ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市の長生炭鉱遺構と常盤池周辺

2020年07月30日 | 山口県宇部市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を加工・複製加工したものである。
         宇部丘陵の南部、瀬戸内海に面する地で、地内北部に1698(元禄11)年に築造された
        常盤池がある。(歩行約7.5㎞、駅から常盤池まで🚻
なし) 

           
         JR常盤駅は、1925(大正14)年6月宇部鉄道の停留場として開業したが、1943
        (昭和18)年国有化されると駅に格上げされた。海岸に近くホームから海が見え、山口宇部
        空港の飛行機離発着を垣間見ることができる。

           
         黒崎の岬に炭鉱坑道跡があるとのことで、駅から常盤(鍋島)海岸に出て岬へ向かう。

           
         坑道跡を見つけ出すことができず、山口宇部空港方面(左端)を眺めて床波海岸へ移動す
        る。 

           
         国道の案内板(床波漁港)に従うと海が見え、海中に炭鉱の遺構が見えてくる。

           
           
         海中に突き出た2つの杭は、長生炭鉱のピーヤといわれるもので、海底炭鉱の入気口と
        排気口の役目を担っていた。1942(昭和17)年2月、坑口より1,010mで浸水事故
        が起こり、183名が犠牲となり、今なお海底に眠っている。その多くが朝鮮半島出身者
        であったことを忘れてはならない。

           
         黒崎の東海岸には炭層露頭が見られる。以前は潜頭だったようだが台風などで浸食され
        て姿を現したとのこと。

           
         東海岸から引返して、国道手前の路地を右折する。

           
         民家を過ごすとJR宇部線に合わす。

           
                 「永遠に眠れ 安らかに眠れ 炭鉱の男達」
         長生炭鉱の食堂があった地に「殉難者之碑」が建てられている。この事故は太平洋戦争
        が始まってから2ヶ月後のことで、戦時下で報道も控えめで世間の目に触れることはなか
        った。この碑は、当時の関係者などによって事故から40年後に建てられた。

           
         この付近に、1938(昭和13)年宇部鉄道が長生炭鉱停留所を新設するが、炭鉱が海水
        流入事故により事実上閉山に追い込まれたため
廃止された。

           
         線路に沿うと新生浦踏切があり、その先の国道を引き返す。

           
         トヨタカローラ店手前を右折して道なりに進むと、左手に野黒目から大沢県営住宅へ上
        がる坂道がある。昔には岐波から新川へ至る公道であり、この坂で馬が苦労したので馬を
        大切にしたことから「馬守り坂」と呼ばれた。

           
           
         馬守り坂から常盤小学校通学路に入ると、左手に長生炭鉱の火薬庫跡が残されている。
        案内はなく途中にはU字溝があって飛び越えなくてはならない。

           
         通学路は山口宇部道路が横切り暗い函渠道となっている。(学校前を右折)

           
         上り坂を終えると三差路を左折する。

           
         この付近はマムシが多いことから、毒蛇の厄払いとして中江頭八王子社が祀られている。

           
         西進して常盤池を目指す。

           
         モモイロペリカン「カッタくん」と子供、周囲にサルビアの花がデザインされたマンホ
        ール蓋。

           
         団地内を抜けると常盤周遊路に合わす。

           
         湖畔を巡る5.7㎞の周遊路は、ウオーキング等を楽しみことができる。

           
         常盤池は1698(元禄11)年毛利家の給領主だった福原氏が、コメの収穫を得るために
        灌漑用溜池を造らせた。この辺りは常盤原といわれる野山で、30軒程度の家があったと
        いう。
         この池には流れ込む川がなく水不足を解消するため、1938(昭和13)年厚東川から水
        を引く工事が行われた。

           
         常盤橋と左手に石炭記念館。

           
         宇部炭田発祥の地とされる常盤湖畔に石炭記念館がある。記念館のシンボルである櫓は、
        かって宇部興産東見初(みぞめ)炭鉱に使用されていた竪坑櫓である。

