ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市通津は小瀬上関往還道沿いに開けた町 

2024年01月24日 | 山口県岩国市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         通津(つづ)は高照寺山の東麓、通津川流域に位置し、東は瀬戸内海に面する比較的平地に
                恵まれている。(歩行約8.2km) 

        
        
         JR通津駅は切り立った崖を背にし、駅前は広々とした通津開作である。1934(昭和
        9)年8月11日に開業したが、1925(大正14)年に通津駅設置請願運動を起こして以来
        10年目のことであった。

        
         駅前に「通津散歩」の案内板が立てられ、パンフレットは通津公民館に置いてあります
        とあるが、日曜日なので残念して持参した地図を頼りに散歩することにする。 

        
         小瀬上関往還道の一里塚が御旅所付近にあったとされるが、痕跡などは残されていない。

        
         この通りもクルマ社会に押し流されてシャッター通りになっている。 

        
         地元の方にお聞きすると旧郵便局の建物だったとのこと。 

        
         1889(明治22)年町村制施行により、通津村と長野村が合併して通津村となり、農協
        がある地に村役場が設置されたが、昭和の大合併で岩国市に編入されてしまう。 

        
         住吉神社は、1902(明治35)年3月3日河本弥重郎・青巳(せいき)親子が建立したもの
        である。青巳は嶋谷汽船に乗って航海していたが敦賀沖で遭難する。船員の多くが死亡し
        たが、幸いにも気絶した状態で浜に打ち上げられ、その際に住吉神が現われて助けられた
        という。鳥取県境港の住吉神社でお祓いをしてもらい、神社の建物を縮尺して造ったとさ
        れる。

        
         屋根の下に神猿(まさる)の彫り物がある。公民館が建設されるまでは目の前が港で、航行
        安全の神様として漁師たちが拝んでいたという。

        
        
         河野善次郎(1854-1917)は、通津浦と大島の久賀浦が漁業権争いをし、7人の犠牲者が出
        た。この争いは通津出身の河野氏が県の役人となり調停をしたという。

        
         国道188号線沿いの勝井建設傍に、「田浦(でんぽ)相撲発祥の地」碑がある。豊臣秀吉
        が文禄の役(1592年)で朝鮮に出兵した際、風待ちのため通津浦に仮泊し、兵士の士気
        を鼓舞するため田浦で相撲をとらせたのが始まりという。

        
         街道に戻って北上するが、かつてのバス路線だったという。(米重商店付近) 

        
         1761(宝暦11)年11月建立とされる本町の火伏地蔵尊。

        
         明治25年(1892)創業の看板がかかる河本百貨店。

        
         鍵曲りとなっている一角にある平入り2階建ての建物は、元酒屋で屋根に特徴を見る。

        
         光専寺(順正寺)の寺伝によると、大内家の家臣であった中村壱岐守実之は、大内義長が
        自刃(1556)したため乱を避けて通津村に隠居する。1573(天正元)年浦年寄を務めていた
        俗姓中村彦六が仏縁を喜び、年寄役を嫡子に譲り開基したという。のち寺号を申請して江
        戸期を通じて順正寺と称する。
         1850(嘉永3)年建立の山門は、岩国の甚五郎といわれた福田他武兵衛の作とされる。 

        
         1867(慶応3)年4月吉川家故障(領主の経幹死去)のため寺号を光専寺と改めたという。
       
        
         鐘撞堂の側に珍しい墓がある。台座の上に燗徳利型の墓石が建てられ、その上に大盃を
        模した大石が伏せてある。これは釈道円信士の墓で、俗姓満田屋金重郎という信徒が寄金
        して鐘撞堂を建てたが、この人の功績を偲び生前好物であった酒にちなみ、1775(安永
           4)
年に建立して菩提を弔ったという。

        
         1624(寛永元)年開基とされる専徳寺(真宗)は、創建時は高照寺山にあった常福寺(真
        言宗)が無住であったため、通津に隠居していた吉川広家は、この寺を改宗して浄土真宗の
        寺を建立することを岩国領主・吉川広正に願い出る。
         1686(貞亨3)年頃現在地に移転し、その後本堂、庫裏、書院など建立して体裁を整え
        たという。(初代住職は弘中隆包の孫)

