ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市久米は市街地、譲羽は山間集落

2022年06月30日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、久米(くめ)村と譲羽村が合併して久米村が発
        足する。のち太平洋戦争最中の1942(昭和17)年、徳山市に編入されて久米村が消滅す
        る。(歩行約3.6㎞、🚻米泉湖公園以外なし
)

        
         譲羽(ゆずりは)へは公共交通が運行されていないためクルマでの対応となるが、域内への
        道路は久米ルートと米泉湖ルートがあり、湖畔を眺めるため米泉湖ルートを利用する。
         末武川ダムは1991(平成3)年に竣工したロックフェルダムで、高さ89.5mの多目
        的ダムである。

        
         譲羽は末武川支流である譲羽川流域に位置する。地名の由来を地下(じげ)上申は、「先年
        いつりは(ゆずりは)の大木有之候様に伝承り申し候、其故を以譲羽と申候哉由来しれ不申
        候」とある。

        
         地蔵尊の傍に「右すすま」「左とく山」の道標がある。

        
         道標より奥に数軒の民家があるようだが、この付近に集中して軒を並べる。人口は譲羽
        上で10世帯23人、譲羽下で16世帯22人である


        
         耕作放棄地も見られるが水田も広がっている。 

        
        
         この付近は民家が点在する。

        
         道路改修記念碑と地蔵尊がある所まで下って河内神社に参拝する。

        
        
         譲羽下との堺付近にある河内神社は、創建年は不明とのことだが、遠石八幡宮の末社で
        旧号は河内五社大明神という。

        
         久米との往来道が主要道のようで、こちら側に民家が並ぶ。

        
         久米小学校譲羽分校は、1873(明治6)年譲羽小学として創立し、久米国民学校譲羽分
        校、久米小学校譲羽分校へと改称し、1954(昭和29)年現在の校舎が建てられた。しか
        し、児童数の減少に歯止めがかからず、2007(平成19)年休校となる。 

        
         グラウンドは草地化しているが、鉄棒など運動用具は休校当時のままである。

        
        
         入口には分校だったことを示す石碑と、玄関上には久米小学校の校章が掲げられている。

        
         久米(くめ)は緩やかな扇状地と三角州からなる平野部に立地する。地名の由来について地
        下上申は、往古、豊前国より八幡神が磯辺の石へ影向、これを氏神として祭祀する一方、
        その節当村より献上した御久米によるという。(歩行約3.6㎞、🚻駅以外なし)

        
         譲羽とは別の日に久米市を訪れるが、バス路線がはっきりしないため、岩徳線を利用し
        てJR周防花岡駅で下車する。

        
         旧山陽道は内を横断する山陽新幹線と岩徳線に挟まれる中にある。
(ここは下松市)

        
         上和田橋で末武川を渡り、桜並木の右岸を下流へ向かう。 

        
         和田橋で右折して西進するが、この付近は下松市域。

        
         この川が旧末武村と旧久米村の境になっている。(坂道を上がった付近) 

        
         久米峠とされているようだが掘り下げられたようだ。

        
         旧街道筋の家々は更新されて昔日の面影は残っていない。(この家屋のみ) 

        
         浄土真宗の順正寺。 

        
         緩やかな下り道となるが、道筋の状況は変わらない。

        
         亀甲模様に周南市の市章と文字入りマンホール蓋。 

        
        
         久米市にあった人馬継所や高札場跡は消滅し、神社祭礼の神輿を置く台石が残る。

        
         共楽養育園の敷地内に河野諦円師頌徳碑があるが、園内に入れないため詳細不明だが、
        大正期に共楽園を創設した明教寺の住職のようだ。

        
         西光寺川を渡って西進するが、これといった見どころはない。

        
         
         変則四叉路の角に、1875(明治8)年創業の酒蔵・山縣本店。

        
         人家の敷地内に小さな祠。

        
         下須川の橋を渡り新幹線下を通り抜けると久米から徳山地区に入る。
         1942(昭和17)年まで存在した久米村の久米と譲羽地区を散歩したが、発展する久米
        と衰退する譲羽という対照的な地域であった。

        
         久米バス停からJR徳山駅に戻る。 


周南市八代は本州唯一のナベヅル渡来地で近代自然保護発祥の地

2022年06月30日 | 山口県周南市

        
                
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         八代(やしろ)は旧熊毛町の北端で、末武川上流域の高原盆地に位置する。地名の由来につ
        いて風土注進案は、往古、田畑開地の節、五穀成就のため宇賀の神を8ヶ所に祀り、八つ
        の社というより八ツ神の代と祝し、八代と書くようになったという。(歩行約5.3㎞) 

