するようになった。以後、当地では井戸を掘ることができなくなっ
        たというが、他説もあるという。(歩行約2㎞)

        
         手洗と西長野の境がわからなかったが、三界萬霊塔があるので境と思われる。手洗は豊
        田下村の中心地で、かっては村役場(町営住宅付近)が置かれた地である。右の碑は「田中
        上等兵‥」と読めたが、後は読み取ることができず。

        
         赤間関街道北道筋で一里塚があったとされるが、遺構等は残されていない。(名郷商店付
        近)

        
         三差路の角に永浜商店だった主屋が残るが、多くの民家は更新されている。

        
        
         薬善寺(日蓮宗)は歴史的には深くないが、当地域に日蓮宗の信者が多く、江良の民家裏
        には往古に日蓮宗の寺があったという。こうした関係から信者が創建した寺である。

        
         県道下関長門線に合流する。 

        
         川の瀬音が橋の名前になったというが、江戸期には広い板橋で、米俵を馬の背で運搬し
        ていたが、1854(安政元)年木屋川通船工事が完成すると、東長野沿いの船津から米俵を
        運ぶようになる。
         明治に道路が改良されると再び陸路輸送となり、橋は土橋へ架け替えられる。大正、昭
        和期にも架け替えが行われ、現在の橋は、1992(平成4)年木屋川河川改修による川幅拡
        張により架け替えられた。

        
         東長野の旧若宮八幡宮の階段から手洗の家並みが見えそうなので上がってみることにす
        る。

        
         西長野と手洗の家並みと背後に華山。

        
         若宮八幡宮の創建年代は不詳とのことだが、1770(明和7)年東八幡宮火災後、長府領
        の若宮八幡宮として近辺集落の氏神となる。
         1911(明治44)年神社統合により豊田神社に合祀されたが、豊田神社の御旅所、戦没
        者顕彰碑などがある。

        
         石町公会堂から豊田下小学校に移動すると、宝珠のような形をしたハスの花が見られる。

        
         清徳寺(真宗)の開基は、毛利家の家臣であった粟屋義久が、この地にあった大雲寺とい
        う真言宗の古跡近くの民家に滞留していた。ある時に霊夢を請けて西本願寺で出家し、再
        びこの地に帰り、室町期の1523(大永3)年手洗に一宇を建立する。のち、洪水の難を避
        けるため大雲寺跡に移転して今日に至るという。

        
         旧長門鉄道筋に願成寺(浄土宗)があるが、往古は神上寺の末庵で下八道の願成寺原にあ
        った。1627(寛永4)年現在地に移して菊川町吉賀の快友寺末寺として再建される。19
        68(昭和43)年石町の栄願寺を合併して今日に至る。

        
         長門鉄道は山陰と山陽を結ぶ連絡鉄道として、また、森林資源開発を目的に、1918
        (大正7)年10月に開業する。ここ阿座上停留所は乗客運送のみであった。
         鉄道経営は芳しくなく、多角化を目指してバス事業を兼営すると鉄道の乗客を吸収し、
        貨物部門はトラック業界にとって代わられ、1956(昭和31)年3月に営業廃止される。 

        
         阿座上停留所があった付近の集落。

        
         中村の東部、県道下関長門線脇に「大化の改新の条里遺構」と記された碑がある。その
        以東一帯に条里区画遺構が見られるとのこと。

        
         中村西公会堂の地に若宮八幡宮があったという。鎌倉期の1187(文治3)年に本郷の総
        氏神として東八幡宮が創建されると、その前方にあった若宮八幡宮はその摂社となる。中
        村住民の要望により、1698(元禄11)年この地に遷座させて中村の氏神としたが、明治
        の神社整理により江良の菅原神社に移されて豊田神社となった。

        
         1849(嘉永3)年は2度にわたり、大雨・大風雨があり、中村はその被害が大きかった
        ため、豪農松井官蔵は庄屋と共に救済策をたてて藩に願い出た。藩庁から10年以上にわ
        たり、50石の減租を得た。中村西公会堂の旧県道傍に、1885(明治18)年その功績を
        称え「松井官蔵記念碑」が建立される。

