この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
柚木(ゆのき)は佐波川上流域の山間部に位置する。地名の由来について風土注進案は、柚
の大木があったことから起こったという。
西に旧阿武郡境大土路から東の旧都濃郡境笹通峠に至る山代街道と、南に野谷のこふき
ち谷から北の石州境川上峠に至る三田尻街道(石州街道)が域内を通る。(歩行約6㎞)
山口市徳地の堀バス停から約50分、終点の柚野活性化センターで下車できるが、1日
3便と少なく滞在時間を考えると車を使用せざるを得ない。下柚木集落付近でバス乗車を
考え、13時過ぎにセンターを出発する。
バス停のある山里農産品加工販売所「柚の里」(営業日は金~日・祝、トイレあり)に駐
車させてもらって、国道に出ると佐波川沿いに設けられた4連の水車。
国道315号に出て川上へ向かう。(13:05)
善洞院(臨済宗)は。1870(明治3)年積洞院に月洞院が合併し、翌年に善洞院と改称す
る。積洞院は室町期の1394(応永元)年大内弘世が創建したとされる。
1889(明治22)年の町村制施行により、柚木村と野谷村が合併し、各1字をとって村
名を湯野村とする。柚木と野谷を大字とし、1955(昭和30)年まで村立した。(寺から
見る柚木の町並み)
左手に島根県吉賀町(旧石州街道)への道を分ける。
鹿野地にある柿本神社は、1893(明治26)年8月に平岩から移転再建されたものであ
る。旧山代街道は集落から離れて山中に入って行く。
柿本人麻呂を祀るが、柚木では和紙(楮の栽培,紙漉)をひろめた神として崇敬されてき
た。
神社前を街道が西進する。(神社から引き返す)
柿本神社から素鵞神社までの山代街道は、圃場整備による破壊や農道化したりして歩く
ことが困難な場所が多い。
この供養塔は山代街道と石州街道の分岐にあったが、道路拡張工事で移転させられたも
ので、刻銘「奉納 大乗妙典六十六部 日本廻国供養塔 維持 明和二丙亥年(1765)三月
吉日」と刻字されている。
この四差路で山代街道と石州街道が下柚木集落先まで重複する。(左の道)
石地蔵6体、念仏供養塔、大師像が祀られている。
河内の一里塚があったとされるが痕跡は残されていない。(柚木神社車道入口付近)
柚木神社の由緒によると、平安期の921(弘仁12)年現社殿の東北にある王子山に権現
社と八幡社を建立したことに始まるという。二度の火災に遭い、室町期の1505(永正2)
年当地に遷座する。現在の社殿は江戸後期に造営されたもので、1871(明治4)年柚木神
社(通称八幡様)と改称する。
今日は新嘗祭が行われていたが、高齢化と人口減少で、古来より引き継いできた祭りが
維持できるか厳しい状況にあるという。
神社を中心に民家が立ち並ぶ。
左手に柚木神社の御旅所。ここから山へ入って行くが、右側は圃場整備された田と飯迫
の民家が点在する。
幕末期に幸ヶ(さいが)峠の東方の尾根や段丘の先端部に、台場が築かれたとされるが、上
がれる状態ではないので残念する。
幕末期、奇兵隊が徳地に進駐した際、さいが垰の旧街道に面した尾根や段丘の先端部に
台場が設けられたという言い伝えがある。
鷹巣集落に下ってくる。
若宮社の上り口手前に石灯籠、猿田彦と共に石地蔵が並ぶが、これらも道路拡張の際に
まとめられたものである。
若宮社へは旧町道小野鷹巣線を上がると右に参道がある。
1875(明治8)年創立の柚木小学校は、2002(平成14)年柚野小学校と合併して廃校
となる。
県道と旧町道が合わす所に野面石の猿田彦大明神と大師石像3体があるが、これらも道
路拡張工事で現在地に移転した。
注進案によると、この付近に高札場、御米蔵、駅場、酒屋があったと記されているが、
痕跡は残されていない。
廃屋と塗り壁の建物が見られる。
左手農地に常夜灯。刻銘「献燈 文化十三子九月」(1816)の銘が見える。
この地域で見られる茅葺きを鉄板で覆い、最上部に瓦を乗せた仕様となっている農家住
宅。
徳祐寺(曹洞宗)は、1603(慶長8)年に創建された時は徳祐庵と称した。1829(文政
12)年失火のため焼失したが、1942(昭和17)年に再建されて現在の寺号となる。
地下(じげ)上申によると「御茶屋壱軒、御本陣屋敷柚木村ニ有り、但伊藤喜二郎罷居申候
事」と記述されている。御茶屋跡には現在伊藤家があるが、1829(文政12)年の大火で
家並みは焼失する。
素鵞(すが)神社の由緒・勧請年月日等は不明であるが、1844(天保15)年祇園社として
神社台帳に記載され、1865(慶応元)年に現神社名となったとのこと。
神社前で集落が終わるため引き返す。
下柚木下バス停で待つこと約20分、16時2分の柚野活性化センター行きバスに乗車
して出発地に戻る。下柚木下バス停からは3.5㎞の距離である。
公共交通機関の便数は少ないが、旧阿東町徳佐へのバス路線があるため、生活圏は旧徳
地町内でなく隣の旧阿東町徳佐のようである。