この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
宮野上は山口盆地の東北方、椹野川流域に位置する。国道9号線とJR山口線が走り、
旧石州街道もその間を縫うように生活道として利用されている。
地名は古社仁壁神社が地内に鎮座することに関係があるものと思われる。(歩行約4.5
㎞)
JR山口駅からJRバス東萩駅行き約20分、宮野新橋バス停で下車する。
旧石州街道を北へ向かう。
一の井手から200mばかり行った左手に、仁壁神社の末社である綿積神社(旧龍王社)
を囲むようにムクノキがあったのだが‥。社殿周辺は明るくなっていた。
5本のムクノキがあったが。2本が6月中旬に突然に倒れて鳥居を壊したという。倒木
は境内に放置されたままだが原因はわからないという。
神社裏手にムクノキと鳥居。
さらに椹野川上流へ向かう。
国道より北側のマンホール蓋は、KDDI山口衛星通信所のパラボラアンテナがデザイ
ンされたものが使用されている。
新蔵橋で椹野川左岸に移動する。
対岸にあった石州瓦の大きな民家。
慶福寺(真宗)は石丸地蔵の古跡を再興したが、1999(平成11)年老朽化したため現建
物に再建された。屋根には白鷺が椹野川をじっと見つめている。
二義少年の碑文によると、寛文年間(1661-1673)のある夏、宮野は日照りで稲は枯死寸
前であった。この折、恋路の2少年が一の井手上流の13枚井手を切り落とし、下流の農
家の難を救った。この後、上流の七房地域の人々との水争いが激化したため、2少年は窮
状を直訴する。のち10年間の審理を経て二人の要求が認められたが、当時禁じられてい
た直訴を行ったことで処刑される。このことにより永年の水争いが解決したため、石碑を
建てて後世に伝えることとしたとある。
椹野川中小河川改修工事による一の井手堰で、1975(昭和50)年に越流型鋼製自動て
ん倒ゲートが設置される。
国道を横断して宮野の中心地へ向かう。
50番とされているのでこの一帯に八十八ヶ所が設けてあるようだ。
何に使用してされているのか大きな倉庫がある。
新旧の民家が混在する。
四差路を左折して永楽橋を渡ると右手に廻国供養塔がある。江戸中期に観音巡礼や四国
遍路にならって、日本国中の社寺を廻ること(日本廻国行者)が流行する。
この碑には「南無阿弥陀仏 明和9年(1772)壬辰8月15日 願主 六部 江洲(現滋賀
県)荒田弥兵衛」と刻まれている。
鳥居の額束には「天満宮」、柱には「寛政8年(1796)丙辰歳春諸願成就」とある。
平安期の905(延喜5)年に創建された岡の原天満宮は、室町期の1569(永禄12)年大
内の乱で焼失し、寛文年間(1661-1672)に再建された。現在の本殿は江戸中期、拝殿は昭
和初期に建立される。
自治体衛星通信機構山口管制局は、通信衛星により地方公共団体・防災関係機関向けの
防災情報・行政情報伝送を目的として、全国の地方公共団体の出資で1990(平成2)年に
設立された。
羽平堤は幅100m、奥行150mの貯水池だそうで、この時期はカモたちの楽園とな
っている。
池を見守るように地蔵尊が鎮座。側面には「明治43年(1910)9月14日」と刻まれて
いる。その奥にJR山口線の大山第1踏切があるが、SLの撮り鉄さんが喜びそうな場所
でもある。
宮野小学校は、1873(明治6)年廃寺になっていた法泉庵を寺内甚三が買い上げ、小学
校舎として寄付する。のち、七房、中村、桜畠小学が分立し、宮野小学は宮野河原小学と
改称する。
1878(明治11)年分立した小学を合併し、現在の学校地に校舎を新築して宮野小学(の
ち宮野小学校)と改称する。
宮野の中心部に近づくと古民家は少なくなる。
お堂の中を覗くと数体の仏像が祀られているが、詳細は知り得なかった。
街道筋では目立つ古民家である。
山口市内ではよく見かける「七夕ちょうちん」のマンホール蓋。
1941(昭和16)年に宮野村が山口市と合併する際、村有林の伐採益を宮野地区に限定
して使うという宮野財産区が設けられた。長井徳次郎は初代財産区長として宮野地区のた
めに尽力したという。
碑は別々の所にあったようだが、交流センターにまとめられたようだ。(百万一心の碑)
法明院に向かう途中、本宮野バス停で時刻表を確認していると、JR山口駅行きのバスが
停車したので乗車してしまう。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
小鯖(おさば)は下と上に分れるが中心は下小鯖である。北から東、南の3方を標高200
~500mの山地が連なり、中央を問田(といだ)川が北に流れ、国道262号線が南北に走
る。
地名の由来は、東南に隣接する佐波郡の佐波本郷、すなわち大佐波に対する枝村の小佐
波と考えられるとのこと。(歩行約5.6km)
JR山口駅(11:28)からJRバス防府駅行き約30分、八反田バス停で下車する。
左前方に見える正田山を目指して地下道を潜る。
小鯖小学校、小鯖幼稚園・保育園前を過ごす。
小鯖交流センター入口には「市民野外活動広場」の案内があり、傍には3つの碑が建つ。
右の碑は伊藤音市翁を称えたもので、1855(安政2)年小鯖の農家に生まれ、稲の品種改
良に一生を捧げた人物である。多くの品種改良の中でも「穀良都(こくりょうみやこ)」は全国
的に栽培された早稲種の代表格であった。1928(昭和3)年これを後世に伝えるため、小
鯖村役場(現交流センター)の前庭を見立てて碑が建立された。
左が「百万一心の碑」で御大典記念として県民一同を図る目的で設置される。中央は忠
魂碑。それぞれ別の場所あったものが、2017(平成27)年この地に移された。
高齢者生きがいセンター「正田の館」前を右折して車道を辿る。
途中には「私有地立入禁止」の看板が並ぶ。
正田の館から400mぐらいあっただろうか山頂には配水タンクが陣取る。
タンクの片隅に四等三角点(標高111.6m)
残念ながらタンク上の展望台には上がることはできないが、片隅から山口市街地方面の
み展望を得ることができる。
国道262号線まで戻って正田山を見ながら国道を歩き。
往還道に戻って引き返すと吉岡一味斎の碑がある。藩の剣道指南役であった吉岡一味斎
の娘を嫁にもらおうとした京極内匠が、断られたため火縄銃で一味斎を暗殺した地である。
一味斎の妻と娘は、英彦山毛谷村の六助の力を借りて小倉城下で仇討ちを果たす。この
物語が潤色されて浄瑠璃の「彦山権現誓助剣」となり、歌舞伎の演目になっている。
この地に2003(平成15)年「鳴滝温泉・満天の湯」として営業開始されたが、数年で
経営困難に陥り倒産する。
1889(明治22)年の町村制施行により下小鯖村と上小鯖村をもって小鯖村が発足する。
その後、大内村、仁保村と合併して大内町となるが、1963(昭和38)年山口市に編入さ
れ、山口市下小鯖と上小鯖になる。(街道は国道に合わす)
泰雲寺の四差路に合わす。
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われるようになる。
これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が祀られるようになる。(泰雲
寺分岐に馬頭観音の石碑)
泰雲寺に向かうと正面に鳴滝の岩肌。
泰雲寺山門入口の左側に王子神社蹟と刻まれた碑があるが、大内弘世が紀州熊野の那智
権現より勧請して鳴滝の鎮守とする。
1910(明治43)年神社合祀政策により、小鯖八幡宮に合祀されて狛犬と手水鉢だけが
残されている。
泰雲寺(曹洞宗)の由来によると、薩摩の石屋真梁(いしおくしんりょう)禅師が、室町前期の
1404(応永10)年に周防を訪れた時、大内盛見(もりはる)がこれに帰依。石屋は大内盛見
の求めに応じ、現在の地より約5km奥の宇津木畑(稔畑)葦谷に闢雲寺(びゃくうんじ)を開創
する。 (禅昌寺より遅れること9年) 石屋は在山4年で能登の総持寺に昇住するため去っ
た。
