ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市の野島は瀬戸内海国立公園の最西に位置する島 

2021年10月28日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         野島(のしま)は防府市本土から南東約15㎞の海上にあり、
瀬戸内海国立公園の最西に
        位置している。周囲約3kmの小さな島の北側(野島港)を中心に家が集中し、2020年

        月現在85名の方が居住されている。 
         島名の由来について、かっては無人の島で、田や畑がなかったことことから「野の島=
        野島」と称されたという。 (歩行約3.6km)

        
         JR防府駅南口から防長バス小田港行き8分、三田尻港前バス停で下車。

        
         三田尻港発12時30分の高速連絡船「レインボーあかね」に乗り込み、青い空、青い
        海と海に浮かぶ小島を眺めながら30分の船旅を楽しむ。(車だと港前の道路上に駐車可能)

        
         野島に近づくと左手に沖島と平島、つぐみの浜で繋がる丸山が見えてくる。 

        
         野島港に入ると左手に野島小中学校。島に波止がなかったころ、強風が吹くと石垣の築
        かれた人家と人家との間の狭い木戸に船が引き揚げられていた。木戸の幅は2~3m、長
        さ20~30mぐらいで1つの木戸で漁船3~4艘が格納できたそうだ。木戸は風波から
        船を守る役割と、船底を傷める二枚貝の被害防止の役目を果たした。
         波止が整備されると木戸は不要となり、両側の民家が張り出して、今では1mばかりの
        狭い路地となった。

        
         全島がツツジで覆われ開花の頃には海まで真っ赤に染まって見えたことから「茜島」と
        も呼ばれた。船名も「あかね」とされたようだが、今ではツツジを見ることができないと
        のこと。 

        
        
         港近くに「松本旅館」と「のしまや旅館」があったようだが、すでに廃業されていた。
        (上段が松本、下段がのしまや) 

         
         凡そ700年前、防府市富海石川氏の一族板村氏が島を開拓し、その後、石丸・松本・
        西山・滝口・古城・阿部・難波の7家が来島し、8軒株と称して野島の開発の祖となった
        という。(漁港付近)

        
         矢立神社の創建については定かではないようだが、古くは野島明神として崇敬されてき
        た。1660(万治3)年9月、神祠建立の時に地中より矢の根が数多く出たので、矢立明神
        にしたと伝える。

        
         1872(明治5)年県の補助と島民の寄付により、延長80mに改修された波止から見る
        漁港。

        
         最近見かけることが少なくなった風物詩。

        
         1926(大正15)年5月島の最北端の天石から東に向かって新波止が完成する。島民に
        とって宿願が達せられたことを記念して碑が設置された。

        
         1947(昭和22)年野島中学校は元海軍見張所の兵舎跡を改造して設立され、4年後に
        この地(天石)へ移転する。
         1989(平成元)年野島小中学校の併設校となり、小学校内に移転すると校舎は解体され
        て敷地のみが残されている。

        
         元中学校敷地内にある「海拓円心」の碑は、どういう碑なのかはわからない。隣には1
        985(昭和60)年野島漁業集落環境整備並びに漁港整備事業が完工した旨の説明があるの
        で、これに関連したものであろう。

        
         野島漁港の埋立工事により、集落道路や漁村広場などが整備された。(1988年
完工)

        
         人には出会わず、会うのはネコばかりだが人懐っこい。

        
         腕用ポンプ車が市出張所前に置かれているが、柵の中にあるので製造年代は知り得ず。

        
        
         集落内の道が東西にのびる。

        
         野島簡易郵便局付近は車が通行できるほどの広さである。

        
         郵便局付近から見る万巧寺。

        
         細い道は小中学校近くまで続いている。

        
         万巧寺(真宗)は、慶長年間(1596-1615)祝島にある光明寺住職の三男が入島して開基した
        とされ、1695(元禄8)年に寺号が公認されて光明寺末寺となり本堂が造立された。18
        17(文化14)年野島の大火災で焼失するが、後に本堂が再建される。 

        
        
         万巧寺から見る家並み。

        
         山道から見る野島小中学校。

        
         1941(昭和16)年徳山海軍燃料廠防衛のための徳山警備隊野島特設見張所が黒見山に
        設置され、発電機や連絡用の電信電話回線が大津島から引かれた。島民にとって電気は多
        年わたる願望であり、1948(昭和23)年同発電機の払い下げを受けて野島に電灯が灯る。
         しかし、故障や維持費で廃止されてランプ生活に戻り、その後、発電機による送電が行
        われたが、1960(昭和35)年離島振興法により周南市馬島から海底ケーブルが敷設され
        送電が開始された。 

        
         兵舎用水槽が2ヶ所。上段が3層で下段が1層。

        
         探照灯据付跡地

        
         指揮所は見つけることができたが、兵舎跡(旧中学校)は見つけ出すことができなかった。

        
         2001(平成13)年度から防府市内の小・中学生を対象に、離島通学する学校特区「シ
        ーサイドスクール制度」が発足するが、全国的にも珍しい制度のようだ。
         校内には直木賞作家・伊集院静氏の小説「機関車先生」の一説を記した記念碑がある。
        葉名島のモデルは野島で彼の出身地でもある。(授業中であったので立入りを遠慮する)

        
        
         1985(昭和60)年下水処理施設が完備されて全戸が水洗化される。

        
         野島漁港は利用範囲が地元の漁業を主とする第1種漁港より広く、第3種漁港へ属さな
        い第2種漁港とされる。小型底引き網や一本釣が主のようで、波止は太公望たちにとって
        最良の場所とされる。

        
         大笑観音は「笑い声のハ・ハ・ハ」に因んで、平成8年8月8日つぐみ浜入口に建立さ
        れた。台座を含めた高さ3mの像は、右手に釣り竿、左手に鯛を抱えている。

        
         黒っぽい色の丸い小石が敷き詰められたつぐみ(津久美)浜は、野島で唯一歩いて行ける
        海岸で、海水浴を楽しむこともできる。(海水浴開設時にはシャーワー室あり)

        
         島には旅館がないため古民家を改修した簡易宿泊「ViDeN」が2020年2月オープンす
        る。簡易宿泊所なので食事の提供はないとのことだが、調理器具・食器等は用意されてお
        り、風呂も完備されている。
         16時30分に乗船すると、児童・生徒や行政関係、釣り人などが乗り込む。残念なが
        ら小田港からのバスは港前に立ち寄らず、三田尻港入口バス停で1時間待ちとなる。


