ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市小郡の東津と元橋付近および石ヶ坪山

2023年05月28日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         この地域は椹野川流域に位置し、河岸段丘に立地する。小郡の地名の由来は、吉敷郡に
        属し、古くから交通の要地として小さくまとまっているところから、吉敷郡の中でも別に
        1つの郡をなすという意味で、小郡と呼ばれたという。(約8.4㎞・🚻東津橋と昭和橋の
        中間付近の車道)

        
         小郡駅は1900(明治33)年に開業し、山口線・宇部線の開通後は陰陽交通の拠点とし
        ての役割を果たしてきた。
         新幹線開通にともない、山口市は「新山口駅」にすべきとしたが、当時の小郡町民の反
        対もあって実現しなかった。2003(平成15)年10月小郡駅を新山口駅にするという条
        件で「のぞみ」が停車し、その2年後に小郡町は山口市と合併する。

        
         南口(新幹線口)から新幹線高架筋を東進する。

        
         椹野川からの用水がJR山陽本線下を流れるところに、長さ約40mのトンネルがある。 
        その一部の8mが、1900(明治33)年山陽鉄道が敷設された時に造られたもので、当時
        は単線だったことを示す赤煉瓦造で、現在もこの上を本線の上りが走る。

        
         用水路に沿って旧国道、新幹線高架下を潜り、突き当りの三叉路を右折すると椹野川土
        手に上がる。

        
              土手下に江戸期の萩藩米津出(こめつだし)倉庫跡。萩藩が小郡、山口、美祢の3宰判の年
        貢米を集めて保管し、大坂や萩などに送っていた。
         倉庫が建てられた時期は不明だが、1756(宝暦6)年には既にあったとされる。海岸線
        に近く大型船が入港できたが、その後、河口部の開作や洪水による土砂の堆積で使用困難
        となる。その1つが残されて地区の祭礼用倉庫として使用されている。

        
        
         明治前半の東津付近の絵図と、今の東津橋から見る米及び物貨輸出所付近。

             
         旧山陽道の時代には、東津橋が架かっている地点に「東津の渡し」があった。1649
        (慶安2)年の防長両国絵図によると、干潮時には徒歩で渡り、
満潮期には川幅が28間(5
        0.9m)、深さが2尺(6
0.6㎝)にもなるので、満潮時及び雨後の増水時には船を利用し
        たとある。
         1872(明治5)年に木橋が架けられ、以後何回か架け替えられたが、現在の橋は197
        9(昭和54)年に架橋される。(正面に石ヶ坪山)

        
         東津橋を渡って変則四差路を直進すると、左手の路傍に「一里塚」がある。萩藩の一里
        塚は石盛りで塚を作り、上に里程を記した塚木が立てられたようだが、
石ケ坪山の麓にあ
        ったとされるが正確な位置は不明とのこと。
         この碑は、1989(平成元)年地元教職員の有志が建立したものである。

        
         中央に「あめんぼの親子」、周囲にSL山口号がデザインされたマンホール蓋。

        
         ウオーキング中の方が、「石ヶ坪山は標高100mちょっとの山で、20分位で山頂に
        立てる。小郡や椹野川が見渡せて百谷(ももだに)へ下ることができ、巡拝路の先からはロー
        プが渡してあるので迷う心配はない」とのことで、悩んだが車道よりもいいかなと大聖院
        の長い石段を上がる。

        
         急傾斜地に佇む大聖院(真言宗)は、1917(大正6)年東津の有志数人が発起となって開
        山。当時は大師堂と称したが、1946(昭和21)年に寺号(じごう)を得る。

        
         境内は新幹線よりも高い位置にあり、寺への道は石段のみのようで、景色と足腰の鍛錬
        にはよいが、高齢者にとっては辛い石段かも‥。

        
        
         本堂左側に「新四国八十八ヶ所霊場」碑があり、ここから巡拝路に取り付く。樹林の中
        をジグザグに辿り32番で巡拝路と分かれ、登山道に入るとロープが張られた道になる。

        
         前方が明るくなると、はためくような音が聞こえてきたので見上げると、東津橋から見
        えていた鯉のぼりが泳いでいる。 

        
        
         南に椹野川河口、南西に新山口駅、西に小郡上郷一帯が見られるが、木が生長してぐる
        りと見渡すことはできない。

        
         山頂には種田山頭火の「分け入っても 分け入っても 青い山」の句碑や四等三角点の
        ほか、構築物があったようだが崩壊している。小休止した後、お会いした方の情報に従い、
        東に連なる尾根伝いを辿る。

        
        
         山頂から百谷への道に取り付くと、登山道にはロープが設置されて迷うことはない。小
        さなピークを越えて鞍部へ下って行くと、山頭火の句や火の用心の看板が設置されている。
         正面に「火の用心」の看板を見て左折すると、ロープのおかげで不安なく下山できる。

        
         百谷コースの登山口に出ると、車道を右折して百谷遺跡へ向かう。

               
        
         途中の左側に広場があるが、かってここに石鎚社のお堂があったという。車道に向かっ
        て大師像など3体が並んで鎮座するが、お堂がなくなってもお参りされる方があるようだ。
         広場奥は「東津総区の森」として整備されているようだ。

        
         百谷遺跡入口からは苔生した滑りやすい道となっている。入口先の右手にブルーのマー
        クがあるが、石鎚山奥の院への道のようだ。 

               
                 百谷窯は石鎚山の南西山麓斜面、標高約75mに構築された窯である。平安期(9~10
                世紀)の登り窯の1つとされ、須恵器という土器を焼いていた。当時は朝廷や身分の高い人
                たちが供膳用に使ったといわれている。 

               
                 窯体は両側の壁と奥壁を残して、天井部分は破壊を受けているが、焼成中に天井が落下
        して放置されたのか、後の代に地滑りによるものではと考えられている。

        
         引き返して元橋地区に出ると、左手の東津墓苑には童謡詩人の斎藤(家)正一の墓があり、
        その傍に斉藤正一の詩碑がある。
            ねんねよねんね おねんねよ
            おせどのしの竹 ゆれる夜は
            こひなは親の  羽根の中
         正一は山形県生まれ。朝鮮で教員をしていたが戦後小郡に移り住み、山口市教学課に勤
        める。若い頃から北原白秋らに交じって活躍していた童謡詩人である。

