この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
横田は高津川・匹見川合流点の右岸平野に位置する。地名は長い田が横に存ずるとか、
出雲大社から勧請の横田大明神に由来するとかいう。(歩行約2.6㎞)
JR石見横田駅は、1923(大正12)年山口線の津和野ー益田間の延伸により開通する。
駅舎は開業当時からのものと思われる。(新山口9:16-石見横田11:36)
駅前を南北に走る道が旧山陰道(津和野益田往来)。
駅のある地は、1889(明治22)年の町村制施行により、神田村、向横田村、隅村、白
岩村、薄原村が合併した「高城村(たかぎむら)」である。駅前より南に下って田万川方面へ
の道分岐から歩きを開始する。
駅前は静かな通りである。
国道9号に合わすとその先に匹見川。1952(昭和27)年益田市となる前は、この川が
豊田村と高城村の村境であった。
横田橋を渡ると右折して街道筋に入る。
街道筋の家々は更新されて面影は残されていない。
国道482号付近の商店は廃業されている。
梅の花と川を泳ぐ鯉4匹、市章がデザインされた益田市の集落排水用マンホール蓋。
厨子2階建てのS家。
蔵などを有する大きな屋敷地を持つ民家。
石見横田郵便局前にある「畜魂碑」について、建立された経緯は不明だが、畜産・酪農
を営む農家や牧場が、動物たちに厚い感謝と深い愛惜の念を籠め、これら動物達の魂を慰
霊するために建立されたものと推察する。
石見横田は津和野・益田往来の要地で、宿駅として上市・中市・下市の発達がみられる。
厨子2階建ての民家が数軒見られる。(H家)
河川水運の要地であった横田の町は、江戸期には130軒もの家が集まり活気ある町だ
ったという。
後川に架かる橋を舟橋と呼ばれているが、大森代官所の代官が横田の町を通過する際、
連日の雨で川が増水していた。その川に舟で橋をつくり、代官を渡したという。
後川沿いより100mほどの坂を上がると長寅寺山門。
長寅寺(ちょうえんじ)は臨済宗東福寺派で、豊田郷地頭職の石川庄内の旗頭・工藤三郎致
忠が松洞庵を創建。その後、室町期の1530年に益田の医光寺第6世が、仏殿を再興し
て現寺号に改めた。それより医光寺を中本寺としたが、1879(明治12)年東福寺直末と
なった。
長寅寺から墓地内を抜けると横田の町並みが広がる。
墓地内から参道に出ると右手に六地蔵、左手は「よこたほいくえん」だった建物で、正
面には鐘楼を兼ねた楼門。
守源寺(曹洞宗)の由緒によると、永明寺の住職が柿木村阿弥陀堂及び附属の田畑山林一
円を隠居地として亀井滋親より下賜され、 津和野に守源寺という古寺号があったのを取り
用いていたが、2世の代に横田村に再建したという。
本堂正面には「鏝絵」であろうか、白い龍の飾りが取り付けてある。
坂を下って後川で右折して国道に出るとJA前にバス停。
列車は16時28分までないため、匹見口バス停(13:11)より石見交通を利用して津和野
へ向かう。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
和田は深瀬山南麓の山地に位置し、津和野川が大きく南に屈曲している河岸段丘に集落
がある。1875(明治8)年麓耕村と合併して耕田村になる。
直地(ただち)は、津和野川流域の青野山の北麓に位置し、東に地倉山、西に矢立山が聳え
る。(歩行約4.3㎞、🚻なし)
石見横田のバス停から津和野行きバスに乗車するが、山口線の新山口駅行きに時間があ
ったので、青野山駅に近く青野山が見える直地バス停で下車する。
バス停から眺める直地地区は、歩く距離が短そうなので隣地区の和田地区を訪れるが、
唯一の道である国道9号だが歩車分離のない「酷」道であった。ハシモト自動車工業の先
で左手に入ると、この道が津和野奥筋往還道。
津和野川沿いの道を進むと、正面に東津和野大橋が見えてくるが、右岸側は岩盤までが
深いため、支間90mの曲弦トラスが一部に採用され、高さ32mのコンクリート橋脚が
支える構図は機能美を感じさせる。
東津和野大橋の下にもう1本の架橋。
和田集落の真上を大橋が跨ぐ。
橋下を過ごして西進すると行き止まりだった。橋の架かる津和野バイパスは青野山の安
山岩質の流動堆積土と途中に進入路がなかったため、工事は困難を極め、1959(昭和3
4)年に着手して7年の歳月をかけて完成する。(東津和野大橋の全長は180m)
藩校養老館の掘割に泳ぐ鯉とハナショウブ、町の花ツワブキがデザインされたマンホー
ル蓋。
引き返して耕田バス停への道に入ると、石州瓦が際立つ中に紅一点のトタン屋根家屋。
1889(明治22)年町村制施行により、直地、耕田、滝元、寺田、商人(あきんど)、笹山
の6ヶ村をもって小川村が発足する。昭和の大合併で津和野町と合併して村名が消滅する。
この集落は住家と蔵がセットである。
和田集落から再び国道筋を歩いて直地バス停に戻るが、直地という地名は、古代岩石信
仰の対象とされた地倉権現に関連するという。
銘茶「秀翠園」の舞台から見る青野山は、お椀を伏せたような形状で青野山火山群の1
つである。その麓の麓耕(ろくごう)集落内の棚田畦畔には、4月下旬から5月上旬に1万本
株のツツジが開花する。秀翠園さんでは茶摘み体験をしながら、ツツジとその上を泳ぐ鯉
のぼりが堪能できるとのこと。
浄土真宗の了徳寺。
割木が積まれた光景を見かけることが少なくなった。
