ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

三角西港は殖産興業の港町 (宇城市)

2018年11月19日 | 熊本県

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         三角西港は熊本県中央部より突き出た宇土半島の西端に位置する。三角の瀬戸を挟んで
        大矢野島が横たわり、背後には三角岳が海にせり出しているため平地は少ない。西港のあ
        る三角浦は富岡街道の宿場町でもあった。(歩行約1.3㎞)

           
         三角西港は明治政府の殖産興業の政策に基づいて築港され、1887(明治20)年に開港
        する。福井県・九頭竜川河口の「三国港突堤」と宮城県「野蒜築港」とともに明治三大築
        港とされる。石積みの埠頭や水路・橋など当時の施設が、ほぼ原形のまま残っている全国
        唯一の港湾史跡でもある。 

           
         当時熊本に住んでいた小泉八雲は、長崎旅行の帰りに船で当地を訪れ、浦島屋に立ち寄
        り、「夏の日の夢」と題した紀行文にその当時の様子を書いている。

           
         コロニアル風の洋風建築であったが、港の衰退と共に廃業し、1905(明治38)年に解
        体されて中国の大連に運ばれた。現在の建物は写真を元に復元されたものである。

           
           
         龍驤館は、1918(大正7)年に明治天皇の即位50周年を記念して、宇土郡教育会が建
        てた木造平屋建ての洋館である。

           
         1877(明治10)年に西南の役で荒廃した熊本を復興させるため、富岡敬明県令(県知事)
        が予算化して国庫補助を求めた。その後、国の直轄事業となる。(像は富岡県令)

           
         市街地全域に側溝を設置し、側溝から流れた雨水は、排水路に落ちて海へ注ぐように設
        計することで、市街地を水害から守っている。

           
         高さ6.3m、延長756mの石積みの埠頭壁は、オランダ人水理工師であるローエン
        ホルスト・ムルドルの設計と、天草の熟練した石工たちによって築かれた。

           
         東西2ヶ所に石積み排水路が設けられている。

           
         現在、4つの石橋が残されているが、この三之橋は列柱を模した桁石と、1枚岩の欄干
        が意匠上の特徴となっている。(説明板より)

           
         潮の干満を利用して水路内が自然に浄化されるよう、勾配が工夫され、底にも石が敷き詰
        められている。

           
         土蔵造りの旧三角海運倉庫(1887年築)が1棟残されているが、かっては20棟以上
        の荷役倉庫が建ち並んでいたとのこと。米・麦や石炭、硫黄などが関西や大陸方面に出荷
        され、県外や大陸からは鉱石・木材などが輸入された。

           
         アコウの木はクワの仲間で、一斉に落葉した後に、すぐに新芽を出す傾向があるとのこ
        と。この時期に果実が見られる。

           
         対岸の大矢野島には、2018(平成30)年5月に開通した新天草1号橋の「天城橋」が、
        大きなアーチを描いている。(天草1号橋・天門橋も併設)
         1966(昭和41)年9月に天草諸島を結ぶ5つの橋で構成された天草パールラインが開
        通した。

           
         洋風の物産館・ムルドルハウスは、三角西港の設計、築港をしたオランダ人技師ムルド
        ルの名前にちなんでつけられたとか。

           
         4隻の汽船で旅客・貨物輸送の取り次ぎをしていた旧高田回漕店が、1887(明治20)
        年代に建てた回漕問屋の建物である
。大正時代に三角東港ができるまで旅客・貨物輸送で
        大いに賑わった築港当時の面影を色濃く残す建物である。

           
         わずかしかない用地を効率的に使うために、建物は瓦葺き2階建てでなければ許可され
        なかったそうだ。

           
         1階に6部屋、2階も6部屋、後ろに水屋があり、1階は事務室、2階は宿舎になって
        いた。

           
         三角西港の案内塔。

           
         中之橋。

           
         三角西港が三池炭鉱の石炭積み出し港として活況を呈していたが、三池港の築港などで
        積出港としての価値は薄れていった。
         1899(明治32)年に鉄道の敷設が行われたが、西港までは延長されなかった。現在の
        三角駅が開業すると、三角東港が設置され西港は衰退していった。

           
         市街地を囲むように後方水路(環濠)が設けられている。

           
         延長813mに及ぶ石造りの排水路は、地形を考慮して直線ではなく曲線を描いている。
        さらに中間部で2本の排水路につなげるなど、山や市街地からの水や土砂を効率的に海へ
        流す工夫もされている。

