ぶらっと散歩

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長門鉄道(小月~岡枝)の鉄道敷跡を巡る (下関市)

2024年05月15日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         長門軽便鉄道は、1918(大正7)年から1956(昭和31)年まで小月ー豊田町の西市
        間18.2㎞で営業された民営鉄道である。当初は大津郡の温泉地・俵山、さらには北浦
        の水産基地である仙崎までを結ぶ計画であったが、開業時からの営業不振で路線の延長は
        実現しなかった。
         第二次大戦が始まると、1942(昭和17)年に政府の交通事業統制令を受けて、山陽電
        気軌道に併合されて山陽電気長門線となった。1949(昭和24)年営業収入の少ない本路
        線は、分離されて再び長門鉄道に戻った。
         しかし、その後も石炭産業の不振と自動車の普及により、経営は極度に悪化して廃止を
        余儀なくされる。

        
         現在のJR小月駅が長門鉄道の終始点であった。

        
         右手の駐車場に長門鉄道小月駅があったという。

        
         駐車場内にはプラットフォーム跡のような遺構がある。

        
         工事中で通れなかったが、この付近が鉄道跡と思われる。手前にバス停のような構築物
        が現存する。(隣はスーパー)

        
         スーパーの敷地内から正面に見える市営住宅の中を通っていた。

        
         消滅した先は浜田川に沿う形で北上するが、民地になった所もあるようだ。

        
         旧山陽道に合わすと、北へ向かう細い道が鉄道敷跡である。

        
         長門上市駅は、明円寺前の通り筋にあったそうだが場所は特定できなかった。開業時の
        小月駅は貨物専用で、この駅で乗客は乗降しており、ここに機関車庫、給水塔、本社があ
        ったという。本社は後に昭栄通りに移転する。

        
         鉄道敷跡は拡幅されて生活道路となり、山陽新幹線が横断する。

        
         生活道路は右折するが鉄道敷跡は直進している。

        
         両側にある煉瓦造の構築物は、「通い樋(かよいどい)」と呼ばれるもので、高低差を利用
        して導入管で送水する江戸時代に開発された持術である。長門鉄道では軌道を敷設する
        ため、分断される田畑に水を送るため、軌道下に送水管を設けた。
         高い方の煉瓦造の枡に水が溜まると、サイフォンの原理で低い方に水が送られる仕組み
        である。(上小月側より)

        
         用水路を渡った先で、中国自動車道小月ICの取付道路により消滅している。

        
         国道491号線を横断して自動車道の下を潜るが、ここも橋脚の設置により消滅してい
        るが、付替え道路が設けてある。

        
         鉄道敷跡は国道が接近するまでは直線道である。

        
         鉄道敷跡は国道の左側だったようだが、横断が難しいので上小月交差点まで進む。

        
         上小月停留所は針路を北東に変えた上小月交差点付近にあったようだ。道路工事により
        鉄道敷跡は消滅したが、この細い道に接続していたと思われる。現在は交差点近くの国道
        に上小月バス停が設置されている。

        
         小川を渡ると県道260号線(宇賀山陽線)に合わす。どうも歩道部分が鉄道敷跡のよう
        だ。

        
         鉄道敷跡は高速道にシフトしているようだが、遺構もないようなので県道を下って行く。

                

        
         Y建設の裏附近から県道と高速道の間を抜け、下大野停留所に繋がっていたようだが、
        このまま県道を利用する。

        
         地元の方にお尋ねすると、ここに下大野駅があったとのこと。下大野バス停(下関行き)
        の向い側だが、交換設備を有していたとされるが遺構は残されていない。
         1922(大正11)年に停留所から下大野駅に変わっているが、駅名は「しもおうの」で
        あったという。

        
         その先に下大野バス停があり、鉄道敷跡は県道に沿っている。

        
        
         大野神社の鳥居が見えたので、昼食を兼ねて参拝する。神社の創建は、平安期の859
        (貞観元)年に山城国の男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請したと伝える。厄除けや武運長久
        などにご利益があるという。 

        
         下大野停留所から200m足らずで、県道から分かれて左の道に入る。やっと鉄道敷跡ら
        しい道幅になる。長門鉄道はもともと木材輸送を目的としたため、軌間(レール間の幅)は、
        JRの在来線と同じ1,067ミリメートルであった。

        
         トンネルを作るほどではない山の斜面を切り開き、切通しにした鉄道敷跡である。

        
        
         どの辺りが下大野と上大野の境界なのかわからないが、山裾に舗装路が続く。

        
         集落入口に庚申塚と地蔵尊。

        
         人道橋には石積みの橋台が残されている。

        
         再び切通しの鉄道敷跡。 

        
         ここにも導入管が設けられていた。

        
         「遠くに見える村の屋根 森や林や田や畑 後へ後へ飛んで行く」という鉄道唱歌「汽
        車」の一節にあるような光景だったのだろうか。今は長閑な放牧地となって多くの牛に見
        送られる。 (下大野方向を見返る) 

        
         車窓から見えたであろう大堤溜池。上大野停留所付近の緩やかな坂を登るのに、乗客や
        荷物によっては、一旦バックして助走をつけて登ったというエピソードも残されている。

        
         上大野停留所跡は豊東小学校前方に三角の緑地帯が取られ、大きな木の下に小さな駅跡
        碑が設置されている。碑の表面に「長門鉄道 上大野(かみおうの)停留所跡」、裏面に「
        大正7年10月7日 昭和31年3月末日」とある。

        
         「町の木・やまざくら」と「菊川町農業集落排水」の文字と、中央にやまざくらと町章、
        周囲に川を流れる桜がデザインされた農業集落用のマンホール蓋。

        
        
         上大野から田部への鉄道敷跡は、サイクリングロードになっている。

        
         田部地区に入ってくると桜並木が続くが、桜街道と呼ばれている。

        
         桜並木の下を流れる水路に橋台が残る。

        
         田部停留所のプラットホームが現存するが、全長45m、ホームの高さ0.65mであっ
        た。
         長門鉄道の駅と停留所の違いは、駅は貨物と乗客、停留所は乗客のみで区分されていた。

        
         田部停留所を過ごすと小川を跨ぐ橋台が残っている。水路は水を分岐するようになって
        いる。

        
         山口県十八不動三十六童子霊場の4番札所である千寿院。平成に入ってから開創された
        新しい霊場だそうだ。

        
         岡枝駅から右に湾曲しながら田部川に至る。

        
         田部川橋梁の正式名称は「吉賀川橋梁」で、3m3連の39.5mの橋長であった。19
        17(大正6)年10月5日に設置されたが、護岸の改修などで遺構は残されていない。

        
         田部川左岸から岡枝駅間ははっきりしないが、民家に至る道が鉄道敷跡のようだ。 

        
         岡枝駅は交換可能駅で、長門鉄道時代の倉庫が残されているが、現在はJAの倉庫とな
        っている。岡枝駅で歩きを終えて、岡枝バス停よりJR小月駅に戻る。


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