ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市徳地の柚木は旧山代街道筋の製紙が盛んだった地

2020年11月22日 | 山口県山口市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         柚木(ゆのき)
佐波川上流域の山間部に位置する。地名の由来について風土注進案は、柚
        の大木があったことから起こったという。
         西に旧阿武郡境大土路から東の旧都濃郡境笹通峠に至る山代街道と、南に野谷のこふき
        ち谷から北の石州境川上峠に至る三田尻街道(石州街道)が域内を通る。(歩行約6㎞)

        
         山口市徳地の堀バス停から約50分、終点の柚野活性化センターで下車できるが、1日
        3便と少なく滞在時間を考えると車を使用せざるを得ない。下柚木集落付近でバス乗車を
        考え、13時過ぎにセンターを出発する。

        
         バス停のある山里農産品加工販売所「柚の里」(営業日は金~日・祝、トイレあり)に駐
        車させてもらって、国道に出ると佐波川沿いに設けられた4連の水車。

        
         国道315号に出て川上へ向かう。(13:05)

        
         善洞院(臨済宗)は。1870(明治3)年積洞院に月洞院が合併し、翌年に善洞院と改称す
        る。積洞院は室町期の1394(応永元)年大内弘世が創建したとされる。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、柚木村と野谷村が合併し、各1字をとって村
        名を湯野村とする。柚
木と野谷を大字とし、1955(昭和30)年まで村立した。(寺から
        見る柚木の町並み)

        
         左手に島根県吉賀町(旧石州街道)への道を分ける。

        
         鹿野地にある柿本神社は、1893(明治26)年8月に平岩から移転再建されたものであ
        る。旧山代街道は集落から離れて山中に入って行く。
 
        
         柿本人麻呂を祀るが、柚木では和紙(楮の栽培,紙漉)をひろめた神として崇敬されてき
        た。 
           
        
         神社前を街道が西進する。(神社から引き返す)

        
         柿本神社から素鵞神社までの山代街道は、圃場整備による破壊や農道化したりして歩く
        ことが困難な場所が多い。

        
         この供養塔は山代街道と石州街道の分岐にあったが、道路拡張工事で移転させられたも
        ので、刻銘「奉納 大乗妙典六十六部 日本廻国供養塔 維持 明和二丙亥年(1765)三月
                吉日」
と刻字されている。

        
         この四差路で山代街道と石州街道が下柚木集落先まで重複する。(左の道)

        
         石地蔵6体、念仏供養塔、大師像が祀られている。

        
         河内の一里塚があったとされるが痕跡は残されていない。(柚木神社車道入口付近)

        
         柚木神社の由緒によると、平安期の921(弘仁12)年現社殿の東北にある王子山に権現
        社と八幡社を建立したことに始まるという。二度の火災に遭い、室町期の1505(永正2)
        年当地に
遷座する。現在の社殿は江戸後期に造営されたもので、1871(明治4)年柚木神
        
社(通称八幡様)と改称する。
         今日は新嘗祭が行われていたが、高齢化と人口減少で、古来より引き継いできた祭りが
        維持できるか厳しい状況にあるという。

        
         神社を中心に民家が立ち並ぶ。

        
         左手に柚木神社の御旅所。ここから山へ入って行くが、右側は圃場整備された田と飯迫
        の民家が点在する。

        
         幕末期に幸ヶ(さいが)峠の東方の尾根や段丘の先端部に、台場が築かれたとされるが、上
        がれる状態ではないので残念する。
         幕末期、奇兵隊が徳地に進駐した際、さいが垰の旧街道に面した尾根や段丘の先端部に
        台場が設けられたという言い伝えがある。

