この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
上右田は佐波川下流の右岸、右田ヶ岳東麓に位置する。地名の由来は、佐波川右岸の右
田上流部による。(歩行約9.4km)
JR防府駅から中山経由堀行き約15分、新町バス停で下車する。
バス停から引き返すと猿田彦大神の碑。
畔道を抜けると旧道筋。
塔ノ岡墓地入口にある地蔵尊は、寛政年間(1789-1800)の設置とされる。
徳性寺(浄土宗)は、1536(天文5)年の創建とされ、初めは西雲寺と称していた。毛利
元俱が右田に入った翌年の1627(寛永4)年に奥方の松崎方が亡くなり、その菩提寺とし
て再建された。
寺号は元俱の父・元政の法号「天徳性真大居士(だいこじ)」の中の2文字をとったもので
ある。
寺裏には右田毛利初代の元俱の墓があり、寺を背に左より就任母、元俱娘、元俱、元俱
室、元俱生母の墓が並ぶ。
ちなみに右田毛利邸から太平寺の前を通り、熊野神社の参道をよぎって徳性寺へ通じる
小径は念仏道ともいわれていた。
水子地蔵らしい飾付けがされ、背後の六地蔵が見守ってくれている。
熊野神社参道脇にキリスト教信者の遺物と考えられる灯籠がある。竿石の上部がくび
れて十字架を思わせる形をしており、その下にマリアを連想させる人物像が彫られてい
る。宝珠、笠、火袋、中台は失われており、現在のものは後から補ったものとされる。
熊野神社の由緒によると、南北朝期の1391(明徳2)年大内氏の命を受け、野上修理亮
が紀州熊野より勧請して創建したという。
昔は熊野権現宮といい、地元の人は権現様と呼んで親しんできたお宮であるが、186
8(明治元)年に現社号となる。
分かれて延びた2本の樹が合体したように見えるクロガネモチは、縁結びの御神木とし
て祀られている。
厳島社の他に境内社として、天御中主神社(旧妙見社)・小野神社(旧荒神社)・稲荷社な
どが祀られている。
1950(昭和25)年太平寺の住職が、寺の一部を利用して上右田保育園を開園、200
2(平成14)年閉園までの卒園生は824名と記す。
太平寺(曹洞宗)は、1577(天正5)年現在の防府市小野に創建されたと伝えられるが、
寛永年間(1624-1644)に毛利元俱が現在の地に移し、祖父にあたる毛利元就の牌所(位牌
を祀る寺)とした。
庫裏の右側に太平寺石風呂があるが、佐波川流域に多く見られる俊乗坊重源の築造と伝
えられる石風呂の1つとのこと。野面石が使用されて他とは異なった構造である。よく見
ると修理箇所があり、蓋を開けると利用された形跡が見られる。
熊野神社二の鳥居、新町筋に一の鳥居がある。
太平寺参道前に「この上に一畑やくしあり」とあったが、本堂と幼稚園跡、石風呂、墓
地は確認できたが見落としたようだ。
付近にお住いの方にお聞きすると、この山手に「お田屋」と呼ばれた右田毛利家の屋敷
があった。今は何も残されていないが石垣程度は残されている。老人憩いの家前にゲート
があり、その奥に居館があったと教えていただく。
防獣ネットを目的とした構造のようである。
毛利元就の7男・毛利元政を祖として関ケ原の戦い後に、周防三丘(みつお)に1万石が与
えられていた。嫡男・元俱のときに宍戸家と領地替えになり、1625(寛永2)年右田の地
を知行されて「右田毛利」といわれるようになる。
日蓮宗の本因寺参道入口には左右に石柱があり、南無妙法蓮華経と刻まれている。さら
に右柱には「明治八年辛卯(1875)二月十二日 南無妙法蓮華経百万部 田ノ口村題目講中」
とある。
ハクモクレンは落葉高木で、葉が展開する前に直径約10㎝の白い花が咲く。他で見ら
れるハクモクレンに比べ、樹高も高く見応えがある。
