ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市の勝坂峠から萩往還道と山頭火生家

2022年11月28日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         萩往還道は毛利氏が1604(慶長9)年萩城築城後、萩城と毛利氏の水軍本拠地である御
        舟倉(三田尻)を結ぶ全長約53㎞の道を参勤交代道として整備した。
         郡境である鯖山(勝坂)峠からJR防府駅に向かって往還道を散歩する。(歩行約9㎞、佐
        波川左岸まで🚻なし)

        
         JR防府駅(12:10)からJRバス山口大学行き約15分、上勝坂バス停で下車する。洞道
        北口バス停がベストと思っていたが、降車する人に同調行動をとり、このバス停に降りて
        しまう。

        
         長い坂道(約1.2㎞)を上がって行くと鯖山(勝坂)峠で、当時は2軒の茶屋があったとい
        う。ちなみに
洞道北口バス停だと約0.95㎞、途中の駐車地にはトイレもある。

        
         高さ2m25㎝の郡境碑は、1802(亨和2)年に街道から見て、2面が見えるように立
        てられた。当時の山口市は吉敷郡、防府市は佐波郡であり、土台は後の時代にセメントで
        補強されている。

        
         1885(明治18)年明治天皇は山口行幸の際、三田尻(問屋口)までは船、萩往還道に添
        って鯖山峠までは馬車と騎馬で、峠で馬車に乗り換える際、この地で休憩されたという。 

        
         国道262線に沿って下って行く。

        
         国道と合流してさらに下って行くと、モミジバフウは落葉して、その後方に右田ヶ岳の
        南峰が見えてくる。

        
         正面に「庚申塚」と右側面には、「文政二己卯(1819)四月當村講中」と印刻銘がある。
        もとは街道筋にあったと思われるが、国道拡張工事で旧内田宅の玄関口に移動させられて
        いる。

        
         風に吹かれて落葉中。

        
         陸橋下に「おろくさんの碑」があるが、昔、茶店に「おろくさん」という美人の娘がお
        り、多くの若者たちが足繁く通っていた。一人の若侍が思いを伝えたが断られたので、一
        刀の下に切り殺したので、その霊を慰めるため塚が建立されたという。この塚も国道拡張
        工事で現在地に据えられたものと思われる。

        
         陸橋で右田ヶ岳側に移動して右手の道に入る。

        
         国道手前の小堂内には石造地蔵菩薩が安置されているが、像高39㎝の半
跏像で江戸期
        のものとされる。半跏とは片足を他の足の上に組んで座るとのこと。

        
         左手に勝坂砲台跡。

        
         1863(文久3)年に萩藩は藩庁を萩から山口へ移鎮すると、山口防備のため主要街道に
        あたる勝坂に関門を設置した。台場には砲を据え、通関を請う者は審問の上、鑑札を渡し
        ていたという。1870(明治3)年の脱退騒動では、脱退兵と討伐に向った右田兵及び岩国
        ・徳山両藩兵との間で激戦を交えた戦場となった。
         
のちに跡地は果樹園となったが、現在は荒れ放題の藪となっており、石垣もほとんど形
        跡をとどめない。西側の国道沿いは国道拡張工事の際、崖を削ってコンクリート化され、 
        上り口の石積みは積み直されたものである。

        
         明治天皇は行幸の際、往復ともにここ徳永家に御小休せられたという。碑は、1894
        (明治27)年3月徳永勝蔵氏が記念の碑を建立したものである。ここで往路は馬車から騎馬、
        復路は騎馬から馬車への乗換地点となった。 

        
              昔の剣川沿いには40数ヶ所の水車場があり、精米や製粉が行われていた。水路、水車        
        を据え付た石垣、排水の暗渠が残されていたが見当たらず。2009(平成21)年の山口集
        中豪雨で土石流が流れ出て甚大な被害を受けた地域である。
        
