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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市上右田‥右田毛利家跡から本因寺のシロモクレン・四つ樋

2025年03月26日 | 山口県防府市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         上右田は佐波川下流の右岸、右田ヶ岳東麓に位置する。地名の由来は、佐波川右岸の右
        田上流部による。(歩行約9.4km) 

        
         JR防府駅から中山経由堀行き約15分、新町バス停で下車する。

        
         バス停から引き返すと猿田彦大神の碑。

        
         畔道を抜けると旧道筋。 

        
         塔ノ岡墓地入口にある地蔵尊は、寛政年間(1789-1800)の設置とされる。

        
         徳性寺(浄土宗)は、1536(天文5)年の創建とされ、初めは西雲寺と称していた。毛利
        元俱が右田に入った翌年の1627(寛永4)年に奥方の松崎方が亡くなり、その菩提寺とし
        て再建された。
         寺号は元俱の父・元政の法号「天徳性真大居士(だいこじ)」の中の2文字をとったもので
        ある。

        
        
         寺裏には右田毛利初代の元俱の墓があり、寺を背に左より就任母、元俱娘、元俱、元俱
        室、元俱生母の墓が並ぶ。
         ちなみに右田毛利邸から太平寺の前を通り、熊野神社の参道をよぎって徳性寺へ通じる
        小径は念仏道ともいわれていた。

        
         水子地蔵らしい飾付けがされ、背後の六地蔵が見守ってくれている。

        
         熊野神社参道脇にキリスト教信者の遺物と考えられる灯籠がある。竿石の上部がくび
        れて十字架を思わせる形をしており、その下にマリアを連想させる人物像が彫られてい
        る。宝珠、笠、火袋、中台は失われており、現在のものは後から補ったものとされる。

        
         熊野神社の由緒によると、南北朝期の1391(明徳2)年大内氏の命を受け、野上修理亮
        が紀州熊野より勧請して創建したという。
         昔は熊野権現宮といい、地元の人は権現様と呼んで親しんできたお宮であるが、186
        8(明治元)年に現社号となる。

        
         分かれて延びた2本の樹が合体したように見えるクロガネモチは、縁結びの御神木とし
        て祀られている。

        
         厳島社の他に境内社として、天御中主神社(旧妙見社)・小野神社(旧荒神社)・稲荷社な
        どが祀られている。

        
         1950(昭和25)年太平寺の住職が、寺の一部を利用して上右田保育園を開園、200
        2(平成14)年閉園までの卒園生は824名と記す。

        
         太平寺(曹洞宗)は、1577(天正5)年現在の防府市小野に創建されたと伝えられるが、
        寛永年間(1624-1644)に毛利元俱が現在の地に移し、祖父にあたる毛利元就の牌所(位牌
        を祀る寺)とした。 

        
         庫裏の右側に太平寺石風呂があるが、佐波川流域に多く見られる俊乗坊重源の築造と伝
        えられる石風呂の1つとのこと。野面石が使用されて他とは異なった構造である。よく見
        ると修理箇所があり、蓋を開けると利用された形跡が見られる。

        
         熊野神社二の鳥居、新町筋に一の鳥居がある。

        
         太平寺参道前に「この上に一畑やくしあり」とあったが、本堂と幼稚園跡、石風呂、墓
        地は確認できたが見落としたようだ。

        
         付近にお住いの方にお聞きすると、この山手に「お田屋」と呼ばれた右田毛利家の屋敷
        があった。今は何も残されていないが石垣程度は残されている。老人憩いの家前にゲート
        があり、その奥に居館があったと教えていただく。

        
         防獣ネットを目的とした構造のようである。

        
         毛利元就の7男・毛利元政を祖として関ケ原の戦い後に、周防三丘(みつお)に1万石が与
        えられていた。嫡男・元俱のときに宍戸家と領地替えになり、1625(寛永2)年右田の地
        を知行されて「右田毛利」といわれるようになる。

        
         日蓮宗の本因寺参道入口には左右に石柱があり、南無妙法蓮華経と刻まれている。さら
        に右柱には「明治八年辛卯(1875)二月十二日 南無妙法蓮華経百万部 田ノ口村題目講中」
        とある。

        
        
         ハクモクレンは落葉高木で、葉が展開する前に直径約10㎝の白い花が咲く。他で見ら
        れるハクモクレンに比べ、樹高も高く見応えがある。

        
         往古は熊毛郡の小松原(現周南市小松原)の真言宗寺院であった。1617(元和3)年日蓮
        宗に改め、毛利元俱が右田へ給領地替えに際し、当地へ引寺して牌所とした。 

        
         同墓地内にあった五輪塔は、右田毛利家の側室墓とされ、本堂横に移設されたようだ。

        
         吉田怒庵は右田毛利の最後の郷学(学文堂)の督学・大田稲香の助教を務めた。学文堂を
        開設した右田毛利第11代・元統(1818-1887・もとむね)に仕え、政治・軍事面で支えた。
        明治以降は教育や編纂に業績を残したという。

        
         シダレザクラの蕾は2分咲きといったところか。黄砂がひどく矢筈ヶ岳がぼんやりと見
        える。

        
         三谷森林公園上り口の左手、田の中に石祠がある。右の祠に右田家と刻まれているが、
        以前は玉垣で囲まれていたようで、いつの時期が倒壊してそのままにされている。石を動
        かすと祟りがあると云い伝えられているという。

        
         この先も上右田だが、ここで北上を取り止めて県道24号線(防府徳地線)を南下する。

        
         田ノ口会館の道路沿いに猿田彦大神の石塚があるが、道路拡張によりこの地へ移転した
        という。 

        
         灌漑用水路に沿う。

        
         畦道を覗くと「つくし」が芽吹きしている。漢字だと「土筆」と書くが、見た目に因ん
        で名付けされたもので、つくしが土に刺さった筆のように見えることによるという。

        
         唐臼の四つ樋にある猿田彦大神の石塚。 

        
         四つ樋地蔵と呼ばれ、幕末か明治の初めに四つ樋に流れてきたという。地蔵には目も鼻
        もないが、子供の無病息災を願って大切にされてきた。

        
        
         石造の水路が残る四つ樋。峪水利組合が設置したもので4つの石造樋があったが、現在
        はこれのみとのこと。石をU字状に刳りぬいた貴重な遺跡だが、設置時期は知り得なかっ
        た。 

        
         この地は滝鶴台(かくだい)の妻・世良竹の生誕の地で頌徳碑が建立されている。19歳で
        滝の夫人となるが、1797(寛政9)年に77歳で死去し、夫ともに萩市亨徳寺に葬られて
        いる、
         鶴台は右田毛利の郷校「時観園」で28年間子弟を教育し、1761(宝暦11)年萩藩主・
        毛利重就の招へいに応じて萩に居を移す。

        
         「良い心が起きた時は白い毬を巻きそえ、良くない心が起きた時は赤い毬を巻きそえて、
        白い毬が大きくなるよう心かけていたという。」という話は、戦前の尋常小学校修身の教
        科書に「よい習慣をつくれ」と題して掲載されていたという。

        
         町筋に熊野神社一の鳥居。

        
         古くは下右田村と併せて右田村とよばれていたが、上下に分離したのは、1626(寛永
          3)
年以降のことである。
         村の中心は新町とよばれる佐波川上流を結ぶ街道沿いの町である。風土注進案は「長百
        五拾間、家並上之分三軒、中之分五軒、下之分三捨九軒」と記す。

        
         新町会館の門柱には右:公会堂(二区青年団発起)、左手に御大典記念(昭和3年12月1
        0日)建立とあるが、旧右田尋常高等小学校の校門を記念したものとされる。文字は公会堂
        設置後に彫られた。

        
         新町交差点にある火除地蔵尊。設置年代は不詳とされるが、新町筋が火災に遭い、多く
        の家が類焼したので地下(じげ)の人たちが火災防止のため祀ったという。隣の灯籠は熊野神
        社の常夜灯。

         
         清水川の上河原橋を渡ると右手に右田ヶ岳。 

        
         上河原花壇内に猿田彦大神と手水鉢、灯籠があるが、この地にあった弁天社・荒神社に
        付随したものとされる。  

        
         新幹線五郎万架道橋、その先の山陽自動車道と国道2号線下を潜る。

        
         詳細不明の碑を見て佐波川右岸堰堤に上がる。

        
         旧対岸の白坂への渡しがあり、上右田方面から防府天満宮に参詣する道筋になっていた。
        その渡し場を案内する標柱があるというが見つけ出すことができず。

        
         清水川が佐波川に合流する東側突端に河村玲波句碑がある。氏は上右田に生まれ、山口
        県ホトトギス同人の重鎮として活躍する。
         碑には 「水嵩も 瀬色も 鮎の育つ川」とある。

        
         本橋から佐波川上流を眺めて、本橋バス停からJR防府駅に戻る。


防府市下右田②‥萩往還道から天徳寺と毛利家墓所

2025年03月23日 | 山口県防府市

        
           この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。(歩行約6.5km)

        
         JR防府駅から防長バス堀行き約8分、本橋バス停で下車する。

        
         墓地が水害で流されたので右田ヶ岳山麓に移転させた後、旧墓地が荒れていたのを整地
        し清めて、1924(大正13)年に碑を建立し、地蔵尊を祭ったという。


        
        
         佐波川には、1724(享保9)年に木橋が架けられたが洪水の度に流された。1742(寛
          保2)
年6艘の舟に板を渡した総延長38mの舟橋が作られ、1941(昭和16)年8月まで
        約200年間存続した。その後、再び木橋となるが、1951(昭和26)年7月の台風で流
        され、現在の橋はコンクリート橋の2代目である。

        
         道路拡張に伴い立ち退きの対象となったので、これを記念として旧宅の屋根瓦を貼り付
        けたという。(K家)

        
         左手に右田ヶ岳。

        
         三宅松厳斎は、牟礼の郷士・上田市兵衛の次男として生まれ、1863(文久3)年に鴻城
        隊に属して北越に出陣、整武隊五番小隊長で除隊する。三宅玄理の養子となり、周南女学
        校、佐波高等女学校に勤務した後、当地で華道・茶道を教えたという。碑の裏面に大正十
        三年(1924)四月六日門下之建とある。

        
         もとは妙見宮と称したが、1871(明治4)年に社号を天御中主神社と改める。のち熊野
        神社に合祀され、跡地は熊野神社例大祭のお旅所になる。右手の常夜灯には、文化十二乙
        亥秋(1815)▢月とあり。 

