ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市須万は須金地域の中心地だった町

2020年02月24日 | 山口県周南市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 霊元情複 第547号)
         須万(すま)は錦川中流域の山間地域で、錦川が屈曲した所に須金地域の中心である須万が
        あり、地域全世帯の75%が集中する。(歩行約2.5㎞)

        
         JR徳山駅防長バス菅野行き(8:25)に乗車して、須々万でコミュニティバス(10人乗
        り)に乗り換えなくてはならない。須々万で待ち時間もなくスムーズに須金支所前(10:20)
        に下車できる。
         但し、休日は便数が少なくバス便で当地を訪れることは無理である。

        
         バス停先の倉光理容店前を左折すると、倒壊寸前の家屋を横目で過ごす。

        
         山道に入ると急坂。
     
        
         中心部では境内地の確保が難しかったのか、坂上に真行寺(真宗)および観音寺(曹洞宗)
        と墓がある。(観音寺参道より)

        
         観音寺は永禄年間(1558-69)に建立されたが、その後に頽廃し、1650(慶安3)年龍文
        寺の和尚を請うて再建されたという。

        
         ひっそりとした境内は檜林に囲まれている。

        
         観音寺の参道を下り、民家を過ごすと亀山八幡宮参道に出る。

        
         亀山八幡宮は、奈良期の709(和銅2)年に遠石八幡宮より勧請したと伝える。

        
         いつの時代か現在地に遷座し、江戸期には徳山藩(藩領の飛び地)が4度にわたり造営す
        る。現社殿は、1860(万延元)年に建立されたものである。

        
         1856(安政3)年奉納の絵馬(合戦絵)があるが、ほとんど判別できない状態になってい
        る。

        
         参道を下って集落への道に出る。

        
         蓮華寺(浄土宗)は、奈良期の750(天平勝宝2)年一升谷に天台宗の寺として創建された
        が、慶長年間(1596-1615)に浄土宗へ改宗した。その後、火災に罹(かか)り現在地に移転し
        た。

        
         須金には鋼橋が2橋あるが、1953(昭和28)年に架橋された舟本橋である。

        
         徳山藩政下では須万上村と須万下村に分けられていた。(上市付近)

        
         土田家と造り酒屋を共同経営していた国広家。蔵には「國」字が見える。

        
         旧鶴岡家は大内氏の家臣で、大内氏から恩賞として須万村を分地された。現在の屋敷の
        一番奥が明治期、中の建物は大正期、道路に面した建物は昭和期に建てられた。

        
         須万(土田)家は代々造り酒屋で、国広家と「錦鶴」という銘柄の酒を醸造されていたが、
        既に廃業されて酒造場のあった地は周南市須金支所になっている。住宅は明治中頃に建て
        られたとされる。

        
         現在は無住とのことだが、倉庫に証が残されている。

        
         江戸期の須万村は徳山藩、金峰村は萩藩だったが、1889(明治22)年の町村制施行に
        により合併したとき、それぞれの一字を組合せ「須金村」となり、ここに須金村役場が置
        かれた。
         1955(昭和30)年7月昭和の大合併で二分されて、旧須万村は都濃町(のちの徳山市)
        へ合併、旧金峰村は鹿野町へ編入される。

        
         商店だったと思われるO家。

        
         美容室と旅館。

        
         時高商店付近。

        
         時高商店の真向いが三浦家住宅。

        
         三浦家は代々造り酒屋で、「福娘」という酒を大正初期頃まで作っていた。現在の家屋
        は明治中期頃に建てられた。

        
         無住のためか崩壊の途にある。

        
         平入りの吉安酒店には、「山は富士 酒は白雪」ではなく、「山は富士 酒はやっぱり
        旭富士」の看板が残されている。山口県旭酒造の主要銘柄であったが、1990(平成2)
        年に旭富士は「獺祭」に名称変更された。

        
         看板建築の家屋も無住のようだ。

        
         河村商店から路地に入ると、鰻の寝床とされる奥行きの長い屋敷地である。

        
         1875(明治8)年開校の須磨小学校には、初代校長だった幡部楽哉氏の功績を称える記
        念碑がある。

        
         須万下市には長さ25間(45.5m)のエビス橋が架けられていたが、1878(明治12)
        年に流失した後は仮橋であった。1919(大正8)年小学生が転落・溺死したことで新しい
        橋となる。(橋桁の礎石が残る)

        
         恵比須橋手前付近に藩政期には藩主が宿泊し、全国を測量した伊能忠敬も泊まったとい
        う須万坊があったとされる。維新後は幡部楽哉の私塾となり、須万小学校創設時の校舎と
        しても使用されている。

        
         丘陵から須万の町並みを眺めて、須金郵便局まで引き返す。

        
         局前バス停(14:40)からも待ち時間もなく、JR徳山駅に戻ることができる。


周南市鹿野の旧山代街道筋に漢陽寺などの寺社 

2020年02月24日 | 山口県周南市

        
        この地図は、国土地理院長の許可を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         鹿野(かの)は西中国山地の脊梁に近い南側に開け、錦川とその支流・渋川が盆地の中央
        で合流し、同河川流域の洪積段上に立地する。(歩行約4㎞)

        
         JR新南陽駅(9:53)から防長バスコアプラザかの行き約50分、鹿野バス停で下車する。

        
         バス車庫脇の路地から農村公園前に出ると、旧山代街道が南北に走っている。

        
         勝間田家は酒造業を営むとともに、江戸期の明和年間(1764-1772)以降は庄屋・大庄屋・
        勘場役人を務める。住居は脇本陣などに使われたが、1921(大正10)年現在の建物に改
        築される。

        
         岩崎家の祖は潮音洞を完成させた岩崎想左衛門重友で、1694(元禄7)年幕府国目付妻
        木彦右衛門来藩および2年後には萩藩主毛利吉元の御国廻りの際には本陣を務める。
         この建物は安永年間(1772-1780)築とされ、1780(安永9)年真行寺住持山法師の助力
        を得て、秘薬「超世丸」を製造して売薬業を開始する。

        
         萩藩は農民が商いをすることを禁じていたのだが、特例が認められ各地に小さな在郷町
        が立地された。この鹿野市もそうした市場の一つで、地域の中心地であることから周辺の
        物資散集地として町が発達した。 

        
         「錦萬代」銘柄で酒造されていた青木酒造㈱は、看板はあるものの酒造りは廃業された
        ようだ。

        
         1684(貞亨元)年岩崎重友が藩に願い出て鹿野市の許を得て、毎月3のつく日に市(三
        斎市)が開かれた。

        
         石灯籠と注連縄があるので社のようだが詳細不詳となる。

        
         鹿野市街地を東側に旧山代街道、中道は県道12号線(鹿野吉賀線)、西側に国道315
        号線が南北に走っている。坂を下れば旧街道は県道に合流する。

        
         下り終えると左手の道が旧街道である。

        
         旧鹿野町の町の木「スギ」と町の花「シャクナゲ」がデザインされたマンホール蓋。

        
         万作原に道標と石地蔵が祀られているが、台座には「天保五甲午(1834)八月廿四日」と
                刻銘あり。

        
         旧街道は万作原の道標から上がってくると、鹿野の町を見納めして南へ下って須万の町
        へ向かう。

        
         旧街道の東側にもう1本南北に走る里道がある。

        
         真行寺(真宗)は本堂・庫裡・山門・土蔵とも木造平屋建てで、寺社由来では1622(元
       和8)年に建立されたとある。


        
         風土注進案によれば、「御紙石取所、惣茅葺、市頭、桁拾壱間半、御紙蔵、桁三梁弐間」
        とあり。場所は不明だそうだが旧鹿野町役場の位置と推定される。1897(明治30)年に
        村役場を新築し、以来、村および町の行政を担ってきた。