蔵に鏝絵。
国道から駅に向かう道の左右に小さな集落を形成する。
JR青野山駅は、1961(昭和36)年津和野ー日原間に新設された駅で、単式1面1線
に待合室がある。
麓耕集落から谷筋を眺めて新山口駅行き(16:51)に乗車する。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
日原(にちはら)は津和野川と吉賀川の合流点に位置する。地名の由来は、小高い丘で日が
よく当たることによるとも、総鎮守の大元社が銅山近くの日地ヶ原にあるが、その転訛に
よるものともいう。(歩行約6.9㎞)
JR日原駅は、1923(大正12)年山口線の津和野-益田間延伸により開業。相対式の2
面2線を有し、駅舎には枕瀬簡易郵便局が入居し、日原公民館枕瀬分館とは渡り廊下で繋
がっている。
駅から津和野方面に「つわのや旅館」さん。
駅まで戻って益田方面へ向かう。
津和野川に架かる枕瀬橋を渡る。
高津川を泳ぐ「なまず」と「魚・カニ」がデザインされた旧日原町のマンホール蓋。
枕瀬橋を渡って国道187号線への道。
右手にある杵築神社は、出雲の出雲大社(旧杵築大社)と関係するものと思われるが、詳
細を知り得ず。
津和野町役場を過ごすと、「神崎直三郎顕彰碑」に功績が記されているが読み取れず。
この一帯に製糸工場があった石西社(せきせいしゃ)の創業者と思われる。
日原歴史民俗資料館前に「天領だった日原。江戸時代の歴史ポイントを探して、まちを
歩いてみませんか」と案内されている。
津和野川(手前)と吉賀川が合流する地点。(桧橋より)
桧橋よりJA西いわみへ通じる道。(歩いた後に見返る)
川で町並みは3ヶ所に分断されている。(旭橋より)
割烹・美加登屋さんは、1953(昭和28)年築の昭和風情を残す旅館だった建物をその
まま活用されている。スッポン・鮎料理を味わうことができるそうだ。
銀行もあって日原のメインストリートだが、駅からは少し離れている。江戸期には日原
銅山を中心とした幕府直轄領(天領)で、高津川の舟運、津和野奥往還などの交通の要衝で
あった。
津和野奥筋往還は津和野藩領の飛地である美濃・那賀・邑智3郡を支配するための重要
な街道であった。
また、石見銀山大森代官所の役人が、日原・畑迫にあった幕府直轄領を往来する道でも
あった。
「にちはら・下水道」の文字で上下2分され、下半分は町の花だった向日葵と町章、上
半分は日原天文台と星空がデザインされた旧日原町のマンホール蓋。
往還道から本光寺への道。
浄土真宗の本光寺。
1889(明治22)年町村制施行により、日原村、枕瀬村、河村、池村,左鐙村、滝本村
の一部が合併して日原村となる。その後、町制に移行して昭和の大合併で青原村と合併。
平成の大合併で津和野町と合併して日原町が廃止されたが、町役場の本庁舎は旧日原町に
設置されている。
春日神社は奈良の春日大社が総本社で、当神社の創建は不明とされる。天文年間(1532-
1555)に鉱山師の三好家が社殿を再建したといわれている。現在の社殿は、1772(安永元)
年に遷宮されたもので、春日宮を変形した一間社である。
境内から見る日原の町並み。
日原鉱山を経営していた水津家(大和屋)の主屋と蔵。現在は賑わい創出拠点「かわべ」
として活用されている。
火の谷川のほとり、難身切(なみきり)不動尊から下る三叉路に高札場があった。この付近
が天領日原で一番賑わった場所であった。
反時計回りに散策する。
日原中学寮とあるが、町内に4ヶ所あった中学を順次統合して、1965(昭和40)年に
日原中学校となる。(付近に日原鉱山跡があったようだが見落とす)
この筋には天領の商家として、かっては川から舟を乗り入れて商いを行なっていたとさ
れる。(渡部商店)
説明板によると、日原銅山に携わる人を山方(やまかた)といい、山方を取りまとめるのが
「山年寄」で、朱色山の鉱床を発見したという藤井氏は後藤氏とともに就任し、藤井家が
代々受け継いできたという。
藤井家は屋号を「麴屋」といい、主屋は1825(文政8)年に建てられたものとされる。
高津川堤防道から眺めると、広大な屋敷地に蔵などが建ち並び、川から直接船を着け荷
物の積み下ろしができるようになっている。
浄土真宗の丸立寺(がんりゅうじ)には井戸平左衛門の芋塚がある。
この高津川は、吉賀町を発する全長81㎞の一級河川であるが、本流にダムがないこと、
清流日本一の川としても有名である。その川面を眺めながらJR日原駅に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
益田は高津・益田両川が形成する複合三角州の東南域、益田川の谷口に位置する。
地誌「石見八重葎(いわみやえむぐら)」では、真田・舛田ともいい、良田の真砂田の音韻転
訛に由来するという。(歩行約4.5㎞)
JR益田駅から石見交通医光寺行き約12分、終点で下車する。
医光禅寺(臨済宗東福寺派)の惣門は高麗門形式で、屋根は切妻造・本瓦葺き、中央を高
くして両側を一段低くするという段違いの方式がとられている。この門は益田氏の居城で
あった七尾城の大手門を移設したものとされる。
医光寺の前身は天台宗の崇観寺(すうかんじ)という寺であった。崇観寺は南北朝期の13
63年創建と伝え、医光寺はその塔頭(たっちゅう)であった。代々益田氏の庇護を受けたが、