        
         JR高水駅から周南市コミュニティバスがあるようだが、利便性がよくないため車に頼
        らざる得ない。(市八代支所に駐車)

        
         八代は本州唯一のナベヅル渡来地。案内によると明治期までナベヅルは冬鳥として日本
        全国で見られたが、明治以降にツル捕獲禁止令が消滅し、全国で乱獲された結果、現在で
        は限られた地域でしか見ることができなくなった。
         ここ八代では明治以降もツルを捕獲することなく、1887(明治20)年山口県令による
        八代村内での捕獲禁止と村民の保護活動もあって、大正期に国の天然記念物、1955(昭
        和30)年には国特別記念物に指定される。

        
         周南市熊北診療所内には、1921(大正10)年内務省により国天然記念物に指定され
        た碑と、特別天然記念物指定の碑が建つ。

         
         末武川の橋を渡ると右手に二所神社の鳥居。

        
         二の鳥居脇の亀趺(きふ)の上に建つ二所大権現宮碑は、1857(安政4)年神社の由来を
        伝えるために建立された。

        
         二所神社の社伝によれば、室町期の1430(永亨2)年に塩田村の石城神社の分霊を勧請
        し、八代全体を見渡せる地に古本神社を創建される。
         その後、1439(永亨11)年当地の亀伏山に社殿を創建して遷宮、祭神が石城神社と同
        一神であることから二所神社と名付けられたという。

        
         八代の田園風景。

        
         八代小学校(左)と八代幼稚園(右)。1964(昭和39)年熊毛地区の4中学校(八代、三
        丘、勝間、高水)が統合されて八代から中学校が姿を消す。

        
         呼坂村から中須村への往還道(昔はこちらが本通り)で、八代村の南境である仏坂峠から         
        北境の中須村まで、村内の丁数はおよそ25町(約2.73㎞)余り。(この付近は八代市)

        
         下市の四ツ辻。

        
         浄西寺(真宗)は、塩田村(現光市大和町)の浄泉寺の末寺で、1619(元和7)年善想とい
        う僧が開闢(かいびゃく)建立したという。

        
         民家が密集するが静かな通りである。

        
         古本社の鳥居を潜る。

        
         「鶴の墓」の由来によると、1895(明治28)年の春、シベリアへ向けて旅立った鶴の
        群れの中に、銃弾で傷ついていた1羽の鶴が桃木峠に落ちてしまう。
         これを見た村人の一人が自宅に連れ帰り、50余日の看護を続けたが死んでしまったの
        で、家族同様に手厚く供養し、自宅の裏山に自ら墓碑を刻んで供養したという。
         1921(大正10)年国天然記念物に指定されたのを機に、現在地の古本社境内に移され
        て「癒鶴地(えいかくち)」とされ、この地で死んだ鶴の慰霊祭が行われている。

        
        
 亘理寒太(本名は正・1895-1963)は、八代村魚切の旧家に生まれ、京都大学を卒業し、戦
        後ふるさとに帰り八代中学校の校長や教育長などを歴任、鶴の保護活動や俳句の指導にも
        熱心だった。碑は鶴の墓に相対して建立されており、「薮道を 出て田の鶴と 顔合はす」
                とある。

        
         境内入口に花崗岩の前面を加工し、その上部に大きく地蔵菩薩を表わす梵字を彫り込ん
        だ八代地蔵菩薩板碑と火除地蔵。

        
         緩やかな坂道を上った付近から見返る。

        
         周りにナベヅルがデザインされ、中央部分にもナベヅルが描かれ「やしろ・おすい」の
        文字があるマンホール蓋。ツル渡来地付近のマンホール蓋は、周りは同じだが、中央に旧
        熊毛町の町章に「くまげ・おすい」と、中央部分に違いがあるマンホール蓋もあった。

        
         下り始めると右手に上市の神飛石と火防地蔵。

        
         四叉路を直進すべきところを右折したため、遠回りをする羽目になる。

        
         秋の稲穂が垂れる時期も見応えがあるが、一面緑となったこの時期も清々しさを感じる。
        (行き過ぎたので右手の民家まで引き返す)

        
         浄光寺(真宗)は、文禄年間(1592-1596)までは善喜庵と称し禅宗であったが、のち廃寺同
        様になり、長善という僧が真宗に改宗して寺を再興する。

        
         県道徳山光線を下れば駐車地に戻れるが、車の往来が少ない集落道を歩くことにする。

        
         日本国内で最も早く、1887(明治20)年に野生生物保護を実現した「近代自然保護発
        祥の地」とされ、生きものとの共生が文化として息づき、水田の耕作放棄が少ない地域で
        もある。