        
         小堂の中に像高42㎝の地蔵菩薩、堂の斜め後に幸神碑。

        
         次のK宅前の石造地蔵菩薩坐像を過ごすと山陽新幹線が横断する。

        
         街道筋側からの剣神社入口。 

        
         入口から街道を少し下ると、阿弥陀堂跡には右田市上会館と地蔵堂、後方に旧墓地があ
        る。

        
         剣神社は古くには鯖山(勝坂)峠の登り口にあたる勝坂に鎮座していたと伝え、平安中期
        の「延喜式」神名帳に「剣神社」と記されているという。
         社伝によれば、仲哀天皇が筑紫行幸の時、夷狄(いてき・異民族のこと)の降伏を祈願し
        八握剣を御神体として祀ったのが始まりという。 

        
         参道出口付近から見る右田ヶ岳。地名の由来は、佐波川右岸の広大な耕地という意で右
        田になったとか、また、周防灘の北にあたる場所だから「海北(うみきた)」といったが、こ
        れがつまって「みきた=みぎた」という説もある。

        
         藩政期の右田市にはいくつもの寺や民家・商家が立ち並び、四方に向かう道の起点で賑
        わっていたというが、今はその面影は残されていない。
         鎌倉期の初め頃、多々良(大内)盛房の弟盛長が、下小野を乗っ取り右田摂津守と名乗る
        ようになる。多々良氏が大内に住み着いてからは勝坂峠を越える道も開け、この道筋に右
        田氏が毎月決まった日に産物を交換しあう「市」を開かせたのが右田市の始まりだという。 

        
         当時はT字路で国道からの道はなく、左に見える地蔵尊は、右田市の上・下の講40軒
        でお祀りしてきたという。横の灯籠は熊野神社の宮灯籠で権現宮と彫ってあるが、もとは
        道路の反対側にあったが道路新設にともない移設された。

        
         乗円寺(真宗)は大内氏に仕えた弘中受慶を開山とし、子孫は後に毛利氏の家臣となり、
        毛利元俱に従って右田に移る。1632(寛永9)年元俱は、萩の清光寺に嫁いでいた娘が亡
        くなった際、法名にちなんで現寺号にしたという。 

        
         乗円寺と向かい合わせにある真宗寺(真宗)は、1907(明治40)年右田市の明誓寺と上
        右田の専成寺を併せて真宗寺とする。

        
        
         右田市から本橋(もとばし)までは耕作地であったものと思われ、史跡等は存在しない。

        
        
         佐波川には、1724(享保9)年に木橋が架けられたが、洪水の度に流されたため、17
        42(寛保2)年6艘の舟を並べて板を渡した総延長38mの舟橋が作られた。この舟橋は19
        41(昭和16)8月まで約200年間存続したが、その後、再び木橋となるが、1951(昭
          和26)
年7月の台風で流され、現在の橋はコンクリート橋の2代目である。

        
         招魂碑と小祠が並ぶが、碑の由来等が記載されているが、風化により読み取ることがで
        きない。

        
         佐波川の氾濫が相次ぎ、甚大な被害を繰り返していたが、当時の土木技術では施す策も
        なく、思案の末、山口にある祇園社(現八坂神社)の分霊を勧請したという。(勧請年代不詳)
         当初は川の右岸である本橋近くに安置されたが、1979(昭和54)年の水害により遷座
        したとある。

        
         室町後期の1557(弘治3)年3月12日、毛利元就・隆元親子が大軍を牽いて防府に進
        軍する。これに対し、鷲頭・朝倉軍は天神山の上で毛利軍に備えていたが、形勢が不利と
        みて山口に向けて引き揚げようとしていた。毛利軍は逃がさず追い詰めて、この佐波川周
        辺で激しい戦闘が行われたという。

        
         佐波川左岸の道は旧防石鉄道跡であり、 1919(大正8)年7月5日に三田尻ー和字間、
        翌年に和字ー堀間が開業したが、営業成績が延びず堀以北は着工することができず、海岸
        線への延長計画(防府ー中関)も頓挫し、1964(昭和39)年7月1日鉄道事業は廃止され
        てバス事業に転換される。

        
         旧街道の左側に主要道路が新設されたため
静かな通りである。

        
         天満宮への道標らしいがはっきりしない。通りには石造菩薩立像が2基ある。

        
         護国禅寺(曹洞宗)は、1792(寛政4)年の火災で本堂・庫裏が火災で焼失したため、寺
        記は不明とされる。過去に宝積寺と号していたようだが、1742(寛保2)年現寺号に改め
        たという。 