        
         龍雲寺傍の土塁跡にあるシダレザクラ(弾正糸桜)は、目周り2.7mで高さ約8mもあ
        る。


        
         龍雲寺(りょううんじ)は大内氏の家臣であった江良氏の居館跡で、土塁が北側と南側に一
        部が残る。


        
         臨済宗南禅寺派の龍雲寺は、寺社由来によると、室町期の1408(応永15)年大内氏が
        建立し、のちに江良氏の館になったと記す。現在の山門は1723(亨保8)年再建とされる。

        
         1806(文化3)年に鹿野市出火の際に当寺も類焼し、1809(文化6)年の春に再建した
        と記し、しばしば本陣や臨時の勘場にあてられたとのこと。

        
         文殊堂の創建年代は不明であるが、1869(明治2)年域内の小谷という所から現在地に
        移転したと伝える。

        
         明治になっても男尊女卑は根強く、二所山田神社宮司・宮本重胤と妻藤子は神道にはそ
        のような思想はなく、大日本敬神婦人会を結成する。その資金のため、おみくじの製造販
        売を考え出し、おおみくじが全国普及した。

        
         銀杏の大木。

        
         二所山田神社について寺社由来には、二所大明神として平安期の899(昌泰2)年に創建
        され、
山田権前社は鎌倉期の1186(文治元)年に伊勢国より勧請したとある。1907(明
          治40)
年二所大明神と山田権前社を合祀して現社号となる。左
側の菅原神社は、1709
          (宝永6)
年建立とされる。


        
        
         潮音洞からの清流が水路に引き込まれ、その周りには水車小屋や池が設置されるなど、
        風情のある通りとなっている。この付近に大地庵(鹿野の小字)の御米蔵があったようだが、
        遺構等は存在しない。

        
         漢陽寺(臨済宗)は、南北朝期の1374(応安7)年大内氏の祈願所として、大内弘世が石
        見国から用堂和尚を招いて創建したのが始まりとされる。跡を継いだ大内盛見が当地に本
        寺を建立したという。江戸期には藩主などが休泊する本陣として利用された。

        
         寺号は用堂和尚が明国で修業中に見た漢の洛陽城の地形と、この辺りの地形がよく似て
        いることから「漢陽寺」になったと伝える。


        
         山門建立の時期は明らかでないが、1677(延宝5)年の大火災後に再建され、明治末期
        に茅葺きから瓦葺きとなり、2006(平成18)年大修理が行われた。

        
         山門と同じ頃の建立とされる法堂は、僧侶が仏教を講義する場所である。

        
         昭和の大改修が行われたが、建築様式は大内氏が創建した当時の方丈様式で復元される。 
        (1990(平成2)年落慶)


        
         庭園は本堂および庫裡を中心に四面に作庭されている。大きな特徴は、日本庭園の様々
        な手法と各時代様式が、1つの寺院にそろっていることにある。作庭には「昭和の雪舟」
        と呼ばれた故重森三玲(みれい)氏が8年の歳月をかける。

        
         本堂前庭の「曲水の庭」は、裏の潮音洞から流れ出る豊かな水を使い、平安時代と鎌倉
        時代の様式を融合させた庭園である。

        
         砂紋の造形美。

        
         本堂左側の「祖師西来の庭」は達磨大使がインドから中国へ渡来し、禅の神髄を伝えた
        ことに由来する。(弟子の斎藤忠一氏が作庭)

        
         潮音洞は、1651(慶安4)年から1654(承応3)年にかけ、鹿野の岩崎想左衛門が藩
        の許可を得て、私財を投じて完成させた灌漑用水路である。錦川上流の水を引くために、
        水路200m裏山に約90mのトンネルを掘って造られたものである。 

        
         本堂右奥の「蓬莱算池庭」は、山裾と潮音洞の水を分流させた流水式の池庭。石組みは
        蓬莱式の手法を用いた鎌倉時代様式とされる。 

        
         中庭の「地蔵遊化の庭」は、地蔵菩薩が子供と遊技する様を、平安様式の石組みよって
        表現されている。四方どこからでも眺められる珍しい庭園でもある。        

        
         東面の「九山(くせん)八海の庭」は、鎌倉時代様式の庭園である。九山八海とは、仏教に
        おける宇宙観のことである。

        
         参道を下ると旧山代街道に出会う。

        
         二所山田神社参道入口


        
         石地蔵は「御国廻行程記」には市頭(旧役場前)に描かれているそうだが、現在は龍雲寺
        の参道に移されている。

        
         白壁造りの山田屋さん。

        
         鹿野市の家並みや道路は残っているが、江戸期の建物は少なく、ほとんどが明治以降に
        建てられたものである。


        
        
         農村公園の片隅に旧岩崎家屋敷跡(中酒屋)と刻まれた石標があるが、詳細はわからない
        ままとなる。
         鹿野バス停に戻って14時35分のバスに乗車する。


岩国市錦町の広瀬は錦川鉄道の終着駅と旧街道沿いに古い町並み

2020年02月23日 | 山口県岩国市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものものである。(承認番号 令元情複第546号)
         広瀬は西南から東に貫通する錦川の本流がつくる河岸段丘の谷間に、農地や集落を持つ
        地域である。地名の由来について由来書は、「渡瀬の左右広き所で、遠くまで見渡せるの
        で広瀬という」とある。
         1889(明治22)年町村制施行により、広瀬・中の瀬・大野・府谷・野谷の5ヶ村が合
        併して、改めて広瀬村となり、のちに町制に移行し、現在は岩国市錦町広瀬である。(歩行
        約2.5㎞)

           
         1922(大正11)年の改正鉄道敷設法により「岩国ヨリ島根県日原ニ至ル鉄道」として
        工事が始められた。1987(昭和62)年に法律が廃止されたため、1963(昭 和38)
        10月に開通した錦町で工事は終了したが、路線名は計画当初の岩日線となる。

           
         1987(昭和62)年の日本国有鉄道改革法に基づいて、国鉄は民営化(JR)されたが、
        当時の国鉄特定地方交通線であった岩日線は切り捨てられて錦川鉄道㈱に転換させられる。

           
         鉄道が走る予定だった線路跡を利用して、観光用トロッコ遊覧車「とことこトレイン」
        が、錦町駅から雙津峡(そうづきょう)温泉までの約6㎞(約40分)に運行されている。

           
         駅から路地裏を歩いて安楽寺へ向かう。

           
         堀江酒造を左に見て右折する。

           
         安楽寺は広瀬八幡宮の社坊で開山・開基は不明だが、古くは真言宗であったという。1
        660(万治3)年に堂宇を再建し、大通院(京都)の末寺となり臨済宗に改めたとされる。

           
         境内一面が苔で覆われ苔寺といった感がする。

           
         金雀(きんすずめ)の銘柄で酒造りをされている堀江酒造。

           
         山代街道に沿うが堀江姓が多い。

           
         堀江酒造は、この地で毛利家の家臣であった堀江太朗兵衛が、宝暦から明和(1751-1772)
        にかけて造り酒屋を興したのが始まりとのこと。
         その後、時代の移り替わりや政変に伴い、当家も紆余曲折があったようだが、現在も家
        業として酒造業を受け継いでいる。

           
         白壁通りの坂道。

           
         醤油製造をされていたK邸。

           
         藩政時代の山代街道沿いには、白壁造りの商家30軒が連なり繁盛していたとされる。
        現在は数軒の商家が残っており、往時を偲ぶことができる。
   
        
         この周辺には白金屋(呉服商)、加登(材木商)、幸岡(紙屋)、光金屋(油屋)などの建物が
        残されているが、どの邸宅かは特定することができなかった。

           
         金喜(現在の堀江嘉夫氏宅)は明治初年に建てられた商家で、呉服を中心に紙類、金物、
        油、化粧品、塩にいたるまで手広く商いをされていた。

           
         屋号が見えるが特定できず。

           
         参道の先に本通り。

           
         八幡宮境内から見る広瀬の町並み。

           
         広瀬八幡宮は、平安期の807(大同2)年宇佐八幡宮より勧請された。拝殿には左右に2
        つの「横町(よこちょう)」と呼ばれる座敷がある。横町は八幡宮の運営や行事に参画する名
        主の協議の場であった。 