        
         河原畑には観音堂(9尺四方)と修験道竜王社(5間×3.5間)があるとされるが、確証を
        得てはいないが竜王社であれば、永禄年中(1558-1570)に建立されたと伝える。

        
         常寂光寺(曹洞宗)は玖珂郡に創建されたが、1901(明治34)年に引寺(ひきじ・寺を買い
          取るること)
された。

        
         中心部へ下る1本道の右手はツル渡来地。猛暑日であったが盆地を抜ける涼しい風に助
        けられての散歩であった。


岩国市周東町の祖生は珍しい火祭りが行われる地

2022年06月29日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         祖生(そお)は玖珂盆地の東南、島田川上流域に位置し、高照寺山西麓、氷室岳北麓の典型
        的な山麓地形と丘陵地に立地する。
         地名の由来について玖珂郡誌は、「当村、元来僧坊多キ故、地名トスル由、古老ノ伝也」
        (玖珂郡誌)とある。(歩行約1.7㎞) 

        
         公共交通機関(岩国生活バス)があるものの医療機関対応バスのため、週4日、1日3便
        であるため車に頼らざる得ない地域である。(JAに駐車)

        
         JA祖生支所は高森支所に統合されて建物だけが残されており、その南側に新宮神社へ
        の道がある。

        
         祖生小学は1874(明治7)年1月元庄屋の河田家を教場として、祖生村塾を開設し、同
        年8月祖生小学と改称する。1885(明治18)年校舎を元河田屋敷跡に新築移転する。周
        東町成立後、新たな構想に基づいて東西小学校に再編されることになり、1957(昭和3
           2)
年3月をもって廃校となる。
         手前には祖生公民館があったようだが、村民の労力奉仕と多数の資材提供によって、1
        949(昭和24)年に建設された。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の祖生村がそのまま単独で自治体を
        形成する。1955(昭和30)年昭和の大合併で、高森町、祖生村、米川村、川越村が合併
        して周東町が発足するが、この地に村役場があったとされる。 

        
         南に氷室岳が聳える。

        
         新宮神社は鎌倉期の1225(嘉禄元)年、周防権介大内弘成が厳島神社より三女神を勧請
        し、のち国常立尊以下3神を併祀して新宮大明神とする。

        
         由宇町の由宇川沿いに榊八幡宮の新宮さんが祀られていたが、ある日突然居なくなった
        ので探したところ、周東町祖生の新宮神社が気に入って「ここにおる」と言われたので、
        そのまま祖生の氏神様になられたという言い伝えがあるという。

        
         社務所前にある玉井翁頌徳碑は、玉井清祇の師徳を称え建立されたとされる。新宮神社
        は越智家が司職してきたが、毛利家の支配となった1560(永禄3)年、玉井武郎通友に代
        わり玉井家が代々社務を掌って今日に至る。

        
         参道を下ると周辺には大きな民家が目立つが、茶室が設けられた家がある。(現在は倉庫
        として利用されているとか)

        
         周防祖生の柱松行事は、1734(享保19)年に始められた夏の「火祭り」で、中村(8/
                15)、山田(8/19)、落合(8/23)の3地区で行われているが、疫病の蔓延に伴って農耕用の牛
                ・馬
が多く死んだのを機に、その慰霊と防災のために始まったと伝える。
         高さ20m前後の胴木を2~3本立て、胴木の先に、かんな屑などを入れた朝顔型の鉢
        を載せ、大縄を3方に張って、火のついた松明を投げ入れて競う。(国指定重要無形民俗文
        化財) 

        
         島田川に架かる中村橋から北進する。

        
         旧藤中医院付近だが閑散とした通り。

        
         この付近が祖生の中心地で、市出張所、郵便局、交番が通りに面する。

        
         商店や理髪店も健在。

        
         400m足らずの通りだった。


防府市奥畑も「山の幸」が起因する限界集落

2022年06月16日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         奥畑(おくはた)は佐波川中流域左岸の山間部に位置し、防府市域の最北端で奥畑川、麻生
        川、赤山川の谷あいに4つの集落(本畑・樋渡・麻生・赤山)がある。

         地下上申によると地名の由来は、山奥を開いた畑地により奥畑という。(歩行約1.9㎞)