        
         薄茶色の凝灰岩でつくられた笠塔婆(供養塔)は、基礎・塔身・笠から成る。1976(昭
          和51)
年市内迫戸(せばと)町の水田から発見されたもので、鎌倉期の1232(貞永元)年頃の
        作とされる。
         正面に阿弥陀三尊を表わす種子と、裏面に中台八葉院曼荼羅を刻む。(県指定有形文化財) 

        
         種田山頭火は、1940(昭和15)年10月11日松山の一草庵において漂泊に生きた生
        涯を閉じた。(享年57歳)
         句友であった久保白船が、松山に急ぎ駆けつけて荼毘に付したという。防府の地に生ま
        れ育ち、流転の旅を繰り返した生涯だったが、生まれ故郷で母と眠るのもよし、妻サキノ
        さんが眠る熊本の地でもよしとし、合掌して寺を後にする。

        
         往還道に戻って四差路を左折するが、昔はT字路(三つ辻)で市役所方面の道はなかった
        という。ここから天満宮下まで旧山陽道と重複する。

        
         この先の游児川までが今市で、風土注進案によると町尻に当たり、商売も少なく農業を
        渡世の一助として暮らすものが多いと記述されている。

        
         次のT字路を右折すると、フェンス(金網)に囲まれた中に石壇だけが残る八王子社跡。
        傍の小路は種田山頭火が松崎小学校に通った道で、「山頭火の小径」とされている。

        
                 「うまれた家は あとかもない ほうたる」
         種田山頭火(本名は正一)は、1882(明治15)年に佐波村の大地主の子としてこの地で
        生まれた。11歳の時に母が井戸に身を投げて自殺し、父の放蕩で家は傾き、夜逃げ同然
        で熊本へ移り、44歳で出家得度して托鉢をしながら各地を放浪する。1937(昭和12)
        年8月生家に帰って詠んだ句とされる。「ほうたる」は蛍のことで、母と見た蛍を思い出
        したのであろう。
         長い歩きであったが、ゆめタウン防府を経由してJR防府駅に戻る。


上関町祝島は石積みの練塀と神舞の島

2022年11月25日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         祝島(いわいしま)は熊毛半島の南西約20㎞の周防灘に浮かぶ島である。地内にコッコー
        という植物が自生しているが、この実は不老長寿の秘薬として、秦の始皇帝が徐福を使い
        として
取りに来たという「徐福伝説」がある。
         集落は北東岸の急斜面下に発達した崖錐と、砂州から成る半円状の低地に立地する。(歩
        行約3㎞)

        
         JR柳井港駅の正面にある柳井港(9:30)から祝島行きに乗船し、室津、上関、蒲井、四
        代を経由する1時間10分の船旅である。

        
         この時期にしては海も穏やかで予定の時間に祝島へ到着する。定期船「いわい」は、2
        017(平成29)年に新造されたもので、上関町の第3セクターである「上関航運(有)」が
        運行する。

        
         港周辺が再整備されたようで、渡船場から集落中心部にある岩田珈琲店まで引き返す。

        
         海岸通りの案内板を見て、珈琲店の所から路地に入ると、厨子(つし)2階建ての民家がみ
        られる。

        
         えべす屋さんの向かいにある練塀の民家。練った土と石を交互に積み上げて、表面を漆
        喰で固めているという。塀の厚さは約50㎝もあるので、
強風と防火対策の役目を果たし
        ており、塀の中に水が入らないように上部には屋根瓦が載せてある。

        
         このような路地が縦横無尽にあって、入り込むと居場所がわからなくなってしまう。

        
         練塀が連続する通り。

        
         塀になっているものもあれば、家屋の外壁を兼ねているものあるが、構造は伝統的な軸
        組み構造のようである。

        
         立派な門構えのある民家。

        
         通りの両側が練塀で、最も見応えのある場所である。

        
         海に近い場所では海岸に転がっている石が使われているので、丸みを帯びた石が多いが、
        山側は山を掘って出た石が使われているので、角ばったものが多いのが特徴とされる。

         

        
         民宿「くにひろ」前に共同井戸があるが、集落にとって貴重なものであったのであろう。
        (パンフによると共同井戸3ヶ所) 

