ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市福川は旧山陽道の宿場町で栄えた地 

2020年10月31日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         福川は南流する夜市川の東に位置し、東西を通る旧山陽道沿いに早くから町が発達して
        いた。その後、街道筋の南側に国道と鉄道が並行するように設置されたため、鉄道を挟ん
        で海側と山側に二分された形となっている。(歩行約3.6㎞)

        
         JR福川駅は、1898(明治31)年山陽鉄道が開通すると同時に開業する。木造駅舎と
        相対式ホーム2面2線を有し、駅前には小さなローターリーのあるこぢんまりした駅であ
        る。

        
         駅前を旧国道2号が横断するが静かな駅前である。

        
         駅通りを直進して旧山陽道を過ごすと、右手に人麻呂神社がある。「火難(火とまる)・
        防除(家内安全)・安産(人とまる)・疫病防除」の神として祀られてきた。

        
         右折地点より駅前通り。

        
         街道より一段高い通りは住宅が並ぶ。

        
         地形に合わせた道は小さなアップダウンがある。

        
         突き当たると旧国道に出る。

        
         旧国道に出ると右手に旧山陽道入口がある。(福川東町)

        
         100mほど入った所に御本手領徳地御米蔵があり、米蔵前面には船着場であったと伝
        えるが痕跡は残されていない。

        
         どこにでも見られる町風景である。

        
         
福川東端から寺脇の石橋まで2丁13間(約242m)が東町。西光寺の寺伝によると、
                近江の住人が武門を捨てて、当国福川に来て草庵を結ぶ。
ところが、ここに加賀生まれの
        僧・西念という者が、寺号を本願寺に願い出て「西光寺」の寺号が許された。

         その頃加賀では東・西本願寺騒動が起こったので、木仏を奉持して福川に下向し、草庵
        主と相談した結果、西光寺にしたという。


        
         寺参道付近に白壁の町家(食料品店)

        
         食料品店の真向かいにも白壁の町家。

        
         シマヤだしの素、ぶちうまい味噌などで知られるシマヤさんの煙突が目立つ。

        
        
         さらに西へ進むと辰尾神社の参道が右手にのびる。

        
         真福寺(曹洞宗)は寛永年間(1624-1644)に創建
され、脇本陣として西国大名や徳山毛利の
        休息場として使用された。福川の干拓や漁業などの生産活動指導の拠点として中心的役割
        を果たす。


        
         本堂の裏手墓地に3体の板碑がある。もともと福川小学校の北側にあった隠居寺とよば
        れた場所にあったものが当寺に移されたという。
         中央の板碑には鎌倉後期の銘があり、梵字が印刻されている。左手は8月23日の銘が
        あり、正面の所々に墨跡が認められるとのこと。右手の板碑は無銘だが、かって正面に墨
        書きがあったものと思われる。

        
         辰尾神社は回廊に囲まれた拝殿構造である。

        
         由緒によると、1760(宝暦10)年辰之尾の地に夜市天王社より勧請される。開作事業
        が進むとともに守護神(神社)が創建されたが、1906(明治39)年の一町村一社を原則と
        する神社合祀令により、福川地区内にあった5つの小社が合祀されて辰尾神社となる。

        
         拝殿は石敷き、その先が本殿という形式である。

        
         参道入口まで戻って西へ進むと、街道は北西に曲がる。(西光寺から突き当りまでが中
        町とされる) 

        
         永源山公園にある風車の羽根と、左右に市の花であるサルビア、上下に市の木であるキ
        ンモクセイが描かれたマンホール蓋。
         1953(昭和28)年富田町と福川町が合併して南陽町が発足し、のちに市制に移行する
        が、平成の大合併で周南市となり「新南陽市」は消滅する。

        
         曲がり角にある町家。福川市は約7丁50間(約855m)で東町、中町、西町があっ
        た。

        
         白壁の町家もここで見納めとなる。(佐伯たばこ店)

        
         ホーム福川(高齢者向け住宅)の近くに、故尾崎正章画伯より市に寄贈された旧尾崎医院
        (現尾崎記念集会所)を見落とす。

        
         1721(享保6)年幕府が随行員制限令を発すると、その前後から陸路による通行が激増
        する。長州藩の場合も、1725(享保10)年を境に海路併用から総陸路利用へ転換する。
         当初はお客屋と称して藩主の領内巡視や参勤交代の西国大名たちの休憩所に当てられた
        が、
のちに御茶屋と改称する。1741(寛保元)年福田宇右衛門に管理を委託し、山陽道の
        本陣を兼ねることになった。
         本陣の名残をとどめる本陣門は、1838(天保9)年福田四郎兵衛の代に建て替えられた
        ものである。