           
         市街地を貫く東排水路。

           
           
         1890(明治23)年に開庁した旧三角簡易裁判所は、初め三角西港の中町に設置されて
        いたが、1920(大正9)年に現在地へ移転新築された。

           
         寄棟造り桟瓦葺きの木造平屋建て建物と、奥に煉瓦造の記録倉庫が現存する。

           
         1992(平成4)年まで現役の裁判所として使用されたが、現在は「法の館」として、法
        廷の仕組みを紹介する施設になっている。(子供法廷室)

           
         当時の法廷がそのまま現存する。

           
         高台から港を一望することができるが、築港にあたって300人の囚人を労働力として
        従事させ、そのうち69人が犠牲になるなど悲しい出来事も存在する。

           
         宇土郡役所は、1900(明治33)年に宇土町から三角西港へ移され、1902(明治
        35
)年には擬洋風庁舎が建設される。2014(平成26)年3月までは、全国で唯一の自治
        体が経営する海技学院として使用されていた。

           
         中央にスティックスタイルの車寄を付け、屋根にドーマー窓を載せている。

           
           
         内部は真っ白な漆喰の壁、アーチ型の仕切り、凝った照明具など、明治の西洋風建築の
        雰囲気をとどめている。

              
         寄棟造,桟瓦葺,木造平屋建の洋風庁舎で、モルタル塗外壁に目地を切って石造風にみ
        せている。半円形アーチのついた縦長の窓は上下に開閉する仕組みとなっている。 


           
         三池炭鉱の石炭積み出し港として「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産1つとされ、
        2015(平成27)年に世界遺産に登録される。
      


富岡は天草の城下町 (苓北町)

2018年11月18日 | 熊本県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         富岡は古くには袋(福路)とも呼ばれ、留岡とも称した。天草下島の北西端に突き出た志
        岐崎半島に位置する。半島の東から曲崎砂嘴が南東に延び、天然の良港となっている。唐
        津藩主・
寺沢広高が当地に城を築いていた時に富岡と改めたとされる。(歩行約3㎞)

           
         ほぼ四方を海に囲まれた城山の上には、1601(慶長6)年に築城された富岡城があり、
        戸田氏の私領時代に城が壊されたものの、以降の明治まで天領天草の行政の中心として、
        三の丸に代官所が置かれた。

           
         唐津藩主・広沢広高は関ヶ原の戦いの戦功により、幕府から飛び地領土として、天草の
        地を賜わる。そこで、唐津から最も近く、船の発着にも便利な袋(富岡)に築城する。

           
         駐車場付近から二ノ丸の石垣と本丸を望む。本丸方向へ進めば西虎口。

           
           
         出丸から二ノ丸へ上がると4人の像が建つ。左手にはこの地を訪れた勝海舟と頼山陽。
        右手に「天草・島原の乱」後の天草復興に尽力した鈴木重成、その補佐をした実兄の鈴木
        正三(しょうさん)(和尚)が苓北の町と天草を見渡すように立てられている。

           
         1637(寛永14)年に島原・天草の乱で、城は一揆勢に包囲されて大破するが、幕府か
        ら天草の地を与えられた山崎家治は、城郭の修築に着手する。1641(寛永18)年に修築
        は終わったが、同時に家治も転封となる。

           
         幕府の天領となり代官・鈴木重成が任じられ、城詰警備は熊本藩が担う。

           
         1627(寛永4)年に天草は私領となり、大坂城の石垣修復を担当した戸田忠昌が入城し
        たが、1633(寛永10)年、戸田は幕府に対し、天草は永久に幕府領であるべき地として
        建議する。
         三の丸を残して本丸、二ノ丸を破却する。いわゆる「戸田の破城」と云われたが、城の
        維持修復のための郡民の過重な負担を解消する方策がとられた。

           
         本丸虎口

           
         1634(寛永11)年に再び幕府領となり、以後は三ノ丸に陣屋が置かれ、天草支配の拠
        点となった。

           
         本丸から東虎口、稲荷神社、二の丸櫓へと連なる。

           
         天草灘に突き出た陸繋島の砂州上に富岡の町並み。

           
         西虎口から下城する。

           
         パゼーの「日本耶蘇教史」には、1614(慶長19)年の項に、「フクロ村の基督教徒ア
        ダム荒川を迫害し、6月5日に首を刎ねたり」とある。

           
         「五足の靴」は与謝野鉄幹が北原白秋、吉井勇ら学生4人を連れて九州西部を旅した紀
        行文の題名で、1907(明治40)年に発表された。富岡港に上陸し、大江教会のフランス
        人宣教師ガルニエ神父に会うため、32㎞の行程を徒歩で移動する。