        
         鷹巣集落に下ってくる。

        
         若宮社の上り口手前に石灯籠、猿田彦と共に石地蔵が並ぶが、これらも道路拡張の際に
        まとめられたものである。
 

        
         若宮社へは旧町道小野鷹巣線を上がると右に参道がある。

        
         1875(明治8)年創立の柚木小学校は、2002(平成14)年柚野小学校と合併して廃校
        となる。

        
         県道と旧町道が合わす所に野面石の猿田彦大明神と大師石像3体があるが、これらも道
        路拡張工事で現在地に移転した。
         注進案によると、この付近に高札場、御米蔵、駅場、酒屋があったと記されているが、
        痕跡は残されていない。 

        
        
         廃屋と塗り壁の建物が見られる。

        
         左手農地に常夜灯。刻銘「献燈 文化十三子九月」(1816)の銘が見える。

        
         この地域で見られる茅葺きを鉄板で覆い、最上部に瓦を乗せた仕様となっている農家住
        宅。

        
         徳祐寺(曹洞宗)は、1603(慶長8)年に創建された時は
徳祐庵と称した。1829(文政
          12
)年失火のため焼失したが、1942(昭和17)年に再建されて現在の寺号となる。

        
         地下(じげ)上申によると「御茶屋壱軒、御本陣屋敷柚木村ニ有り、但伊藤喜二郎罷居申候
                事」と記述されている。御茶屋跡には現在伊藤家があるが、1829(文政12)年の大火で
                家並みは焼失する。

        
         素鵞(すが)神社の由緒・勧請年月日等は不明であるが、1844(天保15)年祇園社として
        神社台帳に記載され、1865(慶応元)年に現神社名となったとのこと。

        
         神社前で集落が終わるため引き返す。

        
         下柚木下バス停で待つこと約20分、16時2分の柚野活性化センター行きバスに乗車
        して出発地に戻る。下柚木下バス停からは3.5㎞の距離である。

        
         公共交通機関の便数は少ないが、旧阿東町徳佐へのバス路線があるため、生活圏は旧徳
        地町内でなく隣の旧阿東町徳佐のようである。
 


津和野町の畑迫は山間に堀庭園と病院跡

2020年11月17日 | 島根県

        
                   この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         畑迫(はたがさこ)は西方山口県境山地から東流する白石川、西谷川の本流津和野川との合
        流地点付近にあり、笹ヶ谷鉱山の鉱床に富む須郷田山が北から迫っている。
         地名については、銅が湧いて出て人家多く稼ぎがあり、家の四辺が畑地になったことに
        よるという。江戸期から1955(昭和30)年までの畑迫村(一時喜時雨村となる)として村
        立していた。(歩行約1㎞)

        
         JR新山口駅9時13分の列車に乗車すると、JR津和野駅から津和野町営バスに連結
        し堀庭園バス停11時46分に下車できる。

        
         津和野の町中から山間に向けて約25分。バス停前に石見銀山で繁栄した堀家の主屋と
        長屋蔵が見える。

        
         堀家は鎌倉期の1282(弘安5)年吉見頼行が能登から木部に入部した際、頼行に従って
        当地に移住する。吉見氏は殖産を奨励し、特に銅の採削においては、堀氏を山口の長登銅
        山に派遣し、後に畑迫の山ノ内、木部の石ヶ谷、笹ヶ谷の3ヶ所で採掘を始めたとされる。
        (堀庭園案内図)

        
         受付と駐車場に挟まれた地が御米蔵跡。

        
         受付は邸内でなく道路を挟んだ反対側にある。(入場料500円)

        
         吉見氏の萩への撤退後は萩へ赴いたが、帰国して畑ヶ迫村に居住する。江戸期には天領
        だった当地は、大森代官による管理下に置かれ、堀家は代々銅山年寄役を務める差配家と
        なった。

        
         表門を潜ると正面に主屋の玄関。

        
         1733(享保18)年1月8日火災に遭い、建物および当家の記録を焼失する。1785
          (天明5)年に建築された木造2階建ては、入母屋造りの石州赤瓦葺きである。
         玄関が2つあって左手の式台がある玄関は、身分の高い来客を迎い入れるために設けら
        れた。