        
         本畑へは県道三田尻港徳地線の山口市徳地町岸見より山手に入る。県道沿いに奥畑バス
        停があり、入口には宝善寺まで2.7㎞と案内されている。

        
         手前の民家付近が山口市と防府市との市境で、この集落が樋渡で3世帯5人の小集落で
        ある。

        
         離合もままならぬ狭隘な道が続く。

        
         3軒の屋根が見えるが、本畑も8世帯8人が暮らす集落である。

        
         川に沿いながら進むと小滝が見られる。

        
         前方が明るくなると本畑集落の中心部。入口にある「猿田彦大神」は、大正4年(1915)
        秋季に建立。

        
         本畑公会堂の前にある薬師堂は、石風呂があったところに祀られていたそうだ。

        
         前庭に養蜂箱が設置されている。

        

        
         村境や辻などの路傍に立って、赤頭巾をかぶり前だれをかける地蔵尊は、庶民にとって
        最も親しみやすい菩薩である。(宝善寺の上り口)

        
         小野小学校奥畑分校は1875(明治8)年本畑宮ノ内に奥畑小学を開設し、のちに宮ノ前
        に移転して小野小学校の分教場となったが、1966(昭和41)年廃校となる。(東屋があ
        る地が分校跡)

        
         限界集落には耕作放棄地が多いが、耕作放置されず田植えがされている。防府市内など
        集落以外に住まれる集落出身の方が出勤されて耕作されているとも考えられる。

        
         
ここ奥畑も山村で限界集落である。山村に限界集落が多いのは、昔は「山の幸(木材、薪、
        炭、キノコなど)」が里へ流れ、おカネが里から山へ流れ、山に暮らす人々の生活を可能に
        していた。海は「さかな」という資源で、この循環が機能しているといえる。

         ところがこの流れが止まると山の暮らしは立ち行かなくなり、人の流入もなく長い時間
        をかけて細ってきたのではと、頭を巡らしながら寺道を上がる。

        
        
         宝善寺(曹洞宗)は、享保年間(1716-1736)に真言宗常明庵として創建されたが、1753
        (宝暦3)年天徳寺2世が曹洞宗宝善寺に改めた。

        
         本堂から墓地に通じる右手に宝篋印塔。

        
         「文久3年(1863)癸亥9月吉日」と刻まれた鳥居。額束は「黄幡社」と刻字されている。

        
         氏神の黄幡社。

        
         上山満之進(1869-1938)は現在の防府市江泊に生まれるが、上山家の本家は奥畑の上山家
        で、江泊の家は分家ということになる。
         江戸中期、藩主毛利重就が牟礼村の江泊開作築造に際し、奥畑から呼び出されてその任
        に当たり、代々江泊の庄屋を務める。父与左衛門が1881(明治14)年に死亡、満之進は
        当時12歳で周陽学舎に入学した時であったが、家計苦しく奥畑の本家に一時身を寄せて
        いたという。
         このことが奥畑を第二の故郷として、東京から帰郷すると必ず奥畑に足を運び、菩提寺
        の宝善寺と氏神である黄幡社に詣でたという。1926(大正15)年台湾総督に就任するが、
        台中不敬事件の引責により約2年で辞する。(碑は参拝記念碑) 

        
         1875(明治8)年に奥畑小学が置かれた地のようだ。

        
         銅鉱採掘跡があるとのことで山間を詰めるが、それらしきものを見つけ出すことができ
        ず。


防府市真尾・和字の旧防石鉄道沿線地

2022年06月12日 | 山口県防府市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         真尾(まなお)は佐波川中流域左岸の矢筈ヶ岳北麓に位置し、旧道に沿って集落が集中する。
        地名の由来について地下(じげ)上申は、
南の山辺りの岩間から化生の者が尾を出すというの
        で見に行ったら、真に尾を出したことによるという。
         1889(明治22)年町村制施行により、佐波川左岸にある奥畑村、久兼村、和字村、真
        尾村と、右岸の鈴屋、奈美、中山の7ヶ村をもって小野村が発足する。(大景バス停から上
        和字バス停まで歩行約6.1㎞、🚻なし)

        
         JR防府駅(10:35)から防長バス和字経由堀行き約11分、大景バス停で下車する。

        
         県道と旧道が分岐する石原集落から旧道に入る。

        
         2009(平成21)年7月21日未曽有の大雨に見舞われた真尾地区は、老健施設で死者
        が発生するなどの災害が発生した。このエリアも矢筈ヶ岳からの土石流で甚大な被害を受
        け、現在は山裾に大きな砂防堰堤が構築されている。

