ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市の川下は中津居館跡から楠巨樹群

2024年08月06日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         川下(かわしも)は錦川がつくった三角州にあり、東は瀬戸内海に面する。大半は江戸期の
        干拓によってできた平地である。地名は錦川の下流にあることによるという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、向今津(こいまず)村、車村と中津村の区域をも
        って川下村が発足する。1940(昭和15)年岩国町など5町村が合併して岩国市に移行す
        る。(歩行約5㎞)

        
         JR岩国駅からいわくにバス梅ヶ丘行き約7分、大藪バス停で下車する。

        
         この延長線上に米海軍海兵隊岩国基地があるので、時折、航空機の離着陸によるものか
        地響きするような轟音が聞こえてくる。

        
         北側に飲食店が並び、南側には防衛施設事務所、駐留軍労働者労務管理機構、労基署な
        どがある。(車町1丁目)

        
         岩国市役所川下出張所に「ふるさとの散歩道」の案内板がある。

        
         1871(明治4)年創業の酒井酒造は、銘柄「五橋」で知られている。(中津町1丁目)

        
         川下小学校への道に入ると旧車村だが、車という地名は、まだ人家がない時、中津村に
        居住する加陽浄全が田屋を作り、中津境に水車をかけて用水にしたことによると伝える。 

        
         寿街区公園の向い側に大歳神社。五穀を守護し、家の安全・幸福を守護する大歳神が祀
        られている。

        
         大歳神社境内地には、会津戦争以降の殉死者を祀った忠魂碑がある。

        
         寿共用会館の地に川下村役場があったというが、確証を得ることができなかった。

        
         川向いが岩国領(藩)の港があった今津地区。河川敷には畑地が並ぶが、河川法により制
        約はあるものの、河川管理に重大な支障を及ぼさなければ耕作は可能のようだ。

        
         川下小学校の裏手に吉田二鳩先生頌徳碑がある。幕末から明治にかけて、寺小屋の時代
        から川下小学校となった後も、約60年間多くの子弟を教えたという。

        
         車川跡の案内があるが、この辺りから川下出張所の方へ車川が流れ込んでいた。169
        3(元禄6)年に川は堰き止められ、今のような三角州になる下地ができたという。

        
         大正橋の南詰に中津薬師堂の碑があるが、薬師堂を見つけ出すことができなかった。

        
         酒井酒造駐車場の奥に椿地蔵菩薩が祀られている。創建年など詳細はわからないが、椿
        の好きな人がいて、家の周囲に椿を植栽していたという。椿の守護を願って建立されたの
        で椿地蔵と呼ばれ、岩国南八十八ヶ所30番札所になっている。

        
         通りの名前はわからないが、昔ながらの家が見られる。

        
         専念寺(浄土宗)の本尊・阿弥陀仏は、元白崎八幡宮の中本坊であった神宮寺の本尊と伝
        える。1610(慶長15)年中津御屋敷地に創建されたが、1660(万治3)年当地に移建し
        た。 

        
         大藪バス停付近から楠交差点までに市道楠中津線が建設中であった。防衛省の補助事業
        だそうだが、三角州の中央を分断する形の道である。工事中の道を横断して門前川側に移
        動する。

        
         仏性寺(真宗)は、1617(元和3)年創建と伝える。 

        
         万行寺も浄土真宗で、1619(元和5)年3月岩国の牛野谷の地に小庵を創建する。明暦
        年間(1655-1658)に中津御屋敷地へ移転したが、その後、当地に再移転したという。寺境内
        の一部には、1948(昭和23)年開設の万行寺幼稚園がある。

        
         万行寺の先から今津川に向かうと寺裏に広い空地があり、片隅に「加陽(かや)和泉守やし
        き跡」と案内されている。
         岩国市によると、以前は「加陽和泉守居館跡」とされていたが、この人物は毛利元就の
        直轄水軍の一人として、厳島の戦いに参戦し、この合戦後に中津居館に駐留したとされる。
        誰が造ったのかという記録はないそうで、大内氏の時代、岩国を拠点に勢力を持っていた
        弘中一族が築いたのではとされている。居館の成り立ちから遺跡周辺の地名である「中津」
        をとって、「中津居館跡」に名称変更したという。

        
         古い石垣の案内によると、川下地区は土や砂には恵まれていたが、大きな石がなくて困
        ったという。朝日長者という人物が、屋敷の石垣の石を集めるのに、「石一ぱいに銀一ぱ
        いやる」といって集めた石でつくられた石垣とある。 

        
         楠3丁目街区公園(薬師堂公園)には、薬師堂、朝日長者やしき跡と土一升米一升の丘に
        ついての案内板がある。(正面の高台が土一升米一升の丘)

        
         案内によると、この地は瑞光寺の境内であったといい、玖珂郡志に「瑞光寺殿ハ大内弘
        世ノ息女ニシテ弘中氏妻也ト申伝」とある。室町時代に遡る古寺であったが、近世の初め
        に岩国城下の永興寺の末寺となる。万治年間(1658-61)に吉川広正が堂宇を再建し、吉川興
        経の位牌を当寺に預けたが、1866(慶応2)年興経父子の位牌を永興寺に移し、本堂など
        は解体されて廃藩とともに廃絶する。

          
              国道南岩国バイパスを横断して門前川沿いに出ると、「殿様いん居やしき跡」の案内が
        ある。2代目領主・吉川広正(1601-1666)は、1663(寛文3)年に家督を長男の広嘉に譲
        って隠居する。風光明媚なこの地を選んで隠居所としたが、3年後に隠居館で病没する。
        (場所は右手の墓地一帯)

        
         門前川上流へ向かうと楠の巨樹群が見えてくる。
        
        
         この楠は、1659(万治2)年2代領主の吉川広正が、隠居所を設ける際、堤防の改修時
        に楠を植えたともいわれる。
         また、1676(延宝4)年この地の庄屋が植えたという伝承も残されている。

        
         楠巨樹群の中に海原神社が建立されているが、創建年などはわからなかったが、漁業・
        航海・商業の神として崇められていたと思われる。

        
         本数は数えなかったが、11本が県天然記念物に指定されているとのこと。

        
         三角州の頂点で錦川が今津川と門前川に分流するが、門前川側に大きな井堰が設けられ
        ている。今津を湊にするため堰き止め、今津川の水量増を図るためとされる。

        
         今津川の右岸を下る。

        
        
         今津川橋を利用して、八幡バス停(13:45)よりJR岩国駅へ戻る。


岩国市今津町の岩国電気軌道跡と今津界隈

2024年08月02日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         今津は錦川の左岸に位置し、地名の今津は、新しくつくられた港を意味し、岩国領(藩)
        の城下町がつくられた慶長年間(~1615)頃とされる。
                 それ以降は今津村であったが、明治の町村制の施行により、今津村、装束村、室木村、
        柱島の区域をもって麻里布村となる。
         今回は、1909(明治42)年に開業した岩国電気軌道跡と今津の町を散歩する。(歩行
        約7.8㎞) 

        
         JR岩国駅からいわくにバス錦帯橋行き約15分、新町バス停で下車する。

        
         新町停留所の位置を確認するため地元の方にお聞きすると、詳しくは知らないが、郵便
        局からロータリー付近に駅などがあったと聞いているとのこと。その痕跡は残されていな
        いが、本社、工場、倉庫、売店などがあったという。(岩国2丁目) 

        
         岩国学校は、1870(明治3)年に藩中の青少年を教育するため、現在地近くに新築され
        たが、電車はその学校付近を走っていたとされる。(藤岡市助に関する資料を保存・展示)

        
         現在の岩国小学校付近の道筋が軌道跡と思われる。

        
         軌道は「へ」の字型になっていたようで、右手の道が軌道跡である。

        
        
         通りに入ると右手に、岩国南八十八ヶ所特別霊場があり、お堂を覗くと想定外の仏様が
        鎮座していた。(錦見4丁目)

        
         現在の森木口バス停付近に錦見(にしみ)停留所があったとされる。約7㎡の待合所が設け
        られ、近くに岩国町役場があったという。

        
         錦見5丁目に入ると、やや左へ湾曲して旧国道2号線に合わす。
         岩国電気軌道は、岩国市街と国鉄山陽本線の麻里布駅(現岩国駅)との間に距離があった
        ことから敷設された。中国地方では最初の路面電車で、岩国新町から岩国駅を経由して、
        海の玄関口であった新港に至る5.7㎞の路線であった。