        
         玄関から座敷に上がると電話室があり、その奥に主室がある。

        
         8畳2間で構成されている主室。

        
         1875(明治8)年第15代藤十郎(礼造)が家督相続を受けて、鉱山経営は笹ヶ谷を主採
        掘場とし、石見、出雲、摂津、因幡、山口の長登など数十ヶ所の銅山を経営し、盛況を呈
        した。(囲炉裏の間と台所)

        
         1920(大正9)年鉱山経営は堀鉱業㈱に引き継がれ、日清・日露戦争後は笹ヶ谷と石ヶ
        谷を残して売却し、1928(昭和3)年に解散する。笹ヶ谷鉱山も日本鉱業㈱に営業委託し
        たが、1949(昭和24)年廃山となった。(2階の間より表門)

        
         主屋から楽山荘の門を潜る。

        
         1900(明治33)年に建てられた客殿の「楽山荘」は、木造瓦葺二階建ての数寄屋建築
        である。「楽山」の名は造営した堀藤十郎(礼造)の号によるとされる。(玄関前)

        
         楽山荘庭園は背面の岩山を背景とし、その一部を削って滝や平場に池泉回遊式庭園を設
        け、園内を散策できようになっている。滝の水源は、裏山の廃坑となった旧山ノ内鉱山の
        坑道から引き込まれている。

        
         玄関は式台を備えた格式高い造りとなっている。

        
         1階の主座敷は庭園に面した8畳の座敷で、床柱や付書院などに数寄屋風の意匠が見ら
        れる。

        
         池泉には六角雪見灯籠と立石で岩島が設けてある。

        
         階段を上がると、この空間から四季折々の色が楽しめそうだ。

        
        
         各階とも庭園に面した東面に濡れ縁・広縁が設けてある。

        
         2階の主座敷は琵琶床(床の間の脇半分が高く琵琶を飾ったことに由来)を備えた書院造
        りとなっている。

        
         和楽園側から見る楽山荘。

        
        
         1915(大正4)年に作庭された「和楽園」は、楽山荘の2階座敷の縁先に展開するよう
        に設けられている。

        
         県道17号からの堀家。

        
         緑橋の脇にひっそりと建つ観音堂は、毎年秋祭りも行われていたようだが詳細不明とさ
        れる。

        
         中堀家。

        
         地域の児童のため堀家が私費を投じて建てた旧畑迫小学校跡地。今は空地となっている
        が、かっては4間×10間の木造2階建ての校舎が建っていたとのこと。
         周辺には映画館などもあって、町の中心部まで出かけなくても日常生活が可能だったほ
        ど栄えていたという。

        
         和堀家。

        
         和堀家と並ぶ家も堀家と関係筋と思われる。

        
         新堀家は堀家の分家で、入口の坂と石組みを残して、屋敷は山口県山陽小野田市にある
        洞玄寺の庫裏として移築されたといわれている。

        
         学校の校舎を思わせる旧畑迫病院の建物。右側が診療棟、左側が病棟の造りとなってい
        
る。

        
         堀藤十郎(礼造)は銅山経営の傍ら、1892(明治25)年巨費を投じて畑迫病院を創設す
        る。1917(大正6)年には莫大な費用を投じ手術室や病室などを増築、いち早くレントゲ
        ンなども取り入れている。官立の病院はともかく当時の私立病院で、このような先進的な
        治療器具や薬品などを取り入れていた稀にみる施設であった。(左側玄関が診察用)
         白石川に架かる病院橋付近が、天領と津和野藩領との境だったされる。

        
         1931(昭和6)年以降は鉱山業が不振で堀家が経営権を手放したが、1984(昭和59)
        年まで医院、診療所と名称を変えながら地域の医療を支えた。(見学はこちらの入口)

        
        
