この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
大井は西に日本海を臨み、海岸沿いの大井川河口付近に漁業を主とする2集落があり、
川に沿った両岸に水田地帯、背後の山裾に集落が点在する。海岸沿いを国道191号が南
西から北東に通り、山陰本線が並走する。(歩行約6.9㎞)
1929(昭和4)年に開業した長門大井駅。かっては駅舎に理髪店が入居していたが、現
在は無人駅である。
長門大井駅から山手側の道に円光寺穴観音古墳への案内がある。
観音古墳へは民家の間を抜ける。
大井川北岸の山の中腹に築造された横穴式古墳。石室は幅2.4m、奥行き4.5m、高
さ2.3~2.5mもあり、巨大な石室の規模から被葬者は豪族であったと考えられる。構
造の特徴から6世紀末~7世紀初頭に築造されたと推定されている。
横穴式石室が南西側に開口している。前室・後室からなる複室構造で、前室の手前には
羨道(えんどう)とみられる石積みが残る。中央に如意輪観音とみられる石仏があり、延亨4
(1747)卯正月7日の年号と寄進者の名が刻まれている。
水路に沿うと猿田彦太神の石碑と石仏。
津和野城主だった吉見家ゆかりの寺とされる正楽寺(真宗)。明治初期には寺が小学校の
仮校舎となった。
1878(明治11)年この地に創立された大井小学校があったが、児童減少により201
6(平成28)年3月をもって廃校となり、小中一貫校として大井小中学校(併設型)に移行す
る。跡地は市出張所などの公共施設に活用されている。
通常は道端にある猿田彦太神が参道の石段上にあるが、近世には山越えの道があったの
だろうか。
この地方は石州瓦が似合う。
赤崎神社の由緒等は不詳である。
JR長門大井駅まで戻って、山陰本線大井東踏切を過ごすと石州街道(仏坂道)に合わす。
街道は萩城下唐樋の札ノ辻を起点に、後小畑から山中に入り、猪ノ熊峠を越えて門前で大
井川に沿い、川下で北上する。
街道は左手の道。
日本海に沈む夕日と立岩、ウニとサザエがデザインされている大井浦漁業用集落排水の
マンホール蓋。
大きな蔵を通り過ごす。
蔵の先に荒人神社の鳥居と灯籠。
参道を山陰本線が横断しているが、第4種踏切ではなさそうだ。近くに警報音付き踏切
があるので列車の接近を知ることができる。
荒人社は、平安期の1108(天仁元)年出雲大社から勧請したと伝える。その後、萩の住
吉神社からも分霊を勧請する。
昔々、佐々古の浜に長い石が上がり、村人は奇異を恐れ、恵比寿様として荒人神社前に
移して崇めた。これは船の碇石で元寇の時のものと云われている。
街道は国道と合流して奈古の町へ向かう。
山が迫る所に鵜山案内図と関係する史跡の説明板がある。(国道表示がある所が取付口)
この時期の日本海はエメラルドグリーンやコバルトブルーの色調が見られる。
石組みが見られるようになると、樹木の「はらみ現象」で一部が崩壊している。
「漂着物一斉作業降り口」の看板がある所を右折して海岸線に降りると、一面は漂着物
で埋め尽くされている。「ニーナの神様」は海岸線の突端に祀られており、鳥居と石祠が
見え、満潮期でも海岸線の岩場を伝われば行くことができる。
大漁祈願としてえびす神が祀られているようで、漁師がニナを奉納して豊漁を祈願した
ことから、いつしか「ニーナの神様」と呼ばれるようになったという。(時間の関係で石祠
まで行かず)
鵜山と呼ばれる玄武岩溶岩台地は、阿武火山群の1つとされ、約6万8千年前に噴火し
て台地を成したとされる。この台地で夏みかん栽培が行われているので作業小屋兼倉庫を
多く見かける。
T字路を右折して道なりに進むと、「魚付保安林」という小さな案内がある。案内に従
って右折してやや下り道を進む。
「魚(うお)つき保安林」という聞きなれない言葉だが、森林法に基づき、クロマツが植栽
されたが松くい虫の被害で壊滅状態になったとのこと。
古来、水面に陰を作ったり、養分の豊かな水を供給することにより魚の繁殖を助けると
いうことで、法的に保護する名称が「魚つき保安林」であった。
この構築物は判らないが、クロマツの植栽と関係するものだろう。
保安林から少し下ると「白地蔵」と称する石仏があるが、由来等については知り得ず。
(草や葛に覆われて行くことできず)
日本海に浮かぶ大島。
分岐まで戻って舗装路を進むと石組みが連続する。
1876(明治9)年頃に士族救済措置として、夏みかん栽培がこの地でも始められた。
しかし、今は消費需要の変化、価格低下と担い手の不足により経営は厳しいものがある
という。
沖縄に存在するグスクを思わせるようなグロと呼ばれる構築物がある。グロが何の役目
を果たしたのかは未だ解明されていないとのこと。城だったとか、夏みかん畑の防風林な
ど諸説あるようだが、謎めいた歴史的な施設といえる。(高代のグロ)
高代のグロから平坦道に沿うと四差路があり、左折して台の南側を進むと取付口にあっ
た墓地が見えてくる。(ここに駐車可能)
