ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下松市西豊井は降松神社から柳井往来道

2022年02月12日 | 山口県下松市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         西豊井(にしとよい)は切戸川下流域一帯の沖積地に位置する。1889(明治22)年町村制
        の施行により、東豊井村と西豊井村の区域をもって豊井村を形成し、後に下松町と改称す
        る。現在の国道188号北側一帯は、1939(昭和14)年までは久保村の区域であった。(
        歩行約6.8㎞、🚻途中に公園、ゆめタウン)


        
         JR下松駅南口1番バス停から防長バスゆめプラザ熊毛行き約10分、下松高校前バス
        停で下車する。

        
         交差点の角に原田重庸(はらだちょうよう)先生之碑がある。下松市大河内に住み、降松神社
        の宮司を務めながら、付近の子弟を集めて教育したという。
         没後に教えを受けた門弟たちが石碑を建立したもので、碑には明治25年(1892)12月
        18日と辞世の句が刻まれている。

        
         県道を横断すると妙見橋手前に御旅所。先ほどの石碑の奥に大河内集会所があり、「地
        下(じげ)上申」に記載される妙見社の舞殿(妙見休殿)があったとされるが見落とす。(鳥居
        は一の鳥居)

        
         妙見橋背後の高台にある下松高校は中世の寺跡。

        
         橋を渡れば二の鳥居。延宝七己未(1679)の銘がある。

        
         降松(くだまつ)神社若宮の参道と随神門。

        
         参道の途中に下松市指定記念物の「ヤマザクラ」と麓は大河内集落。

        
         由緒によると、推古天皇の代に青柳浦に大星が降り、百済より太子が来朝するとの神託
        があって、神霊を祀り北辰妙見社となり鷲頭庄の氏神となる。
         のちに鷲頭山に上宮・中宮が建立され、大内弘世が鷲頭山の麓・赤坂に若宮を建立する。               
        (拝殿の唐破風に大内菱)
         元和年間(1615-1624)下松藩の毛利就隆が若宮を現在地に遷し、現在の若宮は1767(
        明和4)年毛利就馴(なりよし)の再建とされる。明治政府の神仏分離政策により、1870(明
          治3)
年仏像などは鷲頭寺(じゅとうじ)に移され、妙見社は降松神社と改められる。

        
         妙見社の別当坊であった鷲頭寺が参道脇にあったが、1879(明治12)年中市へ移転す
        る。

        
         若宮から降松神社上宮まで約2㎞もあり、下松駅までの距離を考えると残念せざるを得
        ない。

        
         切戸川に沿うと右手に降松神社若宮。

        
         大河内橋の先で切戸川左岸道を進む。

        
         石場建て工法に濡れ縁が置かれた古民家。(現在は無住のK家) 

        
         幼稚園の中に寺があるといった感じの西念寺(浄土真宗)は、1635(寛永12)年俗名山
        崎外摂によって創建されたと伝える。明治期に女子教育の私塾(淑徳女学院)が開かれたが、
        大正の初めに閉校したという。

        
         西念寺がある地域を八口(はっこう)といい、八つの村(下松・末武・花岡・生野屋・山田・
        久保市・吉原・八条)よりの入口なので八口と名がついたようだ。

        
        
         1617(元和3)年毛利就隆が、この地方で高3万石の地を与えられ分封したとき、下松
        の地に居館を設ける。1640(寛永17)年就隆の側室・永心寺殿の菩提寺として永心寺が
        創建された。
         1625(寛永2)年永心寺殿が生んだ伊勢姫は、就隆にとって最初の娘であったが、病弱
        のため一生婚せず45歳で死去する。伊勢姫も同寺に葬られ、永心寺殿母娘の戒名から松
        心寺と改められる。
         両名の墓が境内墓地にあるが、入口付近が改修中であったので立ち入らず。(この付近ま
        でが旧久保村)

        
         国道188号の函渠を潜ると旧豊井村。

        
         丘陵地帯の麓を西へ向かうと、右手に東光寺観音堂への石段がある。

        
         石段を上がると下松市の記念物であるヤマザクラが根元付近で伐採されていた。近所の
        方によると、強風で折れ危険回避のため伐採された。階段は149段もあるが急坂でない
        ので難なく上がれますとのことだった。

