ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市長野は小瀬上関往還道筋の集落

2024年04月10日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         長野は峰山東麓の長野川流域に位置し、東は瀬戸内海に面する。海岸に平地は少なく、
        長野川流域に少し平地がみられる。
         小瀬上関往還道は、岩国市小瀬から上関町まで全長15里(約60㎞)、通津から長野の
        辻堂峠を越え、生屋(しょうや)に出て由宇川沿いを経て長田尻から柳井市日積へ至っていた。
         1889(明治22)年の町村制施行により、長野村と通津村が合併して通津村となる。昭
        和の大合併で岩国市に編入されて今日に至る。(歩行約6.8㎞)

        
         JR由宇駅は、1897(明治30)年広島ー徳山間の開通と同時に開業する。駅前に出る
        と笠塚カープ練習場行きの防長バスが待機している。

        
         駅から生屋バス停まで約8分のバス旅である。

        
         この辺りは旧由宇町で、町の花「ユリ」を中心に町の木「カエデ」がデザインされたマ
        ンホール蓋。

        
         県道149号線(柳井由宇線)を山手に進み、小瀬上関往還道だったと思われる県道14
        1号線(祖生通津停車場線)を通津方面へ向かう。

        
         坂を上り詰めると右手に教覚寺(真宗)

        
        
         岩国市高森にある受光寺末寺とされ、室町期の1495(明応4)年創建開基と伝える。
        1902(明治35)年現在地に寺地を開き、翌年に本堂を建立して今日に及んでいる。最初
        の梵鐘は戦争中に供出し、戦後に作った梵鐘は材質が悪くひび割れしたため、1997(平
          成9)
年に鐘撞堂及び梵鐘すべてを作り直したという。

        
         長野上地区の舞々集落。

        
         長野上の火伏地蔵尊。

        
         高台から教覚寺方向を望むと、遠くに瀬戸内海が望める。

        
         坂を上がって行くと長徳寺入口を示す案内がある。

        
         長徳寺(臨済宗・永興寺末寺)は中世に創建された古寺であったが、吉川氏入封の時には
        衰微して住職もいなかったので、堂宇を解体して普請用木に流用されたという。
         1684(元禄7)年堂宇が再建され、寺領10石が付与されたが、現在は無住のようで周
        囲は荒れ放題である。

        
         境内から瀬戸内海を望む。

        
         道端に石仏が見られるが、道しるべとされた地蔵尊か? 

        
        
         通津小学校通西分校と案内されているが、1879(明治12)年長野小学として創立され
        る。のち通津小学校の分校となり、1997(平成9)年に休校となる。

        
         小瀬上関往還道がどの道なのかわからず終いとなる。

               
         河本先生碑とあるが、1902(明治35)年に小学校が山崩れで倒壊し、河本慶三郎校長
                が殉職されたが、それまでの功績を称える碑のようだ。

        
         石仏から下って県道を横断して長野川に出る。

        
         長野川を渡って向いの山を上がって行く。

        
         1906(明治39)年の神社合祀令により、長野地区9つの小規模神社や荒神様などが合
        祀させられ、杵築(きづき)神社となる。

        
         注連石、鳥居や灯籠が多いのは、この社に集められたことによるという。右手には明治
        32年(1899)に建立された鳥居。 

        
         内務省令により「神社は基本財産2,000円以上有すること。これに足らない場合は合
        併してこれを満たすこと」との通達を受けて、大歳神社(5ヶ所)・杵築神社・疫神社・鎮
        守社(2ヶ所)の9社を菅原社に合祀する。
         参拝するのに便利さと広さを考慮して、菅原社(通称長野天神)に合併されたが、社は未
        登録社であったために登録済みの杵築神社とし、名目上の基本財産をクリアして届け出た
        という。

        
        引き返して長野川に沿うと長野中の集落。

        
         再び山裾を上がって行くと墓石が並ぶが、この付近に知足寺という寺があったという。
        1779(安永8)年頃に「知足庵」として再興されたが、檀家がなかったため廃寺となり、
        のち景福寺に合併された。

        
         長野中の火伏地蔵は農道あたりにあったようだが、道ができたため移動させられた。 

        
         四反田バス停付近だが、県道が往還道だったかどうかはわからない。 

        
         擁壁に石仏。

        
         蓮華花、菜の花と桜を見ながら旧道を下る。

        
         長野入口に出る。

        
         国道188号線を柳井方面へ向かうと、大きな桜の木の下に火伏地蔵尊と厄徐地蔵尊。

        
         長野尻火伏地蔵尊は、嘉永年間(1848-1854)に長野尻地区において火災が続き、地区内協
        議の結果、火伏地蔵尊を祀ることとなった。四国八十八ヶ所霊場第19番立江寺より勧請
        し、現在地より10メートル奥地に安置すると、当地から「ボヤ」など火災もなくなった
        という。
         風水害により現在地に移転したが、1964(昭和39)年国道拡張により一部が国道とな
        る。その補償金で鉄骨のお堂を建立し、記念として桜の木を植えたという。隣の祠は脇地
        蔵尊と厄徐地蔵尊とのこと。

        
         国道筋からJR通津駅に出る。


岩国市通津は小瀬上関往還道沿いに開けた町 

2024年01月24日 | 山口県岩国市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         通津(つづ)は高照寺山の東麓、通津川流域に位置し、東は瀬戸内海に面する比較的平地に
                恵まれている。(歩行約8.2km) 

        
        
         JR通津駅は切り立った崖を背にし、駅前は広々とした通津開作である。1934(昭和
        9)年8月11日に開業したが、1925(大正14)年に通津駅設置請願運動を起こして以来
        10年目のことであった。

        
         駅前に「通津散歩」の案内板が立てられ、パンフレットは通津公民館に置いてあります
        とあるが、日曜日なので残念して持参した地図を頼りに散歩することにする。 

        
         小瀬上関往還道の一里塚が御旅所付近にあったとされるが、痕跡などは残されていない。

        
         この通りもクルマ社会に押し流されてシャッター通りになっている。 

        
         地元の方にお聞きすると旧郵便局の建物だったとのこと。 

        
         1889(明治22)年町村制施行により、通津村と長野村が合併して通津村となり、農協
        がある地に村役場が設置されたが、昭和の大合併で岩国市に編入されてしまう。 

        
         住吉神社は、1902(明治35)年3月3日河本弥重郎・青巳(せいき)親子が建立したもの
        である。青巳は嶋谷汽船に乗って航海していたが敦賀沖で遭難する。船員の多くが死亡し
        たが、幸いにも気絶した状態で浜に打ち上げられ、その際に住吉神が現われて助けられた
        という。鳥取県境港の住吉神社でお祓いをしてもらい、神社の建物を縮尺して造ったとさ
        れる。

        
         屋根の下に神猿(まさる)の彫り物がある。公民館が建設されるまでは目の前が港で、航行
        安全の神様として漁師たちが拝んでいたという。

        
        
