この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
船木鉄道は山陽本線宇部駅から旧山陽道の船木宿を経て、山間部の万倉と吉部を結ぶ
17.7㎞の軽便鉄道であった。1944(昭和19)年に万倉~吉部間が廃止され、196
1(昭和36)年に全線が廃止された。
万倉~吉部間には鉄道敷跡の遺構が多く残されていたが、船木~宇部間は開発等で消滅
している。(歩行約11㎞)
JR宇部駅から船鉄バスを乗り継いで、楠こもれびの郷バス停で下車する。トイレと弁
当を買い求めて万倉駅があった万倉バス停に向かう。
南に真っ直ぐ延びる道が鉄道敷跡。
1923(大正12)年10月14日万倉駅頭において、船木~万倉間の開通式が行われた。
当時の万倉駅は田圃の中に建設され、附近には4軒の農家があるに過ぎなかったという。
(遺構はないがバス停が現存)
車の多い道を歩くので、先ずは安全祈願のため宮尾八幡宮に参拝する。
参道から鉄道敷跡に出る。
船木までの鉄道敷跡は、その大半が道路に転用されている。
船木~万倉間が開通し、1926(大正15)年11月に吉部までの区間が開通すると、毎
期に欠損が生じ、機関車の響音まで「ケッソン、ケッソン」と揶揄されるようになった。
伏附(ふしつき)バス停附近に停車場があったようだが、その位置は確認できなかった。
有帆川の第二夏田橋に橋台の一部が残るだろうと、橋下を見渡すが護岸工事などで消滅
していた。(右手の建物は雇用促進住宅)
途中でお会いした地元の方によると、この先の自販機(看板製作のⅯ社)前方に宗方駅が
あった。近くに宗方温泉もあったが廃業されたとのこと。
やがて宇部興産専用道路下を潜るが、この附近はどのように敷設されていたかはわから
なかった。万倉入口に「万倉なすと岩戸神楽と硯の里」と案内されている。
船木中心部までの鉄道敷跡。
右手の学びの森くすのき(図書館)敷地内に裁判所前停車場があったとされる。
当時の船木村は家屋が約1,000戸建ち並び、5,600人の人々を擁する厚狭郡の中
央都市であって、郡役所、裁判所、警察署、税務署、県立徳基高等女学校などの諸官庁が
あり、商工鉱業が栄え、物資の集散市場であった。
トイレ借用に立ち寄ると館内(博物館)に船木町駅のラッチが保存されている。
旧山陽道筋を横断する。
(船木~有帆間)
船木町駅舎(左手)と右の建物の間に数本の線路があったと思われる。
当時の船木村には未だ電燈の恩恵に浴せず、町内には灯油の外燈が点火されていた。駅
舎・待合室は石油ランプが灯されたが、後に危険なためロウソクに変わり、「松風提灯」
が吊された。その後、カーバイドのガス灯から電気に変遷する。
営業所入口に当時の信号機が保存されている。船木は政治・経済・文化の中心であった
関係から、厚東村に設置された駅が「船木駅」(現在の厚東駅)とされたため、こちらの駅
は「船木町駅」とされた。
待合室にある木製ベンチも当時のものと思われる。
さらに南下すると山陽新幹線下を潜る。山陽鉄道が三田尻~厚狭間の敷設に際し、船木
を経由する案を提示したが、村民の反対が強く、地主の利権欲に阻まれ、地元負担金の見
通し難のため鉄道実現は挫折する。1900(明治33)年12月に山陽鉄道が開通すると、
物資の流通機構は変革をもたらし、船木の商品市場は局地化した。
正面の民家裏が船木町駅であり、鉄道敷は左手の舗装路であったのだろうか。ここも不
明地点の1つとなった。
1908(明治41)年に山口軌道が山口~小郡間に軽便鉄道を開業させ、続いて宇部軽便
鉄道が創立されるなど近隣に鉄道建設の動きが見え始めると、船木村でも軽便鉄道の具体
化が図られるようになる。
しかし、当時の船木村は派閥抗争が激しく、小野田駅を起点とする派閥と宇部駅を起点
とする派閥の対立があったという。結果として宇部~船木案が採用されて鉄道院に上申さ
れた。(指月附近)
峠の頂上付近が旧楠町と小野田市の境界。
下って行くと左手に「千林尼の大休・指月石畳道」の案内がある。船木逢坂の観音堂に
住んでいた千林尼が、険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、自ら托鉢をして浄
財を集め、敷いた石畳道の一つで、1862(文久2)年8月に完成した。現存の石畳道はそ
の一部で、敷石の長さ約260m、幅1.5mとある。
中村停車場は停留場(現在のバス停のようなもの)であったが、1920(大正9)年に長門
起業炭鉱の寄付により、側線を増設して駅舎新築と駅員の配置がなされたという。この附
近にあったと思われるが確証を得ることができなかった。
山陽自動車道下を潜る。
鉄道敷はこのまま直進していたものと思われるが、この一帯も不明地点である。
県道29号線(宇部船木線)に出ると有帆バス停がある。
(有帆~宇部間)
バス停の先を左折して広い道を進むと民家が建ち並ぶ。結果として有帆駅の位置はわか
らず終いとなる。片隅に「與三郎大神」と記された小さな神社がある。
1914(大正3)年5月2日宇部~船木間の鍬入式が行われて、工事は厚南村鏡ヶ窪から
開始されたが、有帆駅構内の用地買収で鉄道側と起業炭鉱との間で紛争があったという。
後に紛争は解決したが、工事着工以来2年2ヶ月を要して完成する。
生活道に入ると民家の先に築堤が見える。
船木側は民家手前で消滅している。
新道で二分されているが先に続いている。
有帆側に残る橋台。
正面に見える石橋で山中に入ってみる。
鉄道敷跡に上がると歩けそうな道が続いている。
どなたかが整備されているのか歩きやすい道が続く。
貯水槽の先にも続いている。
山肌に崩落防止用の石垣が残存する。
通行止めの先に民家があり、ここで引き返し貯水槽の所から生活道に出る。
宇部興産専用道路の函渠を潜り、右折して非舗装の草道を進む。
宇部興産道路と大和団地の間に出るが、鉄道敷はこの道を横断していたと思われる。
鉄道敷は団地内にあったようだ。
県道29号線に合わすと、迫条バス停附近から山陽本線に並列していた。
1942(昭和17)年2月に宇部油化工業㈱の石炭液化に伴い、船木鉄道と油化工業との
撃密な共同化が行われた。この共同化は石炭輸送の強化が必要だったことによる。
翌年には船木、宇部、小野田鉄道の国鉄買い上げ問題が起こったが、船木鉄道は油化工
業に石炭30万屯を輸送することが捨て難く、買い上げ反対に及んだ。
しかし、戦局の悪化にともない、1944(昭和19)年5月油化工業側より、条件解除の
通知を受けて瓦解する。宇部・小野田鉄道は国鉄買収に応じ、現在も鉄道が維持されてい
る。
戦後になると鉄道収入の基盤であった石炭輸送は、最大輸送時より半減して収入は減少
の一途を辿る。1960(昭和35)年9月に沿線炭鉱に対し、国鉄側が納入石炭の契約を解
除すると、翌年10月14日鉄道の日に苦節45年の歴史を閉じる。
宇部駅は現駅舎の向い側にあったが、宇部駅構内改良工事による用地交換で消滅する。