        
         新小路停留所は旧国道2号線と交差する辺りにあったとされる。この先、軌道はどのよ
        うに敷設されていたかは不詳のままとなる。(錦見6丁目)

        
         岩徳線が敷設されているため、県道15号線(岩国玖珂線)を利用する。(歩道橋で西岩国
        駅)

        
         西岩国駅の由来によると、1929(昭和4)年4月に岩徳線の一部、麻里布ー岩国町間が
        開通して岩国駅として開業する。1934(昭和9)年に岩徳線が全通して山陽本線となり、
        錦帯橋を中心とする観光客は当駅で乗降したという。
         時代とともに岩国の中心は麻里布地区に移っていったため、1942(昭和17)年に麻里
        布駅を岩国駅、岩国駅を西岩国駅に改称される。

        
         駅舎は大正末期から昭和初期の洋風建築で、アーチ部分は錦帯橋を模した意匠である。
        駅建物はJR西日本から岩国市へ譲渡され、国の登録有形文化財に指定された。今も木製
        ラッチが使用されるなどレトロな味わいのある駅舎である。 

        
         岩国往来は、岩国市本郷町と今津を結ぶ約30㎞の往還道である。関ケ原の戦い後、防
        長2州に移封された毛利家は吉川家を岩国領主とし、萩藩主の御国廻りや役人が岩国領(藩)
        を視察、特産の和紙など物資を輸送する道として利用された。

        
         錦見8丁目の錦見踏切で錦川へ向かう。

        
         1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会で東京電灯が電車を初運行、この電車を設
        計したのが岩国出身の藤岡市助であった。1908(明治41)年6月岩国に戻った市助は、
        岩国電気軌道㈱を創立する。(錦見ポンプ場付近の交差点)

               
        
         県道沿いに赤い鳥居があり、額束には正一位・おさん稲荷大明神とある。社は民家裏に
        あってたくさんの狐像が置かれていたが、由緒などがないので創建年などは知り得なかっ
        た。TV放映された日本昔ばなし(ナレーションは市原悦子)に、「おさん狐」というのが
        あったことを思い出す。

        
         水道局を過ごすと関所バス停があるが、錦見と今津の境界上、錦川を臨む小丘上に関所
        山城があったという。1569(永禄12)年に毛利軍が九州の立花城攻めの頃に築城された
        とするが、それ以前に陶方が築いたのではないかとされる。
         1868(明治元)年この城跡に戊辰戦争の戦死者22名を祀った招魂社が建立されたが、
        白崎八幡宮境内に移された。

        
         八幡停留所は白崎八幡宮下に設けられていたというが、八幡下から八幡バス停の間にあ
        ったものと思われる。 

        
         八幡下を少し進むと、中央の道を挟んで左手が軌道跡、右手が岩国往来である。

        
        
         山門と本堂の間を車道が通る浄土宗の称光寺。1644(正保元)年に吉川家より現社地、
        用材を拝領して創建されたという。

        
         車道兼用の参道を上がる。

        
         少し上流で錦川は今津川と門前川に分流する。開作ができて用水が不足したので、16
        92(元禄5)年に八幡下より開作地へ用水溝を掘ったとされる。(川下の橋は大正橋) 

        
         白崎(しらさき)八幡宮は、八幡山の南麓にあって錦川を望む地に鎮座する。由緒によると、
        鎌倉期の1250(建長2)年に時の領主・清縄良兼が今津の琵琶崎に小社を創建する。13
        48(貞和4)年に良兼の子・弘中兼胤(清縄を弘中に改姓)が、現在地の白崎山に遷座させて
        社殿を造営した。
         室町期の1496(明応5)年兵火により社殿を焼失したが、翌年、弘中弘信によって再興
        される。弘治年間(1555-1558)大内氏とともに弘中氏も亡び、社は衰退したが、1611
         (慶長16)年吉川氏により再興された。

        
         境内末社として住吉神社、粟嶌神社など14社が祀られているが、蓄財隆昌の銭亀かえ
        る大明神、オートバイ神社というのもある。 

        
         護国神社の沿革によると、1868(明治元)年関所山に維新前後の戦役で亡くなった22
        名の霊を慰むるため社殿を造営し、後に西南、日清・日露から第二次大戦の殉死者を合祀
        した。
         当初は岩国町関所山招魂社、のちに岩国護国神社と改称したが、第二次大戦後は岩国神
        社とし、1952(昭和27)年に現社名に復称した。1945(昭和20)年の豪雨により参道
        が破損し、現在地に社殿を建立したとある。

        
         今津川の左岸に今津町、右岸の三角州に川下町・中津町などがあり、正面には阿多田島
        が浮かぶ。

        
         長山公園は日陰のベンチとトイレがあるので、昼食休憩するには最良だった。

        
         大応寺(曹洞宗)は長崎の晧臺寺(こうたいじ)末寺で、1670(寛文10)年に晧臺寺の隠居
        ・月舟宗林が、郷里の岩国の横山寺谷に知足庵と号する小庵を建立したのが始まりとする。
         その後、現在地に移転し、1712(正徳2)年に現寺号に改めた。当地には自性院という
        白崎八幡宮の僧坊があったと伝える。(石段上り口に松尾芭蕉の句碑)

       
        坂村真民(さかむらしんみん・1909-2006)は日本の仏教詩人で、詩は解りやすく、特に「念
       ずれば 花ひらく」は多くの人々の共感を呼び、多くの詩碑が建てられた。同寺にも建立
       され、裏面には多くの教科書に掲載された「二度とない人生だから」がある。
           二度とない人生だから 一輪の花でも 無限の愛をそそいでゆこう
           一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう (中略) 
           二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い
               足をとどめて みつめてゆこう (以降は記載なし) とある。

        
         大応寺から今津川方向へ進むと、左手の高台に白蛇神社が見える。

        
         白蛇神社は今津地域の人々をはじめとして、白蛇の保護と信仰に基づき、2012(平成
          24)
年に厳島神社より勧請、白蛇観覧施設の隣に創建された。

        
         白蛇神社の向いにある今津天満宮は、菅原道真が太宰府に左遷される途中、鞠布(まりふ)
        の浦といわれていた今津に上陸され、休息されたという伝承に基づいて創建された。
         船に使用する櫂(かい)を杖代わりにして丘に登られたと伝えることから、当社は「櫂つき
        天満宮」とも通称されている。社殿は吉川氏の時代に再建されたが、2011(平成23)
        に新たな社殿が建立された。

        
         白蛇神社の裏手に白蛇観覧所がある。観覧は無料だが保護・保存活動のための浄財箱が
        ある。(一人100円)
         白蛇はアオダイショウの突然変異とされ、生息地である岩国市の今津、麻里布、川下地
        区が国の天然記念物に指定された。その後、白蛇自体に指定替えされた。

        
         近年生息地域は都市化が進み、餌となるネズミなどが少なくなるなど環境の変化により、
        生息数は減少しているとのこと。

        
         正面の今津八幡宮参道を下り、今津町第4街区公園先を右折すると宇津神社がある。1
        886(明治19)年に広島県の大崎下島に鎮座していた宇津神社の社家の娘・越智タキ子が、
        神道大日本教布教のため設立した「祓戸教会」を前身とするらしい。後に現在地に移転し
        たが、
1947(昭和22)年神社の制度改革に伴い宇津神社に改称した。

        
         八幡下から岩国間の軌道は、道路に沿って敷設されていたという。今津停留所は現在の
        今津4丁目付近にあったとされる。

        
         浄念寺(真宗)は安芸国吉浦で吉川氏船手衆の檀那寺あった。吉川氏の岩国移封の時、住
        職・徳善がその門徒と共に当地に移り、一寺を建立して現寺号を称したという。

        
         今津恵比須社はもともと白崎八幡宮の末社で、1784(天明4)年に今津中町に分祀され
        た。神社の鎮座地は海岸沿いにあって、海の産物と野の産物が交換される「市」が開かれ
        ていたという。

