ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市戸田の昇仙峰に戦時遺構と四郎谷集落

2023年01月31日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         四郎谷(しろうだに)は三方を山に囲まれた入江の集落で、海岸部を山陽本線が走り、山間
        に棚田が
がる。
         昇仙峰(しょうせんぼう)は戸田と四郎谷の間にそびえる山で、標高261mの山頂には戦時

                中に徳山港防備のための徳山要港警備隊が置かれた。(歩行約10㎞、🚻なし)

        
         利便性はJR戸田駅からの方がよいが、JR防府駅から防長バス徳山行き(10:05)に乗車
        して約30分、車窓からの景色とバス停(地名)を楽しんで湯野温泉口バス停で下車する。

        
         歩道橋で国道を横断して、昇仙峰を仰ぎながら四郎谷に通じる車道を進む。

               
         歩道橋から約700m歩くと山陽自動車道上下線のガードを潜る。

        
         そのまま四郎谷へと思ったが昇仙峰登山口の案内を見て、山頂に戦争遺構があると
聞い
        ていたのを思い出して、山登りは素人であるが登山道は整備されているようなので挑戦し
        てみる。

        
         案内に従うと約100m先に登山口があり、ここから左手の自動車道法面に取り付く。
        舗装路であるが急勾配なので休みながらの歩きとなる。(車の場合、ガード傍か登山口駐車
        可能)

        
         次の分岐で見返ると戸田の町並みが眼下に広がる。分岐を左折して金網に沿うが急勾
        配は続く。

        
         やがて広くなった所に階段と大将軍の経塚説明板がある。山陽自動車道の工事中に法面
        から大将軍と呼ばれる経塚が発見されたという。経典を埋納する経塚は、末法思想と弥勒
        信仰に基づき、末法の世に経典が失われてしまうことを恐れ、地中に埋経したことに始ま
        るという。(頂上まで800mとあり)

        
         説明板の先からは未舗装になるが、幅員の広い旧軍道路で落葉を踏みしめながら尾根上
        に上がる。さらに上って行くと左手に水槽のような遺構がみられる。

        
         「頂上まで200m」の案内を過ごすと、左手に海軍の標石と思われるものがあるが刻
        まれた文字は読みとれない。

        
         発電用燃料庫と付属屋は便所であるが、付属屋は当時のものではなさそうだ。 

        
         藪となってはっきりしないが発電所用水槽で、その近くにディーゼル発電機が設置され
        ていたとされる。

        
         燃料庫の裏側から山腹を進むと、兵舎跡と思われる広い平坦地がある。

        
         水槽と思われるものと防空壕のような穴が残っている。

        
        
         軍用道路に戻って少し登ると水槽が2つあるが、手前側は兵舎用水槽、頂上側はポンプ
        により送水した水を貯める貯水槽(写真下側)である。

        
         指揮所の建物。

        
        
         内部は施錠されていないので見ることができるが、大高神山や野島で見たのと同じ形式
        である。

        
         台座にラッパ状の聴音機を据えて敵機の高度や速度を測った。聴音のため周囲の音源を
        遮断する必要があり、探照灯や指揮所、発電所から離れた位置に設置するだけでなく、掩
        体(えんたい)によって音を遮断する仕組みであった。

        
         山頂は初日の出を迎える絶好の山のようで、焚火や場所取り跡などが残されている。

        
         指揮所の屋上は偽装のため植物が植えられ、その中央部に管制器が設置されていたとの
        こと。ここから徳山湾などが一望できる。 

        
         山頂には毘沙門天と石鎚様が祀られているが、毘沙門天は戸田市の心光寺に移されてい
        るとか。

        
        
         石組みの上には150㎝の探照灯が設置されていたが、上空の敵機を聴音機で測定して
        探照灯で照射する仕組みである。航空機による夜間爆撃に対する防空手段で、高射砲など
        の射手がターゲットしやすいように補助するものであったが、半面、照射位置がわかるた
        め攻撃の的になることもあったようだ。

        
         探照灯台の東側に「四郎谷下山道」の案内あり、少し下ると左側に煉瓦のようなものが
        見えるの
で立ち寄ると、兵舎があった真下に残骸が放置されている。

        
         こんな道が続くだろうと期待したが‥‥

        
         下って行くと荒神社の上宮。

        
         上宮の鳥居は笠木と貫が欠落しているが、柱には明治□4年3月吉日とある。

        
         上宮からはほぼ直下降する荒れた道で、上りに使用するのがベストである。

        
         眼下に四郎谷集落と海に浮かぶのは回天基地があった大津島。

        
         集落内で地元の方にお尋ねすると、一昨年(2021)の10月に森林火災があって、海水で
        消火したため緑を取り戻すには時間がかかるだろうと話してくれる。