        
         東光寺観音堂は、東光寺の寺跡にあったものを現在地に移したとされ、現在は泉所寺の
        所有とされる。

        
         
         観音堂の裏手に行けば市街地西部が一望できる。
    
        
         ゆめタウン下松で一息入れて平田川を目指す。

        
         ゆめタウンから住宅街を通り、平田川の大海町橋手前で西市に入る。(歩いてきた道)

        
         平田川下流から玉鶴川までが西市、切戸川を渡って樋の上までが中市で、家が密集して
        繁華街をなしていたという。この道は本往還ではないが、上関、大島、熊毛方面への往来
        道であった。

        
         このような建物が残っている。

        

        
         正福寺(真言宗)は江戸期の火災によって、旧記類を焼失したため古い時代のことはわか
        らないそうだが、すでに大内氏の時代から厚い加護を受けていたという。

        
         医院だった建物。

        
         貴船神社の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、水の神として祀られている。1870(明
        治3)年天満宮を併祀している。その先、玉鶴川を渡ったところから中市。

        

        
         この付近は船着場として早くから開けたところで、商家や荷揚場が多くあったという。
        (切戸橋)

        
         電業社だったのか美容院だったのか不明だが崩壊の途にある。

        

         往来道だった頃の面影を残す家並み。

        
        
         寺伝によれは、室町期の天文年中(1532-1555)大内氏が現在の地から東北方3町ばかりに
        西福寺(さいふくじ)を建立する。大内氏滅亡後は衰退したが、1626(寛永3)年毛利就隆が
        亡母の菩提を弔うため、その法号から「周慶寺」(浄土宗)と改める。
         その後、現在地に移り諸堂を建立する。
門前には寺経営の「市屋敷」があり、寺を中心
        に中市・西市・東市が形成されたという。

        

        
         参道に「妙見宮」の額束がかかる鳥居。

        
         妙見宮鷲頭寺は真言宗御室派に属するが、本堂は権現造りで神社のような佇まいを見せ
        る。

        
         もとは鷲頭山の麓にあって妙見宮の別当坊であったが、明治の神仏分離令により、18
        79(明治12)年現在地に移転する。

        
         狛犬も存在し、周南七福神の大黒様(大黒天)も祀られているので、神社と錯覚して手を
        叩きそうになる。

        
         裏路地を歩くと飲食街。

        
         笠戸大橋と笠戸ヒラメがデザインされたマンホール蓋。

        
         裏路地から普門寺(浄土宗)への道は、江戸期には切戸川からここまでが中市、現在の駅
        前付近が東市であったようだ。
         1600年代に創建された境内には、龍のように幹を伸ばした老松がある。 

        
         普門寺前の大通りは整備されて面影を残していない。

        
         浄西寺(浄土宗)は、1615(元和元)年磯部常安が出家して、先祖供養のため創建したと
        いう。

         
         飲食店街に戻るとコロナによる休業を知らせる張り紙が多くみられる。


下松市東豊井は海側に工場群、山側が住宅地 

2022年02月11日 | 山口県下松市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         東豊井(ひがしとよい)は切戸川下流左岸に位置し、西は笠戸湾に面する。地名の由来につ
        いて、地下(じげ)上申は清水の湧き出る豊かな井戸があったことによるとする。(歩行約5.
        9㎞)

        
         JR下松駅は、1897(明治30)年山陽鉄道の広島ー徳山間が開通したと同時に開業す
        る。
駅舎は1965(昭和40)年現在の橋上駅となったが、県内では最初の橋上駅である。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、東豊井村と西豊井村の区域をもって豊井村が
        発足し、のちに下松町なるが、駅前の広島銀行東の路地が合併前の村境であったという。 

        
         新町は、1677(延宝5)年新たに造られた町だそうだ。

        
        