        
         2つの表門を構える地には萩藩の蔵があったといい、大きな門の瓦には萩藩の家紋(一文
        字三星紋)が見られる。

        
         岩国往来に出ると、白鷺渡来地と白蛇生息地(側面)の碑。

        
         岩国往来の終起点には、御茶屋や船着き場、港に出入りする船や荷物を取り締まる川口
        役人屋敷があったという。

        
         1877(明治10)年に八百屋新三郎が、吉川氏より御茶屋、米蔵を譲り受けて「八百新」
        を創業して酒造りを始めたという。銘柄の「雁木」は近くの船着場に荷物を積み下ろしす
        るための階段(雁木)から命名されたという。

        
         今津川を下って国道188号線を岩国駅方面へ進むが、今津4丁目付近から岩国駅間の
        軌道跡もわからず終いとなる。

        
         岩国電気軌道は小瀬川電気㈱と合併したため岩国電気、後に柳井中外電気㈱と合併し、
        社名を中外電気㈱と変え、最終的は電気事業が山口県に買収されたため電車経営も県営と
        なった。
         廃止されるまで営業成績は好調であったが、鉄道省が岩徳線建設を決定すると、県は並
        行路線となるため開通後に廃止の方針を決める。1929(昭和4)年1月に工事が完成する
        と、4月4日の運転を最後に廃業となる。 


岩国市麻里布は和木駅から新港の立石大明神

2024年07月29日 | 山口県岩国市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、装束村、室木村、今津村と柱島の区域をもっ
        て発足したのが麻里布村である。1940(昭和15)年岩国町、麻里布町など5町村が合併
        して岩国市となり消滅する。
         域内は錦川左岸の河口付近に位置し、錦川が瀬戸内海に流れ込む辺り一帯に麻里布浦が
        あった。(歩行約6.3㎞)

        
         山口県の東端にある和木駅は、2008(平成20)年3月岩国ー大竹間に新設された駅で、
        町などが建設費などを負担するという請願駅である。(西口側)

        
         進行方向とは逆に小瀬川方向へ進むと、四差路の角に「小瀬・上関往還一里塚跡」の案
        内がある。小瀬の渡し(山陽道)から1里であったという。

        
         引き返して駅前を過ごすと、岩国地区消防組合中央消防署東出張所の先が和木町と岩国
        市の境界である。

        
         送電鉄塔が並ぶ装束の地は、小瀬川河口と麻里布川河口との中間辺りにあって、東は瀬
        戸内海に面し、西に200m未満の山を背にした海沿いの狭い平地に立地する。

        
         装束4~5丁目の海側に三井化学の煙突群。

        
         装束神社には珍しい恰好した狛犬と、砂場のような位置に鳥居が建つ。縁起については
        知り得なかったが、宗像三女神である市杵島姫命を祭神とする神社のようだ。

        
        
         衣掛松の由来によると、飛鳥期の624(推古天皇32)年に杵島姫命が厳島に向かう途中、
        装束を改めるために和木の浜に舟を止めて上陸された。そこに形のよい松の木があり、そ
        の松に改められた衣をかけられ、この松を「衣掛松」と呼ばれるようになったと伝える。
         1793(寛政5)年枯死した後に植栽された松は、1962(昭和37)年松くい虫被害によ
        り枯死する。この松を切り倒して根元を玉垣の中に安置したとある。

        
         山手側の筋に入ると大きな表門を構えた民家がある。関係するか否かはわからないが、
        嘉屋又蔵という人物がいた。又蔵は和木・装束の庄屋で、寛文年間(1661-1673)には装束浜
        の貝掘りで芸防間に紛争が絶えなかった時、村民を指揮して大勝利を得たとされる。

        
         高台にある弥勒寺(曹洞宗)は、1745(延亨2)年に創建されて龍登庵と称していた。
        1872(明治5)年瀬田村(現和木町)にあった松月庵を合併し、現寺号になったという。 

        
         1866(慶応2)年6月の第二次幕長戦争芸州口の戦いで、彦根藩士只木小五郎(当時29
        歳)が装束農民団兵に討ち取られた。首級は時の村役人嘉屋□太郎によって、当寺に埋葬さ
        れて山門脇に塚が建立されたと案内されている。

        
         工場群の先に阿多田島。

        
         歩く道が小瀬上関往還道なのか分からないが、立石大明神を目指す。(装束口バス停附近) 

        
         2002(平成14)年10月のダイヤ改正で、広島駅を中心に「広島シチィネットワーク」
        が構築されて、山陽本線は白市ー岩国間がネットワーク内になる。
         2015(平成27)年からは227系電車が投入されて、「レッドウィング」の車両愛称
        が付与されている。(装束踏切)

        
         しばらくは山陽本線と並行する。

        
         国道に出ると第六潜水艇記念碑の案内がある。途中に案内板がないが山手への道を進み、
        階段を上がれば記念碑がある。(途中にトイレあり) 

        
         碑文によると第六潜水艇は、1910(明治43)年4月15日岩国の新港沖で半潜航訓練
        中に沈没し、艇長以下14名の乗組員が殉職する。引き上げ後の艇内および艇長の遺書に
        より、全員が一糸乱れず各々の部署を守り、従容として死に就いたことが判明する。~(中
        略)~殉難後に地元にささやかな記念碑を建てたが、のちに呉鎮守府の追加手入により立派
        なものになった。
         しかし、敗戦により軍に関係あるものは事の如何を問わず葬り去られた。遭難50年(19
        60年)を機に碑を再建したとある。

        
        
         潜水艇の沈没場所。

        
         装束と和木の町並みの先に厳島(宮島)が見えるが。展望地傍には佐久間艇長の遺書が原
        文のまま掲示されている。

        
         岩国城と錦帯橋、錦川の鵜飼がデザインされた岩国市のマンホール蓋。

        
         装港小学校で分断されていた道が続いているので、この道に沿って市街地へ向かう。

        
         線路先の高台に真言宗の岩倉寺(がんそうじ)がある。 

        
         参道を上がって行くと新港が見えてくる。1864(元治元)年の禁門の変によって長州征
        討の勅命が下され、幕府の征長軍による攻撃が開始されようとしていた。
         長州藩は征長軍の規模、外国との戦いによる疲弊、旧式の武器で勝ち目はなく、長州藩
        主・毛利敬親は、幕府との交渉を岩国領主・吉川経幹に依頼する。経幹は極秘に岩国を訪
        れた西郷隆盛と対面し、諸条件をもって長州への攻撃を延期させ、交戦のないまま第一次
        幕長戦争は終結した。西郷は岩国領の海の玄関であった新港から岩国に入り、極秘会談に
        臨んだとされる。

        
         往昔は芸州(広島県)にあったが、防長2州に移封の際、横山寺谷に小庵を建立。その後
        廃絶になるところであったが、寛文の頃(1661)当地に再興されて深盛寺と称した。169
        3(元禄6)年に現寺号に改めたという。右手に本堂、左手には装束浜にあった観音堂を併せ
        ている。

        
         観音堂前にある石仏は、それぞれに謂れがあろうが拝むだけとなった。

        
         恵比須社の創建年など詳細不明だが、一説には1814(文化11)年勧請とされる。
         右の石碑は「福原範輔□碑」とある。範輔(1826-1893)は幕末の岩国領(藩)士で柳生新陰
        流の剣術家であった。四国や九州に遊学し、帰国後は世子・吉川経健の守役に選ばれる。
        第二次幕長戦争では敢従隊の隊長として芸州口で戦い、のち南部五竹とともに建尚隊を組
        織し、戊辰戦争では北越戦争に参加する。維新後は新港で子弟たちに剣術を教えて暮らし
        たという。

        
         住吉神社境内に入ると、山陽本線が横断しているため柵が設けてある。ここは身の安全
        のため柵前で参拝する。ここも創建年など詳細不明だが、1812(文化9)年勧請されたと
        もいわれている。

        
         鳥居脇に賽銭箱が置かれている。

        
         格子の美しい古民家を過ごす。

        
         右手に鳥居があるので上がってみると、神社は線路先にあって、第四種踏切には「踏切
        ゲート」が設置してある。

        
         瑜伽社についても詳細不明であるが、1816(文化13)年に勧請されたと伝える。

        
         西願寺(真宗)のついても知り得なかった。

        
         麻里布川を上流へ向かうと排水機場がある。この周辺は満潮期になると川は海水でいっ
        ぱいとなり、上流からの水が流れ出なくなるそうだ。満潮期と大雨が重なると沿線は洪水
        に巻き込まれることが予想される。排水機は流れ込む海水を堰き止め、上流から流れ出る
        水を強制的に海へ流れ出す施設である。 

