ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市の渡場・梶浦は厚狭川の渡し場跡と干拓地 

2022年03月15日 | 山口県山陽小野田市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         渡場・梶浦は厚狭川が南流する河口付近の平地に立地する。(歩行約4.9㎞)

        
         JR厚狭駅(12:35)からコミュニティバスねたろう号津布田小前行き30分、梶汐湯バス
        停で下車する。

        
         1942(昭和17)年8月周防灘台風の通過時と満潮時が重なったため、甚大な被害を受
        けた地域である。

        
         梶漁港は地元の漁業者が利用する第1種漁港。 

        
         津布田道は、厚狭より下津で川を渡り、梶浦に出て津布田を通り、埴生に至る道である。
        この付近は高い石垣の上に人家が建っているが、もとは前方が海だったようだ。

        
         沖開作は初め、古開作の厳島明神が鎮守であったが、1866(慶応2)年6月安芸宮島か
        ら勧請して龍神社の小祠を建てた。社地は転々としたが、現在は沖開作西南隅の入口に鎮
        座する。傍には1910(明治43)年に建てられた「厚狭郡沖開作干拓記念碑」がある。

        
         県道を横断して旧道に入る。

        
        
         厳島神社は安芸の厳島神を勧請したというが、創建年は不詳とのこと。 

        
         神社前面に広がる農地は、1835(天保6)年に築立が開始され、潮留めが完了したのは
        1847(弘化4)年、その面積は56町歩で上開作と称した。
         沖開作は1856(安政3)年に着工し、翌年に潮留めが完了し、約46町歩の田地ができ
        る。沖開作が完成すると上開作は古開作と呼ばれた。(面積は各資料に相違あり)

        
         境内から見る梶浦・渡場集落。

        
         西福寺(真宗)の寺伝によると、開基は俗名を新藤豊前守玄信といい、豊前国森山(現宇佐
        市)を本寺として、室町後期の1522年、もしくは1544年に一宇を建立したという。

        
         長門八十八ヶ所霊場第29番札所と記されているが、長門八十八ヶ所についての詳細知
        り得ず。

        
         古開作と沖開作の境付近に立つ庚申塚。

        
         真言宗善通寺派の法動院だが、由緒などの詳細は不詳。

        
        
         ここも厳島神社。 

        
         厚狭駅行きの渡場バス停が見当たらず、散歩されている方にお聞きして厚狭川に出る。 

        
         後潟開作の高須に庄屋・三戸家があり、大黒屋と称して廻船問屋を営んでいた。175
        2(宝暦2)年に後潟開作が完成すると、高須の川土手に波止を築き、対岸の吉部田との間に
        渡船を行う。この渡船を俗に「大黒屋渡し」といい、両岸は渡場と呼ばれ栄えたという。
         この渡船は1927(昭和2)年に厚狭川橋が架設されるまで続いたという。(右岸側の渡
        場は堤防の嵩上げで消滅したとされる)

        
         国道
を横断して渡場バス停より厚狭駅に戻る。


山陽小野田市の有帆は石炭の積出などで栄えた地 

2021年04月26日 | 山口県山陽小野田市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         有帆(ありほ)は菩提寺山系の西部、有帆川流域に位置する。同川は地内のほぼ中央を南流
        し、近世、高泊開作が造成されるまでは岩崎寺付近に河口があった。
         地名の由来については、一連の神功皇后伝説があり、神功皇后一行は船木で軍船を造り、
        有帆で帆を上げ、梶浦で梶を造ったという。(歩行約8.5km)

        
         JR小野田駅(12:17)から船鉄バス船木行き7分、有帆小前バス停で下車する。

        
         有帆川左岸。

        
         高泊開作の灌漑用水のために、有帆川に石堰を造り、取水口に樋箱(火箱)を設けて開作
        の用水路に流した。この取付口付近を石井手、対岸を火箱と称するようになった。
         1765(明和2)年火箱に有帆炭の積み荷場が設けられ、三田尻塩田などへ出荷された。
        この付近に石炭問屋も形成され、市も立つようになった。高千帆橋の袂に恵比須明神が祀
        られているが、石炭問屋が奉納したであろう15軒の問屋名が刻まれている。

        
         有帆川の右岸を北上すると石碑が立っているが、風化して刻字を読むことができない。

        
         県道小野田美東線を横断すると、川土手に庚申塚と石祠。

        
         岩崎寺(がんきじ)は門前を有帆川が流れ、背後に岩崎山を臨む閑静な所にある曹洞宗の禅
        寺である。

        
         岩崎寺の寺伝によると、坂上田村麿が東夷征伐の戦勝報賽として、一国一佛を奉納した
        時の御仏で、弘法大師作とされる千手観音菩薩を本尊としている。平安期の806(大同元)
        年創建の古刹である。 