下関市豊浦町の湯玉は大敷網漁業の発祥地

2021年10月18日 | 山口県下関市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         湯玉(ゆたま)は響灘に突き出た鯖釣山の東南麓に位置する。(歩行約3.1km)

        
         JR湯玉駅は、1925(大正14)年小串ー滝部間が開通すると同時に開業する。相対式
        ホーム2面2線を有し、列車の行き違い可能駅である。 

        
         2007(平成19)年海側に駅舎が改築され、湯玉駅薬局と駅改札口が同居している。 

               
         駅前を左折すると川嶋神社の鳥居があり、参道を山陰本線が横断しているが、道なりに
        進めば近くに市立双葉保育園がある。
         伝えによると、この宇賀の里がまだ開けていない頃、先祖が舟で湯玉の海岸にたどり着
        き、流れ出る河の三角州である川島に上陸したという。  
         「お着き場(御忌場)」というのは、鳥居前から鉄道付近とされ、その付近は海の入江で
        あったと思われる。 

        
         川嶋神社の創建年代は不詳であるが、海上守護の神として地元漁民の崇敬が篤く、地下
        (じげ)上申絵図には「権現社」とあるが、祭神からみると白山権現信仰とのつながりがみら
        れるとのこと。

        
         鳥居まで戻って海岸線への直進道を辿る。

        
         キラキラ輝く響灘の対岸は、室津と蓋井島が重なり合う。

        
         正面に鯖釣山と海岸線には消波ブロックが並ぶ。

        
         海岸線を歩く。

        
         宇賀漁港は、1959(昭和34)年から9年の歳月をかけて整備が行われた。(竣工記念碑)

        
         豊漁の神「えびす神」と海上守護の神「金刀比羅宮」が祀られている。

        
         湯玉浦は大敷網漁業発祥の地とされ、1656(明暦2)年山本惣左衛門が回遊している魚
        の群れを見て考案したという漁法である。魚の通り道に網を張っておくという定置網で、
        魚が入りやすい反面、逃げやすい面もあったので入口付近に櫓を立てて見張っていたとい
        う。 

        
         第1種漁港で採貝を主とするが、この浦が漁業集落を形成した時期は不明とのこと。

        
         海岸線までは石段で結ばれている。

        
         民家は石積みの上に建つが海岸線だったと思われる。

        
         左の道が赤間関街道で、湯玉浦は海岸近くを通っていたようだが、護岸工事等で現在は
        その道を見ることはできない。

        
         善念寺から見る湯玉の町並み。

        
         1615(元和元)年開基の善念寺(浄土宗)は、寺の位置が少しづつ移動して、現在地の再
        建は1777(安永6)年とされる。1848(嘉永元)年9月の湯玉浦大火で山門が類焼し、3
        年後に再建されたものである。

        
        
         長い1本道が続くが、両側の民家は更新されて見るべきものはない。 


下関市豊北町の二見は河口部の海浜集落 

2021年10月15日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         二見(ふたみ)は西方を響灘に面し、東・西・北の3方は山に囲まれ、その背後の山間を縫
        って流れる二見川流域の河口部に集落がある。
         古代は荒津庄のうちで、二見の語源は海神を称えるふとうみ(太海)であるという(歩行約
        3.2km)

        
         JR長門二見駅は滝部駅まで延伸された1925(大正14)年に開業する。当時、日本海
        岸沿いに敷設される予定であった本線は、地域の要望などで滝部を経由する本線となった
        ため、二見駅周辺でほぼ90度方向転換している。
         このためホームは崖の中腹にあって、駅舎からは地下道を経由でホームに上がるように
        なっている。

        
         駅前から県道長門二見線を滝部方面へ進むと、線路の壁に描かれた上を列車が走り去る。

        
         第1二見川橋梁を潜る。

        
         1875(明治8)年誘稚小学として創立。その後、豊北町立二見小学校と校名変更するが
        下関市に合併すると、2011(平成23)年休校になる。

        
         当初は赤間関街道を歩いて周回する予定であったが、地元の方が河内神社先の集落から
        は人が通行せず、荒れて通れないのではないかとの指摘を受ける。ここは地元の意見に従
        って二見浦に歩を進める。(駅前付近の町並み) 

        
         県道粟野二見線は集落内を通っていたが、集落内を避ける新道が開通していた。

        
         二見川南側の旧道筋。

        
         二見川と山陰本線橋梁。
 
        
        
         福田モータース前を左折して集落道に入るが、他にみられるような民家が並ぶ。
         防長地下(じげ)上申の絵図(1726-1753)には、河口近くに数軒あったことが記されている
        が、本格的に集落として形成されたのは江戸後期とされる。伝えによると、1769(明和
          6)
年頃対馬の漁人が来住したとか、筑前筥崎の漁人が土着したともいう。

        
         道は左折するが、直進すると二見漁港。

        
         山口県漁協二見支店向い側の集会所には、地蔵尊と「山本興市之碑」がある。 

        
         若宮神社の由来によると、創建時期は過去2度の二見集落火災で、文献等が焼失したの
        で正確な時期は不明だが、江戸中期から後期にかけてと推測されている。祭神は仁徳天皇
        とされ、金毘羅社、秋葉社、龍王社、祇園社が合祀されている。

        
         国道との合流地点で見返る。

        
         海岸線より響灘。 

        
         二見川河口部。(国道の橋) 

        
         1933(昭和8)年5月防波堤築造記念碑。

        
         二見漁港は1種漁港。江戸期には長府藩の津出蔵や炭倉が置かれ、林産物や海産物の積
        出が行われたとされる。 

        
         二見川沿いを歩いて駅に戻る。 


下関市豊北町の和久は「鵜」が越冬する壁島がある地 

2021年10月15日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         和久(わく)は北西に角島と相対し、西は響灘に面し、海岸線に沿って国道191号が走る。
        (歩行約1.8km)

        
         海岸線より角島。(国道191号線に駐車スペースあり) 

        
         壁島は角島方向700m海上にある岩礁で、大瀬、鳥塗瀬、地の瀬、中の瀬などの総称
        であるが、干潮期には1つの島になる。
         この壁島に「鵜」が毎年11月下旬頃から翌年の3月頃まで越冬する。日中は響灘から
        関門海峡にかけて飛行し、夕暮れ迫る頃島に帰って夜を過ごすという。
         「鵜」が大数なので堆積するグアノ(糞が化石化)は膨大な量に達し、かって燐酸肥料に
        使われたこともあるというが、ここからは石灰岩のように白く見える。(国天然記
念物) 