           
         拝殿の中間に馬道をとる割拝殿形式で、本格的な三間社流造りは19世紀の典型的な作
        例であるとのこと。

           
           
         善教寺(浄土真宗)を右手に見ながら路地を下る。

           
         長栄寺(浄土宗)は、1581(天正9)年原集落に創建されたが、その後、寺は荒廃するが、
        1602(慶長7)年毛利元就の重臣・渡辺飛騨守長(はじめ)
朝霧城主として居住し、同寺
        を菩提寺として現在地に再建した。

           
         石垣と参道には藤棚。 

           
         長栄寺から坂道を上がる。

           
         平坦地に出ると右手の永井中将頌徳碑は、1935(昭和10)年に建立されたもので、何
        を称えたかは不明であった。

           
         白山神社の社伝によると、飛鳥期の650(白雉元)年に熊野権現を勧請したとある。周囲
        にはイチイガシの巨樹。

           
         渡辺飛騨守は舟津の丘に朝霞(あさかすみ)城を築いてここに住んだ。城跡はその跡をとど
        めないが、麓に
渡辺飛騨守の墓所がある。墓碑は戒名と慶長17歳壬子(1612)2月24日
        と刻まれて刻まれている。


           
         隅家の板塀と土塀。

           
         隅家は毛利家から名字を拝領した庄屋宅で、江戸期以前からこの地に居を構えていたと
        される。

            
         藩主の御国廻の際に本陣として使われ、1747(延亨4)年からは代官所(勘場)が建物内
                に置かれた。この建物は焼失したため、1861(文久元)年に再建されたが東の蔵は解体さ
        れて現存しない。

           
         明和年間(1764-1772)の広瀬本陣・隅貞六宅の配置図。

           
         隅邸から商店街通りを横断すると末広橋前に出る。

           
         江戸中期頃までは船渡しであったが、1742(寛保2)年に船橋が設置され、1845
         (弘化2)年に木橋となる。

           
         山代街道は船渡し場から錦川に沿っていたようだ。

           
         突き当りを左折すると八幡宮の通り。

           
         広瀬は山陰と山陽を結ぶ中継地として、錦川を利用する河舟や筏の津として栄えた。岩
        国まで人や荷物を運んだ河舟輸送は昭和初期まで続いた。

           
         町の花だったシャクナゲとオシドリ、アマゴがデザインされたマンホール。

           
         広瀬商店街は公民館から繁栄橋までの間に集中する。(林電化商会さん付近) 

           
         その先に内山金物店と広瀬映画館資料館。資料館には広瀬映画館に残っていた映写機な
        どが展示されているとのこと。 

           
         とんがり帽子の屋根を持つこんにゃくミニ資料館(にしき産品ステーション)は、こんに
        ゃくに関する基礎的知識が得られ、町内の特産品も販売されている。

           
         2017(平成29)年には約半数の店が無くなっており、商店街としての機能は失われつ
        つある。

           
         広瀬簡易郵便局付近。まだ商店街の一角だろうか融雪溝が続いている。

           
         直線的な道を進むと駅前で、14時15分の列車に乗車すると、車窓から見える山々は
        まだ深い眠りの中にあるようで、お目覚めまでは今しばらく時間が要するようだ。


岩国市本郷町の本郷は山代地方の中心地だった町 

2020年02月22日 | 山口県岩国市

               
       
 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         本郷は東の秋掛から流れ出る本郷川と、北の法華山から南流する本谷川が合流し、波野
        へ下る谷間の平地に形成されている。歴史的に当郷を本部として黒沢・宇塚・本谷・秋掛
        を属村として山代郷の中心として、早くから開けた地域である。(歩行約4.5㎞)

        
         JR岩国駅から錦川清流線・河山駅で下車して、いわくに生活バスで本郷の町を訪れる
        ことは可能であるが、便数や接続を考えると公共交通機関の利用は難しい地である。
         町の中央に高く聳えるのは成君寺山で、山頂には成君寺山城跡がある。南山腹の成君寺
        境内には、山代慶長一揆で斬首された11庄屋の頌徳碑が建つ。


        
         町の中心部に周防本郷バス停。

        
         バス停前に旧本郷村役場があり、解体か保存かで揺れたようだが、1年前に解体されて
        しまう。1889(明治22)年本郷村、本谷村、宇塚村、西黒沢村が合併して本郷村となり、
        2006(平成18)年3月まで単一自治体として存立した。


        
         洋風木造2階建ての本郷村役場は、1942(昭和17)年に建築されたが、1947(昭和
          22)
年から一時期、簡易裁判所、法務局がなどに使用された。1968(昭和43)年から
        再び村役場となったが、2006(平成18)3月平成の大合併で役目を終える。(18年3月
        撮影)


        
         町のシンボル的な建物だったが、地方公共団体も財政難の中、維持費や使用目的を見い
        出せず解体の道を選んだようだ。

        
         1607(慶長12)年の慶長検地により山代地方の年貢は、慶長5年検地の2.5倍と大き
        く増加したため、翌年10月に本郷庄屋・北野孫兵衛ら11名が哀訴した。 
         しかし、藩の役人に聞き入れてもらえず、多数の農民が参加したとされる慶長山代一揆
        が起こる。年貢は引き下げられたが首謀者として11名が捉えられて処刑される。処刑か
        ら400年にあたることから碑が建立された。

        
         吉田松陰の兄である杉梅太郎(1828-1910)は、山代最後の代官(区長)として、1870(
          明治3)

        から6年間赴任し、山代地方の政治・経済に多大な功績を遺したとされる。特に水路造成
        ・田畑開拓により人々の暮らしは向上する。その優れた手腕から「民治(みんじ)」の名を藩
        主から受ける。


        
         旧村役場跡からの商店街。

        
         みよしや食堂付近に商店などが残る。

        
         町割りは江戸期のままだとか。

        
         西照寺(浄土真宗)について寺社由来は、元和年中(1615-1624)に小庵を建立し、寛永年中
        (1624-1644)に仏閣を建立し元寺号を称した。
         第二次幕長戦争の際には、山代の僧侶も「偕行団」という
隊を組んで参戦し、同寺に屯
        所が置かれたという。

        
         奥山代宰判代官所の入口にあった門扉は、1828(文政11)年火災により焼失したが再
        建されて、1921(大正10)年同寺に移築される。代官所
の姿を想像できる唯一のもので
        あるとのこと。

        
         本郷川に架かる仲田橋の袂には土壁の民家。

        
         本郷川から南が下市。

        
         江戸期の寛文年間(1661-1673)頃までに街並みが形成されたとのこと。

        
         農山村風景の1つであった藁葺きトタン屋根も少なくなり、残されている家屋のほとん
        どが空家である。

        
         1899(明治32)年3月24日に原因不明の大火に見舞われる。村長・林音熊氏は再三
        にわたり山口県庁に赴き、救済金の助成を受けて被災者復興に尽力した。
         大火の日を祈り、反省の日として祭事が行われ、この由来を後世に伝えるため鎮火碑が
        建立された。

        
         江戸期を通じて萩藩は当村に山代宰判を置いた。

        
         長雄山に本郷八幡宮。

        
         急階段を上がって行くと崩壊寸前の社に出会う。毛利敬親を祭神とする山口の野田神社
        遥拝所で、1876(明治9)年杉民治・三分一健作・山代33ヶ村住民が建立する。氏子
        がいないので放置されたままとなっている。