         新町の一本松老人集会所のある地は、かって一本松寮(寺の寮?)と呼ばれ、観音菩薩が
        祀られ市内最古の宝篋印塔があったとされる。石碑ははっきり読めないが、一本松寮を再
        建した記念碑のようである。

        
         当時の下松藩(のちの徳山藩)の御舟倉があった地とされる。

        
         鍵曲りになった地に海上の守護神、和歌の神、商売繁盛の神として崇敬されてきた住吉
        神社。

        
         さらに進むと県道徳山下松線に合わす。 

        
         県道を横断すると二宮町公園内に埴常社(はにとこしゃ)があるが、1802(享和2)年富洲
        屋が建立したとされる。1917(大正6)年久原房之介(日立製作所)が一帯を買収後、当時
        の地区の人々が現在の地に移転した際、社も移転したとされる。

        
         県道合流点に戻って直進すると弁財天社がある。祭神は下松の有力者だった小嶋家由来
        のもので、1941(昭和16)年に旧国道から移転する。常夜塔や鳥居は東洋鋼板内にあっ
        た旧磯部・矢嶋邸より移設される。

        
         弁財天社の隣には金倉寺と記されたお堂と、手前に「力石」が置かれている。

        
         下松は海軍工廠のある光市と海軍燃料廠のある徳山市に隣接し、大規模な兵器製造工場
        があったことから米軍の標的となる。1945(昭和20)年5月以降6回にわたる空襲を受
        け、2・3回目は市街地を焼失するなど甚大な被害をもたらした。

        
         大谷川に架かる橋の親柱。

        
         東洋鋼板の敷地内に、1709(宝永6)年「富洲屋」の初代磯部好助が建てた別荘と、邸
        の東に広大な塩田があったという。大谷川と県道笠戸島公園線に挟まれた一角にある老松
        が邸の残りを留める。

        
         右手に日立製作所を見て右折すると、今でも引込線がある。

        
         次の線路は山陽本線で中豊井踏切を横断する。

        
         豊井小学校前を右折すると、学校先に大地之森(おおじのもり)と呼ばれる森がある。石祠
        とお堂が祀られ、祠を取り囲むように下松市保存樹のムクノキ、エノキの巨木がある。

        
         さらに東へ向かうと国道高架を潜る。

        
         慶雲寺(曹洞宗)

        
         東端にある摂社・降松神社は、もと宮ノ洲山にあった小社で、明治期に摂社となった後、
        久原房之助の用地買収により、恋ヶ浜にあった荒神社を合祀してこの地に移転したとされ
        る。摂社とは本社に付属し、その祭神と深い神を祀った神社のことらしい。

        
         境内には宮洲屋関連の狛犬や灯籠が現存し、手水鉢には「筑州柳川領廻船中」と刻まれ
        ている。

        
         亀甲模様に市章と「汚水」が入った下松市のマンホール蓋。 

        
         豊井小学校裏に疫神を祀る八坂神社の由緒等は不明。

        
        
         妙法寺(曹洞宗)の沿革によると、1854(嘉永7)年11月の南海地方の大地震で山門を
        残して全焼し、昭和期にも大火に見舞われて詳細な古文書を失ったが、室町期の1553
        (天文22)年が開創とされている。
         山門は2度の大火を免れたが、老朽化のため昭和期に同型に改修された。

        
         土地勘がないため地図を頼りに駅方面へ向かうが、予定とは違う道を歩いてしまう。

        
         右手の西教寺(真宗)は、1941(昭和16)年駅前の道路拡張に伴い、当地に移転してき
        たという。

        
        
         先祖伝承をまとめた「大内多々良譜牒」によると、推古天皇の頃、青柳浦に星が降って
        きて、松の木の上に留まって七日七晩輝き「異国から太子がこの地にやってくる。太子を
        護るため降ってきた」というお告げがあったことに始まり、3年後に百済の琳聖太子が来
        朝したため、人々は降臨の松・連理の松・相生の三樹が鼎の形をしているので鼎(かなえ)
        松と呼んで松の木を崇めたという。(現在の松は5代目) 