戦国時代に荒廃したため、天文年間(1532-1555)前半に益田氏が塔頭だった医光寺を再興し、
崇観寺を合併させて、医光寺を継承寺院とする。
本堂は1729(享保14)年大火で延焼し、その後に再建された。
庭園は雪舟作といわれる池泉鑑賞半回遊式庭園で、面積220坪、山畔を生かした上下
2段の構成で、蓬莱山水の手法で作庭されている。
雪舟(1420-1506・諸説あり)は現在の岡山県総社市に生まれ、10歳の頃より京都の相国
寺で禅の修行を積む傍ら絵を学ぶ。1454(享徳3)年頃守護大名大内氏の庇護のもと周防
国に移り、画室雲谷庵(山口市)を構える。1468(応仁2)年遣明船で明国に渡り、約2年
間本格的な水墨画に触れる。
帰国後は周防のほか豊後で創作活動をしたが、益田兼堯(かねたか)の招へいにより石見に
来訪し、当地に逗留すること数年、晩年にも来訪して、この地で87歳の生涯を終える。
この雪舟灰塚は当寺で荼毘に付した時の塚という。
益田東高校を右手にすると、染羽天石勝(そめばあめのいわかつ)神社への参道。
社伝によると、奈良期の725(神亀2)年創建したとされる式内社。平安期の808(大同
3)年熊野権現から勧請して瀧蔵権現と称し、さらに931(承平元)年真言宗勝達(しょうた
つ)寺を建てて神社の別当寺としたが、明治の廃仏毀釈で廃絶し、神社名も現在の名称に変
更した。
安土桃山期の1581(天正9)年に本殿を火災で焼失したが、2年後に益田元祥(もとよし)
によって再建されたもので、三間社流造りで随所に桃山建築の特色が見られる。
入母屋造の神楽殿。
案内表示に従う。
益田川沿いの車道に出ると、萬福寺は新橋を渡らずに直進する。(先ほどの案内に納得)
山門入口は工事用車両が占領しているが、鐘楼が強風で倒壊したため再建中とのこと。
萬福寺(時宗)は平安期に建立され、安福寺(天台宗)と号して益田川河口付近にあったが、
大津波で流失して小庵を建てて法灯を守る際に時宗の道場となる。
南北朝期の1374年、益田兼見(かねはる)が中須にあった安福寺を現在地に移し、萬福
寺と改称して自らの菩提寺とする。
1866(慶応2)年の第二次幕長戦争益田口の戦いでは本寺が幕府軍の陣営のとなったた
め、長州軍の攻撃により惣門を焼失したが、幸いに本堂・庫裏は戦禍を免れたという。本
堂の柱に弾痕があるというが、あまりも柱が多くて見つけ出すことができず。
室町中期の1479(文明11)年雪舟によって造られた池泉鑑賞回遊式庭園。古代インド
の世界観の中で中心に聳える山・須弥山(しゅみせん)を象徴した石庭は、書院の前に広場が
あり、正面の心字池の向こうに須弥山がある。
雪舟は西国各地に雪舟庭園を作庭したといわれるが、現存する雪舟庭のうち、医光寺、
萬福寺、山口の常栄寺、福岡県添田町英彦山の旧亀石坊の4つの庭が「雪舟の四大庭園」
とされる。
萬福寺門前入口が旧山陰道(津和野往来とも)。少し街道を歩いてみるため、「辰の口」
まで行って引き返す。
旧山陰道・辰の口と呼ばれるところで、東に山陰道、北に久城に通じる道とに大きく二
手に分かれていて、あたかも龍が口を開いたようだったことに由来する。
1866(慶応2)年6月17日、第二次幕長戦争で浜田領益田口に進撃した長州軍は、益
田川を中心に陣取る浜田・福山藩兵と対峙して激戦を展開したが、長州軍が3方を包囲し、
遊撃作戦により幕府軍は退去を余儀なくされる。
石柱は旧山陰道の標柱であったという。
辰の口から南下する道。
道幅は原型をとどめていると思われるが、周囲の建物はすっかり変わっている。
萬福寺の門前を過ごすと益田川。その先に見える大橋を右折して益田氏の居館跡に立ち
寄る。
中世益田氏の三宅土居跡イメージ図。
木組井戸とされるもので、水深は4m以上とのこと。益田の中世史は益田氏の歴史であ
り、20代益田元祥が関ヶ原の戦い後、現在の萩市須佐に転封されて終わる。元祥は西軍
で内応した吉川広家に属していた関係から、戦後に徳川家康より恩恵的内意があったもの
の毛利輝元に殉じる。
遺構は少ないが東西に土塁を見ることができるが、かっては四方に張り巡らされていた
と思われる。
益田川大橋の欄干に益田氏の家紋・丸に九枚笹。
田畑修一郎(本名:修蔵)は那賀郡益田町(現益田市)に生まれ、少年時に父河野弥吉が事
業に失敗して自殺したため、この地にあった旅館「紫明館」や料亭を営む田畑キクの養子
になる。
義母との確執が田畑文学の基調となり、1932(昭和7)年に自伝的創作「鳥羽家の子供」
を発表し、芥川賞を中山義秀の「厚物咲」と争う。将来を嘱望されたが盛岡での取材旅行
中に志半ばにして倒れ、40歳の生涯を閉じる。
右田本店は、1602(慶長7)年益田氏が須佐に遷ったことで、益田が寂れることを憂い
た右田宗味が酒造業を始めたといわれている。
建物は更新されて街道だった面影は見られない。
妙義寺の参道入口と思われる石畳と太鼓橋を過ごす。(太鼓橋は寺を背に撮影)
太鼓橋の脇に益田兼堯像と朱色のお堂。
妙義寺(曹洞宗)は文永年間(1264-1275)臨済宗寺院として開かれたと伝え、室町期の13
94(応永元)年益田兼見の孫・秀兼が上野国の直庵宗観を招いて再建、曹洞宗に改めて菩提
寺とする。
第二次幕長戦争では長州軍の本陣と野戦病院が置かれた。
益田幼稚園の角に「益田藤兼の墓(これより250m)」と案内されている。畜舎の先に
益田藤兼の墓と伝えられている五輪塔がある。