           
         記念館の野外にある坑内石炭運搬車は、ディーゼル機関車で2屯鉄製炭車20函をつな
        いで運搬されていた。

           
         その他、竪坑櫓の上部に据え付けられていた矢弦車、人車、蒸気機械の原動力として使
        われたランカシャ―ボイラー、巻き上げ機などが展示してある。

           
         館内には海底炭鉱の様子を伝える坑道が再現されている。(館内無料)

           
         鉱員たちが住んでいた炭鉱住宅(炭住)も再現されている。1棟が5軒ほどに区切られた
        長屋で、1軒の広さは時代によって異なるが、6畳と4畳半の部屋と簡素な調理場あり、
        トイレ、風呂は共同であった。この1棟に3~4人家族が生活していた。

           
         記念館は宇部から炭鉱が姿を消してから2年後の1969(昭和44)年、炭鉱で栄えた宇
        部の歩みを長く後世に伝えるため、日本初の石炭記念館として誕生した。櫓は展望台とな
        っているがコロナの影響によるものか利用不可であった。

           
         国道に出て宇部市街地へ向かうと、1917(大正6)年常盤池の補助溜池として、女夫岩
        (めおといわ)の地に築堤されたもので、常に満水状態を保ち続けている。

           
         ときわ公園入口前で国道を横断して小郡方面に戻ると、国道190号線の中央分離帯に
        周防長門国境の碑がある。昔は国が違うため、大沢(周防)と亀浦(長門)との間でいさかい
        が多くあったとされる。

           
         さらに進むと、山口宇部道路交差点でJR常盤駅への細い道がある。


柳井市大畠は大畠瀬戸と大島大橋

2020年07月18日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院発行の2万5千分1地形図を加工・複製したものである。
         大畠は東から南に難所とされる大畠瀬戸、対岸に周防大島、背後には山が迫り平地の少
        ない海
岸線にJR山陽本線と国道188号線が走る。
         1889(明治22)年に大畠村と遠崎(とおざき)村が合併して鳴門村となったが、1955
        (昭和30)年神代村の一部と合併して大畠村(後に町)に改称する。現在は平成の大合併で柳
        井市と合併して柳井市の一部となる。(歩行約4.9㎞)
 

        
         1897(明治30)年広島駅~徳山駅間の開通と同時に大畠駅が設置されたが、設置する
        土地がないため
海を埋め立てて造られたという。駅の海側から国鉄大島連絡船が運航され
        ていたが、桟橋と駅舎は直結しておらず踏切を利用する必要があった。1976(昭和51)
        年大畠瀬戸に大島大橋が架橋され、歩いて桟橋に行く必要がなくなる。

        
        
         駅前から国道を柳井方面へ向かうと瀬戸山道(せとやまどう)に合わし、瀬戸町踏切で海側
        に出る。(踏切の左が駅構内)

        
         道は二手に分かれるが右の道が瀬戸山道。

        
         大畠瀬戸に出ると大島大橋の全景が見えるが、2018(平成30)年10月22日、ドイ
        ツの海運会社が所有する貨物船が橋梁に衝突し、水道管と光ファイバーケーブルなどを切
        断する事故が発生した。今は何事もなかったかのように船が行き交う。

        
         港前の神社は表示ないので神社名は不明であるが、海に関係する神社のようだ。

        
         瀬戸山道は国道が横断する。

        
         石神(しかみ)の地に鎮座する般若姫ゆかりの鳴門神社。秋に開催される俄(にわか)祭りは、
        鳴門神社の男神輿、海原神社の女神輿が町内を練り歩き、潮満ちる頃に浜から海へ入り、
        海中渡御が行われる。

        
         石神地区には新旧の建物が混在する。

        
        
         石神橋を渡ると瀬戸山道は小瀬上関往還道に合わす。瀬戸山道は海岸沿いで断崖絶壁で
        あったため、主要な街道とはならなかった。

        
         石神橋の橋詰に鎮座する災難除け地蔵と、傍の灯籠は石神川河口の沖見灯籠で、185
        0(嘉永3)年に建立されたものである。

        
         大畠瀬戸と大畠のみかんがデザインされたマンホール蓋。

        
         かっては醸造業が盛んだった住吉町。岩政家は江戸時代創業の造り酒屋で、明治中頃ま
        で営業をされていた。

        
        