        
         文政8年乙酉(1825)3月10日と刻まれた石鳥居を潜る。 

        
         鳥居の先で市道に合わす。

        
         ヘアピンカーブを曲がれば左手に荒神社。

        
         四郎谷地区の棚田はやまぐち棚田20選の1つとされるが、見るかぎりでは耕作放棄地
        のようである。

        
         軒数は多いが人口は何人ぐらいだろうか。

        
        
         周南市戸田市民センター四郎谷分館および四郎谷愛郷館の看板がある地は、1879(明
        治12)年に開校した戸田小学校四郎谷支校(後に分校)があった。1942(昭和17)年本校
        に統合されたが、門柱は当時のものと思われるが、建物は1957(昭和32)年に消失し、
        翌年に鼓南中学校(周南市大島)の校舎解体資材によって建設された。


        
         集落背後の昇仙峰には、往古、山麓に正仙坊という寺があり、山を正仙坊山と称してい
        たが、時期や理由はわからないが現在の表記になったという。白くなった箇所が火災によ
        り焼失した箇所である。

        
        
         1898(明治31)年3月17日山陽鉄道の徳山ー三田尻(現在の防府)間が開通、戸田ー
        富海間にトンネルが設置された。1906(明治39)年山陽鉄道は国営(鉄道省)に移管され、
        1935年代に山陽本線は複線化、1964(昭和39)年には電化されて蒸気機関車は姿を
        消した。電化は高さを必要としたため旧トンネルはお役御免になったようだ。

        
         2つのトンネルを歩いてみたが、ライトを忘れたため内部を知ることができなかった。 

        
         下部は石組みで天井部分は煉瓦が用いられている。 

        
         トンネルを出ると車窓からも眺められる風景が広がる。

        
         トンネルから引き返すと橋の袂に「天野屋の碑、この矢印の方向」と案内されている。
        碑から先に案内はないが小山の頂上に構築物が見えるので、とりあえずこの方向に進んで
        みると入口に案内がある。

        
         「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフを残した義心の人、利兵衛の生誕の地と伝え
        られて碑が建立されている。忠臣蔵の物語として登場する人物で、諸説あるようだが「天
        野屋利兵衛のふるさと」を眺めて戻ることにする。

        
         児童たちの通学を見守り続けた地蔵さんに一礼して峠を下る。

        
         右手に棚田を見て、道の駅ソレーネ周南からバス(15:16)でJR戸田駅に出る。


防府市牟礼の阿弥陀寺から旧山陽道 

2023年01月11日 | 山口県防府市

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         牟礼(むれ)は防府平野の東、大平山の西南に位置する。北部を山陽新幹線、山陽自動車
        道と国道2号、南を山陽本線が走る。
         地名について、奈良期の713(和銅6)年までは
牟々礼であったが、郷名を2字に制限
        する好字二字令により牟礼になったと伝える。(歩行約6.5㎞、🚻阿弥陀寺とスーパー)

        
         JR防府駅から防長バス阿弥陀寺行きに乗車すると、中学校前や団地内など予想外の道
        を走行して終点の寺前に到着する。(バスは駅に引き返す) 
        
        
              阿弥陀寺の惣門で仁王像を安置するから通称を仁王門という。「禁葷酒入山門」の石柱
        を見て仁王門を潜ると、門の左右に金剛力士像がある。
         往古の門は、室町期の1565(永禄8)年に崩壊して120年間再興されなかったが、1
        685(貞亨2)年右田毛利家の毛利就信が原型にならって再興した。 

        
        
         金剛力士像は檜の寄木造りで玉眼(ぎょくがん)が入り、表情は忿怒のすさまじい形をして
        いる。製作年代は阿弥陀寺が創建された鎌倉初期とされる。(国指定重要文化財)

        
         阿弥陀寺創建にあたり、念仏の道場と湯を浴びて身を清める湯屋が建てられたが、寺は
        戦国期に衰えた後、江戸期の延宝年中(1673-1681)に湯屋が再建された。覆い屋は何回か建
        て替えられているそうだが、左手側から釜場、洗い場、脱衣場の3部からなる建物である。