         河野善次郎(1854-1917)は、通津浦と大島の久賀浦が漁業権争いをし、7人の犠牲者が出
        た。この争いは通津出身の河野氏が県の役人となり調停をしたという。

        
         国道188号線沿いの勝井建設傍に、「田浦(でんぽ)相撲発祥の地」碑がある。豊臣秀吉
        が文禄の役(1592年)で朝鮮に出兵した際、風待ちのため通津浦に仮泊し、兵士の士気
        を鼓舞するため田浦で相撲をとらせたのが始まりという。

        
         街道に戻って北上するが、かつてのバス路線だったという。(米重商店付近) 

        
         1761(宝暦11)年11月建立とされる本町の火伏地蔵尊。

        
         明治25年(1892)創業の看板がかかる河本百貨店。

        
         鍵曲りとなっている一角にある平入り2階建ての建物は、元酒屋で屋根に特徴を見る。

        
         光専寺(順正寺)の寺伝によると、大内家の家臣であった中村壱岐守実之は、大内義長が
        自刃(1556)したため乱を避けて通津村に隠居する。1573(天正元)年浦年寄を務めていた
        俗姓中村彦六が仏縁を喜び、年寄役を嫡子に譲り開基したという。のち寺号を申請して江
        戸期を通じて順正寺と称する。
         1850(嘉永3)年建立の山門は、岩国の甚五郎といわれた福田他武兵衛の作とされる。 

        
         1867(慶応3)年4月吉川家故障(領主の経幹死去)のため寺号を光専寺と改めたという。
       
        
         鐘撞堂の側に珍しい墓がある。台座の上に燗徳利型の墓石が建てられ、その上に大盃を
        模した大石が伏せてある。これは釈道円信士の墓で、俗姓満田屋金重郎という信徒が寄金
        して鐘撞堂を建てたが、この人の功績を偲び生前好物であった酒にちなみ、1775(安永
           4)
年に建立して菩提を弔ったという。

        
         1624(寛永元)年開基とされる専徳寺(真宗)は、創建時は高照寺山にあった常福寺(真
        言宗)が無住であったため、通津に隠居していた吉川広家は、この寺を改宗して浄土真宗の
        寺を建立することを岩国領主・吉川広正に願い出る。
         1686(貞亨3)年頃現在地に移転し、その後本堂、庫裏、書院など建立して体裁を整え
        たという。(初代住職は弘中隆包の孫)

        
         境内には弘中隆包の墓がある。陶晴賢の部下で岩国領主であったが、毛利元就との厳島
        合戦(1555)に反対の具申をしたが聞き入れてもらえず、息子・隆佐(たかすけ)とともに出陣
        して討死する。

        
         通津川の左岸に城跡とされる高山。

        
         両金橋の先で旧街道は国道に合わす。

        
         崩の下架道橋を潜ると通津川には葦の大群落が広がり、通津川橋梁を「瑞風」が走り去
        る。

        
         横町橋手前から高山登山道に入ると、道は明瞭でよく整備されている。

        
        
         通津の町が一望できるようになる。

        
         わずかにジグザグ道となるが歩きやすい。

        
         木造の鳥居下に小さな祠には、須佐之男命(天照大御神の弟で八岐の大蛇を退治した神)、
        大黒様とされる大国主命(縁結びの神、福の神)、えびす様とされる事代主命(漁業の守り神、
        商売繁盛の神)の三神が祀られているという。

        
         玖珂郡志に「固屋ヶ廻平田隆重城。堀切三有之。是城跡也」とある。城主は平田隆重と
        伝えられ、主郭は山頂にあって、現在は四阿と四等三角点がある。(標高69.6m)
         海上の見通しがよく、海上からの攻撃に備えた陶方の城であったと推測されている。 

        
         三角点から北に進むと三重堀切と思われる遺構がある。

        
         三重堀切を過ごして北斜面を下る。

        
         登山口から左折して通津川方向へ向かう。 

        
         乗越橋東詰にある馬頭観音は、牛馬などが亡くなったのを祀るが、この馬頭観音は町か
        ら郷集落に帰る途中、馬が猿猴(河童)に引かれて橋から落ちて死んだので祀ったと伝わる。

        
         延命地蔵菩薩。 

        
         この一帯は蓮田で掘り出し作業されているが、表面をショベルカーで削りレンコンの掘
        り出しは手作業という。(正面に高照寺山) 

        
         山裾に東沢瀉(ひがし たくしゃ)終焉の地がある。

        
        
         沢瀉(1832-1891)は岩国城下の錦見沙原で生まれ、名は正純で沢瀉が号である。はじめ二
        宮錦水に学び、陽明学を奉ずるに至る。尊皇攘夷の論が盛んになると、必死組をつくり長
        州征伐を阻止するため藩政改革を要求する。訴えに及んだため柱島に流刑される。
         明治維新後に罪を許されて、1870(明治3)年保津村面高(おもだか)に「沢瀉塾」を開き、
        1884(明治17)年の閉塾まで優秀な人材を輩出する。この地に移居したが60歳で他界
        する。

        
         県道115号線(通津周東線)を上がって行くと、吉川広家終焉の地への案内がある。

        
         案内に沿って行くと海が見えてくる。

        
         初代岩国領主・吉川広家(1561-1625)は、毛利元就の次男で吉川家の家督を継いだ吉川元
        春の三男である。長男が早逝して次男は他家の家督を継いでいたため、吉川家の家督を継
        ぐ。1622(元和8)年領主を嫡子・広正に譲ってこの地に隠居したが、3年後に没すると
        隠居所は海前寺(曹洞宗)となったが、現在は碑のみである。 

        
         終焉地碑から左廻りに進み、碑の左後あたりに本呂尾の荒神様。

        
         本呂尾(もとろお)の火伏地蔵尊。

        
         何も案内などはないが、南部八十八ヶ所霊場の観音様のようだ。場所は本呂尾公会堂横、
        火伏地蔵のすぐ奥にある。

        
         本呂尾橋バス停に出て県道を引き返す。 

        
         大歳神社境内地にあるイヌマキは、山口県指定の天然記念物である。高さ約16m、雄
        株の巨木には幹に縦溝ができていて、樹齢350年以上ともいわれるが 枝を四方に広く
        のばしている。

        
         大歳神社の由緒はわかっていないが、イヌマキが植えられた頃に創建されたのではとい
        われている。五穀豊穣の神が祀られている。

        
         大歳神社の横にあるのが中村の荒神社。 

        
         乗越橋から鉾八幡宮への道に入る。周辺に景福寺など見処があるようだが、土地勘がな
        いため道がわからず残念する。

        
         桜井戸は通津地区の重要な水源として、どんな干ばつでも枯渇することなく、住民や港
        を出入りする船舶の飲料水などに利用されてきたという。(通津中学校横)

        
         1985(昭和60)年環境庁の全国名水百選に選ばれ、井戸横の蛇口から水を汲むことが
        できる。

        
         八幡宮入口にある恵比須神社。 

        
         1709(宝永6)年建立の石大鳥居から神社の領域(神域)となる。 

        
        