        
         川の左岸を進む。

        
        
         立石大明神の由来について案内されているが、なかなか理解し難いが、岩を祭神として
        いることだけは理解できた。

        
         大歳神社は五穀を守護し、家の安全・幸福を守護する大歳神が祀られているが、由来な
        どは知り得なかった。

        
         麻里布川が右に折れる付近は、溜池を思わすような川幅となっている。

        
         さらに上流を目指すが、猛暑日とあって砂山第一街区公園付近でリタイアする。

        
         2017(平成29)年に橋上駅舎となったJR岩国駅。


岩国市長野は小瀬上関往還道筋の集落

2024年04月10日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         長野は峰山東麓の長野川流域に位置し、東は瀬戸内海に面する。海岸に平地は少なく、
        長野川流域に少し平地がみられる。
         小瀬上関往還道は、岩国市小瀬から上関町まで全長15里(約60㎞)、通津から長野の
        辻堂峠を越え、生屋(しょうや)に出て由宇川沿いを経て長田尻から柳井市日積へ至っていた。
         1889(明治22)年の町村制施行により、長野村と通津村が合併して通津村となる。昭
        和の大合併で岩国市に編入されて今日に至る。(歩行約6.8㎞)

        
         JR由宇駅は、1897(明治30)年広島ー徳山間の開通と同時に開業する。駅前に出る
        と笠塚カープ練習場行きの防長バスが待機している。

        
         駅から生屋バス停まで約8分のバス旅である。

        
         この辺りは旧由宇町で、町の花「ユリ」を中心に町の木「カエデ」がデザインされたマ
        ンホール蓋。

        
         県道149号線(柳井由宇線)を山手に進み、小瀬上関往還道だったと思われる県道14
        1号線(祖生通津停車場線)を通津方面へ向かう。

        
         坂を上り詰めると右手に教覚寺(真宗)

        
        
         岩国市高森にある受光寺末寺とされ、室町期の1495(明応4)年創建開基と伝える。
        1902(明治35)年現在地に寺地を開き、翌年に本堂を建立して今日に及んでいる。最初
        の梵鐘は戦争中に供出し、戦後に作った梵鐘は材質が悪くひび割れしたため、1997(平
          成9)
年に鐘撞堂及び梵鐘すべてを作り直したという。

        
         長野上地区の舞々集落。

        
         長野上の火伏地蔵尊。

        
         高台から教覚寺方向を望むと、遠くに瀬戸内海が望める。

        
         坂を上がって行くと長徳寺入口を示す案内がある。

        
         長徳寺(臨済宗・永興寺末寺)は中世に創建された古寺であったが、吉川氏入封の時には
        衰微して住職もいなかったので、堂宇を解体して普請用木に流用されたという。
         1684(元禄7)年堂宇が再建され、寺領10石が付与されたが、現在は無住のようで周
        囲は荒れ放題である。

        
         境内から瀬戸内海を望む。

        
         道端に石仏が見られるが、道しるべとされた地蔵尊か? 

        
        
         通津小学校通西分校と案内されているが、1879(明治12)年長野小学として創立され
        る。のち通津小学校の分校となり、1997(平成9)年に休校となる。

        
         小瀬上関往還道がどの道なのかわからず終いとなる。

               
         河本先生碑とあるが、1902(明治35)年に小学校が山崩れで倒壊し、河本慶三郎校長
                が殉職されたが、それまでの功績を称える碑のようだ。

        
         石仏から下って県道を横断して長野川に出る。

        
         長野川を渡って向いの山を上がって行く。

        
         1906(明治39)年の神社合祀令により、長野地区9つの小規模神社や荒神様などが合
        祀させられ、杵築(きづき)神社となる。

        
         注連石、鳥居や灯籠が多いのは、この社に集められたことによるという。右手には明治
        32年(1899)に建立された鳥居。 

        
         内務省令により「神社は基本財産2,000円以上有すること。これに足らない場合は合
        併してこれを満たすこと」との通達を受けて、大歳神社(5ヶ所)・杵築神社・疫神社・鎮
        守社(2ヶ所)の9社を菅原社に合祀する。
         参拝するのに便利さと広さを考慮して、菅原社(通称長野天神)に合併されたが、社は未
        登録社であったために登録済みの杵築神社とし、名目上の基本財産をクリアして届け出た
        という。

        
        引き返して長野川に沿うと長野中の集落。

        
         再び山裾を上がって行くと墓石が並ぶが、この付近に知足寺という寺があったという。
        1779(安永8)年頃に「知足庵」として再興されたが、檀家がなかったため廃寺となり、
        のち景福寺に合併された。

        
         長野中の火伏地蔵は農道あたりにあったようだが、道ができたため移動させられた。 

        
         四反田バス停付近だが、県道が往還道だったかどうかはわからない。 

        
         擁壁に石仏。

        
         蓮華花、菜の花と桜を見ながら旧道を下る。

        
         長野入口に出る。

        
         国道188号線を柳井方面へ向かうと、大きな桜の木の下に火伏地蔵尊と厄徐地蔵尊。

        
         長野尻火伏地蔵尊は、嘉永年間(1848-1854)に長野尻地区において火災が続き、地区内協
        議の結果、火伏地蔵尊を祀ることとなった。四国八十八ヶ所霊場第19番立江寺より勧請
        し、現在地より10メートル奥地に安置すると、当地から「ボヤ」など火災もなくなった
        という。
         風水害により現在地に移転したが、1964(昭和39)年国道拡張により一部が国道とな
        る。その補償金で鉄骨のお堂を建立し、記念として桜の木を植えたという。隣の祠は脇地
        蔵尊と厄徐地蔵尊とのこと。

        
         国道筋からJR通津駅に出る。


岩国市通津は小瀬上関往還道沿いに開けた町 

2024年01月24日 | 山口県岩国市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         通津(つづ)は高照寺山の東麓、通津川流域に位置し、東は瀬戸内海に面する比較的平地に
                恵まれている。(歩行約8.2km) 

        
        
         JR通津駅は切り立った崖を背にし、駅前は広々とした通津開作である。1934(昭和
        9)年8月11日に開業したが、1925(大正14)年に通津駅設置請願運動を起こして以来
        10年目のことであった。

        
         駅前に「通津散歩」の案内板が立てられ、パンフレットは通津公民館に置いてあります
        とあるが、日曜日なので残念して持参した地図を頼りに散歩することにする。 

        
         小瀬上関往還道の一里塚が御旅所付近にあったとされるが、痕跡などは残されていない。

        
         この通りもクルマ社会に押し流されてシャッター通りになっている。 

        
         地元の方にお聞きすると旧郵便局の建物だったとのこと。 

        
         1889(明治22)年町村制施行により、通津村と長野村が合併して通津村となり、農協
        がある地に村役場が設置されたが、昭和の大合併で岩国市に編入されてしまう。 

        
         住吉神社は、1902(明治35)年3月3日河本弥重郎・青巳(せいき)親子が建立したもの
        である。青巳は嶋谷汽船に乗って航海していたが敦賀沖で遭難する。船員の多くが死亡し
        たが、幸いにも気絶した状態で浜に打ち上げられ、その際に住吉神が現われて助けられた
        という。鳥取県境港の住吉神社でお祓いをしてもらい、神社の建物を縮尺して造ったとさ
        れる。

        
         屋根の下に神猿(まさる)の彫り物がある。公民館が建設されるまでは目の前が港で、航行
        安全の神様として漁師たちが拝んでいたという。

        
        
         河野善次郎(1854-1917)は、通津浦と大島の久賀浦が漁業権争いをし、7人の犠牲者が出
        た。この争いは通津出身の河野氏が県の役人となり調停をしたという。

        
         国道188号線沿いの勝井建設傍に、「田浦(でんぽ)相撲発祥の地」碑がある。豊臣秀吉
        が文禄の役(1592年)で朝鮮に出兵した際、風待ちのため通津浦に仮泊し、兵士の士気
        を鼓舞するため田浦で相撲をとらせたのが始まりという。

        
         街道に戻って北上するが、かつてのバス路線だったという。(米重商店付近) 