        
         三差路で「百谷遺跡 これより600m」を見て右折すると、家々は更新されたのか新
        しい家屋が並ぶ。

        
         妙湛寺の参道は深い緑の樹々に囲まれ、苔生した参道は趣もあって寺らしい雰囲気が味
        わえる。

        
         妙湛寺は臨済宗東福寺派で山口の常栄寺末寺で、大内氏の時代には大伽藍として多くの
        建物があったが藩政時代に衰退する。1892(明治25)年再興されて境内は緑の庭園とな
        っており、その閑静な佇まいに触れようと訪れる人が多いとか。

        
         境内の片隅にある豊久丸の墓は、大内盛見(もりはる)の時代、戦死した兄・義弘の長男で
        ある持世を世子とするため、盛見は相続争いのタネにならないよう、我が子・豊久丸を船
        遊びにかこつけて椹野川に突き落として水死させた。死体は流れて東津の対岸に上がり、
        ここに一宇を建立して霊を祀ったという。

        
         東津橋東詰にある六地蔵。

        
         東津橋西詰から椹野川沿いを北上すると、「椹野川修工碑」と左右に東津橋の名を刻ん
        だ親柱がある。
         相次ぐ洪水から住民を守るうえで椹野川の改修は永年の課題であった。大庄屋であった
        林勇蔵は流域10ヶ村とともに県当局に要請し、1881(明治14)年フランス人技師・モ
        ルトルの設計により1884(明治17)年に着工する。堆積土砂の浚渫、堤防、堰堤の改修
        工事を経て1896(明治29)年に完成する。
         中心的な役割を果たした林勇蔵が、1899(明治32)年9月に没したため、事業を後世
        に伝えるため一周忌の秋分の日に、経過を巨石に刻んで東津橋のほとりに建立された。

        
         椹野川東津河川公園には、種田山頭火の句碑があるというので、河川敷を歩いて駅に戻
        ることにする。
                  「咲いて こぼれて 萩である」
         其中庵に移ってきた喜びの句で、1932(昭和7)年9月お彼岸の中日、庭には萩が咲き
        乱れていた。矢足(庵のある地区)では新入りだから近所の挨拶は欠かせない。世話をして
        くれた国森樹明と伊東啓治の3人で4,5軒まわり、「これで私も変則ながら矢足の住人
        になった」と記す。

        
         江戸期の椹野川河口は海運上重要な位置にあったため、御米蔵に並んで河口御番所が置
        かれ武士1人、地下(じげ)人1人が常時勤めていた。
         現在は痕跡を見ることはできないが、平屋建てだったようで昭和の初め頃まで、老女が
        駄菓子屋をやっていたという。 

        
                  「寝ころべば 青い空で 青い山で」
         1933(昭和8)年9月12日防府市三田尻の松富屋に宿泊し、翌朝6時に出立。我なが
        らさっそうと歩く。見渡すかぎりの青い空、末田海岸の濤声(大波の音)、こゝにも追懐が
        あると記す。

        
                  「曼殊沙華咲いて ここが私の寝るところ」
         1932(昭和7)年山頭火は川棚に草庵を結ぶことを決意したがままならず、同年9月2
        0日故郷のほとりである小郡に草庵を見つけて「其中庵」と名付け、そこに移り住むこと
        ができた。やっと見つけた庵で詠んだ句とされる。 

        
                      「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 
                   春夏秋冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」
         江戸後期から明治にかけての俳人・井上井月(いのうえせいげつ)の墓参のため、1934
        (昭和9)年信州の旅に出る。しかし、肺炎を患い墓参を残念している。(第3集「山行水行」
        1935年発刊の中の句)
         1939(昭和14)年信州の旅に出て墓参を済ませ、同年10月四国遍路の旅に出て、松
        山の庵で生涯を閉じる。

        
         昭和橋を見上げると橋脚の基礎部分が残されている。1966(昭和41)年に架け替えら
        れたが、当時は国道で往来も多くて同じ場所に架橋することができなかったようだ。旧橋
        の東詰と西詰の道路端が、不自然に広く残されているのも橋の影響のようだ


        
                 「雑草に うずもれてゐる てふてふと わたくし」
         公園にはまだ句碑があったようだが、遊歩道を歩いたため見つけ出すことができなかっ
        た。

        
         風の並木通りに出て新山口駅新幹線口に戻る。


宇部市の常盤池周回と野外彫刻

2023年05月24日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         常盤公園は宇部市の中心部から東へ4.5㎞、市域の南東部に位置する常盤池を中心とし
        た市営総合公園である。公園の中心にある常盤池は東洋のレマン湖の愛称で呼ばれる。(歩
        行約8.6㎞・🚻あり)

        
         社会見学の子供たちと列車を見送る。1925(大正14)年宇部鉄道の停留所として設置
        されて駅舎も建てられたが、2020(令和2)年駅舎が解体されて待合所のみとなる。

        
         この駅は、正面に青い海と宇部空港を離発着する旅客機が見られる。

        
         歩道橋で国道を横断する。

        
         南駐車場前の案内図。

        
        
         満水時に堤防(本土手)が決壊しないように、荒手(水量が増えた時に水を流す排水路)が
        設けられている。この悪水溝に架けられた石橋で、1909(明治42)年までは石橋を利用
        して土手を往来していたというが、新道の完成後は通る人も少なく一部が崩落している。

        
         常盤公園入口の東側に飛び上がり地蔵のお堂がある。中に2体の地蔵が祀られているが、
        1929(昭和4)年常盤池の底から飛び出すように浮かんだことから、飛び上がり地蔵と呼
        ばれている。 
         どちらも頭と胴が後にくっつけられたもので、左の方が古いがいつ頃造られたものなの
        かは不明とのこと。

        
         石炭記念館は宇部から炭鉱が姿を消してから2年後の1969(昭和44)年、炭鉱で栄え
        た宇部の歩みを長く後世に伝えるため、日本初の石炭記念館として誕生した。櫓は宇部興
        産㈱東見初(ひがしみぞめ)炭坑で活躍した竪坑櫓とのこと。