         鉾(ほこ)神社は、平安期の859(貞観元)年宇佐八幡宮より山城国男山八幡宮に勧請の際、
        風待ちのため通津浦に停泊する。この浦の長が分霊を懇願したところ、分霊及びその備え
        として神鉾を賜り、鉾八幡宮と称したと伝える。
         社殿は創建時より度々造り替えられたが、1796(寛政8)年造営され、1919(大正8)
        年に拝殿、1949(昭和24)年に神殿の改築が行われたという。


岩国市の端島は蛇の池伝説と島内を散歩 

2023年07月30日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         端島(はしま)は安芸灘の南西に位置する柱島群島の有人島の1つで、本島である柱島の北
        西に位置している。島の地形は北側にタコウ山、南側に見壁山と呼ばれる山があり、山と
        山を繋ぐ島の中央部の両側が湾となり、南北を繋ぐよう低地になっている。島の集落は東
        側の浜辺のみに展開する「1島1集落」を形成している。(歩行約4.1㎞、🚻待合所のみ)

        
         土・日曜日には10時の便があり、この便を利用すれば2島を訪れることができる。
         但し、JR岩国駅から
から和木方面のバスは平日のみで、土日祝日は全便運休とされて
        いる。(タクシー利用)


        
         本来なら黒島に寄港するはずだが、乗降客がいないとのことで端島に直行する。工事関
        係者や医療関係者、墓参の人たちと一緒に下船すると、船は柱島本島に向けで出航する。

        
         この時期は墓参を兼ねて帰省されるので島は賑わうという。

        
         島唯一の店「亀田商店」があったが、高齢のため閉店されたそうだ。食料はもちろん自
        販機もないので事前準備が必要である。

        
         まずは蛇の池を目指すが、島の方によると非舗装の先は手入れがされていないので行け
        るかどうかわからないという。

        
        
         路地に入ってみると上の道が交差するが、この道に出ることはできない。この奥に民家
        が存在するが、この道が唯一の生活道のようだ


        
         端島神社には宗像三女神が祀られており、海上安全の守護神とされている。倒壊の恐れ
        があるのか参道が封鎖されている。

        
         学校近くの海岸線から見る集落。

        
         1891(明治24)年柱島小学校の分教場として設置され。後に岩国市立端島小中学校と
        なるが、当初の学校地はここではなく集落を見下ろす位置にあったという。
         小学校は、1988(昭和63)年に休校となったが、2000(平成12)年2名の児童を迎
        えて再開されたが、2010(平成22)年再び休校となり現在に至る。
         中学校は、1991(平成3)年から休校状態が続いているという。

        
         児童・生徒を待ち続ける二宮金次郎像。

        
         地道は荒れ気味ではあるが、蛇の池とあしだれの浜に行くことができた。

        
         途中にある倒壊途上の家屋は、入口の状況から民家ではなくイリコの倉庫であったと思
        われる。

        
         平郡島にも蛇の池伝説の池があるが、島の端にあって海に近いことなど似ている。
         昔、この島に杉本与惣左衛門という人が、持山に出掛けたところ山路に一匹の大蛇がい
        た。長さは100mもあり、真っ赤な目を輝かせ与惣左衛門に迫って来た。伝家の名刀を
        大蛇めがけて投げつけたところ、大蛇の頭から血が流れて倒れてしまう。与惣左衛門に「
        これから先、お前の家代々“与”の字の付く者を絶やしたら、再び現れて島の者を食い殺
        してやる」と云い残して池の内に沈んだという伝説がある。

        
         イワシを煮た鍋のようで、丸いもの(手前)と四角のもの(左奥)の2種類
が放置されてい
        る。

        
        
         島民に「あしだれの浜」と呼ばれている小石を敷き詰めた浜がある。この浜付近には集
        落はなく、以前はイリコの加工場や倉庫があったというが、それらは雑木に覆われてしま
        っている。

        
         ハマエンドウ(浜豌豆)が海岸の砂地に多く見られるが、開花時期が4~7月とされるの
        で花も終わりのようだ。

        
         島民の方が難儀している1つにカキパイプの漂流物がある。あしだれの浜には浜全体に
        漂着しているが、その多さにびっくりする。
         カキ養殖ではカキパイプ(養殖カキ用の20㎝のポリエチレン筒)が使用されているが、
        種苗を付着させるホタテ貝を筏に吊るす際、一定の間隔を確保するため使われているとい
        う。流失原因として、カキ筏への船舶の衝突が主要因とされているが、海岸では劣化が進
        んでいるものも見られ、いずれは海に戻されるのであろう。

        
         島民の方に農道を一周すると告げると、「道は舗装されて問題ないが、人間よりも猪の
        数が数倍多くて手に負えない状況だ。歩く際は気を付けてください」とアドバイスをいた
        だく。時間的な余裕と折角の機会でもあるので農道を歩いてみることにする。

        
         木々に囲まれた舗装路は日陰だが風通しはよくない。 

        
         展望は良いとはいえないが、2~3ヶ所だけ海が見える場所がある。ここからは右手に
        柱島群島の1つである黒島、左手に鞍掛島、大島の浮島(うかしま)が浮かぶ。

        
         この先、海側に竹林が続く。 

        
         名称はわからないが標高32m突端部。

        
         白い立て札が見えてきたので近づくと、「岸壁の母」の歌詞が書き込まれていた。いろ
        んな歌詞の立て札が設置され、歌の散歩道とされたようだが、見かけたのはこの1本のみ
        だった。

        
         タコウ山の一帯は畑化されていたようで、たくさんの階段が残されている。

        
         分岐を右折すると集落の屋根が見える地点に出る。正面に富士山のように裾野を広げる
        柱島本島の金蔵山が見える。

        
         柳井市の人口統計によると、23年6月時点で15世帯17人が暮らしていることにな
        っているが、島の人に聞くと7~8人かなと返事が返ってくる。

        
        
         下って行くと海近くに大師堂が祀られている。

        
         端島の生業の中心は漁業であることは今も変わりないようだ。

        
        
         防波堤から見る集落。

        
         渡船場方向へ引き返す。

        
         1955(昭和30)年代にイワシ漁が衰退してくると、アジなどの他の魚やタコ壺漁へと
        転換を余儀なくされた。
         タコは3~5月産卵し、産卵後に親と生まれた小ダコが、水温の上昇と共に餌を求めて
        活性化する。タコ壺漁も4~9月かけて最盛期を迎えるが、最近は漁獲量も減少の一途を
        辿っているという。

        
         反対側の防波堤から眺める集落。

        
         波穏やかな先に倉橋島など。

        
         地蔵堂を見つけるのに一苦労する。弘法大師の命日にあたる旧暦の3月21日には、瀬
        戸内海部や島々では「お接待」が行われる。普通は大師堂や観音堂で行われることが多い
        が、端島の場合は地蔵堂で行われてきたという。 