        
         1761(宝暦11)年11月建立とされる本町の火伏地蔵尊。

        
         明治25年(1892)創業の看板がかかる河本百貨店。

        
         鍵曲りとなっている一角にある平入り2階建ての建物は、元酒屋で屋根に特徴を見る。

        
         光専寺(順正寺)の寺伝によると、大内家の家臣であった中村壱岐守実之は、大内義長が
        自刃(1556)したため乱を避けて通津村に隠居する。1573(天正元)年浦年寄を務めていた
        俗姓中村彦六が仏縁を喜び、年寄役を嫡子に譲り開基したという。のち寺号を申請して江
        戸期を通じて順正寺と称する。
         1850(嘉永3)年建立の山門は、岩国の甚五郎といわれた福田他武兵衛の作とされる。 

        
         1867(慶応3)年4月吉川家故障(領主の経幹死去)のため寺号を光専寺と改めたという。
       
        
         鐘撞堂の側に珍しい墓がある。台座の上に燗徳利型の墓石が建てられ、その上に大盃を
        模した大石が伏せてある。これは釈道円信士の墓で、俗姓満田屋金重郎という信徒が寄金
        して鐘撞堂を建てたが、この人の功績を偲び生前好物であった酒にちなみ、1775(安永
           4)
年に建立して菩提を弔ったという。

        
         1624(寛永元)年開基とされる専徳寺(真宗)は、創建時は高照寺山にあった常福寺(真
        言宗)が無住であったため、通津に隠居していた吉川広家は、この寺を改宗して浄土真宗の
        寺を建立することを岩国領主・吉川広正に願い出る。
         1686(貞亨3)年頃現在地に移転し、その後本堂、庫裏、書院など建立して体裁を整え
        たという。(初代住職は弘中隆包の孫)

        
         境内には弘中隆包の墓がある。陶晴賢の部下で岩国領主であったが、毛利元就との厳島
        合戦(1555)に反対の具申をしたが聞き入れてもらえず、息子・隆佐(たかすけ)とともに出陣
        して討死する。

        
         通津川の左岸に城跡とされる高山。

        
         両金橋の先で旧街道は国道に合わす。

        
         崩の下架道橋を潜ると通津川には葦の大群落が広がり、通津川橋梁を「瑞風」が走り去
        る。

        
         横町橋手前から高山登山道に入ると、道は明瞭でよく整備されている。

        
        
         通津の町が一望できるようになる。

        
         わずかにジグザグ道となるが歩きやすい。

        
         木造の鳥居下に小さな祠には、須佐之男命(天照大御神の弟で八岐の大蛇を退治した神)、
        大黒様とされる大国主命(縁結びの神、福の神)、えびす様とされる事代主命(漁業の守り神、
        商売繁盛の神)の三神が祀られているという。

        
         玖珂郡志に「固屋ヶ廻平田隆重城。堀切三有之。是城跡也」とある。城主は平田隆重と
        伝えられ、主郭は山頂にあって、現在は四阿と四等三角点がある。(標高69.6m)
         海上の見通しがよく、海上からの攻撃に備えた陶方の城であったと推測されている。 

        
         三角点から北に進むと三重堀切と思われる遺構がある。

        
         三重堀切を過ごして北斜面を下る。

        
         登山口から左折して通津川方向へ向かう。 

        
         乗越橋東詰にある馬頭観音は、牛馬などが亡くなったのを祀るが、この馬頭観音は町か
        ら郷集落に帰る途中、馬が猿猴(河童)に引かれて橋から落ちて死んだので祀ったと伝わる。

        
         延命地蔵菩薩。 

        
         この一帯は蓮田で掘り出し作業されているが、表面をショベルカーで削りレンコンの掘
        り出しは手作業という。(正面に高照寺山) 

        
         山裾に東沢瀉(ひがし たくしゃ)終焉の地がある。

        
        
         沢瀉(1832-1891)は岩国城下の錦見沙原で生まれ、名は正純で沢瀉が号である。はじめ二
        宮錦水に学び、陽明学を奉ずるに至る。尊皇攘夷の論が盛んになると、必死組をつくり長
        州征伐を阻止するため藩政改革を要求する。訴えに及んだため柱島に流刑される。
         明治維新後に罪を許されて、1870(明治3)年保津村面高(おもだか)に「沢瀉塾」を開き、
        1884(明治17)年の閉塾まで優秀な人材を輩出する。この地に移居したが60歳で他界
        する。

        
         県道115号線(通津周東線)を上がって行くと、吉川広家終焉の地への案内がある。

        
         案内に沿って行くと海が見えてくる。

        
         初代岩国領主・吉川広家(1561-1625)は、毛利元就の次男で吉川家の家督を継いだ吉川元
        春の三男である。長男が早逝して次男は他家の家督を継いでいたため、吉川家の家督を継
        ぐ。1622(元和8)年領主を嫡子・広正に譲ってこの地に隠居したが、3年後に没すると
        隠居所は海前寺(曹洞宗)となったが、現在は碑のみである。 

        
         終焉地碑から左廻りに進み、碑の左後あたりに本呂尾の荒神様。

        
         本呂尾(もとろお)の火伏地蔵尊。

        
         何も案内などはないが、南部八十八ヶ所霊場の観音様のようだ。場所は本呂尾公会堂横、
        火伏地蔵のすぐ奥にある。

        
         本呂尾橋バス停に出て県道を引き返す。 

        
         大歳神社境内地にあるイヌマキは、山口県指定の天然記念物である。高さ約16m、雄
        株の巨木には幹に縦溝ができていて、樹齢350年以上ともいわれるが 枝を四方に広く
        のばしている。

        
         大歳神社の由緒はわかっていないが、イヌマキが植えられた頃に創建されたのではとい
        われている。五穀豊穣の神が祀られている。

        
         大歳神社の横にあるのが中村の荒神社。 

        
         乗越橋から鉾八幡宮への道に入る。周辺に景福寺など見処があるようだが、土地勘がな
        いため道がわからず残念する。

        
         桜井戸は通津地区の重要な水源として、どんな干ばつでも枯渇することなく、住民や港
        を出入りする船舶の飲料水などに利用されてきたという。(通津中学校横)

        
         1985(昭和60)年環境庁の全国名水百選に選ばれ、井戸横の蛇口から水を汲むことが
        できる。

        
         八幡宮入口にある恵比須神社。 

        
         1709(宝永6)年建立の石大鳥居から神社の領域(神域)となる。 

        
        
         鉾(ほこ)神社は、平安期の859(貞観元)年宇佐八幡宮より山城国男山八幡宮に勧請の際、
        風待ちのため通津浦に停泊する。この浦の長が分霊を懇願したところ、分霊及びその備え
        として神鉾を賜り、鉾八幡宮と称したと伝える。
         社殿は創建時より度々造り替えられたが、1796(寛政8)年造営され、1919(大正8)
        年に拝殿、1949(昭和24)年に神殿の改築が行われたという。


岩国市の端島は蛇の池伝説と島内を散歩 

2023年07月30日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         端島(はしま)は安芸灘の南西に位置する柱島群島の有人島の1つで、本島である柱島の北
        西に位置している。島の地形は北側にタコウ山、南側に見壁山と呼ばれる山があり、山と
        山を繋ぐ島の中央部の両側が湾となり、南北を繋ぐよう低地になっている。島の集落は東
        側の浜辺のみに展開する「1島1集落」を形成している。(歩行約4.1㎞、🚻待合所のみ)

        
         土・日曜日には10時の便があり、この便を利用すれば2島を訪れることができる。
         但し、JR岩国駅から
から和木方面のバスは平日のみで、土日祝日は全便運休とされて
        いる。(タクシー利用)


        
         本来なら黒島に寄港するはずだが、乗降客がいないとのことで端島に直行する。工事関
        係者や医療関係者、墓参の人たちと一緒に下船すると、船は柱島本島に向けで出航する。

        
         この時期は墓参を兼ねて帰省されるので島は賑わうという。

        
         島唯一の店「亀田商店」があったが、高齢のため閉店されたそうだ。食料はもちろん自
        販機もないので事前準備が必要である。

        
         まずは蛇の池を目指すが、島の方によると非舗装の先は手入れがされていないので行け
        るかどうかわからないという。

        
        