参道の途中に山門があり、その先で左折すると長い石段の両脇に石仏が並び、山門付き
回廊がある。
回廊内も石仏が並ぶ。
寺は室町期の1411(応永18)年火災に遭い、一時法灯が中断したが、1423(応永3
0)年石屋の弟子・覚隠が大内持世の招へいを受けて来山する。この時に芦谷から現在地に
移して建立し、大内教弘は闢雲寺に葬られた。
1609(慶長14)年6月12日に小早川隆景の13回忌が行われ、この時に隆景の法号
から現寺号に改称する。
隆景の室・満壽殿(ますどの)は、後に大内の間田に移ったので「間田の大方」といわれて
いたが、1619(元和5)年に逝去。
小早川隆景の供養塔。隆景は備後の三原城主で、晩年は秀吉5大老の一人として手腕を
発揮したが、1597(慶長2)年病にて三原城で逝去する。
大内教弘(1420-1465)は盛見の子で大内氏28代当主だった。築山館を建設し文化にも造
詣が深く、画僧・雪舟を招いたりしたが、幕命により四国に渡海するが伊予の興呂島で病
死する。
路傍の石仏。
左前方の面貌山は俗に小鯖富士の名がある。
「八幡宮」と刻まれた石灯籠2基と鳥居が見えるが、合祀されたのか社殿は存在しない。
鳥居から少し上がると、大師原の藤棚だろうか片隅にお堂がある。
高郷堂と記されたお堂の中に、三界萬霊塔、「馬」と刻まれた馬頭観音と地蔵尊が鎮座
する。
柊神社の創建年代は不明であるが、1758(宝暦8)年藩主・毛利宗広の次女・誠(のぶ)
姫が神社を再興したという。昔から婦人病の者が鳥居を奉納して祈れば霊験があると伝え
られる。
当神社も神社合祀政策により、1910(明治43)年小鯖八幡宮に合祀されたが、この柊
の旧社殿はそのまま現地に残され遥拝所とされる。小鯖八幡宮の境内には別殿が設けられ
て祭祀されている。
社殿裏に柊(ヒイラギ)の自然林があって、柊の地名となったとされる。花期は11~1
2月の寒い時期だそうだ。
社殿前には目通し2mの大きなヤマモモの木もある。
高速道路と山口IC、国道262号線の新設などで、この一帯の往還道は消滅してしま
う。現在は山口ICの函渠が往還道とされている。
国道262号線に合わすと交差点右の坂上に柊刑場跡がある。
山口藩は1869(明治2)年11月、5,000人以上に膨れ上がっていた諸隊のうち、
2,250人を常備軍とし、残りは解散すると命じた。ところが人選には身分を重視すると
いう不公平があったことが起因して、行く場を失った兵士たちは「脱隊騒動」と呼ばれる
反乱を起こしたが鎮圧されてしまう。
脱退兵は各地で捕らえられ、100人以上が死刑に処された。この柊でも処刑が行われ、
1892(明治25)年霊を弔うため供養塔が建立される。いつの世も弱者はいいように利用
されて、不要になれば切り捨てられる一例でもある。
この地は長州藩の柊獄舎があった所で、1867(慶応3)年大村益次郎は藩の医学校から
依頼されて、処刑された女囚の腑分け(解剖)を行なった。
国道の地下道を利用し、大内中学校前バス停よりJR防府駅に出る。
この地図は、黒土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
小鯖(おさば)は下と上に分れるが中心は下小鯖である。北から東、南の3方を標高200
~500mの山地が連なり、中央を問田川が北に流れ、国道262号線が南北に走る。
地名の由来は、東南に隣接する佐波郡の佐波本郷、すなわち大佐波に対する枝村の小佐
波と考えられるとのこと。(歩行約6.3km)
JR防府駅からJRバス山口大学行き約15分、洞道北口バス停で下車する。
向い側の歩道に移動してトンネル方向へ向かうと、左手に碑と松がある。1885(明治
18)年明治天皇の山口行幸に際し、この地で小憩されたのを記念して黒松を植えて石碑を
建てた。当初の植樹松は松くい虫で枯れたため、1987(昭和62)年に植え替えられたが、
現在の松は3代目だろうか切株が2つ現存する。なぜ美由伎松というのかは知り得なかっ
た。
旧萩往還道は三田尻(現防府市)から鯖山峠を下ると国道が横断している。
1887(明治20)年7月に佐波山洞道が開通するが、504mの石造トンネルは明治時
代の隧道としては全国で3番目の長さであった。もとは「佐波山洞道」の銘版だったよう
だが、現在は「佐波山隧道」となっている。1973(昭和48)年9月に複線での共用が開
始された。
トンネルから引き返す。
里道を挟んで美由伎松の向い側に、1939(昭和14)年に測量標の一等水準点が設置さ
れている。ここで標高101.9m地点である。
上鯖山大規模工業団地。
茅葺き民家の形に角屋造り(つのやづくり)というのがあり、家の上から見るとLやT字形
をしているが、見かける家屋は少なくなった。
萩往還道は「歴史の道」として、ポイントには道しるべが設置してある。
観音堂と石碑を見るため往還道を外れる。
手押し信号機で国道を横断すると、上鯖山公会館の先に小山がある。上鯖山観音堂には
室町期作と伝えられる観音菩薩像と22体の脇仏が鎮座するという。内部は施錠されて拝
見することができない。
国道傍に「天保大一揆発祥之地」の碑が建立されている。当時は出穂期に馬の皮を持ち
運ぶと大凶作になると考えられていたので、農民たちは皮番所をおいて通行人を監視して
いた。1831(天保2)年7月商人が皮番所を通過するとき、荷の中から獣の皮が発見され、
米相場の高騰を狙ったものだとみなされる。
これに怒った農民が各地の米屋や富農を襲い、騒動は長州全域に広がった。実際の発祥
の地は萩往還道沿いであった。
往還道を山口市街地へ向かうが、皮番所があった場所は不明とされている。この付近は
東から山がせまり、西に小川があって番所を置くには適した地である。
流れる雲と一緒に街道歩き。
往還道と禅昌寺(ぜんしょうじ)入口を示す石柱と、右手には地蔵尊2基と曹洞宗の山門に
ある「不許葷酒入山門」の石柱がある。
永年にわたり禅昌手の参道として親しまれてきたが、 1983(昭和58)年市道となり道
路拡張工事が行われた。参道には樹齢250年を超える大きなクロマツがあり、切り倒さ
れることなく聳え、そこだけ道が少し狭くなっている。
禅昌寺の入口に種田山頭火の句
「水音の絶えずしてみ佛とあり」
1936(昭和11)年7月4日野宿に疲れ、無一文となった山頭火は、永平寺に参籠(さん
ろう)させてもらい久しぶりに安眠したと記す。(永平寺での句)
室町期の1396(応永3)年禅昌寺創建時に建立された山門は、1730(享保15)年に修
造された全国でも珍しい越屋根型の様式である。
山門上の扁額「亀岳林」は、明の高僧・心越禅師(徳川光圀が師事した人)の書である。
(説明板より)
山門丸柱の書は、「竹密にして流水の過ぐるを妨げず 山高うして豈(あに)白雲の飛ぶを
礙(さまた)げんや」とある。
自己への執着を断ち切れば、天地間にさまたげるものは何もないという意味だそうだ。
山門の下は回廊となっている。
山門と本堂の間にやや丸みを帯びた石橋が放生池に設けてある。
禅昌寺(曹洞宗)の由来によると、室町期の1396(応永3)年能登の慶屋定紹によって開
かれた寺で、開基は大内義弘とされる。本堂は創建以来何度かの火災に遭い、現在の本堂
は方丈形式で、天保年間(1840年頃)に再建されたものである。(再建年は説明板より)
大庫院(炊事場)は切妻の大屋根の上に、煙出し櫓があるが、かっては約80の末寺・小
庵に囲まれ、1,000人近い修行僧がいたという。右には木造瓦葺きの鐘楼がある。
1970(昭和45)年に本堂の屋根が葺き替えられたが、本堂が再建された当時に作られ
た鬼瓦と思われる。紋所は毛利家のものである。
参りきて 心澄みゆく禅昌寺
木のま あかるき 玉の水音
赤松月船(げっせん・1897-1997)は詩人で曹洞宗の僧侶である。岡山県浅口郡鴨方村で生
まれ、小学校を卒業と同時に住職の赤松仏海の養子となる。
1916(大正5)年から永平寺で修行したが、1918(大正7)年に上京して生田長江に師
事し、文学活動を始める。1936(昭和11)年宗門を求めて郷里に帰り、のち寺住職や村