           
         頼山陽は長崎から茂木を経て富岡に入る。その時の旅籠「泉屋(岡部家)」の屋敷跡で、
        家屋は1830(天保元)年の富岡大火で焼失したとのこと。

           
         古い町家は残っていないが、当時のままの石垣塀が大神宮と民家の間にある。

           
         城下町からの攻撃に備えて、町内に堀切を設けて、新たな大手門の石垣が構
築された。

           
         大手門から城に向かう目抜き通り。

                
         城下町はその後、港町として発展したが、町割りとわずかに残された町家に往時の面影
        が見られる程度である。


           
         富岡での一夜をテーマに「天草灘」 を記した林芙美子。文学碑には「旅に寝てのびのび
       と見る枕かな」という句が刻まれている。


崎津に天主堂とチャペルの鐘展望公園 (天草市)

2018年11月18日 | 熊本県

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         河浦は天草下島の南部に位置する。
         
           

         河内浦には我国唯一の宣教師養成のためのコレジョ(神学校)が、1591(天正19)年か
        ら7年間存在した。この中に遣欧使節の4人の少年達も入校し
ている。

           
         河内浦城の築城年代は定かではないが、天草氏によって築城されたと伝わる。

           
         天草の乱後、徳川幕府は城跡にキリスト教弾圧を目的として崇円寺を建てた。

           
         
           
         崎津は天草下島の河浦町南部に位置し、東シナ海に面した羊角湾の入口にある小さな漁
        村である。

         この集落のシンボル的存在である崎津天主堂は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関
        連遺産」として、2018(平成30)年6月に世界遺産となった。
(歩行約4㎞)

           
         公共交通機関による移動には長時間を要するので、車で崎津集落と周辺を散策する。世
        界遺産になったことで交通規制されて集落に入ることができず、道
の駅崎津へ誘導されて
        しまう。


           
         ルイス・フロイド「日本史」によると、天草氏はルイス・フロイド・アルメルダを領内
        に招き、キリシタン伝導を許すとともに、ポルトガル船の寄港を希
望し、寄港の予定地と
        して崎津の港を案内している。


          
         崎津バイパスの交差点からサンセットラインに入ると、左手に教会の尖塔がそびえ立つ。
        まさに「海の天主堂」である。


           
         交通規制されているため静かな通りとなっている。

           
         羊角湾の奥深い封鎖的な崎津では、天草・島原の乱後のキリスタン弾圧下にあっても密
        かに信仰が続けられた。1805(文化2)年に大江・高浜・今富の
4ヶ村を合わせて5千人
        余の隠れキリシタンが発覚したが、幕府は処分を穏便
に取り計らった。

           
         家と家の間にはトウヤと呼ばれる細い路地があり、表通りから海岸へ抜けられる。

           
         諏訪神社前で左折する。

           
         教会と神社を繋ぐ通り。

           
         吉村家は大正期に建てられた木賃宿。当時は漁業や木炭の交易拠点として栄え、教会と
        諏訪神社を繋ぐ道沿いには、多くの旅館や木賃宿が建てられたとの
こと。(説明板より)

           
         崎津天主堂の歴史は古く、最初のお堂は室町期の1569(永禄12)年に竣工。以来、
        草におけるキリスト教の布教拠点となった。

         江戸時代に禁教令が出されると取り壊されたが、信者は潜伏キリシタンとなって信仰を
        受け継ぎ、明治期に信教の自由が認められると教会堂が建てられる。

         現在の建物は1934(昭和9)年に再建されたもので、九州に多くの教会を残した鉄川与
        助の設計によるとのこと。


           
         天主堂はハルブ神父の強い希望で、弾圧の象徴である絵踏みが行われた吉田庄屋役宅跡
        が選ばれた。絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置された
といわれている。

               
         教会は、尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式で、その堂内は畳敷きになって
        いる。


           
         白い部分が木造で入り口部分は鉄筋コンクリート造だそうだ。

           
         この付近で路地から見える教会も見納めとなる。

           
           