        
         境内には弘中隆包の墓がある。陶晴賢の部下で岩国領主であったが、毛利元就との厳島
        合戦(1555)に反対の具申をしたが聞き入れてもらえず、息子・隆佐(たかすけ)とともに出陣
        して討死する。

        
         通津川の左岸に城跡とされる高山。

        
         両金橋の先で旧街道は国道に合わす。

        
         崩の下架道橋を潜ると通津川には葦の大群落が広がり、通津川橋梁を「瑞風」が走り去
        る。

        
         横町橋手前から高山登山道に入ると、道は明瞭でよく整備されている。

        
        
         通津の町が一望できるようになる。

        
         わずかにジグザグ道となるが歩きやすい。

        
         木造の鳥居下に小さな祠には、須佐之男命(天照大御神の弟で八岐の大蛇を退治した神)、
        大黒様とされる大国主命(縁結びの神、福の神)、えびす様とされる事代主命(漁業の守り神、
        商売繁盛の神)の三神が祀られているという。

        
         玖珂郡志に「固屋ヶ廻平田隆重城。堀切三有之。是城跡也」とある。城主は平田隆重と
        伝えられ、主郭は山頂にあって、現在は四阿と四等三角点がある。(標高69.6m)
         海上の見通しがよく、海上からの攻撃に備えた陶方の城であったと推測されている。 

        
         三角点から北に進むと三重堀切と思われる遺構がある。

        
         三重堀切を過ごして北斜面を下る。

        
         登山口から左折して通津川方向へ向かう。 

        
         乗越橋東詰にある馬頭観音は、牛馬などが亡くなったのを祀るが、この馬頭観音は町か
        ら郷集落に帰る途中、馬が猿猴(河童)に引かれて橋から落ちて死んだので祀ったと伝わる。

        
         延命地蔵菩薩。 

        
         この一帯は蓮田で掘り出し作業されているが、表面をショベルカーで削りレンコンの掘
        り出しは手作業という。(正面に高照寺山) 

        
         山裾に東沢瀉(ひがし たくしゃ)終焉の地がある。

        
        
         沢瀉(1832-1891)は岩国城下の錦見沙原で生まれ、名は正純で沢瀉が号である。はじめ二
        宮錦水に学び、陽明学を奉ずるに至る。尊皇攘夷の論が盛んになると、必死組をつくり長
        州征伐を阻止するため藩政改革を要求する。訴えに及んだため柱島に流刑される。
         明治維新後に罪を許されて、1870(明治3)年保津村面高(おもだか)に「沢瀉塾」を開き、
        1884(明治17)年の閉塾まで優秀な人材を輩出する。この地に移居したが60歳で他界
        する。

        
         県道115号線(通津周東線)を上がって行くと、吉川広家終焉の地への案内がある。

        
         案内に沿って行くと海が見えてくる。

        
         初代岩国領主・吉川広家(1561-1625)は、毛利元就の次男で吉川家の家督を継いだ吉川元
        春の三男である。長男が早逝して次男は他家の家督を継いでいたため、吉川家の家督を継
        ぐ。1622(元和8)年領主を嫡子・広正に譲ってこの地に隠居したが、3年後に没すると
        隠居所は海前寺(曹洞宗)となったが、現在は碑のみである。 

        
         終焉地碑から左廻りに進み、碑の左後あたりに本呂尾の荒神様。

        
         本呂尾(もとろお)の火伏地蔵尊。

        
         何も案内などはないが、南部八十八ヶ所霊場の観音様のようだ。場所は本呂尾公会堂横、
        火伏地蔵のすぐ奥にある。

        
         本呂尾橋バス停に出て県道を引き返す。 

        
         大歳神社境内地にあるイヌマキは、山口県指定の天然記念物である。高さ約16m、雄
        株の巨木には幹に縦溝ができていて、樹齢350年以上ともいわれるが 枝を四方に広く
        のばしている。