         病棟廊下と病室は畳敷きベッド。

        
         島根県内でもいち早くキング型第2号レントゲン装置が導入された。

        
         昭和初期の様子が再現された診察室。

        
         手術室や外科室、検査室、薬局などもあった。

        
         随所に洋風建築の要素が取り入れられ、大正時代の風情を呼び起こす優れた建物である。

        
         白石川の両側は石積みで、所々に川に下る階段がある。これは汲み地と呼ばれ炊事や洗
        
濯に利用された。

        
         庭園バス停から旧畑迫病院までぶらぶら歩きにちょうどよい。(掘庭園前バス停15時
        14分)
 


山口市宮野下は雪舟四大庭園の1つがある地

2020年11月14日 | 山口県山口市

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         宮野下は現山口市街の北方に位置し、三面を山に囲まれ、その中を椹野川、国道9号と
        JR山口線が走り、旧石州街道もその間を縫うように現存する。
         地名の由来について、仁壁神社前に開けた地という説がある。(歩行約6.
5㎞)

        
         1917(大正6)年に開業したJR宮野駅は、島式ホーム1面2線でホームへは構内踏切
        で連絡している。列車交換が可能なことや近くに県立大学があるので当駅までは便数が多
        いが、この先津和野方面への列車は極端に少なくなる。
         木造の無人駅舎は「地域交流ステーション宮野」として、地域交流の場として活用され
        ている。(🚻あり)

        
         宮野駅新設を記念して植栽されたイブキは見上げるように大きく生長している。駅から
        約90mで旧国道に出る。

        
         旧国道を横断して県立大学に向かう途中に旧寺内文庫がある。文庫は元帥で総理大臣を
        務めた寺内正毅の遺志を継いで、1921(大正10)年に子・寺内寿一が郷里の邸内一部に
        建設した私文庫である。

        
         鉄筋コンクリート造2階建ての建物には、正毅が朝鮮総督時代に集めた古文書などが一
        般に公開された。1850(昭和25)年隣接する女子短大図書館(現県立大学)となり、19
        78(昭和53)年新図書館が完成すると移管され、建物はクラブの部室に使用されたが、現
        在は空家である。(正面が玄関とホールで右側に閲覧室、左手の奥まったところが書庫)

        
         大小の立方体を組み合わせた独自な構成となっており、外部腰壁はタイル貼り、外壁は
        モルタル仕上げとなっている。右側の2階建て部分は事務室と研究室であった。

        
         引き返して交差点を右折して道なりに進むと、油川に架かる西桜畠橋に出る。

        
         付近は新興住宅地で、近くに県立大学があるためかアパートも多く見かける。

        
        
         国道9号手前右手に石風呂観音堂がある。宮野地区に残る唯一の石風呂だそうで、19
        
75(昭和50)年浄財を集めて石風呂の上に観音様を祀り、「願かけ石風呂観音」として崇
        敬されている。その上の宝篋印塔は寛政年間(1789-1801)建立といわれる。

        
         地下道を利用して国道を津和野方面へ進むと、左手に墓地を示す標柱がある。

        
         寺内正毅は市内の平川で生まれ、寺内家の養子となり、幕末維新の戦役に従軍して軍人
        として身をたてる。1902(明治35)年陸軍大臣に就任し、その後、陸軍大将、最初の朝
        
鮮総督を歴任し、1916(大正5)年内閣総理大臣になる。1918(大正7)年に辞職し、翌
        年の11月67歳で病没する。郷里の宮野に子・寿一と共に眠る。

        
         陸上自衛隊訓練場とこんもりした森が仁壁神社。

        
         国道から常栄寺まではの上り坂。

        
         二蕉庵紫香(にしようあんしこう・本名は鎌田三伯)は幕臣として江戸に生まれ漢方医であった
        というが、その履歴は明らかでない。山口に来住したのは日露戦争の頃で、近隣の青年男
        女に漢籍や俳句を教えたとされる。1919(大正8)年近くの寓居で没した。享年80歳。
         “もみじして 落葉して 呵々 朽ば哉”の辞世句碑は、門人一同により建立された。