        
         釜場には焚口と鉄湯釜があり、建物裏側の石水舟に溜めておいた水を鉄湯釜に入れて沸
        かす仕組みで、湯釜と湯船が別々に設けた鎌倉時代以降の様式とのこと。

        
         右手が脱衣場で左手が洗い場に区分され、鉄湯釜で沸かした湯を石製の湯舟に汲み取り、
        石敷の洗い場で浴びる。現用の鉄湯釜と石製湯舟は文政年間(1818-1830)の刻銘があるが、
        別に鎌倉時代のものと伝えられる釜と湯舟(残欠)は保存されているという。

        
         湯屋の傍には水車が勢いよく回り、常緑シダ類のヒトツバが小屋の屋根を覆っている。

        
         鉛筆の恰好したものが置かれているが、東大寺再建のために杣地から伐り出した用材の
        レプリカで、曳く縄もセットされている。

        
         湯屋の隣にある石風呂は、後代に造られた石風呂で、今でも月1回焚かれている。(旧石
        風呂は近くにあり)

        
         本堂までの参道は途中で2手に分かれているが、右手の道は「男坂」といわれる念仏堂
        に通じる道だが、本堂に通じる古刹にふさわしい石段「女坂」を上がる。
         中門はもと国庁寺(周防国府が寺となる)の惣門で、国衙の解体にともない、1871(明
          治4)
年に東大寺から寄付されたものである。

               
         阿弥陀寺は平安期の1181年、周防国が東大寺再建の造営料国となったことから、1
        186年俊乗坊重源が周防国府の地に下向した。阿弥陀寺は重源上人が造った東大寺再建
        の7別院のひとつで、後白川法皇の安穏を祈願して建立された。
         本堂は、1731(享保16)年右田毛利家のよって再建されたもので、内部は内陣と外陣
        に分かれ、外部は向拝と右手に玄関を組み合わせたものとなっている。

        
         寺を創建した人物の像を祀るのが開山堂で、俊乗房重源上人の坐像が安置されていたが、
        現在は宝物殿に移されているとか。現在の建物は、1709(宝永6)年に再建された。

        
         念仏堂は念仏を唱えて心身浄化をはかる修行の場であったようだが、創建当時の建物は、
        室町期の1484(文明16)年に焼失する。現在の建物は、1903(明治36)年に再建され
        たもので、奥側に建つ経堂(蔵)も、1719(享保4)年に再建された。

        
         鎌倉期の1197(建久8)年造の梵鐘は失われてしまったとのことだが、今の梵鐘は、1
        953(昭和28)年寺が東大寺別院となったのを記念して、1958(昭和33)年東大寺六葉
        鐘を模造して、東大寺より寄贈されたものという。鐘の一番下にある駒の爪に6ヶ所の切
        込みがあるのが特徴のようだ。

        
         境内すべてを見歩きできなったが、あじさい寺としても有名で開花時期には多くの人が
        訪れるが、この時期は誰もいない静かな山寺を堪能できる。

        
         牟礼地区も団地などができて宅地化が進んでいる。

        
         仁王門の金剛力士像の手形と足形が原寸大で彫刻されているが、足形は何㎝なのかは記
        載されていない。

        
         春日神社境内に入ると猿田彦大神が祀られているが、入口の鳥居には額束はなく、石柱
        には明治41年(1908)9月8日建立とある。

        
         神社の略記によると、藤原氏ゆかりの官人が周防国庁に下向するにあたり、その祖神で
        ある奈良・春日大社の分霊を祀ったと伝えられている。鎌倉期の文治年間(1185-1190)阿弥
        陀寺の創建に伴い、俊乗坊重源上人が鎮守社として再建したという。

        
         大寒の日に冷水に入って心身を清め、無病息災を祈る行事「大寒みそぎ」が行われる禊
        (みそぎ)所。行は神話に由来し、水の霊力によって身を清める神事で、「身を削ぐ」ともい
        われる。

        
         農業大学校側に参道。

        
         農業試験場と林業指導センターを農業大学校に移転・統合する準備が進められている。
        (正面に新築中の新本館で供用開始は2023年4月)