        
         善徳寺(真宗)の開基は、祝島の豪農で俗名を石原藤左衛門といい、天正年間(1573-1592)
        の石山合戦に従軍していたが、戦いが終わって帰国する際、顕如上人から名号をいただき
        一宇を結んで善妙寺と称した。明治の廃仏毀釈の際、平郡島の妙徳寺と合併して現在の寺
        号に改めたという。

        
         城の櫓を思い出させるような造り。

        

        
         路地は地形に従い、練塀は地形と水路に従ってその形を変える。

        
         狭くて勾配のある坂道は、大きな荷物を上下させるのが大変であろう。

        
         校門の左側に祝島中学校、右側には祝島小学校の校名があるが、休校と開校を繰り返し
        ているようだが、子供の声がしたので小学校は開校しているようだ。

        
         水産庁の「未来に残したい漁業漁村の歴史的文化遺産百選」に選定された。

        
         海を隔てた対岸に原発建設で揺れる長島がある。長島の人にとっては島の裏側だが、祝
        島にとっては目の前に原発があるようなもので、万が一の場合には一番影響を受けるだろ
        う。
         漁業組合に貼ってあった「ふる里三題」の1つに「我が里を 鳩子の海と人は呼ぶ な
        ぜにさわぐや 原発の波」と、静かに暮らす島民にとって外部から一方的に厄介な問題が
        持ち込まれて、賛成・反対で人間関係もギクシャクしているのではなかろうか。

        
         中学校側から階段を下ると宮戸八幡宮の鳥居。

        
         宮戸八幡宮の社伝によれば、平安期の1168(仁安3)年1月、石清水八幡宮の分霊を守
        (森)友平助が奉祀したというが、この島は、昔、全島を焼失する大火が2度もあったとい
        われ、古い記録が残されていないという。

        
         宮戸八幡宮の境内に鎮座する大歳神社(荒神社)。平安期の886(仁和2)年8月豊後国伊
        美郷の人々が石清水八幡宮より分霊を奉じて海路下向の途中、暴風雨に遭い祝島の三浦に
        避難した。当時この地には3軒の民家があり、生活は苦しかったが彼ら一行を手厚くもて
        なした。
         そのお礼に教わった荒神を祭り、農耕(麦作)を教えてもらったことにより生活が向上し
        たという。島民はそのお礼に毎年「お種戻し」と称して伊美のお宮に参拝した。
         これを縁起として4年毎に別宮八幡宮より神職などを迎えて、合同祭祀を執り行うこと
        になったという。この入船出船の海上神事と小屋掛けされた仮神殿で神楽が奉納される。
        (パンフより)

        
         宮戸八幡宮の参道を下ると、海岸線の県道に合わす。

        
         2020(令和2)年の神舞(かんまい)神事は、コロナ感染により1年延期されたが、最終的
        には中止となる。この櫂伝馬船は、2024年まで格納庫で出番を待つことになる。 

        
         海を眺めていた猫が足音にびっくりして見返る。

        
            「家人は 帰り早来(こ)と伊波比島(いはひしま)
                         斎(いわ)ひ待つらむ 旅行くわれを」
            「草枕 旅行く人を 伊波比島 幾代経るまで 斎ひ来にけむ」
         2つの歌は、万葉集15巻に収められているもので、奈良期の736(天平8)年遣新羅使
        に随行した人が、この祝島に航海の安全を願って詠んだといわれている。

        
                 葉の碑がある場所に練塀仕様のトイレ。

        
         ペンキとセメントで仕上げられた民家。

        
         善徳寺まで戻って照満寺に向けて集落内を歩くと、見応えのある練塀に出会える。(ここ
        から道幅が狭くなる) 

        
         小学校から海へ下る主要道ある民家の側面は、練塀のようだがすっぽりと蔦に覆われて
        いる。

         
         あいご(小路)に入って行くと何度か行き止まりを経験する羽目になる。 

        
         外周を塀や家屋で囲み、中庭をとる形式である。

        
         人口314人(2022.4月現在)が暮らすが、空家も目立つようになってきている。

        
         共用の路地が家を貫いている。

        
         1927(昭和2)年品川九一氏ら有志が発起人となって祝島電灯組合を設立して、重油に
        よる発電所を建設して送電したのが始まりという。
         のち、「農山村電気導入促進法」により、四代(しだい)の田ノ浦から海底ケーブルが敷設
        されて、1956(昭和31)年12月11日に本土から送電が開始された。
         上水は水道組合で行われていたが町に移管されて、1965(昭和40)年度から水源確保
        等の改良が行われた。島の弱点でもある水の確保が難しいときは、給水船で長磯のタンク
        に注入されたこともあるそうだ。 