案内図のあった所に出るとすぐ右の道に入る。
路地裏の道に並ぶ家屋の多くが更新されている。
漁港に出て防波堤方向に進むと厳島明神恵比須社。
大井漁港は第2種漁港で、1種は利用範囲が地元の漁業を主としており、3種はその利
用範囲が全国的なものとされ、地元だけではなく、かつ全国的でない漁港に属する。
漁業集落環境整備事業により排水施設、集落道が整備されてきた。
相当数の漁船が係留しているが、小型定置網、かご、船ひき漁などの漁が行われている。
大井は広範囲に史跡等が点在しているので、歩きでは限界がある。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
川上(かわかみ)は全域の90%が山林で、中心部を阿武川が西流し、中央部に阿武川ダム
があり、南から佐々並川流れ込む。その阿武川沿いに集落が点在する。
地名の由来は「椿郷の内にて水上に当る故に川上と申し御座候」とある。(歩行約5.2
km)
1975(昭和50)年に完成した阿武川ダムの建設に伴い、水没予定地となった高瀬集落
から移築された山村農家(郷田家住宅)である。当集落は四方を険しい山に囲まれた平家の
落人伝説が残るほどの山村であった。
現在、阿武川歴史民俗資料館内の敷地にあり、整形四間取りで通り土間を持ち、土壁を
多用してしている点は、平野部の農家に近い造作である。
残念ながら移築後50年近くが経過し、損傷が激しいため立入禁止となって内部は拝見
できなかった。
川上村の大部分は山林のため炭焼きも盛んで、1955(昭和30)年代まで多くの人が木
炭生産に係わってきた。
この炭窯は昔ながらの炭焼き窯を再現したもので、近年まで使用されていたとのこと。
歴史民俗資料館はコロナ感染防止のため見学できなかったが、ダムで消滅した集落の民
俗文化を保存伝承するために整備された資料館である。
湖底に沈んだのは旧川上村6集落と旧福栄村3集落の206戸とされる。その中で51
戸と大きな集落であった高瀬集落は、阿武湖に突き出た「望郷半島」付近にあった。
ダムは慢性的な水害を防ぐための洪水調整、用水確保などを目的として完成した重力式
アーチダムで、堤高は95mもある。
中国電力佐々並川発電所は、1959(昭和34)年4月阿武川水系の佐々並川を利用した
ダム水路式の発電所である。
萩バスセンターから防長バス25分、阿武川温泉行きがあるが便数は少なく、民俗資料
館からから中心部の筏場まで約3.2kmも離れているので車で訪れる。(三徳橋付近の路肩
に駐車)
阿武川の左岸にある筏場地区が旧川上村の中心だったようだ。
1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の川上村がそのまま自治体を形成す
る。平成の大合併で萩市となるが、それまで使用されていた村役場が現存する。
遠谷川に架かる河鹿橋左手に森林組合、右手にはJAがあり、基幹産業は林業と農業で
ある。
旧川上村には横山姓が多いとされる。(横山商店)
柚の里として知られ「ゆず加工所」がある。
理髪店を思わすような造りの民家。
1873(明治6)年川上小学校名で高瀬に創立されたが、1880(明治13)年筏場に移転
する。
その後、校名変更や分校の統合を重ね、1989(平成元)年阿武川右岸の灰福地区に校舎
を新築して移転する。現在は分離型の小中一貫校である。
遠谷川沿いの小さな平地毎に4~5軒が大きな家を構えるが、緑の中の石州瓦は映える。
国指定天然記念物「川上のユズおよびナンテン自生地」、距離にして500mとある。
軽トラであれば走行可能な道である。
薮蚊に悩まされながら林道?を詰めると案内板等が設置されている。途中に沢があって
案内板まで近づくことができず、どの木が天然記念物かわからなかった。
案内によると、1941(昭和16)年国の指定を受けたユズの自生地は福昌院の寺領で、
20~30度の斜面はアラカシ林で、その中に大小10本のユズが混在するとある。
横山商店まで戻って三差路を左手に進む。
村の花であったユズの実と、飛び跳ねる阿武川の鮎がデザインされた旧川上村の集落排
水用マンホール蓋。
阿武川左岸に出ると、右岸には萩市の総合事務所、保健センター、公民館、川上小中学
校、保育園の施設が並ぶ。
三徳橋で両岸が結ばれ、川はダムがあるためかゆっくりと流れ下る。
明治初期に福寿院とこの地にあった生福寺が合併し、生福寺は廃寺となる。檀家70戸
ほどが毘沙門堂を守り、1882(明治15)年本堂を建立する。1919(大正8)年12月福
島県上之宮村にあった廃寺・玉泉寺(曹洞宗)の寺号を移して再興された。
背向け地蔵の由来によると、川上の人々は木炭や薪を作り、これを川舟で萩城下に運び
出し、売却することで生計を立てていた。1789(寛政元)年川下に水車が設置されること
になり、水車ができると阿武川の水量が減少し、川舟の運行ができなくなる。
1809(文化6)年嘆願したが解決せず、翌年水車を壊すべき実力行使にでたが、多くの