        
         入口左手の石碑には、妙見社が廃止されたことが記されているとのこと。 

        
         入口右手に幸神塚。

        
         天徳寺参道。歩かれている方は登山者。

        
         右田小学校脇が天徳寺の参道で、石船山(せきせんざん)を背景に山門と大銀杏の木。この時
        期の銀杏は丸裸の状態である。

        
         1192(建久3)年源頼朝が鎌倉幕府を開いた際、全国66ヶ国にそれぞれ一宇を建立し
        たといわれ、周防国ではこの地に創建し、境内に記念樹の銀杏の木を植えたと伝えられて
        いる。
         往昔、寺号を総受寺と称したが、1625(寛永2)年毛利元俱(もととも)が右田に移ると、
        この寺を菩提寺と定め、父・元政の法名から天徳寺と改める。

        
         1870(明治3)年の脱退騒動で、寺は兵火にかかり全焼したが、銀杏の木は兵火にも耐
        え、今なお高く聳えている。その根元には頼朝塚と称される五輪塔がある。 

        
        
        
         案内に従い寺右側の道を進むと、右田毛利家の墓所がある。上段に元政の霊廟、下段に
        歴代領主や奥方の墓が整然と並ぶ。

        
         毛利元政の五輪塔には、慶長十四(1609)星 天徳性真大居士 四月二十九日▢▢
とある。
        (高さ224㎝)

        

         右田小学校を左手に巻きながら旧道に入ると、家々は更新されているが農村集落にみら
        れる広い庭を有する家が多い。

        
         右田毛利家の家老職を務めた桂家の庭は、「月の桂の庭」と呼ばれている。1712(正
          徳2)
年4代目が新居を建てた際に、築庭も行われたと伝わる。庭園の名は旧暦11月23
        日の夜半に「月待ちの行事」が行われたことに由来しているという。通常は閉門されてい
        るが、毎年11月上旬の2日間だけ公開されているという。

        
         三差路の角にある石柱は、一里塚跡の碑で「従鹿野郷川是迄9里(35.34㎞)・従右田
        市是迄8丁(0.87㎞)」と刻まれている。隣の宮灯籠は熊野神社に参拝する道筋の灯籠で、
        奉献と彫り込んである。

        
         三差路は左道を進む。

        
         地蔵尊の傍にある宮灯籠は、山手にある大岩八幡宮の灯籠とされる。

        
         参道の途中まで真砂土が敷かれて歩きやすくなっている。

        
         鳥居には寛政四壬子(1792)正月吉日と刻まれている。

        
         大岩八幡宮は名の如く大岩の中に祀られているが、祭神や勧請時期等などは不詳であっ
        た。

        
         シロモクレンを眺めていると、右田ヶ岳の登山者が次々に下ってくる。

         
        
         右田ヶ岳の塚原登山口には立派な石段があり、左手に墓地を過ごすと広い平坦地に出る。
        1868(明治初)年に廃寺となった曹洞宗の海宝寺があった地のようだ。(この辺りまでが下
        右田) 

        
         毛利元俱は、1628(寛永5)年郷校「時観園(じかんえん)」を創設。場所ははっきりしな
        いが、熊野神社参道北側から右田毛利邸との間とされている。
         その後、博文堂、脩来院と改称され、1846(弘化3)年校舎を迫山に移して学文堂と改
        め、大楽源太郎、青木周蔵、今川岳南など優秀な人材を輩出した。
         あった場所は、「迫の石垣の上の畑あたりらしく、石垣の下の田は馬場であった」とい
        うが、この石組みと土塀のある敷地が、移転後の郷校だったのかは分からず終いとなる。

        
         士分の家は181軒あったといわれ、本藩の殿様の家来は「諸士」と呼ばれたが、右田
        のような給領主は「旦那様」、家臣は「陪臣」と呼ばれた。

        
         掘り起こされた稲作地に、鳩と思われる鳥群が舞い降りる。

        
         山陽新幹線の側道に沿うと農業用水路の水門の横に、猿田彦大神と熊野神社の宮灯籠が
        置かれている。猿田彦には文政二子卯(1831)と刻まれている。 

        
          佐波川の氾濫が相次ぎ、甚大な被害を繰り返していたが、当時の土木技術では施す策
        もなく、思案の末、山口にある祇園社(現八坂神社)の分霊を勧請したというが、
勧請年代
        は不
詳という。
         当初は川の右岸である本橋近くに安置されたが、1979(昭和54)年の水害により遷座
        したとある。
鳥居には文政11年冬(1828)再建とあるが、上河原にあった大歳社の鳥居を
        移転したものという。(右田福祉センター横) 

        
         祇園社の隣に建つ銅像には、国広義人頌徳碑とある。

        
         室町後期の1557(弘治3)年3月12日、毛利元就・隆元親子が大軍を牽いて防府に進
        軍する。これに対し、鷲頭・朝倉軍は天神山の上で毛利軍に備えていたが、形勢が不利と
        みて山口に向けて引き揚げようとしていた。毛利軍は逃がさず追い詰めて、この佐波川周
        辺で激しい戦闘が行われたという。

         土手でバス乗車時間まで佐波川を眺め、本橋バス停よりJR防府駅に戻る。


防府市下右田①‥鯖山峠の郡境碑から右田市・大日古墳

2025年03月22日 | 山口県防府市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         下右田(しもみぎた)は佐波川下流の右岸、右田ヶ岳東麓及び南麓に位置する。
         地名の由来は、佐波川右岸の広大な耕地という意で右田になったとか、また、周防灘の
        北にあたる場所だから「海北(うみきた)」といったが、これがつまって「みきた=みぎた」
        という説もある。(歩行約8km) 

        
         JR山口駅からJRバス防府駅行き約30分、上勝坂バス停で下車する。洞道北口バス
        停がベストのようだが、嶽ノ後山の記念碑に立ち寄るため、このバス停を利用する。

        
         カレーショップ前の藪地に「嶽ノ後山下戻記念碑」がある。江戸期には下右田村民が柴
        草の刈り取り地として利用してきた嶽ノ後山が、明治になると官有地となり立入禁止にな
        る。困窮した農民が運動して払い下げてもらったのを記念する碑である。裏面に大正三年
        (1914)五月下旬 下右田村民建之とある。

        
         トンネル側の斎場入口に信号機があるものの、歩行者用押しボタンはなく車に反応する
        信号機のため引き返す羽目になる。

        
         歩道橋で山口行き側の歩道に移動して鯖山峠を目指す。

        
         長い坂道(約1.2㎞)を上がって行くと鯖山峠で、当時は2軒の茶屋が営業していたとい
        う。洞道北口バス停だと約1㎞の距離にあり、駐車場広場にはトイレもある。

        
         分水嶺に佐波郡と吉敷郡の境界を示す高さ2m25㎝の石柱が立てられている。裏面に
        「享保二年壬戌(1717)改石小鯖村」とある。土台は後の時代にセメントで補強されている。

        
         1885(明治18)年明治天皇が山口行幸の際、三田尻(問屋口)までは船、萩往還道に添
        って鯖山峠までは馬車と騎馬、峠で馬車に乗り換える際、峠の御小休所・藤井周馬宅(今
        はなし)で休憩されたという。
         右手の標柱は、1937(昭和12)年7月文部大臣により、史蹟名勝に指定されたことが
        記されている。

        
         聖蹟碑裏に疫神。

        
         下って行くと左手に山口方面へのトンネル入口。

        
         下って行くと左手に山口方面へのトンネル入口。

        
         正面に「庚申塚」と右側面には、「文政二己卯(1819)四月當村講中」と印刻銘がある。
        もとは街道筋にあったと思われるが、国道拡張工事で旧内田宅の玄関口に移動している。

        
         上勝坂広場に豪雨災害慰霊碑が建立されているが、2009(平成21)年7月に活発化し
        た梅雨前線の影響で、同21日下右田の剣沢および支沢から土石流が発生する。付近の住
        宅内で2名、国道通行車両の2名が犠牲となる。 

        
         歩道橋下に「おろくさんの碑」があるが、昔、茶店に「おろくさん」という美人の娘が
        おり、多くの若者たちが足繁く通っていた。一人の若侍が思いを伝えたが断られたので、
        一刀の下に切り殺したので、その霊を慰めるため塚が建立されたという。この塚も国道拡
        張工事で現在地に据えられたものと思われる。

        
         歩道橋で右田ヶ岳側に移動する。(鯖山峠方向を見返る) 

        
         往還道は国道と旧道の間を通っていたものと思われる。

        
         国道手前の小堂内には石造地蔵菩薩が安置されているが、像高39㎝の半跏像で江戸期
        のものとされる。半跏とは片足を他の足の上に組んで座るとのこと。

        
         左手に勝坂砲台跡。 

        
         1863(文久3)年に萩藩は藩庁を萩から山口へ移鎮すると、山口防備のため主要街道に
        あたる勝坂に関門を設置した。(石州街道は小郡の柳井田に設置)
         台場には砲を据え、通関を請う者は審問の上、鑑札を渡していたという。1870(明治
          3)
年の脱退騒動では、脱退兵と討伐に向った右田兵及び岩国・徳山両藩兵との間で激戦を
        交えた戦場となった。
         のちに跡地は果樹園に拓かれたが、現在は荒れ放題の藪となっており、石垣もほとんど
        形跡をとどめない。西側の国道沿いは国道拡張工事の際、崖を削ってコンクリート化され、
        上り口に石積みは積み直されたものである。

        
         1885(明治18)年7月29日9時頃、明治天皇は問屋口に上陸、馬車にて百間土手、
        堀口を過ごして毛利家別邸大観楼(現英雲荘)で昼食。岡村より松崎神社(現防府天満宮)社
        頭から新橋高井を経て、御小休所・徳永勝蔵宅の家に入られ、奥8畳の間が御座所となる。
         往復とも徳永家が御小休所となり、1894(明治27)年3月徳永勝蔵氏が記念碑を建立
        したものである。

        
         往還道は国道から離れる。

        
         小堂の中に2体の地蔵菩薩坐像が安置されている。堂宇の後方には大きな石の上に「幸
        申」と刻まれた塚がある。

        
         水車場跡とされ、水車を据え付けた石垣と小屋、水路が一体化されていたようだが、役
        目を終えて石垣のみが残る。

        
         昔の剣川沿いには40数ヶ所の水車場があり、精米や製粉が行われていたという。(途中
        の兼重宅前に地蔵尊) 

        
         剣神社入口から往還道を少し下ると、阿弥陀堂跡には右田市上会館と地蔵堂、後方に墓
        地がある。

        
         往還道側からの剣神社入口。

        
         剣神社の社伝によれば、古くは鯖山(勝坂)峠の登り口にあたる地に鎮座していたが、山
        林火災の類焼により旧記を失ったという。平安中期の「延喜式」神名帳に「剣神社」と記
        され、仲哀天皇が筑紫行幸の時、夷狄(いてき・異民族のこと)の降伏を祈願して八握剣を御神
        体として祀ったのが始まりという。