        
         旧道に沿って清冽な水が流れる。

        
         1894(明治27)年に建立された小祠の中にお大師様と地蔵尊。

        
         大歳神社入口に「武嶋翁碑」が建立されているが、風化して読み取ることができない。
        武嶋タオは、1801(享和元)年真尾村に生まれ、右田毛利家に仕え、多年に亘って佑筆の
        職を勤めた。また、寺子屋式の教場を設け、専ら習字及び孝経(中国の経書のひとつ)、千
        字文を教授したという。

        
         参道左手にある猿田彦大神には建立年代の記載がない。

        
         大歳神社は農業の神、稲作、五穀豊穣の守護神であり、家内安全、家運繁栄の神でもあ
        る。
勧請年月日は不詳であるが、風土注進案によると、「真尾村の中ほどに大年社有、永
        保
元年(1081)佐々木徳寿丸が宇佐神宮の相殿に勧請とした」とある。明治の神社統合(整理)
        で同村の宇佐八幡宮に合祀されたが、1916(大正5)年に再建された。
         右手の人丸社は柿本人麻呂を祭神とし、1868(慶応4)年石見の人丸神社から勧請され
        たという。

        
         新旧が入り混じる家並み。 

        
         「山崎(亀之進)先生の碑」が建立されているが、1858(安政5)年真尾に生まれ、教員
        養成所を卒業後、大島郡、佐波郡、豊浦郡の各小学校を歴任した後、郷里の小野尋常小学
        校で訓導となり、真尾尋常小学校の初代校長になるなど、明治期における真尾の偉大な教
        育者であった。碑は、1931(昭和6)年教育を受けた人たちによって頌徳碑が設置された。
 

        
         石三軽便鉄道は三田尻(防府)を起点とし、佐波川沿いに徳地、津和野を経て益田に至る
        陰陽連絡線として計画され、設立総会が開催された。会社名を防石鉄道と改称し、当初は
        人口密度の高い佐波川右岸(旧石州街道沿い)を敷設する予定であったが、資金難もあって
        佐波川左岸に敷設変更された。
         1917(大正8)年7月に三田尻ー上和字間の運行が開始され、翌年には堀まで開通した。
         しかし、国鉄山口線の延伸などもあって当初計画を残念、1964(昭和39)年に廃止さ
        れる。現在の県道が鉄道跡だが、1927(昭和2)年の地形図では、この付近に真尾駅があ
        ったと記す。

        
         真尾川付近に人家が集中しているが、長閑な農村風景が広がる。

        
         1874(明治7)年善明寺の廃寺をもって真尾小学が開設され、後に真尾村砂に新築移転
        したが、奈美の松潤小学と合併して分校になる。以後も簡易小学校、分教場、尋常小学校、
        再び分校となったが、1966(昭和41)年廃校となる。

        
         真尾川に架かる中央橋。この一帯に民家が集中する。

        
         県道と旧道の間にある幸神塔は、浴の渡しから一ノ瀬谷川への往還道に建立された塔で、
        「庚申」でもなく「猿田彦大神」でもなく「幸神」となっている。
         隣には地蔵尊もあるが、双方とも橋近辺にあって、ここにまとめられたものと思われる。

        
         大歳神社の御旅所で、春祭は太鼓で田畠の地神に加護を訴え、秋祭は収穫豊穣の感謝祭
        が行われる。

        
         集落の境など路傍に立っている赤頭巾をかぶった地蔵尊。手に何かを握っていたと思わ
        れるが、今は欠落して寂しく見守り続けている。

        
         光明寺(真宗)の寺伝によると、桓武天皇(在位:781-806)の頃、空中より当地は仏法興隆
        の地であるので、早く伽藍を建立せよと声があり。奈良期の784年に寺院を創建し、8
        06年僧・最澄によって塔頭(たっちゅう)12院が整備され繁栄した。 
         しかし、次第に寺運が衰え、1581(天正9)年戦乱にまき込まれた群盗の一味により全
        山焼失する。
この折防火の中心となった八木図書之助が本願寺において剃髪し、宗理と改
        めて帰国後して天台宗から真宗に改宗して再興したという。

        
         光明寺から松尾集落への道に入ると地蔵尊。

        
         集落内を上って行くと家が点在する。

        
         いぼとり一丁地蔵尊・平成元年(1989)巳4月とあり。 

        
         観世音菩薩を念ずれば火・水・風・剣・鬼・獄・賊の7難を避けることができ、生・老
        ・病・死という人生の四苦からも逃れられ、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒を滅するとさ
        れる。(貪は欲しいものものなどに対する執着の心、瞋は怒ること・腹を立てること、痴と
        は愚痴)
         松尾山観音堂は、天保年間(1830-1844)光明寺が山麓から現在地に移されるに伴い、観音
        堂も移転したが宗派の関係で同地場所には問題があるとし、1887(明治20)年現在地に
        移された。