藤兼は室町期の1551(天文20)年、姻戚関係にあった陶隆房(後に晴賢)の挙兵に協力
する。毛利元就と対立することになったが、吉川元春の仲介により服属関係を結ぶ。68
歳で没し、妙義寺に葬られたとされる。
住吉神社まで行って益田小学校付近のバス停から駅に戻る予定であったが、水源地前バ
ス停の時刻表を見ると駅行きのバス(14:51)があったので、神社を残念して益田駅に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
津田は津田川下流域の左岸に位置する。地名は益田郷のうちの津というが、ツタ(蔦)に
よるともいう。(歩行約2㎞、🚻駅)
1923(大正12)年に開業したJR石見津田駅は、2面2線の相対式ホームを持つが、
駅舎側のホームだけが使用されている。駅舎にはパン屋さんが入居しており、美味しいパ
ンをいただいて散歩に出発する。ちなみにJR片町線に津田駅(1898年開業)があるた
め石見津田駅となる。
駅舎は1994(平成6)年に訪れた時と同じ姿だった。
駅前の洋風建物について、地元の方に尋ねると農協の建物だったような?という返事だ
った。
駅前通りは静かで人の姿を見かけない。
駅前通りを左折すると、山陰本線下の水路に往来できる細い道がある。
集落は鉄道で2分されている。
観音寺(曹洞宗)の創建は、安土桃山期の1584年頃と伝え、のちに妙義寺(益田市内)
の末寺になったという。山門の屋根には凝った造りの彫刻が施してある。(寺の裏手が旧
山陰道)
津田西踏切で海岸部の集落に出る。
海岸から見る津田の町並み。
駅前から浜田へ向かう道筋。(旧山陰道だったかどうかはわからない)
平入の家屋が並ぶ。
石州瓦の民家が連なる。
途中に津田川。
庄屋で網元だった矢富家。
海に面しているため屋敷門の周りは板塀で囲まれている。
緩やかな坂を上ると美しい海が広がる。
海岸の片隅に第1種漁港指定の津田漁港。
旅館「文太楼」の海側に小祠と猿田彦大神の石碑。
路地を抜けてJR石見津田駅(11:11)より益田に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
飯浦(いいのうら)は日本海に注ぐ飯浦川流域に位置し、西は山口県に接する。
地名の由来は、仲哀天皇諸国回国の節、岩山多き海岸から石見の浦、石見村と名付けた
が、のちに唐の安禄山の乱に備えて起飯人(紀伊人)が、浦を防衛するため来着した故事に
よって飯浦と改めたという。(歩行約2.4㎞、🚻なし)
JR飯浦駅は、1927(昭和2)年山陰本線の延伸により開業する。益田市に向って左側
に単式ホームと待合室がある。
駅は高台にあるため集落へは下って行く。
三叉路付近から海に向かって集落が形成されている。
平入り厨子2階建ての家屋が並ぶ。
戸袋が漆喰で塗り固められ、屋号や家紋などの鏝絵が見られる。この家屋には屋号であ
ろう「幾」が施してある。
飯浦八幡宮参道入口には江戸中期頃、篤志家によって奉納・建立された一の鳥居があっ
たが、新鳥居完成後に旧鳥居の柱は、篤志家名と建立時期を刻むことから記念碑として残
されている。
赤い屋根(赤褐色)で知られる石州瓦は、石見地方の白陶土と来待石からとれる釉薬を使
って高温で焼成されるもので、緑の山々に囲まれて際立つ。
二の鳥居を潜ると山陰本線が参道を横断している。
飯浦を見守り続ける飯浦八幡宮は、室町期の1480(文明12)年に山城国の男山八幡宮
(現岩清水八幡宮)より勧請された。現在の社は1805(文化2)年に再建されたという。
参道前から海方向への道筋。
浄土真宗の浄念寺。
三叉路から見る駅からの道。
江戸期は津和野藩領で、高津港に次ぐ重要な港であるとともに、津和野藩と長州藩との
藩境という要地でもあった。
海岸近くに東西の道。1983(昭和58)年豪雨の影響で建物は建て替えられたようだ。
2階の戸袋に「野」と記された鏝絵。
「鶴亀と家紋」の鏝絵だが、彩色されていたものと思われる。
厨子2階建てや2階建ての建物が入り混じる。
空家も多く見られる。
飯浦漁港は県管理の2種漁港。
飯浦湾にある石見松島は、海岸より30m隔たり、高さ30m、周囲150mの小島だ
ったが、今は防波堤に連続して島には見えない。島は石英斑岩から成り、微弱ながら磁力
を持つ磁石岩である。
漁港を引き返すと、右手の小高い山に上がれそうなので上がってみると、海岸部付近の
町並みが広がる。
広場入口には「故村上彌十郎頌徳碑、正三位・俵孫一書」と刻まれた石碑がある。後ほ
どお会いした方にお尋ねしても知らないということだった。
飯浦川は2級河川で飯浦南方の丘陵性山地を発し北流する。1983(昭和58)年7月2
0日から降り続いた雨が、23日の未明に地上1mを越える濁流となって町を襲い、町の
9割が壊滅的な被害を受けたという。
海側に対して内陸部側は2階建てを多く見かける。
1889(明治22)年の町村制施行により、戸田村、喜阿弥村、小浜村と飯浦村が合併し
て「小野村」となる。1952(昭和27)年8月に益田市となって今日に至る。
対岸の鏝絵は何が描かれていたのか判別ができない。潮の香りがする素敵な空間が広が
るが、少し閉鎖的な感じがするのはコロナ禍によるものだろうか。
飯浦小学校は戸田小学校に統合され、2008(平成20)年閉校する。閉校から14年経
過するが、石州瓦とモルタル仕上げの木造校舎は、飯浦のシンボルのようである。
