この地図は、国土地理院の2万五千分1地形図を複製・加工したものである。
西市は俵山を発して小月湾に注ぐ木屋(こや)川の下流右岸に広がる平野の一部に立地する。
古くは木屋川の左岸に市が立っていたが、度重なる水害を受けて水害が少ない今の西市に
市が移転すると、山陰と山陽を結ぶ赤間関街道(北浦筋)も移る。(歩行約3.8㎞)
JR小月駅(10:23)よりサンデンバス大迫行き約40分、長正司バス停で下車する。
木屋川通船荷揚場跡は、木屋川左岸の県道側から川に降りる階段を見ることができる。
1854(安政元)年に小屋川通船工事が完成すると、豊田郷の物産がこの船積場から舟に積
まれて、小月木屋に運ばれるようになる。それまでの物資の輸送は、馬の背に積んで運ば
れていたので、運ぶ荷物の量も限られ、運搬には労苦が伴なったという。
西市交差点を右折して旧赤間関街道筋を北上する。
旧西市町役場は老朽化のため、1934(昭和9)年に庁舎が新築される。以後、昭和の大
合併で「豊田町」が発足し、1956(昭和31)年に新庁舎ができるまで町行政を担った。
移転後の古い庁舎は、山口県豊田林業事務所と豊田町商工会が事務所としたが、現在は民
間企業が使用している。
旧町役場の片隅には、かっての西市町に寄付金や土地を寄付した人たちを表彰した旨の
石碑が残されている。大相場師だった村岡金一、陸軍少将だった中野太介、地元名士の中
野知徳が表彰された。
長正司(ちょうしょうじ)公園から豊田盆地。1889(明治22)年町村制の施行により、矢
田村、西市町、殿敷村など8町村が合併し豊田奥村となる。1899(明治32)年西市村に
改称して、後に町制に移行して西市町となるが、昭和の大合併で殿居村、豊田中村、豊田
下村と合併して豊田町(ちょう)となり、西市が町の中心となる。現在は平成の大合併で下関
市豊田町(まち)となり、町村制施行前の村々は大字とされる。
豊田氏が居館を一ノ瀬から殿敷の向山に移した頃、長正司城が築かれたという。南に豊
田盆地が一望できる交通の要所で、長正司公園はその城山の中腹にある。
5月になると藤見ができる観光スポットで、大藤棚は地元の伊藤伊兵衛氏が、1879
(明治12)年美祢の草井川の元庄屋よりもらい受けた鉢植えを植えたものとされる。藤棚の
右にある観音堂は、大内盛見が豊田氏討滅後、豊田滋武一族の菩提のため、千手観音を安
置したのが始まりという。
公園の片隅に神西氏の墓碑3基が並ぶ。右に尼子氏の重臣で上月城(兵庫県佐用町)落城
の時、大手門で防戦した神西国通(元通)、中央が神西氏の初代とされる小野高通、左に上
月城終えんの後に母と京都に逃れ、その後当地で帰農した神西景通の墓だとか。
日清・日露戦争などに西市町より出征した戦死者の慰霊碑として、1921(大正10)年
に建立される。石材の運搬は大掛かりなもので、徳山から鉄道で西市駅まで運ばれ、駅か
ら商店街をコロで移動させ、急斜面はウインチで運び上げられたという。
現在の内山家(元旅館)と村岡家の両宅地は、天正年間頃(1573-1592)に長勝寺(ちょうしょ
うじ)という禅寺があった所とされる。この寺院名が転じて「長正司」という町名になった
といわれている。
下関市役所豊田総合支所前に出ると、入口に中野半左衛門旧宅跡がある。半左衛門は1
804(文化元)年に生まれ、8歳の時に父と死別して祖父の薫陶を受けた。大庄屋格で萩藩
の勧農方や産物方を務めた。木屋川通船事業を志し、1854(安政元)年に事業を達成する。
幕末には高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)などの志士、長府藩に潜居していた中山忠光も
宅に出入りしている。1874(明治7)年没、享年71歳。
市総合支所は、その昔、朝倉(右田)弘詮が建立した普済寺跡であるとのこと。その支所
前を山田川が流れ、豊浦橋(旧長正寺橋)が架かっているが、巡見使等が通行する際には萩
藩と長府藩の負担で板橋となった。1864(元治元)年、殿敷の中野新左エ門が板橋を石橋