村人が捕えられ、陳弁した藤原平助と岡崎権太が首謀者として打ち首になる。
要求は受け入れられ水車は取り除かれ、村人の生活を守った2人を川上の義民としてこ
こに祀られた。この2つの地蔵は、大切な交通路だった阿武川を見つめ、道路に背を向け
ているので「背向け地蔵」と呼ばれている。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
真名(まな)は美東町の南端に位置し、鳳翩山塊に発し厚東川に注ぐ長田川の流域に接する
集落。南北に小郡へ至る小郡道が走る。(歩行約3.5km)
JR新山口駅から防長バス東萩駅もしくは秋芳洞行きで30分、湯ノ口バス停で下車す
れば散歩は可能であるが、午後の遅い時間帯となったため車で訪れる。(駐車地は真長田公
民館)
長田川沿いにメタセコイア並木。
旧町道と思われる道を南下する。
妙福寺(真宗)の開創は、室町期の1520(永正17)年毛利元就の家臣であった進藤親直
が、訳あって実如上人のもとで仏門に帰依して一宇を創建。1705(宝永2)年寺号を許さ
れた。
県道31号線と合流する手前に庚申塚、石祠、石灯籠が並ぶが詳細不明である。
県道を小郡方面へ進む。
湯ノ口交差点より長田川に沿う。
龍尾八幡宮の額束が架かる鳥居を潜る。
真長田八幡宮の由緒によると、旧長田八幡宮は鎌倉期の1187(文治3)年に宇佐八幡宮
より勧請し、長田村の総鎮守となる。
一方の龍尾八幡宮は、鎌倉期の1328(嘉暦3)年宇佐八幡宮より真名村徳坂の丸山に勧
請したが、後に現在地に遷座し、1912(明治45)年現在の社殿が造営された。
どういう経緯かは不明だが、1964(昭和39)年両社が合併し、真長田八幡宮と改称す
る。
1889(明治22)年町村制施行により、真名村と長田村の区域をもって真長田村が発足
するが、その中心が真名であった。
1954(昭和29)年真長田村、綾木村、大田町、赤郷村が合併して美東町が誕生したが、
平成の大合併で美祢市美東町真名となる。
美東町が発足して村名は消滅したが、八幡宮、郵便局、保育園など地名を冠した諸施設
は現存する。
1935(昭和10)年代には散髪屋、呉服店、旅館、自転車店が並んでいたという。
1955(昭和30)年代に入ると、湯ノ口商店街として道路の両側には店が連なり、道路
左側にはたばこ屋、農協の精米所・売店、商店,鮮魚屋、駐在所、炭屋などが並んでいた。
この付近には農協事務所、医院、旧真長田村役場などがあった。
通りの端には醤油屋、パーマ屋さんなどもあった。
JA山口美祢真長田付近から定住センターバス停付近までの約400mは、メタセコイ
ア並木である。
いつ頃何の目的で植えられたかはわからなかったが、見る限り60本以上はありそうだ。
秋の紅葉が素晴らしいとの評判だが、風の強い冬には落葉して防風林の役目の果たさない
並木である。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
麦川(むぎかわ)は美祢市中心部の北西部にあって、域内を麦川川(旧筈畠川)が南流し、川
に沿って集落が形成されている。(歩行約2.2km)
大嶺駅は、1705(明治38)年9月山陽鉄道の厚狭ー大嶺間が開通したと同時に開設さ
れ、炭鉱の最寄り駅として繁栄する。
しかし、1971(昭和46)年大嶺炭鉱が閉山すると需要は激減し、1997(平成9)年4
月大嶺支線2.8kmが廃止された。
あり日の大嶺駅舎は、木造スレート葺きで炭鉱の町に似合う駅舎だったが、支線廃止後
に解体された。駅舎があった場所は麦川郵便局辺りで、線路跡は県道となり様変わりして
いた。
旧大嶺駅は麦川川の左岸、集落は右岸にあって1本の橋で繋がっていた。
橋を渡ると妻入り2階建ての新屋時計店。
JR美祢駅からブルーライン交通西市行きのバスに乗車して、大嶺バス停で下車すれば
ぶらっと歩きは可能である。
但し、炭鉱跡のある荒川水平坑に立ち寄るので車で訪れる。(空地に駐車)
山と川に挟まれた中に民家があるため、山手側には屋敷地が高くなった所もある。
国吉旅館付近。
化石のアンモナイトで埋め尽くされた美祢市のマンホール蓋。
西商店も廃業されている。
西音寺(真宗)の寺伝によると、大内義隆の臣・川(河)越太郎左衛門隆祐が、麦川上の小
山に法師庵を開いたのが始まりという。
歩いてきた道。
麦川川の左岸は旧駅付近を除いて工場群が大部分を占める。
少し離れて川上に上麦川集落。
菅原神社は、永正年間(1504-1521)松崎天満宮(現防府天満宮)より勧請して創建されたと
いう。
境内より見る上麦川集落。
「炭車が空を山のみどりからみどりへ」
種田山頭火の行乞記によると、1933(昭和8)年8月28日小郡の其中庵を出立し、大
田(美東町)から伊佐を経て、8月30日麦川に入り行乞をしているが、この付近で石炭ト
ロッコ車を見て詠んだのであろう。
麦川には2種類のマンホール蓋があったが、こちらは化石のアンモナイトを市の花「桜」