往古は熊毛郡の小松原(現周南市小松原)の真言宗寺院であった。1617(元和3)年日蓮
宗に改め、毛利元俱が右田へ給領地替えに際し、当地へ引寺して牌所とした。
同墓地内にあった五輪塔は、右田毛利家の側室墓とされ、本堂横に移設されたようだ。
吉田怒庵は右田毛利の最後の郷学(学文堂)の督学・大田稲香の助教を務めた。学文堂を
開設した右田毛利第11代・元統(1818-1887・もとむね)に仕え、政治・軍事面で支えた。
明治以降は教育や編纂に業績を残したという。
シダレザクラの蕾は2分咲きといったところか。黄砂がひどく矢筈ヶ岳がぼんやりと見
える。
三谷森林公園上り口の左手、田の中に石祠がある。右の祠に右田家と刻まれているが、
以前は玉垣で囲まれていたようで、いつの時期が倒壊してそのままにされている。石を動
かすと祟りがあると云い伝えられているという。
この先も上右田だが、ここで北上を取り止めて県道24号線(防府徳地線)を南下する。
田ノ口会館の道路沿いに猿田彦大神の石塚があるが、道路拡張によりこの地へ移転した
という。
灌漑用水路に沿う。
畦道を覗くと「つくし」が芽吹きしている。漢字だと「土筆」と書くが、見た目に因ん
で名付けされたもので、つくしが土に刺さった筆のように見えることによるという。
唐臼の四つ樋にある猿田彦大神の石塚。
四つ樋地蔵と呼ばれ、幕末か明治の初めに四つ樋に流れてきたという。地蔵には目も鼻
もないが、子供の無病息災を願って大切にされてきた。
石造の水路が残る四つ樋。峪水利組合が設置したもので4つの石造樋があったが、現在
はこれのみとのこと。石をU字状に刳りぬいた貴重な遺跡だが、設置時期は知り得なかっ
た。
この地は滝鶴台(かくだい)の妻・世良竹の生誕の地で頌徳碑が建立されている。19歳で
滝の夫人となるが、1797(寛政9)年に77歳で死去し、夫ともに萩市亨徳寺に葬られて
いる、
鶴台は右田毛利の郷校「時観園」で28年間子弟を教育し、1761(宝暦11)年萩藩主・
毛利重就の招へいに応じて萩に居を移す。
「良い心が起きた時は白い毬を巻きそえ、良くない心が起きた時は赤い毬を巻きそえて、
白い毬が大きくなるよう心かけていたという。」という話は、戦前の尋常小学校修身の教
科書に「よい習慣をつくれ」と題して掲載されていたという。
町筋に熊野神社一の鳥居。
古くは下右田村と併せて右田村とよばれていたが、上下に分離したのは、1626(寛永
3)年以降のことである。
村の中心は新町とよばれる佐波川上流を結ぶ街道沿いの町である。風土注進案は「長百
五拾間、家並上之分三軒、中之分五軒、下之分三捨九軒」と記す。
新町会館の門柱には右:公会堂(二区青年団発起)、左手に御大典記念(昭和3年12月1
0日)建立とあるが、旧右田尋常高等小学校の校門を記念したものとされる。文字は公会堂
設置後に彫られた。
新町交差点にある火除地蔵尊。設置年代は不詳とされるが、新町筋が火災に遭い、多く
の家が類焼したので地下(じげ)の人たちが火災防止のため祀ったという。隣の灯籠は熊野神
社の常夜灯。
清水川の上河原橋を渡ると右手に右田ヶ岳。
上河原花壇内に猿田彦大神と手水鉢、灯籠があるが、この地にあった弁天社・荒神社に
付随したものとされる。
新幹線五郎万架道橋、その先の山陽自動車道と国道2号線下を潜る。
詳細不明の碑を見て佐波川右岸堰堤に上がる。
旧対岸の白坂への渡しがあり、上右田方面から防府天満宮に参詣する道筋になっていた。
その渡し場を案内する標柱があるというが見つけ出すことができず。
清水川が佐波川に合流する東側突端に河村玲波句碑がある。氏は上右田に生まれ、山口
県ホトトギス同人の重鎮として活躍する。
碑には 「水嵩も 瀬色も 鮎の育つ川」とある。
本橋から佐波川上流を眺めて、本橋バス停からJR防府駅に戻る。