        
         照満寺(真宗)で行き止まりのため境内を通らせていただき、県道祝島線(海岸線)に出る。
        寺の開基は、大内義隆の家来であった俗姓・石丸四郎左衛門則之と伝える。 

        
         この県道は島の反対側の三浦まで続いているそうだが、島一周はできないという。  

        
         集落の北端付近は海からの強風をまともに受けるので、屋根瓦が飛ばされないように漆
        喰やセメントで固められて屋根が白くみえる。

        
         長い階段が山に向かって延びているが、再び上がって行こうという気持ちになれなかっ
        たが、居住されている方は海岸に出る唯一の道である。

        
         光明寺(真宗)の開基は俗姓・石丸則頼といい、大和国の武士で武者修行の途次、当地に
        来遊し感ずるところあって、1615(元和元)年に出家して草庵を結ぶ。のち本山より木仏
        を賜り光明寺と公称する。        

        
         滞在時間1時間50分と短いため、主だった所を歩いて12時30分の船に乗り込む。

        
         2008(平成20)年に棚田を維持管理されていた平さんにお会いして、棚田の歴史など
        教えていただいた。最後に「ここもわしの代で終わりじゃ」といわれたことが頭の片隅に
        あったが、往復8㎞もあることから棚田を思い浮かべながら島を後にする。

        
         定期船は往路と同じように寄港して柳井港に戻ってくるが、多くの人は室津で下船され
        る。(上関大橋)


飯塚市の幸袋は長崎街道筋に伊藤伝右衛門宅 

2022年11月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         幸袋(こうぶくろ)は遠賀川左岸に位置し、白旗山麓から集落が広がる。地名の由来は、遠
        賀川が蛇行していた地形からきたといわれ、「続風土記」には河袋と書くとあり。
         また、1838(天保9)年の五ヶ村用水の完成により「幸」がきたということで、河が幸
        になったともいう。(歩行約3㎞)

        
         飯塚バスセンター(13:25)から西鉄バス赤池工業団地行き約10分、伊藤伝右衛門邸前バ
        ス停で下車する。(始発は新飯塚駅)

        
         バス停から幸袋本町を抜けると遠賀川の河川敷に出る。遠賀川水運の船場として発達し、
        幕末には船庄屋が置かれたという。

        
         明治中期~後期頃に建築された建物のようで、妻入り入母屋造り甲造りで白漆喰を塗込
        めた居蔵造りである。

        
        
         幸袋の通りには明治・大正期を思わせる建物が残されている。

        
         無極寺(真宗)は創建以降300年来この地にあって、本堂屋根は銅板葺きである。

        
         街道筋にある伊藤伝右衛門邸の長屋門は、福岡市天神にあった別邸「通称:銅御殿(あか
          ねごてん)
」が、1927(昭和2)年漏電により焼失したが表門のみが焼け残ったため、後年、
                本邸に移築されたものという。

        
         表玄関は入母屋造りのどっしりとした構造で、鬼瓦には伊藤家の家紋「丸に三桝紋」、
        屋根は少しむくった破風が施してある。

        
         玄関に入ると「和協輯睦(わきょうしゅうぼく)」の額があるが、1936(昭和11)年書家の
        高田忠周が伝右衛門に頼まれて篆書で書いたものである。

        
         表玄関を上がると左手に応接室があるが、もともと和室だった部屋を改装したとされる。

        
         表玄関の右手に和洋折衷の書斎。床は寄木貼りと腰高までの羽目板、板戸には金の下地
        を塗り、四季の草本が描かれている。

        
         食堂からは庭の景色が楽しめるように設計されている。1906(明治39)年大広間や食
        堂などが建築されるが、1888(明治21)年伝右衛門は28歳で辻ハルと結婚。のち牟田
        炭坑の経営を開始、衆議院議員に当選するなど盤石な時代だった。