        
         鼎大明神を祀る金輪神社。下松の地名は「星が降った」が「降り松」となり、下松にな
        ったといわれるが他説もあり。

        
         JR下松駅北口に戻る。


下松市の下谷は旧米川村の中心地

2021年08月23日 | 山口県下松市

                         
                          この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         米川(よねかわ)は地名として存在せず、明治の町村制施行により、4ヶ村が合併した際に
        新村名について、本区域は元組名の米川組から撰定したとされる。
         その米川村の中心だった下谷(くだたに)と菅沢集落は、末武川上流の山間地域に位置し、
        県道下松鹿野線と県道三瀬川下松線が交差する一帯に集落を形成する。(約3km)

        
         この地を訪れるには下松市コミュニティバスがあるが、利便性が良くないため車対応と
        なる。県道が交差する先に駐車すると末武川右岸に菅沢集落がる。

        
         菅沢集落内のメイン道路。

        
         傾斜地に沿って集落を形成する。

        
         法界地蔵尊は、昔より道に迷う人のために道を教え、現在では、悩める人の人生を示す
        道標となり、家内安全・交通安全を祈る人々を守るといわれている。「天正」(1573-1592)
                とあるが建立年は読み取れない。

        
         末武川の左岸に県道が走り、右岸の旧道に沿って集落が形成されている。

        
        
         末武川に合わすと右手に米川小学校がある。1885(明治18)年瀬戸小学校として創立
        され、その後、統合や校名変更などを経てきた。児童数の減少に伴い、2020(令和2)
        3月をもって休校となる。現在は7㎞離れた花岡小学校へスクールバスで通学している。

        
         戦後の学制改革に伴い、米川中学校が創立されたが、スクールバスの運行と小学校の整
        備を条件に、地区民の了承を得て、1968(昭和43)年3月に廃校となる。
         その後、中学校の校舎を解体し、鉄筋コンクリート造2階建ての近代的な校舎が新築さ
        れ、1970(昭和45)年小学校が移転する。
                  校庭の片隅に中学校跡碑が建っているが、
中学校設立にあたって、安田家が所有地を提
        供されたが、安田家は萩藩士杉家に仕え、安田郷に住み郷名から安田姓とし、のちにこの
        地に永住されたという。 

        
         コミュニティバスのうち下松市街地までの3便は、花岡駅・病院・買物ができるサンリ
        ブ下松までと、米川地区内をエリアとする3便(予約制)がある。 

        
         昭和天皇即位を記念する御大典記念碑(1928)と御旅所。

        
         右手に米川神社参道。

        
         米川神社は、平安前期の貞観年中(859-877)出雲国より勧請して天王宮と称していたが、
        明治政府の神社合祀政策により、1907(明治40)年河内社を合祀して米川神社と改称す
        る。近くの墓地は妙音寺跡、1873(明治6)年創立の煤間(すすま)小学校下谷分校もこの
        地にあったようだ。

        
         下谷集落。

        
         新万寿庵橋から見る菅沢集落。

        
         多くの家は更新されている。

        
         「牛神様」碑が田圃に中にあるが、農家が飼育する牛の無病息災を祈願して祀られた民
        間信仰の神である。
         耕運機が普及する昭和40年代(1965)に入るまで、農家は雌の子牛を飼育し、農耕に使
        用すると同時に役牛として転売し、貴重な現金収入を得ていた。

        
         緩やかな坂を下るが見るべきものはない。

        
         この先で県道に合流する。(GSは自家消費とあり)

        
         下松市米川出張所及び米川公民館の地には、1892(明治25)年から1970(昭和45)
        年まで米川小学校があった。 

        
         1889(明治22)年町村制施行により、下谷、瀬戸、温見、大藤谷の各村をもって米川
        村となり、1954(昭和29)年下松市に編入されるまで下谷は村の中心地であった。

        
         米川神社近くに米川村役場があったが、1892(明治25)年1月火災により焼失。同年
        10月この地に庁舎が新築され、1969(昭和44)年まで村役場、市出張所として使用さ
        れた
。右手に見えるのが村議会議堂棟。