        
         大歳神社の由緒はわかっていないが、イヌマキが植えられた頃に創建されたのではとい
        われている。五穀豊穣の神が祀られている。

        
         大歳神社の横にあるのが中村の荒神社。 

        
         乗越橋から鉾八幡宮への道に入る。周辺に景福寺など見処があるようだが、土地勘がな
        いため道がわからず残念する。

        
         桜井戸は通津地区の重要な水源として、どんな干ばつでも枯渇することなく、住民や港
        を出入りする船舶の飲料水などに利用されてきたという。(通津中学校横)

        
         1985(昭和60)年環境庁の全国名水百選に選ばれ、井戸横の蛇口から水を汲むことが
        できる。

        
         八幡宮入口にある恵比須神社。 

        
         1709(宝永6)年建立の石大鳥居から神社の領域(神域)となる。 

        
        
         鉾(ほこ)神社は、平安期の859(貞観元)年宇佐八幡宮より山城国男山八幡宮に勧請の際、
        風待ちのため通津浦に停泊する。この浦の長が分霊を懇願したところ、分霊及びその備え
        として神鉾を賜り、鉾八幡宮と称したと伝える。
         社殿は創建時より度々造り替えられたが、1796(寛政8)年造営され、1919(大正8)
        年に拝殿、1949(昭和24)年に神殿の改築が行われたという。


防府市牟礼の矢筈ヶ岳南に南北朝期の敷山城跡 

2024年01月11日 | 山口県防府市

                      
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         敷山城跡は防府平野の東北端にそびえる矢筈ヶ岳(標高460.8m)南面の8合目に位置
        する。城跡とされるが寺坊があった地で、南北朝時代に後醍醐天皇側へ味方した周防国府
        の役人が、足利尊氏側の軍勢と戦いが行われた地が敷山城跡とされている。(歩行6.3㎞) 

        
         JR防府駅北口から防長バス阿弥陀寺行き(10:33)約15分、敷山バス停で下車する。

        
         車窓から見えた石柱は「右あみだみち」とある。

        
         矢筈ヶ岳を仰ぎながら国道2号線の敷山地下道を潜り、出た所から左手に国道と並行し
        た道がある。

        
        牟礼7号函渠の先に道標あり。

        
         お地蔵さまに一礼すると山手を新幹線が走り去る。その先の分岐にも道標があるので迷
        うことなく歩ける。

        
         新幹線下を潜った先の四差路は直進し、民家の間を上って行くと防府の町並みが見える
        ようになる。

        
         「敷山城跡」の案内板傍に無縫塔(僧侶の墓塔)が並ぶが、室町期の1502(文亀2)年国
        分寺の手で、向い側の田屋(現在の堀宅地)に再興され験観寺と称した。その後再び荒廃し、
        宝永年間(1704-1711)雲岩寺(現在の極楽寺)によって再興されたが、いつ頃から現観寺と称
        したかは不明だそうだが、1868(明治元)年雲岩寺に合併される。

        
        単調な上り一辺倒の舗装道である。(新幹線下から約1.1㎞) 