に改築したとされる。
橋の東側に萩城下より12里16町(約50㎞)、赤間関より8里(約32㎞)の一里塚が
あったという。
3階建ての建物に唐破風(からはふ)の玄関という木曽旅館は、いつ廃業されたかは定かで
ないが倒壊の途にあるようだ。
木曽旅館の隣にある慶雲寺は、1641(寛永18)年当地の医師重村道賀(戒名慶雲道賀
居士)が発願主となって、浄土宗鎮西派の寺院が建立された。
宿駅を取り締まり管理する村役人を「目代(もくだい)」と称していたが、西市の目代屋敷
は市恵比須社前(現松田本店)の「ワタヤ」という家であった。
目代の反対側に脇本陣の藤田屋(油屋)があったとされる。(現在は屋敷跡に数軒が建つ)
室町期には「東市」「西市」「今市」と3つの市があった。大内氏の筆頭家老朝倉(右田)
弘詮が、楢原の諏訪ヶ原に居館を構えた頃から、今市小路の柳ヶ原で市が始まったという。
木屋川の水害に悩まされることもなく、四方から人々が集まりやすい地形のため賑やか
になったという。
参道両脇は西市小学校。
西八幡宮は、鎌倉期の1191(建久2)年豊田郡司藤原種弘が宇佐神宮より勧請し、阿座
上村の天神坊に祀られたが、1656(明暦2)年現在地に遷座する。
遷座した際に記念樹として植えられたイチイガシの木。
平安期に豊田氏とともに栄えた東市が高熊の山本川近くにあった。室町期の初め頃にな
ると、木屋川東岸に西市ができたが、東市も西市も河川の氾濫が度々あったので、西市は
1626(寛永3)年に今の西市に移転し、今市といっしょになって商店街が形成されてきた。
しかし、1953(昭和28)年、旧商店街の東側に新県道ができてから、次第に新道に商
店が建ち並び旧商店街は衰退の途を辿る。
中野家は本陣として長府藩主や幕府の巡見使などの休泊所となる。当家は酒造業を営ん
でいたので屋敷は広く、長府から来住した当時の建物は、1830(文政13)年建て替えら
れたが、のち酒造業を止め、昭和の初め頃老朽化のため建て替えられたが、御成門は遺構
として残された。
木屋川のゲンジホタルがデザインされた旧豊田町のマンホール蓋。
立派な門が残されているが内部は空地である。
四叉路で右折すると、豊田梨選果場に旧長門鉄道西市駅があった。
1918(大正7)年に開業した長門鉄道は、小月と西市町を結ぶ18㎞に5駅と7停留所
(旅客の取り扱いのみ)があり、西市駅が終着駅であった。旅客だけでなく、石炭や木材、
竹材、米の輸送で地域の発展に貢献した。
しかし、経営が苦しくなると多角化を目指し、バス事業を兼業すると鉄道の乗客を吸収
し、貨物部門はトラック業界に取られるようになり、1956(昭和31)年3月に鉄道を廃
する。
開業当初の運行回数は5往復だったが、岡枝駅で列車のすれ違いが可能になると7往復
で運行されていた。
長門鉄道の開業時に用意されたアメリカのH・Kポーター社製の蒸気機関車(101)で、
1915(大正4)年に製造されたものだった。開業2年前に配置され、「速度は出ないが力
は強い」という特徴があり、小月~西市間を平均速度21.8㎞で走っていた。
1947(昭和22)年東洋レーヨンに売却され、プレートが「103」に改番されて煙突
も短くなったという。後に加悦(かや)鉄道SL広場に移管されていたが、里帰りしたという。
(道の駅に展示)
四叉路に戻って南進するが、この付近は天保年間頃までは家がなかったとのこと。(過ご
して見返る)
地蔵尊先の三叉路は左が赤間関街道だが右道を進む。
直進すると土壁の家に突き当たり、その右手に庚申塚がある。昼食と蒸気機関車の見学、
バスの時間調整を兼ねて「道の駅蛍街道西ノ市」に立ち寄る。
バス路線道に戻って北上し、句碑を読んで西市中央バス停(15:40)よりJR小月駅に戻る。
(唐破風の家は仏壇店)
蛍橋の袂に花田一径(いっけい)句碑
「豊田とは 好ましき名よ 飛ぶほたる」
一径は福岡県田川市に生まれ、防長新聞社に勤めたが、1988(昭和63)年没す。