        
         食堂の手前にある上風呂はタイル張りの床、天井は舟底形に仕立てられた網代状の細工
        が施してあり、脱衣所(洗面所)と上風呂は和洋折衷の趣で構成されている。

        
         本座敷廊下は畳を横使いに敷き締め、広さを強調した造りがなされており、天井は板を
        矢羽に貼り込んだ作りとなっている。(左手は本座敷と次の間)

        
         次の間から見る庭園。

        
        
         伝右衛門の居間と東座敷は庭園を一望する角にあって、波をモチーフに彫られた欄間な
        ど豪華さが際立つ。

        
         総欅の階段を上がると、入口は上部が円形した火灯口(かとうぐち)と、茶室にみられる客
        出入口である躙り口(にじりぐち)を設けるなど茶室風に施してある。

        
         主に白蓮が使用したという2階部分。

        
         1910(明治43)年伝右衛門の妻ハルが死去すると、翌年に伯爵家の柳原燁子(あきこ)
        結婚。政略な面を持ちながら華やかであったという。のち、1921(大正10)年に燁子(白
        蓮)は宮崎龍介のもとに奔る。 

        
         明治期に建てられ、大正期・昭和期に増築された和洋折衷の邸宅と広大な庭園は、筑豊
        の石炭王・伊藤伝右衛門が誇った栄華を物語る。華族出身の燁子と、自らツルハシを握っ
        て極貧からのし上がった伝右衛門との間には、25歳の差、自ら望んだ結婚ではなかった
        こともあって溝は埋まらないま破局を迎えた。(1階が伝右衛門の居間、2階が燁子の居
        室) 

        
        
         邸宅の敷地北側の大部分が庭園で、川の水源に見立てて深山から石を敷き詰めた渓谷の
        風情から、蛇行しながら流れる川を再現し、太鼓橋や噴水を配した回遊式庭園である。 

        
         あらゆる所に石灯籠や層塔を添え、四阿の屋根は宝形造りで躯体にはシュロの木が用い
        られるなど、どこらから見ても楽しめる庭園である。

        

        
         信号機手前の2軒目の民家には、左に富士の裾野で狩りをする武士、右には一目散に逃
        げる猪、中央に富士の山が描かれている鏝絵がある。

        
         国道200号線(長崎街道)の歩道には、市の花であるコスモスが描かれたカラーマンホ
        ール蓋。

        
         国道筋に残る古民家。 

        
         一の鳥居は、1900(明治33)年9月伊藤伝右衛門の献納とある。

        
         陸橋で旧国鉄幸袋線を渡るが、かって小竹町の小竹駅と飯塚市の二瀬駅を結ぶ鉄道敷地
        であった。石炭輸送のために敷設された鉄道は、1894(明治27)年に開業したが、日鉄
        鉱業二瀬鉱業の閉鎖とともに国鉄赤字83線に指定され、1969(昭和44)年12月に姿
        を消す。

        
         許斐(このみ)神社は、1573(天正元)年の頃、秋月氏の家臣・許斐某が、この城にあった
        木実権現を崇敬し神社を建て直したので、いつしか許斐神社と言われるようになったと伝
        えられている。

        
         高林寺(曹洞宗)は、1600年代に慶閏寺の塔頭として現在の佐賀市に創建された。1
        915(大正4)年伊藤伝右衛門の妻・燁子の世話で、娘静子(燁子の実子ではない)の婿養子
        として堀井秀三郎を迎い入れた。
         堀井は近くに禅宗の寺を欲したため、1930(昭和5)年に佐賀の地から現在地に移転し
        てきたという。

        
         高林寺からの街道筋は、概ねこのような町並みが続く。

        
         建花寺川付近の古民家。

        
         片島の町並みを歩きたかったが、時間の制約もあって水江バス停からJR新飯塚駅に戻
        る。


飯塚市に長崎街道の飯塚宿

2022年11月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         飯塚は穂波川と遠賀川が合流する左岸に位置する。地名の由来について、神功皇后が三
        韓から帰途、ここで将士を郷里に帰す時、「何日可逢」と別れを惜しんだという伝説から
        「いつか」が地名になったという。また、聖光上人が明星寺を造営した開堂供養の時、今
        の太養院の所で食物を調えたといわれ、炊いた飯が多くて塚のようであったことに因むと
        もいう。
         しかし、太養院西側の台地にある円墳状の飯の山が、飯塚の地名発祥の故地と考えられ
        るとのこと。(歩行約4.4㎞)