が囲んでいる。
麦川小学校は、1877(明治10)年城東小学校の分校として開校。その後、校名などの
変更を経て、1933(昭和8)年現在地に移転する。
かっては大嶺炭鉱があり、児童数1,000名を超す大規模校であったようだが、炭鉱閉
鎖とともに減少傾向が続いたが、団地の完成等により若干の増加に転じているとのこと。
荒川水平抗に移動する。
途中に案内板。
麦川川と交わる先の空地に駐車して案内に従うと、建物所有者の方から炭鉱の説明をし
ていただく。
1904(明治37)年に開抗した荒川水平抗は、明治期には海軍省の手により採掘されて
いた。その後、民間に払い下げられて宇部興産山陽無煙工業所となったが、1970(昭和
45)年閉山する。
閉山後、民間会社が採掘を再開するが10年足らずで閉鎖する。坑内にはトロッコなど
が保存されている。
坑外にはトロッコの線路が残る。
この建物に鉱山換気用送風機が設置されていたという。
駐車地は炭鉱で採掘した石炭を貯めておくためのホッパー(貯炭槽)があったようで、本
体は残存しないが礎石が残る。専用線の上に作られ、ここから大嶺駅までトロッコ軌道で
運ばれた。
1940(昭和15)年美祢坑口に近い大嶺側の白岩地区に炭鉱社宅が建設された。当時
の社宅は福岡県日炭高松の社宅様式を手本にした二階建てであった。間取りは階上6畳、
階下6畳の2間であったが、当時、石炭増産のため三交替勤務が実施され、抗夫が昼間で
も睡眠をとる必要があった。現在は炭鉱住宅地は太陽光パネル広場に様変わりしている。
帰路、JR南大嶺駅に立ち寄ってみると、駅舎は建て替えられているが周囲の風景は変
わっていなかった。
1905(明治38)年山陽鉄道の厚狭駅ー大嶺駅間開業時に伊佐駅として設置される。
美祢軽便鉄道が当駅から重安駅まで延長し、後に国有化されて長門市駅まで延伸すると駅
名は南大嶺駅と改称する。
かっては2面3線で列車が止まっている1番線が大嶺支線用だったが、廃止に伴い埋め
られた。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
厚保本郷(あつほんごう)は、東端を厚狭川、中央部を東へ原川が流れ、その谷底の平野に
立地する。域内にはJR美祢線、主要地方道下関美祢線が通り、南部を中国自動車道が横
断する。
難読な地名の由来は、神功皇后の朝鮮出兵伝説に関わりがあり、当地で兵を集めたこと
から集めの村と称し、誤って厚保の郷といわれるようになったとか。
また、「阿」は湿地の意味で、「津」は交通位置を示し、「厚津」がのちに厚保になっ
たという説もある。(歩行約4.7km)
JR厚保駅は、1905(明治38)年大嶺線開通とともに開業した駅で、相対式ホーム2
面を有する列車交換が可能な駅。駅舎は「厚保地域交流ステーション」として利用され、
駅前には手書きの「駅長さんが書いた駅名ものがたり」の看板がある。
厚狭川を挟んで右岸に県道下関美祢線、左岸をJR美祢線が走る。
県道沿いに「目のお薬師様」を祀る薬王寺があり、階段には男の厄坂42段、女の厄坂
33段という厄坂が設けてある。
1950(昭和25)年5月に開山され、翌年4月臨済宗一畑薬師寺より薬師如来を分霊し、
のちに宗教法人となる。
駅前の千歳橋まで戻って旧道に入る。
この筋に厚保公民館、市厚保出張所および厚保中学校が並ぶ。
公民館前から県道を横断して次の集落に入ると、高く積まれた石垣と古民家。
色づき始めた田園風景を眺めながら山裾を巡る。
注連縄があるので猿田彦か庚申塚と思われるものと、高台の離れた場所にお地蔵さんが
一基。
神功皇后社の社叢が見えてくると神社前に出る。
社伝によると、室町期の1425(応永32)年長府の二宮神功皇后宮(忌宮神社)から勧請
したというが、当地方には二宮の社領なく由来はわからないとする。由緒書きには神功皇
后三韓へ出陣の際、この地にて兵を集め給うとある。
この道筋にはハス、アジサイなどの花もあって、四季を感じることができるとのことだ
が、この時期はハスの花が見られたようだが、時期遅しで一輪のみだった。
厚保小学校が見え、カーブミラーのある所を右折すると栗畑。この地は江戸時代から続
く栗の名産地だそうで、自家選果、選果場での選果をクリアし、甘くて大きいものだけが
「厚保栗」とされている。
厚保小学校の近くに来嶋又兵衛の自邸があったため、1934(昭和9)年鎧を身に着け、
陣笠を被る姿の像が建立された。
来嶋又兵衛は、1817(文化14)年厚狭郡西高泊村(現在の山陽小野田市)で、無給通組
の下士(37石余)だった喜多村正倫の次男として生まれる。
1836(天保7)年大津郡俵山村の大組の上士である来嶋政常の婿養子となり、政常の近
親で庄屋・来嶋清三郎の長女タケと結婚する。
1837(天保8)年又兵衛が何を思って移り住んだかは定かではないようだが、政常が手
習い師範として多くの弟子を抱えていたためとか、あるいは清三郎が総領娘を養女に出す