         隣の笹川酒造場は江戸時代に創業された中屋酒造場を、1912(明治45)年に笹川伊兵
        衛が譲り受けたもので、「養老」の銘柄で酒造りをされていたが廃業された。

        
         笹川酒造の真向いにある森本酒造場は、1870(明治3)年4月創業で味醂・焼酎などを
        製造され、1996(平成8)年頃まで営業されていたとのこと。

        
         1873(明治6)年岩国藩の米蔵を借りて開校した大畠小学校は、1879(明治12)年に
        校舎を新築したが、1907(明治40)年手狭のため本町へ移転した。学校であったことを
        示す門柱が残されている。

        
         かって芝居小屋・映画館があった大畠座跡。スーパーマーケットにも活用されたようだ
        が、役目を終えて建物は解体されている。

        
         海の神様とされる住吉神社。

        
        
         1899(明治32)年まで住吉神社の裏手には、周防大島への航路発着地があった。18
        97(明治30)年に山陽鉄道が開通し、大畠駅が設けられると駅近くへ移転する。(対岸の山
        は飯の山)

        
         1917(大正6)年創業の脇酒造は、1989(平成元)年に廃業されたとのこと。(右手に
        遍照院の参道入口を示す石柱)

        
         対岸の大島(屋代島)への渡り口として早くから開けていて、瀬戸内航路の要地でもあっ
        た。

        
        
         大畠を代表する萬屋材木店は、1704(宝永元)年創業という。

        
         萬屋材木店の山手側空地には鳴門村役場が置かれ,明治期と昭和初期に新庁舎が建設され
        て、大畠村役場、町役場、公民館として使用されてきた。

        
         松本家倉庫は大正期頃に醤油蔵として建てられたとされる。戦時中に大豆が手に入らず
        に醸造を止めたといわれ、煙出しがその面影を残している。

        
         大島大橋と大畠瀬戸の海で跳ねる鯛がデザインされたマンホール蓋。

        
         海原神社の勧請年月は未詳だが、往古より鳴門海原大明神が祀られ、俄(にわか)祭りでは
        ここから女神輿がここから繰り出す。

        
         1597(慶長2)年頃の創建と伝えられる長泉寺(真宗)が右手にある。

        
         趣の違う板塀の建物。

        
         1934(昭和9)年山陽本線が複線化された時の浦架道橋と手前に行者堂。

        
         1765(明和2)年12月15日大火に見舞われたため翌年に火伏地蔵尊を建立し、17
        80(安永9)年8月24日再び大火となり常夜灯を建立する。その後は災難除けとして信仰
        を続け、今日まで大きな大火がなかったという。(説明版より) 

        
         明治の初めに火災に遭って創建年が明らかでない戒善寺。大永年間(1521-1528)には存立
        したと伝えられる。

        
         街道はここで国道188号線と合流する。

        
         国道と海岸線の間に鯛の形をした公衆用トイレ。

        
         1907(明治40)年から1964(昭和39)年まで鳴門小学校があった地。現在、市営住
        宅がある所が運動場、駐車地に校舎があった。

        
         国道合流点を右折すると山手の三差路までは上り坂。

        
         正面に笠佐島。

        
         大島大橋や大畠瀬戸が一望できるようになる。

        
         大畠の町は平地が少ないので山の傾斜地に住宅が並ぶ。

        
         大久保地区の石神川から取水して上原地区まで通る長溝は、比丘尼が測量したことから
        「比丘尼堰(ばくにせき)」と呼ばれている。

        
         地形に沿って付けられた道は、多少のアップダウンがある。(やない美ゆーロードに合わ
        す)

        
         県道151号(伊陸大畠港線)に合わすが、右手に下る道を辿ればJR大畠駅に戻ること
        ができる。

        
         県道からは上り坂で大師堂地点が最高地点で標高約65m。

        
         山沿いの道は進むごとに風景が変わる味わいのある散策路でもある。

        
         下ってくると国道に合わし、右折するとJR大畠駅である。


光市室積の海商通りと象鼻ヶ岬

2020年07月05日 | 山口県光市

           
                  この地図は、国土地理院発行の2万5千分1地形図を複製・加工したしたものである。
         室積は光市の南東部に位置し、北西から南東へ細長く延び、北に千坊山地があり、南西
        側は海に面し、その一角を島田川の上流より運んだ土砂が、沿岸海域や風によって陸繫島
        を形成した室積半島がある。(歩行約5.8㎞)