        
         この先、あまり見るべきものはない。

        
        
         旧国道を横断すると正面に山陽本線西町第二踏切。その手前右手の階段奥に福川西町奉
        納大乗玄少典六十六部碑がある。
         鎌倉時代末期頃に始まった風習のようで、当時、全国は66ヶ国に構成されていたが、
        これを遍歴する巡礼僧は六十六部もしくは六部と呼ばれていた。銭を乞いながら旅を続
        け、行き倒れになるものもいたようだ。

        
         その傍のお堂を覗くと石仏が祀られている。

        
         高台から福川の町を眺めて駅に引き返す。


田布施町の馬島にトンボロ現象と麻里府に国木田独歩

2020年10月25日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         麻里府は田布施町の南西に位置して瀬戸内海に面し、かって廻船業や塩田で栄えた港町
        である。地名は古くからこの地を麻里府浦と称していたことによるという。
         馬島は麻里府から南の海上1㎞に浮かぶ島で、「馬飼い島」だったことから島名となる。
        (歩行麻里府約2.5㎞、馬島約4.8㎞)

        
         JR徳山駅発の防長バス柳井駅行き1時間5分、馬島渡船場バス停(12:09)で下車するが、
        出航(13:35)まで時間があったので麻里府の旧道を散歩する。

        
         バス停から国道188号を東進して旧道に入る。

        
        
         旧道を進むと長屋門のある住宅。

        
         白壁土塀が並ぶ所の四差路を左折すれば渡船場。

        
        
        
 重厚な構えの塩田家。廻船業だったとされるが詳細は知り得ず。

         
         公民館付近にも白壁の塀が続く。

        
         1891(明治24)年国木田独歩は21歳のとき、東京専門学校(現在の早稲田大学)を退
        学し、家族が住む麻郷村(現田布施町)の吉見家に身を寄せる。
         また麻里府村の浅海家に仮宮し、近くの石崎家にしばしば出かけ、初恋の人・石崎トミ
        に出会う。「酒中日記」(小説集「運命」収録)は、田布施の青春時代の思い出の中から創
        作された馬島を舞台とする作品である。

        
         国道を横断する。

        
         別府(べふ)集落。

        
         1877(明治10)年開校の麻里府小学校は、2015(平成27)年3月をもって閉校とな
        る。

        
         桜川を挟んで小学校の向かい側に住吉神社。

        
         馬島渡船場は尾津漁港の東端にあり、待合所もあって客が猫に餌をやるのか屯(たむろ)
        ている。

        
         馬島と佐合島は自治体が違うが、合理化を図るため「麻里府~馬島~佐合島~佐賀」を
        往復する離島航路である。13時35分に乗船、馬島まで往復320円と格安運賃である。

        
        
         わずか8分の船旅であるので船内でなく、船尾のデッキで潮風を受けながら景色を楽し
        む。

        
         馬島集落が見えてくる。

        
         馬島港にはトイレ付待合所と島の案内板がある。

        
         港から右折して海岸線の広い道を進む。

        
         馬島漁港だが島の人によると、高齢のため漁業する人は少ないとのこと。

        
         2015(平成27)年の国勢調査によると人口は27人。調査から5年経過したが、生活
        条件は厳しい状況に置かれているようだ。

        
         海岸道路から山裾側に入ると1本の路地がある。

        
         門構えのある大きな住宅も空家だそうだ。出会った女性から野菜等は畑で賄えるが、そ
        れ以外は渡船で麻里府に出て、バスで隣町の平生で買い求める。帰りの重たい荷物は重労
        働だし、無医島で病気も心配だが、住み慣れた地が都であると笑顔で話してくれたのが印
        象的だった。

        
         路地を進むと馬島八幡宮の参道に出る。

        
        
         参道周囲は竹林化しているが、想像に反して倒竹もなく管理されているが、秋祭りと関
        係しているのだろうか。

        
         島にはこの神社と恵比須神社があるそうだが、恵比寿さんは見つけ出すことができなか
        った。八幡宮は山城国から勧請したと伝えられるが、詳細は知り得なかった。