        
         市営坂本団地も建築年から相当の期間が経過し、建物の老朽化などで空室も目立つ。

        
         昔ながらの生活道は拡張されないまま宅地化が進んでいる。

        
         瞬時にはわかりづらいが、中央に佐波川の鮎3匹と上部に右田ヶ岳、下部にはエヒメア
        ヤメがデザインされたマンホール蓋。 

        
         山陽自動車道と国道2号の大平山交差点の脇に、周防三十三観音霊場21番・木部観音
        堂が建ち、回向柱と地蔵尊が鎮座する。
         堂内は施錠されて拝見できないが、1870(明治3)年大光寺は極楽寺(元雲岩寺)に合併
        して廃寺となり、本尊であった十一面観音と脇士2軀は極楽寺に一時保存されたが、18
        89(明治22)年地区の方々によって、今日まで観音堂として祀ってきたという。

        
         国道や高速道、新幹線が域内を分断している。(地下道)

        
         大平山を背に南下する。 

        
         左手に秋山家の門と白塀が見えてくるが、毛利元就の7子である元政に従い、1600
        (慶長5)年熊毛郡の三丘に下り、元政の子・元俱(もととも)が知行替えより右田に移ると、牟
        礼村柳に居を構えたが、1695(元禄8)年秋山正右衛門光次が現在地に居を移す。代々、
        槍指南役として右田毛利氏に仕えたという。

        
         江戸末期の武家住宅として今もほとんど改造されることなく、旧街道に面して石垣と土
        塀に囲まれた棟門がある。内部は塀の隙間から垣間見ることができるが、式台らしきもの
        が見える程度であるが、全体として近世の地方武士の住宅配置をよくとどめている。

        
         住宅の傍に大きな老木。

        
         四差路の筋が旧山陽道で、左折して浮野峠方面へ少し進むと、左手に2.34mの花崗岩
        の大石柱が立ち、後方にエノキの木があったという場所まで往復する。
         小路が阿弥陀寺に通じるので土地の人は阿弥陀寺への道しるべといっているが、鎌倉前
        期の1187年、重源上人が阿弥陀寺創建にあたり、この地を開発して境界石を建てたと
        いう説もある。

        
         江戸期の旅籠「徳地屋」跡(立石家)で井戸が残されている。

             
         「こんぴらみち」「あじなみち」と刻まれた石柱(道標)は、いつ頃建てられたかはわか
        らないそうだが、「あじなみち」とは近くに阿品社があった道しるべとされる。

        
         浮野(うけの)市の中ほどにある四差路は、右手が阿弥陀寺への道で、角に春日宮と彫られ
        た高さ約2mの常夜灯がある。

        
         浮野峠を下った辺りからほぼ直線道。

        
         浮野公民館前に牟礼郷土誌同好会の方が、「浮野町」と題して江戸期の状況を説明され
        ている。
         これによると、浮野半宿として旅をするものに対し、人足と馬を用意し次の宿駅まで継
        ぎ送りをするため、人夫8人、馬10疋を昼夜交替で用意していた。また、継ぎ送りの駄
        賃を公示した高札場もあったという。町の長さは4町5間(約350m)街道に面して45
        軒の屋敷があった。

        
         浮野町地図によると、この辺りは往還松があった場所のようである。農家を中心として
        構成されてきた従来の村落的な社会構造が、混住化地域に変容しつつある地域である。

        
         柳川を渡ると今宿で、古い宿場が廃れてできた新しい宿場を意味する地名らしいが、ど
        この宿場が廃れたのかはわからない。国道2号に通じる環状道路が横断するなど周辺は様
        変わりしつつある。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、江泊村と牟礼村が合併して牟礼村となるが、1
        936(昭和11)年防府町などと合併して防府市に移行する。村立時代に牟礼幼稚園がある
        付近に村役場があったようである。

        
         この付近に一里塚があったとされるが遺構などはない。

        
         馬刀(まて)川の橋を渡るが、この付近の建物は更新されて見るべきものはない。

        
         馬刀川から約200mばかり西進すると四差路があり、西北角に「不許葷酒入門」の道
        標がある。極楽寺参詣道の名残りと思われるが、矢筈ヶ岳山麓にあった現観寺も大光寺同
        様に、1868(明治元)年に廃寺となり、極楽寺に合併されて観音堂も同寺に移された。