        
         大福寺(真宗)は天正年中(1573-1592)、大内義隆の家臣稗田主計頭(かずえのかみ)政重が出
        家して、東市に大福寺を開山する。明暦年中(1655-1657)に本堂を焼失するが、その後、再
        建されて今日に至る。稗田雪崖は中村に私塾「豊華義塾」を開き、自ら塾長兼教授となっ
        て子弟を教導したとされる。

        
         月招橋(げっしょうばし)は藩政期には板橋で、馬の背に米俵を積んで運搬したが、冬期は雪
        などで滑るため、板を増やしてその両側に竹縁を設けたという。

        
         この地は殿敷と思っていたので、石造宝塔を探し当てるのに苦労する。宝塔は田圃の中
        にあってホタルの里ミュージアムの東側に位置し、畦道のため車では行くことができない。
        (背後の山は華山)

               
         この地には若宮八幡宮があり、神苑の南側だった地に鎌倉末期頃の塔が現存する。

        
         木屋川の左岸、広瀬橋上流に「西ノ市旧跡」の碑がある。説明によると、室町前期頃に
        西ノ市が始まった所で、この周辺は雨期には度々河川が氾濫し、遂に全戸が意を決し、1
        626(寛永3)年の春、西市という地名と市恵比須とともに右岸の今市に移転し、以来この
        地を「古市」と呼ぶようになったという。


下関市豊田町の江良は華山の麓に神上寺と農村集落 

2022年08月19日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、江良村、西長野村、城戸村など11ヶ村が合併
        して豊田下村が発足する。昭和の大合併で豊田町(ちょう)となり、現在は下関市豊田町(ま
          ち)
で旧村は大字とされている。
         江良は華山の東麓にあって、木屋川右岸の支流である本浴川と江良川流域に分かれた山
        間丘地に立地する。

        
        
          神上寺(じんじょうじ)の駐車場傍に「近松門左衛門の生誕の地」碑がある。説明による
         と、江戸期の初め、身重になった女性が神上寺に救いを求めてきた。寺は女人禁制で囲
         うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いに小
         屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。
          その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は神上寺山門前で生ま
         れた男の子であるということで、この地を近松屋敷というようになったという伝説があ
         ると記す。出生地について諸説あったようだが、現在は越前国(現在の福井県)とする説
         が有力である。

         
          寺入口の山門は大門といい、鎌倉期の1322(元亨2)年後醍醐天皇の勅願により、勅願
         寺とされた時の山門である。門の左右に慶派作の阿形吽形(あぎょううんぎょう)の金剛力士像
         がある。 

         
          山門を右に曲がると、1804(文化元)年に架けられた無明橋がある。橋の裏には弘法大
         師の「即身成佛」の詩が刻まれているとか。この橋を渡ると聖地で如来に迎えられるとい
         う。

         
          鳥居に続く渓流の左側に、1727(享保12)年12月、江戸浅草の廻船問屋高田屋重兵
         次が寄進した六地蔵(2つは欠落)と中央には阿弥陀如来坐像が並ぶ。

         
          三所熊野権現の鳥居が現存するが、明治政府の神社統合により熊野の本宮(家津御子神)
         は豊田神社境内に熊野神社として鎮座するが、新宮(速玉男神)、那智(牟須美神)は所在不
         明とされる。鳥居も長い歳月が経過し、笠木と島木の一部が崩落している。 

         
          苔生した参道は趣もあるが、時に足の置場に苦労する。

         
          法性の滝入口(滝への道は廃道)に、芭蕉句碑「父母の しきりに恋し 雉子のこえ 翁」
         と、傍に「正風俳諧塚 天明丁末之(1787)春造立之長陽西市連中」の石柱がある。

         
          参道右の下之坊跡には雪舟作とされる庭園がある。

         
          中之坊御成門は朝廷よりの使者、長府藩主を迎える門であった。中之坊にも雪舟庭園が
         あるとされるが、門が閉ざされて拝見することができず。

         
          神上寺は参道の右に下之坊、遍智院と中之坊(別当職)があり、左に谷之坊、宝篋印塔の
         ある地が萬徳院、辻之坊の6坊があったという。

         
          神上寺から下ると、左手に「引地君の墓 400m」と案内されて車も手前まで行ける
         ようだが、倒木や竹が道を塞いでいる。

         
          次の案内板までは支障ないが、墓は丘陵の上にあって急登の荒道である。(豊田盆地を望
         む)