        
         太鼓橋が2基、その他石祠が多数。

        
         参道を下り、国道262号線を横断して高井の大日地区に入る。

        
         藤特殊工業(有)横に疫神。 

        

         疫神の傍に猿田彦大神、その右には六十六部廻国供養塔がある。66の諸国を巡礼して
        修行する人が立てたもので、「天下泰平 奉納大乗妙典日本廻國供養 日月清明 行者中
        村八郎エ門」と彫ってある
         右端は山寄農道改修記念碑で、表面に碑名と文化六己巳(1809)五月吉日、裏面に昭和2
        4年(1949)2月竣工と世話人5名の名が刻まれている。

        
         案内に従い防府病院方向へ入る。(正面の山は西目山)

        
        
         大日古墳は、西目山の麓、防府平野を見下ろす標高25mの佐波川右岸台地に立地する。
        古墳時代後期の前方後円墳で、後円部に横穴式石室があり南向きに開口している。玄室の
        中に凝灰岩製の家形石棺が置かれている。
         風土注進案は、大内氏の始祖とされる百済の琳聖太子の墓という伝承が記されている。
        (国指定史跡) 

        
         剣神社参道まで戻り、里道を利用して往還道に出る。(左手に右田ヶ岳)

        
        
         藩政期の右田市にはいくつもの寺や民家・商家が立ち並び、四方に向かう道の起点で賑
        わっていたというが、今はその面影は残されていない。
         鎌倉期の初め頃、多々良(大内)盛房の弟盛長が、下小野を乗っ取り右田摂津守と名乗る
        ようになる。多々良氏が大内に住み着いてからは勝坂峠を越える道も開け、この道筋に右
        田氏が毎月決まった日に、産物を交換しあう「市」を開かせたのが右田市の始まりだとい
        う。当時はT字路で国道からの道はなく、地蔵尊と権現宮と刻まれた熊野神社の宮灯籠は、
        道路の反対側にあったが、道路新設に伴い有富家横に移設された。

        
         県道348号線(大内右田線)沿いにある疫神社。

        
         勝坂付近では見かけなかったが、佐波川を泳ぐ鮎と右田ヶ岳、エヒメアヤメがデザイン
        された防府市のマンホール蓋。

        
         乗円寺(真宗)は大内氏に仕えた弘中受慶を開山とし、子孫は後に毛利氏の家臣となり、
        毛利元俱に従って右田に移る。
         1632(寛永9)年元俱は萩の清光寺に嫁いでいた娘が亡くなった際、法名にちなんで
        現寺号にしたという。

        
         乗円寺の向かい側にある真宗寺(真宗)は、1907(明治40)年右田市の明誓寺と上右田
        の専成寺を併せて真宗寺とする。 

        
         右田バス停よりJR防府駅に出る。       


防府市大崎‥玉祖神社から玉の岩屋・大崎岡古墳

2025年03月12日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         大崎は佐波川の右岸、楞厳寺山の東南麓に位置し、古くは旧山陽道の「大崎の渡し」が
        あった地である。(歩行約5.5km、🚻玉祖神社)

        
         JR防府駅から防長バス秋穂漁港行き約15分、東谷バス停で下車する。 

        
         バス停の向い側に日ノ本の地蔵尊(三界萬霊)

        
         日の本の交差点角に宮灯籠が置かれているが、竿石ではなく大きな石に載せてある。石
        柱の右は一宮、左には玉祖宮と刻まれている。 

        
         剣川の高田橋から見返る。

        
         高田の地蔵尊は姫山の墓地入口あったそうだが、道路改修に伴い現在地(老人憩いの家)
        に移転したという。

        
         高田の疫神は玉祖神社の四方神(高田・江良・居合・七尾)とされる。昔はコレラ、疱瘡
        などのはやり病は、疫神の仕業と考えられ、村外に追い出すための呪が行われたという。
         鳥居には「奉寄進氏子中 寛政十戌午(1798)七月吉日」と刻まれている。右の灯籠には
        「奉燈 大正九年八月」とあるが、火口は開いていない。狛犬は粗削りのままで1体のみ
        である。(老人憩いの家敷地内) 

        
        
         高田の歯神は現在の地蔵尊辺りにあったが、道路改修により移転する。歯医者のいなか
        った昔は、歯が痛い人は豆腐をお供えして歯の痛みが治まるよう拝んでいたが、歯科医の
        出現で役目を終えたようだ。(上段は猿田彦) 

        
         左手に県立医療センター、右の山は姫山。

        
         国道2号線の側道に合わす角に、居合の歯神が祀られている。以前は江山氏の旧宅内に
        あったそうだが、道路改修に伴い移動したという。
         この先、浜宮御祖神社までは側道歩きである。

        
         側道の傍にある浜宮御祖神社は、玉祖神社の四方神の1つとされる。

        
         1915(大正4)年11月に玉祖神社は国幣中社となり、終戦まで祭祀料が国から支弁さ
        れた。参道入口の石碑には、当社の参道は268mあったが、山陽自動車道・防府バイパ
        ス建設に伴い、46m縮小された。その時にあった参道の石造物はこの地に移されたとあ
        る。

        
         長い参道には、うぶ神様、居合の地蔵尊、石灯籠、石碑、猿田彦大神などがある。

        
         由緒によると、祭神は三種の神器の1つ、八坂環曲玉を造ったとされる玉祖命を祀った
        のが神社の起こりとされる。創建はあまりにも古く定かでないが、「正倉院文書」に天平
        8~10年(736-738)の3ヶ年は、玉祖神社領の39石余を免除するとあるので、創建は
        それ以前とされる。 

        
         平安期の927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳によると、周防国の「官社」は10
        社が載せられているが、玉祖神社が周防国一の宮とされ、代々の国司から崇敬を受けた。
         社坊は金剛寺本坊とする真言宗の寺院が8坊あったとされるが、1598(慶長3)年本殿
        炎上の折に徳楽坊を除いて類焼する。本殿は再建されたが社坊は再建されないまま、徳楽
        坊が本坊となったが、明治の廃仏毀釈で廃されてしまう。

        
         境内には放生池碑と太鼓橋が残されている。

        
        
         黒柏鶏は長鳴鶏に属する日本古来の鶏で、名前が示すとおり羽根は全身が黒である。雄
        の耳朶や鶏冠は赤く、雌の鶏冠はほとんど黒い。明治以降、多くの日本鶏が姿を消した中
        で貴重な存在とされる。(国指定天然記念物)

        
         神社裏手に廻って宮城の森を目指す。

        
         旧道の変則四叉路を左折すると、玉祖神社へ参拝する道筋(岡田邸角)に宮灯籠が立つ。
        竿石に「一宮社・寛政4(1792)壬子(みずのえね)」と刻まれている。

        
         静かな田園地帯の中に宮城(みやしろ)の森があったが、田圃は潰されて造成工事が行われ
        ていた。地元の方にお聞きすると、老朽化した県立医療センターの移転先として、防府市
        が整備を進める防災広場に隣接することが望ましいとのことで当地が選ばれた。防災広場
        は災害時の資材を置く基地や仮設住宅などが設置されるとのこと。

        
         もう姿を見ることはできないが、景行天皇が熊襲征討の際、玉祖神社に参拝して戦勝祈
        願されたときの行在所跡と伝えられる。(2021年11月撮影) 

        
        
         2021年11月に若月邸の臥龍松を拝見した際、松枯れの様相を見せていたが、その
        まま枯れ死してしまったようだ。江戸初期頃に植えられたものと伝わり、高さ1.8mの所
        で二股に分かれて、1本は上に伸び、もう1本は横に伸びていた。 

        
         乳安観音堂は多々良幼稚園の敷地の片隅にあり、本尊は弘法大師空海の自作と伝えられ
        る如意輪観世音菩薩である。空海が開基した弘法西光寺(廃寺)の境内にあり、古くから乳
        安観音として親しまれ、13年に一度開帳される秘仏とのこと。
         隣にある観音像は、多々良幼稚園の正門前にあったが、経営者が変わり、仏教とは関係
        ない幼稚園になったので移設された。

        
         芭蕉の句碑「此あたり目に見ゆるもの皆涼し」があるが、建立年や建立者は不明とのこ
        と。

        
         村田光尾翁は、玉祖郷の旱魃に備えて玉泉池築造を献策し、1941(昭和16)年に完成
        する。土地改良や造林にも尽力された恩恵に感謝するため頌徳碑が建立される。

        
         玉の岩屋は玉祖命が亡くなられて御祖の地に葬られた墓と伝えられているが、御祖神を
        祀った跡ともいわれている。(周囲は造成工事用の壁)

        
         域内は農村地帯のためか広い敷地に大きな家が多い。その角に「玉の岩屋」の案内板が
        ある。

        
         江良の疫神社は玉祖神社の四方神の1つとされ、鳥居には昭和9年(1934)10月吉日種
        馬記念とあり。

        
         祠の左にある石柱は何が祀られているのかはわからないという。

        
         県立医療センターに向けて東進する。

        
         医療センター入口手前を左折して自由ヶ丘団地へ向かうと、右手の奥まったところに鳥
        居がある。鳥居には「奉建立稲荷大明神廣前 元文四(1739)己未(つちのとひつじ)十一月」と
        も読めるが、判読不能な部分もあって正確ではない。

        
         タケノコ採取のためだろうか整備された先に大崎岡古墳がある。(立入禁止看板あり) 

        
        
         参道階段を上がって左折すれば、竹林を通らずに第2号古墳に行くことができる。
         案内によると、約4m上方に1号古墳があったが、発掘調査後に土砂採取のため消滅し
        た。2号古墳は6世紀終わりごろ、この地に住んだ小豪族の家族墓としてつくられた。盛
        り上がった墳丘の内部には、東に開口する両袖式の横穴式石室が築かれ、石室から須恵器
        20点、鉄鏃(やじり)、耳飾りが発見されている。

        
        
        
         稲荷様であることは鳥居から読み取れたが、建立年など詳細なことは知り得なかった。
        周囲の木々の整備されている方と立ち話をして、医療センターバス停よりJR防府駅に戻
        る。


防府市佐野②‥旧山陽道佐野峠から二六台を巡る

2025年03月10日 | 山口県防府市

        
             この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。(歩行約6.8km)

        
         佐野散歩の続きは、佐波川橋バス停からとする。

        
         国道2号線の園芸店横から山手に向かうと、右手に近道の農道がある。

        
         山陽自動車道の高架下を潜る。

        
         旧山陽道への道は、2ヶ所の二股を左へ進む。

        
         坂道を上がって行くと西ヶ原下の溜池前に出る。

        
         堰堤の先に佐野峠入口。

        
         1876(明治9)年に道路が「国道」「県道」「里道」の3種類に分類されて、旧山陽道
        は国道に変更される。1877(明治10)年に遠ヶ崎を廻るように路線変更され、佐野峠の
        道は廃止される。 