           
         JR光駅からJRバス室積公園行き20分、室積バス停で下車する。

           
         早長(はやおさ)八幡宮は室積宮町に鎮座し、普賢寺と同様に御手洗湾に向って社地を構え
        る。

           
         早長八幡宮の鳥居を潜ると、右側に雌雄の岩が祀ってある。「早長の瀬の二つの雌雄の
        岩が、動かぬ如く千代に栄えのあるように」という伝説によるようだ。

           
         室町期の1444(文安元)年に宇佐神宮から勧請され、神霊が「早長の瀬」の地に着いた
        ところから名付けられ、室積の氏神として崇敬されている。
         建物は江戸期のものが拝殿のみで、建築様式から18世紀末の建立とされる。

          
         宮前付近には牛島(うしま)への室積港があり、古民家を利用したお洒落な食事処や、昔懐
        かしい餅菓子などを提供する店がある。

          
          
         中野昌晃堂は銘菓“鼓乃海”を製造販売されていたが、2016(平成28)年12月末に
        閉店された。
         萩藩主・毛利元昭が来遊の際に、差し出した茶菓が無名だったので名付け親になったと
        か。(下は2009年に撮影) 

         
        
 江戸期の市場町・門前町・港町など人の出入りが激しい要衝の地に、幕府または藩のお
        触書・掟書などが掲示される高札場があった。高札の大きさは統一されたもので、約56
        ㎝の板に墨書で記されていたとのこと。  

          
         三谷薬品の地が松岡洋右の生誕地とされ、1880(明治13)年に松岡三十郎の四男とし
        て生まれる。生家は今津屋と号した船問屋であったが、洋右が11歳の時の倒産してしま
        う。
         満州国に強い影響力を有した軍・財・官の東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松
        岡洋右(満鉄総裁)は、彼らの名前の末尾から「弐キ三スケ」と称された。松岡は東京裁判
        において公判中に病死するが、「参スケ」は山口県周防部の生まれ育ち、3人の間には姻
        戚関係があった。
            

          
         早長八幡宮の東、江の川から付属小中学校前までの通りは「海商通り」と呼ばれ、江戸
        中期から明治初期にかけて廻船問屋や魚加工問屋、料理屋などが並び、港町らしい活気が
        あった。
         しかし、明治後期に鉄道敷設や海運の近代化に伴い、その賑わいも過去のものとなる。

           
         人家密集地特有の人一人がすれ違うのがやっとの小路がある。室積では「あいご」と呼
        ばれ、昔はこのような小路が網の目に張り巡らされていた。
         語源はわからないそうだが、秋田地方で家と家の間として使われる「間(あいこ)」がな
        まったものと考えられる。「間」だとすると、北前船が運んできた言葉として興味深いも
        のがある。

           
         性空上人が普賢菩薩と対面したという場所には松が植えられ、亀践(きふ)塔記念碑がある。
         碑文には、1733(享保18)年に対面の松が野火よって焼失したため役人が植え継ぎ、
        1834(天保5)年近隣の村人が碑を建立したことが刻まれている。隣は恵比寿社だが詳細
        は不明である。

           
         1885(明治18)年に室積浦と室積村が分村していた時代に、盥海(みたらい)小学校とし
          て開校
したが、1899(明治32)年に廃校となる。

           
         江戸期の萩藩は小周防村に熊毛宰判の勘場を置いたが、1763(宝暦13)年藩政改革の
        一環として室積港を商業港として整備する。これを支援するため中熊毛宰判の勘場をこの
        地に置き、室積・光井・岩田などの9ヶ村を所管した。
         しかし、陸路では不便な地にあったため、僅か11年で廃止された。

           
         その向かい側は室積警察署跡だが、1879(明治12)年2月岩国警察署室積分署として
        発足するが、1886(明治19)年8月に岩国署から独立して警察署に昇格する。1943
        (昭和18)年光警察署に改称されて室積での役目を終える。 