下松市笠戸島の本浦は島北側の集落 

2021年07月15日 | 山口県下松市

        
                    この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         瀬戸内海の西方、笠戸湾南方に位置する島で、本浦は島の北にあって下松市街地と向き
        合っている。(歩行距離 約2.2km)

        
         JR下松駅から笠戸江の浦行き防長バス約10分、本浦バス停下車するが、バスはメイ 
        ンの集落までは行かず笠戸海浜公園までとなっている。

        
         海岸線を200mほど歩くとメイン集落入口。

        
         笠戸大橋は、1970(昭和45)年宮ノ浦の洲鼻から瀬戸岬に架けられた橋で、海上部は
        ランガートラス橋で弓形のアーチに垂直に桁を連結し、長い支間の自重や外力に耐えるよ
        うになっている。
         下松港の新川から巡航船に頼っていた笠戸島の人たちは、架橋によって生活は一変した
        とのこと。

        
         天台宗「光明寺」だが由来等は不明である。

        
         自治会の案内板。

        
         海岸道路から一歩奥の道は、生活を支えてきた貴重な道とのこと。

        
         所々、雨戸で閉ざされている家もある。

        
         漁村集落を感じさせない家並み。

        
         笠戸神社参道は所々に草が生えているが、参拝するには支障がない。途中に「蛸神さま」
        の説明板と入口を示す看板があり、入ってみたが荒れ放題で辿り着くことができず。
         由来によると、大きな蛸を生け捕りにしたが、どんな刃物を使っても切り刻むことがで
        きず、この蛸は神様の使いではないかということになった。やっとのことで足8本を切り
        取って、この山中に埋めて石を立てて祀ったという。風邪にご利益がある神様とある。

        
         1669(寛文9)年に創建された笠戸神社は、享保年中(1716-1736)に八幡宮を勧請した
        という。

        
         境内から見る町並みと、2014(平成26)年に閉校した笠戸小学校が右手に見える。

        

        

        

        

        
         空家が増えつつあるようで雨戸の閉められた家などを散見する。

        
         本浦の変遷を見続けてきた地蔵尊。ここにも家があったと思われるが路傍に寂しく鎮座。

        
         店構えの構造を持つ民家。

        
         集落東端からの漁港と笠戸大橋。

        
         高台から見る本浦の町並み。この地も3方を山に囲まれ擂鉢状の底に集落を形成してい
        る。

        
         地図上に善通寺とあるので集落のお寺を想像して階段を上がると、周南八十八ヶ所75
        番札所。

        
         この地も漁港整備と共に海岸道路が新設されたようだ。

        
         山からの雨水等を海に流し出す水路は1本のみであった。

        
         10年前とは人・船艘・小学校の廃校など様変わりをしていたが、穏やかな海だけは変
        わらなかった。


下松市笠戸島の深浦は島南端にある集落 

2021年04月10日 | 山口県下松市

                        
                      この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         瀬戸内海西方、笠戸湾南方に位置する笠戸島。地名の由来は、厳島明神が当地に笠を捨
        て置いたという伝説にちなむという。古来、海運上の要地であり、地内に笠戸本浦、尾郷、
        江ノ浦、深浦があり、深浦は県道笠戸島線の終点にある集落である。(歩行約2.1kmだが
        高壺山までの距離は除く)
 

        
         JR下松駅(10:00)から防長バス深浦行き35分、終点の深浦バス停で下車する。

        
         防波堤には多くの太公望たち。

        
         バス路線を戻ると左手に深浦八幡宮。

        
         参道を上がって行くと海岸部に家並み、山手側は耕作地のようである。

        
         由緒によると、平安期の857(天安元)年宇佐八幡宮より勧請されたとあるが、それ以後
        は文字が擦れて
判読できない。

        
         龍と富士山と思える山が描かれた鏝絵。

        
        
         道路を挟んで八幡宮の向い側に稲荷神社。

        
         集落道に入ると左手に笠戸八十八ヶ所第43番札所。八十八ヶ所は1925(大正14)年
        勧請されたそうだ。

        
        