        
         尾根上に出ると、左手に高さ1m位の円形の台がある。当時より展望を楽しむ場所だっ
        たようで、1軒の茶屋があったという。

        
         1987(昭和62)年に一帯は水道公園として再開発され、貯水量3,000㎥の配水タン
        クが設置されている。

        
         駕籠建場は街道を行き交う大名たちが、駕籠を下ろして休憩した場所である。多くは見
        晴らしの良い場所に設けられ、駕籠を置く台、柴垣に囲まれた雪隠(せっちん)などが設けら
        れていた。

        
               ”しらぬひの筑紫路うけて うちかすむ 
                         佐野のたむけの 春ののどけき”
         展望台には「安政4年(1857)佐野の手向にて」と題する萩藩主・毛利敬親の歌碑が設置
        されている。
          展望台上り口には、江戸期の文人・大田南畝が佐野峠の風景を称賛した詩文碑もある。

        
         西の原下まで引き返して東進すると、放光会館前に大正天皇の御即位記念碑がある。「
        大正4年(1915)11月10日 右田村第17区 戸主会青年会建立」とある。もとは旧県
        道側にあった会館に建てられていたが、のち現在地に移転された。

        
         興禅院(曹洞宗)は、1873(明治6)年都濃郡大道理村から地蔵院跡に移ってきた。18
        75(明治8)年学制発布により寺を仮教場として、玉祖小学校の前身である佐野小学校が開
        校された。
         山門には「西国三十三ヶ所霊場」「不許葷酒山門」の碑と地蔵尊1体が立っている。

        
        
         参道石段の草は刈り取られていたので上がってみると、手水鉢と石仏だけが片隅に残さ
        れていた。いつ頃に廃寺となったのだろうか。

        
         一里塚跡の碑が田中宅前にあるとされていたが、宅敷地と興禅院の境に移設されている。
         「小瀬川より19里(約74.6km)、赤間関迄17里(約66.7km)」と刻まれているが、
        一里塚のあった実際の位置は田中邸の庭だそうだ。

        
         田村宅横に「木村先生頌徳碑」があるが、1888(明治21)年佐野小学校校長として就
        任し、1909(明治42)年まで佐野の子弟を教育したとされる。地区民有志がその功績を
        称えて建立したものである。

        
         民家の背後に楞厳寺山が迫るが、大内氏が楞厳寺という七堂伽藍(金堂、講堂、塔、鐘
        楼、経堂、僧坊、食堂(じきどう)を持った寺を建立する。山の西側8合目付近の平坦地にあ
        ったようだが、1620(元和6)年の火災でことごとく焼失しまう。その後、寺号は周南市
        湯野に移る。 

        
         若宮社入口に立つ宮灯籠には、玉祖宮の文字が見える。

        
        
         若宮社(壺神社)は、窯業を営む人々が玉祖神社より勧請し、氏神様にしたといわれてい
        る。そのため、氏子は古くから焼き物株を持つものに限定され、佐野焼製法の秘密を守る
        ため、若宮社を中心に強く結束していたという。

        
         佐野焼は叩き(たたき)とよばれる独特の作り方で、荒物とよばれる大型の壷や、小間物と
        よばれる土鍋など日常生活で使う陶器が作られていた。

        
         「叡慮にて にぎはふ民の 庭竈」 芭蕉  
建立の詳細は不明のようだ。

        
         若宮社の前には1反2畝の土地があるが、「宮窯」があった地で、現在は広場になって
        いるが、その跡を示す石碑が片隅にある。

        
         時々門柱のある家を見かけるが、佐野焼と関係があるのだろうか。 

        
         荒神は仏宝僧の三宝を守護し、不浄や災難を除去する神とされる。屋内に祀られる荒神
        は火の神や竈の神として、屋外の地荒神は屋敷神・氏神・村落神の性格を有しているとい
        う。鳥居には刻字があるものの判読不能である。

        
         探し当てるのに右往左往したが、玉祖幼稚園(左手のピンクの建物)裏手にあった。(正面
        の森が若宮社) 

        
         佐野の中心部で右手の道が旧山陽道。

        

        
         七尾の疫神は伝染病が流行した際、その対策として神社を建立して平癒を願った。玉祖
        神社の四方神の1つとされ、 東は高田の疫神社、南は居合の浜宮様、北は江良の疫神社を
        充てている。
 
        
         明照寺(真宗)は、1648(慶安元)年真言宗から真宗に改宗したときに始まるとされる。
        それ以前は顕正院と称して仁井令にあったが、現在地に引寺(移転)したとされる。

        
         二六台入口にある古墳群位置図。

        
         位置図から遠くなさそうなので上がることにするが、東麓に玉祖小学校と玉祖神社の森。

        
         意外と急坂である。

        
         各古墳は車道から枝道に入る。

        
         5号古墳は両袖式で複式の可能性が高いとされ、ほぼ南へ向かって開口しているそうだ。

        
         4号古墳は奥壁と右側壁が1石づつ露出していたという。

        
         3号古墳の墳丘は円墳の複式横穴式石室とされ、南西に向かって開口していたようだ。
        この穴は羨道部入口のようで、大きな穴が石室だったのであろう。

        
         2号古墳は4号古墳と同じ玄室と羨道から単室の古墳とのこと。

        
         配置図によると1号古墳があった付近である。1940(昭和15)年向山山頂を造成し、
        運動場を造った際に取り壊されたという。 

        
         二六台の説明書きによると、玉祖小学校児童の心身鍛錬のため、佐野地区全戸が交代で
        奉仕作業を行い完成したという。完成した年が皇紀2600年にあたることから「二六台」
        と命名されたとある。 

        
         1号古墳は壊されたため、運動場東隅に被葬者を祀るため祠が建立され、旗立て石には
        「山上尊霊」と刻まれている。

        
         台上から防府の町並み。

        
         南西に佐野の町並みと佐波川。

        
         二六台入口に戻って、大崎橋を利用して旧国道2号線のコスパ防府前バス停より、JR
        防府駅に戻る。


防府市佐野①‥郡境碑からポンポン山・開作地を巡る

2025年03月09日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         佐野は佐波川の河口右岸、楞厳寺山の南麓に位置し、江戸期には次々と開作が行われて
        域内は広くなる。佐野焼とよばれる壺焼が盛んに行われた地でもあり、山手側を旧山陽道
        が東西に通っていた。(歩行約7.9㎞、🚻小島山駐車場)

        
         JR防府駅から防長バス秋穂漁港行き約15分、遠ヶ崎バス停で下車する。

        
         佐波郡と吉敷郡の境界標が立っているが、台道地区は吉敷郡であったことを示す。国道
        2号線の改修と地下道の新設に伴い水路が付け替えられ、標柱は元の場所から2mばかり
        西へ移動したとのこと。
         もとは佐野峠の郡境にあったが、国道が遠ヶ崎経由に変更された際に移動したそうだが、
        後に2つに折れて放置されていたのを地元有志により復元された。

        
         疫神社入口の石灯籠には、正面に玉祖宮、右側面には当開作と刻まれている。疫神社の
        灯籠でないので、他の場所から移動したものと思われる。
         鳥居の右柱には「明治14年(1881)辛巳(かのとみ)2月▢▢日、裏面に世話人の石川・石
        田の銘がある。

        
         参道も国道2号線改修の工事により、山裾が削られたため急階段である。

        
         区画整備された開作の左側を佐波川、右側からは横曽根川が周防灘に注ぎ込む。開作の
        突端にあるのが小島山(通称ポンポン山)である。

        
         階段の先に自然石で造られた石灯籠が建立されているが、裏面に「昭和6年(1931)4月
        11日175年祭」と刻まれている。

        
         疫神社の由緒書きが無いので詳しいことはわからないが、疫病が出たので地区民の方が
        厄除けに設置したと伝えられている。石灯籠の175年祭を遡ると、宝暦年間(1751-17
        64)頃の創建と推測される。

        
         疫神の両側にある灯籠には刻字なく、下段右側の碑は「昭和31年4月15日、疫神社
        200年祭」とある。同左側の標柱には「奉納 250年祭 遠ヶ崎地区・台ヶ原地区」
        と刻まれている。

        
         地下道から山陽本線遠ヶ崎第3踏切を横断して開作地に出る。

        
         線路を越えるとすぐに大歳社の鳥居がある。台風で鳥居が倒れて壊れたため、2002
        (平成14)年に池田氏が再建したという。

        
         額束名から大歳神(五穀の守護神)が祀られていると思ったが、龍神様と相殿のようだ。
        龍神様は、1824(文政7)年村上開作ができた時、村上開作を見下ろす疫神山の西側に、
        開作の守り神として祭られた。1877(明治10)年に山陽道が遠ヶ崎を通るようになった
        とき中腹に移し、1955(昭和30)年に国道2号線拡幅工事の際、現在地に再移転したと
        いう。

        
         横曽根川に向けて西進する。 

        
         川土手に上がると河口に見える小島山を目指す。

        
         河口は水鳥たちの楽園地である。

        
         小島山北側の麓に「成工記念」と刻まれた碑がある。1942(昭和17)年8月27日の
        台風による高潮で佐波川尻の堤防3ヶ所、横曽根川堤防2ヶ所が決壊して小島地区は海水
        に沈む。
         戦時中であったことから、ほとんどが人力に頼る以外になく、1945(昭和20)年に約
        3年の歳月かけて、復旧工事が完了する。大樋門の傍に完了を記念して碑が建立されたが、
        再度改修工事が行われた際、現在地に移転したという。

        
         1979(昭和54)年から10年間にわたり、3億5,400万余円をかけて用排水路のコ
        ンクリート化、圃場道路の拡張などが行われた。1989(平成元)年に地元負担金の償還を
        終えたことを記念して碑が建立される。

        
         佐波川河口の右岸に建てられている石灯籠は、火袋部分が細くなっているが、明かりが
        よく見えるように造られている。岩の上に立っているので、河口に出入りする船の灯台代
        わりの役目を担っていたと思われる。

        
         小島開作創設150年を記念して「撫育乃碑」が建立されているが、開作は萩藩の撫育
        方による工事であった。裏面には入植当時から美田になるまでの経緯が漢詩で書かれてい
        る。

        
         小島山登山口にある鳥居には、明治34年(1901)3月吉日と刻まれているが、他は判読
        不能である。

        
         階段を上がって行くと小島開作が一望できる。

        
         頂上まで擬木階段である。

        
         頂上に2基の祠があるが、厳島神社と玉祖神社の分霊を祀るという。

        
         右隅にひっそりと三等三角点。

        
         鳥居の柱には刻字があり、「奉寄進 藤井▢▢ 大正14年(1925)4月▢▢」と読み取
        れる。鳥居の両脇に一対の灯籠があるが、火袋に佐野焼と思われる陶器が使用されている。