        
         常栄寺(臨済宗)は、室町期の1563(永禄6)年に没した毛
利元就の長男・隆元の菩提を
        弔うため、安芸吉田の郡山城内に創建された。毛利氏の防長移封に伴い寺も山口に移転、
        上宇野令にあった国清寺を常栄寺とする。
         1863(文久3)年萩から山口に藩庁が移された時に、伽藍のみ洞春寺に譲り、潮音寺と
        改め現在地に移った。当地には妙喜寺という寺があり、毛利氏の時代に
妙寿寺と改名して
        毛利隆元夫人の菩提寺となっていた。1888(明治21)年に寺号を元の常栄寺に復した。

        
         山門を潜ると前庭「無隠」は、2012(平成24)年に作庭されたもので、名前の由来は
               
室号の「無隠窟」から名付けられたとか。建物は左から地蔵堂、本堂、鐘楼門。

        
         南溟庭(なんめいてい)は古典造園の大家・重森三玲が作庭。テーマは雪舟が入明し、帰国
        するまでに往復した海をイメージしたとされる。

        
         大内政弘が別邸として建てたもので、庭は雪舟に命じて築庭させたといわれている。室
        町期の1455(康正元)年大内政弘が母の菩提を弔うために別邸を寺とし「妙喜寺」とした。

        
         庭園は、東・北・西の三方を林地で囲んだ小谷地に築造され、東北の隅に竜門之滝を懸
        け、その前に広い心字池を設け、池には鶴島、亀島が浮かぶ。

        
         本堂から庭を挟んで直線的な位置に墓がある。

        
         幕末維新から第二次大戦まで山口県出身52,000名もの尊い命が失われたとされる。
        (山口県護国神社)

        
         仁壁神社の社伝によると、かって社は今の地より20余町(約2.2㎞)東北にあったとさ
        れ、平安期の1104(長治元)年現在地に遷座したという。
         地元では周防三の宮と呼ばれているが、室町期の1494(明応3)年大内義興が周防国5
        社に戦勝報告した際、3番目に詣でた故事によるとされる。

        
         山口線を横断して下恋路橋を渡ると、椹野川の袂に頌徳碑と石仏1体がある。碑文を読
        み取ることはできないが“妙喜寺32世‥”とあり。

        
         国道262号の函渠を潜る。

        
         国道に沿うとアメリカフウ(モミジバフウ)の紅葉が楽しめる。

        
         清水寺(せいすいじ)は宮野恋路の南、山の中腹標高130mほどの地にある。寺伝によれ
        ば平安期の806(大同元)年創建で、もとは天台宗であったが、室町期に大内政弘が真言宗
        に改めたという。
         仁王門には右に阿形、左に吽形の金剛力士(仁王)像が寺門の入口を守っている。南北朝
        期の作とされ、高さ約190㎝の榧材一本造りで・眼には玉眼があり、髪は蔓で結び、金
        剛杵を振り上げた忿怒の相を示している。

        
         石段の途中左手に庫裏と思われる建物があるが無住のようである。

        
         鐘楼と石段。

        
         大内氏の時代に中国・明の詩人趙秩が山口に来訪し、山口の名勝10ヶ所を選んで詩を
        詠んでいる。そのうちの1ヶ所が「清水の晩鐘」と題されたもので、漢文のため書下ろし
        文が添えられている。
         「暮の雲 雨まばらに 魂を消さんと欲す 独り西風に立てば 半ば門を掩(おお)さす 
        大内の峰頭 清水寺 鐘声、客を驚かすこと 黄昏幾し」

        
         かっては大伽藍であったとされる清水寺も、現在は訪れる人もまれで、紅葉に包まれて
        静かな佇まいをみせる。

        
         観音堂は千手観音菩薩の本尊を安置する建物で、茅葺きであったものを鉄板で覆ってい
        る。現在の堂は室町期の1493(明応2)年大内義興が建立。江戸期には度々修復され、建
        立された当時は9間四方の禅宗様式の大伽藍であったが、修復の際に5間四方に縮小され
        た。