         路地に入ってみると上の道が交差するが、この道に出ることはできない。この奥に民家
        が存在するが、この道が唯一の生活道のようだ


        
         端島神社には宗像三女神が祀られており、海上安全の守護神とされている。倒壊の恐れ
        があるのか参道が封鎖されている。

        
         学校近くの海岸線から見る集落。

        
         1891(明治24)年柱島小学校の分教場として設置され。後に岩国市立端島小中学校と
        なるが、当初の学校地はここではなく集落を見下ろす位置にあったという。
         小学校は、1988(昭和63)年に休校となったが、2000(平成12)年2名の児童を迎
        えて再開されたが、2010(平成22)年再び休校となり現在に至る。
         中学校は、1991(平成3)年から休校状態が続いているという。

        
         児童・生徒を待ち続ける二宮金次郎像。

        
         地道は荒れ気味ではあるが、蛇の池とあしだれの浜に行くことができた。

        
         途中にある倒壊途上の家屋は、入口の状況から民家ではなくイリコの倉庫であったと思
        われる。

        
         平郡島にも蛇の池伝説の池があるが、島の端にあって海に近いことなど似ている。
         昔、この島に杉本与惣左衛門という人が、持山に出掛けたところ山路に一匹の大蛇がい
        た。長さは100mもあり、真っ赤な目を輝かせ与惣左衛門に迫って来た。伝家の名刀を
        大蛇めがけて投げつけたところ、大蛇の頭から血が流れて倒れてしまう。与惣左衛門に「
        これから先、お前の家代々“与”の字の付く者を絶やしたら、再び現れて島の者を食い殺
        してやる」と云い残して池の内に沈んだという伝説がある。

        
         イワシを煮た鍋のようで、丸いもの(手前)と四角のもの(左奥)の2種類
が放置されてい
        る。

        
        
         島民に「あしだれの浜」と呼ばれている小石を敷き詰めた浜がある。この浜付近には集
        落はなく、以前はイリコの加工場や倉庫があったというが、それらは雑木に覆われてしま
        っている。

        
         ハマエンドウ(浜豌豆)が海岸の砂地に多く見られるが、開花時期が4~7月とされるの
        で花も終わりのようだ。

        
         島民の方が難儀している1つにカキパイプの漂流物がある。あしだれの浜には浜全体に
        漂着しているが、その多さにびっくりする。
         カキ養殖ではカキパイプ(養殖カキ用の20㎝のポリエチレン筒)が使用されているが、
        種苗を付着させるホタテ貝を筏に吊るす際、一定の間隔を確保するため使われているとい
        う。流失原因として、カキ筏への船舶の衝突が主要因とされているが、海岸では劣化が進
        んでいるものも見られ、いずれは海に戻されるのであろう。

        
         島民の方に農道を一周すると告げると、「道は舗装されて問題ないが、人間よりも猪の
        数が数倍多くて手に負えない状況だ。歩く際は気を付けてください」とアドバイスをいた
        だく。時間的な余裕と折角の機会でもあるので農道を歩いてみることにする。

        
         木々に囲まれた舗装路は日陰だが風通しはよくない。 

        
         展望は良いとはいえないが、2~3ヶ所だけ海が見える場所がある。ここからは右手に
        柱島群島の1つである黒島、左手に鞍掛島、大島の浮島(うかしま)が浮かぶ。

        
         この先、海側に竹林が続く。 

        
         名称はわからないが標高32m突端部。

        
         白い立て札が見えてきたので近づくと、「岸壁の母」の歌詞が書き込まれていた。いろ
        んな歌詞の立て札が設置され、歌の散歩道とされたようだが、見かけたのはこの1本のみ
        だった。

        
         タコウ山の一帯は畑化されていたようで、たくさんの階段が残されている。

        
         分岐を右折すると集落の屋根が見える地点に出る。正面に富士山のように裾野を広げる
        柱島本島の金蔵山が見える。

        
         柳井市の人口統計によると、23年6月時点で15世帯17人が暮らしていることにな
        っているが、島の人に聞くと7~8人かなと返事が返ってくる。

        
        
         下って行くと海近くに大師堂が祀られている。

        
         端島の生業の中心は漁業であることは今も変わりないようだ。

        
        
         防波堤から見る集落。

        
         渡船場方向へ引き返す。

        
         1955(昭和30)年代にイワシ漁が衰退してくると、アジなどの他の魚やタコ壺漁へと
        転換を余儀なくされた。
         タコは3~5月産卵し、産卵後に親と生まれた小ダコが、水温の上昇と共に餌を求めて
        活性化する。タコ壺漁も4~9月かけて最盛期を迎えるが、最近は漁獲量も減少の一途を
        辿っているという。

        
         反対側の防波堤から眺める集落。

        
         波穏やかな先に倉橋島など。

        
         地蔵堂を見つけるのに一苦労する。弘法大師の命日にあたる旧暦の3月21日には、瀬
        戸内海部や島々では「お接待」が行われる。普通は大師堂や観音堂で行われることが多い
        が、端島の場合は地蔵堂で行われてきたという。 

        
         14時を過ぎると里帰りの人々や見送りの人が桟橋に集まってくる。14時24分の定
        期船で黒島へ移動する。


岩国市の黒島は山と海に挟まれた小さな集落

2023年07月30日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         黒島は安芸灘の南西に位置する柱島群島の有人島で、本島である柱島の西に位置してい
        る。島の地形は南側に樫山と呼ばれる山があり、北へ向かって緩やかに広がる島である。
        (歩行約1.8㎞、🚻なし) 

        
         端島(はしま)から15分程度で黒島へ到着するが、岩国新港からは37分の所要時間であ
        る。左手のプレハブの建物が渡船待合所。

        
         タコ壺が並ぶが、タコは3~5月に産卵して、産卵後に親タコと生まれたタコが、
水温
        の上昇とともに餌を求めて活性化する。タコ壺漁も4月から9月にかけて行われるとのこ
        と。

        
         島の集落は「1島1集落」で東側の浜辺のみに展開する。

        
         やや左前方に端島が浮かぶが、右手の山が見壁山で左手がタコウ山、中央の低地に蛇の
        池やあしだれ浜がある。(背後は倉橋島) 

        
         平地が少ないため傾斜地に民家が張り付く。

        
         黒島小中学校の沿革はわからないが、1993(平成5)年に小学校、中学校はその翌年に
        休校して現在に至るという。

        
         校舎と校門は健在だが、グラウンドは草地化している。

        
         もとは無人島で柱島の人々が、伊予の沿岸部や忽那諸島の中島から子牛を購入して黒島
        で放牧を行い、牛が3歳になると島外に売ったり家の耕作や運搬にしていた。
         1830(文政13)年柱島から16人が移住したが、5年後には8人が脱落する。後に4
        人が移住して12人で島の土地を均等に分け合い、明治中期までは戸数12戸以上増やさ
        なかったという。

        
         この道が主要な生活道であったと思われる。

        
         三島神社境内の入口に柱島からの移住150年を記念して、1980(昭和55)年に建て
        られた碑がある。

        
         周辺には三島神社をはじめ恵比須社など信仰にともなう施設が集中している。

        
         三島神社の由緒等はわからないが海の神様のようだ。

        
         黒島は柱島の善立寺(浄土真宗)の檀家であるが、大師堂には大師像が安置されて大師信
        仰がずっと息づいている。

        
         大師堂は三島神社の下にある。

        
         神社の先に地蔵堂。

        
         狭い道の左に石段と正面に蔵を持つ民家。

        
         柱島群島は、太平洋戦争中米軍機による空襲を受けたが、特に黒島においては被害が大
        きく、学校近くに爆弾が投下されたため、防空壕に避難していた子供たちを多数含む19
        人が死亡するという大きな犠牲を出した。その霊を慰めるため供養塔を建てて供養が行わ
        れている。

        
         海岸線には意外にも立派な住宅が数軒見られる。

        
         急階段の道は墓に通じ、その先には旧軍の構築物があるそうだが、墓の先が廃道化して
        行くことができないというので残念する。

        
         無住になって久しいようで、植生に覆われて痛々しい姿になっている。 

        
         柳井市の人口統計によると、23年4月現在13世帯14人が暮らすことになっている。

        
         もともとは島だっただったのかはわからないが、こんもりとした中に荒神社がある。 

        
        