        
         展望台からの展望は木立の生長で今イチだった。

        
         標高25m足らずの山は、山頂で飛び跳ねるとポンポンと音がすることから、別称とし
        てポンポン山と呼ばれている。

        
         佐波川右岸を上流へ向かう。

        
         土手歩きは遠方まで見えるがなかなか距離が縮まらない。

        
         小島開作三の割に鎮座する地蔵尊。この開作では唯一のもので、もとは二の割に鎮座し
        ていたが、農道拡張のため現在地へ移されたという。 

        
         山陽本線の架道橋には、山陽鉄道時代のイギリス積みの煉瓦が残る。

        
         川開作会館の敷地内に金比羅様が祀られている。明神鳥居には明治32年(1899)正月吉
        日と刻まれ、当時の廻船業者が寄進したと思われる。

        
         牛馬の供養のため建立された馬神様は、山陽自動車道設置のため、石崎(佐波川SA付近)
        の山上から移されたそうだ。注連縄が架けられているが刻字はない。

        
         左手が金比羅様だそうだが、創建年代などを示す銘文はない。右手の龍神様には「文化
        9年(1812) 願主川口屋吉兵衛」の陰刻があり。

        
         国道2号線を横断して園芸店横の道に入ると、旧国道に合わす角に「中之関港道」の道
        標がある。
明治期に中関町長・加藤氏によって、山陽道と中関港を結ぶ2本の道路が新設
        される。1975(昭和50)年代に旧設置場所から撤去され、折れ損じたまま放置されてい
        たそうだが、1998(平成10)年頃に地元有志によって修復された。

        
         台ヶ原公民館傍に地蔵尊。

        
              「ふるさとは ちしゃもみがうまい ふるさとにゐる」 山頭火
         種田山頭火(正一)は家業の失敗により熊本に移り、のち44歳で出家して全国を漂泊・
        行脚した。行乞の途中、ここ台ヶ原の町田家に嫁いだ妹・シヅ宅に寄ることを楽しみにし
        ていたという。自選句集「草木塔」に妹の家と題して
          ・たまたまたずねて来て その泰山木が咲いてゐて
          ・泊まることにして ふるさとの葱坊主
          ・生まれた家は あとかたもなくほうたる  

        
        
         山陽自動車道の南側を東進すると、佐野地域の耕地の区画整理の記念碑がある。191
        0(明治43)年11月起工、翌年の10月落成と記されている。

        
         仲哀天皇・神功皇后が西征伐の折に玉祖神社に参拝され、今の佐野焼の始祖とされる澤
        田長(おさ)に、3足の土鼎(どてい・鍋)と鉢を作らせ、米を炊いて玉祖明神に供えて軍の吉
        凶を占ったとされる。その屋敷跡に碑が建立されたという。(澤田長は佐野焼の始祖)

        
        
         地蔵尊に一礼して、国道2号線の佐波川橋バス停(15:50)からJR防府駅に戻る。


防府市台道の岩淵・小俣‥郡境碑から観音寺と観音霊場・お笑い講のふるさと

2025年02月14日 | 山口県防府市

                
                           この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         台道は大海湾に注ぐ河内川・横曽根川流域に位置し、切畑の千切峠を頂点に東西を山麓
        に挟まれた扇形の平地である。往古は奥深くまで海であったが、土砂の堆積と海辺の砂土
        が吹き寄せて繁枝砂丘が形成され、順次開作されて今の姿となった。
         その平地の中央部にあたる岩淵は、横曽根川左岸の楞厳寺山の西南麓から観音山周辺に
        位置し、小俣は横曽根川の右岸にあって、西に花ヶ岳の稜線が南北に連なる。(歩行約8
        km)

        
         JR防府駅から防長バス小郡第一病院行き約15分、遠ヶ崎バス停で下車する。

        
         地下道で国道2号線を横断する。

        
         この郡境標は佐野峠頂上の北側にあったが、現在は旧国道の元郡境に移転された。17
        03(元禄16)年まで境塚木であったが、代官中山忠左衛門が切石に改めたという。
         「西・吉敷郡、東・佐波郡」とあるが、1955(昭和30)年代に倒壊したようで接ぎ足
        しされている。

        
         地神様の建立年代は不明だそうだが、土地の神霊を祀る信仰である。正月に神事を行い、
        各自が御幣を頂戴して帰り、田畑などに御幣を立てる習わしのようだ。
         祭日は八朔(旧暦の8月1日)だそうで、1920(大正9)年に百年祭、2020(令和2)
        に2百年祭が行われたとのこと。(国道2号線観音口交差点の山手)

        
        
         この辺りに「子安くわんのん道 左大道 明治己三月(1869)」の道標があったが、台座
        とそれらしきものが残されている。(横曽根川右岸)

        
         国道2号線の歩道橋で上り車線に移動する。(県立防府西高と観音山)

        
         観音寺(曹洞宗)は、平安期の808(大同3)年弘法大師が諸国遍歴の折、山肌の奇岩と瀬
        戸の風光に感動し、観音寺を開創したと伝える。
         1674(延宝2)年天徳寺の僧・道縁が観音寺に立ち寄ると、無住で荒れ果てていた。寺
        を修理し、諸道具を整えて番僧を務めるとともに、本寺がないので天徳寺の末寺にしても
        らいたいを申し出ると、許されて天徳寺(曹洞宗)末寺13ヶ寺の一つになる。

        
         1642(寛永19)年に岩国領主吉川広正の室(毛利輝元の長女)が寄進したとされる梵鐘
        は、先の大戦による金属回収令を免れた。(防府市指定有形文化財) 

        
         右側の石柱には、「子安‥」のみ読み取ることはできるが、形態から旧山陽道の観音寺
        分岐にあった道標
と思われる。左の子安観音碑には「岩淵嶽子安観世音 明治29年(18
        96)5月18日 為先祖菩提 藤井宇吉建」とある。 

        
         観音山登山口(三十三観音摩崖仏への道標) 

        
         観音山の7合目にあった観音堂は、1993(平成5)年8月の集中豪雨で倒壊したが、3
        年後に現在地へ再建された。秘仏とされる子安観音菩薩は、7年毎に開帳され一般公開さ
        れる。

        
         この観音堂には、弘法大師開眼と伝えられる秘仏の子安観世音菩薩、並びに脇侍の不動
        明王・毘沙門が安置されている。のちに周防国の第26番観音霊場となる。

        
         眼下に防府西高と台道市から小俣集落、右手の山は花ヶ岳。

        
         観音堂跡への石段両側には、天明年間(1781-1789)に寄進された灯籠が並ぶ。 

        
         コンクリート道付近が崩落箇所のようで、土留め工事がされている。

        
         石祠先からの石段を上がると、子安観音堂古址の標柱と周りに堂の礎石が置かれている。 

        
         注連石と手水鉢のある所が三十三観音巡拝路の入口。

        
         観音菩薩の教えを説いた「観音経」によると、観音菩薩は救う相手や状況に応じて33
        種類の姿に変身するという。観音菩薩を巡拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し
        極楽往生できるとされる。
         しかし、西国三十三霊場を巡礼するには、地方では遠く時間と費用をかけて出かけるこ
        とは難しいということで、それぞれの土地に「写し霊場」が誕生する。 

        
         摩崖仏には番号と本尊、施主の氏名が刻まれているが、明治期に写し霊場されたものと
        思われる。7番は蓮臥(れんが)観音で蓮華座に乗って合掌し、人びとの幸せを願っている。

        
         10、11番辺りから緩やかな道になる。(10番は魚籃(ぎょらん)観音)

        
         大岩に16~19番が並ぶ。

        
         大岩の隙間にある17番は衆宝(しゅうほう)観音で、片ひざを立てて地面に座り、一人の
        祈りが大勢を救うと説いている。

        
         この先で進路を変えるが、このような道が続くので迷うことはない。

        
         22番は葉衣(ようえ)観音で、片ひざを立てて蓮華座に座り、病や災いから仏教の信者を
        守るとされる。(この先が山頂) 

        
         観音霊場ではないが、安産や幼児の成長を守護する子安観音が祀られている。

        
         四等三角点(標高127.2m)の南面に展望が得られる。

        
         眼下に横曽根川が佐波川に注ぎ、河口に防府新大橋、右手に真鍋・上田開作、その先に
        大海湾と小浜山。

        
         佐波川左岸には西浦開作とマツダ防府工場、左手の山が田島山、右に小茅山。

        
         山頂には23番から25番の摩崖仏が並ぶが、海側を背にして設置されている。

        
         この先の巡拝路は露岩の下り道である。

        
         29番は馬郎婦(めろうふ)観音で、美しい天女の姿をし、仏教を信じない人たちに教えを
        導くとされる。

        
         ロープ場を過ごすと33番まではあとわずかである。

        
         崩落地跡に戻ると、33番(灑水(しゃすい)観音で観音巡りを終える。天明八年戌申(17
        88)正月吉日」と刻まれた石灯籠を見て往路を引き返す。

        
         火除け様への道は自販機傍の石段を上り、左手に無縫塔を見て砂防堰堤上を過ごす。す
        ぐに埋もれた鳥居を見ると明確な道になるが、途中で右折する道に入るので要注意だ。後
        は踏み跡を辿れば小祠前に出る。

        
         火除け様は焼火社・鎮火社とも呼ばれ、多くの参拝者があったようだが、今はすっかり
        忘れられた存在のようだ。建立の由来について、諸国巡礼人と地元の娘の悲しい話「岩淵
        大火」が伝えられているという。
         観音寺に戻って旧山陽道の岩淵市へ向かう。 

        
         旧山陽道に出会うと佐野峠入口と楞厳寺山への案内がある。この付近に観音寺境内に移
        された道標があったようだ。

        
         三差路から50mぐらい下ると右手に、1865(慶応元)年に建てられた「周防三孝女 
        石川阿石の碑」がある。
         説明文は擦れて読めないが、阿石は岩淵の農民・重郎右衛門の娘で、19歳で同じ里の
        伊八の嫁になる。伊八の兄である関蔵夫婦は、2町の田畑を耕作していたが、どちらとも
        足腰が悪く歩くこともできず、伊八を養子にし、「いし」を嫁にもらって家業を譲る。
         しかし、関蔵夫婦の病は治らず、薬代に田畑を売ると、貧しくて朝夕には煙りも立たな 
        いようになる。伊八は稼ぎのために旅に出たが商いに失敗し、家を出たまま10年も帰ら
        なかった。
         いしは舅と姑を背負って寺に詣でたり、夜は抱いて厠に行かせるなど、女の力に耐えが
        たき事をしながら、雨漏りのする窓の下で糸を繰って数年が経った。その行いが藩主の耳
        に入り、褒美と一代苗字「石川」を賜る。夫がこれを伝え聞いて帰って来て、二人で共に
        孝養を尽くしたという。