学園橋から校舎を見納めして、飯浦バス停(12:26)から益田に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
菅谷(すがや)は中国山地の奥深くにある集落で、川が谷間の集落を結うように流れている。
(歩行約1.1㎞)
吉田の中心地より約3.5㎞の山間に、かってはたたら製鉄が行われ、技術者や労働者な
どが暮らした菅谷集落がある。
菅谷地区のシンボルである「菅谷高殿」と御神木のカツラの木。(炉の土取り場より)
駐車地から川に沿うとオオサンショウウオ。1年のほとんどを渓流の石の隙間や落葉の
下で暮らすため、目にするチャンスに恵まれない。ここでも頭を少し出す程度で見つけ出
すことが難しい生き物である。
すべて人力によって行われていた「たたら製鉄」は、1906(明治39)年に水車が導入
されて、たたら鈩への送風と、製鉄作業で製造された鉧(けら)という鉄塊を分割する動力と
して利用された。
カツラの木は、たたら製鉄の神様である金屋子神(かなやごかみ)が、白鷺に乗って降臨さ
れたと伝わる木。4月初旬に芽吹き、木全体を真っ赤に染め、中旬には黄金色、下旬には
鮮やかな緑色に染まるという。
菅谷川上流に向かって長屋形式などの住まいが30軒ほど並んでいたという。
たたら製鉄の生産場所や従事していた居住場所を総称して「山内(さんない)」という。改
築が繰り返されたようだが、山内が栄えた頃を偲ぶ町並みが今に伝える。
たかどの橋の先が生産拠点で、道の左側に村下屋敷(現在改修中)、三番屋敷があり、右
手の屋根の上に小屋根を載せる建物が大銅場(鉧を割る作業場)、銑・古鉄蔵、木炭・縄小
屋、水車などがあった。
元小屋に付随する米蔵。
元小屋は山内を差配する事務所で、砂鉄・木炭などの原料の受払い、製品の出荷などを
取り仕切った。
1833(天保4)年に焼失したといわれ、その直後に建てられたものと思われる。内部は
四畳半から十畳の部屋がいくつかあって、風呂場、台所なども完備された居住空間となっ
ており、2~4人いた鑪場手代(番頭)のうち、一番番頭が居住していた。
元小屋には内倉と呼ばれる作業場(銅造り場)で、4通りに選別され、十匁(もんめ・37.
5g)ぐらいより大きいものは箱詰め、その他は薦(こも)包みされて発送された。
菅谷たたらは、1751(宝暦元)年から1921(大正10)年まで製鉄されたが、豊富な森
林資源(炭)、原料である砂鉄、炉に使用される最良の土という条件を備えた最適の地であ
った。
1751(宝暦元)年、松江藩の鉄師を担った田部(たなべ)家の一大生産拠点として高殿(た
かどの)が建造された。現存するのは1850(嘉永3)年の火災後、再建された日本に残る唯
一のもので、入母屋造り、妻入り、杮(こけら)葺きである。
この高殿に入る道の中で、村下(むらげ)だけが通ることを許された「村下坂」というもの
がある。操業に入る日の朝は川でみそぎをして全身を清め、身にまとうもの全てを新しく
して、この坂を通って高殿に入ったという。
内部に入ると、炉の四隅に配された押立柱を軸にして、その奥に砂鉄の置場(小鉄町)と
木炭置場(炭町)がある。
左手には村下が待機する座。いつどれだけ木炭及び砂鉄を入れるかの指揮をとるのが村
下。これまで蓄積してきた勘を頼りに炉内の状況など見極めつつ、投入する砂鉄の量や位
置を加減していくのである。この技術は一子相伝で、口伝えで子孫にだけ伝えられた。
右手には村下に次ぐ炭坂の座。
炉は湿気を嫌うため地下構造から手を加える必要があり、深さ3~4m掘り下げて砕石、
砂利、真砂土など敷き詰める。さらに炉の下には石を積み上げた大舟、地面を乾燥させる
ための小舟が設けられ、水蒸気爆発を防ぐための工夫がなされている。
この地下構造の上に、炉と送風装置である吹子(ふいご)が築かれている。作業は炉の中を
燃焼させ、砂鉄を投入して送風を続け、指揮をとる村下のもと、一代(ひとよ)といわれる3
日3晩製鉄作業を行う。4日目の朝、ようやく炉を壊して鉧(けら)を引き出すと高殿で一代
は終了する。この作業を月に6回、約170年も続けたという。
菅谷川に沿うと以前は木橋があったようだが、菅谷たたら製鉄用の主原料である砂鉄採
取場所は、栃山という山の斜面で行われた。そこで鉄穴(かんな)流しという比重選鉱法で、
土砂から砂鉄を精洗するという作業が行われた。
山内の入口に鉄のつくり方を教えてくれたと伝える「金屋子神」が祀られている。村下
がたたら製鉄の作業に入る前、みそぎを済ませた後、作業の安全と成功を祈願して高殿に
入ったという。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
吉田は全域にわたってかなり高い山々が起伏しており、中央部にはこれらの山稜を縫っ
て吉田川が蛇行しつつ西流している。中心部の町並みは、この川沿いに開けた所にあるが、
国道、鉄道は域内を通過せず、掛合で国道51号と分かれ、吉田川沿いに6㎞も遡らなけ
ればならない。総面積の約93%が山林という地域でもある。
地名の由来は、古代に川ヨシが群生していたことから、ヨシノタといわれ、のちに吉田
となったといわれる。(歩行約1.3㎞)
吉田へは山陰本線から木次線を利用してJR南大東駅で下車、そこから雲南市民バスに
乗り換えなくてはならないが、接続が悪くて相当な時間を要するのでレンタカーで訪れる。