際の条件だったなどの説がある。
1848(嘉永元)年剣術修行から帰国して家督を継ぎ、藩世子の駕籠奉行などの要職を務
める。1851(嘉永4)年に義父が死去したため、来嶋家累代の名前を継承して来嶋又兵衛
を名乗る。
1863(文久3)年10月世子上京の前衛を仰せ付けられ狙撃隊を組織するが、8月18
日の政変で尊皇攘夷派が追放され萩に戻る。
その後、遊撃隊を組織し、1864(元治元)年7月国司勢の前軍として蛤御門で戦うが戦
死する。像は戦時中に金属供出で失われたため、1998(平成10)年再建された。
銅像の隣には「世外候養痍隠晦之處(せがいこう よういいんかいのところ)」の碑がある。世
外こと井上聞多(のちの馨)は、1864(元治元)年9月山口で刺客に襲われて瀕死の重傷を
負う。
療養しつつ隠れ住んだのが厚保の来嶋家で、妹の厚子が来嶋家の長男森清蔵に嫁いでい
た縁による。又兵衛の長男亀之進は、藩命で森清蔵を名乗っていた。
学校横を抜けると三重塔の相輪が見えてくる。
光専寺(真宗)の寺伝によると、豊後の大友宗麟の家老・三原加賀守清光が仏門に入り、
真宗に帰依して清光と称し、1528(享禄元)年当地に来住して開創したとされる。
1983(昭和58)年建立とされる三重塔。
三戸酒造㈱の裏手側だが、既に酒造りはされてないようだ。
旧道筋の家並み。
三戸酒造の入口左手に蛭子神社。
来嶋又兵衛の妻である父・来嶋清三郎は、1795(寛政7)年本郷村で生まれる。先祖は
尼子経久の子・森親久の末孫と伝え、親久のとき毛利氏に仕え、旧地出雲国来嶋庄(飯石郡)
より来嶋氏に改めた。
親久の嫡子が辞して当地に住して農民となり、のちに大庄屋格となる。厚保村原の酒造
株を買得し、1813(文化10)年に本郷へ酒造場を移した。三戸酒造がその場所であるか
否かはわからないが、1845(弘化2)年に建てられた堅固な家屋が現存する。
旧道筋の家並み。
1934(昭和9)年築の旧厚保郵便局。蔦に覆われて窓も見えない状態であった。中を見
ることはできないが、ガラス面に「厚保郵便局」の字が微かに読み取れる。
来嶋又兵衛と森家累代の墓について地元の方にお尋ねすると、原川右岸の山手にあると
いう。丁寧に道順を教えていただくが、歩行距離が長そうなので残念する。
旧道からJR厚保駅へ戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
米川(よねかわ)は地名として存在せず、明治の町村制施行により、4ヶ村が合併した際に
新村名について、本区域は元組名の米川組から撰定したとされる。
その米川村の中心だった下谷(くだたに)と菅沢集落は、末武川上流の山間地域に位置し、
県道下松鹿野線と県道三瀬川下松線が交差する一帯に集落を形成する。(約3km)
この地を訪れるには下松市コミュニティバスがあるが、利便性が良くないため車対応と
なる。県道が交差する先に駐車すると末武川右岸に菅沢集落がる。
菅沢集落内のメイン道路。
傾斜地に沿って集落を形成する。
法界地蔵尊は、昔より道に迷う人のために道を教え、現在では、悩める人の人生を示す
道標となり、家内安全・交通安全を祈る人々を守るといわれている。「天正」(1573-1592)
とあるが建立年は読み取れない。
末武川の左岸に県道が走り、右岸の旧道に沿って集落が形成されている。
末武川に合わすと右手に米川小学校がある。1885(明治18)年瀬戸小学校として創立
され、その後、統合や校名変更などを経てきた。児童数の減少に伴い、2020(令和2)年
3月をもって休校となる。現在は7㎞離れた花岡小学校へスクールバスで通学している。
戦後の学制改革に伴い、米川中学校が創立されたが、スクールバスの運行と小学校の整
備を条件に、地区民の了承を得て、1968(昭和43)年3月に廃校となる。
その後、中学校の校舎を解体し、鉄筋コンクリート造2階建ての近代的な校舎が新築さ
れ、1970(昭和45)年小学校が移転する。
校庭の片隅に中学校跡碑が建っているが、中学校設立にあたって、安田家が所有地を提
供されたが、安田家は萩藩士杉家に仕え、安田郷に住み郷名から安田姓とし、のちにこの
地に永住されたという。
コミュニティバスのうち下松市街地までの3便は、花岡駅・病院・買物ができるサンリ
ブ下松までと、米川地区内をエリアとする3便(予約制)がある。
昭和天皇即位を記念する御大典記念碑(1928)と御旅所。
右手に米川神社参道。
米川神社は、平安前期の貞観年中(859-877)出雲国より勧請して天王宮と称していたが、
明治政府の神社合祀政策により、1907(明治40)年河内社を合祀して米川神社と改称す
る。近くの墓地は妙音寺跡、1873(明治6)年創立の煤間(すすま)小学校下谷分校もこの
地にあったようだ。
下谷集落。
新万寿庵橋から見る菅沢集落。
多くの家は更新されている。
「牛神様」碑が田圃に中にあるが、農家が飼育する牛の無病息災を祈願して祀られた民