        
         近藤芳樹(1801-1880)は岩淵の農民・田中源吉の長男として生まれる。幼児から学問を
        好み、上田堂山の勧めにより、国典を防府の鈴木直道、国学や和歌を村上春門・本居大平
        (おおひら)に学ぶ。藩主・毛利敬親に呼び戻されて、藩士近藤家を継ぎ、萩明倫館の教授と
        なる。
         明治維新後は上京し、宮内省文学御用掛、明治天皇に国学を講じたり、行幸のお供など
        したが東京四谷の自宅で没する。

        
         岩淵集落の入口付近に常夜燈、右手に地蔵堂がある。岩淵は、宿馬十疋の半宿だったそ
        うだ。
         この付近に元税関士・石川栄吉氏が、1900(明治33)年から15年間、塾を開設し英
        ・漢・数・国・修を教授したという。

        
         すでに更新された家々が並ぶが、岩淵市は家数30軒位とされていたが、今も家数はそ
        れほど変わらないようにみえる。

        
         厳島大明神(笠松大明神)は笠山に祀られていたが、鎌倉期の1199(正治元)年に現在の
        岩淵会館がある地へ移された。明治の初め頃に村社となったが、1908(明治41)年11
        月に繁枝八幡宮に合祀された。集落の人は「さる宮様」といったそうだが、今は石灯籠の
        みが証として残されている。

        
        
         岩淵古墳周囲は樹木に覆われているが、切り開かれた中に現存する。南向きに開口部が
        あるが、土砂の流入と竹が繁茂するという状態で、石室内を拝見することができなかった。
         築造年代など詳細なことは知り得なかったが、竪穴系横口石室という九州の影響を受け
        た珍しい古墳とのこと。

        
         岩淵市は観音寺分岐から500m足らずである。

        
         横曽根川手前の道端に三角形の石塚が建っている。むかし瀬十郎という人が蛤で食あた
        りとなり、21歳の若さで中毒死したという。その塚といわれているが、瀬十郎は礼儀正
        しく人に親切な若者であったので、塚を建てて忘れないようにしたという。
         この塚に腰をかけたり、足を上げたりするような礼儀に反することをすると、祟りがあ
        ると伝えられる。「小俣 蛤 瀬十郎に敵(かたき) 惜しや殺した21を」という歌を知る
        人も少なくなったという。

        
         何の碑かと覗いてみると、2003(平成15)年に県営圃場整備事業が竣工した旨の碑で
        あった。

        
         上田寧二翁の碑文によると、「わが岩淵の里は水利が不便で、里人は長い間大変悩んで
        いた。村有数の財産家で見識のある上田寧二君はこれを心配し、資金を出して土地を調べ
        て溜池を造り、里人の心配をなくした。大正4年(1915)のことであり、その功績を伝える
        ことなく君は逝去した。それから3年、昭和13年(1938)春に事業を後世に伝えるため建
        立した」とある。

        
         集落の東に聳える楞厳寺山の8合目には七堂伽藍があったという。1592(文禄元)年豊
        臣秀吉が九州に出向く時、寺の僧が秀吉の命令に背いたため、秀吉の怒りを受けて放火さ
        れたという。
         1840(天保11)年の大雨により、寺地があった付近から崩れ落ち面影は消え去ったと
        される。 

        
         小俣の岸の下に「旦・あいお道」と刻まれた道しるべが建っている。その傍の地蔵尊に
        は、文化3年(1806)6月新五郎と刻印されている。 

        
         この道が大海・旦から小鯖を経て山口に至る山口道のようだ。

        
         小俣八幡宮は小俣地区の鎮守で、鎌倉期の1199(正治元)年創建と伝える。それ以前の
        小俣住民は、小鯖村の鰐鳴(わになき)八幡宮の氏子であったが、ある年の祭日に小鯖の住民
        と争いになり、小俣の者が鰐鳴八幡宮の神府を持ち帰って御神体として祀ったことに始ま
        るという。

        
         小俣地区の大歳祭で行われる「お笑い神事」は、1199(正治元)年の八幡宮創建と同時
        に始まった。毎年11月初旬に農業の神である大歳神を迎え、代々世襲の21戸の講員が
        頭屋に集まって収穫の感謝と来年の豊作を祈願する。
         講員の二人が上座と下座に対座し、榊を手に「アッハッハ」と大声で笑うというもので、
        1回目は今年の五穀豊穣に感謝し、2回目は来年の豊作を祈願し、3回目は今年の労苦を
        忘れるという意味を持っている。(現在は小俣八幡宮で行われている)

        
               「うららかな顔が
                     にこにこちかづいてくる」
         種田山頭火は、1906(明治39)年から11年間大道の地で父と一緒に酒造場を営んで
        いた。この句は、1940(昭和15)年4月初旬に最後の草庵とした松山の一草庵で詠まれ
        た句である。 

        
         小俣八幡宮の御旅所の鳥居には額名はないが、鳥居には「千時宝永四年丁亥(1707)九月
        吉祥日」「奉寄進小俣八幡宮氏子中」と刻まれている。(道は旧山口道)  

        
         明善寺(真宗)は、岩淵に住んでいた原田善祐が本願寺の良如上人の直弟子となる。16
        38(寛永15)年に小俣村に帰って、現在地の神田(こうだ)に寺を開き、1663(寛文3)年に
        寺号免許を得たという。

         
         寺から国道2号線に出ると、JR防府駅とJR新山口駅、JR大道駅行きの3路線バス
        があるが、防府駅行きが待ち時間も少なくベストであった。


防府市切畑‥旧山口道から玉祖神社

2025年02月11日 | 山口県防府市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         切畑は横曽根川上流域、千切峠の南に位置する。
         地名の由来について、昔は深山であったが防府の者が伐り開き、百姓をするようになっ
        たの
で切畑になったという。
         また、天平年間(729-749)に長門国鋳銭司の銅を産出した達理(きり)山の山麓地帯に開け
        た耕地であることから達理畑になったともいう。(歩行約63km、🚻神社と寺) 

        
         JR大道駅からバス便があったようだが廃止されたため、タクシーを利用して防府リハ
        ビリ病院前で下車する。防府市による切畑デマンドタクシーがあるようだが、①登録制、
        ②予約制のようで域外の人は利用できない。

        
         病院前から東へのびる道を進み、山陽自動車道の高架下を潜り右折する。

        
        
         この地は台道の小俣地区だが、通り道なので立ち寄ると墓地の中に地蔵尊と厄神社。厄
        神社の建立年代は不詳とのことだが、災難防護、病気平癒など厄除けの神として崇敬され
        てきた。

        
         圃場整備により設置された道のようだ


        
         この一帯は光連寺という寺ゆかりの地で小字とされている。いつの時期かに地蔵尊が集
        合したようで、石風呂跡と天神社があるとのことだが見つけ出すことができず。

        
         玉祖神社前にある地蔵尊は、1726(享保11)年建立とされ、台座には「法界霊年」と
        刻まれている。傍に切畑八十八ヶ所66番と14番が祀られている。(道は押地道)

        

         一の鳥居には、
          古廟厳然花表新為 (古きみたまやが厳かに立つ ここに鳥居を新たに造る)
          禹丈八字中秋月圓 (中秋名月のように美しく 豊かで平和な里であるように) 
          宝永七歳集甲庚寅(1710)八月吉日とあり。

        
         切畑玉祖神社は、防府市大崎にある一の宮(玉祖神社)より勧請され、古若宮の地に創建
        されたが創建年代は不詳とされる。1761(宝暦11)年現在地に遷座したという。
         言い伝えによると、ある年のお祭りの時、切畑の者と右田の者が争いを起こし、切畑の
        者が獅子面を持って帰り、一の宮の分霊を迎えて一社を建立したという。

        
         境内にある洪鐘(防府市文化財)の銘文によると、当時大旱魃が起こり、穀物すべてが枯
        死しようとした時、村人は神に救いを求め降雨を祈った。そのおかげで沛然(はいぜん)と雨
        が降り出した。
         「表中あれど花鯨なし(鳥居はあるが、洪鐘がない)とのことで、ここに洪鐘をかけ、徳
        功を鳴らす。夢はさめ、神威は盛んになり、穀物に慈雨を潤し、民は和らぐ。願わくは鐘
        の音は無窮(永遠)でありますように。享保14年(1729)8月15日」とある。
         この洪鐘は、切畑分教場で時を報知していたが、分教場廃止に伴い、再び境内に移設さ
        れた。

        
         1874(明治7)年に築庭された庭に、ある建設会社より新幹線工事の記念として、19
        72(昭a和47)年に放生池の底築資材の提供を受ける。氏子の奉仕によって完成したという。

        
         爺婆の石とされ、子育て、夫婦円満にご利益があるとされる。古くより初宮詣の時、こ

        の石に御酒と白玉団子をお供えして、子供の無事な成長を祈る風習がある。(説明板より)
         その他境内には、西伯利亜(シベリア)出征記念碑、1927(昭和2)年建立の前田建助顕
        彰碑、1906(明治39)年建立の征露紀念碑がある。

        
         目安橋北詰が四差路となっているが、橋を含めて南北が山口道、直線道は畦倉道で鋳銭
        司に至る道、神社から歩いてきた道が押地道で防府市佐野に至る。

        
         道標には「右旦浦道 左山口道 右畦倉道 左押地道」とある。

        
         「目安橋明治15年(1882)2月架之‥」と刻まれている。

        
         山口道は大内時代に開けたとされ、台道の旦から芝山峠を越えて、切畑地区を縦断して
        千切峠に経て山口に至る道である。
         この道は、大海・旦方面から海産物・石炭・肥料を小鯖や山口などに送って、帰路に薪
        ・炭を運ぶ道であった。現在の県道は、1837(昭和12)年に新設された。

        
         八十八ヶ所28番の傍に法華経を66部写経し、66ヶ国の寺院を巡礼して1部づつ奉
        納した記念に建てた廻国塔がある。
         1812(文化9)年に行脚僧・市右衛門が建てた碑には、「天下泰平 文化9年正願成就
        奉納妙典日本廻国 江戸神田行者・市右衛門」と記されているという。言い伝えによると、
        市右衛門という行者が、昔、上之庄の人々にお世話になったお礼のため、この地を訪れ、
        感謝の気持ちを伝え、正願成就の証として塔を建立したという。

        
         墓地入口に経王塚と多宝塔があるが、同じ場所に設置されているのかは不明とのこと。
        経王塚は経典の中で最も尊い法華経・大般若心経を行脚僧の禅心が、ここに埋めて塚を建
        てたもの。塚の石に「再建立禅心」という文字が刻まれているという。
         多宝塔は行脚僧が釈尊・多宝の2つの佛を祀った塔とされ、塔は円形で、その上に屋蓋
        と方向の裳階(もこし)がついていたという。現在は文化12年(1815)と刻まれた石碑だけが
        残っている。