(稲わら工房近くに駐車、🚻あり)
吉田川右岸に集落が集中する。
吉田の町並みは田部(たなべ)家の土蔵群から始まる。
職人長屋のような建物。
白壁になまこ壁の蔵が18も立ち並び、米蔵、鉄蔵、道具蔵などと表示されているが、
中には嘉永蔵など時代の名が付くものもある。
田部氏は室町期の1460(寛正元)年、一族集まって鈩製鉄を始めたという。戦国期には
旧主である備後山内城主・周藤氏のもとに復帰し、各地を転戦する。周藤氏は毛利氏の臣
として参加したが、1581(天正9)年総領の宗左衛門の戦死により、その子原右衛門は武
士を捨てて吉田の故地に帰任し、鉄師業を専業とした。
その後、1923(大正12)年廃業するまで連綿と製鉄業を伝え、巨富を築き上げてきた。
(階段から先は私有地)
松江藩は、1727(享保12)年「出雲国鉄方方式」を定め、藩内の有力鉄師9人にたた
ら株を与え、たたら場を制限した。鉄師は春先に先納銀を納め、秋には利子を足した額の
米を受け取るということで、藩の財政は潤沢となった。
一方、鉄師たちは藩の保護のもと、山林所有と森林の伐採、伐採後の開墾も許されるな
ど財力を持つようになる。
製鉄業が最も盛んだった江戸末期から明治期には、年間290tの生産量を誇っていた
が、洋式の製鉄技術が入ってくると、たたら製鉄は徐々に衰退に向かい、菅谷たたらでは、
1921(大正10)年に鈩の火が消える。
田部家は農地400ha(小作人1,000人)、山林24,000haという膨大な土地所有
者で日本一の山林地主でもあった。
緩やかな上り坂は石畳み。
吉田町商工会館は、吉田信用購買販売利用組合の事務所として、昭和初期に建てられた
擬洋風建物である。
鉄で作られた出雲阿国の像。
1889(明治22)年町村制の施行により、吉田町、吉田村、民谷村の区域をもって吉田
村を形成するが、平成の大合併で雲南市吉田町となる。
鉄の歴史博物館は、1969(昭和44)年「最後のたたら師による操業」の際に、高齢の
村下(むらげ)たちの健康管理を担った常松医師が、医院を当時の吉田村に寄贈したものであ
る。
博物館入口に鉄穴ヶ谷鈩原から出土した「鉄塊」がある。
たたら製鉄や鍛冶技術に関連する道具などが展示されているが、館内で上映される「和
銅風土記」(上映時間30分)を見ると、たたら製鉄の作業手順が理解できる。
寺町のひとつである長寿寺(曹洞宗)の開基は不明。
西福寺(真宗)の開基は1606(慶長11)年。
日本で唯一残るたたら製鉄の「高殿」と、旧吉田村の村花であったツツジがデザインさ
れたマンホール蓋。
坂根屋小路から吉田川沿いを下る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
松江は島根県東部に位置し、西に宍道湖と東の中海を抱くように南北に広がり、西北の
一部は日本海に面している。市街地は宍道湖と中海を結ぶ大橋川の南北に開けていて、大
正期以前は水路が交通の中心で水の都として名高い。
地名の由来は、中国浙江省の西湖に臨む風光明媚な松江府に似ていることによるという。
(歩行約4.4㎞)
JR松江駅7番のりばからぐるっと松江レイクラインで約20分、小泉八雲旧居前バス
停で下車する。
小泉八雲旧居に隣接して建てられた純和風様式の記念館。松江を世界に紹介した小泉八
雲(ラフカディオ・ハーン)の遺品、著書、関係図書、妻セツの遺品などが収蔵されている。
小泉八雲は1890(明治23)年8月から1年3ヶ月の間、松江尋常中学校で英語を教え、
ヘルン先生と親しまれる。この間に小泉セツと結婚した後、かねてから念願であった「武
家屋敷」を借りて、熊本に転任するまでの5ヶ月間、この家で生活した。
塩見縄手は松江城の北堀に沿った約500mの通りで、かっては200~500石程度
の中級武士の屋敷が並んでいた。「縄手」とは縄のように一筋に伸びた道のことをいい、
松江藩初代藩主・松平直政の家臣で、異例の栄進をした塩見小兵衛の屋敷があったことか
ら名付けられた。
堀沿いには老松が立ち並び、城下町の風情が味わえる。
塩見縄手の由来となった塩見小兵衛邸も住んでいたとされる屋敷で、有料だが「武家屋
敷」として一般に公開されている。
1733(享保18)年の大火で焼失した後に再建されたもので、主屋はおよそ67坪(約
221㎡)で、表側に式台玄関から座敷に至る部分と、裏側に私生活の部分があるが、造
りも材料も区別された武家の公私の区別を見ることができる。
当主が来客を迎える表の間で、書院や柾目の長押、釘隠しなど格式のある造りとなって
いる。
長屋門は武家屋敷の特徴の1つで、門番や中間(ちゅうげん)の住居として使われ、上級・
中級武士に仕えていた。
今も白壁と腰板壁の長屋門が連なり、昔ながらの家並みが続いている。
武家屋敷の長屋門を「MATSUE CITY」の文字で囲んだマンホール蓋。
北の高台に建つ明々庵は、塩見縄手を左折して緩やかな坂道を上がる。
明々庵への途中に松江城が見える場所がある。
明々庵は、1779(安永8)年7代藩主・松平治郷(はるさと)が指図して建てた茶室で、も
とは殿町の家老・有沢邸内にあった。その後、転々と場所を移したが、1966(昭和41)
年現在地に移築された。治郷は江戸期の代表的な茶人で、号の「不昧(ふまい)」として知ら
れる。
松平不昧公好みが反映され、2畳台目(だいめ)と4畳半の席が組み合わされ、下座床、炉