        
         平安期の1074(承保元)年山城国男山八幡宮(現石清水八幡宮)より勧請したと伝え、

        代郷33ヶ村の総鎮守であった。

        
         拝殿内部。

        
         助光橋の先に友門集落。

        
         道に沿って農家住宅が続く。

        
         徳門寺(曹洞宗)
は本郷八幡宮の社僧を務めた時期があったという。一時期没落したが、
        慶安年間
(1648-1652)代官所の命により、長州川上村の楊岐庵の三休を請待させ、山代の農
        民を教化させた。その功により、1660(万治3)年に伽藍を創建して現寺号に改称する。

        
         山間の路傍に石仏。
 
        
         1662(寛文2)年安養院(浄土宗)を改め、曹洞宗の建立寺(こんりゅうじ)と号して開山す
        る。毛利家の菩提所とされ、「国主代々尊儀」と記された毛利家の家紋入りの位牌がある。


        
         建立寺の墓地に増野徳民(1841-1877)の墓がある。医者の子として生まれ、1856(
                   政3)
年10月杉百合助の家に寄宿して吉田松陰に師事する。松陰刑死後もその志を継ぎ、
        同志の久坂玄瑞らと共に、藩論を公武合体から尊皇攘夷に転換させる。そうした過激な言
        動がたたり、1862(文久2)年藩の役人に捕らえられ、幽囚の身となり山代本郷に送還さ
        れ、萩における7年間の活動を終える。故郷で医業に専念しながら第二次幕長戦争では父
        と共に医師として参戦するが、多くの果たせぬ志を残したまま病没する。

        
              中央に梨の実と周囲に特産品の黒牛がデザインされた旧本郷村時代のマンホール蓋。

        
         本郷小・中学校のグランドを巡る。

        
         歴史民俗資料館は明治初期頃の代官所長屋門を復元したものである。

        
         1600(慶長5)年萩藩は本郷村に代官所(勘場)を設置する。はじめ現在の小学校敷地内
        にあった土豪・山代氏の館が使われたが、1612(慶長17)年に新築されて明治まで山代
        地方を治めてきた。

        
         開拓された神田原(こうだはら)地区。

        
         1874(明治7)年に代官(区長)杉民治と戸長等による開拓(約2.9ヘクタール)が行わ
        れ、後世に伝えるために碑が建立される。

        
         山代街道と合わす。

        
         街道と水路に平入りの町並みが続く。

                
         溝手(水路)の整備により、岡ノ寮、大迫、八場、神田原の水田が開拓される。

        
         上市の町並み。

        
         バス停のある界隈。

        
         和紙の一大産地として栄えた本郷も岩国市の一部となり、本数年前に訪れた時よりも過
        疎化が進んで一抹の寂しさを感じる。


岩国市錦町の宇佐郷は宇佐川に並行する小集落 

2020年02月22日 | 山口県岩国市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
         宇佐郷は寂地山系の小五郎山と高鉢山の南麓に位置し、南流する宇佐川の河岸段丘に位
        置する。地名の由来について地下上申は、宇佐川左馬という者が開いて住んだので宇佐川
        といい、のちにこれがウサゴウとなったという。風土注進案では宇佐の川下で、宇佐河と
        書くところを誤って宇佐郷と書いたためとある。

        
         宇佐川に沿って国道434号線が吉和へ通じているが、宇佐郷の町並みは旧道に沿って
        軒を連ねている。この地には錦川鉄道の錦町駅からバス便があるが、利便性がよくないた
        め車を利用する。(国道脇に駐車)

        
         宇佐郷の集落は津和野街道の途中にあり、小規模な宿場として栄えたと考えられる。

        
         古くて大きな家屋がある訳ではないが、整然と軒を整えている。

        
         大正期から昭和中期頃までに建てられたと思われる2階建ての建物が連なっている。

        
         萩藩領の奥山代宰判に属し、紙の専売制度に苦しんだ歴史を持つ。

        
         町並みの長さは200m足らずである。

        
         陽射し用テントが残る商店は空家。

        
         北の外れに火防の神とされる愛宕神社が祀られている。

        
         右手に落差28mほどの滝があり、地元では大滝と呼ばれている。

        
         北側で国道と合流して宇佐川橋を渡る。

        
        
         願行寺(浄土真宗)の山門。

        
         第二次幕長戦争の際に山代寺院の僧侶によって編成された偕行団は、1866(慶応2)
        6月24日の夜に本隊との間において紛争事件が起きる。偕行団指令の角新左衛門が責任
        を問われ、当寺にて切腹して果てたとされる。

        
         中央に深谷大橋と錦川、周囲にシャクナゲがデザインされた集落排水用マンホール。

        
         宇佐川小学校は健在。

        
         小泉橋の先に3つ目の集落。

        
         国道434号線と右手の道は羅漢山に通じる県道59号線(岩国錦線)。

        
         静かな山村集落の道を歩いて駐車地に戻る。                


山陽小野田市須恵は徳利窯などの遺構が残る小野田セメントの町 

2020年02月21日 | 山口県山陽小野田市

        
            この地図は、国土地理院院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
         須恵は有帆川の左岸に位置し、南は周防灘に面する。(歩行約3.5㎞)


        
         JR南小野田駅はセメント町駅から小野田港駅、小野田港駅北口と駅名変更してきたが、
        1962(昭和37)年3月に現駅名となって今日に至る。


        
         1994(平成6)年小野田セメントと秩父セメントが合併して秩父小野田セメントが誕生
        したが、1998(平成10)年日本セメントと合併し
て太平洋セメントになる。
         1927(昭和2)年小野田セメントの事務所として建てられたもので、正面のパラボラ状
        柱形にみられるように、デザインを重視した大正建築の流れを受け継いでいる。


        
         旧小野田セメント徳利窯は一般公開されており、太平洋セメント正門前に案内板が設置
        されている。残念ながら改修工事中のため見学することがで
きなかった。


        
         徳利の形をした窯であることから「徳利釜」と呼ばれるが、1883(明治16)年に設置
        された4基のうち、一番西の1基を改造して大型化したもので、1
25,000個の煉瓦で
        造られている。国内に現存する最古のセメント焼成窯で
あるとのこと。
(17年5月撮影)

        
         窯の周囲に展示されている蒸気機関や製樽機とともに、経済産業省より「近代産業化遺
        産」に認定されている。


        
               
         使用方法は、窯内の下にある火床の上に焚付用の枯れ枝を敷く。その上に燃料の石炭と、
        石灰と川で採った泥土を混ぜて、塊にした原料を交互に12~1
3回積み重ねて、窯内の
        最大径のところまで積み終えると点火し、平均7昼夜
をかけて焼成する。


        
         覆屋で隠されているが、もともとこの窯が屋根から突き出た状態で操業されていたため、
        それに似せて復元された。最盛期には12基の窯が稼働していた
が、1913(大正2)年に
        廃止が決定されて1基だけが残された。


        
         焼成取出し口で下部の火床を外し、焼魂を取り出す構造である。(約10㌧程度)

        
         繁如院(はんにょいん)は、1921(大正10)年に玖珂郡灘村より引寺し、3年後に公称寺
        院となる。


        
         門を潜ると左手に「釈尊佛跡北インド巡拝土砂埋蔵碑」がある。1979(昭和54)年住
        職が釈迦の佛跡を訪ね、そこの土砂を持ち帰り埋めたとされる。
碑の前には足形があり、
        ここに足を合わせて拝めば、佛跡を踏んだのと同じ
功徳があるといわれている。


        
        
         1924(大正13)年に小野田セメント重役社宅として建てられたもので、コンクリート
        造の赤瓦住宅が5軒並んでいたが、現在は1棟だけが保存されて
いる。