        
         常盤公園バス停の傍に際立つ鮮やかな赤色の彫刻が目を引くが、内田晴之さんの「重力
        空間ー赤」という作品である。横長の物体が水平に保たれており、マジックを見ているよ
        うな錯覚に陥る。
         ステンレス製の箱4つのうち、赤い箱に磁石が内蔵されており、反発し合うことで横長
        の箱が水平に保たれているとのこと。

        
         石炭記念館入口に荻原守衛さんの「坑夫」。荻原さんはロダンに教えを受けた彫刻家と
        される。

        
         常盤公園の白鳥と鯉が描かれたマンホール蓋。

        
         常盤橋前にある西野康造さんの「風になるとき」は、  常盤池一周は5.73㎞とあり。
        3本脚に支えられた翼が、風によって浮遊するように動
        いているが、鳥が大空に向かって羽ばたくような姿にも
        見える。

        
         常盤橋付近にはたくさんの白鳥が見られたが、2011(平成23)年2月高病原性鳥イン
        フルエンザが発生し、全白鳥の処分が行われた。現在は湖畔で白鳥を見ることはできない
        が、白鳥池前の飼育施設で数羽が飼育されているという。

        
         桜山入口にある関正司さんの「ロッキング・ロール」は、ボディ部分が衣装のようで裾
        は波形にふちどりされている。顔部分の髪は逆立した女人像である。

        
         池から初夏の風を受けながら周遊路を散歩。

        
         桜並木の散歩道。

        
         常盤池を地形図で見ると、掌を広げたように入り込んだ地形で、入江と突き出た岬はそ
        れぞれに表情を変えるので、次の入江はどんな表情を見せるのか楽しみの1つとなる。

        
         常盤池は上宇部、沖宇部、西岐波にまたがり、宇部丘陵地の新田開発のた
め灌漑用溜池
        として築造された。宇部の給領主・福原氏が藩に願い出て許可後、家老の椋梨権左衛門に
        命じて丘陵中の広くて長い浸食谷の最狭部に、堤高9.4m、堤長65mの堰堤を築き、周
        囲の台地から流入する水が自然に溜まるようにしたものである。
         3年の歳月をかけて1698(元禄11)年供用開始したもので、2016(平成28)年「世
        界かんがい施設遺産」に登録される。

        
         「宇部炭田発祥の地」には炭生(たぶ)跡が残る。炭生とは一散堀で採炭された竪坑(深さ
        3~7m)の事で、常盤池が完成する以前には家庭用石炭の採掘が行われていたという。

        
              周囲には窪みがたくさん存在するが、2002(平成14)年に一散堀が埋め戻された跡と
        のこと。

        
         1ヶ所のみ現状保存されている。

        
         平日だが多くの方がウオーキングされているが、皆さんは速足で散歩ベースではおぼつ
                かない。(常盤橋から2㎞地点)

        
         1920(大正9)年頃池のほとりの別荘地に桜が植樹されると、景勝地として知られるよ
        うになる。その後、地元の実業家・渡辺祐策らにより、常盤池周辺の土地購入活動が推進
        される。購入された土地が市に寄贈されたことで、1925(大正14)年宇部市常盤公園が
        開設された。(キャンプ場付近)

        
         左手にサッカー場と車道に合わす付近が3㎞地点である。

        
         常盤スポーツ広場管理棟前で周遊路を外れて黒岩観音に立ち寄る。

        
        
         黒岩観音は、1926(大正15)年松月院住職の道重上人から「黒岩山の中腹で、清水の
        流れる所に開(ひらき)部落の守り本尊として、観音様を建立したらよい」との勧めで、子安
        観音菩薩(子供の成長と妊婦の安産)、馬頭観音菩薩(馬の守護)の2体が奉安される。

        
         主要な入江が7つあるという。

        
         薬草園付近が6つ目の入江。

        
         常盤池に流入する自然河川はなく灌漑用に造られた池であったが、宇部曹達工業(現セン
        トラル硝子)や東見初炭坑などが工業用水に使用すると、渇水期には水不足が生じ始める。
         1943(昭和18)年宇部市末信の厚東川より常盤池までの8.5㎞をつなぐ導入路が設
        けられたことで、池の底を見せることがなくなる。(近代化産業遺産)

        

        
         1992(平成4)年竣工の白鳥大橋と武荒信顕さんの作品「あなたと‥(わすれてしまっ
        たこと)」

        
         楢原の入江に架かる斜張橋は青空に白色の橋が映える。

        
         しょうぶ苑には中央にスイレンの池があり、周りにハナショウブの花が見られる。

        
         外磯秀昭さんの「Sin」は、大きな形が小さな形を包括している作品。

        
         常盤神社は、1698(元禄11)年常盤池築堤に際し、堤の上に「水神様」を勧請したの
        が始まりとされる。後に変遷があったようだが江戸後期頃に小島(小鍋島)に遷座したとい
        う。
         橋手前の鳥居には「慶應四(1868)戌辰八月」と刻まれており、境内にある鳥居、灯籠な
        どは、1969(昭和44)年草江の大歳神社を合祀した際に移設されたようだ。

        
         高病原性鳥インフルエンザで殺処分を免れたペリカンは、野鳥との接触を避けるため、
        ペリカン島全体がネットで覆われている。

        
         林の中にひっそりとある土屋公雄さんの「底流」は、1991(平成3)年第14回彫刻展
        の作品だが橋脚が再利用されているようだ。

        
         永廣隆次さんの「杜」
      
        
         向井良吉さん(1918-2010)は野外彫刻展の草創に尽力し、のちも同展の発展に寄与した人
        物である。この「蟻の城」という作品は、1962(昭和37)年宇部をテーマにした彫刻で
        現地制作されたものという。材料は地元企業から提供された鉄クズ(バネやレールなど)で
        構成されている。
彫刻の丘展示場で毎年出品作は変わっても、「宇部のシンボル」として
        この場所から動かず常設され続けている。
         左手奥は「月と山、水脈」という岡田健太郎さんの作品。