         鳥居を潜ると急斜面に狭い参道が設けてある。山頂には小さな祠が集落に向って鎮座す
        る。

        
         堤防の外を覗くと自然な海岸線が続く。

        
         こんもりとした森の中を上がると石積みの祠に地蔵尊。

        
         イリコ工場時代の煙突で、他にイワシ小屋などもあったそうだが解体されてしまったと
        いう。

        
         工場跡の片隅に咲くハマユウ(浜木綿)。

        
        
         渡船場に戻って、切符販売された女性と会話しながら定期船を待つ。

        
         定期船が桟橋に接岸する際の「綱取り」は、黒島婦人会の方が2名1組で行っていると
        のこと。一期一会だったが島のことを教えていただいた2人とお別れする。

        
         岩国港に戻ると岩国行きのバスはない。国道筋のバス停で待つこと5分、運よくとタク
        シーに出会って岩国駅に戻る。


岩国市尾津は南岩国駅南側にハス田

2023年06月04日 | 山口県岩国市

               
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         尾津(おづ)は錦川の支流・門前川の河口右岸に広がる平地に位置する。開ける平地はすべ
        て藩政時代に開作されたものである。
         地名の由来は、門前川の川尻に発達した洲がもとで、尾洲の意によると考えられる。(歩
        行約6.7㎞、🚻駅以外になし) 
             
               
          JR南岩国駅の南側約200haの中に蓮田が広がる。

        
         JR南岩国駅は、1952(昭和27)年岩国ー藤生間に新設され、現在の新駅舎は202
        1(令和3)年に供用開始されたが、駅前など整備が進行中である。 

        
         国道188号線を岩国方面に進み、高水学園一貫校への入口を右折すると、山陽本線河
        野上地第一踏切を横断する。 

        
         線路南側に移動すると蓮田が広がり、線路に沿って水路傍の道を進む。レンコンは「蓮
        (ハス)」という植物の「根」にあたる部分で、これを組み合わせて「蓮根(れんこん)」とい
        う名が生まれたという。

        
         尾津2号揚水機場から周回する。

        
         門前町5丁目はバリケードされた米軍の施設と官舎。

        
         サギがのんびりと餌を求めて歩き廻っている。虫などが生息する安全な環境の中でレン
        コンが栽培されているといえる。

        
         第1揚水機場の先で左折して門前川堤防に出る。

        
         漁港といった雰囲気ではなくプレジャーボートの係留施設のようだ。

        
         堤防道を河口へ向かう。

        
         対岸の米軍基地は、1938(昭和13)年に旧日本海軍が飛行場建設に着手し、1940
        (昭和15)年から終戦まで岩国海軍航空隊が配備された。終戦後、米海兵隊に接収され、米
        空軍、米海軍基地を経て、1958(昭和33)年米海兵隊基地となり今日に至る。

        
         すべてが蓮田と思っていたが、
民家や工場、魚市場などがある。一の割集会所付近が門
        前町と尾津町の境界のようだ。

        
         レンコンには穴があいているが、穴の向こうが見通せるから「将来の見通しがよい」と
        のことで、縁起物の食材とされた。また、種が豊富につくことから「子孫繁栄」の象徴と
        もされてきた。(道路左側の蓮田)

        
         信号機の先に岩国南八十八ヶ所第44番霊場(尾津大師堂) 

        
         藩政時代の岩国領(藩)は干拓で農地を増やしたが、海が近いこともあって塩害により米
        が育たず農民は困窮した。藩主の命を受けた篤農家・村木三五郎がレンコンならば干拓地
        でも育つのではと、岡山県から備中種を持ち帰って植えたことに始まるという。
         1811(文化8)年には藩営として始められ、大正中期頃までは日本固有のものが栽培さ
        れていたが、その後は大陸系(支那百花種)のものが導入されたようだ。

        
         サギがたくさんいる中で、カラスも機械の上でのんびりと蓮田風景に溶け込んでいる。

        
         レンコンの葉はスイレンと違って、水面から茎に支えられて葉の直径が2mになるもの
        もあるため、台風や強風が最大の天敵といわれている。

        
         蓮田に囲まれた民家が点々と存在する。

        
         収穫できるまでの作業は水田の中で、アオコなど藻の発生、害虫の食害、雑草の繁茂な
        どがあって管理が大変のようだ。 

        
         お会いした農家の方によると、花は品種などよって一斉に咲かないので見頃は何とも言
        えない。盆前には花を出荷するので、盆前にもう一度来てくださいとのこと。

        
         1809(文化6)年~1859(安政6)年にかけて尾津、仙島館、御蔵元が開作されて、一
        部が塩田化されたと思われ、海や塩の神様である塩土老翁神を祀る塩釜神社がある。

        
         神社の一角に、1942(昭和17)年8月27日16号(周防灘台風)の襲来により、海側
        の堤防が決壊して甚大な被害を受けた。これを後世に伝えるための碑が建立されている。

        
         全国のレンコン生産量は、茨城県がダントツの約半分を占め、山口県は第5で生産量は
        5%超に過ぎないそうだ。

        
        
         尾津開作第2南蛮樋(樋門)は、1809(文化6)年に建造されたもので、現在は使用され
        ていないとのこと。(上が土手側、下が干拓側より)

        
         土手歩きだが左は東洋紡、その間に広い排水路。

        
         岩国城と錦帯橋、鵜飼漁がデザインされ、中央に市章が配置された岩国市のマンホール
        蓋。

        
        
        
         第1南蛮樋(樋門)も第2南蛮樋と同じ年に建造された。(上が土手側、下が干拓側より)

        
         「ハスは泥より出でて泥に染まらず」のことわざがあるが、仏教と深い関わりを持つ植
        物である。ハスの花は短くて寿命が4日程度とされ、早朝に咲いて昼頃には閉じ始めてし
        まう。

        
         左前方に南岩国駅と5号揚水機場。

        
         歩いてきた道を見返り、河野上地第1踏切を横断して駅に戻る。


岩国市周東町の祖生は珍しい火祭りが行われる地

2022年06月29日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         祖生(そお)は玖珂盆地の東南、島田川上流域に位置し、高照寺山西麓、氷室岳北麓の典型
        的な山麓地形と丘陵地に立地する。
         地名の由来について玖珂郡誌は、「当村、元来僧坊多キ故、地名トスル由、古老ノ伝也」
        (玖珂郡誌)とある。(歩行約1.7㎞) 

        
         公共交通機関(岩国生活バス)があるものの医療機関対応バスのため、週4日、1日3便
        であるため車に頼らざる得ない地域である。(JAに駐車)

        
         JA祖生支所は高森支所に統合されて建物だけが残されており、その南側に新宮神社へ
        の道がある。

        
         祖生小学は1874(明治7)年1月元庄屋の河田家を教場として、祖生村塾を開設し、同
        年8月祖生小学と改称する。1885(明治18)年校舎を元河田屋敷跡に新築移転する。周
        東町成立後、新たな構想に基づいて東西小学校に再編されることになり、1957(昭和3
           2)
年3月をもって廃校となる。
         手前には祖生公民館があったようだが、村民の労力奉仕と多数の資材提供によって、1
        949(昭和24)年に建設された。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の祖生村がそのまま単独で自治体を
        形成する。1955(昭和30)年昭和の大合併で、高森町、祖生村、米川村、川越村が合併
        して周東町が発足するが、この地に村役場があったとされる。 

        
         南に氷室岳が聳える。

        
         新宮神社は鎌倉期の1225(嘉禄元)年、周防権介大内弘成が厳島神社より三女神を勧請
        し、のち国常立尊以下3神を併祀して新宮大明神とする。

        
         由宇町の由宇川沿いに榊八幡宮の新宮さんが祀られていたが、ある日突然居なくなった
        ので探したところ、周東町祖生の新宮神社が気に入って「ここにおる」と言われたので、
        そのまま祖生の氏神様になられたという言い伝えがあるという。

        
         社務所前にある玉井翁頌徳碑は、玉井清祇の師徳を称え建立されたとされる。新宮神社
        は越智家が司職してきたが、毛利家の支配となった1560(永禄3)年、玉井武郎通友に代
        わり玉井家が代々社務を掌って今日に至る。

        
         参道を下ると周辺には大きな民家が目立つが、茶室が設けられた家がある。(現在は倉庫
        として利用されているとか)