長を務める。(左奥は開山堂)
本堂裏にある池泉鑑賞式庭園(寺の本堂から眺めることを想定して造られた)の澄心池に
は、水蓮の下を鯉がのんびり泳いでいる。
寺裏の賽河原前に高さ340㎝(うち台座120㎝)の子安子育地蔵尊。
往還道に戻って団地などを過ごし、国道に植栽されているモミジバフウ(別名でアメリカ
フウ)の紅葉を見ながら、八反田バス停よりJR防府駅に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
肥中(ひじゅう)街道は、中世、大内氏の居館地である吉敷郡山口と豊浦郡神田の肥中浦を
東西に結ぶ14里(約56㎞)ほどの街道である。
当時の肥中浦は、明や朝鮮への重要な貿易港であり、筑前博多への船も多くここから発
向したという。(歩行約6.3㎞)
JR山口駅(10:00)から秋吉行きJRバス約40分、吉敷畑バス停で下車する。
バス停から旧国道を離れて丸岳登山道に入る。(見返ると吉敷畑橋)
「この扉は「肥中街道」の大峠(おおたお)方面への出入り口です。イノシシの進入防止の
柵です」とある。
柵を越えて大垰への道に入ると整備されている。
すぐにジグザグ道となるが予想に反して快適な道である。
どなたが管理されているのか倒竹もない。
やがて大垰に上がる。
吉敷の西北境にあって海抜373mは、周防と長門の国境で古くは「大峠」あるいは「
逢坂峠」といった。大内氏はこの地に関所を置き、毛利氏はここに「大垰監門」という関
所を置いた。
1932(昭和8)年山口~大田間に新しい県道が完成すると、人通りが絶えて忘れられた
道となる。大きな石灯籠の竿に「延亨二年(1745)」の刻銘があるが、山口大神宮参拝のた
めの灯籠ともいわれている。
垰から先は草刈りをされていた。
下って行くと広い道(市道?)に合わす。
その先で県道佐々並町絵(ちょうえ)美東線となる。
この先の左手にある擁壁手前から馬路峠への道に入る。この付近は県道造成により旧街
道は大きく変化したようだ。
入口付近は少し藪化しているが歩きやすい道になる。
植林帯の中に細い道が続く。
下って行くと鳳翩山トンネルの出入口上で三差路となる。左が街道筋だが崩落で途絶え
ている。
そのまま谷筋を進むと保安林を示す標柱がある。
馬路垰付近だが案内などはない。
伐採地付近から街道は林道化する。
その林道も薮化している。
江嶺山が大きく見え始めると街道は草刈りされていた。街道から見る江嶺山は、ほんの
3歩の間だけ富士に似て見えることから、長田村の画家・長井江嶺(1762-1852)はその佳
景を愛し、その印象を歌に詠み「三足富士」という別名をつけたという。馬路垰付近に歌
碑があるというが薮化のため見落とす。
碑には 「あづま路にあふぐ高根の 面影の
爰(ここ)に移りて三足富士の名」とあるそうだ。
舗装路に出るが、ここも県道佐々並町絵美東線である。
右手の民家は無住である。
町絵は西鳳翩山西南麓の谷間に散在する集落で、江戸期には45軒、昭和初期頃には約
30軒の民家があったようだが、今では数軒に生活感がみられる程度である。
多くが耕作放棄されてセイタカアワダチソウ畑となっている。
三差路は左の県道309号線を進む。
見返って町絵集落を後にする。
垰越えすると沖田集落に入り、正面に見える民家前を右折する。
正面に切畑集落。
長田川に架かる月見橋を渡るが、前方に「長田川改修記念碑 平成20年(2008)」の石
碑が建立されている。
山裾の切畑集落(右)と圃場整備された田圃の間の直線道。
三隅小郡線に合わす手前に三界萬霊塔。この世に存在する一切の霊(萬霊)を多くの人に
供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。
切畑バス停向い側の石碑は、明治天皇に関係するもので地元の方が建立されたものとい
う。残念ながら内容を知ることはできなかった。
切畑バス停に出ると、待ち時間なく新山口駅行きのバス(13:27)に乗車できるので歩きを
止める。
馬路垰へのルートは上がり口が不明瞭であり、崩落地と薮化した道であるため、町絵越
えルートの方がベストのようだ。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
柳井の古市・金屋(かなや)町は南東に流れる柳井川河口近くの左岸に位置する。古市は早
くから市が立ち、金屋町は鋳物師が多く、町通りは約200m、東西にやや湾曲した両側
に妻入り・切妻造り、壁軒裏を塗り込めた商家が立ち並ぶ。(歩行約2.8㎞)
1897(明治30)年に開業したJR柳井駅は、当初、柳井津駅と呼ばれていたが、19
29(昭和4)年に柳井駅と改称する。
JR柳井駅前から伝統的建造物群保存地区に向かってまっすぐに延びる170mほどの
通りは、通称「麗都路通り」とされている。
柳井川に架かる本橋から見る川の左岸には、掛け出し家屋が見られたが河川改修が行わ
れたようだ。
1905(明治38)年柳井津町、柳井村、古開作村が合併して柳井町になったことを記念
して本橋が建設された。はじめは幅2間(約3.6m)ほどの木橋であったが、大正期と昭和
期に鉄筋橋と拡幅工事が行われた。
現在の橋は、2003(平成15)年に架けられた4代目で、歩道と車道との間には以前の
橋の欄干が使われている。
1897(明治30)年日本商業銀行柳井支店として開業した。その後、安田銀行柳井支店、
1948(昭和23)年富士銀行となったが、1969(昭和44)年に閉店して建物は解体され
た。上は銀行があった場所で、銀行の姿図は麗都路通りの陶板に見ることができる。
久保町は誓光寺前を柳井湾の入江がくさび状にあったため、くぼんだ町並みであったこ
とによる地名である。現在でも往還道の西側は土地が低くなっているという。
1912(大正元)年に住友銀行柳井支店が開業するが、1969(昭和44)年閉店して建物
は解体されたが、レンガ造りの壁がわずかに現存する。
1898(明治31)年築の福田家住宅は、2軒分の宅地上に1軒を建築したため、家の中
央に水路がある。
誓光寺(浄土真宗)は、応仁の頃(1467-1469)に開基したとされ、江戸期には柳井坊主職
の地位にあり、大島郡、熊毛・玖珂郡に33余の末寺・庵を抱えていたとされる。
湘江庵(しょうこうあん)は曹洞宗のお寺で、1666(寛文6)年開山と伝える。現在の本堂
は、1728(享保13)年の火災後に再建された。
大畠瀬戸で遭難した般若姫一行がこの地に立ち寄り、井戸の清水で乾いた喉を潤した。
お礼に井戸の傍らにさした楊枝が、一夜にして芽をふき、やがて柳の巨木になったという
伝説がある。
「柳」と「井戸」から柳井の地名が生まれたという。現在の柳は2005(平成17)年に
植えられた5代目とされる。
「春が来たやら湘江庵の井戸の柳の芽が伸びる」 (野口雨情の詩碑)
「丸雪(あられ)ふる 今朝の嵐の吹落て 柳井の底に くだく玉水」の歌碑。
下段の歌碑は、1689(元禄2)年井原西鶴が全国名勝旧跡を詠んだ歌を集めて出版した
「一目玉鉾」の中に記載されている。その他、国森家の前身、守田家の4代目旁道(国学者)
が寄進した「柳井山の碑」もある。
街道に戻ると金屋町に「きじや」がある。かって柳井の代表的な木綿問屋「木地屋」(貞
末家)がこの地にあり、幅1mほどの狭い路地が木地屋小路として残されている。
建築時期は大正期と推定される柳井日日新聞社の社屋。当初は3戸続きであったようだ
が、左端の1戸は解体され、現在は2戸分を1棟として使用されている。
1688(元禄元)年創業の小田家は油商(商号はむろや)を営み、東は大坂、西は九州まで
を商圏とし、最盛期には50隻もの船を抱えていた。奥行き115mの細長い敷地に、1
701(元禄14)年築の建物が11棟並ぶ。
1871(明治4)年郵便事業創設当時に使用されていた型と同じものを、1989(平成元)
年に白壁の町並みの景観にあわせて、当時の金屋町郵便局前に設置された。(この通りが小
瀬上関往還道)