        
         眼下に和久漁港。

        
         国道筋を下関方面へ向かう。

        
         国道筋に神田上村(萩藩領)の大庄屋格であった吉田家(現在は大野酒造場)がある。吉田
        家は酒造業を営み、1864(元治元)年中山忠光卿が泊ったと伝える。

        
         第2種漁港の和久漁港と集落。

        
         北に角島大橋。

        
         お堂を覗くと「えびす神」のようだが詳細不明。

        
         和久の波戸場に高さ150㎝の築堤記念碑。文政8年(1825)庄屋・吉田兵助、浦年寄・
        中野謙造とあり、3面に世話人多数の名前あり。

        
         海岸から国道への道。

        
         和久集落は国道で海側と山側に分かれている。

        
         善光寺(真宗)は防長寺社由来によると、当寺の開基は宗流という人で、天正3乙亥(15
75)
        の年に一宇を建立する。天台宗であったが浄土真宗に改宗された。

        
         山門近くの五輪塔は、下方の地輪から空輪までの高さ1.98mで、銘文はないが手法か
        ら鎌倉後期のものとされる。
         しかし、水輪・火輪に対して地・風・空輪の大きさがやや不釣合であり、3つぐらいの
        五輪塔の寄せ集めではないかといわれている。この五輪塔は神功皇后社にあったものを後
                年に移転したとされる。

        
        
         この筋が赤間関街道。 

        
         照蓮寺(真宗)は大内義隆の家臣だった俗姓・岡村豊後守広次が、戦国の群雄割拠の争い
        に深く憂い、西本願寺10世に帰依した。創建は室町期の1533(天文2)年とされるが、
        その後、火災に遭うなどして古文書を焼失している。

        
         寺前から海岸線に出ると駐車地。


周防大島町の浮島は漁業が盛んで活気ある島 

2021年10月08日 | 山口県周防大島町

                
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         浮島(うかしま)は屋代島の北東約5㎞の安芸灘に浮かぶ島で、その先に約130mの橋で
        結ばれた頭島がある。なだらかな丘陵性の地形を示し、集落は南岸に江の浦、北端に樽見、
        西端に楽ノ江がある。
         室町後期には大内氏と深い関係のあった海賊集団宇賀島の根拠地であったが、1555
        (弘治元)年厳島合戦で陶方に属して全滅し、一時は無人島になった。
          浮島の名の由来は、海に浮かぶ島とか、宇賀水軍の島だったなど諸説あるようだ。(歩行
        約5.3km)

        
         JR大畠駅から防長バス周防油宇行き35分、土居口バス停で下車する。
町役場支所と
                島中小学校の間を抜けると浮島航路待合所がある。(🚻あり)

        
         コロナ禍で島外の方は甲板でお願いしたい旨の張り紙を了承し、11時30分嵩山を背
        にしながら出港する。

        
         江ノ浦港で下船する。(11:45)

        
         樽見港までの時間配分が読めないため、江ノ浦は急ぎ早の散歩となる。島の最南にある
        小島のような見壁山は、集落のシンボル的な存在となっている。

        
         海岸線に沿って車道が延びる。風土注進案によれば、1681(天和元)年沖家室の友沢四
        郎左衛門が浮島に渡り田畑を開き、森村の百姓に働きかけて島の開発が進んだと記す。

        
         中央にみかんの花だと思われるが、それを囲む模様は判らないが漁村集落排水マンホー
        ル蓋。 

        
         高波対策として海岸線に石垣を築き、その内側に民家を建てるのではなく、前面に作業
        場兼納屋を建て、その奥に主屋を建てるという形式をとっている。

        
         江ノ浦は平地が広いこともあって、樽見集落より人数が多くて漁業が盛んである。

        
        
         海側と路地から入れるようになっている浮島簡易郵便局。

        
         磐尾(いわお)神社について風土注進案は、友沢四郎左衛門が浮島を開拓する時、2丈(約
        6.06m)余りの黒蛇が出現、人家を害することが続いたので、森村宝王大明神の祠官・
        高田左近に頼み、祈念、守札をもらったところ退散する。
         しかし今度は大鼠が出現して作物や人家を荒らしたので再び祈念してもらい、宝王大明
        神より三宝荒神を勧請、岩尾大明神として祀ったところ、祟りはなくなったという。


        
        
         平地の中心部に耕地があり、それを取り巻くように民家が建っている。

        
         狭い路地は重要な生活道のようだ。 
         
        
         簡易郵便局のように周囲を囲み、内に生活の場を配する造りである。 

        
         江ノ島待合所はトイレ併用。

        
         樽見集落へは3本の道があるが、楽ノ江集落を経由する道を進む。 

        
         坂道を上がると江ノ浦集落が見納めになる。

        
         展望のない坂道を上がると海が見えてくる。 

        
         海辺に浮島小学校が見えてくるが、この付近が楽ノ江集落のようで、道路から学校まで
        は急坂を下らなければならない。

        
         浮島小学校の沿革はわからないが、なぜこの地に小学校が設置されたかについては、江
        ノ浦と樽見の中間であったことによるという。校内と渡船場が一体化され、児童や関係者
        は渡船での通学・通勤だそうだ。

        
         小学校の背後にある花崗岩採掘跡は、創業や発展経緯については資料等が残されていな
        いが、採掘は江ノ浦地区の集落用地の建設にとって欠くべからざるものだったようだ。
         セメントの出現で石材は不利な立場となり、戦後程なくその歴史に幕を下ろす。この採
        石跡は20~30mあろうか、切り立った断崖となり岩肌をさらしている。民家は小学校
        グランド付近と樽見への車道近くに散見できる。 

        
         ヘリポートを過ごして展望のない車道を進むと、樽見集落と頭島が見えてくる。

        
         樽見集落も漁業が中心で漁港には多くの漁船が係留されている。

        
         海岸通りに民宿・村田と県漁協浮島支店。

        
         JA山口大島の倉庫付近からの海岸通り。

        
        
         江ノ浦集落と違って平地が少なく山裾に沿って人家が並ぶ。

        
         樽見観音はもともと大島の寺に安置されていたが、江戸期の安永年間(1772-1781)島内に
        疫病が流行した折、尼僧智源が観音像を抱いて島に渡り、樽見の丘での祈祷と観音像の霊験
        により疫病が治まった。尼僧の開基といわれる堂には西国三十三観音像が祀られている。

