ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の大河内と楢原は木屋川に沿う集落

2022年08月07日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、大河内村、楢原村と西市町など8ヶ村で豊田
        奥村が発足する。その後、西市村及び町制施行して西市町、昭和の大合併で豊田町、現在
        は下関市豊田町である。
         大河内(おおかわち)は、小月湾に注ぐ木屋(こや)川上流の平野とそれに続く山地に立地す
                る。
         地名の由来について地下(じげ)上申は不詳とするが、木屋川が平野の東方山際を貫流し、
        南端で大きく西に湾曲して平野を包み、大川(河)の内にあることから起こったともいう。
        (歩行約3.8㎞)

        
         俵山から西市を経て小月へ抜ける赤間関街道(北道筋)が域内を通っていた。(ダムを見上
        げる地点の広場に駐車)

        
         左岸に石州瓦の屋根が並ぶ。

        
         木屋川ダムは下関地区の飲料水、工業用水を確保するために、1940(昭和15)年に工
        事が始められたが、太平洋戦争で中断する。戦後に工事が再開され、1954(昭和29)
        に多目的ダムとして完成する。
         堰堤の高さ39m、堤頂長174.3m、総貯水量約2,000万㎥のダムに、地吉(じよ
          し)
集落や仏閣、小学校などが湖底に沈む。

        
         ちょっと気を引く屋根構造の民家。

        
         立ち退きを余儀なくされた地吉集落の人々は、この一帯に生活の場を移転したと思われ
        る。 

        
         河内神社境内には、昔から大河内全域の集会所があり、氏神でもあるこの地で村全体の
        協議が行われてきたという。

        
         河内神社の創建年代は不詳だが、祭神は天水分神(あまのみくまりのかみ)で水を分配する神
        とされる。1914(大正3)年矢田の西八幡宮本殿に相殿神として合祀されたという。この
        神社には江戸期から伝わる牛馬無病息災を祈願する笹踊りがあったというが‥。

        
         木屋川のゲンジボタルと木屋川ダムがデザインされた集落排水用マンホール蓋。

        
         集落入口にある庚申塚。

        
         千秀寺(真宗)は大内家の浪人中原彦兵衛が、旧主の大内義隆が自決したことを聞いて剃
        髪して玄信と号し、大河内丸山に慶隣庵を結ぶ。1716(享保元)年殿敷に移転したが、1
        880(明治13)年現在地に再移転する。

        
         千秀寺近くに赤間関街道北道筋の一里塚があったようだが、位置を知ることができず。
        「萩唐樋札場より11里16町(約45㎞)、赤間関6里(約24㎞)」とされた。(寺前が街
        道筋)

        
         百合野バス停まで引き返し、県道下関長門線を横断して駐車地に戻る。

        
         楢原(ならわら)は木屋川右岸とその支流である稲見川流域に立地する。地名の由来につい
        て、往古、高山に都の清水を模して、清水観音堂を建立した時、ここにナラの木を移して
        植えたことから起こったという。(歩行約1.8㎞)

        
         祇園原にある祇園神社。創建年など詳細は知り得ず。(神社下の道路脇に駐車)

        
         域内を旧国道435号線が東西に走る。

        
         域内入口に庚申塚と地蔵尊が3基。中央部の台座に「享保11年(1726)4月 地下中 
        宝珠錫杖型といわれています。」との添え書きがある。

        
         木屋川のゲンジホタルがデザインされたマンホール蓋。楢原は西市に近いためか下水道
        で整備されている。

        
         赤間関街道北道筋。

        
         明治の初めに「木村酒造」が創業され、大正初期に「ほまれづる酒造㈱」となる。昭和
        に入ってF氏が引き継ぐが、すでに廃業されたようだ。

        
         国道と肥中街道が交差する場所に「阿武(あんの)先生寿碑」が建立されている。阿武光二
        は、1859(安政6)年楢原村に生まれ、山口県師範学校を卒業後、教師として各地に勤務
        し、退職後は阿川の私塾・菁(せい)々学館の学頭として教授する。
         1896(明治29)年に豊田奥村の村長に就任、12年間村の行政などに携わるが、19
        19{大正8}年61歳で没す。

        
         肥中街道の案内に従うと正面に正念寺(真宗)がある。朝倉兵庫頭(右田弘詮とも称す)の
        家臣甲斐修理が出家して,1625(寛永2)年に一宇を建立したが、後に寺運が衰微して廃
        寺同然となる。
         1790(寛政2)年58歳の中野半左衛門が出家して、寺を再建して初代住職となったが、
        59歳で死去するという歴史を持つ。

        
         楢原地方(じかた)の肥中街道沿いに鳥居がある。朝倉(右田)弘詮は文明~永正の間(1469
                -1521)殿敷村を本領とし諏訪山を居館とした。その麓に諏訪大明神があり、地下上申は居
                  館の鎮守であったと記す。現在は
西八幡宮の境内社である今熊社に遷祀されている。

        
         境内から見る楢原の家並み。

        
         妙栄寺は室町期の永正年中(1504-1521)に朝倉(右田)弘詮が、母「花谷妙栄大姉」
の菩提
        を弔うために建立した曹洞宗の寺院である。
         1652(承応元)年に長府藩主毛利秀元が黄梅院殿の位牌を当寺に安置して、妙栄寺を泰
        雲院と改め、殿堂、山門を建立した。
         しかし、1817(天保10)年3月の火災で山門以外を焼失し一切の記録等が失われた。
        その後、本堂・庫裏は再建され、明治になって寺号を旧妙栄寺に復し今日に至る。

        
         1872(明治5)年学制発布されると、「維新小学校」の仮校舎となり、子弟の教育の場
        となった。今の西市小学校の前身である。

        
         雪舟が妙栄寺に立ち寄って造園したと伝わる「雪舟の庭園」 

        
         山門から旧国道に出て引き返す。


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