        
         14時を過ぎると里帰りの人々や見送りの人が桟橋に集まってくる。14時24分の定
        期船で黒島へ移動する。


岩国市の黒島は山と海に挟まれた小さな集落

2023年07月30日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         黒島は安芸灘の南西に位置する柱島群島の有人島で、本島である柱島の西に位置してい
        る。島の地形は南側に樫山と呼ばれる山があり、北へ向かって緩やかに広がる島である。
        (歩行約1.8㎞、🚻なし) 

        
         端島(はしま)から15分程度で黒島へ到着するが、岩国新港からは37分の所要時間であ
        る。左手のプレハブの建物が渡船待合所。

        
         タコ壺が並ぶが、タコは3~5月に産卵して、産卵後に親タコと生まれたタコが、
水温
        の上昇とともに餌を求めて活性化する。タコ壺漁も4月から9月にかけて行われるとのこ
        と。

        
         島の集落は「1島1集落」で東側の浜辺のみに展開する。

        
         やや左前方に端島が浮かぶが、右手の山が見壁山で左手がタコウ山、中央の低地に蛇の
        池やあしだれ浜がある。(背後は倉橋島) 

        
         平地が少ないため傾斜地に民家が張り付く。

        
         黒島小中学校の沿革はわからないが、1993(平成5)年に小学校、中学校はその翌年に
        休校して現在に至るという。

        
         校舎と校門は健在だが、グラウンドは草地化している。

        
         もとは無人島で柱島の人々が、伊予の沿岸部や忽那諸島の中島から子牛を購入して黒島
        で放牧を行い、牛が3歳になると島外に売ったり家の耕作や運搬にしていた。
         1830(文政13)年柱島から16人が移住したが、5年後には8人が脱落する。後に4
        人が移住して12人で島の土地を均等に分け合い、明治中期までは戸数12戸以上増やさ
        なかったという。

        
         この道が主要な生活道であったと思われる。

        
         三島神社境内の入口に柱島からの移住150年を記念して、1980(昭和55)年に建て
        られた碑がある。

        
         周辺には三島神社をはじめ恵比須社など信仰にともなう施設が集中している。

        
         三島神社の由緒等はわからないが海の神様のようだ。

        
         黒島は柱島の善立寺(浄土真宗)の檀家であるが、大師堂には大師像が安置されて大師信
        仰がずっと息づいている。

        
         大師堂は三島神社の下にある。

        
         神社の先に地蔵堂。

        
         狭い道の左に石段と正面に蔵を持つ民家。

        
         柱島群島は、太平洋戦争中米軍機による空襲を受けたが、特に黒島においては被害が大
        きく、学校近くに爆弾が投下されたため、防空壕に避難していた子供たちを多数含む19
        人が死亡するという大きな犠牲を出した。その霊を慰めるため供養塔を建てて供養が行わ
        れている。

        
         海岸線には意外にも立派な住宅が数軒見られる。

        
         急階段の道は墓に通じ、その先には旧軍の構築物があるそうだが、墓の先が廃道化して
        行くことができないというので残念する。

        
         無住になって久しいようで、植生に覆われて痛々しい姿になっている。 

        
         柳井市の人口統計によると、23年4月現在13世帯14人が暮らすことになっている。

        
         もともとは島だっただったのかはわからないが、こんもりとした中に荒神社がある。 

        
        
         鳥居を潜ると急斜面に狭い参道が設けてある。山頂には小さな祠が集落に向って鎮座す
        る。

        
         堤防の外を覗くと自然な海岸線が続く。

        
         こんもりとした森の中を上がると石積みの祠に地蔵尊。

        
         イリコ工場時代の煙突で、他にイワシ小屋などもあったそうだが解体されてしまったと
        いう。

        
         工場跡の片隅に咲くハマユウ(浜木綿)。

        
        
         渡船場に戻って、切符販売された女性と会話しながら定期船を待つ。

        
         定期船が桟橋に接岸する際の「綱取り」は、黒島婦人会の方が2名1組で行っていると
        のこと。一期一会だったが島のことを教えていただいた2人とお別れする。

        
         岩国港に戻ると岩国行きのバスはない。国道筋のバス停で待つこと5分、運よくとタク
        シーに出会って岩国駅に戻る。


岩国市尾津は南岩国駅南側にハス田

2023年06月04日 | 山口県岩国市

               
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         尾津(おづ)は錦川の支流・門前川の河口右岸に広がる平地に位置する。開ける平地はすべ
        て藩政時代に開作されたものである。
         地名の由来は、門前川の川尻に発達した洲がもとで、尾洲の意によると考えられる。(歩
        行約6.7㎞、🚻駅以外になし) 
             
               
          JR南岩国駅の南側約200haの中に蓮田が広がる。

        
         JR南岩国駅は、1952(昭和27)年岩国ー藤生間に新設され、現在の新駅舎は202
        1(令和3)年に供用開始されたが、駅前など整備が進行中である。 

        
         国道188号線を岩国方面に進み、高水学園一貫校への入口を右折すると、山陽本線河
        野上地第一踏切を横断する。 

        
         線路南側に移動すると蓮田が広がり、線路に沿って水路傍の道を進む。レンコンは「蓮
        (ハス)」という植物の「根」にあたる部分で、これを組み合わせて「蓮根(れんこん)」とい
        う名が生まれたという。

        
         尾津2号揚水機場から周回する。

        
         門前町5丁目はバリケードされた米軍の施設と官舎。

        
         サギがのんびりと餌を求めて歩き廻っている。虫などが生息する安全な環境の中でレン
        コンが栽培されているといえる。

        
         第1揚水機場の先で左折して門前川堤防に出る。

        
         漁港といった雰囲気ではなくプレジャーボートの係留施設のようだ。

        
         堤防道を河口へ向かう。

        
         対岸の米軍基地は、1938(昭和13)年に旧日本海軍が飛行場建設に着手し、1940
        (昭和15)年から終戦まで岩国海軍航空隊が配備された。終戦後、米海兵隊に接収され、米
        空軍、米海軍基地を経て、1958(昭和33)年米海兵隊基地となり今日に至る。

        
         すべてが蓮田と思っていたが、
民家や工場、魚市場などがある。一の割集会所付近が門
        前町と尾津町の境界のようだ。

        
         レンコンには穴があいているが、穴の向こうが見通せるから「将来の見通しがよい」と
        のことで、縁起物の食材とされた。また、種が豊富につくことから「子孫繁栄」の象徴と
        もされてきた。(道路左側の蓮田)

        
         信号機の先に岩国南八十八ヶ所第44番霊場(尾津大師堂) 

        
         藩政時代の岩国領(藩)は干拓で農地を増やしたが、海が近いこともあって塩害により米
        が育たず農民は困窮した。藩主の命を受けた篤農家・村木三五郎がレンコンならば干拓地
        でも育つのではと、岡山県から備中種を持ち帰って植えたことに始まるという。
         1811(文化8)年には藩営として始められ、大正中期頃までは日本固有のものが栽培さ
        れていたが、その後は大陸系(支那百花種)のものが導入されたようだ。