        
         八幡宮参道より寿命寺跡の道は、竹の繁茂で廃道化していた。海岸道路に戻ると猫がお
        供してくれる。(八幡宮への道標あり)

        
         1889(明治22)年麻里府小学校馬島分校として開校したが、1964(昭和39)年頃に
        廃校となったようだ。
         校舎は個人の家となって現存するが、民地のためこの地点からの撮影となる。(庇の奥に
        校舎の窓が見える)

        
         渡船場まで戻って南へ向かう。

        
         小山(島)の対岸に風力発電用風車が建つ大星山。

        
         岬の先にも民家が連なるが空家も目立つ。 

        
         くるまえび養殖場跡はアサリ養殖池となったようだ。

        
         「のんびらんど・うましま」と刎(はね)島分岐。

        
         海水浴場とされる地は波穏やかだ。

        
         刎島は馬島の南側にある無人島だが、干潮になると陸続きになって渡ることができる。

        
         のんびらんど・うましまはキャンプ場として整備された施設で、テントサイト、キャビ
        ンなどがある。

        
         要害山への登山道(遊歩道)も整備され、登山靴でなくても登山可能である。

        
         島内で最も高い要害山(標高110m)への道は、倒木もなく途中にはベンチも設置され
        ている。

        
         山頂から近くの島々を一望することができる。山名のとおり昔はのろし場だったとか、
        見張り場であったともいわれているが詳細は不明のようだ。

        
         刎島と陸続きになるトンボロ現象が見られる。右下の標柱は墓地。

        
         手前に標高65mの大塩山があって、刎島、佐合島、上関町の長島、左手には半島上に
        皇座山が聳える。

        
         正面に牛島(うしま)と奥に祝島。残念ながら北面は樹木が邪魔をして展望を得ることがで
        きない。

        
         馬島港に戻って16時10分に乗船。渡船場バス停(16:41)からJR柳井駅に出る。
      


周南市土井は鹿野街道筋に古い町並み 

2020年10月18日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         土井は主要地方道新南陽津和野線を挟んで東西に民家が並ぶ。北部を国道2号が東西に
        横切り、富田川の支流神代川が東流する。(歩行約5.4㎞)

        
         1926(大正15)年国鉄山陽本線の徳山駅と福川駅間に周防富田駅(通称:すっとん駅)
        として開業する。1980(昭和55)年に新南陽駅と改称し、現在では業務委託駅として駅
        舎の東半分は進学教室が入居している。

        
         政所(まどころ)にある荒神社の由来について、昔、この地方を富田保といい、東大寺の油
        倉が置かれ、その役所を政所(まんどころ)といっていた。やがて、この一帯を政所といい、
                室町時代にはすでに地名として使われていた。
         神社には政所の役人で奈良から来た三位中将秋基卿が祀られているといわれる。

        
         鹿野街道は山陽道から鹿野を結ぶ道で、鹿野で萩城下を往来する山代街道と繋がってい
        た。

        
         道幅は広くないが直線的な道である。(松永商店裏口付近)

        
         旧日下医院は建物及び正門と塀が国登録有形文化財である。(街道筋より)

        
         旧日下医院は西側を玄関とする瓦葺き木造2階建ての建物である。
1928(昭和3)年に
        日下宗一氏が建てたもので、長崎(大学)において洋風建築の影響を受け、医院改築に当た
        って、洋風意匠を取り入れたと伝えられる。

        
         窓と窓の間に柱があるようにデザインされ、モルタル塗りの外観には窓の下に幾何学的
        な装飾が施されている。

        
         門柱は石造角柱で、頭部には球状に加工され、本館北寄りには車寄せが設けてある。
        
        
         レトロな雰囲気が保たれている。(2016年撮影)

        
         別館は分娩室として使用されていたとか。

        
         大きな構えの民家。(土井2丁目)

        
        
         中島酒造の酒蔵は改修中。(下段は2016年撮影)

        
         カネナカのマークがある建物の奥に煙突が見えていたが‥。

        
         1823(文政6)年創業の老舗造り酒屋である。

        
        