         海に向かって佇むマリア像は、漁船の運航安全と豊漁を願って、1974(昭和49)年に
        建立される。天草夕陽八景の1つにもなっている。


           
         崎津諏訪神社は、1805(文化2)年に潜伏キリシタンが発覚する「天草崩れ」の舞台と
        なった神社。代官所の役人は、異仏取り調べるため、信心具を境
内に設置した箱に捨てる
        よう指示したとされる。階段の左手には、ハルブ神父
の墓、旧崎津教会跡がある。

           
         神社から見る教会。

           
         約500段の階段を上がると、集落に溶け込むように教会が建つ。(チャペルの鐘展望
        公園より)


           
         対岸から見る天主堂。

           
         大江天主堂はキリスト教解禁後、天草で最も早く建てられた教会。現在の教会は、193
        
(昭和8)年フランス人宣教師ガルニエ神父らによって建てられた。

           
         ロマネスク様式の聖堂は、白亜の外観が美しい。


錦見・川西に岩国城下と宇野千代生家 (岩国市)

2018年11月10日 | 山口県岩国市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         錦見(にしみ)は錦川下流の左岸、岩国山の南麓に位置する。当地はかって大半
が入江で
        あったが、徐々に沖積扇状地として発達してきた。関ヶ原の戦い後、吉川氏が岩国に移封
        されると城下町建設のため、錦川の川筋を西方に大きく迂回させて旧川床や洲を埋め立て、
        町地、屋敷地として造成する。
         川西は錦川西岸の地で、中央を岩国竪ヶ浜往還と呼ばれる山陽道の脇道が通る。
(歩行約
        5㎞)

           
         西岩国駅は、1929(昭和4)年4月5日に岩国駅(現西岩国駅)として開業する。19
        34(昭和9)年に岩徳線が全通すると同時に、岩徳線が山陽本線となるが、その頃が当駅の
        全盛時代であった。

           
         駅舎は寄棟造りの平屋建てに朱色の瓦葺き。外壁は装飾を施した白モルタル仕上げとな
        っている。

           
         駅舎内部には待合室、事務室、休憩室があり、高い天井から吊り下げられたシャンデリ
        ア風の照明は大正ロマンが漂う。照明は当時のままで、ベンチは架け替えで解体された錦
        帯橋の廃材が利用されている。

           
         1042(昭和17)年に西岩国駅と改称し、1979(昭和54)年に駅舎は永久保存される
        ことになった。(国の登録有形文化財)


           
         駅舎の傍には木炭自動車が展示されているが、外観も車内も、使われていた当時と同じ
        造りで復元されたものである。

           
         錦川河口の今津(船着場)と旧本郷村を結ぶ約30㎞が岩国往来道で、その一部が錦見の
        中を通っていた。
         関ヶ原の戦い後、吉川広家が出雲国から岩国往来を通って岩国に来たとされる。

           
         1909(明治42)年に岩国―新町間を中国地方で最初の電車道が敷設された。この新
        小路町には停留所が設けられたが、岩徳線の部分開通により、1929(昭和4)年に廃止
        されて、旧電車道は自動車道に転換された。

           
         右手に西光寺の山門と鐘楼が見えてくる。

           
         1925(大正14)年に建てられた旧岩国税務署庁舎は、木造2階建ての左右が張り出す
        すネサンス様式である。後に、旧岩国労働基準監督署、現在は音楽教室として利用されて
        いる。

           
         岩国錬武道場は陸軍元帥・長谷川好道の邸宅跡に建ち、寄棟造桟瓦葺、妻入で正面中央
        に唐破風造の玄関を付けている。外部は下見板張とし、内部は演技場の東面に師範台、南
        面に観覧席と支度室を下屋で設ける。

           
         長谷川家から生誕地を当時の岩国町に寄付され、有志の寄付によって、1927(昭和2)
        年に記念道場が落成する。

           
         岩国学校校舎は、1872(明治5)年の学制発布に先がけて、1870(明治3)年12月
        に「錦見小学」として建てられた。
 

           
         1階が教室、2階が教員詰所で、3階の搭屋は、1872(明治5)年に増築され、寺の鐘
        を移して時を告げたとのこと。

           
         宇野千代も学んだ校舎に、現在は電気工学者の藤岡市助コーナーなどが設けられている。

           
         入口には藤岡市助が発明したアーク灯(複製)が設置されている。

           
         百十銀行は、1878(明治11)年11月に百十番目の国立銀行として設立され、191
        5(大正4)年岩国支店が塩町に開業する。1934(昭和9)年に現在地へ新築移転したが、そ
        の後、合併新立により山口銀行岩国支店を経て錦帯橋支店となる。