         
          引地君(ひきじきみ)の墓とされる五輪塔と灯籠がある。引地君(キリシタン名はマゼンシャ)
         は大友宗麟の7女で、秀吉の媒酌で毛利元就の9男久留米城主秀包(ひでかね)と結婚する。
          関ケ原の戦い後、秀包が逝去したので豊北町滝部久森に居を構えた。のち嫡男元鎮(もと
           しげ)
が河川に邸を移し、邸の隅「引地」に屋敷を設け、余生を過ごしたという。このこと
         から引地君と尊称され、1648(慶安元)年80歳で病没。長府藩主毛利秀元によりこの地
         に葬られた。台座上の地輪に「高雲照朝大禅定尼 于時慶安元戌子年 孝子 白」と刻ま
         れているという。

         
          この地蔵堂は霊山の入口にあって、これより霊地であるという地蔵だそうで、ここで礼
         拝して心身ともに清浄して参拝するためのものだという。

         
          江良古墳群は南に派生する標高約40mの丘陵上に位置する。古墳時代末期の7~8世
         紀頃の古墳とされる。

         
          丘陵状の地は4基の石室を見ることができる。

         
          木屋川右岸地区の総氏神であった西八幡宮が、1656(明暦2)年天神坊から矢田今熊(現
         豊田町矢田)に遷座された。
          氏神が無くなった阿座上、江良などの集落は、1683(天和3)年阿座上の天神社をこの
         地に遷座させて、菅原神社と称し総氏神にする。(右から豊田神社、朝日神社、熊野神社) 

         
          町村制が施行されると地方自治体からの公費供達を実現するために、負担軽減を目的に
         神社整理(1村1社令)が行われる。この菅原神社と東長野の若宮八幡宮、中村の若宮八幡
         宮の3社を、1911(明治44)年に菅原神社の地に合祀させて豊田神社とする。

         
          華山の中宮の地にあった熊野神社も遷座し、豊田下村にあった16の無格社が、豊田神
         社の摂社・朝日神社に合祀される。

         
          徳仙の滝と神上寺方面の分岐、江良川の右岸に大津霊瑞碑と霊山入口に礼拝用の地蔵尊
         が祀られている。
          大津霊瑞は、1815(文化12)年吉敷郡秋穂村藤村某の家に生まれ、のち、神上寺の第
         61世住職となる。同家は代々大津屋と称していたので大津霊瑞と名乗る。
          凶荒飢饉に備えるための米殻を備蓄し、率先して江良村に寄贈して策を講じた。村民は
         徳風を後世に伝えるため碑を建立したという。

         
          江良川左岸の県道豊浦豊田線を進めば、華山山頂付近を経由して杢路子(むくろうじ)に通
         じる。

         
          飛鳥期の705(慶雲2)年役小角が来山した頃、徳仙上人がこの滝に籠り修業していたの
         で「徳仙ノ滝」という。

         
          長門鉄道は山陰と山陽を結ぶ連絡鉄道として、また、森林資源開発を目的に、1917
         (大正7)年10月に開業する。ここ石町駅は乗客のほか、米殻、坑木、竹材などの輸送に使
         用された。当時は駅敷地内に煉瓦造りの米の備蓄倉庫があったとされるが近年姿を消した
         ようだ。
          鉄道経営は芳しくなく、多角化を目指してバス事業を兼営すると鉄道の乗客を吸収し、
         貨物部門はトラック業界にとって代わられ、1956(昭和31)年3月に営業廃止される。

         
          西長野と城戸の境には巨岩が突出し、東から木屋川が岩根に突当って東に曲がる。平安
         期中頃、豊田氏が定住すると、この地形を利用して山と川の間に城戸(木戸)を設けて関所
         とし、南からの侵入者を警戒した。今、この地を城戸といい、関所の地を節所(せつそ)とい
         う。