        
         真尾地区の家並み。

                
         和字(わじ)は佐波川中流域左岸(東岸)に位置し、山沿いの南北に細長い低地に集落が点          
        在
する。
         地名の由来は、往古、神田村といったが弘長年間(1261-1264)北条時頼の巡国通過の折、
        この地へ和文字を教えたので和字になったと伝えるが他説もある。

        
         松尾山観音堂前の道を北上すると県道に合わし、中央橋の先に三叉路がある。

        
         下和字集落を過ごすと民家は途切れてしまう。 

        
         民家のない場所にごみ集積場所が設置されているが、その手前右手奥に石風呂跡がある。
        1950(昭和25)年~51年頃まで使用されたという。

        
         天保4年(1833)巳3月と刻まれた猿田彦大神の碑。

        
         大歳社は長尾尻山麓にあったが、1908(明治41)年に岡の原山中に遷座された。本殿
        の内部を見ることはできないが、祭壇には祭神のほか2個の御神石が置かれているという。

        
         佐波川自転車道は、防府市新橋と山口市徳地野谷を結ぶ自転車歩行者専用道路として、
        1997(平成9)年認定された県道である。

        
         辻に立つ地蔵尊。 

        
         林学問場があった付近とされるが事実確認できず。

        
         村上賢祐は1862(文久2)年に生まれ、1907(明治40)年推されて小野村8代村長と
        なる。1914(大正3)年防石鉄道が設立されると、専務取締役となって佐波川沿線の産業
        発展のため万難を排し、家運を傾けてまで尽力した。開通を待たず病を得、1920(大正
          9)
年他界する。享年58歳。
         頌徳碑は1926(大正15)年建立され、現在は村上家裏の旧上和字駅が見える地にある。

        
         1951(昭和26)年7月の集中豪雨により、佐波川水域を中心に未曽有の被害を受ける。
        この碑は水位を示したもので、後世に伝えるものとして建立された。

        
         この地防石鉄道上和字駅があり、今でも駅ホームの石積みが残されている。旧駅舎前に
        上和字バス停があり、ここからJR防府駅に戻る。


益田市の石見横田は旧津和野益田往来沿いの町

2022年06月03日 | 島根県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         横田は高津川・匹見川合流点の右岸平野に位置する。地名は長い田が横に存ずるとか、
        出雲大社から勧請の横田大明神に由来するとかいう。(歩行約2.6㎞)

        
        
         JR石見横田駅は、1923(大正12)年山口線の津和野ー益田間の延伸により開通する。
        駅舎は開業当時からのものと思われる。(新山口9:16-石見横田11:36)

        
         駅前を南北に走る道が旧山陰道(津和野益田往来)。

        
         駅のある地は、1889(明治22)年の町村制施行により、神田村、向横田村、隅村、白
        岩村、薄原村が合併した「高城村(たかぎむら)」である。駅前より南に下って田万川方面へ
        の道分岐から歩きを開始する。

        
         駅前は静かな通りである。 

        
         国道9号に合わすとその先に匹見川。1952(昭和27)年益田市となる前は、この川が
        豊田村と高城村の村境であった。

        
         横田橋を渡ると右折して街道筋に入る。

        
         街道筋の家々は更新されて面影は残されていない。

        
         国道482号付近の商店は廃業されている。

        
         梅の花と川を泳ぐ鯉4匹、市章がデザインされた益田市の集落排水用マンホール蓋。

        
         厨子2階建てのS家。

        
         蔵などを有する大きな屋敷地を持つ民家。

        
         石見横田郵便局前にある「畜魂碑」について、建立された経緯は不明だが、畜産・酪農
        を営む農家や牧場が、動物たちに厚い感謝と深い愛惜の念を籠め、これら動物達の魂を慰
        霊するために建立されたものと推察する。

        
         石見横田は津和野・益田往来の要地で、宿駅として上市・中市・下市の発達がみられる。

        
         厨子2階建ての民家が数軒見られる。(H家)

        
         河川水運の要地であった横田の町は、江戸期には130軒もの家が集まり活気ある町だ
        ったという。

        
         後川に架かる橋を舟橋と呼ばれているが、大森代官所の代官が横田の町を通過する際、
        連日の雨で川が増水していた。その川に舟で橋をつくり、代官を渡したという。