         神代川に架かる神代橋を渡ると白壁の町家が連なる。

        
         格子が美しいM家。

        
         M家前から見返る。

        
         建咲院への参道脇に灯籠などがまとめられている。

        
         土井は「土居」すなわち中世大内氏の重臣・陶氏の家臣団が集住した地域であった。

        
         国道2号下を潜る。

        
         富田川を川上へ進み、向上橋前を左折して県道に出る。

        
         居館南側の一段低い所に、「にいいどん」と呼ばれた新殿があたったと伝えるが、場所
        は特定できなかった。

        
         南北朝期に陶弘政が築いた平城(居館)跡である。跡地は富岡小学校となったが、197
        2(昭和47)年に菊川小に統合される。1974年に開校した徳山高等専門学校の校舎とし
        て使用されたが、現在は富岡公園となっており遺構を思わせるものは残っていない。

        
         石碑と案内板があるのみである。

        
         海印寺(曹洞宗)は天正年間(1573-1592)に創建される。一説に大内輝弘の乱で焼失して廃
        寺となるが、文禄年間(1592-1596)に再興されたと伝える。

        
         海印寺には陶弘護の次男・興明や興房の嫡男で晴賢の兄にあたる興昌の供養塔がある。
        案内によると右側が陶興明、隣が陶興昌のようだ。

        
         四熊家は町医者として家業を営み、医者養成機関の私家塾「見学堂」を開いていた。主
        屋は江戸後期の茅葺屋根を持つ木造建築で、診療棟は主屋の玄関脇に突き出して設けられ
        た付属棟で、洋風の意匠が施されている明治後期の建物である。

        
         徳山藩主・毛利就馴(なりよし)は、隠居所として政所の北部辺りに「富田御殿」を建てる
        が、完成するまでの6年間、四熊家と建咲院の敷地に仮御殿を建てて過ごす。現在、仮御
        殿跡は庭になっているとのこと。(左手の木がある付近が庭と主屋前に診療棟)

        
         建咲院(けんしょういん)は陶興房が両親の冥福を祈るために、室町期の1482(文明14)
        年建立する。寺号は興房が両親の法名の各1字をとったものである。

        
         興房は禅宗に帰依すると、室町期の1530(享禄3)年剃髪して道麟と号したが、153
        9(天文8)年に死去する。

        
         駅まで直線的な道である。
         


周南市富田に川崎観音と永源山公園

2020年10月17日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         富田(とんだ)地域は中央北部の山間地と中央から東部臨海地域の2地域に分かれ、国道2
        号線、旧山陽道、山陽本線などが東西に走り、JR新南陽駅を起点とする主要地方道新南
        陽津和野線が北上する。(歩行約6.3㎞)

        
         JR新南陽駅は、1926(大正15)年に国鉄山陽本線の徳山駅と福川駅間に周防富田駅
        (通称:すっとん駅)として開業する。
         1980(昭和55)年に新南陽駅と改称し、現在では業務委託駅として駅舎の東半分は進
        学教室が入居している。

        
         駅前から徳山方面へ進む。

        
         JR貨物・新南陽駅の貨物ヤード。

        
         正面の古川跨線橋は16本の線路をまたぐ橋であったが、1964(昭和39)年に設置さ
        れて架設から55年を超え、耐震性等から架け替え工事が進められているが、撤去に5年、
        架設に5年を要するという。

        
         風車の羽根と新南陽市時代の市の花であったサルビア、市の木キンモクセイがデザイン
        されたマンホール蓋。

        
         旧国道2号線(県道347号)に架かる富田橋を渡り、富田川左岸を北上する。

        
         音羽橋筋が旧山陽道である。(T邸)

        
         川崎観音入口には、1828(文政11)年に「當国十八番 景清護身観音」と刻まれた標
        柱がある。

        
         参道には国道2号線の函渠が設けてある。

        
         毎月17日は川崎観音堂の縁日だそうで、コロナに負けず多くの参拝者で賑わっていた。
         観音堂はこの地にあった万福寺抱えの堂宇であり、大内弘世が定めたという周防三十三
        観音霊場の第18番札所であった。1872(明治5)年に万福寺は廃寺となり、その後、周
        南市須々万に再興されたが観音堂は現在地に残された。

        
         
         「景清護身 川崎観音(音羽観音)由来記」によると、寿永年間(1182-1184)一の谷・屋
        島の合戦に敗れた平家の悪七兵衛景清という豪勇無双の武士が、平家一門とともに安徳天
        皇を奉じて九州に向かう途中、軍船が黒髪島付近を進むと暴風雨に遭い、数日間この島に
        とどまった。暴風も静まり出航しようとしたその夜、夢枕に立った観音菩薩のお告げを聞
        いて十一面観音を寺に安置したとある。
         山門付近には景清が担ぎ上げた大石や、「平景清の目洗いの井戸」がある。