1907(明治40)年周防銀行本店として建てられたもので、木造モルタル2階建ての西
洋古典主義的な外観を見せる。1914(大正3)年に県下各地で起こった取付けの余波を受
けて倒産し、その後は百十銀行、山口銀行柳井支店として使用された。
現在は町並み資料館、2階は「マロニエの木陰」などで知られる柳井市日積出身の歌手
・松島詩子記念館となっている。
1984(昭和59)年伝統的建造物保存地区に選定された古市金屋地区。室町時代の町割
りがそのまま残され、江戸期から明治中期頃までの建てられた白漆喰で塗り込めた土蔵造
りの町家が200mほど連なる。
木阪賞文堂さんの看板は目立つが、店内には創業当時の看板が保存されているとのこと。
柳井の金魚ちょうちんは、江戸期から明治にかけてロウソク屋を営んでいた熊谷林三郎
(さかい屋)が、青森の金魚ねぶたにヒントを得て、柳井縞の染料を使って創始したと伝わ
る。
国森家はその前身を守田家「室家」といい、現在の古市筋南側にあった鍛冶屋町で手船
商を営んでいたが、二代目のとき「布木綿」など反物商を営んで財をなした。
1768(明和5)年鍛冶屋町から柳井津古市の商家を買いとって移ったのが現在の国森家
である。18世紀後半(江戸後期)の建物とされ、間口8.5m奥行き16.4mの2階建て
妻入り入母屋造りは国指定重要文化財である。(館内見学は事前に観光協会に予約された方
のみとあり)
佐川醤油蔵前を流れる溝は、1689(元禄2)年に落合と新市を結ぶ灌漑用水路として築
造された。
佐川醤油蔵は、1904(明治37)年遠崎の秋元酒場から甘露醤油の製造拡大のため、建
物と桶を移したものとされる。(内部は見学自由)
天明年間(1781-1789)頃当地の醸造家高田伝兵衛が、苦心の末、独特の醸造法に成功す
る。岩国領主吉川経倫(つねとも)が「甘露、甘露」と歓声をあげたという柳井名産・甘露醤
油の老舗醤油元の1つである。
杉の6尺桶を使った醤油製造の一端に触れることができる。
やない西蔵は大正時代末期に建築され、1980(昭和55)年頃まで醤油蔵として使われ
ていた。老朽化のため解体の危機にあったが、所有者からの寄贈により改修工事後、20
01(平成13)年に体験工房及びギャラリーに生まれ変わった。
佐川醤油蔵裏にある大神宮社(伊勢堂)には民地を通らないと行けない。もとは湘江庵の
東側にあったが江戸後期に焼けたため、柳井小学校へ続く坂道の位置に遷座し、明治の終
わり頃に再遷座して現在に至る。
1859(安政6)年築の桧皮葺の社殿が残っているが、忘れられた存在になっている。
佐川醤油蔵とやない西蔵。
白壁の町並みがデザインされたマンホール蓋。
佐川醤油店は、1766(明和3)年佐賀屋重五郎が創業。屋号は「佐賀重」で、1856
(安政3)年この家を建てて甘露醤油の製造を始める。ブルーのラインのある建物は、佐川家
の離れ屋敷で明治初年頃に洋風に改造されたという。犬矢来もあって風情のある場所でも
ある。
掛屋小路は、街筋に掛屋という金融業を営んだ商家の屋号をとって名付けられた。柳井
川に架かる緑橋の雁木で荷揚げした商品を運んだ道とのこと。
甘露醤油製造は2軒のみで、その1軒の重枝醤油醸造場は親戚筋にあたる甘露醤油の高
田伝兵衛からの直伝製法を受け継ぐという。
柳井の金魚ちょうちんの制作は、熊谷林三郎から親子三代へと引き継がれたが、孫は小
間物屋を営んだため、長和定二が二代目から作り方を学び世界大戦頃まで作ったが途絶え
てしまう。1962(昭和37)年に周防大島の上領氏が復活させる。
佐川家住宅から西が古市町で、金屋町に比べて平入りの建物が多い。
白壁通りの西端に位置する皿田家の初代千蔵は、1812(文化9)年木綿商を営み、18
37(天保8)年酒造業(銘柄は旭寿)を始める。
1908(明治41)年築の建物は、松本清張の小説「果実のない森」に登場する。右側の
不浄門は、当主が亡くなったときに遺体を運び出す以外に開かれることがないとのこと。
栄輪商会の建物は洋風で、大正末期~昭和初期に建てられたとされる。金魚ちょうちん
を考案した熊谷林三郎がロウソク屋を営んだ地である。
手前の辻家は大正年間の建築で、伝統的建造物群保存地区内では最も大きな屋根を持つ
とされる。
しらかべ学遊館は本郷家の建物を改修して、2004(平成16)年に開館する。
伝統的建造物群保存地区の西端で、ここで小瀬上関往還道は宝来橋へ向かう。
児童文学作家のいぬいとみこ(乾富子・1924-2002)は、父が富士紡績柳井化学工業の工
場長に就任したため、1944(昭和19)年から1947年まで在住し、この地にあった柳
井高等女学校併設の戦時保育園「ほまれ園」の保母をする。
戦後、教会付属の保育園に勤務し、児童文学雑誌に投稿を始め、1954(昭和29)年「
ツグミ」で児童文学者協会新人賞を受賞する。1987(昭和62)年「光の消えた日(1978
年作)」などの業績により山本有三記念路傍の石文学賞を受賞する。
江戸中期には4度も大火に見舞われ、土蔵造りにして防火に備えるが信仰にも頼った。
この地蔵尊は宝暦年中(1751-1764)に古市・金屋の人たちが建てたとされる。
古開作が干拓されて最初に架けられた橋で古市橋と呼ばれていた。1882(明治15)年
「商品は宝物で、その荷が来ることにより町が富む」ということで宝来橋になる。
柳井川に沿うこの一帯は船着き場で、石階段を使って荷揚げされていた。この石段を「
雁木」と呼び、段々の石段が雁の群れが空を飛ぶ様に似ていることから名付けられる。
小瀬上関往還道は宝来橋と緑橋の間から南下して伊保庄へ向かう。この付近には「昭和
三年(1928)」と刻まれた緑橋の親柱、1938(昭和13)年建立の新堤新築記念碑や、17
41(元文6)年建立の火伏地蔵が鎮座する。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
琴石山の南西麓から柳井川間の沖積低地に位置し、南は柳井湾に面する。域内をJR山
陽本線と国道188号線が通るが、その北に江戸期の小瀬上関往還道筋が残る。(歩行約
5.3㎞)
JR柳井駅から大原行きのバスがあったが廃止されてしまったため、JR柳井港駅から
の歩きとなる。
岸の下踏切はかまぼこ型である。
龍華川に架かる宮本橋から宮本開作に入るが、この橋から代田八幡宮にかけての往還道
は海沿いの道だったという。1691(元禄4)年に干拓された宮本開作の南側は、1839
(天保10)年に宮本塩浜として干拓された。
「置土産」は明治の文豪国木田独歩(1871-1908)の作品名で、道路を挟んで藤坂屋の向
い側に碑が建立されている。父・専八が裁判所書記として山口県各地に勤務するが、独歩
は父の転勤にともない岩国、船木、山口、萩、柳井に移り住んでいる。一家は柳井市姫田
に居住していたが、1894(明治27)年藤坂屋本店の東側の建物に転居する。独歩は大分
県佐伯から引き揚げて上京するまでの1ヶ月ばかりを家族と暮らす。
若い女性たちとの交遊を基調に、ロマンチックに描き上げられた「置土産」は、まさに
独歩の青春の置土産、こころのふるさと柳井への置土産でもある。
「元祖三角(みかど)餅・藤坂屋本店」の看板が掲げてある。三角餅の由来について、明治
の頃に天皇の子孫と名乗る者へ茶菓子を出したところ、あまりにも美味しくお菓子の王様
だと感動されて「帝餅(みかどもち)」という名を賜わるが、畏れ多いと「三角餅」としたと
いわれている。この餅は国木田独歩の「置土産」にも登場する。
代田(しろた)八幡宮の石鳥居下には3末社が祀られている。右に鷺社と呼ばれていたが、
1908(明治41)年の神社合併令により、6ヶ所にあった大歳神社(穀物の神)を合併して
大歳神社にしたという。その隣には平景清を祀る眼病の神である生目神社。左には神社合
併された恵比須神社が祀られている。
1639(寛永16)年に建立された一の鳥居は、在銘年号が明らかなものとしては県内で
は4番目に古いものとされる。
代田八幡宮の社伝によると、宇佐神宮より柳井市黒杭に勧請されたが、平安期の833