        
         観音堂脇から下りきったところに神社が祀られている。正式に認知された神社でなく、
        島民の手によって樽見集落の守護神として建立された。みやま(宮の転訛か)と呼ばれる小
        丘上に鎮座し、御神体は五体の明神とされ、社の称号も「五体大明神」とされる。

        
         神社から東海岸に下って樽見港へ向かう。

        
         無人の頭島(かしらじま)では、ミカンの栽培が行われており、1973(昭和48)年農道橋
        (浮島大橋)で結ばれる。正面に見えるイリコ工場は、島で暮らす人々の生活を支える基幹
        産業である。

        
         海から見る樽見集落。(樽見港発15:00)

        
         海から見る浮島小学校。

        
         わずか3時間15分と短い時間であったが、離島にあって高齢化と過疎化が進展する中、
        小学校がこの先も在り続けることを願って屋代島に戻る。
大急ぎで土居口バス停に戻り、
        15時45分の大畠駅行きに乗車する。    


竹原は重厚な商家が残る伝建地区

2021年10月06日 | 広島県

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         竹原は南流する賀茂川・本川の河口付近に位置し、瀬戸内海に面する。(歩行約3.3km)

        
         JR竹原駅は、1932(昭和7)年に開業。当初は三呉線だったが三原ー海田市間が全通
        して呉線と名称変更する。

        
         JR竹原駅から頼山陽像までは徒歩約8分。頼山陽(1781-1832)は大坂で生まれ、広島城
        下で育ち、竹原の文化を吸収し京都で生涯を閉じる。父・頼春水が幼少期に竹原で暮らし
        ており、山陽も何度か訪れている。像は生誕200年を記念して建立される。

        
         旧笠井邸は塩田(塩浜)の浜主であった笠井清八が、1872(明治5)年に建てた邸宅であ
        る。本瓦葺きの大屋根、袖壁を設けた造りとなっている。

        
        
         鳥羽町通りの奥に増森家。

        
         本町通りから見る旧笠井家。

        
         製塩業が盛んだった頃、上市には胡堂、下市には地蔵堂があり、地区の守護仏として祀
        られてきた。地蔵堂は1602(慶長7)年下市の火災で焼失し、現在の建物は1927(昭和
          2)
年に建てられた。

        
         長生寺(真言宗)は、1585(天正13)年豊臣秀吉の四国攻めで伊予の河野道直が伊予か
        ら逃れ、竹原浦に隠棲するが24歳で病死するが、一説には自害したとも伝えられる。小
        早川隆景が道直のために同寺を建立し、法号より寺号を定めたという。

        

        
         古くから酒造業を営み「小笹(おささ)屋」の屋号で知られる竹鶴家。ニッカウヰスキーの
        創始者竹鶴政孝の生家で、3棟の妻入入母屋造りの建物が並ぶ。

        

        
         神明掛町通り入口に妙見邸。

        
        
         松阪邸は浜旦那(塩田経営者)の豪邸。「てり・むくり」をもった波打つような大屋根、
        鶯色の漆喰、大壁造り、彫を持つ出格子など華やかな建築意匠が際立つ。

        
         NIPPONIA HOTELは旧水出邸で、旧芸備銀行(現広島銀行)として明治期に建てられたが、
        のちに「水儀旅館」などの町家に活用された。

        
         板屋小路付近の町家。

        
         右の建物は醤油蔵として使用されていたが、現在は蔵構えのお好み焼き屋さん。

        
        
         1871(明治4)年に建てられた上吉井家の建物は、1874(明治7)年郵便取扱所として
        使われるようになる。本川ほとりに移転するまで60年間使用された初代竹原郵便局。 

        
         西方寺(さいほうじ)は浄土宗で古くは地蔵堂の隣にあり、現在地には妙法寺という禅寺が
        あったが、1602(慶長7)年下市の火災で焼失したため移転してきたという。

        
         西方寺境内の一段高い所にある舞台造りの普明閣は、1758(宝暦8)年京都の清水寺を
        模して建てられたという。
         木造十一観音立像を安置するが、この観音は平重盛の護身仏として、鞆の小松寺にあっ
        たものを、戦国期に寺僧が奉じてこの地に移したと伝える。

        
         舞台から竹原の町並みが一望できる必見の場所である。

        
         初代郵便局跡から上市方向。局跡にある郵便事業創業当時の書状集箱(ポスト)は現役だ
        そうだ。

        
         吉井家住宅は竹原最古の建物であり、17世紀後半にはすでに塩田経営により最上層商
        家に発展し、竹原屈指の経済力を誇るとともに町年寄役も務めた。
         1691(元禄4)年に建てられた主屋は、広島藩の本陣としても使われた。本町筋の最上
        級階級層の町家が、妻入り町家を大勢とする中にあって平入り形式で建てられている。

        
         1647(正保4)年藩営工事で干拓された大新開の沖口は、土地が低く塩気があって耕作
        には適さなかったため、播州赤穂の製塩技術を導入して塩田に改造された。1671(寛文
          11)
年には60町9反にもおよぶ面積を有していた。
         町並み保存センターでは、塩田によって栄えた竹原の町並みや歴史を知ることができる
        が水曜日は休館日である。

         

        
         お土産屋「竹楽」さんの建物は、町年寄であった菅超右衛門の邸宅と伝えられる。文政
        年間(1818-1830)には呉服屋「いずみや」であったが、のちに呉服屋「村上屋」となる。 

        
         この地で儒学者の塩谷道碩(1703-1764)が医業のかたわら学問を教えていた。没後、門人
        であった頼春水、春風らがその家を「竹原書院」として活用する。
         現在の建物は、1929(昭和4)年町立竹原書院図書館として建設され、42年間竹原の
        文化活動の拠点とされた。図書館移転後に空家になっていたが、現在は歴史民俗資料館と
        して活用されている。

        
         
資料館敷地内に竹原市出身の陶芸家・今井眞正が制作した竹鶴政孝(1894-1979)と妻リタ
                (1896-1961)の銅像がある。
洋酒づくりを志して1918(大正7)年から2年間イギリスの
                スコットランドに留学、ウイスキー醸造技術を身に着ける。
         1920年、スコットランド人のジェシー・ロバータ・カウン(愛称リタ)と結婚。翌年、
        リタを連れて帰国し、日本初のウイスキー製造工場である寿屋(現サントリー酒類株式会社)
        山崎工場の工場長を務める。1934(昭和9)年に寿屋を退社し、北海道余市町に大日本果
        汁株式会社(後のニッカウヰスキー株式会社)を設立してウイスキーの製造を開始。194
        0年に第1号のウイスキーを発売し、以降もウイスキーの製造に従事したが85歳で没す。