         平入りの民家。

        
         四差路を左折すると、正面に深浦公民館(旧深浦小学校跡地)

        
         深浦小学校は、2014(平成26)年に廃校となり、地区住民の交流の場となっている。

        
         子持ち地蔵と観音像。

        
         周慶寺の阿弥陀堂。周慶寺は下松市西豊井にある浄土宗の寺である。

        
         山手側に棚田が設けられていたようだが、担い手不足によるものか耕作放棄が進行して
        いる

        
         集落道に戻って西進すると空家が目立つ

        
        
         急に道幅が広くなるが、この付近も空家が続く。

        
         地元の方が高壺山周辺に旧軍の軍事施設が残されていると、地図で案内をしていただく。
        バスの乗車時間が
気になったが、この地より大浦道を上がることにする

        
         大浦道は小屋の所で左手に上がる道が分かりづらいが、あとはスカイ4号道を進めば高
        壺山である。

        
         貯水槽と思われるが戦争遺跡に関する知識がないのでよくわからない。

        
         開戦直後に防空を目的に探照灯と聴音機を備えた深浦見張所が設置され、戦争末期には
        は防空砲台も設置されたという。(兵舎跡?)

        
         換気口だろうか桝が5つぐらい現存する。

        
         高角砲台への塹壕。

        
         反対側からの塹壕。

        
        
         赤煉瓦造にモルタルで上塗りされているが、関連施設の指揮所と思われる。

        
         深浦から唯一の展望地。(火振岬)

        
         大浦道は水害で一部寸断されていたが、総じて歩きやすい道であった。

        
         西端から見る深浦漁港。

        
         県道は地元の方の駐車場のようだ。

        
         長く住民の生活に欠かせなかった井戸水も、1970(昭和45)年11月笠戸大橋の完成
        に伴い、1年後に島内全域へ上水道が完備されて役目を終えた。

        
         再び県道に出ると深浦バス停。13時30分下松駅行きに乗車して江の浦へ向かう。


下松市笠戸島の江ノ浦はドックの片隅に集落 

2021年04月10日 | 山口県下松市

        
                この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         江ノ浦は笠戸湾南方の笠戸島の中央部に位置する。島名の由来は厳島明神が当地に笠を
        捨て置いたという伝説にちなむという。(歩行約2.6km)

        
         深浦バス停(13:30)から防長バス約9分、笠戸ドック前バス停で下車する。

        
         車窓から見たドックを見るためバス路線を引き返す。

        
         1918(大正7)年笠戸島船渠㈱が江ノ浦に創設され、この建設工事の人やその生活を支
        える人々が多く移住してきたと云われている。

        
         県道を挟んで右手に本社事務所、山手側に寮・アパート群が並ぶ。

        
         稲荷大明神。

        
         工場入口より集落に入ると、右手に笠戸霊場八十八ヶ所第73番札所がある。阿波国・
        平等寺、讃岐国・出釈迦寺と金倉寺などの座石があるが、その上に石仏があったのであろ
        う。

        
         札所から高台への急坂を上がると、集落全体を見渡せないが狭い平地に民家等が軒を寄
        せ合う。

        
         どの路地からも大型クレーンを見ることができる。

        
         門構えのある家。

        
         集落内に2本の道が山手にのびる。架橋される前は船渠従業員は社用船を利用していた
        が、島民は食料・雑貨の調達は運搬船もしくは漁船に頼っていた。

        
         三角地にある建物。

        
         海からわずかで山が迫るという狭い空間の地も、架橋によって利便性は増したが、同時
        に他の地域から通勤可能な地となる。人口流失が始まると商店などが打撃を受けてひっそ
        りとした集落へと変貌する。

        
         笠戸島船渠㈱は、1988(昭和63)年3月長引く造船不況により解散し、全員解雇とい
        う憂き目に遭う。のちに修繕船を主体とする新笠戸ドックが設立されて今日に至る。