        
         観音堂は高台にあって市街地を見渡すことができる。

        
         もとは眼病の観音だったが、今は子授け・安産を願って遠近から多くの参詣があるよう
        だ。

        
         元気で丈夫な子が生まれますように、子宝を授けてください、お乳がよく出ますように
        ‥と願いを込めて乳房を型取って奉納されている。

        
         音羽橋東詰に常夜燈があり、「荘司八幡宮 文政4年(1821)」と刻まれている。もとこの
                辺りまで海が入り込んでいて、関門番所もあったとされる。

        
         音羽橋から旧山陽道を西進するが、この付近(政所)は街道筋の面影は残っていない。

        
         橋から約600mばかり進むと鹿野街道が分岐し、その先で県道新南陽津和野線が横断
        する。
         この富田界隈は月毎に3回の三斎市が許されていたが、その後、徳山が城下町として発
        展すると、徳山では月6回となったため富田の市は衰退していった。

        
         街道沿いに善宗寺の参道と山門。

        
         善宗寺(浄土真宗)の開基・明西は俗名を五十香川信盛といい、伊豆国で300貫の領主
        であった。感ずるところあって京都大谷で仏門に入る。その後、三田尻をはじめ国内に寺
        院を建立。その中の1つが本寺である。
         香川葆晃は幕末から明治初期に活躍した人で、幕末の内憂外患交々至り、徳川幕府も対
        策に苦心した時節であり、葆晃も幕府忌諱に触れ、幕使にとらえられるが脱獄して萩藩を
        頼って萩に逃れる。間諜と間違われるが疑いが晴れて、藩の推挙で1869(明治2)年第1
        6世として入寺する。

        
         中山三屋(みや)は、1840(天保11)年都濃郡加見村中山出身の戸倉恭輔を父とし、公
        卿中山忠能に仕えた室谷民子を母として京都で生まれる。父は8歳、母は13歳の時に死
        別して、間もなく尼となる。
         香川景樹に和歌を学び、各地を旅しながら諸国の文人や山縣有朋など勤王の志士と交流
        するが、1871(明治4)年病にかかり、32歳で亡くなる。
         墓には“水のあわのさだめなき世にながらへて めぐりあふ瀬をまつがはかなさ”と刻
        まれている。

        
         中山三屋のすぐ下に山田謙斉の墓がある。1832(天保3)年頃に道源開作の田中仙助の
        納屋で、生徒を集めて習字・そろばんなどを教え、医者であったため近所の人々は「医者
        坊さん」と呼んでいた。墓は後年に弟子たちによって建てられた。

        
         華厳寺境内より旧山陽道の徳山方向を臨む。

        
         華厳寺近くに道標があり、「是より右下せき道」「是より左上かた道」と刻まれている
        が、もと旧山陽道と鹿野方面へ向かう道との分岐点にあったといわれている。

        
         東ソ寮より永源山公園に上がるとオランダ風車前に出る。風車は旧新南陽市時代の19
        90(平成2)年、オランダ・デルフザイル市と姉妹都市提携を結んでいることに由来して、
        1
995(平成7)年公園の一角に設けられた。

        
         富田護国神社の説明によると、1863(文久3)年の攘夷戦をきっかけに奇兵隊など諸隊
        が続々と誕生する。山崎隊(当初は富田隊)は、1865年4月富田村庄屋・岩崎庄左衛門
        を賄い方として創設され、新町の浄真寺に陣が置かれた。1866(慶応2)年の幕長戦争で
        は主に徳山周辺の防衛に務め、翌年には占領した小倉城の警備を担う。
         その後、鳥羽伏見の戦い、箱館戦争に参戦するが、1871(明治4)年徳山藩が山口藩に
        合併する際に解散する。

        
         1869年(明治2)年7月に徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る永源山招魂場が創建され
        る。その後、同藩の献功隊の戦没者などが合祀され、社殿裏に霊標35基が一列に並ぶ。

        
         護国神社から山道を下って山崎八幡宮境内に入る。

        
         山崎八幡宮の由緒によると、飛鳥期の709(和銅2)年富田の神室山に神が降臨し、これ
        を祀っ
たとか。また一説には宇佐神宮の分霊を祀ったともいう。その後、奈良期の770
          (宝亀元)年現在地に遷座し、神仏習合の時代になると真言宗の荘宮寺と習合し「荘寺八幡宮」
                と呼ばれていたが、明治の神仏分離時に山崎八幡宮と改名する。