        
         三宅之功さんの「はじまりのはじまり」は、高さ3・5mの卵型をしており、表面はス
        テンレスのプレートと苔で覆われている。動植物に共通する「奇跡の誕生」を現わしたも
        のという。

        
         一風変わった作品は松本勇馬さんの「変身」で、木材・竹・稲わらで構成されており、
        全身に毛が生えた動物のような人間の造形である。 

        
         新宮晋さんは自然エネルギーで動く作品を制作されているが、噴水池にある「時のシル
        エット」は、9枚の白い帆が今目の前を通り抜けた風の軌跡を示しているという。
         まだたくさんの作品があったが、少々歩き疲れたので公園を後にして、正面入口のバス
        停よりJR宇部新川駅に移動する。


宇部新川の野外彫刻と真締川 (宇部市)

2023年05月24日 | 山口県宇部市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         宇部新川は宇部丘陵の南部に位置し、南は周防灘に面する。宇部という地名については、
        海辺が転訛したとも、ムベが繁茂していたからとも、宇治部という古代部民集団の居住に
        因むともいう。
         「新川」は宇部市中心部を指す地域名称のようで、住居表示あるいは大字の呼称として
        は存在しない。一般的には宇部市立新川小学校の校区が該当するという。残念ながら先の
        大戦で焦土と化し、戦前の遺構等が残されていないため、野外彫刻と真締川の沿いを散歩
        する。(歩行約6.9㎞、川沿いに🚻あり) 

        
         JR宇部新川駅は、1914(大正3)年宇部軽便鉄道の開業と同時に設置される。当初の
        設置場所は平和通りの宇部中央バス停付近に設置されたが、線路付替えにより現在地に移
        転する。
         駅名については、当初は宇部新川駅であったが、1943(昭和18)年宇部鉄道が国有化
        されると宇部駅に改称する。1964(昭和39)年山陽本線西宇部駅が「宇部駅」に変更さ
        れると、開業当時の駅名に戻る。

        
         駅前にある澄川喜一さんの「そりのあるかたち」は、高さ3mの巨大な石柱を軸にして、
        左右に大きく翼を広げた抽象的形態で、大きく羽ばたこうとしている。

        
         この一帯は、1945(昭和20)年の戦災により焼野原となった所で、戦災復興方針に基
        づき、この道が建設されて焼け野原に樹を植え、花が咲く道となる。
         平和を願い復興を取り組む中で、いつしか「平和通り」と呼ばれるようになり、「緑と
        花と彫刻の町ー宇部」のシンボルロードとなる。(彫刻は竹内三雄さんのTransfiguration
               “Link”VⅡ
 )

        
         新川大橋北の真締川公園西に関根伸夫さんの「空の天秤」。宮城県産の伊達冠石とステ
        ンレスで作られ、大きい石と小さい石がバランスを保って天秤状態となっている。

        
         桜井祐一さんの「あるポーズ」がある公園は、緑豊かな散歩道。

        
         緑橋は、この付近が白砂青松の「緑が浜」であったといい、その名が橋名に残された。
        大正期には装飾灯があったという。

        
         重村三雄さんの「風景のある抜け殻」は、柱の上部に逆さとなったセミの抜け殻。

        
         前田哲明さんの「Untitled 01-A」は、大きなステンレスの軸がうねりながら斜めに伸び
                上がる。パラボラアンテナのような不思議なパーツを通って、最後は逆さになったアクリ
                ル製のピラミッドに到着するというコンセプトだそうだが、アクリル板は修理中なのか存
                在しなった。

        
         1910(明治43)年9月宇部村立新川尋常小学校としてこの地に開校するが、1941
        (昭和16)年10月宇部市西小串へ新築移転する。 

        
         黒川晃彦さんの「ロンド」は、ベンチに座った少し滑稽な姿をした人物が楽器を奏でて
        いる。ベンチの片隅が空いているので記念写真も可能のようである。

        
         ANAクラウンプラザホテル宇部と宇部興産ビルは、建築家・村野藤吾(1981-1984)最晩
        年の設計とされ、1983(昭和58)年に完成する。

        
         宇部市渡辺翁記念会館は、宇部市発展の基礎を築いた渡辺祐策翁の遺徳をしのび、翁の
        関係した7事業所の寄付で、1937(昭和12)年に建てられた。
         かの有名な村野藤吾設計によるもので、ゆるやかなカーブを描く外観は、煉瓦に模した
        タイルが張られているがしっとり感がある。建物を上空から見ると飛行機のような形をし
        ているという。
         村野氏と丹下健三氏は日本を代表する世界的な建築家であるが、丹下氏は官公庁関係が
        多いのに対し、村野氏は民間関係の建築を多く手掛けた。同館は2005(平成17)年に国
        登録重要文化財に指定された。

        
         宇部市文化会館は、1979(昭和54)年村野藤吾設計によって建てられた。

        
         モモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、その周りを市の花であるサルビ
                アが描かれたマンホール蓋。

        
         宇部中心部を流れる真締川は、霜降岳を源に発し、南に向かって周防灘の宇部港に注ぐ。  
        かっての宇部の中心は上宇部で、南に沖の山砂丘が広がっていた。真締川が宇部本川と呼
        ばれていた頃は、樋ノ口(現山口大学医学部)で西に向かい居能へ流れていた。
         このため、洪水で農地が被害を受けるので、1797(寛政9)年樋ノ口から河口まで開削
        して、流路を取り換えて新川と名付けた。真締川は「新川地区の間を占める川」から間占
        川となり、転じて真締川となる。塩田川から流れ込む樋門があったので、樋ノ口となり橋
        名にもなる。

        
         散歩するにはベストなコースであるが、橋詰を横断するには信号機を利用しなければな
        らない。

        
         山口大学医学部付属病院にはドクターヘリが駐機中。

        
         西野康造さんの「空を行く2005」は、風で動く彫刻で、3つの回転軸が個別で動く
        ことで伸びたり縮んだり、広がったりと空の上で複雑に変化している。(やすらぎ橋の上流) 