        
         城原邸

        
         石畳の先に胡堂。

        
         頼惟清(これきよ)旧宅で、頼山陽の祖父惟清が紺屋(染物屋)を営んだ家である。1775
        (安永4)年頃の建築で、入母屋塗籠造本瓦葺きの主屋と切妻造の離れ座敷が建っている。
         ちなみに頼惟精は長男の春水、次男の春風、三男の杏坪を儒者に育てた。 

        
         町並み保存地区の北端に建つ一間社流造の胡堂。上市の商業の神として崇められ、製塩
        ・酒造家が家運隆盛を祈ったという。

        
         胡堂から眺める本町通り。

        
         照蓮寺上り口に酒造用井戸があるが、本格的に酒造りが始まったのは寛文年間(1661-16
        73)頃とされ、井戸の石組みには天和3年(1683)の銘が刻まれている。

        
         照蓮寺は、中世は定林寺という禅寺で、竹原小早川氏の帰依も厚く子弟の学問所であっ
        た。1603(慶長8)年浄土真宗に改宗された。

        
         中ノ小路界隈。

        
        
         1863(文久3)年創業の藤井酒造。現役の蔵内を開放して酒蔵交流館として試飲などが
        できるようになっている。

        
         光本邸は江戸期に建築された「復古舘」の離れ屋敷で、後年光本家が居住し、のち市に
        寄贈され、現在は土蔵を改装して陶芸の舘とされている。

        
         中の小路と上市を結ぶ大小路に豪壮な家が建っている。長屋門を持つ武家屋敷のような
        佇まいである春風館は、江戸後期の儒学者・頼山陽の叔父である頼春風が、1855(安政
        2)年に建てたもので医業を営んでいた。西隣の復古館は、春風の孫が1859(安政6)
        に建てた家で、製塩と酒造業を営んでいた。

        
         阿波屋小路にも町家が見られる。(正面は春風館)

        
         大瀬家住宅は吉井家住宅と背中合わせに建ち、ほぼ吉井家住宅と同時期に建てられたと
        いわれ、吉井家とともに塩売払問屋三家の1つ(屋号は「あわや」)で、吉井家に次ぐ有力
        商家であったという。
         本瓦葺き屋根、黒漆喰塗籠の2階の垂木や窓の出格子など吉井邸とよく似ている。

        
         竹原市の地名といわれる市の木「竹」と特産のタケノコ、竹にちなんで「かぐや姫」が
        描かれた竹原のマンホール蓋。

        
         亀田家住宅は間口7間、護摩札から1856(安政3)年頃に建てられたとされる。

        
         日の丸写真館は本川左岸の道路沿いの角地に、敷地一杯に建てられ西角が隅切りされて
        いる。1932(昭和7)年頃に建てられたものである。

        
         旧森川家住宅は元竹原町長(塩田経営者でもあった)・森川八郎が、塩田の1番浜に建て
        た住宅。主屋は江戸末期から明治初期の町家を移築して造営したものである。

        
         福山市沼隈の富豪・丸本山路家から移築されたもので、5部屋が続く書院造りの大広間
        は圧巻である。

        
         大広間や離れ座敷から眺められる庭園には、飛び石と植栽が配されている。(ここで駅に
        戻る) 


呉市下蒲刈町の三之瀬は海上交通の要衝として栄えた町 

2021年10月05日 | 広島県

        
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三之瀬(さんのせ)は芸予諸島・下蒲刈島の東岸にあって、三之瀬瀬戸に面する。中央には
        標高282mの大平山があって、島全体が山地でみかん栽培が盛んな地である。(歩行約2
        .3km)

        
         駐車地先の呉市下蒲市民センターは、1999(平成11)年に廃校となった三之瀬小学校
        の校舎を活用しているそうで、壁面に校章が残されている。

        
         三之瀬の見どころが紹介されている。

        
         全島庭園化事業(ガーデンアイランド構想)の一環として整備された「松濤園(しょうとうえ
          ん)
」は、三之瀬瀬戸の潮の流れを借景に、松の庭を楽しめるように名付けられたという。
        (呉の名所は火曜日が一斉休館)  

        
         石畳の町並みとして整備されている。

        
         かっての御番所は海上警備の要で白洲の庭が清々しい。(海側の塀越しより)

        
         旧吉田邸は「あかりの舘」として、世界の珍しい灯火器が展示されているとか。

        
         旧有川邸は朝鮮通信使を歓待した時の記録に基づき、ジオラマ模型で再現されていると
        か。

        
         旧木上邸。

        
         海辺の散歩道には朝鮮通信使にちなんだ石碑がある。1655(明暦元)年に来日した第6
        次朝鮮通信使の記録「扶桑録」によると、大風雨の中を蒲刈に到着、直ちに宿舎で大歓待
        を受けた様子が詠まれている。

        
         蘭島閣(らんとうかく)美術館と常夜灯。

        
         広島藩領唯一の海駅(公の繋船場)として、本陣、番所のほか、朝鮮通信使の宿館も整え
        られ、瀬戸内海航路の要衝としての地位を確立した。この地に番所が置かれ、繋船奉行の
        もとで海上の警固に当たった。

        
         下蒲刈に多く自生していた春蘭の名を由来とする美術館は、木造建築の建物で日本近代
        絵画や郷土ゆかりの作家作品が展示されている。

        
        
         白雪楼(はくせつろう)は江戸末期に沼隈の豪農・山路機谷が、京都で営んでいた祖父の好
        奇亭を邸内に移築して楼造りに改めた。1892(明治25)年頼家により竹原に移されたが、
        頼本家(春風館)から下蒲刈町に寄贈された。

        
         蘭島閣美術館別館は洋画家・寺内萬治郎の常設展示館。

        
         別館から望む松濤園全景。

        
         現存していた山口県の上関番所を移築する予定が、町民の反対もあって頓挫。建物を参
        考にしながら復元された。

        
         山口県上関にあった旧家「吉田邸」を移築する。吉田家は安芸国吉田の出身で、毛利氏
        が防長二州に封じ込まれた際、上関に移住して大庄屋の地位を与えられ、造り酒屋、醤油
        などの醸造、イワシ漁の網元などを商う。