は向切りである。
北堀町から北田川へ向かう筋。
普門院は遊覧船が行き交う松江城の堀川沿いにある。
普門院(天台宗)は、松江藩の初代藩主・堀尾吉晴が松江城を築いた際、祈願所として普
門院の前身である願応寺を開創する。
のちに寺町の大火により類焼してしまうが、1689(元禄2)年松平綱近が松江城の鬼門
にあたる現在地に建立する。
観月庵を見学することを目的に普門院を訪れたが、和尚不在のため拝観できず。180
1(享和元)年に建てられた細川三斎流の茶室。松平治郷(不昧)も度々訪れたり、小泉八雲も
お茶の手ほどきを受けた茶室である。(境内からは屋根のみ)
堀川沿いに松江ホーランエンヤ伝承館。ホーランエンヤは、正式には「城山稲荷神社の
式年神幸祭」で、大阪の天神祭、宮島・厳島神社の管弦祭と共に日本三大船神事のひとつ
である。10年毎に行われる船神事で、御神霊を約10㎞離れた阿太加夜神社まで船で運
び、7日間にわたり出雲国内の安定と五穀豊穣を祈願する祭り。
1808(文化5)年の嵐で沈没寸前の神輿船を、大橋川河口付近の馬潟(まがた)村の漁師が
助け、曳航して送り届けた。そこから馬潟の船が曳船役として参加し、馬潟付近にある矢
田、大井、福富、大海崎の漁師たちが加わった。「ホーランエンヤ」の由来は、櫂かきが
歌った掛け合いの言葉とされる。
松江歴史館の先に内堀と松江城。
北惣門橋は、内堀の東側にあった家老屋敷(現歴史館)と場内を結ぶ重要な橋であった。
明治中期頃に石造りのアーチ橋とされたが、史跡にふさわしい木橋に架け替えられたとい
う。
大手から城内に入ると、外曲輪(馬溜)の先に大手門跡。かっては2階建ての楼門があっ
たとされる。
二の丸下の段から二の丸への本坂。
二の丸には3つの櫓(太鼓櫓、中櫓、南櫓)がある。北隅角に太鼓を保管していた太鼓櫓、
東側に武具を保管していたと思われる中櫓(御具足櫓)、南東角に城下を監視する2階建て
の南櫓がある。
興雲閣は、1903(明治36)年明治天皇の行幸を願って行在所(あんざいしょ)として建て
られたが、時局が厳しく実現しなかった。1907(明治40)年皇太子(後の大正天皇)の宿
泊所として利用され、のちは松江郷土館などに活用されたが、現在はイベントなどに利用
されている。
大広間は貸し出し中のため入ることができなかったが、大広間は大壁造りで竿縁天井、
貴顕室は3部屋あって壁と天井は和紙が使われているとのこと。
建物は木造2階建てで主屋のやや北寄りに玄関があり、外壁は下見板張りに淡緑色で仕
上げられている。周囲には列柱廊を巡らせた洋風の外観だが、屋根は純和風という擬洋風
建築である。
1877(明治10)年西川津町に松江藩松平家の初代藩主(直政)を祀る楽山神社として創
建されたが、松江東照宮と合祀のうえ、1899(明治32)年御殿があった地に松江神社と
改めて遷座する。
現存する12天守のうち国宝に指定されているのは、この松江城のほか松本城、犬山城、
彦根城、姫路城で、国指定重要文化財が弘前、備中松山、丸亀、伊予松山、宇和島、高知
の7城である。
天守は本丸の東寄りに南面して建ち、外観は4重だが内部は5階、地下1階の構造(5層
6階)で、入口に附櫓を設けた望楼型の城である。
現存する天守では唯一天守内に井戸がある。
松江城は別名千鳥城ともいい、堀尾吉晴が1607(慶長12)年から4年の歳月をかけて
完成させた。実践本意の城は高さ約30mの望楼式である。
外観は黒く、分厚い板を巡らす下見板張りで、質実剛健な構えをみせる。堀尾氏3代、
京極氏1代を経て松平氏10代が居城し、18万6000石の城下町となる。
天守最上階は天狗の間と呼ばれ、360度の展望を得ることができる。柱は四角に製材
され、敷居や鴨居もある。
北にある嵩山・和久羅山は、松江市内のどこから見ても、涅槃像の姿を見せる。昔から
「大仏の 寝たる姿や 嵩和久羅」と言われてきた。
南に宍道湖。
北之門跡から水の手門跡に下る。
馬洗池はその名のとおり馬を洗う池として使われたが、使用されることはなかったが、
籠城の際は飲料水の役目も果たす池だったといわれる。
松江藩主だった松平直政が、松江藩の守護神として勧請した城山稲荷神社は、ホーラン
エンヤの神社である。千体を超える石狐が奉納され、小泉八雲は毎日の散歩で、この稲荷
神社を訪れていたという。
歩き疲れたので内堀に出て、記念館前バス停からレイクラインに乗車、月照寺前バス停
で下車する。
拝観時間の受付は15時30分までとされ、最後にしたのが間違いだったようだ。月照
寺(浄土宗)は、1664(寛文4)年松江藩主・松平直政が、生母・月照院のために建立し、
松平家の菩提寺とする。
雷電は、1767(明和4)年信濃国(現長野県上田市)に生まれ、横綱谷風の内弟子から大
関となり土俵を飾る。
1788(天明8)年22歳の時、松江藩主・松平治郷(不昧)に「お抱え力士」として召し
抱えられ、雷電為右衛門の名を給わる。21年間の相撲生活後は、力士を連れて各地を巡
業し、一時期松江にも住んだことがあるという。顕彰碑の下に手形が刻まれているが、実
物は月照寺に保存されている。
門前払いされてしまったので一畑電車・松江しんじ湖温泉駅まで歩く。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
美保関(みほのせき)は島根半島の東端に位置し、東・南・北は日本海に面する。(歩行約1.