        
         サギがたくさんいる中で、カラスも機械の上でのんびりと蓮田風景に溶け込んでいる。

        
         レンコンの葉はスイレンと違って、水面から茎に支えられて葉の直径が2mになるもの
        もあるため、台風や強風が最大の天敵といわれている。

        
         蓮田に囲まれた民家が点々と存在する。

        
         収穫できるまでの作業は水田の中で、アオコなど藻の発生、害虫の食害、雑草の繁茂な
        どがあって管理が大変のようだ。 

        
         お会いした農家の方によると、花は品種などよって一斉に咲かないので見頃は何とも言
        えない。盆前には花を出荷するので、盆前にもう一度来てくださいとのこと。

        
         1809(文化6)年~1859(安政6)年にかけて尾津、仙島館、御蔵元が開作されて、一
        部が塩田化されたと思われ、海や塩の神様である塩土老翁神を祀る塩釜神社がある。

        
         神社の一角に、1942(昭和17)年8月27日16号(周防灘台風)の襲来により、海側
        の堤防が決壊して甚大な被害を受けた。これを後世に伝えるための碑が建立されている。

        
         全国のレンコン生産量は、茨城県がダントツの約半分を占め、山口県は第5で生産量は
        5%超に過ぎないそうだ。

        
        
         尾津開作第2南蛮樋(樋門)は、1809(文化6)年に建造されたもので、現在は使用され
        ていないとのこと。(上が土手側、下が干拓側より)

        
         土手歩きだが左は東洋紡、その間に広い排水路。

        
         岩国城と錦帯橋、鵜飼漁がデザインされ、中央に市章が配置された岩国市のマンホール
        蓋。

        
        
        
         第1南蛮樋(樋門)も第2南蛮樋と同じ年に建造された。(上が土手側、下が干拓側より)

        
         「ハスは泥より出でて泥に染まらず」のことわざがあるが、仏教と深い関わりを持つ植
        物である。ハスの花は短くて寿命が4日程度とされ、早朝に咲いて昼頃には閉じ始めてし
        まう。

        
         左前方に南岩国駅と5号揚水機場。

        
         歩いてきた道を見返り、河野上地第1踏切を横断して駅に戻る。


岩国市周東町の祖生は珍しい火祭りが行われる地

2022年06月29日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         祖生(そお)は玖珂盆地の東南、島田川上流域に位置し、高照寺山西麓、氷室岳北麓の典型
        的な山麓地形と丘陵地に立地する。
         地名の由来について玖珂郡誌は、「当村、元来僧坊多キ故、地名トスル由、古老ノ伝也」
        (玖珂郡誌)とある。(歩行約1.7㎞) 

        
         公共交通機関(岩国生活バス)があるものの医療機関対応バスのため、週4日、1日3便
        であるため車に頼らざる得ない地域である。(JAに駐車)

        
         JA祖生支所は高森支所に統合されて建物だけが残されており、その南側に新宮神社へ
        の道がある。

        
         祖生小学は1874(明治7)年1月元庄屋の河田家を教場として、祖生村塾を開設し、同
        年8月祖生小学と改称する。1885(明治18)年校舎を元河田屋敷跡に新築移転する。周
        東町成立後、新たな構想に基づいて東西小学校に再編されることになり、1957(昭和3
           2)
年3月をもって廃校となる。
         手前には祖生公民館があったようだが、村民の労力奉仕と多数の資材提供によって、1
        949(昭和24)年に建設された。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の祖生村がそのまま単独で自治体を
        形成する。1955(昭和30)年昭和の大合併で、高森町、祖生村、米川村、川越村が合併
        して周東町が発足するが、この地に村役場があったとされる。 

        
         南に氷室岳が聳える。

        
         新宮神社は鎌倉期の1225(嘉禄元)年、周防権介大内弘成が厳島神社より三女神を勧請
        し、のち国常立尊以下3神を併祀して新宮大明神とする。

        
         由宇町の由宇川沿いに榊八幡宮の新宮さんが祀られていたが、ある日突然居なくなった
        ので探したところ、周東町祖生の新宮神社が気に入って「ここにおる」と言われたので、
        そのまま祖生の氏神様になられたという言い伝えがあるという。

        
         社務所前にある玉井翁頌徳碑は、玉井清祇の師徳を称え建立されたとされる。新宮神社
        は越智家が司職してきたが、毛利家の支配となった1560(永禄3)年、玉井武郎通友に代
        わり玉井家が代々社務を掌って今日に至る。

        
         参道を下ると周辺には大きな民家が目立つが、茶室が設けられた家がある。(現在は倉庫
        として利用されているとか)

        
         周防祖生の柱松行事は、1734(享保19)年に始められた夏の「火祭り」で、中村(8/
                15)、山田(8/19)、落合(8/23)の3地区で行われているが、疫病の蔓延に伴って農耕用の牛
                ・馬
が多く死んだのを機に、その慰霊と防災のために始まったと伝える。
         高さ20m前後の胴木を2~3本立て、胴木の先に、かんな屑などを入れた朝顔型の鉢
        を載せ、大縄を3方に張って、火のついた松明を投げ入れて競う。(国指定重要無形民俗文
        化財) 

        
         島田川に架かる中村橋から北進する。

        
         旧藤中医院付近だが閑散とした通り。

        
         この付近が祖生の中心地で、市出張所、郵便局、交番が通りに面する。

        
         商店や理髪店も健在。

        
         400m足らずの通りだった。


岩国市美和町の弥栄湖周辺にある旧藤谷村集落

2022年05月23日 | 山口県岩国市

        
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、長谷(ながたに)村・日宛(ひなた)村・大根川村・
        百合谷村・岸根(がんね)村・黒沢村・中垣内(なかがうち)村・滑村・佐坂村・瀬戸内村・釜ヶ
        原村の区域をもって藤谷村が発足する。
         弥栄ダム建設(1971-1991)により滑、中垣内、大根川、黒沢、百合谷など10集落が何
        らかの水没を受ける。これらの地域は公共交通機関が存在しない所や、生活バスのため便
        数が少ないこともあって車で訪れる。

        
                  
         釜ヶ原集落は旧玖珂郡の北東部にあり、小瀬川に沿い、面積も広く山間の大きな地域で、
        対岸は広島県大竹市である。
地名は釜と称する穴が岩に穿たれているのに由来するとか。
        (大幡神社の木製鳥居)

        
         対照的な蔵が並ぶ

        
         この時期は田植えの真っただ中。正面の山は広島県の瓦小屋山?