間信仰の神である。
耕運機が普及する昭和40年代(1965)に入るまで、農家は雌の子牛を飼育し、農耕に使
用すると同時に役牛として転売し、貴重な現金収入を得ていた。
緩やかな坂を下るが見るべきものはない。
この先で県道に合流する。(GSは自家消費とあり)
下松市米川出張所及び米川公民館の地には、1892(明治25)年から1970(昭和45)
年まで米川小学校があった。
1889(明治22)年町村制施行により、下谷、瀬戸、温見、大藤谷の各村をもって米川
村となり、1954(昭和29)年下松市に編入されるまで下谷は村の中心地であった。
米川神社近くに米川村役場があったが、1892(明治25)年1月火災により焼失。同年
10月この地に庁舎が新築され、1969(昭和44)年まで村役場、市出張所として使用さ
れた。右手に見えるのが村議会議堂棟。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
中須南(なかずみなみ)は、菅野湖に流れ込む阿田川の左岸、菅野湖の南に位置する。地名
の由来は、須万、須々万に対して中の須の意という。(歩行約2.1km)
JR徳山駅から路線バスとコミュニティバスを利用すれば中須支所まで行くことは可能
だが、バス便が少なく車に頼らざる得ない地である。(中須小学校先の県道脇に駐車)
中須中学校は、1947(昭和22)年中須小学校仮校舎で開校し、1950(昭和25)年現
在地に校舎を新築して移転する。
その後、生徒数の減少が続き、2017(平成29)年3月をもって休校中である。
中学校は高台にあるため集落を見渡すことができる。
国道より北の県道筋。
木造校舎が現存する中須小学校。
中須小学校は、1875(明治8)年に中須小学として創立。1897(明治30)年現在地に
移転し、戦後に中須小学校となる。児童数減少により中須中学校と同時期に休校となる。
1956(昭和31)年小学校講堂兼公民館として竣工する。
旅館風の造りだが詳細不明。
中須交差点付近の町並み。
1889(明治22)年町村制施行により、中須南村と中須北村をもって中須村が発足する。
1954(昭和29)年には須々万村、長穂村と合併して都濃町が誕生するが、1966(昭和
41)年徳山市に編入されるという歴史を持つ。
中心部を国道376号が東西に走る。
参道入口より中須中学校。
徳厳寺は初め真言宗で徳道禅寺と称し、八幡宮の社坊であった。創建開基は不明である
が、1684(天和4)年の棟札によると、永禄年間(1558-1570)禅宗に改め龍文寺末寺にな
った。
現寺号に改称した年代も不明であるが、風土注進案によると、1775(安永4)年の徳厳
寺伝記を載せているのでそれ以前と思われる。
中須八幡宮は飛鳥期の659年宇佐より勧請したと伝わる。1556(弘治2)年沼城攻略
に際して兵火にかかったが、のちに毛利氏が社殿を造営する。1664(寛文4)年再び火災
に遭い旧記類を焼失したが、社殿は再建された。現在の社殿は1910(明治43)年に改築
されたものである。
1604(慶長9)年に創建された浄宗寺(真宗)。
集落道から見る徳厳寺と八幡宮の社叢。
天満宮参道入口に恵比須社。この辺りが中須市で恵比須さんが祀られたのであろう。
天満宮とあるが詳細不明。
天満宮参道脇には太陽光パネルが並び、その奥に門構えの古民家のK家。市付近も見る
べきものがないので引き返す。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
山中(やまなか)は厚東川支流甲山(こうやま)川流域の山間部に位置する。旧山陽道が域内を
走り、集落は上市と下市に分れており、両市間は約1kmの隔たりがある。この集落へは公
共交通機関がなく車対応となるが、極楽寺跡下に駐車スペースがある。(歩行約3.4km)
熊野神社の社坊であった勝蓮寺は廃絶し、1615(元和元)年浄土宗の専念寺(浄土宗)と
して再興された。1869(明治2)年極楽寺と改めたが、時期は不明だが現宇部市木田へ移
転する。
旧山陽道は割木松を過ごすと、国道2号線の北方を通り上市に入る。
熊野神社にある縄田家の初代は、紀州(和歌山)出身の伊藤彦四郎で、南北朝時代は南朝
方の武将であったが、南朝方が不利となり西に落ち延びたが、頼りの厚東氏は滅亡してい
た。
やむなく山中の地に隠れ住み、耕地の造成や溜池造りに力を入れた。これが大内氏の目
にとまり、この地を預かる目代(もくだい)の役を授かる。
江戸期から明治にかけて綿の小売りや質屋を営み、1858(安政5)年伊藤家から縄田家
の家名が許される。1894(明治27)年に新築された家屋が現存する。
熊野神社は伊藤彦四郎が室町期の1394(応永元)年、大内弘世の許しを受けて、日ごろ
崇敬していた熊野権現を勧請した。
1592(文禄元)年豊臣秀吉が名護屋から帰路に宿泊した甲山市は、近世になると山中市
といわれていたが、天保末期頃(1840年代)には半宿となっていた。「宿馬」(伝馬)が1