           
         この付近と宮前に食事処があるので好みに応じて利用できる。(海商館もお食事処) 

           
         専光寺は浄土宗の寺で、大内時代には外国使節等を迎える館として利用される。藩政時
        代も渉外館として利用されたり、諸事件の処理裁判も行われた。
         幕末には、この寺を本拠として南奇兵隊(第二奇兵隊)が結成されたが、手狭となったた
        め普賢寺へ移転、さらに石城山へと転陣する。

           
         亀甲模様に光市の市章がデザインされたマンホール蓋。

           
         磯部家の建物は明治初期に建てられた町家造りの商家で、俗に「うなぎの寝床」といわ
        れ、間口が狭く奥行きが長い造りとなっている。現在はふるさと郷土館として利用されて
        いる。 

           
         磯部家は安永年間(1772-1781)頃に本家の礒部家(向かい側の家)から「礒」を「磯」に変
        えて分家する。弘化年間(1844-1848)に3代目民五郎が「磯民」の名で醤油製造業を始め、
        後に「磯屋」となる。1955(昭和30)年代まで製造販売されていたようである。

           
         煉瓦造の煙突と奥に醤油蔵。

           
         礒部家は磯部家の本家に当たり、廻船業を営み江戸・大坂・琉球などとの交易により財
        をなした旧家である。建物は昔の姿をとどめ、主屋、釜屋、離れ座敷が国の登録有形文化
        財に指定されている。ふるさと郷土館の別館として公開されていたが、2017(平成29)
        年9月閉館する。

           
         建物は室積湾を背にして表通りに面し、木造2階建ての本瓦葺寄棟屋根、軒裏と外壁は
        白漆喰で塗込められている。正面と両側面に下屋を付け、2階中央と玄関両側の格子窓に
        より端正な構えの造りである。

           
         明治後期に離れ屋敷(茶室)が主屋北側に増築され、座敷から渡り廊下でつながっている。
        瓦葺入母屋屋根の三方に庇を回した構成をとり、4畳半の茶室を中心に主屋との間に程良
        い中庭的空間を設けている。

           
         1702(元禄15)年浦年寄の松村屋亀松が、自費を持って象鼻ヶ岬に燈籠堂を建て、1
        875(明治8)年までの173年に渡って御手洗湾を照らした。1991(平成3)年に復元さ
        れて公園の一画に建てられた。 

           
         古くは神功皇后が三韓遠征の際に寄港され、手を洗われたという伝説から「御手洗湾」
        の名が生まれたとか。中世以降、明治中期まで周防灘の風待ち港として栄え、藩政時代に
        は北前船が寄港するなど賑わった。

           
         1831(天保2)年に建設された普賢波止(はと)は、諸国の回船や客船の利用に供される。

           
         普賢堂に金剛力士像が安置されていたが、拝殿が手狭になったため、1798(寛政10)
        年楼門(仁王門)が建立される。左右に仁王像、楼上には16羅漢像が安置されている。

           
         普賢市の雑踏のなかで迷い子が出るのは今も昔も変わらない。参道入口左に迷い子張り
        出し石が建っているが、1856(安政3)年5月建立で「迷い子つれはぐれ、すたりもの、
        ひろいもの張り出し石」と刻まれている。

           
         平安期の1177(安元3)年6月に平康頼は平家打倒の密儀に参加するが、密告により策
        謀が
漏れて捕縛される。康頼は薩摩国の鬼界ヶ島へ流されることになり、配流途中の室積
        で仏道に入る。もっと早く出家しなかったことを悔やんだ和歌「終(つい)にかく 背(そむ)
        きはてけむ世の中を とく捨(すて)ざりしことぞかなしき」が碑に刻まれている。(192
        4(大正13)年に再建される)

           
         1788(天明8)年建立の普賢堂は周囲を堀で囲まれた中にあり、堂には海の守護神であ
        る普賢菩薩が安置され、普賢寺の奥の院的存在である。

           
         平安期の1006(寛弘3)年播州の性空上人によって普賢寺が創建されたと伝わる。当初
        は峨嵋山の峰に堂を築いたが、室町期に現在地へ移された。1854(嘉永7)年建立の本堂
        と17世紀初期建立の山門が建ち、境内奥には雪舟作と伝えられる庭園がある。3つの自
        然石を配して枯滝とし、前面を池に見立てた約20mの枯山水の庭となっている。