        
         山口大学付属病院通りの宇部大橋で左岸に移動する。

        
         吉野辰海さんの「大首Ⅲ」は、犬の大きな首で瞳は静かに前を見据えている。20世紀
        から21世紀へ、時を凝視することを止めた人間に代わって視る大首。

        
         やすらぎ橋は、中央に半円形の突き出たテラスと休憩用のベンチが置かれた歩行者専用
        橋。

        
         光善寺(曹洞宗)の創建等は知り得なかったが、本堂前に「人間のいのちは燭涙火(ろーそ
          く)
のようにまわりを照らしながら減ってゆく 止めることはだれもできません ただ ど
                こをどのように照らしていくか 与えられたたった1つの自由である」と‥。使える命(時
        間)の尊さを学び、寺を後にする。

        
         宇部図書館前にある佐藤忠良さんの「冬の子供」は、厚着のハーフコートがすっぽり包
        み込み、靴を履いた顔の表情がよい。佐藤忠良は日本を代表する彫刻家のひとりでもある。
         “彫刻の町・宇部”の育ての親、故星出市長を顕彰し、宇部市民有志によって寄贈され
        たものとされる。

        
        
         1917(大正6)年に発足した宇部紡績工場の遺構で、1930(昭和5)年には従業員数
        1,400人を数えたという。
         第二次世界大戦になると材料の確保が難しくなり、1942(昭和17)年紡績工場の整理
        で福島紡績と合併したが翌年に解散する。工場は呉海軍工廠宇部分工場となり、学生動員
        により特殊潜航艇のエンジンなどを作ったそうだが、1945(昭和20)年の空襲で大被害
        を受ける。戦後は市の車両課が使っていたが、現在は琴芝県営住宅、市立図書館などが建
        ち、図書館には工場の壁の一部が組み込まれている。

        
         旧宇部軽便鉄道の鉄道橋が使用されているが、「日立製作所笠戸工場製造大正12年(1
        923)3月」というプレートがあるそうだ。

        
         宇部線を過ごすと公園内に入るが、日影を歓迎する季節になってきた。

        
        
         1938(昭和13)年7月に架橋された松島町と寿町を結ぶ寿橋。橋詰には巨大な擬和風
        の親柱にはガス灯が付けられており、近代化土木遺産とされている。

        
         山内壮夫さんの「宇部産業祈念像」は、宇部市の戦後復興の祈念ともいうべきモニュメ
        ントである。男女が持つスコップが植物になって、柄から若葉が芽吹いている。

        
         同じく山内壮夫さんの「母のひざ」は、セメントで制作された2体の女像で、母のひざ
        をベンチ代わりにして座れるように工夫されている。

        
        
         新川大橋東詰を左折して常盤通りを市役所方向へ進むと、市役所は建て替えられて旧庁
        舎は解体中。少し先に進めば井筒屋というデパートがあったが、ここも建物が解体中であ
        った。

        
         中津瀬神社は、1801(享和元)年新川疎通のお礼と村の鎮護のために川の左岸(東)、今
        のヒストリア宇部の場所に祀られた。祭神は、農耕・水産諸産業の守護神とされ、本殿は
        川の方角(西向き)に建立されていたが、1991(明治44)年に川幅を拡張したとき現在地
        に遷座する。
         建立当時は松浜にポツンと建てられ、敷地も広かったと思われるが、今は建物に囲まれ
        窮屈そうにみえる。

        
        
         神社や本殿を魔物から守るため、魔除けとして狛犬が置かれているが、ここでは珍しい
        ライオンの石像である。1922(大正11)年に旧錦橋ができた時、橋の飾りとして造られ
        たものだという。

        
         法興寺は、東寺真言宗の別格本山という直轄寺の格式を持った寺である。新川に移転し
        てきたのは大正期とされるが、平安前期の859(貞観元)年大和国の大安寺の行教という高
        僧が天皇の命を受けて宇佐神宮に参詣した。
         のち京都の雄徳山に行く途中、赤間関(下関)に寄り亀山八幡宮を建立し、翌年に神宮寺             
        として建てたのが同寺の始まりという。

        
        
         宝篋印塔には安永10年(1781)の年号と、塔身の下方に菊の紋が彫ってある。1913
        (大正2)年に下関から移転させたものという。

        
         新天町商店街を歩く。

        
         旧宇部銀行館は、渡辺翁記念会館などを手掛けた村野藤吾設計により、1939(昭和1
          4)
年建築された。
         1944(昭和19)年1県1行(戦時統合)の政策を受けて、県内の各行が合併して宇部銀
        行は山口銀行宇部支店となる。現在は総合コミュニティホールとして活用されている。(近
        代化産業遺産) 

        
         銀行の建物配置からすると、戦前の常盤通りは現在とは異なる角度で真締川交差してい
        たと思われる。(建物は宇部市役所)

        
         歩行者専用橋である新川橋を渡ると、木戸修さんの「支え合う螺旋」。

        
         平和通りと国道分岐点に伊藤憲太郎さんの「SEED 増殖」がある。5mを超える巨
        大な砂時計のような彫刻で、空に伸び上がるような形である。つやつやした球体は周囲の
        景色を取り込んでいる。

        
         往路とは反対側の平和通りを歩く。

        
         二口金一さんの「メッセージ」は、マントを羽織った人体像をピラミッド形に集約され
        て、三人三様の動きを持たせている。 

        
         塚本洋守さんの「エンドレス コア」だが、歩いた道にあった43作品を撮影したが、
        事前に作品コンセプトを知り得ていたら、違った作品の見方ができたのかなと思いつつ駅
        に戻る。

        
         宇部線の列車はロングシートのため車窓を楽しむ雰囲気でないため、宇部市営バスの特
        急「新山口駅」行きに乗車して車窓からの風景を楽しむ。


築上町の椎田は中津街道椎田宿があった地 

2023年05月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         椎田は岩丸川・真如寺川流域の平野部に位置し、北は周防灘に面する。この地は小倉城
        下から中津城下までの中津街道が整備され、宿駅として栄えた歴史がある。
(歩行約3.6
        ㎞、🚻なし)