        
         富山県砺波地方の代表的な商家造り「有川邸」が移築される。

        
         1979(昭和54)年10月に蒲刈広域農道として建設された農道橋(蒲刈大橋)。橋長は
        480m、海面からの高さ23m。

        
         急傾斜地と海に囲まれた中に民家などが軒を並べる。 

        

        
         三之瀬港は漁港ではなさそうだ。 

        
        
         三之瀬本陣は朝鮮通信使の案内役だった対馬藩の宿泊所として使用された。

        
         長雁木の隣に長さ5.6m、17段の対馬雁木があったようだが、県道拡幅工事のため
        消滅してしまったとのこと。朝鮮通信使来日の都度同行した対馬藩主・宗氏の専用石段と
        され、宗氏の宿舎であった本陣前に位置したという。(拡幅工事後の設けられた雁木) 

        
         長雁木(福島雁木ともいう)は福島正則が幕命により本陣を設ける際、船着の便をはかっ
        て雁木を築く。最初は垂直に築いたが潮流によって崩壊したため、再築の際は中程に折り
        目を入れて、現在残っているものが完成する。
         最初11段であったものが地盤沈下によって3段付け足され、長さも埋立工事等で55.
        5mと短くなったようだ。

        
         櫂伝馬は無甲板木製の小舟で、船首は尖り、船尾は扁平な造りとなっている。朝鮮通信
        使寄港の際にも、船の遭難に備えて常備されていた。

        
         藩政時代の下蒲刈島には「上の茶屋」と「下の茶屋」があった。「上の茶屋」は本陣裏
        の高台、「下の茶屋」は本陣北側の海岸も雁木に沿って展開していた。
         丸本家住宅の由来ははっきりしないようだが、御茶屋の古図の範囲に位置し、棟門を構
        えた構成などから御茶屋を管理する武士の役宅であったとされる。(説明板より) 

        
         春蘭と松がデザインされた下蒲刈町のマンホール蓋。

        
         観瀾閣(かんらんかく)は満州で土木請負業を行った榊谷仙次郎が建てた別荘。木造2階建
        てで外壁はタイル張りとするなど満州で流行した建築様式が取り入れられている。
         座敷からは瀬戸の穏やかな波と潮流が望め「観瀾閣」と命名された。(国有形文化財だが
        外観のみ見学可能) 

        
         朝鮮通信使は1607(慶長12)年から1811(文化8)年まで12回来日したが、三之瀬
        への寄港は11回で、その接待は広島藩が行なった。
         宿舘は「上の茶屋」であったが、「下の茶屋」や本陣も使われた。通信使廃止後は茶屋
        は取り壊され、現在は茶屋跡に通じる路地と石段が残るのみである。


呉市豊町の御手洗は潮待ち風待ちだった港町

2021年10月05日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         御手洗(みたらい)は大崎下島の東端部に位置する。北東海上数百メートルには御手洗の地
        を囲む形で岡村島(愛媛県)が横たわり、好錨地となっている。
         地名の由来は、神功皇后が三韓出兵の際、当地に船を繫留して手を洗われた説と、菅原
        道真が大宰府へ左遷される際、この地に船を着け、天神山の麓で手を洗い天地神祇に祈っ
        たことによるという説がある。(歩行約2km)

        
         JR呉駅前からさんようバス御手洗行きのとびしまライナーがあるが、帰路、三之瀬に
        立ち寄るため車で訪れる。御手洗の見学可能な施設は火曜日が一斉休館のようで、無料駐
        車場を利用する。

        
         観光案内所の裏にある弁天社だが、由緒書きが薄れて読めないが宗像大社から勧請した
        とある。

        
         弁天社入口に大きな石柱。

        
         無料駐車場近くに観光案内所。 

        
         江戸期の町家だそうだ。

        
         金崎家住宅は切妻造・平入り本瓦葺き。建築年代は不明だそうだが、畳の敷かれた部屋
        が奥の一間だけで他は板の間である。(重伝建を考える会より)

        
         常盤町通りは1666(寛文6)年に成立した町の中心地。

        
         旧柴屋住宅は町年寄役であった高橋家(柴屋)の別宅で、1806(文化3)年伊能忠敬が大
        崎島を測量した時に滞在する。

        
         小西家住宅は入母屋造妻入り本瓦葺き。建築年代は建物の形式から文政年間(1818-1830)
        と推測される。(考える会より)

        
        
         御手洗は江戸時代より風待ち、潮待ちの天然の良港とされてきた。潮待ち館、北川家住
        宅、能地家住宅と並ぶ。

        
         常盤町通りの東入口に洒落た洋館の平野理容店。

        
        
         郵便局の先に新光時計店(昭和初期に松浦時計店から改名)。建物は大正期に建てられた
        ようだが、シンボルである懐中時計を模した木製の赤いフレームが町並みに溶け込む。
         右端に外から見える作業スペースがあるが、見学者のためではなく、自然光が作業に適
        しているので道路側に設けてあるとのこと。

               
        
         乙女座は1937(昭和12)年、当時の御手洗町長が町民の文化向上を目的に私財を投じ
        て建てられた劇場。1965(昭和40)年までは映画館として使用されたが、映画の斜陽と
        ともにみかん選果場となり、しばらくは空家だったそうだが、2002(平成14)年建設当
        時の姿に復元される。(休館のため内部は2008年撮影)

        
         元薩摩藩船宿・脇屋家住宅の建築年代は、形式からみて文政年間(1818-1830)と推測され
        る。

                 
        
         「越智醫院」の看板が目を引く大正期の建物は、薄いブルーの色合いと洋風な建物で大
        正ロマンが漂う。

        
        
         町庄屋・多田家(竹原屋)の屋敷跡。1863(文久3)年8月18日の政変で、三条実美ら
        七卿は長州に落ち延びる。翌年、長州軍が京に進軍したとき、実美たち五卿も入京しよう
        としたが、長州軍は蛤御門の戦いで敗北する。五卿は長州の敗北を知り、途中の多度津で
        引き返し、7月22日から2夜をこの屋敷で過ごす。

        
         恵比須神社は、1707(宝永4)年航海安全と商売繁栄の神として豊前国小倉から勧請さ
        れたという。御手洗で最も古い社で、現在の本殿は1739(元文4)年に建て替えられた。