        
         住吉神社は小野田セメントの創立者・笠井順八が、1887(明治20)年に自宅敷地内
        (現在の住吉神社)に出身地である萩の住吉神社より勧請し
たという。1899(明治32)
        に社殿を改築して現在の規模とした。


        
         1908(明治41)年小野田セメント所有となり、以来、会社の守護神として祀られた。

        
         セメントをつめる樽は木樽で、400ポンド(約181㎏)の重さがあったとか。(奉納
        は模型)


        
         1835(天保6)年萩藩御舟手有田甚平の三男として萩で生まれ、萩藩士笠井英之進の家
        名を相続する。明治維新後は山口県の勧業局主任として殖産興
業に力を注ぐ。
         その後、生活に困窮していた士族の救済と、高価な輸入品だったセメントの国産化を目
        指し、1881(明治14)年日本初の民間のセメント製造会社(
後の小野田セメント)を創立
        する。
小野田を選んだのは、地元の石炭・粘土などの原料調達や製品の輸送に便利な地で
        あったためとされる。


        
         旧小野田セメント山手倶楽部は、第4代社長笠井真三氏がヨーロッパ遊学の帰途、イギ
        リスからコンクリートブロックの型枠を持ち帰り、
1914(大正3)年にブロックを製造し
        て完成させた。大正期のブロック建築は大変珍しいもの
であり、建築史上貴重な建物であ
        るとされる。


        
         正門は閉ざされているが、住吉祭り時に倶楽部の1階が一般公開されるとのこと。

        
         1階は応接間、客間、食堂、2階は図書室及び寝室とベランダなどで構成され、古典的
        なデザインを基調とした本格的な倶楽部建築である。
社員クラブとして建てられたものだ
        が、当時、小野田はホテルもなく、市の
来賓にも使われていた。


        
         1925(大正14)年築の伊藤医院。

        
         小野田二番溜池沿いの道路高台に福井忠次郎記念碑がある。小野田新開作は石炭採掘を
        目的として計画されたもので、福井が工事を主管した。この開作
地は、その後、南にセメ
        ント、北に硫酸の会社が設立されて近代小野田発展の基
礎となった。


        
         千代町にある報恩寺は、毛利家の家臣だった渡辺七郎崇光が防長二州に移封された際、
        僧となって目出村の松江八幡宮近くにお堂を建てた。小野田新開
作に2つの会社が設立さ
        れ、1892(明治25)
小野田の町が形成されたこの地へ移転する。


        
         千代町の町並み。

        
        
         1899(明治32)年に開業した旧小野田銀行は、小野田セメント創業者の笠井順八が初
        代頭取となる。1923(大正12)年に百十銀行と合併して小野田
支店となり、1944(昭
          和19)
年に山口銀行小野田支店となる。その後、小
野田支店の倉庫として使用されていた
        ようだ。


        
         千代町バス停からJR小野田駅への便数は多い。


山陽小野田市の旦・目出に硫酸瓶垣と登り窯 

2020年02月21日 | 山口県山陽小野田市

                
                 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を
                        複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)

         もとは東須恵村に属していたが、1879(明治12)年の村境決定で、有帆川左岸に位置
        する旦(だん)と目出(めで)地区は西須恵村に属することになる。
         1889(明治22)年の町村制施行により東須恵村が合併して消滅したことで、西須恵村
        は須恵村に改称する。(歩行約5.5㎞)

        
         JR小野田駅は、1900(明治33)年12月山陽鉄道の開通と同時に開業する。

        
         かって飲食街だった駅前。

        
         県道30号線(小野田美東線)を横断すると旦橋への道。

        
         徳利窯とツツジがデザインされたマンホール蓋。

        
         有帆川に架かる旦橋。

        
         旦橋を左折して小野田線高架を潜ると、左手に「瓶垣」と案内されている。山手に向か
        うと道は二手に分かれるが、右手の道を進み四差路を左折する。

        
         左手に瓶の破片が積み重ねられている。


        
        
         焼きキズのある硫酸瓶や焼酎瓶を活用して築かれた三好邸の瓶垣。

        
         1894(明治27)年この地で三好源之助氏が製陶所を創業する。3年後に河野正喜氏に
        引き継がれ、1955(昭和30)年頃まで硫酸瓶を製造する。登り窯に付随する煉瓦造りの
        煙突が当時の面影をとどめている。


        
         原土撹拌(かくはん)機、石や異物を除去する篩(ふるい)などが泥こし場に残されている。

        
         1889(明治22)年日本舎密(にっぽんせいみ)製造会社(現日産化学小野田工場)が設立さ
        れると、硫酸や硝酸を運搬するために硫酸瓶が作られるようになった。


        
         旦橋に戻って案内に従い左手の道に入る。

        
         三差路を左折すると前原一誠の宅跡を示す標柱がある。

        
         維新の十傑の一人とされる前原一誠(1834-1876)は、6歳の時に父が藩の郡使となったた
        め一家で目出に移る。農漁業に従事する傍ら、近隣の子弟と塾に学
ぶ。
         13歳から18歳まで姉が嫁いだ萩の家に寄宿したが、目出村へ戻って農漁業に従事し
        ながら父親の陶器製造を手伝う。24歳の時に父が御駕籠奉行になったのに従い萩に戻る。

        
         旦の皿山の硫酸瓶垣は、硫酸瓶の底の部分で焼き傷があり、売り物にならない硫酸瓶を
        積み上げて垣にしている。

        
         食卓用の皿など家庭品を焼いていたことから「皿山」という名が生まれたとのこと。

        
         旦の登り窯は、陶工甚吉が佐世彦七(前原一誠の父)の援助を受け、窯を開いたのが始ま
        りとされる。

        
         旧江本製陶所登り窯(通称・旦の登り窯)は、1840(天保11)年頃に陶工甚吉が登り窯
        を開き、製陶業繁栄へと繋がった往時を偲ばせる窯である。

        
        
         登り窯は荒れるに任せた状態で、窯の中は崩れている箇所もある。

        
         1890(明治23)年頃にブロック状の大型煉瓦を使って建てられ、「とんばり」と呼ば
        れる窯10袋と火力調整用のふかせ1袋、煙突1基で構成されている。
         第二次大戦後、硫酸瓶はステンレスやポリエチレン製の容器に取って替わられ、旦地区
        の製陶業は衰退してしまう。

        
         煙突の高さは12.3mあったとされるが、煙突の上部は崩落している。

        
         片隅に置かれた硫酸瓶。

        
         このような風景が所々に残っている。

        
         小野田線が接近(一丁田踏切)する反対側に、空地と民地の間に田平山墓地への細い道が
        ある。陶工・甚吉の墓は奥まった右手の片隅にある。

        
        1840(天保11)年代に都濃郡富田(現在の周南市)の製陶に携わる家に生まれたが、小
        野田の伊藤家に作男として農作業をしていたある日、旦の畑の土が焼き物に適していると
        甚吉窯を起こした。一人作業で効率の悪さや販路も小さくて大した儲けもないまま、18            
        58(安政5)年に病没する。

        
         線路に沿いながら坂道を下ると旦児童公園。

        
         有帆川を見ながら河口を目指す。

        
        
         目出駅は「メデタシ」の語呂合わせから一時期、入場券ブームを呼ぶ。1915(大正4)
        年小野田軽便鉄道の小野田駅とセメント町間が開業した際に設置されたが、1982(昭和
        57)年の秋、無人駅になってしまう。

        
         松江八幡宮は、奈良期の709(和銅2)年江本四郎丸貞頼が宇佐から勧請して社殿を祀り、    
        目出地方の守護神としたのが始まりと伝える。

        
         目出という地名は、寄進された社領地の税を免ぜられた免田による語音の転化であって、
        いつしか「めで(目出)」となり、社号の松江は松の生い茂る入江に因んだものとされる。

        
        