        
         後川沿いより100mほどの坂を上がると長寅寺山門。

        
         長寅寺(ちょうえんじ)は臨済宗東福寺派で、豊田郷地頭職の石川庄内の旗頭・工藤三郎致
        忠が松洞庵を創建。その後、室町期の1530年に益田の医光寺第6世が、仏殿を再興し
        て現寺号に改めた。それより医光寺を中本寺としたが、1879(明治12)年東福寺直末と
        なった。

        
         長寅寺から墓地内を抜けると横田の町並みが広がる。

        
         墓地内から参道に出ると右手に六地蔵、左手は「よこたほいくえん」だった建物で、正
        面には鐘楼を兼ねた楼門。

        
         守源寺(曹洞宗)の由緒によると、永明寺の住職が柿木村阿弥陀堂及び附属の田畑山林一
        円を隠居地として亀井滋親より下賜され、 津和野に守源寺という古寺号があったのを取り
        用いていたが、
2世の代に横田村に再建したという。

        
         本堂正面には「鏝絵」であろうか、白い龍の飾りが取り付けてある。

        
         坂を下って後川で右折して国道に出るとJA前にバス停。

        
         列車は16時28分までないため、匹見口バス停(13:11)より石見交通を利用して津和野
        へ向かう。


津和野町の和田・直地は青野山の麓にある集落

2022年06月03日 | 島根県

        
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         和田は深瀬山南麓の山地に位置し、津和野川が大きく南に屈曲している河岸段丘に集落
        がある。1875(明治8)年麓耕村と合併して耕田村になる。
         直地(ただち)は、津和野川流域の青野山の北麓に位置し、東に地倉山、西に矢立山が聳え
                る。(歩行約4.3㎞、🚻なし)

        
         石見横田のバス停から津和野行きバスに乗車するが、山口線の新山口駅行きに時間があ
        ったので、青野山駅に近く青野山が見える直地バス停で下車する。

        
         バス停から眺める直地地区は、歩く距離が短そうなので隣地区の和田地区を訪れるが、
        唯一の道である国道9号だが歩車分離のない「酷」道であった。ハシモト自動車工業の先
        で左手に入ると、こ
の道が津和野奥筋往還道。

        
         津和野川沿いの道を進むと、正面に東津和野大橋が見えてくるが、右岸側は岩盤までが
        深いため、支間90mの曲弦トラスが一部に採用され、高さ32mのコンクリート橋脚が
        支える構図は機能美を感じさせる。

        
         東津和野大橋の下にもう1本の架橋。 

        
         和田集落の真上を大橋が跨ぐ。

        
         橋下を過ごして西進すると行き止まりだった。橋の架かる津和野バイパスは青野山の安
        山岩質の流動堆積土と途中に進入路がなかったため、工事は困難を極め、1959(昭和3
          4)
年に着手して7年の歳月をかけて完成する。(東津和野大橋の全長は180m)

        
         藩校養老館の掘割に泳ぐ鯉とハナショウブ、町の花ツワブキがデザインされたマンホー
        ル蓋。

        
         引き返して耕田バス停への道に入ると、石州瓦が際立つ中に紅一点のトタン屋根家屋。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、直地、耕田、滝元、寺田、商人(あきんど)、笹山
        の6ヶ村をもって小川村が発足する。昭和の大合併で津和野町と合併して村名が消滅する。

        
         この集落は住家と蔵がセットである。

        
         和田集落から再び国道筋を歩いて直地バス停に戻るが、直地という地名は、古代岩石信
        仰の対象とされた地倉権現に関連するという。

        
         銘茶「秀翠園」の舞台から見る青野山は、お椀を伏せたような形状で青野山火山群の1
        つである。その麓の麓耕(ろくごう)集落内の棚田畦畔には、4月下旬から5月上旬に1万本
        株のツツジが開花する。秀翠園さんでは茶摘み体験をしながら、ツツジとその上を泳ぐ鯉
        のぼりが堪能できるとのこと。

        
         浄土真宗の了徳寺。

        
         割木が積まれた光景を見かけることが少なくなった。

        
        
         蔵に鏝絵。

        
        
         国道から駅に向かう道の左右に小さな集落を形成する。

        
         JR青野山駅は、1961(昭和36)年津和野ー日原間に新設された駅で、単式1面1線
        に待合室がある。 

        
         麓耕集落から谷筋を眺めて新山口駅行き(16:51)に乗車する。


津和野町日原は江戸期には天領だった町

2022年06月02日 | 島根県

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         日原(にちはら)は津和野川と吉賀川の合流点に位置する。地名の由来は、小高い丘で日が        
        よく当たることによるとも、総鎮守の大元社が銅山近くの日地ヶ原にあるが、その転訛に
        よるものともいう。(歩行約6.9㎞) 