        
         岸津を過ごすと旧国道2号に合わす。

        
         この先が国衙地区のため国府中学校前バス停よりJR防府駅に戻るが、バス便は徳山駅
        と大平山からの便があって便数は多い。


防府市の堀越・末田は焼物の里だった集落と旧山陽道

2023年01月08日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         堀越・末田は防府平野の東端に位置し、大平山の南麓と江泊山に囲まれ、東は周防灘に
        面する。
         地名の由来について、堀越は低い丘陵を切り開いて道を通した所の意とか。末田は地下
        (じげ)上申によると、陶氏の合戦があったことにより陶田となり、のちに末田となったとし
        ている。(歩行約5㎞)

        
         JR防府駅北口から防長バス徳山駅行き15分、堀越入口バス停で下車する。

        
         バス停から旧国道を徳山方面に進み、手押し信号機で旧国道を横断すると踏切の先が堀
        越集落である。

        
         かってはこの付近にも窯があったようだが、その痕跡は残されていない。 

        
         堀越三神社参道の途中には「堀越焼創業当時の窯跡」の碑がある。

        
         神社由来によると、1788(天明8)年佐野村の内田善左衛門は、堀越地方が窯業に適す
        ることに着目し、徒弟の林治右衛門および大島郡小松村の宮本亀治郎を連れて堀越に新窯
        を開いた。
         その後、1793(寛政5)年には窯業不振に遭い、善右衛門は佐野村に引きあげたが、治
        右衛門と亀治郎は牟礼村の秋山正右衛門から融資を受けて再興した。その創業と共に窯業
        の守護発展の守り神として、1793(寛永5)年に創建された。祭神は、火の神・土の神・
        竈の神である。

        
         高さ56㎝の狛犬が円筒形陶製の上に置かれているが、三神社創建200年事業として
        地区住民が寄進したものである。阿吽形ともに陶製で、尾は2峰が縦に重なった立ち尾の
        形である。 

        
         目の前に堀越防波堤。

        
         堀越防波堤は、1898(明治31)年山陽鉄道が徳山ー三田尻(現防府)間の鉄道工事中に
        防波堤を構築して地元に寄付したものである。
         当時、中国地方でも有数の陶器土管の生産地で、移出入貨物は船便に依っていた。その
        後、陸上輸送の発達によって出入船も少なくなり、堀越焼の衰退と共に商港機能はなくな
        り、現在は漁船の船溜めとなっている。

        
         左の道に入る。

        
         「陶のこみち」と銘打ってある。

        
         堀越窯は、1882(明治15)年登り窯を築造して窯業を創めたという。最盛期には十数
        軒の窯元があったようだが、昭和になって日用品としても価値を失うに至り、次第に廃業
        するものが増して現在は2軒の窯元だけである。

        
         末田浜踏切を過ごすと末田地区。以前に比べ空地が目立つなどすっかりと様変わりして
        いる。

        
         若い人がタコ壺作りの技を引き継いだと聞いていたが、タコ壺が並ぶので多分この窯と
        思われる。

        
        
         この窯で一時は多くのタコ壺を生産されていたが、プラ用タコ壺の出現などタコ漁の技
        法も変化したため生産量は落ち続け、 2016(平成28)年に生産を中止されたという。
         末田には10軒の窯元があったようだが、次々に姿を消して通りから見える窯はここの
        みであった。

        
         窯入口には「やわらかな海を感じ、そよ風に気づく 末田にあるのはそんな登り窯」と
        ある。

        
         末田の防波堤は、1913(大正2)年に中国土管㈱が設営し、土管運送船舶の船溜り
とし
        て使用されたが、陸上輸送に移ると利用されなくなり、防波堤も台風災害などで破壊され
        て姿を消したという。

        
         末田焼の登り窯跡だが窯元はわからず。この地で焼物が盛んになったのは、江泊浜と関
        係するといい、塩浜では火抜湯瓶、谷瓦、水壺などを大量に必要としたためともいわれて
        いる。

        
         堀越・末田は「焼き物の里」が代名詞で、「壺まつり・陶器市」も行われてきたが、2
        016(平成28)年4月に66回も続いた壺まつり(春と秋)を終えたという。 

        
         1875(明治8)年佐波川に新橋が架けられ、旧山陽道が一部変更された。これと前後し
        て富海から海岸伝いに末田を通り、堀越を経て神ノ原を横断して、前町から岸津を過ごし
        て旧街道に交流する国道が開通する。
         のち、新国道建設が着工され、富海から茶臼山トンネルで江泊に出る新ルートが竣工す
        る。今は国道筋だった頃の賑わい、窯業が盛んだった頃の賑わいが失せて寂しい通りとな
        っている。(正面に茶臼山)