5頭いたが、「継人足」は村人の生活が厳しかったため定着しなかった。
民家は旧道筋に並ぶ。
緩やかな坂道を下り、甲山川にかかる橋の手前を右折する。
右折する地に三界地蔵。
甲山川付近から見る上市。
国道に出ると伊藤彦四郎の墓跡を示す標柱がある。山中市を開いたとされる彦四郎は応
永年間(1521-1528)に死去し、遺言により上市と下市双方が見える向かい側の山中に十三年
神として祀られた。
国道には横断歩道はあるが信号機がないので注意を要する。国道に沿うと旧ドライブイ
ンの先で甲山川に沿う。
甲山川の小さな橋の袂に庚申及び三界萬霊。
家並みの中を抜けると再び国道に合流する。
専念寺抱えの薬師堂は西福寺といい、大内隆弘が薬師堂に立願したところ、眼病が平癒
したために建立したので厨子に大内家の家紋・大内菱があると伝える。
民家の間に道はなく国道から直に各家へ繋がっている。
薬師堂から下市西端へ向かうとコンクリート造の建物前に本陣跡を示す標柱がある。(本
陣の詳細知り得ず)
国道筋から集落を眺めて往路を引き返す。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
車地(くるまじ)は、厚東川中流域左岸及び同支流甲山川下流左岸に位置し、北部と南部の
河岸沿いに狭小な段丘があり集落を形成する。
木田(きだ)は、厚東川中流域右岸の川岸段丘及び周辺に位置する。南部の国道2号周辺に
民家が集まり集落を形成する。(歩行 約5km)
JR厚東駅から宇部市営バス木田行約10分、終点の木田バス停で下車する。
国道2号を引き返して旧山陽道に入ってみるが、道筋の民家は更新されて街道だった面
影は残っていない。
街道筋に秋葉社の鳥居。
秋葉社は火の神とされ、防火、防災、火難除けなどの神徳があるとされるが、鳥居の大き
さからすると石祠でなく小社が建っていたと思われる。
旧山陽道は才ヶ峠を過ごすと瓜生野集落に入る。
引き返して県道小野木田線に入ると極楽寺がある。現宇部市山中にある熊野神社の社坊
であったが廃絶し、1615(元和元)年浄土宗の専念寺として再興された。1869(明治2)
年現寺号に改めたが、後に現在地へ移転したという。
入口には種田山頭火の句碑「道しるべ 立たせたまふは 南無地蔵尊」があり、その傍
に3体の地蔵尊。
木田の広大な農地。
県道小野木田線を北上すると、上田木工所脇に灯籠と「歯朶(しだ)ノ木丸山城址328
m」の案内がある。
途中に大歳社と金比羅社が祀られている。
詳細不明だが厚東氏配下の吉見正頼の城跡とされる。
田園地帯を横断する。
国道2号線車地交差点のガソリンスタンド前を左折すると、甲山(こうやま)川に架かる橋
の袂に永山惣五郎(永山酒造2代目)の顕彰碑がある。車地と荒瀬集落との間には甲山川が
あり、水量に関係なく往来できる橋を架けたとのこと。
厚東川右岸にかけて平地が広がっているが、厚東川が低い所を流れているため、水を田
地に引くことができなかった。
南北朝期の正平年間(1346-1369)頃に木田の藤本五左衛門が中心となり、甲山川に井手
(堰)を造り、厚東川の東岸まで水を引き、これを木管で厚東川の底をくぐらせて対岸に吹
き上がらせるサイフォン式の樋を造って木田の田地を潤した。この仕組みが筧(かけひ)の先
につけて噴水式にして物を冷やす道具の名をとって「駒の頭」と呼ばれた。
旧山陽道の間には厚東川が流れ、川には渡し舟(二俣瀬渡し)があり、両岸の渡し場には
石垣が築かれていた。風土注進案に「木田村に二俣瀬川、川幅22間(約40m)、渡船2
2艘云々」とある。江戸期の終わり頃に舟橋が架けられたが、明治になって本格的な橋の
工事が開始され、1872(明治5)年に完成した。
1888(明治21)年創業の永山本家酒造場。
日吉神社へは二俣瀬小学校の校庭を横断しなければならない。
日吉神社の社伝によると、1621(元和7)年神託によって持世寺山王社から車地に勧請
したという。
一方、地元の口碑(こうひ)には、南北朝期に厚東氏が滅亡の際、持世寺から密かに御神体
を持ち出して横山に祀っていたが、後に現在地へ移したとする。
かって使われていた駒の頭の石組みが、二俣瀬市民センターに復元されている。(説明板
あり)
永山本家酒造場のオフィスは、1928(昭和3)年天皇即位を記念して、永山惣五郎・梅
三郎兄弟が二俣瀬村役場として寄贈したものである。
二俣瀬村は、1889(明治22)年の町村制施行により、木田・山中・車地・瓜生野・善
和の5ヶ村が合併した村である。
厚東川左岸の旧道沿いに、石垣を高く築き、川に正面を向けた石造風木造2階建ての建
物である。現在は永山氏の所有で国指定有形文化財となっている。
永山本家酒造場は「貴・男山」の銘柄で知られる。(厚東川右岸より)
木田側の駒の頭。
木田側の渡し場跡。
現在の木田橋下流約100mのところに大きな洲(中の島)があり、川の流れが2つに分
かれていたことから二俣瀬の名が起こったとされる。