        
         寺院は臨済宗の栄福寺のみで、1830(文政3)年に中川平田が同寺で寺小屋を開業した
                が、1878(明治11)年6月に廃業し、7月には渋前小学釜ヶ原支校が設置されて教場と
                なる。
1866(慶応2)年の第二次幕長戦争では、坂上地区の農兵北門団の陣所にもなった。

               
             赤い鳥居に河内神社の額束が掲げてあるが、玖珂郡誌によると、この地域は厳島神社の
        大願寺領であったという。

        
         河内神社は由緒がないため建立時期などを知り得ず。

        
         北門小学校は栄福寺で開校した後、この地に移転して北門尋常小学校などを経て、19
               47(昭和22)年北門小学校となる。2001(平成13)年美和東小学校に統合されて、跡地
               は北門ふるさと交流館として活用されている。

        
         釜ヶ原神楽(岩国市無形文化財)の象徴として交流館の側面に神楽面が掲げてある。神楽
        はもともと祓いの行事から演劇的に移行したもので、特に江戸期に発展した。神事である
        とともに庶民の娯楽の1つでもあった。

        
         大きな地域であるが民家は南半分の小瀬川沿いに集中する。 

        
         ダム周辺に百合谷、岩根、黒沢、中垣内、滑、瀬戸ノ内集落が位置する。

        
         百合谷集落は弥栄湖南に位置し、東は広島県に接する。山の北半分と低地に立地してい
        たが、
ダム建設の影響を受けた地でもある。

        
         河内神社の本殿は比較的新しく、百合谷集落を見守るように建てられている。

        
         農村公園の傍にある人家の蔵。

        
         弥栄大橋は全長560mの斜張橋で、大噴水は水質浄化を目的として設置されている。
        周辺にはレジャー施設等も整備されている。

        
         岩根(がんね)集落
は弥栄湖の西に位置し、北に白滝山がある。地名の由来は、白滝山の岩
        根にある集落であることによるという。(岩根地区集会所傍にある石祠)

        
         白滝山は各地にある白滝姫伝説に因んだものともいい、雨の際に岩壁を流れる水が白滝
        のように見えるので命名されたという。往古、ここに山城があったとされるが、城の時代
        的背景など詳らかでなく謎が多い城跡のようだ。

        
         当地は「岩根栗」が有名で、まろやかな甘味、大粒で風格のある形をしており、気品高
        い香りをもつ栗である。1913(大正2)年全国栗品種調査会に坂上村の人が、「岩根栗」
        として出品したことで国に品種登録された。この集落一帯が栗園だと教えていただく。 

        
         光照寺(真宗)は、室町期の1537(天文6)年創建と伝える。

        
         黒沢(くろざわ)集落は小瀬川の支流大根川と佐坂川が合流する地点の河成段丘と、その北
        側の傾斜地に立地していたが、ダム建設で集団移転して団地を形成している。(日光寺山団
        地)

        
         星形に図案化された歯車のデザインの中央は、旧美和町の町章ではないが、輪の中に「
        三」の文字がある
マンホール蓋。

        
         日光寺(曹洞宗)は、1661(寛文元)年滑村に創建され、初め福王寺と称していたが、年
        月不詳だが黒沢村に移して現寺号にしたという。ダム建設で移転して団地の中心部に位置
        する。

        
         中垣(なかがうち)集落も黒沢集落と同様に、佐坂集落と瀬戸ノ内川の合流地点の河成段丘
        と、その北の傾斜地に立地していたが、ダム建設で移転を余儀なくされた。

        
         県道から上がって行くと客(まろうど)神社。享保年間(1716-1736)までは着ノ社で、17
        60(宝暦10)年客社に改めたという。

        
         傾斜地に人家が並ぶ。

        
         滑橋から見る中垣内集落と白滝山。 

        
         県道から坂道を上がって行くと左手に子安観世音堂。

        
         市松模様に旧美和町の町章と集排の文字が入ったマンホール蓋。

        
         河内神社の御旅所は、1712(正徳2)年造成したとある。

        
         中垣内集落が一望できる。

        
         河内神社(通称:なめらのみょうじんさま)の社伝によると、平安期の806(大同元)年頃
        に筑紫国より勧請されて瀬戸内村に鎮座していたが、1705(宝永2)年当地に遷座したと
        いう。

        
         瀬戸ノ内集落は北から南へ縦走する高い山に挟まれ、その真ん中を小瀬川の支流瀬戸内
        川が南流する位置にある。地名の由来については不明である。

        
         2~3軒が寄り添いながら南北に細長く集落を形成している。

        
         ダムの南側に大根川、日宛、長谷集落が位置する。

        
         大根川集落は弥栄湖の南西、長谷川、日宛川が合流する平地にあったようだが、ダム建
        設で集団移転したかどうかは定かでないが、県道に沿って小集落を形成している。地名の
        由来については不明である。

        
         正覚寺(真宗)は、安田五郎左衛門という者が、寛永年中(1624-1644)に開基したとされる
        が、その他は不明とのこと。

        
         対岸も大根川集落だが一丁田橋で繋がっている。

        
         日宛(ひなた)集落は柏木山・阿品山北麓、小瀬川の支流日宛川流域に位置する。日宛公会
        堂を境にして北と南に集落が形成されている。

        
         神社名を記すようなものが見当たらず。

        
         日宛川上流の集落(南側) 

        
         客神社。

        
         域内にある報照寺(真宗)は、1693(元禄6)年大根川村に創建されたが、1716(享
          保元)
年日宛村に移転したと伝える。

        
        
         長谷(ながたに)集落は岩国から松尾峠を越えて玖珂郡に入る最初の集落で、2つの谷川が
        北部で1つになって北流、大根川となる。家々はこの谷間に散在する。
         地区自治会などが中心となって、江戸期には和紙の原料である楮や三椏(みつまた)が盛ん
        に植えられたが、現在はほとんど植えられていない。そこで三椏を植えて散策道を設けた
        と案内されているが、3月頃より淡い黄色い花が咲くという。

        
         江戸期には域内を岩国往来が通り、長谷一里塚が築かれた。昔の往来道は、ここより5
        m上にあり、塚の基礎部分は残っているが、危険なためこの地に復元したという。

        
         市道と岩国往来が分岐するところに地蔵尊が祀られている。時間が足りず佐坂集落を訪
        れることができなかった。


岩国市の由宇は廻船として栄えた港町 

2022年02月02日 | 山口県岩国市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         由宇(ゆう)は由宇川下流域の三角州に位置し、東は瀬戸内海に面する。海岸に沿って山陽
        本線と国道188号が通り、由宇駅前一帯が商店街と住宅街で、人口が密集して公共施設
        なども集約されている。もとは由西と由東地区だったが、1955(昭和30)年神代村の一
        部が編入されて神東の
3地区となった。
         地名の由来は、往古、由宇川流域では湯が湧き出ていたことによるという。(歩行約5.
        8㎞)

        
         JR由宇駅は、1897(明治30)
山陽鉄道が広島駅から徳山駅まで開通したと同時に
        開業する。現在の駅舎は1981(昭和56)年に改築された。

        
         町内を歩くと、この幟が多くみられる。

        
         歩車区分のない国道を南下すると、ガソリンスタンド手前に右折する道がある。

        
         説明によると大将軍霧峯神社の丁塚だそうで、もとは坊ヶ迫という所に設置されていた
        が、1898(明治31)年切畑への道が新設されたとき、この場所に移されたという。
         この丁塚は弘化3年(1846)、室津村(現上関町)の商人によって立てられたことが刻字さ
        れているという。

        
         西光寺は大内家の旧臣・中谷喜右衛門が出家して、1553(天文22)年に開創。6脚の
        鐘楼門と大きな本堂を構える。門前には1955(昭和30)年から約43年間、「まどか幼
        稚園」があったことを示す石柱が立てられている。 

        
         南町通りにある小祠と井戸? 

