この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
西豊井(にしとよい)は切戸川下流域一帯の沖積地に位置する。1889(明治22)年町村制
の施行により、東豊井村と西豊井村の区域をもって豊井村を形成し、後に下松町と改称す
る。現在の国道188号北側一帯は、1939(昭和14)年までは久保村の区域であった。(
歩行約6.8㎞、🚻途中に公園、ゆめタウン)
JR下松駅南口1番バス停から防長バスゆめプラザ熊毛行き約10分、下松高校前バス
停で下車する。
交差点の角に原田重庸(はらだちょうよう)先生之碑がある。下松市大河内に住み、降松神社
の宮司を務めながら、付近の子弟を集めて教育したという。
没後に教えを受けた門弟たちが石碑を建立したもので、碑には明治25年(1892)12月
18日と辞世の句が刻まれている。
県道を横断すると妙見橋手前に御旅所。先ほどの石碑の奥に大河内集会所があり、「地
下(じげ)上申」に記載される妙見社の舞殿(妙見休殿)があったとされるが見落とす。(鳥居
は一の鳥居)
妙見橋背後の高台にある下松高校は中世の寺跡。
橋を渡れば二の鳥居。延宝七己未(1679)の銘がある。
降松(くだまつ)神社若宮の参道と随神門。
参道の途中に下松市指定記念物の「ヤマザクラ」と麓は大河内集落。
由緒によると、推古天皇の代に青柳浦に大星が降り、百済より太子が来朝するとの神託
があって、神霊を祀り北辰妙見社となり鷲頭庄の氏神となる。
のちに鷲頭山に上宮・中宮が建立され、大内弘世が鷲頭山の麓・赤坂に若宮を建立する。
(拝殿の唐破風に大内菱)
元和年間(1615-1624)下松藩の毛利就隆が若宮を現在地に遷し、現在の若宮は1767(
明和4)年毛利就馴(なりよし)の再建とされる。明治政府の神仏分離政策により、1870(明
治3)年仏像などは鷲頭寺(じゅとうじ)に移され、妙見社は降松神社と改められる。
妙見社の別当坊であった鷲頭寺が参道脇にあったが、1879(明治12)年中市へ移転す
る。
若宮から降松神社上宮まで約2㎞もあり、下松駅までの距離を考えると残念せざるを得
ない。
切戸川に沿うと右手に降松神社若宮。
大河内橋の先で切戸川左岸道を進む。
石場建て工法に濡れ縁が置かれた古民家。(現在は無住のK家)
幼稚園の中に寺があるといった感じの西念寺(浄土真宗)は、1635(寛永12)年俗名山
崎外摂によって創建されたと伝える。明治期に女子教育の私塾(淑徳女学院)が開かれたが、
大正の初めに閉校したという。
西念寺がある地域を八口(はっこう)といい、八つの村(下松・末武・花岡・生野屋・山田・
久保市・吉原・八条)よりの入口なので八口と名がついたようだ。
1617(元和3)年毛利就隆が、この地方で高3万石の地を与えられ分封したとき、下松
の地に居館を設ける。1640(寛永17)年就隆の側室・永心寺殿の菩提寺として永心寺が
創建された。
1625(寛永2)年永心寺殿が生んだ伊勢姫は、就隆にとって最初の娘であったが、病弱
のため一生婚せず45歳で死去する。伊勢姫も同寺に葬られ、永心寺殿母娘の戒名から松
心寺と改められる。
両名の墓が境内墓地にあるが、入口付近が改修中であったので立ち入らず。(この付近ま
でが旧久保村)
国道188号の函渠を潜ると旧豊井村。
丘陵地帯の麓を西へ向かうと、右手に東光寺観音堂への石段がある。
石段を上がると下松市の記念物であるヤマザクラが根元付近で伐採されていた。近所の
方によると、強風で折れ危険回避のため伐採された。階段は149段もあるが急坂でない
ので難なく上がれますとのことだった。
東光寺観音堂は、東光寺の寺跡にあったものを現在地に移したとされ、現在は泉所寺の
所有とされる。
観音堂の裏手に行けば市街地西部が一望できる。
ゆめタウン下松で一息入れて平田川を目指す。
ゆめタウンから住宅街を通り、平田川の大海町橋手前で西市に入る。(歩いてきた道)
平田川下流から玉鶴川までが西市、切戸川を渡って樋の上までが中市で、家が密集して
繁華街をなしていたという。この道は本往還ではないが、上関、大島、熊毛方面への往来
道であった。
このような建物が残っている。
正福寺(真言宗)は江戸期の火災によって、旧記類を焼失したため古い時代のことはわか
らないそうだが、すでに大内氏の時代から厚い加護を受けていたという。
医院だった建物。
貴船神社の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、水の神として祀られている。1870(明
治3)年天満宮を併祀している。その先、玉鶴川を渡ったところから中市。
この付近は船着場として早くから開けたところで、商家や荷揚場が多くあったという。
(切戸橋)
電業社だったのか美容院だったのか不明だが崩壊の途にある。
往来道だった頃の面影を残す家並み。
寺伝によれは、室町期の天文年中(1532-1555)大内氏が現在の地から東北方3町ばかりに
西福寺(さいふくじ)を建立する。大内氏滅亡後は衰退したが、1626(寛永3)年毛利就隆が
亡母の菩提を弔うため、その法号から「周慶寺」(浄土宗)と改める。
その後、現在地に移り諸堂を建立する。門前には寺経営の「市屋敷」があり、寺を中心
に中市・西市・東市が形成されたという。
参道に「妙見宮」の額束がかかる鳥居。
妙見宮鷲頭寺は真言宗御室派に属するが、本堂は権現造りで神社のような佇まいを見せ
る。
もとは鷲頭山の麓にあって妙見宮の別当坊であったが、明治の神仏分離令により、18
79(明治12)年現在地に移転する。
狛犬も存在し、周南七福神の大黒様(大黒天)も祀られているので、神社と錯覚して手を
叩きそうになる。
裏路地を歩くと飲食街。
笠戸大橋と笠戸ヒラメがデザインされたマンホール蓋。
裏路地から普門寺(浄土宗)への道は、江戸期には切戸川からここまでが中市、現在の駅
前付近が東市であったようだ。
1600年代に創建された境内には、龍のように幹を伸ばした老松がある。
普門寺前の大通りは整備されて面影を残していない。
浄西寺(浄土宗)は、1615(元和元)年磯部常安が出家して、先祖供養のため創建したと
いう。
飲食店街に戻るとコロナによる休業を知らせる張り紙が多くみられる。