        
         JR椎田駅は、1897(明治30)年豊州鉄道(現日豊線)行橋~柳ヶ浦間が開通したと同
        時に設置される。 

        
         築上町役場前を右折するが、旧椎田町は1889(明治22)年の町村制施行により椎田・
        湊・高塚・臼田・山本の5ヶ村が合併して椎田村が発足する。町制移行後、
昭和の合併で
        椎田町は、他の3ヶ村と合併して改めて椎田町になる。
         2006(平成18)年の大合併で築城町と合併して「築上町」となるが、町名は築上郡に
        由来するという。

        
         中津街道は中津城下から椎田宿を過ごし、岩丸川を渡って大橋宿(行橋)に至るが、西ノ
        橋から椎田宿に向って歩く。

        
         先を期待して街道を東進する。

        
         足を止めるようなものは存在しない。

        
         新町橋を渡ると旧椎田宿のようだ。

        
         平入りの家屋が並ぶが、宿場町だった面影はみられない。

        
         右手にJR椎田駅を過ごす。 

        
         平入りの大きな家が並ぶ。

        
         築上町立歴史民俗資料館前に「椎田郡屋」の説明板が設置されているが、江戸期には築
        城郡の役所(郡屋)は、当時栄えていた椎田宿の中心地に置かれた。
         1836(天保7)年築城郡筋奉行の延塚卯右衛門は、飢饉で困窮した農民の根付料(種籾
        や田植えの貸付金)の返済を独断で免除して農民を救済したが、その責任を取ってここで切
        腹したという。

        
         中津街道は小倉から中津まで約52㎞の道程で、細川・小笠原氏によって整備され、1
        876(明治9)年から1933(昭和8)年までは国道の一部として利用された。

        
        
         街道筋は国道によって分断されている。

        
         西山浄土宗の西福寺(さいふくじ)は、江戸期に小倉藩の切支丹禁制の宗門改め「踏み絵」
        が、築上郡ではここで年1回行われており、別名「判行寺」と称された。

        
         門前の里程標は、中津街道沿いの「中津屋」前にあったが、国道の整備に伴い移設され
        た。山鹿(犀川)まで3里31丁(15.2km)、苅田まで4里半(17.7km)、豊前松江まで
        1里8丁(4.8km)とあり。

        
         中央に町章のある築上町のマンホール蓋。

        
         真如寺川に架かる椎田橋までが椎田宿のようで、この先は旧湊村に入る。

         
         1864(元治元)年の記録によると椎田郡屋は、後に湊郡屋(椎田小学校付近)に移転した
        という。

        
         街道は真如寺川河口へ向かう。

        
         国道を横断して看板建築の建物を過ごす。

        
         その先に「厨子二階」の民家が見られる。

        
         この石垣は何に使われたのだろうか。

        
         この付近は椎田村に合併する前の湊村。

        
        
         1810(文化7)年1月20日伊能忠敬(1745-1818)も椎田を訪れ、測量隊と共に湊の村
                屋又左衛門宅に宿泊したという。
         その後、東九州を南下し宮崎、鹿児島を経て熊本から再び大分に入り、1811年1月
        12日に椎田村の大庄屋椎田常四郎宅に宿泊している。

        
         中津街道が整備されると、江戸期の湊村は陸上と海上交通の要衝として栄え、4軒の造
        酒屋と2軒の廻船問屋があったという。

        
         街道の突き当りに残るトタン屋根の民家。 

        
         すぐ北側は周防灘。

        
         湊村には藩の御蔵所が置かれて、廻船問屋、酒、醤油造屋等があったというが痕跡は残
        されていない。

        
         田園地帯は麦秋一色。

        
         金富(きんとみ)八幡宮が創建された当時は、単に「矢幡(やはた)」と呼ばれていた。神仏習
                合の時代になると湊八幡、絹富八幡と変遷し、明治に入って現社号となる。

        
         神社正面に神池があり、厳島神社と稲荷神社が鎮座する。

         
         庚申や猿田彦大神の石碑を見て駅に戻る。


中津は福沢諭吉の故郷 (中津市)

2023年05月10日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         中津は大分県の北端にあり、北は周防灘、西は山国川を境として、市域は山国川右岸の
        沖積平野と、これを包む低平な洪積台地からなる。見どころが分散しているので観光案内
        所でレンタサイクルを借用する。(距離約6.8㎞)

        
         南口側でレンタサイクルして駅構内を北口側に移動する。
         JR中津駅は、1897(明治30)年豊州鉄道の行橋~柳ヶ浦間が開通したと同時に開設
        され、1977(昭和52)年には駅高架事業により3代目の駅舎が完成する。中津といえば
        福沢諭吉といわれるように駅前には像が建つ。 

        
         「1万円札の里 中津市」の文字入りに、福沢諭吉旧居と「学問のすゝめ」が刻まれた
        マンホール蓋。
        
        
         1927(昭和2)年に建てられた倉庫で、音楽ホールなどに活用されている。

        
         島田神社は鎌倉期の1229(寛喜元)年貴船神社として創建され、昭和期に現社号とな
る。

        
         宝蓮坊(真宗大谷派)は、1600(慶長5)年細川忠興が中津城に入封の際、名僧の誉れ高
        かった行橋の浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。これが後に現寺号に
        改称された。(太子門を見落とす)
         山門前には「魚町の蛭子宮(通称・おいべっさん)」が鎮座するが、江戸期に若松の恵比
        須神社より勧請されたと伝わる。

        
         寺町は中津城総曲輪内の東側にあって、島田口と蛎瀬の中程に城下防衛のために造られ
        た町という。
          黒田氏時代以前‥地蔵院、安随寺
          黒田氏時代(1587-1600)‥合元寺、大法寺、円応寺、西蓮寺
          細川氏時代(1600-1632) ‥普門院、宝蓮院、本伝寺
          小笠原時代(1632-1713)‥円龍寺、浄安寺
          奥平氏時代(1713-1869)‥松厳寺    計12ヶ寺がある。

        
         松厳寺(臨済宗)は、1678(延宝6)年奥平昌章が実父の菩提を弔うため、栃木県宇都宮
        市に創建したと伝え、寺号は実父の戒名から名付けられたという。1717(享保2)年奥平
        氏の転封に伴い、中津に移転される。

        
        