        
         切畑には六地蔵が4ヶ所に安置されているが、ここ上之庄墓地にも舟形で浮彫地蔵があ
        る。地獄・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道で、苦難を救ってくださる地蔵尊である。

        
         墓地のある峠を越えると第41番の地蔵尊。(下って見返る)

        
         岡の上の三差路にある道標には、「左 佐野道 右 だんうら道」とある。

        
         山陽新幹線切畑第二架道橋を潜る。

        
         大道小学校切畑分校があった地で、1874(明治7)年切畑小学として宝蔵寺を借りて開
        校(児童42名)する。その後、西山弥勒に校舎を新築し、1902(明治35)年に切畑分校
        となっていたが独立し、東畑に校舎を新築して金陽尋常小学校となる。
         のち、繁枝小学校の分校となったが、1966(昭和41)年3月に大道(旧繁枝)小学校に
        統合される。

        
         切畑保育園跡は公園化されているが、1952(昭和27)年玉祖神社境内に切畑遊園とし
        て開園し、翌年に講和保育園と改める。
         のち切畑分校廃止により旧校舎を使用していたが、1873(昭和48)年7月現在地に移
        転する。その後、切畑愛郷会が経営することになり、切畑保育園と名称変更するが、閉園
        の時期は知り得なかった。 

        
         県道歩きとなる。(正面に新幹線)

        
         県道から再び旧山口道に入って垰越えする。(玉祖宮の常夜灯) 

        
         高台より採石場(石切り場?)を眺望する。奈良期には逵理(きり)山より銅鉱石が産出され
        たが、鉱山跡はどの辺りにあったのだろうか。

        
         千切峠方向。

        
         高台より山道に入る。

        
         穀物の神である大歳社だが、由緒書きが無いので詳しいことは不明となる。

        
         宝蔵寺(曹洞宗)は、金山の妙慈岩という岩窟に十一面観音菩薩を安置し、その下に、室
        町期の1530(亨禄3)年に創建されたという。1604(慶長9)年益田氏の知行地となり、
        現在地に移建された。

        
         1926(大正15)年に建立された切畑地区八十八ヶ所は、大師像を富田(現周南市)より
        馬車で運搬したという。建立場所は寄付された家に割り当てられ、安置番号は「くじ」で
        決定したという。(碑には南無弘法大師八十八ヶ所切畑霊場とあり) 

        
         原田サダ(1871-1967)は、陶村(現山口市陶)の西村文平の長女として生まれ、1895
        (明治28)年に庄屋だった原田家に後妻として入るが、若くして夫に先立たれる。大正末期
        から25年間大道村婦人会長として、夫人の地位向上に取り組んだとされる。碑には「徳
        薫千古」の文字が刻まれ、裏面に功績が述べられている。

        
        
         1953(昭和28)年福岡県篠栗の23番札所・山王薬師堂にある十三佛を勧請し、本堂
        裏に寄進安置されている。
         十三佛とは、閻魔王をはじめとする冥途の裁判官である十王が、亡者の初七日から七七
        日までの毎七日、百か日・一周忌・三回忌にそれぞれ生前の罪の裁き、その後の審理(七
        回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る仏とされる。
         したがって一定の順序と忌日が決められているので、13回の追善供養をしなければな
        らないとされる。ここには中央に釈迦如来像を囲み、15体が安置されているが、左端と
        右端は違うようだ。
         寺前で県道西側の散歩を残念して、タクシーで
JR大道駅に戻る。


防府市台道の市・下津令‥台道市から大楽源太郎の西山塾跡

2025年01月25日 | 山口県防府市

                                   
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複写加工したものである。
         台道は大海湾に注ぐ河内川・横曽根川流域に位置する。切畑の千切峠を頂点に東西を山
        麓に挟まれた扇状の平地である。市・下津令はその西にあって、台道市は名のとおり旧山
        陽道沿いに集落が形成され、下津令は大海山地の東に位置する。(歩行約9.1㎞) 


           
         JR大道駅は、1900(明治33)年12月山陽鉄道の開通と同時に開業されたが、当時
        は大道村であったことから駅名となる。
         2004(平成16)年に高等学校・中等学校が移転してきたため、橋上駅舎となり南口が
        開設される。

           
         往時、市東にあったとされる恵比須社が、この付近に移転したとされるが、この社なの
        確証を得ることができず。

         
          
         繁枝(しげし)神社の社伝によると、飛鳥期の684(天武天皇13)年に台道地区の鎮守とし
        て下津令に創建される。室町期の応永年間(1394-1428)に台道村を二分し、旧山陽道の北
        側には小俣八幡宮が奉斎されることになる。鎌倉期の1191(建久2)年現在地に遷座し、
        後に6つの神社が合祀される。

        
         繁枝神社の右手に大楽源太郎記念碑があるが、碑文だけは死後まもなくできていたそう
        だが、当時は国賊であったことから建碑は差し控えられた。1889(明治22)年の憲法発
        令による大赦令で復権し、翌々年に記念碑が建立される。
         勝海舟は「大楽は善さそうな男だったよ。あまり会ったことはなかったが、話せる奴ら
        しかった。長州では珍しい男さ」と‥。真相はともあれ、寺内正毅など多くの人材を次の
        時代に送り出したことは確かである。 

        
         1874(明治7)年台道小学と台道南小学が開校するが、1877(明治10)年に統合され
        て繁枝小学校となる。その後、市東地区へ移転し、校名も変更されて繁枝小学校は役目を
        終える。

        
         193(昭和6)年建立の地蔵尊は、幼児が伝染病で亡くなった供養のためとされる。(右
        の道に入ると分校跡) 

         
         統合記念碑と記念樹碑があるが、1948(昭和23)年4月に県立山口農業高校大道分校
        (農業科・家庭科)がこの地に開校する。農村の中堅人物を養成し、多くの人材を世に送り
        出したが、社会情勢によって学校の運営は至難を極める。先に家庭科が廃止され、196
        7(昭和42)年3月本校(旧小郡町)へ統合された。(裏面の説明より)

        
         種田山頭火は、1906(明治39)年父の竹治郎と大道村の山野酒造場を買い取り酒造業
        を始めるが、暖冬で酒が腐敗したことが原因で破産に追い込まれる。 1916(大正5)年妻
        子とともに熊本に移り住んだのは、山頭火34歳の時であった。大楽源太郎同様に追われ
        るように台道の地を離れていったもう一人の人物でもある。この樽と釜は、大林酒造場(種
        田酒造の後継)から譲り受け展示されている。(旧大道郵便局跡地?)
              山頭火句「酒樽洗ふ夕明り 鵙(もず)けたたまし」
                              (大正3年(1914)「層雲12月号」)

        
         道筋に目立つ煙突があったので立ち寄ると、近所の方が現在は使用されていないが、焼
        物用の煙突であると教えていただく。

        
         1940(昭和15)年この地へ大道村役場が新築移転(それまでは市の中ほど)する。昭和
        の大合併で防府市となり出張所が置かれ、現在に引き継がれている。

        
         山口道は旦地区から柴山峠を越え、さらに切畑の千切峠を越えて山口に至る道であった。
        大内時代に開けたものと思われるが、大海・旦方面から海産物・石炭・肥料などを小鯖・
        仁保・山口などに送って、その帰りに薪や炭を運ぶ大切な道であった。(碑は旧山陽道と交
        わる地点)

        
         小祠と御旅所のような台座。

        
         旧山陽道は佐野峠から岩淵を過ごすと台道市である。天下御物送り場に宿馬10疋を備
        えた半宿であった。

        
         諧光寺(真宗)の寺伝によると、足利義政に近臣だった内田正房は、応仁年間(1467-146
        8)に国家の大乱に及ぶことを深く憂慮し、当国に下って農業をしながら隠遁の身になる。
        その子は比叡山で天台宗の僧となるが、のち浄土真宗に帰依する。
         父に従って台道に来て教義を広め、室町期の1501(文亀元)年内山に道場を建てて立正
        寺とする。大内輝弘の乱で寺は放火され、のち街道筋に再建して現寺号に改める。江戸期
        には諸大名通行の際の休泊所になったという。

        
        
         数軒ほど厨子2階の建物がある。この付近の左手に大道村役場があったとされるが、現
        在は個人宅となり痕跡等は見られない。(その先に法華宗の妙顕寺)

        
         左手にある上田新太郎の碑には、「心広く、おだやかで親切、よくその務に励み、庄屋
        であること14年、戸長であること6年、村民は喜び心服した。1877(明治10)年11
        月に逝去、村民はこの上もなく慕い、碑を建てて人徳を顕彰する」とある。

        
         上田家は県内屈指の旧家で、家は解体されて近代的な家屋になっている。道沿いに井戸
        が残されているが、江戸期には酒造業を営み代々庄屋を務め、農地解放以前は県内有数の
        大地主であったという。
         この家屋の表札には上田敏雄(1900-1982)とあるが、五男一女の四男としてこの地に生
        まれ、詩人として活躍する。国家主義が台頭し始めると、1934(昭和9)年に「自由詩は
        何処へ行く」を発表して詩壇から去る。
         現在の芝浦工大で英語を教えていたが、東京空襲が激しくなり郷里の山口に妻子ととも
        に疎開し定住する。その後、山口経済専門学校(現山口大学経済学部)で子弟の教育に携わ
        りながら、1948(昭和23)年に長い沈黙を破り詩壇に復帰する。

        
         
         堂山には厳島六社大明神が祀られているが、入口の碑には、この地方は「まむし」が多
        く山仕事や野ら仕事をするのに土地の人は苦しんだ。「まむし」の害を除くため、169
        0(元禄3)年上り熊に片山鹿社を建て、厳島大明神を勧請した。それから百余年の歳月が過
        ぎ、祠は傾き、祭りをするのも不便とし、相談して堂山に社を移したとある。(碑は183
        2年建立) 

        
         1862(文久2)年萩藩主・毛利敬親は、尊皇攘夷を実行するため藩庁を萩から山口に移
        し、守りを固めるため小郡の柳井田と防府勝坂に関門、その他に番所を設けて他国者が自
        由に山口の地へ入れないようにした。山口の地には伊勢神宮の分霊を勧請した高嶺大神宮
        があり、近隣諸国からの参拝者は困ったため、小郡に外宮、台道に内宮の遥拝所が設けら
        れた。
         1869(明治2)年に関所が廃止され、遥拝所もなくなったが、「揚輝」「永照」と刻ま
        れた灯籠が国道2号線北に残されていたが、消滅していたのでこの地へ移されたのだろう
        か。 