        
         かっての海岸線と思われる堤防が残されている。

        
         江の浦バス停より下松駅に戻る。 
 


下松市花岡は八幡宮の門前町と旧山陽道 

2019年10月04日 | 山口県下松市

        
       この地図は、国土地理院丁長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         花岡は平田川上流域および末武川下流域に位置する。地名について風土注進案は、八幡
        山に花
が咲く大木があり、その香りが村中に満ちたことによるとあるが、現在の八幡宮が
        「端の岡」にあったことから出たとされる。(歩行 約2.8㎞)

           
         1987(昭和62)年地元の請願によって新設されたJR生野屋駅駅は、JR周防花岡駅
        までは約1.9㎞の距離である。

           
         創建時は尊城寺と称していたが、1640(寛永17)年に教應寺となる。徳山藩より手
        厚い加護を受け、敷地は狭いが立派な鐘楼門と本堂がある。
         「何も知らずに生まれ出て 知らぬ間に歳をとり 思わぬ病気で死んでゆく 人の一生
        この道は 逃げもかくれも出来ぬ道」とある。

           
         萩藩領と徳山藩領生野屋村の境界は、花岡医院と小川(時宗川)の中間地点に石橋があっ
        たとされるが、明確な位置を見つけることができなかった。(時宗川付近)

           
         古民家も無住のためか崩壊の途にある。

           
         花岡宿では上原(醤油)、中村()、礒村(衣料)、藤井(蝋燭)、金藤(味噌)などが、商家
        として財をなしたとされる。


           
         花岡脇本陣(武弘家)は現在の花岡医院にあったとされ、武弘太兵衛の日記には、下田で
        の密航に失敗した吉田松陰と金子重輔が、江戸から駕籠護送されたことが記されていると
        か。

           
         1650(慶安3)年に萩藩は当地の本藩領5ヶ村を都濃宰判の所管とし、花岡に代官所(
        場)と隣接して本陣(御茶屋)を置いた。
        
        
         1651(慶安4)年開基とされる法静寺(浄土宗)がある。

           
         法静寺境内の左手に花岡福徳稲荷大明神があり、11月3日には五穀豊穣を願う稲穂祭
        では、イベントの「きつね
の嫁入り行列」が行われる。
         1724(享保9)年に住職が徳山からの帰りに数珠を失くしてしまい、その夜、住職の枕
        元に白いきつねの夫婦が現れ、「どうか私たちを人間と同様に葬ってください。葬ってい
        ただければ、数珠を見つけて村人をお守りしましょう」と言い、自分たちが倒れた場所を
        告げたという。住職が目を覚ますと、枕元には数珠が置かれていた。早速、きつねが示し
        た場所に住職が訪れると、そこには2体の白きつね夫婦の亡骸があり、住職は手厚く葬り
        供養した。それ以後、災難
を避ける功徳を授かったとされる。
         戦後、きつねの伝承から嫁入り行列が考案されたという。

           
         花岡は中世以後も山陽道の宿駅の1つとして栄えた。1592(天正20)年4月16日に
        は九州下向の豊臣秀吉が、この地に宿泊したとされる。

           
         1900(明治33)年創業の金分銅酒蔵は、槽(ふね)を使って酒をしぼるという、昔から
        の造り方にこだわった酒造りがなされているとのこと。

           
         八幡宮参道に入ると、恵比寿社、酒蔵、分金銅本店と記された高い煙突が聳える。

           
         神橋(太鼓橋)の先に閼伽井(あかい)坊と花岡八幡宮がある。

           
         参道右手には花岡八幡宮の由来を書いた石碑があり、亀が背中で大きな碑を必死で支え
        ているように見える。
         亀の形をした台座のことを亀趺(きふ)といい、中国の故事にいう贔屓(ひいき)で竜の第一
        子とされ、重いものを背負うことを好むことから石碑の台となる。(1814年建立)


           
         閼伽井坊は、709(和銅2)年宇佐八幡の分霊を祀った花岡八幡宮の社坊9ヶ寺の内、現
        存する唯一の寺である。山門は地蔵院が
廃寺される際、その山門を移設したとされる。

           
         閼伽とは、仏様に供える清浄な水のことで、古くは八幡宮や上下行の殿様の御用水にさ
        れた。
         また、この水を加持してもらえば万病に効くと伝えられ、今も魔耶窟の入口に湧き出て
        いる。