         線路が周囲より高い場所または低い場所に設けられた踏切は、極端に盛り上がったり窪
        んだ形状になるため、「かまぼこ型踏切」といわれる。見れば線路付近が高くなっている。

        
        
         県道233号線(小野田港)に合わすと、三差路手右の小野田橋東詰には、硫酸瓶が「お
        わに船」によって積み出される様子をイメージして造られた広場がある。

        
         1891(明治24)年に操業を開始した日本舎密(せいみ)製造㈱小野田工場では、硫酸を製
        造して頑丈な硫酸瓶に詰めて出荷されていた。舎密とは英語のケミカルの当て字で「化学」
        の意味だそうだ。
         いくつかの社名変更を経て、1937(昭和12)年現在の日産化学工業と改める。197
        2(昭和47)年に硫酸製造は中止され、現在は農薬や殺虫剤、医薬品の原薬が製造されてい
        る。

        
         南栄町から中川1丁目付近も現在的な建物に様変わりしている。(正面に小野田線)

        
         JR南中川駅も小野田軽便鉄道の開通に伴い、中川町停留場として設置される。築堤の
        上に設けられた片側使用のホームから、市街地や工場群を見渡すことができる。小野田線
        も日中の便数は少なく、利用するには不便である。

        
         バス利用のため県道に出ると、シルバーセンター敷地内に「風水害救援感謝碑」がある。
        1942(昭和17)年8月27日の周防灘台風により市街地が水没し、死者142名が出る
        など甚大に被害を受けた。全国から救援物資をいただいた感謝を表す碑である。

        
         バスの便数が多いので、時間に束縛されることなく歩くことができる。(中川通バス停) 


山口市徳地の島地に石風呂と月輪寺薬師堂 

2020年02月13日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製たものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         島地(しまじ)は佐波川の支流、島地川の中流域に位置する。地名の由来は東西に2筋の川
        が流れ、その中島にあるためという。1889(明治22)年町村制の施行により、山畑、島
        地、藤木、上村の4ヶ村が合併した際、新しい村の中心である島地の名をとって村名とす
        る。(歩行約6.5㎞)

        
         JR防府駅から防長バス堀行きバスに乗車して、終点の堀でJR徳山駅行きに乗り換え
        て石曽根バス停で下車する。

        
         平安橋を渡って島地川左岸を進む。

        
         宮の前橋を過ごすと正面に花尾八幡宮。

        
        
         社伝によると、奈良期の711(和銅4)年宇佐八幡宮から勧請して徳地町大字上村の城見
        山に創建したことに始まり、ツツジが多い山であったことから花尾と名付けたという。1
        575(天正3)年毛利輝元が現在地に社殿を造営し、1781(天明元)年に毛利重就(しげたか)
        が造替したとある。

        
         楼門と拝殿、本殿、翼廊が連なる一群一連の社殿で、本殿は流造りで向拝まで囲い、切
        妻造りの拝殿に渡屋根で繋いでいる。

        
         本殿傍の長い石段は足幅も狭く急である。

        
         石段上から島地の町並み。

        
         朱塗りの社殿上にも社殿を配しているが、この地には、中世中頃には神社があり、往時
        はいくつかの社坊があったようだが、1573(天正元)年火災によって絶えた。近世には真
        言宗の花王院のみが残っていたという。

        
         1955(昭和30)年代は八幡宮下から上市の島地川まで、商店が軒を連ねるほどの賑わ
        いがあったとか。

        
         商店だったような造りの民家。

        
         この付近に診療所、登記所、履物店などがあったようだが、すべて姿を消している。

        
         日除けテントに時の流れを感じる。

        
         中屋菓子店付近が平安橋への三叉路。

        
         明治になると萩藩からの紙統制が解除され、徳地和紙は紙商人による売買へとシフトし、
        その取引中心地として繁栄する。

        
         紙商いを一手に取り扱っていた「伊勢屋」を号する北川家が、1905(明治38)年に倒
        産すると徳地和紙は急速に衰退する。

        
         伊勢屋の倒産は機械生産に対抗し、コストダウンするために品質を下げたことで一気に
        信用を失ってしまう。

        
         鰻の寝床のような奥に長い屋敷地である。

        
         明治維新後の山口藩は、財政難から諸隊廃止としたが、反発する一部兵士が脱走して山
        口藩庁を包囲する騒動を起こす。
         しかし、鎮圧軍に敗れて美祢や徳地に四散するが、一時期に脱退兵の本陣となる。

        
         観念寺は浄土宗知恩院の末寺。

        
         屋根には葵の紋が見えるが、1603(慶長8)年に徳川家康が知恩院を永代菩提所と定め
        た由縁だそうだ。

       
        観念寺左手の道を上がると、小屋の奥に石風呂が案内されている。

       
        鎌倉期に東大寺大仏殿を再建のため、俊乗坊重源上人が得地の杣地に入るが、作業は困
        難を極め杣人の疲労が大であった。上人は各地に石風呂を築かせて杣人の疲れを癒したと
        されるが、こ
の石風呂もその1つとされる。

       
        自由に炉へお入りくださいと案内はされている。

       
        安置されていた重源上人の尊像を拝みつつ利用していたようである。(尊像は観念寺に安
        置)

       
        通りに戻ると角型の窓がある広屋たばこ店(元は呉服店)

       
        エナミ(江浪)薬局さんも廃業。

       
        島地村役場があった地だが、現在は山口市徳地地域交流センター島地分館となっている。

       
        岩崎商店から突き当りまでが上市で、正面に自転車店、右手に鍬屋、豆腐屋などがあっ
        たようだ。

       
        ホタルと鮎がデザインされた旧徳地町の集落排水用マンホール蓋。

       
        道を挟んだ左右は徳地町淡水魚センターの養魚場だった。

       
        右手に島地小学校、出雲大社周防分院を過ごす。

       
        島地川左岸を進むと路傍に石仏。

       
        西村集落が見えてくる。

       
        西村集落の中心部で左折して国道376号線を横断すると、蔵場集落の右前方に月輪寺
        (がちりんじ)本堂が見えてくる。

       
        あさぎりの館前を左折すると、直線的な道が薬師堂まで延びている。

       
        寺伝によると、鎌倉期の1189(文治5)年俊乗坊重源上人が創建し、1208(承元2)
        この付近一帯の得地庄の領主であった藤原(九条)兼実の
法名である月輪円証大膳定門にち
        なんで、寺名を
月輪寺と号したという。
         長く栄えたが次第に廃頽し、その後得地の地を領知した陶興房が再建したが、再び廃頽
        する。近世初頭に都濃郡長穂村(現周南市)の
竜文寺16世和尚が再興し、曹洞宗に改宗し
        たという。

       
        水の上に祀られている地蔵さま。水には古来より穢れを洗い流す力があると信じられて
        きた。

       
        無明橋が設置してある所が元々の参道だったようだ。
 
       
        寺伝によると、飛鳥期の609(推古天皇17)年に聖徳太子が薬師の道場として巣山(現周
        南市鹿野町)に清涼寺を創建する。その後当地の鷹山に移転されたが炎上する。重源によっ
        て薬師堂が建立されたという。

       
        石段を上がれば山門(鐘楼門)入口を一対の仁王像が守っている。

       
        門をくぐると階上には大きな梵鐘。

        
        急峻な山に生えている天然の大木を伐り出し、奈良まで運ぶ作業には延べ何十万人とい
        う人が過酷な労働をしたため、怪我や病気も絶えなかった。
重源上人はこの薬師堂で病気
        平癒・健康祈願をしたとされる。

       
        薬師堂は桁行五間(12.27m)、梁間四間(9.82m)、一重寄棟造り茅葺の建物で、
        山口県最古の木造建築である。鎌倉時代最期の建物で鎌倉様式とさ
れる。
       