        
         新飯塚駅は、1902(明治35)年に貨物専用の芳雄駅として開業、大正期に旅客業務が
        開始された。1935(昭和10)年に新飯塚駅と改称し、現在は橋上駅舎となっている。

        
         飯塚病院前の道を遠賀川方向へ歩く。

        
         ベンチで猫が日向ぼっこ中。気持ちがよいのか動こうともしない。 

        
         遠賀川と穂波川が合流する地点には2つの橋が連続し、その間の東町橋東詰に「殉職碑」
        が建立されている。

        
           「師の君の 来ますむかふと 八木山の 峠の若葉 さみどりのして」
        
 河川敷に柳原白蓮の碑が設置されているが、遠い九州の地を訪れる師(佐佐木信綱)を迎
        える前に心境を詠んだ歌が刻まれている。歌碑はボタ山を背景に建ち、川には沈下橋が架
        けられている。

        
        
         嘉穂劇場は、1931(昭和6)年に坑夫の娯楽施設として開場した江戸時代の歌舞伎様式
        を伝える木造2階建ての芝居小屋である。
         炭坑が華やかな頃は、遠賀川流域に48座あった芝居小屋も、炭鉱の閉山と合わせるよ
        うに芝居小屋も姿を消して、残ったのが嘉穂劇場のみである。火災、水害と幾多の災害を
        乗り越えてきたが、2021(令和3)年5月13日より休館となり、飯塚市に譲渡されて再
        開に向けて建物の改修などが行われている。(柵が設けてあって柵からの見学)

        
         飯塚市の市花であるコスモスが描かれたマンホール蓋。

        
         嘉穂劇場から飯塚図書館方向への通り。

        
         長崎街道飯塚宿に大名などを迎い入れるという場所にあたるため、向町(むかいまち)と名
        付けられたという。1908(明治41)年からの遠賀川流路変更の工事で新たに川ができた
        ため、1913(大正2)年に架橋された向町橋の親柱が残されている。 

        
         飯塚宿は2度の大火に見舞われ、現在は商店街の道として残っているが、宿場町の面影
        は残されておらず、宿場関連の史跡には石碑が建てられている。

        
         長崎方面から飯塚宿の入口になるのが西構口で、両側に街路と直角に石垣を築いて築地
        塀に門が設けてあった。一定の時刻に門が開閉するなど、城郭的な役目を果たしていた。
        長崎方面の門を西構口、江戸方面を東構口と呼ばれていた。

        
         向町観音堂で西構口の正面にある。

        
         街道筋はこの先で右折する。 

        
         1706(宝永3)年この場所で「元大神」と刻まれた光る石が発見され、住民が「大神石」
        と称して祠を建てて、曩祖(のうそ)八幡宮の末社として祀ってきた。1909(明治42)年本
        社に合祀されると跡が荒れることを畏れて、神の栄を念じて井戸を掘り、神に捧げる酒造
        りを始めたという。「神の栄」という銘柄であったが、河川工事により良質な水が出なく
        なり井戸は埋められたという。

        
         長崎街道飯塚宿の一部は東町商店街になっている。(街道は三差路を左折)

        
         往時の飯塚川は内野の山中を発して流れ下り、宿場を横切っていたという。川幅が40
        ~50mぐらいあって水運の便もよく、旧街道には白水(はくすい)橋が架けられていた。
         遠賀川の改修工事に伴い飯塚川は埋立てが進められて、1975(昭和50)年頃には完全
        に埋立てされたそうで、橋が架かっていた場所に欄干の一部が残されている。

        
         本町商店街は長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケード街になっている。 

        
         明正寺筋に入ると寺の一角に「勢屯り跡」の碑があるが、この上にある上茶屋に宿泊し
        た大名が、ここで行列の体制を整えて出立したという。大名行列は通常の場合、宿場や主
        だった街道沿いの場所のみ勢を整えていたといわれる。 