        
        
         右手の商店街筋に入ると岩国市由宇支所まで直線道。

        
         江戸末期から明治中期にかけて盛んだった由宇の廻船業は、鉄道の開通や電信などの普
        及により、1897(明治30)年代に転廃業した。
         この中にあって、「嶋屋」は英国製蒸気船を購入して海運業に踏みとどまり、日本海沿
        岸や中国大陸を主な商圏としては発展する。のちに嶋谷汽船株式会社と改組し、1923
          (大正12)年本社を由宇村から神戸市に移転するまでこの地に本社が置かれた。

        
         嶋谷汽船本社跡の真向かいに柳井信用金庫(現東山口信用金庫)があったが、現在は国道
        筋に移転している。

        
         旧由宇町の花鳥木であるカエデとユリ、カワセミがデザインされたマンホール蓋。

        
         この先でインターロッキングブロックの通りが終わる。

        
         四叉路の片隅に「由宇小学校開校の地」を示す石碑が立てられている。1872(明治5)
        年学制発布によって「邑に不学の戸(こ)なく、家に不学の人なからしめん」の精神に基づき、
        旧岩国藩士豊川鉄太郎屋敷を買い上げ、玖珂郡第5番小学が翌年3月に開校する。
         豊川家は、元は臼杵屋という屋号の廻船問屋だったが、江戸中期頃に岩国領の士分とな
        り由宇開作の築立てを行い、幕長戦争では由宇組民兵の司令を務める。

        
         小学校開校地碑の隣に1945(昭和20)年9月17日、枕崎台風により由宇川などが氾
        濫し、市街地に濁水が流れ込んだ際の水位が示されている。
         この災害で死者・行方不明者42人、1,351戸が家屋の流失や倒壊、床上及び床下浸
        水の被害を受けたとある。

        
        
         浄専寺(浄土宗)は、1616(元和2)年出雲の人・宋山和尚によって始められたという。
        和尚は熱心に教えを広めたので地元の人に慕われ、人々の協力で元からあった地蔵堂を修
        理して寺にしたという。(境内に大師堂あり)
         幕末の幕長戦争では幕府軍の攻撃に備え、由宇村民兵団(忠集団)の屯所となった。

        
         浄専寺筋にある善行寺(真宗)は、1594(文禄3)年創建とされ、現在地に建立されたの
        は、1625(寛永2)年といわれている。
         同寺も幕末の幕長戦争では忠集団の屯所となり、1920(大正9)年由宇では最初に幼児
        教育施設の「私立由宇幼稚園」が開設された。

        
         岩国領の出先機関として正保年間(1644-1648)に由宇代官所が設置され、この一帯は代官
        所を中心に家並みが続き、商家や手工業を営む者も多く、岩国・柳井に次いで賑やかな町
        だったという。廃藩後は廻船業を営んでいた桝屋(山中家)の所有となる。
         ちなみに岩国領は本藩が支藩として届け出せず、幕府は3万石の外様大名格とする変則
        が続いたが、1868(慶応4)年正式に藩として認められる。

        
         横町筋を見返る。(四叉路を右折) 

        
         由宇小学校と由宇グラウンドの間を抜ける道が榊八幡宮の脇参道。(グラウンド前にトイ
        レ) 

        
         表参道は長くて急な石段。 

        
         榊八幡宮の社伝によれば、創建年は詳らかでないが、古くより由宇一帯の鎮守社として
        崇敬されてきた。1600(慶長5)年関ヶ原の戦い後、当地方は岩国領吉川家が領すること
        になり、同家の氏神である駿河八幡宮を榊(由宇)八幡宮に合祀し、社域も現在の形となっ
        たという。(吉川家が転封後に居を構えたのが由宇)
         神殿は度々造替えされ、唐破風を持つ拝殿は1819(文政2)年造替えされたもので、屋
        根瓦に使用されている紋は「一つ蛇の目九曜紋」で吉川家の紋所とされる。楼門があった
        ようだが、2002(平成14)年焼失したと付け加えられている。

        
         神社から車道を下ると、由宇川に流れ込む山崎川と鴨谷川が合流する辺りを新宮崎と呼
        び、由宇八景の1つとされる。
         榊八幡宮の新宮さんが祀られていたが、ある日突然居なくなったので探したところ、周
        東町祖生の新宮神社が気に入って「ここにおる」と言われたので、そのまま祖生の氏神様
        になられたという言い伝えがあるという。

        
         集落内の道は団地内を通っているので土手を西進する。 

        
        
         大内氏の家臣であった藤井氏は、大内氏滅亡に際し、領地であった由宇に帰農する。厳
        島合戦後に藤井氏の2男が別家して村田家と称し、この屋敷に居を定めた。
         関ケ原合戦後、当地方を支配することになった吉川氏は、岩国に館ができるまで約2年
        間、当屋敷に滞在する。村田家は入国の際の功績により由宇村永代庄屋に任じられる。
         本宅は文化年間(1804-1818)に建てられたものだったが、1933(昭和8)年解体、門は
        天保年間(1830-1843)建て替えされたものが現存する。

        
         左岸に移動する。

        
        
         慈雲寺の寺伝によれば、山口の大内弘家は信仰心が厚かったが、鎌倉期の1300(正安
          2)
年没する。曽孫の大内弘世は弘家や戦乱の死者の菩提を弔うため、南北朝期の1367
                (貞治6)年この地にあった真言宗不動院を再々興し、弘家の戒名をもって寺号とし臨済宗に
        改める。


        
         寺は幕長戦争の時は岩国領兵の屯所になったり、明治の終わりまで寺の前の川土手に由
        宇村役場があり、由宇村議会の議事場などにも使用された。
         また、寺が創建された頃の麓は海で、潮の音が響いていたという。

        
         旧町の花鳥木であるユリの周りにカエデをデザインした農業集落用排水マンホール蓋。

        
         由宇中学校裏の地蔵尊と宝篋印塔を見て由宇川沿いに出る。 

        
         由宇川はかって川幅が現在の約半分程度で、1869(明治2)年以来約100年間に度重
        なる氾濫で田畑や家屋、人命に大きな被害をもたらしてきた。
         1949(昭和24)年5ヶ年継続の県直轄事業とすることが決定されたが、拡張工事は農
        地や宅地など用地買収が難しいこともあって難工事となる。1950(昭和25)年のキジヤ
        台風や翌年やルース台風で多大な被害を受けたことにより、事業の必要性が認識され、約
        10年の歳月を要して完成したことを記念して碑が建立された。 

        
         こちらは1932(昭和7)年5月に竣工した道路改修記念碑。

        
        