9㎞)
JR松江駅から一畑バス美保関バスターミナル行き約45分、終点で下車すると次のコ
ミュニティバスには時間待ちすることなく乗車できる。バスに揺られること約30分、五
本松公園入口バス停で下車する。
弁天波止場の先端にある常夜灯は、灯台の役目を果たすことを目的に、1842(天保1
3)年に建立されたが、風化により老朽化したため再建されたという。
太鼓橋先の浮島には、弁天さんが祀られている。
美保関漁港は第二種漁港に指定されているが、島根半島東端に南面した天然の良港で、
中世から交易の基地として栄えた。
バス停から左の路地に入ると、「歳徳神御座居所」と表示された社がある。陰陽道(おん
ようどう)でその年の福徳を司る神とされ、この神がいる方を恵方といい、万事に吉とする
とされる。
その先左手に美保神社の境外末社である糺社(ただすしゃ)がある。祭神の久延昆古神(くえ
びこのもこと)は「案山子」を神格化したもので、知恵・知識の神とされる。
路地を抜けると美保神社参道。
美保神社の由緒によると、出雲風土記(733年編纂)及び延喜式神名帳(927年成立)
に記される古社とされる。
4月7日が青柴垣(あおふしがき)神事で参道に幟が並ぶ。
1928(昭和3)年に造営された神門。
拝殿も1928年築で、船庫を模した独特な造りだそうで、壁はなく、梁が剝き出しで
天井がないのが特徴とされる。
本殿は大社造りの2殿の間を、「装束の間」でつないだ特殊な形式とされ、現在の本殿
は1813(文化10)年再建されたものという。漁業、海運、商業の神とされる「えびす様」
を祀る全国の総本宮である。
青石畳通りは、江戸期にできた参拝道で、両側には旅籠や土産物屋などで賑わっていた
そうだ。
石敷道は江戸後期の1804~1847年頃、近くの海岸からとれた青石(凝灰質砂岩)
で造られたという。
各戸にはその家の由来看板が掲げてあって、それに触れながら歩くと、歴史を垣間見る
ことができる。
元禄年間(1688-1704)の頃、北前船の往来が頻繁となり、神社東側界隈の海を埋め立てて
土地造成を行なったことにより、引地の小路と称された。
福間屋は宝暦年間(1751-1764)より廻船業を営むが、分家筋も廻船問屋として名を連ねて
おり、本家が面屋(おもや)と称する。
明日は祭りということで、各戸には御神竹である青竹が軒先に掲げてある。(当地は未来
に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選の1つ)
定秀家は、江戸期には廻船問屋として栄え、1905(明治38)年から旅館業「美保館」
を営む。本館の玄関に唐破風を備えるという、明治後期から昭和初期の旅館建築の面影を
伝えている。
多くが廻船問屋で廻船の定宿にもなっていたようで、それぞれが中心的な商取引き相手
を持っていたため、米子屋、和泉屋、加賀屋など相手国が屋号になっていた。
美保関は北前船の西廻り航路の寄港地として栄え、50軒ほどの廻船問屋があったとい
い、その物資の積み下ろしの効率化を図るため、敷石を用いたとされる。
海へ通じる土間。
左手の軒下にある由来看板には、廻船商人の元締めをする総問屋と称したことから、そ
のまま「大問屋」という屋号になったと記す。
美保関史料館を過ごすと石碑と小さな祠があり、左手の御幸通りに入る。
参道も敷石。
島根半島は修験道には格好の場とされ、三明院(真言宗)という密教寺院があった。中世
後期には無住となったが、天正年間(1573-1592)に浄土宗佛谷寺(ぶっこくじ)として再興され
た。
三明院は隠岐に流された2人の上皇と天皇の行在所(あんざいしょ)になった寺とされる。
鎌倉期の1221(承久3)年、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が、出雲大浜湊(美保関)に着か
れ、風待ちのため逗留された。
それから100年後の1332(元弘2)年、後醍醐天皇も倒幕に失敗して隠岐に配流とな
り、当寺で一夜を過ごしたとされる。
江戸前期、江戸本郷の八百屋の娘・お七は、寺小姓の恋人に会いたいため、自宅を放火
した罪で火刑に処せられた。(井原西鶴の好色五人女)
お七の冥福を祈って巡礼の旅に出た恋人・吉三(名は様々)が、ここで生涯を閉じたと伝
えられ、山門脇に地蔵尊が祀られている。
円浄寺前の道を海側へ向かうと左手に定秀住宅。かっては豪壮な建物があったようだが、
大半が取り壊されて明治前期頃に建てられた一部が残されている。
後醍醐天皇が隠岐配流の際、「古東館」と命名されたと伝え、北前船が入港するように
なると、北国7ヶ国の廻船業の独占権を有したことから「北国屋」とも呼ばれるようにな
る。
青石畳通りの先にある通り。
1891(明治24)年小泉八雲は美保関の町外れにあった「島屋」に宿泊し、美保関の生
活習慣などを題材にした紀行文「知られる日本の面影」を世界に向けて発信する。
福間離れ(旧大下舎)は水夫たちをもてなす宿屋でして使われた。当地は北前船の寄港地
でありながら、美保神社の門前町でもあり、遊女町も形成された。
ここにも歳徳神が祀られている。
飛び跳ねる鯛と美保関灯台、関の五本松と思われる松と、旧町章入りの美保関集落排水
用マンホール蓋。
1889(明治22)年の町村制施行により、美保関と雲津浦の区域をもって「美保関村」
となる。1955(昭和30)年昭和の大合併では、千酌村、片江村、森山村をくわえて町制
に移行したが、平成の大合併で松江市美保関町となる。
三日月のような地形の対岸から見る常夜灯と浮島。
ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、1891(明治24)年と翌年、1896(明治29)
年の各夏、3回にわたり美保関を訪れ、いずれもセツ夫人同伴で、この地にあった「島屋」
を定宿とした。
青柴垣神事は、大国主命が事代主命に国を譲ることを決定した後、自ら海中に青柴垣を
作ってお隠れになった故事に因むという。
青柴垣で飾った船に当屋夫婦を乗せて港内を一周した後、美保神社に参拝して奉弊する
という神事である。
美保関灯台まで約2㎞(往復1時間)を要するので、レンタサイクルを活用しようと思っ
たがないとのことで、次の予定もあって灯台行きを残念して松江に戻る。