           
         1733(享保18)年に「享保の大火」があり、惨禍を再び起こさないため山城屋という
        廻船問屋が、火災予防と飲料水を兼ねて、宮の脇から江の浦にいたる道路脇に10ヶ所の
        井戸を掘った。これらの井戸は口伝えで「イロハ井戸」と呼ばれたが語源は不明とのこと。
         その後、道路整備などで失われ、この井戸だけが現存する。

          
         萩藩は現付属光小中学校一帯に財政改革の一環として、1763(宝暦13)年撫育方を新
        設して、1769(明和6)年に撫育方室積会所を設ける。主に藩の年貢米をここに集めて売
        さばく業務を行なった。

          
         室積会所跡は明治期になると熊毛郡役所が置かれた。1903(明治36)年役所が移転し
        た以降は、山口県立工業学校、師範学校、女子師範学校、山口大学教育学部と次々に学校
        が置かれ、現在は山口大学付属小中学校となっている。

          
         蛾嵋山東外れの高台に、1870(明治3)年元遊撃隊士らによって招魂社(現護国神社)が
        創建された。1864(元治元)年禁門の変で戦死した遊撃隊総督来島又兵衛以下48柱と、
        1866(慶応2)年の四境の役、1868(明治元)年の鳥羽伏見の戦いにおける戦死者ほか
        合計79柱が祀られている。 

          
         室積半島を象の頭部とし、そこから海に突き出た砂嘴を象の鼻に見立てて「象鼻ヶ岬」
        と名付けられた。

          
         明和年間(1764-1772)象の「眼」に当たる位置から湧き出たので象眼水井戸と呼ばれて
        いる。

          
         1864(元治元)年4ケ国艦隊が下関報復攻撃のため、横浜港を出航したとの報が伝わり、
        藩はこれを防衛するため各地の沿岸要衝地に台場を築かせた。
         長州藩は内外ともに多事多難で、青壮年はこれに駆り出されたため、婦女子を中心に室
        積台場(石塁)を3つ築造して主砲2門の大砲を設置したとされる。(1944年の台風で1
        基が崩壊)

           
         1949(昭和24)年3月に初点灯された室積港灯台は、1994(平成6)年3月改築され
        た。

           
         象鼻ヶ岬の先端には、弘法大師が唐より帰朝の際に立ち寄り、七日七夜の護摩供養を行
        い、自像を刻んで厨子を彫って安置したと伝わる霊場である。入母屋造りの小堂は大師堂
        (海蔵寺跡)と呼ばれている。

            
         大師堂境内に遊女の歌碑があり、変体かなで「周防なる御手洗の 浜辺に風の音つれて
        ささら波立・・」と刻まれている。この詩は普賢寺に関係するものだが、何のために建立
        されたかはわかっていない。

           
         1790(寛政2)年、大師堂までの道しるべとして四国霊場八十八ケ所を勧請したとの
        こと。(1番札所)

           
         室積公園入口バス停(普賢寺北側の通り)よりJR光駅に戻る。                               


光市の牛島は島の宝百景とモクゲンジが咲く島

2020年07月02日 | 山口県光市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         牛島(うしま)は室積港から南東約8.4㎞の瀬戸内海に浮かぶ島である。島名の由来は平
        安時代に牛を放牧していたことから、「牛島」と呼ばれるようになったといわれる。(歩
        行約2.5㎞)

        
        
         JR光駅から防長バス柳井駅行き約20分、室積バス停下車する。バス進行方向にある
        横断歩道を渡ると、早長八幡宮の先に室積港がある。(徒歩5分、駐車場もある)

        
         10時発に乗船すると瀬戸内の多島美が楽しめる。

        
         約20分で牛島港へ到着する。(往復1,000円) 