        
         周防祖生の柱松行事は、1734(享保19)年に始められた夏の「火祭り」で、中村(8/
                15)、山田(8/19)、落合(8/23)の3地区で行われているが、疫病の蔓延に伴って農耕用の牛
                ・馬
が多く死んだのを機に、その慰霊と防災のために始まったと伝える。
         高さ20m前後の胴木を2~3本立て、胴木の先に、かんな屑などを入れた朝顔型の鉢
        を載せ、大縄を3方に張って、火のついた松明を投げ入れて競う。(国指定重要無形民俗文
        化財) 

        
         島田川に架かる中村橋から北進する。

        
         旧藤中医院付近だが閑散とした通り。

        
         この付近が祖生の中心地で、市出張所、郵便局、交番が通りに面する。

        
         商店や理髪店も健在。

        
         400m足らずの通りだった。


岩国市美和町の弥栄湖周辺にある旧藤谷村集落

2022年05月23日 | 山口県岩国市

        
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、長谷(ながたに)村・日宛(ひなた)村・大根川村・
        百合谷村・岸根(がんね)村・黒沢村・中垣内(なかがうち)村・滑村・佐坂村・瀬戸内村・釜ヶ
        原村の区域をもって藤谷村が発足する。
         弥栄ダム建設(1971-1991)により滑、中垣内、大根川、黒沢、百合谷など10集落が何
        らかの水没を受ける。これらの地域は公共交通機関が存在しない所や、生活バスのため便
        数が少ないこともあって車で訪れる。

        
                  
         釜ヶ原集落は旧玖珂郡の北東部にあり、小瀬川に沿い、面積も広く山間の大きな地域で、
        対岸は広島県大竹市である。
地名は釜と称する穴が岩に穿たれているのに由来するとか。
        (大幡神社の木製鳥居)

        
         対照的な蔵が並ぶ

        
         この時期は田植えの真っただ中。正面の山は広島県の瓦小屋山?

        
         寺院は臨済宗の栄福寺のみで、1830(文政3)年に中川平田が同寺で寺小屋を開業した
                が、1878(明治11)年6月に廃業し、7月には渋前小学釜ヶ原支校が設置されて教場と
                なる。
1866(慶応2)年の第二次幕長戦争では、坂上地区の農兵北門団の陣所にもなった。

               
             赤い鳥居に河内神社の額束が掲げてあるが、玖珂郡誌によると、この地域は厳島神社の
        大願寺領であったという。

        
         河内神社は由緒がないため建立時期などを知り得ず。

        
         北門小学校は栄福寺で開校した後、この地に移転して北門尋常小学校などを経て、19
               47(昭和22)年北門小学校となる。2001(平成13)年美和東小学校に統合されて、跡地
               は北門ふるさと交流館として活用されている。

        
         釜ヶ原神楽(岩国市無形文化財)の象徴として交流館の側面に神楽面が掲げてある。神楽
        はもともと祓いの行事から演劇的に移行したもので、特に江戸期に発展した。神事である
        とともに庶民の娯楽の1つでもあった。

        
         大きな地域であるが民家は南半分の小瀬川沿いに集中する。 

        
         ダム周辺に百合谷、岩根、黒沢、中垣内、滑、瀬戸ノ内集落が位置する。

        
         百合谷集落は弥栄湖南に位置し、東は広島県に接する。山の北半分と低地に立地してい
        たが、
ダム建設の影響を受けた地でもある。

        
         河内神社の本殿は比較的新しく、百合谷集落を見守るように建てられている。

        
         農村公園の傍にある人家の蔵。

        
         弥栄大橋は全長560mの斜張橋で、大噴水は水質浄化を目的として設置されている。
        周辺にはレジャー施設等も整備されている。

        
         岩根(がんね)集落
は弥栄湖の西に位置し、北に白滝山がある。地名の由来は、白滝山の岩
        根にある集落であることによるという。(岩根地区集会所傍にある石祠)

        
         白滝山は各地にある白滝姫伝説に因んだものともいい、雨の際に岩壁を流れる水が白滝
        のように見えるので命名されたという。往古、ここに山城があったとされるが、城の時代
        的背景など詳らかでなく謎が多い城跡のようだ。

        
         当地は「岩根栗」が有名で、まろやかな甘味、大粒で風格のある形をしており、気品高
        い香りをもつ栗である。1913(大正2)年全国栗品種調査会に坂上村の人が、「岩根栗」
        として出品したことで国に品種登録された。この集落一帯が栗園だと教えていただく。 

        
         光照寺(真宗)は、室町期の1537(天文6)年創建と伝える。

        
         黒沢(くろざわ)集落は小瀬川の支流大根川と佐坂川が合流する地点の河成段丘と、その北
        側の傾斜地に立地していたが、ダム建設で集団移転して団地を形成している。(日光寺山団
        地)

        
         星形に図案化された歯車のデザインの中央は、旧美和町の町章ではないが、輪の中に「
        三」の文字がある
マンホール蓋。

        
         日光寺(曹洞宗)は、1661(寛文元)年滑村に創建され、初め福王寺と称していたが、年
        月不詳だが黒沢村に移して現寺号にしたという。ダム建設で移転して団地の中心部に位置
        する。

        
         中垣(なかがうち)集落も黒沢集落と同様に、佐坂集落と瀬戸ノ内川の合流地点の河成段丘
        と、その北の傾斜地に立地していたが、ダム建設で移転を余儀なくされた。

        
         県道から上がって行くと客(まろうど)神社。享保年間(1716-1736)までは着ノ社で、17
        60(宝暦10)年客社に改めたという。

        
         傾斜地に人家が並ぶ。

        
         滑橋から見る中垣内集落と白滝山。 

        
         県道から坂道を上がって行くと左手に子安観世音堂。

        
         市松模様に旧美和町の町章と集排の文字が入ったマンホール蓋。

        
         河内神社の御旅所は、1712(正徳2)年造成したとある。

        
         中垣内集落が一望できる。

        
         河内神社(通称:なめらのみょうじんさま)の社伝によると、平安期の806(大同元)年頃
        に筑紫国より勧請されて瀬戸内村に鎮座していたが、1705(宝永2)年当地に遷座したと
        いう。

        
         瀬戸ノ内集落は北から南へ縦走する高い山に挟まれ、その真ん中を小瀬川の支流瀬戸内
        川が南流する位置にある。地名の由来については不明である。

        
         2~3軒が寄り添いながら南北に細長く集落を形成している。

        
         ダムの南側に大根川、日宛、長谷集落が位置する。

        
         大根川集落は弥栄湖の南西、長谷川、日宛川が合流する平地にあったようだが、ダム建
        設で集団移転したかどうかは定かでないが、県道に沿って小集落を形成している。地名の
        由来については不明である。

        
         正覚寺(真宗)は、安田五郎左衛門という者が、寛永年中(1624-1644)に開基したとされる
        が、その他は不明とのこと。

        
         対岸も大根川集落だが一丁田橋で繋がっている。

        
         日宛(ひなた)集落は柏木山・阿品山北麓、小瀬川の支流日宛川流域に位置する。日宛公会
        堂を境にして北と南に集落が形成されている。

        
         神社名を記すようなものが見当たらず。

        
         日宛川上流の集落(南側) 

        
         客神社。

        
         域内にある報照寺(真宗)は、1693(元禄6)年大根川村に創建されたが、1716(享
          保元)
年日宛村に移転したと伝える。

        
        
         長谷(ながたに)集落は岩国から松尾峠を越えて玖珂郡に入る最初の集落で、2つの谷川が
        北部で1つになって北流、大根川となる。家々はこの谷間に散在する。
         地区自治会などが中心となって、江戸期には和紙の原料である楮や三椏(みつまた)が盛ん
        に植えられたが、現在はほとんど植えられていない。そこで三椏を植えて散策道を設けた
        と案内されているが、3月頃より淡い黄色い花が咲くという。

        
         江戸期には域内を岩国往来が通り、長谷一里塚が築かれた。昔の往来道は、ここより5
        m上にあり、塚の基礎部分は残っているが、危険なためこの地に復元したという。

        
         市道と岩国往来が分岐するところに地蔵尊が祀られている。時間が足りず佐坂集落を訪
        れることができなかった。