        
         車道終点の左側に敷山城跡へ道がある。

        
         階段を上がると、「右:敷山城跡、左:忠魂碑」の案内がある。

        
         1940(昭和15)年10月防府市によって敷山城戦死者の忠魂碑が建立されたが、主は
        皇紀2600年の祝賀が目的のようだ。 

        
         尾根の左を進むが、明瞭な道なので迷う心配はない。

        
         道なりに進むと平坦道に出る。

        
         平坦地の先に「史蹟 敷山城趾」石柱が立てられている。

        
         矢筈ヶ岳南側8合目を敷山と呼び、俗に12段とも呼ばれている寺坊の跡が12ヶ所残
        されている。

        
         標柱を過ごすと複雑な地形を示す。

        
         この平地に坊があったのであろう。

        
         奈良・平安前期まで天皇の新政が続き、国司はその任を果たしてきたが、荘園と称した
        土地・人民を私有化し、やがて勃興した武士に犯されてしまう。
         後醍醐天皇(1288-1339)は天皇による新政を理想とし、1331(元弘元)年倒幕を計画する
        が密告で発覚し、京都の笠置山に籠城するも落城して捕らえて隠岐の島へ流された。(元弘
        の乱)
         1333(元弘3/正慶2)年島から脱出して伯耆国船上山で挙兵し、追討するため幕府から
        派遣された足利尊氏は、後醍醐方に味方し北条氏を滅亡させる。帰京した後醍醐天皇は、
        同年6月に建武の新政を開始する。

        
         梵字石の中央に梵字があって「金輪聖王(こんりんじょうおう)・天長地久・文永2(1265)年
        乙丑5月」と刻まれているそうだが、建立の年代から敷山の戦いとは關係がないという。
        石碑建立から9年後、元寇の役が起こっていることから、石碑は元の侵攻から国の安泰祈
        願するものとする説がある。

        
         建武の新政を開始した後醍醐天皇は、元号を「建武」に改める。1335(建武2)年北条
        の残党が起こした中先代の乱で、尊氏は勅許を得ないまま鎮圧に出向き、付き従った武士
        に恩賞を与えた。これが離反とみなした後醍醐天皇は追討を命じ、京都で足利軍を破る。
        尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に態勢を立て直し、1336(延元元)年5月湊川で楠木・
        新田軍を破り、足利軍が京に入ると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが苦戦に陥る。

        
         周防国府の地にいた清尊・教乗は、大内、厚東氏が足利方の援軍として大挙出兵した虚
        に乗じて挙兵する。京都における足利方の後方を脅かし、牽制しようとするものであった。
         清尊らは国庁を出て地の利のある敷山験観寺に籠城したが、尊氏は石見国上野頼兼に命
        じて近隣諸国の軍勢を率いて攻める。攻防10日余りの奮戦後、衆寡敵とせず敗退して清
        尊・教乗らは戦死、1336年7月4日敷山城は落城する。

        
         本堂跡には敷山神社が建立されているが、方形に巡らした石垣や礎石が残されている。
        この地が8合目で、山頂付近に大岩テラスがあるというので上がることにする。

        
         社殿左手の道を進むと分岐になるが、右の道が山頂への道、左は水場への道である。

        
         やや急坂の一本道。 

        
         時にこんな場所もある。

        
         尾根に上がる手前左手にロープがあったのでよじ登る。

        
         巨岩の中に平らな大岩テラスがある。

        
         展望もあって岩上でしばしの休憩とする。

        
         三田尻港方向の瀬戸内海に野島や姫島が浮かぶ。

        
         防府平野の中央に桑山、右手に佐波川が南流し、ラクダ色の広い土地は自衛隊基地であ
        る。

        
         北にわずかな展望がある。

        
         ここで引き返そうと思ったが、バス乗車時間に余裕があるので山頂を目指すことにする。
        尾根に出て北東に向かうと正面に大岩があり、右に巻いて下ると鞍部に出る。

        
        鞍部からは急坂を登り返すことになるが、途中には西峰と思われる頂を見ることができる。

        
         山頂手前の右に鉾岩という大岩がある。

        
         鉾岩から山頂までは緩やかな道で、右手に大平山や牟礼地区が一望できる場所がある。

        
         三等三角点の立つ山頂は、樹林に囲まれて東に大平山の頂が望める程度である。験観寺
        跡まで戻ってバス時間を調整する。

        
         登山口に到着すると一息つける。

        
         牟礼7号函渠を潜ると敷山会館傍に石碑が建立されているが、風化して読み取ることが
        できない。この付近に敷山出身の江山峰太郎顕彰碑があるようだが、江山氏は明治の初期、
        牟礼小学校に奉職され、特に青年会教育や牟礼各地にある会館創設者でもある。

        
         牟礼中学校を目指しながら矢筈ヶ岳東峰の鉾岩を確認して、中学校前バス停よりJR防
        府駅に戻る。