大雨になると水かさが増し、溢れることも多く、川の堤防を高くすることになり、洲の
土砂が大量に使われた。それから分かれていた川は1つの流れとなったそうだ。
大典記念碑の刻字は読み取れるが、昭和天皇即位を祝って建立されたものであろう。隣
の灯籠には松崎神社と刻まれているが、合併した5ヶ村に該当する神社がないので詳細不
明となる。
この先で国道2号線と合わし、木田バス停に戻ることができる。
この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
「港のみえる丘の径」は高杉晋作と奇兵隊ゆかりの地・大歳神社から笹山町、西入江町、
入江町を経て、南部町にある金子みすゞゆかりの寿公園に至るコースである。
1998(平成10)年下関市が設定したが、当時は高層ビルも少なく港が見えていたよう
だが、今は港がみえない丘の径となっていた。
JR下関駅前の国道9号線にはビル群が並ぶ。
ビルの一角に地蔵尊。
1862(文久2)年豪商・白石正一郎が攘夷祈願のため奉納した鳥居がある。1940(昭
和15)年関門トンネル工事の折、鉄道敷地に接収されて現在地に遷座する。当時の階段は
123段で「ひふみ坂」として親しまれたが、現在は115段で「ひふみのお祓い坂」と
して、階段には人生の通過儀礼のプレートが設置されている。
「港のみえる丘の径」の起(終)点を示す案内板。
大歳神社は、平安期の1185(寿永4)年源義経が壇之浦合戦に際し、戦勝祈願して大歳
御祖大神(おおとしみおやのかみ)を祀った。翌年に4軒の漁民が義経の祈願を畏敬(いけい)して、
神祠を祀ったことに始まるという。
1863(文久3)年奇兵隊の発足に際し、高杉晋作は旗揚げの軍旗を神社に奉納した。
境内より港を見ることはできない。(下関港国際ターミナル筋)
境内から唐戸方面に向けて進む。
カラー舗装に沿うと民家の軒を縫うといった感じの場所もある。
下ってくると左手に「卍」マークのお堂があるが詳細不明。(お堂前を左折)
茶山通りという大きな通りに出るが、昔は茶畑があったことから茶山という地名になっ
たとか。ちょっとわかりづらいが七福質舗脇の細い路地に入る。
勝安寺裏を過ごすと上り坂。
坂道を進むと最初の三差路を右折し、次の分岐は直進して石段を下るとカラー舗装路に
出る。
大きな通りを横断すると稲荷神社入口に案内がある。
紅葉稲荷神社の鳥居を潜る。
正面の丘が展望広場。
高野山真言宗の福仙寺は、天平年間(729-749)行基の創建と伝わる古刹である。初めは豊
田庄にあったが、長府毛利藩家老細川中務の命により現在地に移る。
紅葉稲荷神社の由緒によると、初めは下関市長府姥ヶ懐にあったが、1741(寛保元)年
豊前田紅葉谷に遷座して祠の形で祀られてきた。1875(明治8)年豊前田町民の協力で神
社に改築されたが、その後、度重なる大火をうけて、1926(大正15)年現在地に移転改
築された。
寺前の三差路まで引き返し、日和山霊場への道を進む。
1番霊場前から公園道に入る。
1番霊場から奥の院まではほぼ階段。
太鼓橋を潜ると福仙寺奥の院。広場は霊場となっており奥の院横の道を進む。
道なりに進むと三差路に日和山公園への案内がある。
港のみえる丘の径から外れて、下関市日和山浄水場横の展望地から関門海峡を眺望する。
日和山公園は、1922(大正11)年2月大正天皇即位を記念して公園化された。北前船
時代は風待ちの丘として出航の日和を見た地である。
1890(明治23)年政府は水道敷設促進と水道事業規制(公営を原則)を目的とした「水
道条例」を公布する。
1906(明治39)年内日(うつい)貯水池から約12km離れた高尾浄水場に自然流下する方
法で給水が開始された。山口県内では最初、全国でも9番目の本格的な水道施設であった。
その後、人口増加のため上水道施設の大幅な拡張が必要となり、1929(昭和4)年日和
山浄水場が新設される。(建物は下関市水道局水道資料室(旧日和山浄水場管理事務所)
日和山公園に建つ高杉晋作像は、1956(昭和31)年没後90年を記念して建立された
備前焼の像である。1936(昭和11)年4月70回忌を記念して建立されたが、戦時下の
金属供出で接収されてしまったそうだ。
晋作像の前に「つかずの灯籠」と呼ばれる灯籠がある。この灯籠にいくら火をつけても
すぐに消えてしまうことからこの名があるという。
公園からの展望は海峡が垣間見える程度である。(右手の塔は海峡ゆめタワー)
日和山から観音崎コース。
中山身護正宗・覚弘院(かくこういん)への案内がされている。
境内地は港がみえる丘である。
西入江町の坂を下る。
大通りに出ると双方の歩道に道標。
下関市の「し」の中に市のシンボルマーク「フグ」と、その周りを海の波が描かれたマ
ンホール蓋。
次の道標で左折すると日本銀行下関支店。功徳院前を過ごした辺りで列車の時間が迫っ
てきたので歩きを終える。
三百目バス停より下関駅に戻る。