(天長10)年現在地に遷座して「吾田(あだた)八満宮」と称したという。
或る年の5月田植えの際、田の中に弊帛(神へのお供え物)が下り、霊験あらたかであっ
たことから代田に改称したという。
宮本西地区にある民家。
宮本西公会堂の裏に、五穀(米・麦・粟・豆・きび)成就火伏地蔵が祀られているが、建
立年は不詳とのこと。
列車の車窓からも見える煉瓦造の建物は、山口県柳井電気出張所跡とされる。明治末期
から大正にかけて県下各地に電力会社が発足するが、山口県営電気事業の発足に伴い、1
924(大正13)年山口県電気局に統合される。
柳井地域には周防電燈㈱と大島電気㈱が設立されたが、1918(大正7)年に合併して中
外電気㈱となる。柳井においては火力発電所が設置されて柳井の町に電灯が灯った。煉瓦
造の建物は変電所として使用されたものと思われる。
片野川に架かる千歳橋は、1693(元禄6)年江戸期の豪商貞末宗故が中開作の干拓後、
交通の便を図るために橋を寄進したという。
西詰の袂には火伏地蔵堂があるが、建立年は不明とのこと。傍には「明治2年(1869)5
月吉日」と刻字された常夜灯がある。
千歳橋を渡ると新市に入るが、1686(貞亨3)年海だった所が中開作として干拓され、
1694(元禄7)年に直線的な新市通りが造られた。
山陽鉄道が開通する際、この地に駅ができる予定であったが、煙が迷惑するとの理由で
反対されて実現に至らなかったというエピソードがある。
過密状態にあった今市・新町の居住者を新市通りに移したとされる。
新市の延命地蔵。
新市通りの四差路付近は、中開作の水がここに集まっていたため大水道と呼ばれている。
1919(大正8)年溝の上に蓋をして道路となったため、その姿を見ることはできない。
さらに直線道が続く。
天神の延命地蔵は左手に宝珠、右手に杖を持つ木造立像である。
菅原神社(柳井天満宮)は、1689(元禄2)年柳井の豪商・貞末宗故が、岩国領主の命で
大坂の大坂天満宮に参拝する。その時に履いていた木履(ぼくり)の歯に挟まった天神の像を
持ち帰って祀ったのが始まりとされる。
境内には他に退筆(たいひつ)塚、大蘇鉄群、住吉神社と、東側には1728(享保13)年建
立の石鳥居がある。
境内に3つの句・詩碑がある。
右が桃水の句碑で
「杖突て 老木の芽張柳(めばりやなぎ)かな」
中が松尾芭蕉句碑
「八九間(はっくけん) 空で雨降る 柳かな」
左は野口雨情の詩碑
「おいで柳井の天神様 七日七夜は人の波」
天神並木通りを北に進んだ所に長岡外史生誕地碑がある。外史は1856(安政3)年この
地にあった野村家で生まれた。父は上関の四階楼を建てた小方謙九郎、母は堀三衛門の妹
トキ(時)で、トキは身ごもったまま野村家へ嫁ぐ。誕生後いったん母の生家である下松市
末武に帰されるが、後に森田家の養子、再び野村家、11歳で萩の長岡家の養子となる。
我が国のスキー普及と航空界発展に尽力する。
新市通り西端の三差路に一里塚があったとされ、「小瀬より10里、上関5里、竪ヶ浜
1里半」だったという。
土手町にある瑞相寺(浄土宗)は、鎌倉期の1199(正治元)年性真上人が療養のために結
んだ小庵「洲崎の寮」が起源と伝えられる。
寺前には火伏地蔵尊及び「宝暦九巳卯九月日」(1759)と刻まれた石灯籠がある。
寺前の右奥に松尾芭蕉の流派に属する柳井正風美濃派の宗匠・漸々軒東明(ぜんぜんけんと
うめい)の句碑がある。
「雑炊も叡慮(えいりょ)にかなふ薺(なずな)かな」
室町期の1500(明応9)年将軍だった足利義植が、大内義興の支援を得るため山口へ下
向の途上、ここ楊井津へ止宿した故事を偲んで詠んだ句。左の丸い句碑は松尾芭蕉の「古
池や蛙‥」の句。
亀岡町はもと「浜町」と呼ばれ、海岸線の小路だったという。宮本の亀岡から姫田川に
架ける橋の石を取り寄せたことから「亀岡町」となる。1965(昭和40)年代はアーケー
ド街として賑わったが、平成に入って道路が拡張されて現在の姿となる。
消防車庫の傍にいぬいとみこ(1924-2002)の石碑がある。父が富士紡績柳井化学工業の
工場長に就任したため、1944(昭和19)年から1947年まで在住し、柳井高等女学校
に併設された戦時保育園「ほまれ保育園」の保母となる。
1887(明治20)年山口中学を退学した国木田独歩は、上京して翌年に東京専門学校(現
早稲田大学)に入学する。1891(明治24)年洗礼を受けた同年に校風が合わず退学し、家
族が住んでいた麻郷村(田布施町)に身を寄せて過ごす。
同年麻里府村(田布施町)に仮住まいをし、石崎家の家庭教師として出入りするうち、石
崎トミと恋仲になるが、クリスチャンであったことから両親に反対され、失意のうちに弟
と共に上京する。
1892(明治25)年から2年間住んでいた住宅で、その後、大分県佐伯市の学校に英語
と数学の教師として赴任する。
国木田独歩旧宅から下ってくると、「安政二(1855)卯六月吉日」と刻まれた石柱がある。
光台寺への道から見る柳井の町並み。
いぬいとみこは、戦後、教会付属の保育園に勤務し、児童文学雑誌に投稿を始め、19
54(昭和29)年「ツグミ」で児童文学者協会新人賞を受賞する。1987(昭和62)年「光
の消えた日(1978年作)」などの業績により山本有三記念路傍の石文学賞を受賞する。
この作品は柳井で保母をしていた時代に、戦時下での子どもとの触れ合いや、戦後「生
き残ってしまった」人々の苦悩を描いた作品で、光台寺の情景も描かれている。
光台寺(黄檗宗)の桜門は、中国明朝様式を模す独自なもので、その下で手を叩くと「ワ
ンワン」と響くことから、通称「ワンワン寺」と呼ばれている。
光台寺から下って来ると火伏地蔵立像。
姫田川に沿って下ってくると右手に三宝大荒神がある。仏・法・僧の三宝を守護し、不
浄や災難を除去してくれる佛神とされることから、火と竈の神として信仰されてきた。
姫田川は豊後国満野長者の娘・般若姫が手を洗ったことから姫手川となり、いつの頃か
らか姫田川になったとか。普慶寺の南側一帯に岩国領の代官所があった。
1724(享保9)年の建立の楼門と、その左右に安置されている仁王尊像は、1798(寛
政10)年に安置されたとある。
普慶寺(真言宗御室派)は、平安期の831(天長8)年弘法大師が真言開宗のため訪れて、
観音平(現稲荷山)に開山したといわれる。1550(天文19)年現在地に移転したとされる
が、旧柳井町内では最古の寺である。
御本尊の千手観音菩薩立像は、鎌倉期の1278(弘安元)年に大内弘貞が安置したとされ、
33年毎に御開帳される秘仏とのこと。
淡島大明神は普慶寺の鎮守として、1771(明和8)年に勧請されたといわれている。腰
から下の疾患に霊験あらたかとか。
雨月庵破笠(うげつあんはりゅう)は、姫田川右岸にある荒神堂(普門院)の住職であり、柳井正
風美濃派第2世宗匠であった。1790(寛政2)年門弟によって墓が建立された。
1745(延亨2)年に建立された亀岡通りにある火伏地蔵尊。
火伏地蔵尊前を左折すると柳井川手前にお堂があり、内部には地蔵尊と位牌の形をした
中に「戦歿将士之英霊」と書かれている。
柳井川左岸を下ると洲崎の道しるべがある。「右 田布施玖珂高森道、左 平生伊保庄
上ノ関道」とあり、側面に「明治三十一戊戌(1898)年五月」と建立年代がみえる。
三角橋を渡り右岸を歩いて駅に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
西宇部地域は宇部市の西部に位置し、厚東川下流域にあって北は丘陵地帯だが、その南
は江戸前期までは厚東川西の周防灘に面していたという。(歩行約5.6㎞)
神戸から馬関(現下関)までの鉄道は、私鉄の山陽鉄道によって開通したが宇部駅は設置
されなかった。
1906(明治39)年山陽鉄道は官営鉄道となり、1910(明治43)年宇部駅として開業
する。1943(昭和18)年宇部鉄道が国有化されると、宇部新川駅が宇部駅となり西宇部
駅に変更される。山陽本線が電化されて特急列車の停車駅になると、1964(昭和39)年