        
        
         境内にある清水寺の鎮守・山王社の社殿は、南北朝期の1374(文中3)年に創建された。
        全体は覆殿の中にあり、浜床構えで小さく形の整った社殿である。

        
         寺から引き返し、函渠前を右折して田園風景を楽しみながら北上すると、左前方に足王
        神社内の五重の石塔が見えてくる。

        
         田んぼの中にある神社で、江戸期までこの地に洞泉院という寺があったと伝える。その
        ためか境内には天穂11年(1840)建立の五重の石塔や地蔵尊(1761)がある。足王様は足の
        病気にご利益があるとされ、小さなわらじを持参してお供えするとか。 

        
        
         山口市の定番である七夕ちょうちんがデザインされたものと、仁保地域にみられたパラ
        ボラアンテナがデザインされたマンホールが混在する。

        
         足王神社から西進し県営住宅群、椹野川に架かる中恋路橋を渡ると、前方に山口線が見
        
えてくる。

        
         線路を潜って右折すると駅に戻ることができる。   


山口市阿東の地福は旧石州街道沿いと伝統行事トイトイ 

2020年11月03日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         地福(じふく)は東西を山に囲まれ、中央を阿武川が南西に流れる川沿いの盆地に立地し、
                川に沿って国道9号、山口線、旧石州街道が並行する。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、「往古、開立之時分、御並広キ里ニ相成場所ニ付、
        地福と名付たる由」とある。(歩行約5㎞) 

        
        
         JR地福駅は、1918(大正7)年山口線の三谷駅~徳佐駅間の延伸により開業する。島
        式ホーム1面2線を持つ無人駅で、特急列車は停車しないがSLやまぐち号は下りのみ停
        車する。

        
         往路は新山口駅9時13分山口駅行きに乗車、ここで益田行きに乗り換えると地福には
        10時46分に下車することができる。駅前に出ると静かな駅通りである。

        
         大きな建物には地福農協第1倉庫と記され、米倉庫のようだが使用されているか否か定
        かでない。(現在はJA山口県地福支所倉庫) 

        
         JR山口線踏切を横断。

        
         熊ヶ瀬川に架かる橋を渡ると地福市集落。(右手は市阿東地域交流センター地福分館)

        
         分館前にそびえ立つ高さ25mを超える2本のモミの木は、クリスマス時期には約4万
        個で電飾されたツリーに変わるとのこと。

        
        
         その先右手に桂光院(曹洞宗)の参道入口があり、傍には「氏原大作先生墓所入口」と刻
        字された標柱がある。
         氏原大作(本名、原阜(はらとおる))は、小学校高等科卒だが見込まれて17歳で代用教員
        となる。1938(昭和13)年戦地から応募した主婦之友社募集の懸賞小説「幼き者の旗」
        が、1等に入選して一躍有名となった。1997(平成9)年に選定された「山口県ゆかりの
        ふるさと文学者13人」の中の一人でもある。

        
         桂光院はもと茲音寺(真言宗)と称したが、1714(正徳4)年給領主の佐世広長が夫人追
        善のため再建し、現寺号に改称する。(参道にはツワブキの花) 

        
         山門右手に笠付き、高さ120㎝、横43㎝、塔身正面に仏像を浮彫した廻国塔がある。
        刻銘「奉納大乗妙典六十六部供養塔 寛政十一未歳四月吉日 願主村上源六」(1799年)。
         もとは街道の地福市の三差路(田中家前)にあったが、道路拡張にともない桂光院前に移
        設された。

        
         寺の裏手が旧石州街道。

        
         地下上申絵図では地福八幡宮前に一里塚が描かれているが痕跡はない。

        
         地福八幡宮参道脇に寄り添うように並立する大小の2つの自然石がある。地域では「も
        もか様」「ももこ様」と呼ぶ。子宝祈願、安産祈願、幼児の安全成長を願って参詣者もあ
        るという。生誕百日の「百日詣り」(ももかまいり)に八幡宮とともに「ももか様」に詣りする
        風習があるという。