       
        素材はオノの荒削りで素朴簡素で堂々とした構造である。外陣ともすべて無駄な装飾、
        色彩はないが、非常に均整のとれた安定感を持っている。(2017
年の御開帳日に撮影)

       
        本尊の薬師如来は20年に一度開帳され、2017(平成29)年3月18日が20年目
        あった。

       
        内部は仏像が祀られている内陣と外陣に分かれ、この中に薬師如来を秘蔵する唐様の厨
        子がある。板葺きの入母屋造りで室町時代の特徴をよく表している
とのこと。

       
        重源上人は東大寺再建のために夫たちの保養・医療を目的に約77ヶ所の石風呂を造る。
        その1つが薬師堂裏に残されている。

       
        薬師堂から旧道を左折すると薬師堂前バス停があり、JR福川駅に出ることができる。
        14時34分が最終便なので要注意であったが、バスは歩く方向と同じなので手を挙げれ
        ば乗車可能である。(薬師堂からバス停までは850m)


光市浅江は駅周辺と虹ヶ浜海岸

2020年02月04日 | 山口県光市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
         浅江は島田川河口右岸に位置して南は周防灘に面し、海岸には松原が長く延びている。
        全体的に西北に高い山が聳え、東面に向って低く開けている。

         地名の由来は、地内に浅い海があり、所々に蘆などが生い茂る沼の入江があったことに
        より、浅い入江が浅江になったという。(歩行約7㎞)

        
         1912(明治45)年虹ヶ浜駅として開業するが、1941(昭和16)年に現駅名となる。
        1983(昭和58)年に現在の駅舎が新築された。

        
         駅前から直進すると虹ヶ浜海岸には、白砂青松の美しい海岸線が2.4㎞も続く。この
        海岸は島田川から流れる大量の土砂で形成されたとされ、虹ヶ浜とい
う地名は、海上から
        浜を眺めると、あたかも虹の架け橋のように見えたことか
ら藩主が命名したともいわれて
        いる。

        
         松林に遊歩道がなく車道を歩かなければならない。

        
         西の河原川から海岸線に出ると、海を眺めながら歩くことが可能になる。
        
        
         海岸線を離れると虹ケ浜が見納めとなる。

        
         島田川右岸を上流へ向かう。

        
         河口は鳥たちの楽園である。

        
         国道188号線の千歳大橋を渡ると、東詰の右手に立石孫一郎碑がある。

        
         倉敷藩士だった立石孫一郎は第二奇兵隊に参加して
軍監を務めるが、1866(慶応2)
        4月に100名を超える兵士を率い脱走して、倉敷代官所と浅尾藩陣屋を襲撃するが敗れ
        て長州に戻る。清境寺に潜伏していたが4月26日の夜、藩命に背いたとされ千歳橋上で
        射殺される。暗殺された場所近くに石碑と小さな祠が建てられている。

        
         島田川河川公園は桜並木が続くが、桜咲く時期は一味違った風景を見せてくれそうだ。

        
         熊野神社の社伝によると、奈良期の710(和銅3)年神主である大楽家の先祖・兵太夫と、
        宮ノ尾の彦兵衛が紀州熊野本宮へ参向し、神霊を島田村に勧請したという。当社の旧号は
        十二権現といい、1871(明治4)年熊野神社と号することになった。

        
         室町時代のある年に疫病が流行し、平穏祈願のため境内末社の松浦神社(祇園社)に人形
        芝居を奉納したところ、平癒したことから人形浄瑠璃芝居の奉納が今日まで続けられてい
        る。

        
         平成橋を渡って島田川右岸を河口へ向かう。この付近も桜並木が続いている。

        
         千歳橋西詰から右手の道に入る。

        
         虹と松、海に浮かぶヨットがデザインされた光市のマンホール蓋。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の浅江村が単独で自治体を形成する
        が、1939(昭和14)年4月に三井、島田、光井、浅江の4ヶ村が合併して周南町が発足
        する。旧日本海軍が旧光井村に「光海軍工廠」を新設したが、これがのちに市制施行のと
        きに市名となる。

        
         浅江神社は、1871(明治4)年加茂大明神と山王八幡宮の2社と、山王原の一社を合碑
        して地名をとって現社号とする。
         賀茂神社は大内長門守が山城の賀茂神社より勧請し、
山王八幡宮は、飛鳥期の703(大
          宝3)
年宇佐神宮から勧請された。

        
         清鏡寺(真言宗)は、萩にあった満願寺の末寺で吉祥寺と称していたが、給領主・清水家
        の先祖である清水宗治の菩提寺となり、1594(文禄3)年5月に宗治の法号から清境寺と
        改めた。

        
         1582(天正10)年に羽柴秀吉の「備中高松城の水攻め」で落城寸前に追い込まれたが、
        本能寺の変(信長死去)が起こる。秀吉から宗治の命を条件に城兵を助命するという条件に
        応じる。6月4日に兄の月清入道や弟の難波伝兵衛らと自刃する。

        
         立石孫一郎は播州上月村の大庄屋の家で生まれ、倉敷の豪商(庄屋とも)の養子となる。
        代官と米問屋の不正を非難したため、自らが出奔する羽目となり、長州藩の清水氏を頼り、
        後に第二奇兵隊の一分隊長(軍監)を任される。
         幕末には第二奇兵隊の「倉敷・浅尾騒動」の首謀者である立石孫一郎が、住職を頼り潜
        伏した寺でもある。

        
        
         境内の裏には清水景治が建立した墓がある。宗治ほか高松城で殉死した家臣らの供養塔
        があり、本堂には宗治の位牌があるとのこと。

        
         西の河原川の桜並木道を散歩して駅に戻る。

        
         駅前に2人の子供が向かいあって「睨めっこ」しているような像がある。


光市島田と束荷に難波覃庵と伊藤博文の旧宅 

2020年02月02日 | 山口県光市

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         立野は島田川中流域の東部に位置する山間の地である。地名の由来を風土注進案は、「
        古ハ楯野と書記仕候由、当村之産土神今山宮の祭神楯野媛命之由縁ヨリ唱来候」
という。
         束荷(つかり)は盆地で中央を島田川の支流である束荷川が西流、流域に集落が点在する。
        地名の由来について「稲の荷を束ねる所」とあるが、信ぴょう性は薄いという。(歩行

        6.8㎞)

        
         1897(明治30)年に開業したJR島田駅は、静岡県の東海道本線に島田駅があるが、
        漢字は同じでも呼び名が違うようで、静岡は「しまだえき」、山口は「しまたえき」だそ
        うだ。

        
         駅前には「あの旅 この旅 想いでの旅 人生 いつまでも 楽し」とある。

        
         永明寺先で右折して道なりに進み、山田公会堂前を左折する。

         
         坂を上がると左手に正義霊社がある。

        
         正義霊社は萩藩寄組で立野村給領主であった清水家の氏神である。社伝によると寛永年
        間(1624-43)清水景治(宗治の嫡子)が、備中国清水村にあった同家の氏神(稲荷神社)を分霊
        し、宗治の神霊を合祀したのに始まるという。
         また、禁門の変後に藩内の政争に敗れ、切腹した清水親知(清太郎)も神霊として合祀さ
        れている。

        
         清水宗治は、1582(天正10)年羽柴秀吉の備中高松城水攻めで、自らの命と引き換
        えに城兵を助命させた武将である。6月6日に水上の舟にて自刃し、弟の難波宗忠(伝兵
        衛)らは城内で自刃する。

       
         参道中腹左手には幕末期の幕長戦争では第二奇兵隊総督で、親知の養父であった清水親
        春(ちかはる)の墓がある。

       
         ウオーキング中の方にお聞きすると、正義霊社南側が島田と立野の境界で、この一帯が
        立野とのこと。(ゴルフ練習場と老健施設)