        
         旧山陽道は台道市尻で国道2号線に合わす。

        
         市から上り熊に向かう途中「法界」と刻まれた地蔵尊。

        
         上り熊集落に入る。 

        
         西山塾(書屋)跡がある中山家の手前に、1813(文化10)年建立の三界萬霊塔と石仏。
        塾跡は中山家の敷地内にあるので了承を得る。

        
         大楽源太郎はこの地で私塾を開き、子弟を教えていたので四境戦争には参加しなかった
        が、多くの子弟が参加する。1869(明治2)年までの3年間と短い期間であったが、従学
        人数は百数十人であったといわれている。

        
         大村益次郎暗殺事件、山口諸隊脱退騒動に大楽の門下生がいたことから嫌疑の目が向け
        られる。1870(明治3)年3月5日諸隊会議所から召喚があり、門人1人と山口へ向かう。
        危険の切迫を覚った大楽は、小鯖八幡宮前の店屋「杉屋」で一休憩した際に、大便を催し
        たと両刀を門人に預けて家の裏から逃げる。山の中を逃げ隠れしながら、夜を利用して密
        かに台道村へ立ち帰り下津令に潜んだとされる。(ここに茶室があった) 

        
         山陽本線峠第2踏切を越えると、上り熊集落の中心地に八幡宮の灯籠、左手の民家内に
        五穀を司る神、農業神とされる保食神(うけもちのかみ)が祀られている。右手の道を少し行け
        ば、1779(安永8)年建立の地蔵尊が祀られている。 

        
         河内川を過ごして下津令集落に入る。(正面の山は大海山) 

        
         右手の高台が開けているので立ち寄ると、まさに扇形の平地で、正面の山と山の間が扇
        の要(かなめ)である千切峠。

        
         繁枝神社の旧跡。

        
              「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」 山頭火
         昭和8年(1933)7月11日の其中日記に椹野川に沿うて散歩した。月見草の花ざかりで
        ある途上で数句拾うたあるが、その数句の中にこの句がある。日ざしを浴び、雨に打たれ、
        風を受ける地蔵尊はたくさんの人の目にとまる。そのやわらかな微笑からは今日を生きる
        元気をもらえる。山頭火も散歩中にお地蔵さまと対面したのであろう。

        
         妙蓮寺(真宗)は、戦国期に城(じょう)長盛という武士が海上警固にあたっていたが、世の
        無常を感じて真宗に帰依する。1607(慶長12)年現在地に寺を建立したという。
         大楽源太郎は台道村に立ち戻ると門弟であった下津令の弘中宅や山県宅に隠れた。妙蓮
        寺にもしばらく潜んでいたとされるが、20日間ほど下津令のあちこちに隠れた。

        
         台道南で県道25号線(防府宇部線)に合わし、そのまま南下して十郎橋を右折する。非
        舗装路を進むと六地蔵が見えてくる。(歩いてきた道) 

        
         団紳二郎(1848-1875)は萩藩寄組の児玉若狭の家臣で、台道に居住して大楽源太郎の門
        下生となる。熱烈な尊皇攘夷主義者となり、戊辰戦争では東北各地を転戦する。
         1869(明治2)年大田光太郎、神代直人らと上京遊学中に、大村益次郎の士族廃刀論や
        徴兵論に憤慨して暗殺を計画する。9月4日同志13名と京都木屋町の旅宿を襲撃して大
        村に重傷を負わせる。
         その後、越前に逃亡したが捕らえられ、同年12月京都で斬首される。同地には「団御
        楯 明治22月没」と刻まれた基石がある。

        
         左手に下津令を見ながらJR大道駅に戻る。


防府市台道の大繁枝・旦‥柴山古墳から大楽源太郎の墓

2025年01月23日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         台道は大海湾に注ぐ河内川・横曽根川流域に位置し、切畑の千切峠を頂点に、東西を山
        麓に挟まれた扇形の平地に位置する。
         大繁枝・旦地区は地内の東南にあって、柴山と海岸部に挟まれた南北に長い集落を形成
        している。(歩行約6.3km) 
 
        
         1935(昭和10)年代に建立されたお大師様のようだが詳細は知り得ず。

        
         旧県道に合わす。

        
         防府への分岐にある高さ約54㎝の道標には、「右 かみ方 左 大道駅」と刻まれて
        いる。
1923(大正12)年大道駅に通じる新道建設時に設置された。

        
         1955(昭和30)年に完成した簡易水道の水源地が、河内川の左岸付近にあったとされ
        る。同年には大道村は防府市に編入されたが、1972(昭和47)年防府市上水道の給水開
        始まで使用されたという。 

        
         金鷲橋の袂に「八幡宮」の灯籠あり。橋名は鷲崎という地名と、立派とか素晴らしいと
        かの意味で「金」を付けたとされる。

        
         橋の上流にある「奉納大乗妙典日本廻国石橋供養 願主江戸長吉」の碑は、文化2年(1
        805)建立とあり。言い伝えによると、昔は河内川に橋はなく、潮が引いた時に渡っていた
        が、満潮の時や洪水の時は渡ることができず里人は難儀していた。この地に泊まっていた
        行脚僧が石橋を架けることを思い立ち、橋を架け終ると当地を去ったという。

        
         橋から県道25号線(宇部防府線)へ向かうと、左手に柴山(旦山)古墳群入口を示す案内
        がある。

        
         この地が唯一の展望地で、台道の町並みと楞厳寺山。

        
         入口でお会いした方に簡易水道配水池についてお尋ねすると、この階段の左手奥にコン
        クリートの桝があったが、竹の繁茂などで場所の特定は難しいとのことであった。少し入
        ってみるが先に進める状況でないので残念する。
         旧勾配の斜面に疑木階段が設置され、途中にNTTドコモの中継基地がある。

        
         東峰に四等三角点と「御降誕記念旦東区(昭和9年3月)」の石碑、旗立て棒が建てられ
        ている。

        
        
         柴山古墳は、大化の改新によって国府と鋳銭司の中間にある要地として軍団が置かれ、
        豪族がこの地を治めていたものと思われる。豪族に関係する古墳と推察されているが、1
        号古墳は頂上部の東に向いているが天井石は存在しない。

        
         2号古墳。

        
         3号古墳は崩壊している。

        
         はっきりしない竹林の道に道しるべがあって、登山の素人にはとってはありがたい。

        
         下って上り返すと中峰、その先の小さなピークを過ごすと大楽源太郎墓分岐に至るが、
        ここは古墳の案内に従う。

        
         西峰の南に4号古墳。

        
         案内に従って南に延びる尾根を下る。 

        
         5号古墳。

        
         6号古墳を見て遊歩道へ戻るとUターンの指示があったが、踏み跡がしっかりしていた
        ので尾根を下る。この先7~9号古墳があったようだが、現在は確認できないとのこと。 

             
        
         下り終えると登山口に案内が設置され、その先の柴山鳥越霊園内を抜ける。
         墓地内に井関英太郎忠国墓があるとされるが、墓地内歩き廻るが見つけ出すことができ
        ず。英太郎(1844-1863)は,1863(文久3)年馬関の攘夷戦に参加、のち閣老・小笠原長
        行を大坂で襲撃する計画をしたが成功せず、奇兵隊に入隊する。8月18日の政変による
        七卿落ちを三田尻で守衛し、10月に平野国臣が沢宣嘉を擁して、長州脱藩の士・但馬の
        郷士と共に生野で武装蜂起に加わるが、鎮圧されて10月14日同志と共に自刃する。 

        
         柴山は横曽根川河口の西方に位置し、花崗岩の独立丘である。大海山地の一部のように
        見えるが、標高15mの洪積台地で繋がっている。かつては島であったものが、次第に陸
        繋地化したものである。 

        
         かんきん堂と陶業創立25周年碑。1879(明治12)年上田開作が作られ、河内川が旦
        浦方へ延びて入川となり、柴山下に細長い土地ができた。旦浦から防府方面へ行く道も開
        け、佐野から佐野焼の人たちが入って来て大集落が形成された。佐野焼は古い伝統があり、
        新しい窯元を開くことができなかった。明治の終わり頃に桑原文左衛門が佐野から旦に来
        て窯を開いたので、佐野の座の者から抗議を受けたという。
         なぜ「かんきん堂」というのかはわからないが、灯籠に海上安全と刻まれ、1907(明
          治40)
年建立とある。陶業碑は1925(大正14)年建立とあり。 

        
        
         西の小溝の曲がり角にある約2mの自然石は、輝弘石(600人塚)いわれる墓塚である。
        1569(永禄12)年豊後国の大友氏に寄宿していた大内輝弘が山口に侵攻する。高嶺城は
        落城できず周囲を毛利軍に包囲され始めたため、秋穂浦に撤退したが軍船はなく、あわて
        て東をさして逃げようとした。この付近で激しい戦いが行われて多くの戦死者が出たので、
        土地の人々が多くの戦死者を弔って建てた塚といわれている。 

        
         万寿池碑の表面「霊沼聿成 嘉穀攘々 千斯萬年 永咯劫無彊」(りっぱな池が遂に完
        成し、よい穀物が豊かにみのること、千年万年と無限につづく)とある。
         裏面には、1912(明治45)年に起工し、1914(大正3)年5月完成し、灌漑地域は3
        0町歩とある。

        
         2003(平成15)年に開通した県道58号線(防府環状線) 

        
         この塚も大内輝弘の乱による戦死者の碑で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、念仏石(200人
        塚)とされる。

        
         どうやね様と呼ばれる祠は、平家の武士を祀ったものとされるが、もとは7戸で講を作
        っていたとされる。

        
         津令への道を左に分けて駅に向かう。

        
         道路脇に「大楽源太郎先生墓所入口」の碑あり。

        
         踏み跡を辿れば大楽奥年夫婦の墓(手前)がある。明治の初めに兵制改革を唱えた大村益
        次郎を襲った中に、源太郎の門下生がいたことから首謀者の嫌疑がかけられ追われる身と
        なる。源太郎と弟、門弟2人は夜ひそかに旦の浜から豊後に身を隠し、久留米の応変隊を
        頼るが同隊の隊士により、1871(明治4)年3月16日暗殺される。妻の「りち」は、1
        879(明治12)年に死亡し、後年に門人たちが墓を建立する。(中央は父・山県信七郎の
        墓、奥は大楽家の墓)

        
         三差路に賽の神が祀られているというが、陰刻がないのでこれだと確証はない。集落の
        境界に位置し、外部からの侵入者や悪霊を防ぐ役割をする。 

        
         その先のお堂に5つの仏が並ぶ。右より地蔵菩薩、弘法大師、薬師如来、観世音菩薩、
        不動明王が祀られている、いずれも放置されていたものや他所から持ち込まれたものであ
        るという。

        
         高川高校を過ごしてJR大道駅に戻る。