宇部駅に再変更されるという歴史を持つ。現在の駅舎は1986(昭和61)年に完成する。
田中明神は田の神で、天文年間(1532-1555)里ノ尾沖開作の守護神として祀られた。田
は宅地化されて役目を終えたのか平原八幡宮に遷座する。
地下道で山陽本線を横断する。
山陽本線に沿って小野田方向へ進むと、右手に平原八幡宮の参道がある。
御旅所と思われる地。
明照寺(真宗)は俗名為近源蔵が、1655(明暦元)年豊前小倉の永照寺で出家し、のち一
宇を建立する。
1829(文政12)年から1872(明治5)年まで寺小屋が開かれていたという。
平原八幡宮の縁起によれば、平安期の985(寛和元)年宇佐神宮より勧請、岡ノ原(現在
の宇部商高付近)に創建されたが、1650(慶安3)年現在地に遷座したという。
八幡宮の末社である田中大明神は、田の畔に蟹が害するため祈祷して鎮めたこともある。
里ノ尾沖開作の守護神(農業神)であったが、現在はこの地に祀られている。
イスノキはマンサク科の常緑高木で、伊豆半島以西から九州に分布している。葉がサカ
キに似て、樹皮の灰はイス灰と呼ばれ、陶磁器の上薬に用いられている。(八幡宮の御神
木)
八幡宮から里道を通り、西宇部ふれあいセンター前に出る。(正面が八幡宮の森)
穀物の神である大歳社が祀られている。田中明神とともに里ノ尾沖開作の守護神である。
参道横には庚申塚が集められている。
宇部駅構内。
1788(天明8)年から4年かけて、萩藩撫育方が完成させた厚南諸開作の用水路。現在
も灌漑用水しての役割を担っている。
列車の車窓から見える厳島神社の縁起によると、昔は神社の前が海であり、奈良期の7
48(天平20)年弁財天が漁師の網にかかり、弁財天を村の人々が鎮守の神として崇め、豊
漁と五穀豊穣を祈った。1881(明治14)年祭神を厳島大明神とし、厳島神社に社号変更
された。
75段の石段を上った社殿から厚南平野が見渡せる。中世におけるこの地は、南西部に
大きく湾が入り込み、中世から近世初期にかけて、徐々に潟地の陸地化が進んだとされる。
再び山陽本線下を潜る。
県道琴芝際波線に合わすまでは田園地帯歩き。
元禄年間(1688-1704)に厚東川が掘り替えられてから、1934(昭和9)年沖の旦橋がで
きるまでの約200年間渡し舟が往来していた。
沖の旦橋から厚東川上流に霜降岳。
1934(昭和9)年沖の旦橋ができた記念碑だそうで、碑には「沖の旦橋架設及取付道路
費寄付芳名録」とあるそうだが読めず。
水分(みくまり)神社の創建年は不明だそうで、宇部市末信にある正八幡宮の末社とされる。
神社名から推察するに、農耕の民が水の恵みを祀ったものと思われる。
境内には宇部市指定の天然記念物である「スダジイ」の巨樹がある。
引き返して沖の旦橋から厚東川河口部。
沖の旦開作の堤防跡碑。
昔はこの辺りに厚東川の本流があったという。現在は二級河川の中川で、最上流端を示
す標識がある。
JR宇部線沖の旦踏切を横断すると、宇部駅までは少し湾曲な道になっている。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
鵜の島は宇部丘陵の南西端、周防灘沿岸に位置し、江戸期までは海岸部に沖の山という
砂嘴が延び、小串の丘陵地とこの沖の山との間は入海となっていたとされる。これらの区
域は、1889(明治22)年の町村制施行時までは小串村の村域であった。(歩行約5.7㎞)
JR宇部新川駅は宇部市の中心地にあり、この町の表玄関である。1914(大正3)年宇
部軽便鉄道開業と同時に宇部新川駅として開業する。駅舎は木造2階建てで、開業以来の
建物で宇部線の中間駅では唯一の有人駅でもある。
海に向って2つ目の道を右折する。
浄円寺(真宗)は、俗名日高藤兵衛が父の戦死により、その菩提を弔うために出家し、元
和年中(1615-1624)中山村の禅宗古跡、宝珠庵を取り立てて真宗に改宗する。1912(大
正元)年藤山から現在地に移転する。
路地の先に宇部の工場群。
松涛(しょうとう)神社がある地は、大正の初め頃は松林であり、宇部興産の創業者・渡辺
祐策(1864-1934)の「松涛園」という別荘があった場所である。
1955(昭和30)年に出雲大社から勧請され、神社を守るのは狛犬でなくライオンであ
る。
もとは真締川に架けられていた錦橋の欄干彫像だったが、橋の撤去に際して、この神社
と宇部市新天地にある中津瀬神社に狛犬として奉納された。
松涛稲荷社。
小松原通踏切の先に見える丘陵地を目指して直線道を進む。
街路樹の赤い実は秋空に映える。
常盤公園で放し飼いにされていたモモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、
その周りを市花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。
産業道路と山大病院通りを過ごすと上り坂が始まる。
計量室前から見る宇部の町並み。
桃山の中腹に市街地への給水量を計る桃山配水計量室がある。1924(大正13)年沖ノ
山炭鉱が建設し、2年後に宇部市が譲り受けたものである。
外観はゴジック様式で、直線的な柱と、ゆるやかなアーチ型をした入口がある。建物は
直径5.8mの八角形の構造だが、市民からは六角堂と呼ばれている。
道路の中央にあるため歩行者と自転車、自動車と単車に通行区分されている。
配水地内にはゴジック建築の旧排水池監視廊が残されている。宇部の上水道は、下関・
小郡の上水道が地形を利用した自然流下による取送水であったのに対し、ポンプによる機
械送水であった。
1988(昭和63)年桃山の高台に完成した展望所付きの貯水池がある。残念ながら予約
しないと見学できない。
鵜の島小学校への道に下ると左手に薬師堂がある。島根県の一畑薬師より分霊されたお
堂で、眼病平癒の薬師として信仰されている。
お会いした方が「行きはよいよい、帰りは怖いではないが、買い物の重たい荷物を持っ
ての上り坂は、加齢もあってしんどいが生活のためには仕方ない。逆ならいいのだが‥」
と休みを入れながら帰って行かれる。
鵜の島小学校まで下って右折する。
浜児童公園北側の駐車地に、1949(昭和24)年桃山炭鉱の事故で亡くなられた7名の
慰霊碑がある。
小学校筋に戻ると正面に標高30mの鍋倉山が見えてくる。
宮地嶽神社の南参道。
妙法寺については詳細知り得ず。
山頂近くに秋富久太郎と秋田寅之助兄弟の像がある。久太郎は明治から昭和にかけて木
材の事業で活躍し、養子に行った寅之助は海運業や造船業まで手掛ける。像は1958(昭
和33)年関係のあった会社が建立する。
栄川は、1693(元禄6)年鵜の島開作の水はけをよくするために、居能と助田との境の
砂浜を掘り割って造られた。当初は鍋倉山の下まで漁船が入っていたが、川も自然に浅く
なり、1936(昭和11)年に埋め立てられた。(埋立記念碑)
1897(明治30)年頃に建立された宮地嶽神社。その後、金毘羅宮、宇和島から和霊神
社を勧請して合祀される。ここから展望を得ることができない。
何が祀られているのか知り得ず。
大地主神社の下側に稲荷社。
居能側に立派な参道と鳥居、灯籠があることから、こちらが表参道のようだ。
宮地嶽神社は居能商店街の繁栄を祈念して建立されたようで、参道には除夜の鐘と同じ
108段。一の鳥居の額束には宮地嶽神社。二の鳥居には宮地嶽と金毘羅、三の鳥居には
3つの神社が併記されている。(二の鳥居)
参道を下ると狭隘な地に三階建て。
国道と産業道路が合流する鍋倉交差点から国道に沿って南下し、2つ目の信号を左折す
ると宇部線が並行する。宇部線の盛り土と思ったが、今では想像すらできないが江戸期に
は岬からのびた砂丘だったとのこと。
助田バス停より宇部新川駅に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
琴芝は宇部市の中央に位置し、南西をJR宇部線、北西に真締川が南流する。(歩行約6.