        
         JR日原駅は、1923(大正12)年山口線の津和野-益田間延伸により開業。相対式の2
        面2線を有し、駅舎には枕瀬簡
易郵便局が入居し、日原公民館枕瀬分館とは渡り廊下で繋
        がっている。

        
         駅から津和野方面に「つわのや旅館」さん。

        
                駅まで戻って益田方面へ向かう。

        
         津和野川に架かる枕瀬橋を渡る。

        
         高津川を泳ぐ「なまず」と「魚・カニ」がデザインされた旧日原町のマンホール蓋。

        
         枕瀬橋を渡って国道187号線への道。

        
         右手にある杵築神社は、出雲の出雲大社(旧杵築大社)と関係するものと思われるが、詳
        細を知り得ず。


        
         津和野町役場を過ごすと、「神崎直三郎顕彰碑」に功績が記されているが読み取れず。
        この一帯に製糸工場があった石西社(せきせいしゃ)の創業者と思われる。

        
         日原歴史民俗資料館前に「天領だった日原。江戸時代の歴史ポイントを探して、まちを
        歩いてみませんか」と案内されている。

        
         津和野川(手前)と吉賀川が合流する地点。(桧橋より) 

        
         桧橋よりJA西いわみへ通じる道。(歩いた後に見返る)

        
         川で町並みは3ヶ所に分断されている。(旭橋より)

        
         割烹・美加登屋さんは、1953(昭和28)年築の昭和風情を残す旅館だった建物をその
        まま活用されている。スッポン・鮎料理を味わうことができるそうだ。

        
        
         銀行もあって日原のメインストリートだが、駅からは少し離れている。江戸期には日原
        銅山を中心とした幕府直轄領(天領)で、高津川の舟運、津和野奥往還などの交通の要衝で
        あった。

        
        
         津和野奥筋往還は津和野藩領の飛地である美濃・那賀・邑智3郡を支配するための重要
        な街道であった。
         また、石見銀山大森代官所の役人が、日原・畑迫にあった幕府直轄領を往来する道でも
        あった。

        
         「にちはら・下水道」の文字で上下2分され、下半分は町の花だった向日葵と町章、上
        半分は日原天文台と星空がデザインされた旧日原町のマンホール蓋。

        
         往還道から本光寺への道。

        
         浄土真宗の本光寺。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、日原村、枕瀬村、河村、池村,左鐙村、滝本村
        の一部が合併して日原村となる。その後、町制に移行して昭和の大合併で青原村と合併。
        平成の大合併で津和野町と合併して日原町が廃止されたが、町役場の本庁舎は旧日原町に
        設置されている。

        
        
         春日神社は奈良の春日大社が総本社で、当神社の創建は不明とされる。天文年間(1532-
        1555)に鉱山師の三好家が社殿を再建したといわれている。現在の社殿は、1772(安永元)
        年に遷宮されたもので、春日宮を変形した一間社である。

        
         境内から見る日原の町並み。

        
        
         日原鉱山を経営していた水津家(大和屋)の主屋と蔵。現在は賑わい創出拠点「かわべ」
        として活用されている。

        
         火の谷川のほとり、難身切(なみきり)不動尊から下る三叉路に高札場があった。この付近
        が天領日原で一番賑わった場所であった。

        
         反時計回りに散策する。

        
        
         日原中学寮とあるが、町内に4ヶ所あった中学を順次統合して、1965(昭和40)年に
        日原中学校となる。(付近に日原鉱山跡があったようだが見落とす)

        
        
         この筋には天領の商家として、かっては川から舟を乗り入れて商いを行なっていたとさ
        れる。(渡部商店)

        

        
         説明板によると、日原銅山に携わる人を山方(やまかた)といい、山方を取りまとめるのが
        「山年寄」で、朱色山の鉱床を発見したという藤井氏は後藤氏とともに就任し、藤井家が
        代々受け継いできたという。
         藤井家は屋号を「麴屋」といい、主屋は1825(文政8)年に建てられたものとされる。

        
        
         高津川堤防道から眺めると、広大な屋敷地に蔵などが建ち並び、川から直接船を着け荷
        物の積み下ろしができるようになっている。

        
         浄土真宗の丸立寺(がんりゅうじ)には井戸平左衛門の芋塚がある。

               
        
         この高津川は、吉賀町を発する全長81㎞の一級河川であるが、本流にダムがないこと、
        清流日本一の川としても有名である。その川面を眺めながらJR日原駅に戻る。