        
         鳥居の先に小島、その先に愛媛県今治市の岡村島を結ぶ2つの架橋。

        
         恵比須神社の海側に建つ建物は詳細不明。

        
         鞆田家は廻船問屋「鞆幸」を営んでいたが、明治初期頃に建てられた建物になまこ壁が
        見られる。

        
         鞆田家の擬洋風二階建て建物は、大正から昭和にかけて迎賓館的な役割を担ったという。
        普段は中を見ることができないが野口雨情が長期滞在したという。

        
         大東寺は御手洗にあった「登光寺」と「隆法寺」という2つの真宗寺院が、1942(昭
        和17)年に合併した際、時の大東亜戦争に因んで寺号としたという。

        
         昭和初期まで旅館「新豊(しんとよ)」を引き継ぎ、1日1組限定の宿「閑月庵新豊」と、      
        船宿の内部をリフォームした食事処「なごみ亭」。 

        
         船宿風の建物。

        
         この建物(旧村井、旧木村、北川家住宅)の建築年代は文政年間(1818-1830)頃と推測さ
        れ、真ん中に位置するのが旧木村家で、屋号を「若本屋」といい、宇和島藩・大洲藩指定
        の船宿であった。

        
         1832(天保3)年庄屋・金子忠左衛門が寄進した灯明台(高灯籠)で、設置時には千砂子
        波止(ちさごはと)の突端にあった。

        
         波止の付け根に当たる造成地に、1830(文政13)年大坂の豪商・鴻池などが寄進して
        波止鎮守の住吉神社が建立された。

        
         19世紀以降瀬戸内海の港と競合し始め、御手洗の繁栄を取り戻すために、外港側への
        波止の築造は、御手洗にとって画期的な事業であった。藩府の事業として1828(文政1
        1)年5月に取り掛かり、1年を費やして全長120mの波止が完成する。

        
         ピンクの洋館は元医院だったとか。

        
        
         幼・小・中学校があった地で、のち中学校は豊中学校に統合され、小学校も1973(昭
        和48)年に統合されて廃校となったが、半世紀近くになる今も敷地はそのまま残されてい
        る。

        
         校舎の
あった石段を上がると、「志士・星野文平碑」がある。御手洗出身の星野文平(1
        835-1863)は英才の誉れ高く、広島藩学問所の教授となる。
         尊皇攘夷思想に影響を受け、維新の志士として京都に上り、広島藩の蒸気船購入交渉の
        ため伏見にいた勝海舟に会いに行く途中、かって切腹した傷口が悪化して1863(文久3)
        年客死する。(享年29歳)

        
         満舟寺の石垣は、戦国期の築城術である「乱れ築き」と呼ばれる石積みだそうだ。地元
        の伝承では豊臣秀吉の四国攻めの際、前線基地として加藤清正が築いたという。
         他説では伊予国守護河野氏に属していた来島村上氏が、御手洗にある「海関」の警護に
        あたっていたとあり。その水軍の城跡ではないかとされている。

        
         満舟寺の縁起によると、平清盛が庵を結び十一面観音を安置したとされるが、江戸期に
        観音堂が建立され、徐々に鐘楼や庫裡などが整えられたという。

        
               向かって右側の亀趺墓は、耳がついた獣のような頭を高く持ち上げているが、「贔屓(ひ 
                    き)
」で、重きを負うことを好む亀に似た形状の霊獣とされている。左側の墓は首が欠けて
        いるため判別できないが、こちらの墓の主である「大森捜月」は、御手洗出身の江戸中期
        の画家で、養父大森捜雲から狩野派の画法を学んだという。


        
         荒神社には1712(正徳2)年と1724(享保9)年の棟札があるとのこと。

        
         北川醤油は、かって「北喜」の屋号で醤油製造を営んでいた。立派な醤油蔵が若胡子屋
        と向い合うように建っている。

        
         若胡子屋は、1724(享保9)年広島藩から免許を受けたお茶屋(遊郭)跡。他に免許を受
        けた千歳屋(海老屋)、富士屋(藤屋)、堺屋(酒井屋)もあって、全盛期の御手洗には100
        人以上の遊女がいたという。

        
         町年寄・庄屋格の金子家(三笠屋)が賓客接待のために建てた屋敷。1867(慶応3)年9
        月、広島・薩摩・長州の3藩は挙兵の約定を結び、京への出兵を計画する。同年11月こ
        の屋敷で出兵の約定「御手洗条約」を結び、同月26日にそろって出航する。
                
しかし、広島藩は鳥羽伏見の戦いで兵を動かさず、維新の中枢から外れてしまう。

        
         天満神社には御手洗の地名になったという菅公の井戸と、1903(明治36)年日本で初
        めて自転車で世界一周無銭を成し遂げた中村春吉碑(境内横が生家跡)、他に菅公の歌碑、
        力石、手水鉢の句碑、飛騨桃十の句碑がある。

        
         寛永期(1624-1644)の大崎下島東端は農耕地だったが、西廻海運の発展によって、御手洗
                湾に廻船が寄港するようになると、大長村の百姓は寄港船に野菜、薪、水を売ることを始
        めた。御手洗に移住する者も出て、1666(寛文6)年村人による御手洗の町割嘆願が許可
        されると急速に港町が形成された。(御手洗港バス停と右手に港町交流館) 

        
         歴史のみえる丘公園から見る御手洗の町並み。

        
         湾に浮かぶ平羅島、中の瀬大橋、中の島、手前に小島、奥に大崎上島、右端に岡村島。

        
        
         「遊女の塔」の説明によると、弁天社の丘辺りの急傾斜地工事で偶然に掘り出された墓
        石100基余りが並ぶが、2003(平成15)年島内外の善意によって移転することができ
        た。これらの墓石は1730(享保15)年から江戸末期に至るまでの遊女・童子とそれに係
        わるたちの慕標で、発掘場所から若胡子屋ゆかりの人々と想定されている。
吉原と違って
        御手洗では亡くなった遊女を手厚く葬った証でもある。

        
         この塔は若胡子屋多兵衛とその縁者が若胡子屋代々の当主を回向するために、1757
        (宝暦7)年に建立したという。塔には「火の車伝説」と呼ばれる話も残されている。

        
         故郷の親元を離れて二度と故郷の地を踏むことなくこの地に散り、丘に葬られていつの
        頃からか土に埋もれて、陽の光を浴びることもなかった。この地の土となった遊女たちを
        偲んで海が見えるこの地が選定されたという。