        
         「美しい自然」ということで、右田ヶ岳、佐波川の鮎、エヒメアヤメがデザインされた
        マンホール蓋。

        
         T字路を左折して県道の函渠を潜って山手に向かう。

        
         山手側より海が見えていたと思えるが、末田は旧国道により二分されている。   
        
        
         石柱が見えるので加藤一郎陶房の入口を上がってみると猿田彦大神だった。

        
         国道高架を潜ると、その先の分岐は右にとって旧山陽道に合わす。

        

        
         合流地点を右折するとわずか程で浮野峠改修碑が見えてくる。
1871(明治4)年にショ
        ートカットされた旨の説明(碑文)と絵図が案内されている。

        
         約30mの石畳み道が当時の面影を残す。

        
         下って行くと上流に砂防堰堤があって、小さな小川に飛び石が置かれている。おこん川
        (観音原川)という川だそうで、源流は大平山で茶臼山の西岸に流れ、江戸期には橋が架け
        られ、萩本藩領(牟礼村)と徳山藩領(富海村)の村境でもあった。
         近世の農業にとって下草刈りは、たい肥、牛馬の飼葉などにするための重要な仕事であ
        った。この下草刈りを巡ってたびたび紛争が起こった地でもある。

        
         石祠から約50m登ると〒マークの付いた建物があるが、昭和の初めに東京から敷設さ
        れた「長距離市外電話ネットケーブル」の中継基地と思われる。「装荷用ケーブルハット」
        といい、全国でも数個しか残っていない珍しい産業遺構とされる。

        
         棚田に2つの石祠が鎮座するが、それぞれの石祠の屋根には大内菱が刻まれており、祠
        には自然石が安置され、奥の壁には「大内霊神」とある。
         1867(慶応3)年、波戸の鼻の住人・池永直左衛門(祠には施主・汜屋直左エ門とあり)
        が付近を開墾した際、刀剣を掘り出すと精神に異常をきたすようになる。  
         かくて1869(明治2)年に石祠を造り、大内霊神として刀剣発掘の地に祠を建てたとい
        われている。

        
         茶臼山古戦場の案内板が立つこの地は、厳島合戦で陶晴賢を破り、大内氏の旧領を手中
        にした毛利軍は、筑前立花城の攻撃にかかる。豊後の大友宗麟に寄宿していた大内義興の
        弟である高広の子・大内輝弘は、この時が大内家再興の好機と、1569(永禄12)年10
        月12日秋穂浦に上陸し山口へ攻め込む。
         毛利軍の追撃が始まると大内軍は次第に輝弘軍から離散し、輝弘は秋穂浦に撤退する。
        すでに軍船はなく三田尻、浮野峠を越えてこの地まで逃げたが、富海の椿峠に毛利軍、後
        方にも毛利軍が迫り、最後の抵抗を試みたが壊滅する。

        
         古戦場の案内板と左手は茶臼山への登山口。  

        
         入口は笹薮だったが一歩中へ入ると明確な登山道が現われる。ほぼ直登といった道に赤
        や青の目印テープがあるので、これを頼りに休みながら頂上を目指す。

        
         前方と後方に兵が待ち受けていたため、輝弘は右手の小山に駆け上がり、ここで防戦し
        たが力尽きて10月25日自刃して動乱は鎮まったという。
         後の人がその処を切腹岩と名付けたが墓らしいものはない。多数の戦死者を埋めた千人
        塚が、茶臼山の麓である末田集落にあるというが、その所在ははっきりしないという。(岩
        は登山道8合目の右手)

        
         茶臼山というから城山のようにみられるが、頂上に平地はなく、また何らかの軍防上の
        施設もない。1740(元文5)年3月の富海村庄屋の報告によれば、「往古大内輝弘居城と
        計申伝う、外に由緒存不申候、山8ぶんめ程に切腹岩と申岩有之候へ供委敷由緒存不申候
        事」とあるようだが、居城というのにはあたらないようだ。

        
         この山は富海湾を見渡せることから、頂上にイワシの群を見つけて漁船に合図する魚見
        台があったという。1955(昭和30)年代はじめ頃まで富海ではイワシ漁が盛んで、浜に
        も活気があったというが、この石組みが台であったかどうかは確証を得ていない。 