        
         定期船で運ばれる荷物を運搬する車が待機中。

        
         港の北西側は盛郷地区で、端にある牛島八幡宮から散歩する。

        
         島の住民は漁業を中心とし、幕府から遠洋漁業の許可書を得て、どこの港にも自由に入
        れるほどになる。明治期になると大型船となったため係留できる波止が必要となる。牛島
        独持の個人持ち波止、船主を中心とする組の共有波止が築造される。
         ところが、1965(昭和40~50)年代にほとんどの波止が埋め立てられ、現存する左手
        の西崎波止(1887年)、藤田波止(1892-1893年)が当時の姿のまま利用され、国交省の
        「島の宝100景」に選ばれている。

        
         牛島八幡宮は、室町期の文明年間(1469-1486)大島郡小松の志駄岸八幡宮から勧請し、1
        549(天文18)年に社を建立して牛島の鎮守とした。

        
         1753(宝暦3)年に勧請された恵比須社は、毎年4月には牛島の伝統行事として、海上
        の安全と豊漁を祈願して牛島恵比須祭が行われている。御座船に神輿を乗せて海上パレー
        ドも行われていたようだが、現在は高齢化と過疎化で神事のみだそうだ。

        
         島特有の狭い道が家々をつないでいる。

        
         この島では珍しい長屋門形式の入口を構える。

        
         モクゲンジの自生地として知られる牛島。1935(昭和10)年に日本で初めて発見され、
        初夏の7月には枝先に長さ15~40㎝の円錐花序を直立し、黄金色の小さな花を多数つ
        ける。地元の方から民家前に咲くモクゲンジを教えていただく。(県天然記念物)

        
         港方向に戻る。

        
         地形に沿うように住宅が建ち、細い階段状の道で結ばれている。

        
         比較的大きな住宅だが無住のようだ。

        
         港から東郷への道には、1914(大正3)年道路を改修した旨の記念碑が建っている。

        
         一歩奥に入ると井戸があり、碑には「共同井戸主、昭和7(1932)年3月」と15名の名
        前が刻まれている。島には共同井戸と個人持ち井戸があったようで、路地を歩けば点々と
        井戸がある。

        
         教念寺(真宗)は、大内義隆の臣であった志熊宗俊が大内氏滅亡後、熊毛郡麻郷村に隠遁
        した。その長男・善之進は、激動する世情に無常を感じて出家し、麻郷の地に一庵を結ぶ。 
         明治期の廃仏毀釈の際、牛島住民の懇請を容れて、島の小庵・妙華庵を本寺としていた
        が、のちに現在の寺院を建立したとされる。

        
         寺から見る集落には多くの建物が存在するが、24世帯34人が生活されているとのこ
        と。(人数等は島の方より)

        
         繁栄の証でもある重厚な家が並ぶ。

        
         路地を歩くと廃屋も目立つ。

        
         迷路を辿ると縦道の延長線上に明神と荒神が祀られている。その背後にタブノキの巨木
        がある。

        
        
         島に人が定住するようになったのは、室町後期(応仁の乱後の1500年代)頃とみられ
        る。

        
         集落の東端にも波止の一部が残されている。

        
         こちらの波止側に共用墓地。

        
         墓入口に鎮座するお地蔵さん。

        
         共用墓地の中ほどに牛島に伝わる伝説「丑森明神」がある。牛を可愛がっていた甚兵衛
        さんの牛が火事で焼け死んでしまう。数年後、死んだ牛の形をした黒い雲が発生し、島に
        火の手が上がる。その後も不審火が続いたため、牛の供養のため墓地の一角に墓石を建て
        て「丑森明神」と刻んだとある。

        
         牛島小学校は教念寺の寺小屋を前身とし、1879(明治12)年小字である山上に校舎を
        新築する。1948(昭和23)年には中学校を併設して牛島小中学校と改称し、旧光海軍工
        廠の廃材をもって校舎が新築された。1962(昭和37)年現在地へ新築移転したが、20
        05(平成17)年閉校となる。 

        
         海岸通りには旅館の看板が掲げてあるが、営業されているか否かははっきりしない。商
        店や自販機はないので飲料水等は持参する必要がある。

        
         1958(昭和33)年11月離島振興法により海底ケーブルで送電され、上水道も整備さ
        れている。

        
         12時30分の船で島を離れる。