           
         石段を上がると閼伽井坊と花岡の町並み。
 
           
         八幡宮の楼門。

           
         勧請時は花岡上地にあったが、1489(長享3)年に現在地へ遷座する。

           
         藤原鎌足が創建したと伝わる日本16塔の一つで、現在のものは室町中期に再建されて
        いる。高さ13.7mの杮葺き
(こけらぶき)屋根の二重の塔は、繊麗な手法をもつ優美な建造
        物である。ここは閼伽井坊の境外飛地であったところである。(国重要文化財)

           
         社務所前には石造と木造を組み合わせた灯籠のようなものがある。

           
         石灯籠には幟のハタメキを抑えるための重石が詰め込まれている。

           
         花岡八幡宮の拝殿は重層となっている。

           
         JR周防花岡駅は、1932(昭和7)年5月29日岩徳西線開業時の暫定的な終着駅と
        して開業する。正面に飾り切妻(ドーマー)に駅名を掲げた洒落た造りである


下松市の久保市は旧山陽道沿いにある集落 

2019年10月04日 | 山口県下松市

        
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         久保市は笠戸湾に注ぐ切戸川の上流で、川と山陽道が交差する地に位置する。地名の由
        来は、周囲を高い山で囲まれた窪地であることによる。(歩行約3.3㎞)

           
         岩徳線は利便性が悪く、徳山駅前から岩国行きバスに乗車して二の瀬バス停で下車する。

           
         久保市へはバス停を引き返し、二の瀬交差点を横断して二の瀬集落に入る。

           
         集落入口は白壁の家が目印となる。

           
         どこにでもあるような家並みが続く。

           
         蛇行する切戸川を横断すると久保市である。

           
         久保市橋手前にある由加社は、備前国田の口(倉敷市児島)由加本社から、1805(文化
        )年6月熊毛郡呼坂に勧請された。1838(天保9)年久保市で大火があったとき、当地
        に勧請して防火の神としたところ、それまで度々あった火災が、その後は発生しなくなっ
        たという。

           
         拝殿の軒下には漆喰の鏝絵が施されている。

           
         木原邸には杉玉が下がっているが、酒造はされていないようある。

           
         二股となるが久保市(旧山陽道)は右手に続く。

           
           
         分岐の右手に恵比寿社がある。祠の下には幟のハタメキを抑えるための重石だろうか?

           
         1889(明治22)年の町村制施行により、切山、山田、来巻、河内村の4ヶ村が合併し、
        新村名は元来付近の中心地であった窪市(久保市)の名をとったもの
である。1953(昭和
          28)
年まで村役場が右手の地に置かれた。

           
         坂を上がって行くと左手に西蓮寺があるが、1610(慶長15)年に創建された浄土宗の
        お寺である。門前の「篤農家小林武作君之碑」は、山口県の米作改良に尽力した篤農家だ
        そうだ。

           
         左側にある灯籠は降松神社(妙見宮)の献灯で、妙見宮まで行けない人のために、ここか
        ら拝むための灯籠だったとのこと。小さな石柱には文字が刻まれているが判読できない。

           
         道が分岐する地点から岡市である。久保市は距離して400mほどであるが、山陽道の
        宿駅を兼ねており、東は呼坂、西は花岡に継いだ。

           
         地下上申では「往古は岡市に有り之、山田村之内に御座候得共、」とあるから、古く
        は山陽道沿いの市であったのかも知れない。

           
         坂を登り切った所に大きな自然石の燈籠(昭和9年3月建立)と、恵比寿社の小さな祠が
        ある。

           
         幾つかの交差点に出合うが西行する。

           
         峠から国道2号に接するが、すぐに街道は左手に分かれる。

           
         カヤトの中に戊辰戦争時の石造灯籠(慶応4年建立)が見られる。もとは国道付近にあっ
        たものが拡張工事で、この地に移設される。

           
         JR生野屋駅は、1987(昭和62)年地元の請願により新設開業した駅である。