        
         富海の橘坂から浮野峠に至る旧山陽道は、旧態の姿を色濃く残す区間である。

        
         眼下に周防灘、左の八崎岬から大津島、野島が一望できる場所である。古代から長い間
        親しまれてきたこの峠道は、1877(明治10)年海岸部に新たな道が新設されて役目を終
        える。

        
         旅人は坂を登り詰めると眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足を止め、石に手を懸け
        て休んだという。そこからこの岩は手懸岩と言い伝えられている。
         尾張の菱屋平七が、1806(文化3)年にまとめた「筑紫紀行」の中で、この辺りの風景
        が東海道薩埵(さった)峠(静岡県由比町と静岡市の境)によく似たりと紹介している。

        
         富海の町と湾が見えてくる。

        
         橘坂は急な下りだが、上り道は旅人の足を疲れさせたという難所であった。
        
        
         踏切脇の手押しポンプは、放置されたものではなく固定されていた。

        
         JR富海(とのみ)駅は、1898(明治31)年山陽鉄道の徳山駅ー三田尻(現在の防府)間が
        開通したと同時に開業し、以前はレトロな木造駅舎と丸型ポストが出迎えていたが、ポス
        トは撤去されていた。


周南市夜市は若山城跡から集落内を散歩 

2023年01月04日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         夜市(やじ)は夜市川と同支流である的場川の流域に位置する。
         地名の由来は、貝籠(かいこもり)という小村の山王社を普請していた折、矢の根を掘り出
        したことから矢地と称していたが、矢地は地を失うに似ているため忌避して、いつ頃か弥
        地あるいは夜市の字をあてるようになったという。(歩行約7㎞、🚻若山
) 

        
         JR福川駅は、1898(明治31)年山陽鉄道の徳山-防府間が開通したと同時に開業する。
        駅舎はあるものの現在は無人駅である。

        
         旧国道2号線(現在は県道下松新南陽線)を横断して、国道2号線に通じる道へ入ると、
        周辺は近代建築で面目を一新している。旧山陽道は「福川」で散歩しているので、福川本
        陣から散歩する。

        
         1721(享保6)年幕府が随行員制限令を発すると、その前後から陸路による通行が激増
        する。長州藩の場合も、1725(享保10)年を境に海路併用から総陸路利用へ転換する。
         当初はお客屋と称して藩主の領内巡視や参勤交代の西国大名たちの休憩所に当てられた
        が、のちに御茶屋と改称する。1741(寛保元)年福田宇右衛門に管理を委託し、山陽道の
        本陣を兼ねることになった。本陣の名残をとどめる本陣門は、1838(天保9)年福田四郎
        兵衛の代に建て替えられたものである。

        
         本陣門から引き返し、正面に見える若山に向って川筋を進む。若山は福川の北にあり、
        標
高217mの山頂には若山城があった。
         陶氏の城砦について「地下(じげ)上申」は、矢地(夜市)村の項に「矢地の伊賀の上にあり、
        ただし大手は南の福川村にて御座候」とある。

        
         筋にはこのような建物は1軒のみだった。

        
         地蔵尊と宮灯籠。

        
         国道2号線の函渠を潜ると左折して国道筋に上がるが、域内は国道で分断された形とな
        っている。

        
         国道を防府方面へ進むと若山城跡への案内がある。

        
         登山口には地蔵尊や記念碑などが並ぶ。

        
         こちらの登山道は舗装路で単調な道だが、こんな看板が車道終点まで掛けてあるので読
        みながら歩ける。

        
         登山道からの展望は期待できない。

        
         自転車を漕いで上がってくる3人組や、ウオーキング中の数組に出会い、挨拶しながら
        登ること35分程度で二の丸・三の丸に到着する。

        
         若山城は通称「若山」とよばれる山体の頂部を本丸とし、稜線上に支郭が造られている。
        本丸の西に続く稜線上に西の丸及び蔵屋敷とよばれる郭があり、本丸から南東に下る尾根
        筋には二の丸、三の丸が連続して配置されている。

        
         三の丸跡から見る福川の町並みと徳山湾。

        
         ここから山頂まで徒歩5分。(ここに🚻)

        
        