        
         地福八幡宮は、室町期の1510(永正7)年宇佐八幡より勧請され、1702(元禄15)
        現在地に遷座する。

        
         拝殿には百人一首や神功皇后など多数の絵馬がある。

        
         道路拡張により街道の面影は残っていない。 

        
         地福市はゆるやかな勾配を保つ集落で、旧地福村の中心だったところであり、かっては
        道筋に沿って商家が並んでいたとされる。

        
         地福カトリック教会の地に隠れ切支丹墓標がある。案内によると、1604(慶長9)年頃
        毛利氏のキリシタン迫害が激しくなり、山口の信者2千人が宮野から峠を越えて萩市紫福
        (しぶき)に逃れた。一部は峠越えをして徳佐、地福、嘉年に入って潜伏した。
         墓は紫福の鍋山から産出された石材で作られ、紫福に残されている墓と同形式であるこ
        とから、潜伏後も連絡・交流があったと思われるが史料は残されていないという。
         
         
         町内に数十基散在しているものの1つで、隣の原医院前の「村市屋」(ビリオン神父の
        萩、津和野往復の常宿)裏の荒地にあったものとされる。

        
         時代の流れと共に商家を営む家も少なくなり、家も新しくなって古い軒を連ねる光景は
        見られない。

        
        
         時代の流れの中にあって、阿川家は古い屋敷を残す旧家である。1756(宝暦6)年藩主
        毛利重就が生雲・徳佐行きの際に昼休みをとったという。
         古老に聞くと「阿川医院」であったが、いつ頃に廃業されたかは記憶にないとのこと。

        
         高齢化世帯が増加する中、2010(平成22)年に地区内唯一のスーパーが撤退。日常生
        活に必要なサービスを確保するため、地域づくり協議会が中心となって地区内に開設支援
        金を募って、2012(平成24)年に地域の交流拠点としてミニスーパー「ほほえみの郷ト
        イトイ」がオープンした。今では阿東地域各所に移動販売も行われている。

        
         トイトイとは、五穀豊穣や家内安全を願う行事で、2012(平成24)年に国の重要無形
        民俗文化財に指定された。
         子ども達が主役の行事で、毎年1月14日の夜に行われている。わらで作っておいた馬
        をかごに入れて各家庭の玄関先に置き「トイトーイ」と叫び、物陰に隠れて家の人が出て
        来るのを待つ。家の人は馬を貰ったお礼に、かごにお菓子などを入れて家の中に入るとい
        う民俗行事である。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、地福上村・地福下村の区域をもって地福村が発
        足する。1955(昭和30)年まで村立し、山手側に村役場があったとされるが、場所を特
        定することができなかった。

        
         この付近の石州街道は、山裾を通っていたようだが廃道化したようだ。

        
         平入り二階建ての商家。

        
         さくら小学校の法面は石垣で積み上げられている。2000(平成12)年町内にあった篠
        目、三谷、地福の3小学校を統合し、さくら小学校が開校する。

        
         小学校の裏手が街道筋とされる。

        
         小学校グランド上に高さ58㎝、幅31㎝の野面石があるが、微かに「猿田彦大神」と
        読める。

        
         左手に銘「忠魂碑」「陸軍大将男爵陸軍大将田中義一」とあり。

        
         学校裏を巡ると歩いて来た県道に合わす。

        
         歩いた道を引き返しトイトイで昼食を買い求め、交番のあるT字路を右折して農協倉庫
        脇から線路に沿って駅に戻る。

        
         わずか2時間ほどの滞在だったが、JR地福駅12時31分の山口駅行き列車に乗車す
        る。乗り遅れた場合、国道9号用路バス停13時04分の防長バス東萩駅バスに乗車し、
        三谷駅入口バス停で湯田温泉行きに乗り換えることも用意していたが、スムーズな便で戻
        ることができた。