         千歳橋は岩国領の公道で、道行く人や橋の安全をお守りするために地蔵尊が建立された
        という。
         「お初地蔵」の縁起について諸説あるようだが、桝屋(山中家)にお初という近隣に聞こ
        えた美女があって、この地蔵尊がお初によく似ているので、誰言うことなく「お初地蔵」
        呼ばれるようになったという説がある。台座には「明和8年(1771)6月吉日 施主桝屋」
        と刻まれている。

        
         岩国市役所由宇支所前を右折して郵便局の先に蛭子神社がある。廻船業に携わる人たち
        によって祀られてきた。
         神社の真向かいには榊八幡宮の御旅所があるが、石碑には「大正2年御旅所許可」と刻
        まれているが、許可したのは宮内省とのこと。
         また、注連石(しめいし)が一対建っているが、1920(大正9)年ハワイに移民する人が出
        発に際し、神徳の加護を願って建てたもので、当初は唐樋に建てられたという。 

        
         民間による銀行設立が可能になると由宇村にも銀行設立の機運が高まり、1898(明治
        31)年由宇銀行の設立認可を受けて、翌年から現在の山口銀行由宇支店の地で事業が開始
        された。
         その後、由宇銀行は周東産業銀行に発展し、さらに華浦銀行と合併したが、太平洋戦争
        の末期に国の企業統制による1県1行の方針のもと、下関市の百十銀行を中心に集約され
        て山口銀行となり、同行由宇支店として今日に至っている。(建物は3代目だとか) 

        
         横町に足を踏み入れるが、次の神代に移動するため由宇駅に戻る。(コロナ蔓延防止発令
        中のため誰とも会わず、列車内も閑散としていた)


岩国市行波は7年毎に錦川の河原で神舞 

2021年12月24日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         行波(ゆかば)は錦川下流域の右岸、雲霞山を背にして、その山麓緩斜面に集落が形成され
        ている。
         玖珂郡誌に「往古虫明神、小浜へ御着船の砌、大波小波打行シ所也」と地名の由来らし
        き記述がある。(歩行約2.5㎞)

        
         錦川鉄道の行波駅は、1971(昭和46)年当時の国鉄が行波仮乗降場として設置する。
        単式ホーム1面のみの地上駅で駅前広場を有していない。

        
         ホームから見る集落と錦川。

        
         駅から見える荒玉社には神舞が奉納される。神舞は疫病の流行、災厄に苦悩し、凶作に
        困惑した里人達が人事を尽くして然る後に、神明の加護を願ったものとされる。神舞は式
        年奉納とされ、7年に1度、全12座の舞が奉納されるが、前回は2019年に行われた。

        
         行波の鎮守社として江戸中期頃には諏訪大明神が祀られていた。1791(寛政3)年旧鎮
        守の社地に社殿を造営したうえ、対岸より荒玉社、天疫社を勧請し、諏訪大明神と合祀し
        て、社号を「荒神社」とする。1811(文化8)年「荒玉大明神」と改称し、その後、拝殿
        新造時に「荒玉社」と称する。

        
         集落内を錦川清流線が走る。 

        
         40戸ばかりの小さな集落。

        
         龍雲寺前を走る清流線のひだまり号「桜のピンク」 

        
         架道橋を潜ると見上げる位置に龍雲寺山門。

        
         龍雲寺(臨済宗)は室町期の1395(応永2)年創建と伝える。

        
         今度はこもれび号「森林のグリーン」が走り去る。

        
         対岸の下地区とは行波橋で結ばれている。 

        
         岩国行きの列車まで時間があったので下地区を歩いてみる。

        
         山がちで耕地が少なく、大半が畑地で紙漉きなどして生計を支えた時代もあった。神舞
        は錦川河川敷に神殿(舞台)を設け、高さ約25mの松を立て木の上に祀ってある「三光」
        を燃やし、五穀豊穣、民安穏、厄疫退散を祈願する松登りが行われる。

        
         国道187号に出る。 

        
         観音寺はもと観音堂と称して臨済宗の寺院であったが、1669(寛文9)年再興されて浄
        土宗に改宗される。

        
         ほぼ国道筋に家並みと南側に団地がある。

        
         途中で駅に引き返し、13時12分岩国行きに乗車する。(建物は北河内幼稚園) 


岩国市の角・土生は沈下橋のある地から山間の集落

2021年12月24日 | 山口県岩国市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。        
         角(すみ)は保木川の西岸に位置し、域内の西を錦川が北流する。地名の由来を玖珂郡誌
        は、「角五郎右衛門資清居住、故角ト云」とある。
         
土生(はぶ)は域内中央部を貫流する保木川と近延川、竹安川の支流域に集落がある。地
        名の由来を玖珂郡誌は、かって土生伯耆守国広が住んでいたことに因むという。(歩行約
        6㎞)

        
         南河内駅は、1960(昭和35)年に国鉄・岩日線の駅として開業する。その後、国鉄分
        割民営化により錦川鉄道に移管されて今日に至る。
         単式ホーム1面1線でホーム上に屋根付きの待合スペースがあり、駅前広場を有している。
        (行波駅からは1区間)

        
         錦川に架かる3つの沈下橋のうち、真ん中にあるのが細利橋。駅から片道約600mの
        距離にある。

        
         右手の清流線高架を列車が走り去る。 

        
         橋の幅は他の沈下橋に比べて意外と広い。

        
         国道2号に通じているためか交通量は多い。

        
         細利集落側から見る沈下橋。車は離合できないので両岸で状況を見ながらスムーズに走
        行されている。

        
         駅と岩国西中学校の三叉路に椎尾(しいのう)八幡宮参道。

        
         174段の石段を上がると正面に神門(楼門)。

        
         平安期の大同年間(806-810)宇佐八幡宮より勧請したと伝え、南北朝期の1340(暦応
          3)
年に再建される。河内郷24ヶ村の氏神で多くの社坊があったとされ、通称河内の八幡
                様と呼ばれている。

        
         菅原社には大草履と烏天狗。

        
         神社の車道を下ると保木川沿いに角集落がある。

        
         川の左岸を上流に向かうが、右岸の道は国道2号。

        
        
         保木川の支流・竹安川に架かる橋を渡ると、校門と校舎のような建物があったが詳細は
        知り得ず。

                
                その先の民家から山に向かう道に入ると、巨木の下
               に何かが祀られている。

        
         山裾を辿ると次の集落が見えてくる。

        
         相ノ谷、二鹿に通じる道に出ると左手に国道2号。赤瓦は南河内郵便局。 

        
         四叉路の左手に光西神社と光西寺。 

        
        
         国道筋の家々は建て替えられており、白壁に囲まれたO家だけが残る。

        
         徳山~岩国間に路線バスがあるが、1日5便と少なく16時過ぎまで便がないので引き
        返し、椎尾八幡宮下の直進道を駅に向かう。

        
         河内椎尾宮祖霊社とされ、明治以降の神仏分離と神葬祭の普及に伴い、氏子のなかで神
        葬祭をもってした人々のを合祭する社だそうだ。