         鳥居を潜れば山頂。鳥居は「明治33年旧4月1日 福川講中」とあり。

        
         陶氏は吉敷郡の陶(現山口市)を本拠地とした大内氏の一族であったが、南北朝期の陶弘
        政の頃、鷲頭庄(現下松市)を本拠とした鷲頭氏に対するため、居館を現在の周南市下上の
        武井付近に移した。若山城はその後に築かれて陶氏の城砦となったが、築城年代は不明と
        のこと。

        
         典型的な中世山城の形態をしており、空濠などを備えた防御に優れた山城であったと思
        われる。
         しかし、1555(弘治元)年10月厳島の戦いで、陶弘護の孫にあたる陶晴賢が毛利軍に
        敗れた後、杉重輔に攻められて落城する。その後、大内氏を滅ぼして防長2州を手中した
        毛利氏は若山城を廃城にする。(石鎚神社の詳細は知り得ず) 

        
         大きな桜の木の片隅に「海軍省・徳山要港境域標」がある。海軍燃料廠があった徳山港
        は、1938(昭和13)年に要港指定を受け、軍港に次ぐ重要な港に位置づけられた。要港
        になったため海上および陸上に境界線が引かれ、域内における船舶や人の行動に制限が設
        けられた。

        
         三の丸から見た風景とあまり変わらないが、福川の町を夜市川が湾に向って蛇行し、湾
        の正面に黒髪島、その右前方に大津島が浮かぶ。

        
         西に細長く夜市の集落。

        
         本丸から下って行くと石組みされた西の丸が見えてくる。

        
        
         西の丸は標高196mで本丸より21m低い。この敷地は東西は長い長方形で、東端を
        高さ2.3m余り、長さ14mばかりの石垣とし、西側は削崖によって郭の敷地を壇状に
        築いている。

        
         化学工場群の先に要港だった徳山港、浮かぶ島は仙島、遠くの高い山は太華山。

        
         蔵屋敷は西の丸より西方に位置する。

        
        
         蔵屋敷から伊賀コースを下るが、登山道は土砂で潰れているが微かな踏み跡を辿り、途
        中は倒竹もあって登山の素人には不向きなルートであった。

        
         中電鉄塔付近から明瞭な道となり、安堵を覚えるとJRの変電所用フェンスがある場所
        に出る。

        
         墓地を過ごすと夜市の町並みが間近に見えるようになる。

        
         夜市の伊賀集落に出る。

        
         幟旗がある所が若山観音堂で、大内弘世が京洛文化の1つ西国霊場をこの地に勧請し開
        創する。
         はじめは若山の法蓮寺にあったが、若山城落城後に荒廃したため
普春寺が、1695(元
          禄8)
年現在地に遷座させたという。普春寺(曹洞宗)の創建年は不明だそうだが、陶隆房(晴
        賢)創建と伝わるという。

        
         従来は農家を中心として構成されてきたと思われるが、現在は混住化地域である。(若山
        方向)

        
         小さな亀甲模様に旧徳山市の市章が入ったマンホール蓋。

        
         域内を北から山陽新幹線、国道2号線、山陽本線、旧山陽道が横断するが、集落は国道
        2号線以北に形成されている。

        
         新幹線高架に並ぶ理容院。

        
         鷹飛原(たかとびはら)八幡宮は、室町期の1596(永正3)年火災にかかり、旧記を焼失し
        たため創建年など不明とされる。神社名は神霊が豊後国宇佐の方より金色の鷹と化して飛
        んで来たことによるという。

        
         参道を上がると石祠が2基鎮座しているが、一丈六尺の岩室を設けたので丈六様(石宮八
        幡宮)と呼ばれている。


        
         現在の社殿は、1876(明治9)年に造営された。

        
         本殿裏手に若宮八幡宮があるが詳細は知り得なかった。 

        
         夜市小学校裏手の道はほぼ一直線だが、以前は農地と思われるが新興住宅地となってい
        る。

        
         山裾に大きな屋敷地を持つ家が並ぶが、その並びに妙栄寺(真宗)がある。創建年は不明
        だそうだが元は真言宗で、1612(慶長17)年に改宗したという。

        
         
壁の大きな家(原田邸)を右に廻り込むと旧山陽道に合わす。

        
         この一帯が矢地市と呼ばれる所だが、「戸田市」歩きの際に散歩したのでカットしてJ
        R戸田駅へ向かう。
         矢地市は山陽道に沿ってできた町であるが、東の福川や西の戸田市に比べ規模は小さく、
        茶屋はなかったという。