         西山浄土宗の合元寺(ごうがんじ)は、真っ赤に塗られた塀や建物の壁から赤壁寺ともいわ
        れる。1589(天正17)年前城主の宇都宮鎮房が黒田孝高(官兵衛)に誘殺された際、同寺
        に待機していた家臣も討死する。壁は返り血で赤く染まり、その後、何度塗り替えても血
        痕が浮き出るので、ついに赤く塗ったと伝わる。

        
         桜町天満宮は、1632(寛永9)年播州竜野より中津に移封となった宇都宮長次(ながつぐ)
        が、天神像を奉載して入部する。
         当初は大江ヶ岡の八幡宮境内に祀られていたが、洪水の被害を避けるため当地に遷座し
        たという。

        
        
         寺町通り。

        
         本伝寺(法華宗)は、南北朝期の1343(康永2)年開山。

        
         大法寺(日蓮宗)は、1600(慶長5)年建立とされ、冠木門内には鬼子母神が祀られてい
        る。境内には加藤清正を祀る浄池宮、婦人病平癒に高徳のある神として伝えられる秋山堂
        が建立されている。

        
         大石良雄奉納と伝う石灯籠だそうだが、経緯については寺の由来には記されていない。

        
         円応寺(浄土宗)は、1587(天正15)年黒田孝高の開基によって建立される。

        
         境内には「河童の墓」と呼ばれる五輪塔がある。この墓は宇都宮鎮房が誘殺された時、
        鎮房に太刀をあびせた野村太郎兵衛祐勝の墓とされる。
         一方で、江戸中期にこの寺の寂玄上人が、河童を帰依させたという伝説が伝わり、河童
        の墓ともいわれている。

        
         円龍寺(浄土宗)は、寛永年間(1624-1644)中津藩に入府した小笠原長次が建立する。

        
         山門を潜ると左側にキリシタン風の形状に見える織部燈籠が立っている。この燈籠は、
        殿町の井上家に伝来したもので、2016(平成28)年井上家ゆかりの当寺に寄進されたと
        ある。

        
         浄安寺と西蓮寺が並ぶ。

        
         浄安寺(浄土宗)は、1640(寛永17)年小笠原長継の菩提を弔うため、長男の政直が建
        立する。

        
         西蓮寺(真宗)は、1588(天正16)年に光心師によって開山。光心師の俗名は黒田市右
        衛門であり、孝高の末弟で父が逝去時に出家する。黒田家が播州から中津に入国の際、共
        に中津に入り同寺を建立したという。

        

        
         福沢諭吉記念館の駐車場脇に照山白石紀念碑(しらいししょうざん、1815-1883)がある。説
        明によると、江戸末期から明治期の儒学者・教育者で福澤諭吉の師で、諭吉が14歳頃は
        じめて学問の手ほどきを受けた。諭吉がお金に困っていた時に、臼杵藩が蔵書を買い上げ
        る際の仲介をし、そのおかげで大坂の適塾で学問が続けられたという。

        
         福沢諭吉(1834-1900)は大坂の中津藩蔵屋敷で、中津藩士の父・百助(ひゃくすけ)と母・阿
        順(おじゅん)の末子(次男)として生まれた。1836(天保7)年父が死去したため、母子6人
        は中津に帰郷する。
         福沢家は藩士の身分が低かったため、諭吉は門閥制度に苦しめられた。「福翁自伝」の
        中で、「門閥制度は親の敵(かたき)でこざる」といい、この中津時代の苦い経験が市民的自
        由を追求する力となる。

        
         茅葺き屋根が印象的な福沢諭吉旧居は、諭吉が17~18歳の1850(嘉永3)年頃に、
        母の実家であった橋本家の住宅を購入して移り住む。平屋の建物には6部屋と土間・勝手
        ・納戸があり、旧居裏にある5坪の土蔵は、若き日の諭吉が勉学に励んだ場所という。

        
         1854(安永元)年兄のすすめにより、長崎で蘭学を学び、翌年には大坂へ行き、緒方洪
        庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる。これを知った中津藩は、江戸で蘭学塾を開くこと
        を命じ、中津藩中屋敷で家塾を開いた。これが慶応義塾の起源である。
         明治維新後は、新政府出仕をこばみ続け、在野の啓蒙思想家として先の課題を追求し、
        「学問のすゝめ」や「文明論之概略」などの著書を通じて、日本の独立と国際社会におけ
        る平等を国民に訴えた。

        
         和田豊治(1861-1924)は明治・大正期の実業家で、村上田長の書生となって独学し、のち
        田長の勧めで藩の奨学金を受けて、慶應義塾に学ぶ。渡米して新知識や紡績工業などの技
        術を学び、帰国後、大会社の要職を経て経営不振の富士紡績を立て直す。
         郷土の中津に和田奨学資金を設け、その恩恵を受けた人は300名をこえるという。(和
        田豊治の生誕地に頌徳碑)

        
         日霊神社(神名宮)は、1600(慶長5)年細川忠興が中津城入城後に、城の鬼門除けのた
        め“音洲の森”に伊勢内宮を勧請したと伝える。維新後に「神明宮」に改称された。
         境内には他に目の神様とされる生目神社、道案内の神である猿田彦神の祠、稲荷神社が
        ある。

        
         中津川に架かる北門橋の袂には、旧橋の親柱と思われるものが保存されている。

        
         周防灘に流れ込む中津川の河口に築城された水城。1587(天正15)年黒田孝高が古城
        であった丸山城を修築したものとされる。(遊歩道と河川敷公園)

        
         貝原益軒の『豊国紀行』 には、「城は町の北、海辺にあり、天守なし」と記されている
        が、1870(明治3)年に廃城を願い出て、翌年にはすべての櫓と城門が取り壊された。
         1877(明治10)年西南戦争において西郷軍側に呼応した中津の不平士族が蜂起し、残さ
        れていた建物に放火し焼失させた。現在は1964(昭和39)年に建てられた模擬天守と櫓
        がある。