        
        立野の宮河内地区に入る。

        
        立野神社は閑吟山(かんざんざん)の麓に鎮座し、古くに糘塚(すくもづか)・今山両社権現と
        し、立野村の氏神として崇敬されてきた。1871(明治4)年に現社号となった。

        
         寺社由来によると、今山権現は往古に熊野から勧請し、糘塚権現は立野村給領主・清水
        就信が、1650(慶安3)年に備中高松城の鎮守を勧請して2社が連立していたが、168
        8(元禄元)年火災で焼失し再建されたが1社となった。

        

         この集落も空家が目立つ。

        
         宮河内自治会館と児童公園の地には立野小学校があった。1874(明治7)年に創立され
        たが、1965(昭和40)年に廃校となる。(車の場合、会館に駐車可能)

        
         束荷川に架かる橋は老朽化で車両通行禁止となっている。

        
         橋の西詰には幕末期に多くの事績を残した難波覃庵(たんあん)顕彰碑がある。1905(明
          治38)年孫の難波作之進が郷土の有志と建てたもので、篆額は当時枢密院議長の伊藤博文、
               撰文は楫取素彦、筆は当時日本書道界の第一人者高島張輔(萩市出身・日本画家の高島北
         海の
兄)である。

        

         束荷川沿いにある旧難波家には四脚門が残る。難波周政(かねまさ)は備中高松城
       に籠城し、城主清水宗治の自決に際し、殉死した伝兵衛から11代目にあたる。   
        覃庵という名は南画家になってからのことである。

       
        覃庵の20~30代は国内外において、国の存亡にかかわる非常時に遭遇していた。奇
        兵隊など諸隊が各地に結成されると、清水家家臣団も地域の青壮年による「慕義隊」を結
        成するが、新兵法に対処できる武器は乏しかった。


             
        覃庵48歳の時、私費を投じて樟脳(無煙火薬の製造原料)製造工場を設立するなど殖産
        にも力を尽くす。財政ひっ迫の折は自領の田畑などを売却して主家の軍資金を捻出する。


       
        1862(文久2)年には主君の命を受けて、私塾「養義場」を自邸に創設して国家の急務
        に備えた。世子清水親知(ちかとも)の切腹後、親知の蔵書を加え、法名「仁沢院殿向山義雄」
        に因んで「向山(こうざん)文庫」と名付けた。


       
        1871(明治4)年に覃庵は一線から退き、余生は南画家として過ごす。1883(明治
          16)
年には邸宅内に土蔵1棟を建てて、三條実美筆の「向山文庫」の額と、毛利元昭の額
        を掲げ、室内に旧主親知の霊を祀り、孔子廟を設けたが5年後に他界する。

        
         1923(大正12)年12月27日に覃庵の曾孫・難波大輔(26歳)は、皇太子(昭和天
        皇)の暗殺未遂、いわゆる「虎ノ門事件」を起こす。事件により山本権兵衛内閣は総辞職し、
        難波家は絶家、大助は刑死、衆議院議員だった父・作之進は絶食のすえ他界する。「革命
        万歳!」と叫ぶ大助が皇太子に向けたスッテキ銃は、伊藤博文の洋行土産であったともい
        われている。

        
         この先、束荷川に沿って旧束荷村に入る。

        
         県道23号線(光上関線)を横断し、県道159号線(束荷一の瀬線)を北上すると野尻集
        落。

        
         伊藤公記念公園に入ると正面に旧伊藤博文邸(無料)、左手に資料館(有料)がある。

        
         当時、伊藤家の生家はすでになく、実家である林家の300年祭(伊藤公の遠祖・林淡
        路守通起の没後300年)に、林一族及び伊藤家を集める場所がないため、この建物が計
        画されたのである。

        
         邸宅前には完成を見ることができなかったため、旧邸を見守ってもらうためと像が建立
        されている。玄関ポーチは吹き寄せ柱を用いた半切妻造りの屋根。(当初は切妻造り)

        
         ホールの左右は洋間となっている。設計は自らが基本設計を行い、下関の地元業者清水
        組が施工した。1910(明治43)年3月に着工して翌年の4月に完成、総工事費2万1千
        余円である。

        
         棟札などが置かれている展示室(2)

        
         左手洋間の奥に和式便所。

        
         中央にある階段親柱には、伊藤家の家紋フジの装飾が施されている。

        
         2階の間取り。

        
         半円形の小部屋が設けられている洋間。

        
         洋間にある椅子には菊の紋が施されている。

        
        
         天井の空気孔にも意匠が凝らされている。

        
         木造モルタルの2階建て寄棟造り、桟敷瓦葺きで延べ280㎡の洋風建物である。洋風
        とはいうものの2階は8畳と6畳の和室を設け、床の間、欄間には月(左)と雁(右)があし
        らわれている。

        
         和室には広縁が設けられ解放感ある造りとなっている。

        
         1991(平成3)年が伊藤博文生誕150年にあたることから、木造茅葺平屋建の生家が
        復元される。

        
         伊藤博文(1841-1909)は林十蔵・コト(琴子)の長男として、この地で生まれた。父は金銭
        トラブルを幾度か起こしたためこの地に居られなくなり、妻と利助(博文の幼名)を妻の実
        家である秋山家に預け、萩城下に出て行く。利助5歳の時である。

        
         中間(ちゅうげん)の伊藤直右衛門に拾われた十蔵は、妻子を萩に呼び寄せ、一緒に暮らし
        始めた。利助9歳の時で人生を大きく変えることになる。1854(安政元)年に家族ともど
        も伊藤家の養子となり、下級武士の身分となる。(生家の裏側にある井戸は産湯の井戸とさ
        れる)

        
         この地には、1919(大正8)年に伊藤博文を祭神とする伊藤神社があった。老朽化に伴
        い1959(昭和34)年に束荷神社と合祀され、社跡には座像が設置された。台座には「人
        は誠実でなくては何事も成就しない。誠実とは自分が従事している仕事に対して親切なこ
        とである」とあるが‥?。

        
         1909(明治42)年満州視察の直前、帰国するまでに完成させるように指示して大陸に        
        渡る。視察途中の同年10月ハルピンの駅頭で安重根の銃弾に倒れ、故郷に戻ることなく
        その生涯を終えた。

        
         奥の建物は初代内閣総理大臣・伊藤博文の遺品等が展示されている資料館。

        
         伊藤記念公園前から光市営バスに乗車すれば、山陽本線・岩田駅に出ることができる。
        便数は6便のうち3便は、11:42、14:01、16:25であり、駅まで17分程度の所要時間で
        ある。

        
         バスの乗車時間には余裕があったので、束荷村の中心地だった新市まで歩を進める。交
        差点から束荷小学校方向へ行くと、右手に三隅塾跡の碑がある。伊藤博文が幼少期の18
        49(嘉永2)年に学んだ寺小屋で、実際の所在地はこの地より南東の方向、約70m先の町
        中にあったとのこと。

        
         1889(明治22)年の町村制施行時に、近世以来の束荷村が単独で自治体を形成する。
        1943(昭和18)年に4村(束荷、塩田、三輪、岩田)が合併して大和村が発足するまで、
        この地に村役場が置かれた。現在は駐車地として利用されているが、片隅に当時の塀が残
        されている。

        
         旧束荷郵便局舎だったと思われる建物がある。玄関ポーチ、屋根、窓に意匠が見られる。

        
         伊藤邸とアジサイがデザインされた旧大和町のマンホール蓋。

        
         新市の静かな町並みを見て、14時8分にコミュニティーセンター前バス停から市営ス
        でJR岩田駅に出る。

        
         日曜日のためか5つのバス停に乗降客もなく駅に到着する。

        
         1899(明治32)年開通していた山陽鉄道に新たに岩田駅が新設される。同じ呼び名で
        静岡県に磐田駅があるが、こちらは島田駅と違って呼び名は同じだが漢字が違う駅である。