1㎞)
1929(昭和4)年宇部鉄道の駅として開業するが、2020(令和2)年木造駅舎が解体さ
れて簡易駅舎になってしまう。(🚻なし)
琴芝駅から塩田川に沿って参宮通りに出る。
参宮通りとJR宇部線が交わる場所に、「交通安全琴崎八幡宮の碑」がある。1921
(大正10)年宇部村から宇部市になり、1924(大正13)年この位置付近に道を跨いで琴崎
八幡宮の参道を示す大きな鳥居が建てられたという。
ところが車が増えて参道を広げたが、鳥居の片脚が道の中心に残って危険なため、19
65(昭和40)年頃に解体され、その記念碑として灯籠が設置された。
参宮通り。
1928(昭和3)年即位大典を記念してできた神原公園には、同時に福原元僴(もとたけ・
通称は福原越後)の銅像が建立されたが、先の大戦において武器生産に必要な金属資源の不
足を補うため供出されたという。
1930(昭和5)年に建てられた石碑が、銅像のあった位置に移転する。
1899(明治32)年学校令により、高等女学校が各都道府県に創設され、山口県内では
私立を含め約28校が開校し、その後、変遷を経て現在の高等学校に発展継承される。
県立宇部高等女学校は、1913(大正2)年私立済美実科女学校として開校する。のちに
村立及び市立を経て、1928(昭和3)年県立に移管されて宇部高等女学校となる。194
8(昭和23)年宇部南高校(女子校)と名称変更されるが、宇部高校に統合され男女共学とな
る。
当時の女学校は現在の琴芝小学校の地にあり、跡地を示す石碑が校門入口に建立されて
いる。
県道琴芝際波線の街路樹が色づき始める。(煉瓦塀の先で左折)
宇部中央高校手前に道重信教上人の生誕地にお堂がある。1856(安政3)年この地で生
まれ、13歳の時に浄土宗の松月庵に入り出家の道を歩み、京都知恩院の浄土宗教校(現佛
教大学)に入学する。
のちに徳川家の菩提所・増上寺の法主に就任し、明治天皇への御前講義を行う。関東大
震災の三回忌法要を飛行機から行い、帰郷してからも仏教の民衆化を図り、在家宗教を説
くなど教化に専念し、「今一休」と呼ばれた名僧であった。
堂内には上人誕生地と刻まれた石碑と地蔵尊が祀ってあり、正面に上人の写真があった
ようだがお隠れになられた。
次の分岐左手に延命地蔵が祀られているが、いつ頃からあるのかよくわからないとのこ
と。高校側を背にしているが、目の前の道は琴芝小学校の通学路とのこと。(西梶返3丁目
7)
高校のフェンスに沿うと、琴芝ふれあいセンター前に石碑が一基。
四差路を左折すると周囲には桃色煉瓦塀が目立つようになる。煉瓦は石炭灰と石灰を主
原料として、たたき締めて干し固める製法で作られたものである。硬くて湿気に強いのが
特徴で、耐火性にも優れ風呂の焚き口にも用いられた。
大正期から昭和40年(1965)頃にかけて製造されたが、廃物リサイクルのさきがけとも
いえる製品でもあった。
この付近に猿田彦大神と刻まれた石碑があったが、草木に埋もれてお参りする人も少な
くなる。戦後、新しい地蔵堂が建立された時、一緒に祀られたとのことで左手に庚申塚、
右手に地蔵尊が鎮座する。
この付近は新旧の民家が混在する。
梶返八幡宮の由来によると、平安期の901(延喜元)年菅原道真が太宰府に左遷される途
中、暴雨風に遭い、船頭は舵をこの浜に返して風を避けた。風が収まるのを待って船出し
たが、道真は着任の2年後に亡くなった。村の人々は、道真の徳を仰ぎ、ゆかりの地に神
社を建立したとある。
菅原道真が嵐を避けて船から梶返の地に上がったとき、この池で手を洗われたと伝わる
菅公御手洗の池。(神社西側の道筋に案内あり)
この一帯は亀甲模様と市章の中に「下」の文字が入ったマンホール蓋である。
お堂の中に祀られているのは三界地蔵で、生死流転する3つの迷いの世界(欲界、色界、
無色界)で苦しんでいる衆生を救われる菩薩とされる。
四差路まで引き返して梶返東西道路を常盤湖方向へ向かう。
源山墓地の中央付近に「東見初(ひがしみぞめ)炭鉱遭難者之墓」がある。1915(大正4)
年4月12日の正午ごろ、宇部炭田最大の炭鉱海底陥没事故で235名が犠牲となる。
墓の両横と裏の3面には犠牲者の名前が刻まれているが、犠牲者のほとんどが坑内夫で
あるが、女性の名前もかなりあり、坑内で女性も働いていたことがわかる。
天保八丁酉(1837)と刻まれた地蔵尊と、頭がはっきりしない六地蔵が並ぶ。墓地の奥に
見えるのが真言宗の信光寺。
源山墓地から東新川野中道路に出ると緩やかな上り坂となる。出会った女性が歩車分離
でなく朝夕は渋滞し、昼間は速度制限を越えて下ってくる車があって、歩行もままならな
いという。
常盤中学校を過ごして里道に入り、道なりに進むと突き当りに道しるべがある。
この道標は元旧道の四差路に建てられていたもので、「南 草江、岬」「北 井関、阿
知須駅、山コシ」「西 新川、居能」「東 床波、阿知須」とあり、裏には明治42年(1
909)1月建立と刻まれている。
草江野中道路を横断すると野中公会堂前に、「明治三十七・八年戦役 野中若」裏には
「旅順陥落記念」と刻まれている。
大学院という名前に惹かれて坂を上がって行くと看板が見えてくる。
宇部市内では唯一の天台宗寺院であるが、創建年および開基の名など不明とされる。左
手が本堂と案内されている。
草江野中道路を常盤中学校方向へ引き返し、高専グランド前バス停よりJR宇部新川駅
に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
上宇部は真締川中流の左岸、宇部丘陵の基部にあって緩やかな谷状の低地に位置する。
大正期に沖の山が市街地されるまで宇部村の中心は上宇部の寺ノ前であった。今回は参宮
通りの西側から真締川付近を散歩する。(歩行約4.5㎞)
JR宇部新川駅バス停(10:02)から宇部市営バス交通局行き約15分、八幡宮前バス停
で下車する。
琴崎八幡宮の森と参宮通りを見返るが宇部村が宇部市になり、1925(大正14)年町
の中心が新川に移り始めた頃、航行する船からも八幡宮が見えるようにとの願いから一直
線に造られた。
常盤公園の白鳥が中央に大きく描かれ、その周囲にも白鳥がデザインされたマンホール
蓋。
国道490号線(参宮通り)を南下してGSの先で右折すると、こんもりとした高台が宇
部の給領主だった福原氏邸跡で、側面には白い土塀と石垣が再現されている。
福原氏は毛利氏と同じく、鎌倉時代に源頼朝の家来であった大江広元を祖先としており、
武蔵国長井庄を所領したことから長井氏を名乗っていた。安芸国に移り、南北朝期の13
81年に福原庄を所領して「福原」を名乗る。
萩藩の永代家老であった福原家は、宇部村ほか合わせて8,000石の領地が与えられ、