        
         江戸期には天守閣のある部分に二層の櫓があったという。

        
         天守閣前に鎮座する奥平神社は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌の3公を祀る。

        
         天守閣内は奥平家歴史資料館として、奥平家の貴重な資料や家宝が展示されている。 

        
         天守閣からは四方が見渡せる。

        
         中津川に架かる北門橋の先に瀬戸内海が広がる。

        
         中津神社は、1883(明治16)年城内下段の松の御殿跡に建立されたもので、新魚町の
        六所宮、諸町の恵比須社などが合祀されている。
         その他、城内には伊勢神宮より勧請した中津大神宮、黒田氏に謀殺された宇都宮鎮房を
        祀る城井神社や金比羅宮がある。

        
         城址出口にある「独立自尊碑」は、「人に頼ることなく、自らの力で事を行い、自己の
        人格・尊厳を保つこと」という意味だそうで、1904(明治37)年建立された。
         傍には日本の歯科医師免許第1号を取得した小幡英之介の像もある。

        
         鍵廻りを過ごして南部小学校を正面にすると、道路に露出する黒門跡の礎石がみられる。

        
         校内との境に大手門の石垣が一部残る。

        
         小学校は奥平家家老・生田家の跡地で、敷地の北側にあった生田家の門が、西側に移築
        されて小学校の正門となっている。

        
         1871(明治4)年城の石垣を壊して通した道路だそうだ。

        
         木村記念美術館には江戸後期の中津藩御典医だった屋敷門が残る。医師の木村又郎氏が
        集めた中津出身の洋画家中山忠彦、中津にゆかりの深い作家の美術資料などが展示されて
        いる。

        
         慶応義塾2代目塾長を務め、「学問のすすめ」の共著者の一人である小幡篤次郎の遺言
        によって寄贈された出生地と家屋、蔵書をもって、1909(明治42)年に中津図書館が開
        設される。後に小幡記念図書館と改称され、1993(平成5)年に藩校があった地に移転す
        る。
         1780(安永9)年倉成龍渚(くらなりりゅうしょ)が、この地の屋敷を拝領し、家塾を開いた
        ことに始まり、1796(寛政8)年藩校「進脩館(しんしゅうかん)」が設立される。幅広い分
        野で人材を輩出したが、廃藩置県によって閉校となる。

        
         洋学校設立を推進したのは福沢諭吉や小幡篤次郎といった慶應義塾の中津出身者たちで、
        1871(明治4)年に現在の南部小学校の地に開校する。この学校は「中津市学校」と名付
        けられて優秀な人材を輩出したが、西南戦争などの影響で経済状況が悪化し、1883(明
           治16)
年閉校となる。
         新中津市学校は、「広く平等に学びを」との思いを受け継ぎ、旧小幡記念図書館の建物
        を利用した学習交流施設に引き継がれる。

        
         御水道(中津水道)は細川忠興が黒田家の役を引き受け、1620(元和6)年に中津城下に
        給水する上水道工事を行う。中津城下が海辺に近いため水質が悪く飲料水に適さず、山国
        川の大井出堰から送水路(御水道)を堀り、樋を埋めて城内に引水する。
         その後、町中に給水できるよう工事が行われ、1929(昭和4)年新たな上水道ができる
        まで使用された。

        
         村上家は1640(寛永17)年に初代村上宗伯が、城下の諸町に開業して以来、現在まで
        続く医家で、中津藩の御典医を務めた。
         村上医家史料館は、この村上家の医学にかかわるものを中心に数千点に及ぶ資料を収蔵
        ・公開している。

        
         諸町の町並みを歩く。

        
         江戸期には多業種の町人が居住していたので、諸町という町名になったという。

        
         1716(享保元)年創業というむろや(室屋)醤油。

        
         細川忠興は民心安定のため領内各地の社寺整備を行う。この諸町蛭子宮は、1616(元
          和2)
年この地に創建されたそうだが、当初は菊池氏(室屋)一族の氏神とされ、現在は町内
        の氏神として祀られている。(説明板より)

        
         漆喰白塗り込めの平入りの町家。

        
         南部まちなみ交流館は、江戸期には屋号を「宇野屋」といい、造酒屋・米問屋を営んだ
        商家で、中津市が文化財として復元する。

        
         平田眼科医院は、1918(大正7)年諸町に開業したが、院長の死により1953(昭和
          28)
年閉院となる。

        
         平田医院の隣にも漆喰白塗り込めの町家がみられる。

        
         1764(明和元)年自性寺(じしょうじ)12世となった提州(だいしゅう)は、京から日本の文
        人画の大成者である池大雅夫妻を伴い中津にやってきた。池大雅はしばらく自性寺に滞在
        し、絵の制作に励む。1778(安永7)年には境内の一角に書院が建立され、藩主・奥平昌
        高によって大雅堂と名付けられた。
         書院の老朽化が進んだため、現在の展示館が建設されて池大雅の書画が展示されている。

        
         自性寺(臨済宗)は中津藩主・奥平家の菩提寺で、1577(天正5)年藩主奥平信昌が三河
        国設楽郡門前村に「萬松寺」として創建した。その後、奥平氏の中津転封に伴い、171
        7(享保2)年現在地に移され、のち現寺号に改称する。

        
         中津市内には3基の織部灯籠があるとのことだが、これは古田織部と友人関係にあった
        細川忠興が、妻・細川ガラシャの菩提を弔うため長福寺に建立したものだという。

        
         観音堂は境内の敷地内あるが、正面は寺外を向いている。堂内には如意輪観音、三十三
        観音と九人地蔵が安置されている。さらに「河童ケンヒキ太郎像」もあるが、真玉寺の小
        僧や女性に取り憑くなど悪さを働いたので、自性寺の和尚に改心させられたが、その際の
        詫び状が寺に残るという。

        
         内部は奥平家墓所のようだが瓦土塀に囲まれている。

        
         中津城模擬天守と中津川がデザインされたマンホール蓋。
 
        
         大江八幡宮の縁起によると、奈良期の740(天平12)年宇佐宮に寄進された10郷のな
        かに大家郷があり、天平勝宝年間(749-757)10郷に八幡宮が勧請され、大江八幡宮もその
        時に創建されたと伝える。
         境内は幕末から昭和初期にかけて金谷小学校や留心中学校の学校地として使用された。