        
         本山(ほんやま)神事に使用される山車のミニチュアが置かれている。実物は高さ3.6m、
        幅・奥行きは2.7mの正方形で、重量は約120貫(約450㎏)もあり、組み立てには釘
        を一切使用していないとのこと。

        
         彩りされた手水鉢。

        
         神門前にある亀趺(きふ)は毛利元就ゆかりの石碑とされ、「洞春公(元就)の安芸に起こる
        や、使を遣わして以て祈ることしばしばなり、兵出でて勝たざるはなし、十州を奄(領)有
        す、以て冥裕(神仏のご加護)の使事する所となす」とあり。
         毛利氏も篤く崇敬し、江戸期には徳山藩の祈願所として歴代藩主が度々社参した。

        
         1702(元禄15)年徳山藩主・毛利元次は、近年領内の農作物虫害により不作が続い
        たため、五穀豊穣を祈願して八幡宮に馬場を造成するとともに、本山と爺山・婆山を奉納
        したことに予祝神事の始まりとする。山車をこの坂から落とすという本山神事が行われる。

        
         神社下にある大鳥居は、1858(安政5)年建立とされる。

        
         山崎八幡宮横に新町の恵比須社があり、小さな祠の屋根にはネズミ・大国・米俵の彫刻
        が四隅に施されている。
         山陽道はこの先、西に続くが街道と分かれて南へ向かう。

        
         旧山陽道が鍵曲になった角に、高さ1mの道標が立っており、「右上かたみち 左下の
        せきみち」と刻まれている。

        
         左手に山崎八幡宮御旅所。

        
         跨線橋脇を過ごすと山陽本線に行き当たる。

        
        
         勝栄寺の特徴は、寺院を土塁と壕によって囲郭されていたことで、現在も北と西部分に
        残存が見られる。寺院の形態をとりながら、合戦時には防御の砦として役目を果たしたと
        考えられている。

        
         1551(天文20)年意を決した陶隆房(晴賢)が、山口の大内舘を急襲して大内義隆を自
        刃に追い込んだが、その晴賢も4年後の1555(弘治元)年に毛利元就に討ち取られる。
         1557(弘治3)年11月に都濃一帯に不穏に動きを察知した元就は、11月18日~
        12月23日まで勝栄寺を本陣として一揆を鎮めた。本陣滞在中にしたためたもの(教訓状
        -三矢の訓)として広く知られている。(説明板より)

        
         南北朝期の1350年代ないし1370年代、富田市の東端に建立された時宗の寺であ
        る。山口にあった善福寺(明治に廃寺)の末寺で、開基は大内弘世の重臣陶弘政とされる。

        
         室町期の1491(延徳3)供養塔として建立された板碑と思われる。室町時代には士 

        庶の阿弥陀浄土への信仰がかなり一般化し、正面の中央部に蓮華座上の梵字(阿弥陀如来
        の種子・キリーク)が彫られている。(周南市資料より)

        
         境内には徳山の豪商で俳人でもあった花田長兵衛の墓と、「降り出して 風懸なし 梅
        の花」の句碑がある。
 
         山陽本線と並行する道を辿ると駅に戻れる。                


田布施に白壁通りが残る町並み (田布施町)

2020年10月11日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         田布施は田布施川が東流し北部を山陽本線が通り、その挟まれた地に市街地が展開する。
        地名の由来について風土注進案は、田んぼの刈り上げを行う際に、広地で収穫に不便なた
        め田毎に仮小
屋を設けて作業したことから、田盧(たぶせ)あるいは田伏と名付けたが、いつ
        となく一郷の惣名になったという。(歩行約5.4㎞)  

        
         JR田布施駅は市街地の北側にあり、1897(明治30)年山陽鉄道が開通したと同時に
        開業する。かって駅舎内に貴賓室が設けられていたとか。

        
         駅前の友末旅館は町唯一の旅館だそうで、唐破風もあって歴史を感じる。

        
         旅館の先を東にとって旧道を進む。

        
         県道下松田布施線(63号)と県道平生港田布施線(164号)を結ぶ道を横断する。

        
         祇園町といわれた通り。

        
         長岡本店の看板には縄・叺(かます)・筵(むしろ)包装資材とあり。叺とは穀物・塩・石炭
        などを入れるためのわらむしろの袋だが、叺と筵を知る世代も少なくなってきた。