呉は海軍呉鎮守府があった町

2021年10月04日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         呉は南に倉橋島、西に江田島を望み、域内に二河(にこう)川と堺川が西流し呉港に注入す
        る。
         地名の由来は、低温地を示す地形を「くれ」と呼んだことによるとか、往古には灰ヶ峰
        より桶・船材の榑(くれ)の木が産出されたことによるという説もある。
         さらに海外からの渡来者を呉人と呼んだことなど諸説あり。(徒歩3.4km) 

        
         JR呉駅は、1903(明治36)年海田市と呉間の開業により設置される。1945(昭和
        20)年7月の呉空襲により駅舎が全焼するが、翌年に3代目の地上駅舎が竣工する。19
                81(昭和56)年現在の駅ビルが完成する。

        
         海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)は実物の潜水艦を陸上展示したもので、艦内の士
        官室など構造の一部を見ることができる。(コロナ感染拡大防止対策により入れ替え制のた
        め入館できず)

        
         てつのくじら館と大和ミュージアムは、JR呉駅の改札口を出て連絡通路(ゆめタウン呉
        内を利用)徒歩約5分。

        
         呉海軍工廠で建造された戦艦「大和」の10分の1模型が展示されている。1941(昭
        和16)年12月に建造され、原寸は全長263m、全幅38.9mで46センチ主砲を搭載
        していた。

        
         1945(昭和20)年4月7日沖縄方面に出撃したが、アメリカ軍機動部隊の攻撃を受け
        て撃沈される。

        
         零戦62型は、1978(昭和53)年に琵琶湖から引き揚げられ、その後、嵐山美術館に
        展示されていたが閉館したため、和歌山県白浜ゼロパークに引き継がれたが、ここも閉館
        したため大和ミュージアムに引き取られたという。
         零戦が採用された1940(昭和15)年は、神武天皇即位紀元(略称。皇紀)2600年に
        あたり、その下2ケタ「00」から「零式」とされた。

        
         特殊潜航挺「海龍」も展示されている。

        
         大和ミュージアムの芝生広場に潜水調査船「しんかい」が展示されている。1968(昭
            和43)年に竣工した戦後初の本格的潜水調査船で、1977(昭和52)年に解役した後、海
        上保安大学校に永い間保存・展示されていたが、2003(平成15)年ここに移設された。
         「しんかい」は潜航深度600m、乗員4名で潜航時間約10時間であった。小松左京
        作の「日本沈没」(1973年公開映画)に登場する潜水艇「わだつみ」のモデルとなった。

        
         桟橋と造船用大型クレーンが並ぶ。

        
         自治体の表示がない呉市のマンホール蓋。

        
         左手に呉教育隊(旧呉海兵団)。

        
         美術館通り(旧海軍病院坂)は赤煉瓦敷の並木道に彫刻が置かれている。右手の旧海軍練
        兵場跡は入船山公園となっている。

        
         赤系塗料で塗られた建物は、旧呉海軍下士官兵集会所(青山クラブ)で、下士官のための
        娯楽室、物品販売所、入港した艦艇乗組員の宿泊場所でもあった。
         隣接する建物は、日露戦争で沈没した軍艦吉野と高砂から吉野の桜と高砂の松より「桜
        松館」と命名されたホールがある。

        
         1890(明治23)年5月から1年8ヶ月、東郷平八郎が呉鎮守府参謀長として住んでい
        た家の離れ。正円寺から公園内に移築されて休憩所として公開されている。(国登録有形文
        化財
)

        
         正面入口より続く坂道の石畳は、1909(明治42)年から1967(昭和42)年までの5
        7年間、呉市内を走っていた電車の敷石が移設されている。

        
         1921(大正10)年旧海軍工廠造機部の屋上に設置され、終戦まで工廠とともに時を刻
        んできた。高さ約10mの塔時計は、現在も時を刻んでおり、電動親子式衝動時計として
        は国産で最古のものといわれている。

        
         番兵塔は長官官舎の警備を目的に設置された。

        
         旧チケット売り場は番兵用の建物だったのだろうか。

        
         1号館(旧火薬庫)は、1902(明治35)年陸軍が音戸に近い休山に建設した高鳥砲台跡
        にあったものが移築された。

        
         1889(明治22)年に呉鎮守府が開庁されると、軍政会議所兼水交社として建てられた
        が、1892(明治25)年司令長官官舎として使用されるようになる。
         1905(明治38)年の芸予地震で崩壊したため再建築されたもので、呉は軍港のた空め
        襲を受けたが、近くに海軍病院があったため難を逃れたという。

        
         応接室はごく簡単に客と話したり、打ち合わせをしたりする部屋であったようだ。

        
         賓客や要人を迎え入れ、食事会ができるスペースもある。

        
         和洋折衷で表側の洋館に対し、裏手の和室部分は質素そのもので、歴代長官と家族が暮
        らした場所である。洋館の玄関に入ると和の部分に築造された庭が一直線に見えたという。

        
         呉市の歴史的資料、旧海軍関係の資料がある歴史民俗資料館。

        
         入船記念館の向かい側に旧呉海軍病院。呉鎮守府が開庁された1889(明治22)年に創
        設され、1945(昭和20)年終戦により英豪軍に接収される。1956(昭和31)年接収解
        除により国立呉病院として発足し、その後、現在の呉医療センターに名称変更する。

        
         1886(明治19)年横須賀、舞鶴、佐世保と呉の軍港に鎮守府が置かれ、参謀部・軍医
        部・主計部・造船部・軍法会議・監獄所などが置かれた。
         呉鎮守府の開庁は1890(明治23)年4月で、1907(明治40)年築の赤煉瓦造洋風建
        築の建物は、海上自衛隊呉地方隊が継承し、現在も同総監部の第1庁舎として使用されて
        いる。 

        
         かっての呉海軍工廠の造船船渠で、戦艦「大和」が建造されたドックの上屋(左側)を眺
        めることができるが、ドックは埋め立てられたとのこと。

        
         呉が鎮守府に選ばれた理由として、深い入江を有し、山々に囲まれているため防御に優
        れていた。当時、呉の名望家で呉への海軍誘致に活躍した澤原為綱の碑が歴史のみえる丘
        に建立されている。
         その他、大和の船橋をかたどった「噫(ああ)戦艦大和塔」や渡辺直己歌碑、正岡子規が
        1895(明治28)年友人の古嶋一雄が従軍記者として出征するのを見送るため、呉を訪れ
        た際に詠んだ句碑がある。

        
         宮原小学校前の陸橋から呉の町並みを眺めて、子規句碑前バス停前よりJR呉駅に戻る。