           
         箱型のポロポーション、直線的なパラペット、四角な窓と4本のイオニア式柱を中心に
        まとめられている。

           
         元祖岩国寿司と銘うった三原屋付近が新町で、電車道の終点となった場所である。岩国
        寿司の岩国寿司の由来は、岩国藩主に命じられて考案された保存食という説や、藩主への
        献上品といった説など諸説ある。
 

        
         細田写真館(写真場)は、昭和初期に建てられた木造2階建ての大規模な看板建築である。

           
         四差路に出ると右手に椎尾八幡宮の参道が見える。

           
         参道から錦見の町並み。

            
         錦見の北、岩国山麓の椎尾に鎮座する。1626(寛永3)年に城下町の氏神として勧請さ
        れる。

           
         川西からの道路を横断して錦帯橋へ向かう。

           
         通りには元武家屋敷であった割烹旅館・半月庵がある。宇野千代の小説「おはん」の舞
        台にもなった旅館である。

           
         通りの突き当りが錦帯橋。

         
         土手町筋に威風堂々とした木造3階建ての旅館「白為」がある。こ
の界隈は北の筋を本町
        と称し、北から玖珂町、柳井町、米屋町、塩町、南の筋は裏町で、材木町、魚町、豆腐町
        に分け、俗に錦見7町と称した。

           
         玖珂町は城請負時から玖珂千束の商人を呼び寄せて商売をさせた町である。
その中にあ
        る元鬢付油製造販売業「松金屋」の主屋は、1850(嘉永3)年頃の建築とされている。
        昭和初期頃に国安家の所有となり、現在は「本家・松がね」として観光交流の場になって
        いる。

           
         柳井町は柳井から商人を呼んで商売をさせた。
       
           
         当初は米を取り扱う人が多く、米屋町と呼ばれていたが、のちに鍛冶屋が集結したので
        鍛冶屋町となった。

           
         塔屋のある勉強堂さん。

           
         魚町に入ると、「うまもん」の表札が掛けられた町家がある。300年続いた醤油製造
        (千歳醤油)であったが、1958(昭和33)年に漬物製造販売を始められたとのこと。

           
         120年前に建てられた商家。

           
         土手町沿いにあった「うまもんレトロ館」(2016年12月末閉館)は、
五橋湯という
        銭湯だった建物を再利用されてきた。1930(昭和5)年建築で銭湯らしく入口が2つある。

           
         川西の渡り場跡とされる臥龍橋を渡り、交差点を左折すると、右手に福原越後殉難の遺
        跡と案内されている。

           
           
         清泰院は、1693(元禄6)年に吉川広嘉(ひろよし)の後室・天長院が、横山の寺谷口に
        創建する。川西には同院の末寺として竜護寺が創建されたが、1870(明治3)年に横山の
        清泰院は廃寺になった折、龍護寺に寺号に譲り、以後、天長山清泰寺と名乗る。

           
         1864(元治元)年の第1次長州征討に際し、禁門の変の責任を取る形で、3家老が自刃
        に追い込まれる。
         同年11月12日に徳山藩主の家系だった福原越後は、岩国の清泰院(当時龍護寺)で自
        刃する。境内には贈正四位福原越後君殉難碑がある。

           
         宇野千代の墓がある教蓮寺。
       
           
         1996(平成8)年6月10日、急性肺炎のため98歳の生涯を閉じる。戒名は謙恕院釈
        尼千瑛。宇野千代の墓は、この教蓮寺と東京都港区の梅窓院に分骨されている。

                  
         右手に遊び場所だったと思われる森神社がある。

           
         旧山陽道脇道(岩国堅ヶ浜往還)沿いに宇野千代生家がある。

           
         小説「おはん」などで知られる宇野千代の生家で、、1974(昭和49)年に本人の手に
        よって、昔の姿に修復された。

           
         生家にはモミジの木と、岐阜県根尾村にある「淡墨桜」の蘇生に努力し、その若木2本
        が庭に植えられている。

           
         縁側から100本余りのモミジが広がる庭園を眺めることができる。

           
         近くの川西駅(岩徳線)から岩国駅へ戻る。