        
         明正寺(真宗)の過去帳には、幕府に献上された象が通ったことが記してあるという。(境
        内は幼稚園)

        
         高台にある飯塚片島交流センター脇に「御茶屋跡(上茶屋)」の碑があるが、1640(寛
          政17)
年に福岡藩が本陣(御茶屋)を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所とする。

        
         飯の山は飯塚の地名発祥の地の1つとされるが、頂上には上がることができない。

        
         街道筋に戻ると人形付きオルゴール車が置かれている。店主によると喫茶が奥にあるた
        め、宣伝用のマスコット人形と以前はオルゴールも演奏していたが、商店街から騒音との
        指摘もあって今は使用していないとのこと。

        
         店内はステンドグラスに囲まれた素敵な空間である。

        
         飯塚宿の町人も宿場の繁栄を願って恵比須の石像を祀っていたが、その後、曩祖八幡宮
        の境内に移されたという。

        
         本町商店街筋。

        
         森鴎外は、1901(明治34)年7月に飯塚を訪れ、福岡日日新聞に「我をして九州の富
        人たらしめば」を掲載し、炭鉱主たちが贅沢を止め地域の文化振興にその財力を惜しまず
        尽くすべきと唱える。のちに安川・松本家が明治専門学校(現九州工業大学)を創設したの
        は鴎外の掲載によるものとされる。 

        
         太養院筋に入ると重厚な建物が残る。

        
         曹洞宗の太養院(たいよういん)は行基の開山と伝えられ、1640(寛永17)年飯の山の横
        にあったが、御茶屋が新設されたため現在地に移転したという。

        
         太養院の隣に眞福寺(浄土宗) 

        
         江戸時代の飛脚制度にかわって、1871(明治4)年4月東京~大阪間に近代郵便制度が
        導入される。8ヶ月後の12月小倉~長崎間(長崎街道)にも導入されて、街道筋の16宿
        駅に郵便取扱所が開業する。
         当初は黒ポストであったが、夜は見えづらいといった理由で、1908(明治41)年赤ポ
        ストになったという。

        
         本町商店街にあるレトロな建物は福岡銀行飯塚本町支店で、1924(大正13)年福岡銀
        行の前身である旧十七銀行の飯塚支店として建てられた。

        
         飯塚本町商店街の中央付近にからくり時計が設置してある。10時から18時までの毎
        正時に音楽に合わせて、渡来の象などをはじめ飯塚宿を通る大名行列の人形が歩き出すと
        いう。時間的タイミングが悪く拝見できず。

        
         宿場の施設として、東西の構口、関屋(番所)、上茶屋(本陣)、中茶屋(脇本陣・からくり
        人形がある場所に長崎屋)、下茶屋(脇本陣)のほか、郡屋、問屋場(人馬継所)、馬立所、蔵
        屋敷、オランダ屋敷などが置かれた。

        
         北側の本町商店街入口に東構口が設けられていた。

        
         右手に寶月楼跡の碑を過ごすと、鳥居が3ヶ所設置されている。石段に向って左側が飯
        塚八幡宮、中央が曩祖八幡宮、右側が祇園宮で飯塚の追い山は、この石段下から出発する。

        
         中央の階段を上り随神門を潜ると八幡宮の拝殿。古くは神功皇后が三韓より帰路この地
        へ立ち寄り、離別を惜しんだ地とされている。社伝では、鎮座年は不詳とされるが、その
        跡地に作られたのが当八幡宮という。(由緒より) 

        
         高野山真言宗の観音寺。 

        
         江戸期に貿易を許されたオランダ人には、御礼言上のため江戸に参府して将軍に謁見す
        る義務があったという。1609(慶長14)年に始まり、1633(寛永10)年から毎年、1
        790(寛政2)年からは5年に1回に改められ、幕末の1850(嘉永3)年まで続いた。
         長崎から江戸まで約2ヶ月かけて、長崎から長崎街道を通って大坂、京都を経て江戸に
        向った。各地には指定の宿舎があったが、飯塚では宿場内の施設ではなく、東構口の外れ
        にオランダ屋敷が設けられたという。(ここで散策を終える
)