        
         立派な中庭が現存する。

        
         祭神不明の神社。尋ねようとしたが人に出会うことなく過ごしてしまう。

        
         袖壁を持つT家。

        
         数は多くないが白壁の建物が散見できる。

        
         大恩寺(浄土宗)の寺伝によると、室町期の1538(天文7)年創建と伝える。寺社由来で
        はもと真言宗で、1570(元亀元)年頼誉良栖上人が浄土宗に改宗したが、詳細は不明であ
        ると記す。

        
         山門を潜ると左手に飢民の供養塔がある。1733(享保18)年にウンカが大発生して飢
        饉となり、防長両国で17万7千余の人が餓死又は病気で亡くなる。当時の総人口の1/3が
        死亡したという大飢饉だったそうで、供養塔はその死者を弔ったものである。
         銘文には「当地方は被害がひどく7百余人の死者が出た。悲しい出来事とその供養を忘
        れないようと銘する‥」とある。

        
         
「田布施・大恩寺の鐘撞堂を見れば、四方欄干に角矢倉。鐘撞の形がお城に似ていると
        いって咎められ、時の住職が傘(からかさ)1本で逃げて行った」という伝説があるとか。
  
         寺を過ごして四差路を右折すると、通称白壁通りと呼ばれる通りに入る。

        
         江戸期から造り酒屋、織物屋などの大きな商家が軒を連ね、賑わいをみせていたという。

        
         この通りは、当時から現在と同じ道幅が確保され、明治期には運動会も行われたという
        エピソードも残されている。

        
         建築年代など建物の詳細を知ることはできなかった。(現W家)

        
         真向かいにあるのがK家。

        
         以前はもっと多かったと記憶するが、維持等が大変のようで消滅した建物もあるようだ。
        (現U家)

        
         白壁通り側の菅原神社参道。

        
         平安期の901(延喜元)年菅原道真が太宰府へ下向する途次に立ち寄ったとされる地に、
        寛弘年間(1004-12)頃に天神社を建立したと伝える。
         戦国時代後半に衰退したが、天正年間(1573-1592)田布施沖開作の完成時に、毛利氏によ
        って再興されたという。1871(明治6)年天神社を菅原神社に改称する。 

        
         正面参道から白壁通りに引き返すと、角にも白壁の家が残る。(M家)

        
        
         M邸から西進すると、本町へ向かう通りにも白壁の家が残る。(奥がK家で手前がH家)

        
         新町の通りに異色の建物がある。現在は建具店さんだが、もとは何だったのだろうか。

        
         新町を過ごすと大きな通りに出る。

        
         田布施川の桜とさくら橋がデザインされたマンホール蓋。

        
         八坂神社の社伝によると、波野はイナゴの害が多くて農作物が実らないため、守友宗右
        衛門という人が出雲国から勧請したと伝える。
         風土注進案は室町期の1559(永禄2)年勧請と伝え、1871(明治4)年祇園社を
八坂
        神社と改称する。

        
         神社より田布施の町並み。
         この先、見るべきものもないので駅に戻ろうと思ったが、序でに周回してみることにす
        る。

        
         駅の北側筋に出る。

        
         円満寺とあるが詳細不明である。

        
         山陽本線豆尾第一踏切を横断する。

        
                    
         踏切を越えて線路に並行すると、右手に新宗教とされる天照大神宮宮殿が見える。別名
        「踊る宗教」だそうだ。

        
         田布施川の橋を渡り川の右岸を下る。

        
         江良碧松(へきしょう)は、明治末期から昭和50年代にかけて活躍した自由律誌「層雲」
        の自由律俳人である。種田山頭火、久保白船とともに層雲の周防三羽ガラスと称されたが、
        郷里(田布施町)から離れず、農業にいそしみながら暮らしや風物を詠んだ田園詩人であっ
        た。

        
         田布施川河岸に懐かしい童謡・唱歌の歌碑30基が並ぶ「ふるさと詩情公園」は、散策
        できるように整備されている。 

        
         河川敷はふるさとの川整備事業で整備され、金属製のモニュメントがある「さくら橋」
        は、町のシンボルとなっている。(1994(平成6)年完成)
 

        
         河岸を巡って駅に戻るが、桜の時期が散策にはベストのようだ。