この地に屋敷を構えた。藩の要職にあったため普段は萩屋敷にいたため、宇部の屋敷は御
田屋(おたや)と呼ばれた。
1976(昭和51)年宇部市福原史跡公園として整備された時、表門は萩の福原屋敷門を
3分の2に縮小して再現され、石段も模擬建造物である。
御館は2階建ての主屋のほかに文武の稽古場、馬屋などがあったが、当時のものとして
は井戸と祠(稲荷社と他に1基)、樹木が往時を偲ばせる。敷地全体はよく保存されている
ようで、敷地は当時に近い状態と思われる。
天保年間(1830-1844)に郷校として中村に晩成舎を設け、1845(弘化2)年には儒者・
佐々木向陽(しょうこう)を招き、菁莪堂(せいがどう)と名を変えて福原邸の中へ移す。
福原越後守元僴(もとたけ)の代、1864(元治元)年4月文武両道の教育施設として、この
地に維新館が建てられた。洋式兵制にも力が注がれ、武士だけでなく庶民も入学が許され
た。
変革を意味する「維新(これあらた)」という語が使われたため、幕府からクレームがつい
たとか。
赤煉瓦塀と蔵のある民家前を過ごす。
常盤公園で放し飼いとなっていたモモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、
その周囲に市の花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。
中村地蔵尊は、1682(天和2)年第15代の福原宏俊が大坂の石匠に依頼して制作され
た。船便で京納台地の南側の講堂の地に安置され、大正期に現在地へ遷座させたという。
地蔵尊の傍に「一石一宇経塋」と刻まれた経塚の碑がある。
1827(文政10)年ある修験者が置いていったという不動尊と、他にあった荒神が一緒
に祀られている。
中村1丁目内を抜けると真締川に架かる御手洗橋があり、左前方に護国神社の看板が見
えてくる。
御手洗橋東詰にある2つの祠は、右側が八王子社で寛政八丙辰8月吉日(1796)川津村中
と刻まれている。左側が豊前坊として栄えた英彦山神社とのこと。
護国神社の社務所がある広い平地は、いつ頃まで行われたか不詳であるが、祭りの時に
は競馬場して使用されたとか。参道を進むと手水鉢舎には水琴窟が設けられている。
1866(慶応2)年11月に創建された維新山招魂社は、禁門の変で戦死した21名とそ
の責任を負わされた福原越後守元僴の霊を祀ったものである。
明治以後、日清・日露戦争やその後の戦いで戦死した人たちの霊を合祀するようになり、
1939(昭和14)年内務省令により宇部護国神社と改称する。
本殿前から左方向へ進むと招魂社跡があり、旧社殿跡には「殉国戦死之碑」が建立され
ている。その奥には安否不明となった福原家臣の霊標が並ぶ。
霊標には「不知所終(おわるところしらず)」と刻まれており、これは禁門の変で、亡くなっ
た場所もわからないような壮絶な死に方をしたことを表しているとのこと。
第二次幕長戦争を前に福原芳山が組織した西洋式の軍隊「知方隊(ちほうたい)」が、戊辰
戦争での会津落城前にライフル銃16挺を献納したことを示す記念碑。碑には「献装條銃
(そうじょうじゅう)」とあり、これは銃身内部にらせんの切れ込みを入れた当時最新式のミニ
エー銃である。
鎌田橋は真締川では最初に架けられた橋で、江戸期には宇部村と藤曲村を結ぶ重要な橋
だった。
鎌田井堰は真締川では一番大きな堰で、蛇瀬池の水と合わせて尾崎水路に流れ、小串・
鵜の島開作へ送水されている。
鎌田橋から道に沿って上がって行くと、右手に庚申塚があり猿田彦大神と刻まれている。
日本神話で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向国高千穂の峰にくだったとき、先頭に立って道
案内をしたという神。中世には「塞(さえ)の神」と混同されて道祖神となり、一方、仏教の
影響を受けて「猿」が「申」との混同から、庚申の日にこの神を祀るようになった。
鎌田橋から県道を避けて里道を歩くと、今では珍しくなった「はぜ掛け」が見られる。
宗隣寺(臨済宗)は奈良期の777(宝亀8)年唐より来朝した為光(いこう)和尚がこの地に来
た時、この辺りはまだ海水が入り込んでいた。ここの景色が故国の松江(ずんこう)に似てお
り、この地に松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)を創建したと伝える。
普済寺はいつのころか廃寺となったが、宗隣寺として再建されたのは、1670(寛文1
0)年福原広俊が、宇部の最初の領主であった亡父福原元俊の菩提ため、開創したといわれ
「宗隣」は元俊の法号からとられたものである。
屋根瓦には福原家の家紋「二文字三つ星」、護国神社には「酢漿草(かたばみ)」が用いら
れている。
福原越後は禁門の変の責任を取って、1864(元治元)年11月12日岩国市の龍護寺で
切腹した。その首は広島の国泰寺に運ばれて首実検され、その後、宗隣寺に持ち帰られた。
寺の裏山に墓所があるが、命日に法要が行われ、この日だけ一般公開される。
南北朝時代に築庭された山口県最古の池泉式庭園として知られ、潮の干満を表す干潟様
の池では平泉の毛越寺(もうつうじ)の2箇所しかない造りとされる。
方丈の北側にある龍心庭の池中には8つの夜泊り石は、蓬莱思想や仏教の四諦(したい)八
正道を表しているといわれている。
四諦とは仏教の礎となる4つの心理、苦諦・集諦・滅諦・道諦。八正道とは正見・正思
・正語・正行・正命・正精進・正念・正定。
寺は宇部村で初めて小学校が開かれたところであり、現在は中国観音霊場23番霊場と
山陽花の24ヶ寺になっている。
福原芳山(ふくはらよしやま)は長州藩の上級藩士粟屋親陸の次男として生まれ、1864(元
治元)年福原越後が禁門の変の責任を取り自害すると、藩命により宇部領主福原越後の養子
となる。
1867(慶応3)年藩命により大英帝国へ留学し、帰国後は不正に独占されていた厚狭郡
内の採鉱権を、私財を投げ打って買い戻し、その後の宇部の炭鉱産業発展の基礎を築く。
大阪市北区の鶴満寺にある銅鐘に遼の太平10年(1030)の銘があり、「長門州厚東郡宇
部郷松江山普済寺」「永和五年己未仲呂日」の追銘があるという。この銅鐘は普済寺の廃
絶によって地中に埋もれていたが、元文年間(1736-1741)真締川の堤防工事中に発見され、
藩主毛利氏によって鑑定のため大坂に送られていたのを、鶴満寺(大阪市北区)の再興する
に際して延亨年間(1744-48)毛利氏より寄付されたと伝える。現在ある銅鐘の鋳造年など
は知り得なかった。
片隅に庚申塚。
小串バス停よりJR宇部新川駅に戻る。