        
         正面に山陽自動車道を見ながら有帆川を離れる。

        
         集落の境にある庚申塚。

        
         岩崎寺の北方500mに、石垣の高さ1mと正面の長さ37mの石組遺構がある。室町
        期特有の石組みで近郊を領地とした中世豪族の屋敷跡と考えられている。
         岩崎寺観音堂に掲げる明徳3年(1392)の鰐口銘に、「道乾(どうかん)」という字
が見え、
        俗称が記されていない人物の屋敷跡だと云われ、「どうかん屋敷跡」として市の指定遺跡
        
になっている。

        
         仁保の上集落への道。

        
         集落内に入ると古墳が案内されている。(左に50m)

        
        
         仁保の上古墳は横穴式石室墳で覆っていた土は、流失して玄室のみで、ほぼ完全な形で
        遺存されている。玄室の中には大師像が祀られ、地域の人々の信仰の対象となっている。

        
         古墳の上方に山の斜面をくり抜いて造られた横穴墓(おうけつぼ)があり、6世紀末のもの
        とされる。横穴墓は墓道、羨道、玄室で構成され、南に開口しているが、石室を持たない
        横穴である。

        
         有帆川の中国橋を渡ると大休団地。

        
         覚天寺の上り口に「三界萬霊 安政四年(1857)巳三月吉日」とあり。

        
         瑞松庵4世守邦和尚が隠居所として、室町期の1428(正長元)年に創建して大休庵と名
        付けた。その後、宍戸家の菩提所としたが、1873(明治6)年豊北町田耕の覚天寺を引寺
        して現在に至る。

        
         1820(文政3)年有帆の給領主であった宍戸房寛が、初代宍戸就俊の150回忌追善の
        ために宝篋印塔を境内に建てた。

        
         本堂の裏山に十三仏の石像が建立されている。十三仏とは死者のために仏事などを執り
        行う初7日から33回忌までの13回の追善供養に、本尊として拝まれる13体の仏のこ
        とで、室町期に始まったとされる。 

        
         船木への道を横断して別府八幡宮へ向かう。

        
         民家入口にも三界萬霊塔。

        
         もと船木鉄道の線路地だった道から東の奥に入ると、丘に別府八幡宮が鎮座している。

        
         創建については2説あるようで、奈良期の724(神亀元)年宇佐八幡宮から勧請したとす
        る説と、
770(宝亀元)年に和気清麻呂が九州から帰京の途中に勧請し、村人が同年社殿を
        建立したとするが、社伝は和気清麻呂の説を伝えている。 

        
         1982(昭和57)年神殿の修理の他は新築されたが、この年から新社殿にふさわしい注
        連縄が掲げられた。直径1m、長さ9m、重さ400㎏のビッグサイズである。

        
         厄除け祈願として「厄割り玉」が設けてある。玉に息を3度吹きかけて心身の罪・穢・
        厄を移し、これを割ることにより厄を砕くという。割り方は投げるか、叩くか、落とすか
        という方法のようだ。

        
         別府八幡宮社務所は百済文輔の旧宅である。神職である百済忠敬の息子として1883
        (明治16)年に生まれ、官選知事として群馬県知事などを歴任する。

        
         有帆一里塚には地蔵尊と庚申塚が並んでいるが、もとは少し西にあり、船木から刈屋に
        至る「かりや道」にあった。

        
         北向き地蔵尊は引込集落出口にあったが、山陽自動車道の建設に伴い、今の位置に移設
        された。道祖神も同じ堂の中に祀られている。

        
         山陽自動車道の函渠で南側に移動する。

        
         祇園神社も山陽自動車道の建設に伴い移転を余儀なくされ、1997(平成9)年この地に
        移転した。梅田祇園神社は、その昔、地域一帯に疫病が流行した時に創建されたもので、
        鳥居の額束は疫神社とされている。

        
         雨乞碑には「雨乞成就記念碑 大正11年(1922)9月4日、梅田区中」とある。
         その年は7月7日の小雨以降、まったく雨が降らない日が続き、8月も降る気配がない
        ので9月4日、地下(じげ)の人たちが総出で雨乞いの祈祷を始めた。その心が通じたのか5
        日の夜から7日にかけて雨をもたらした。感謝の気持ちを忘れることのないようにと建立
        された。

        
         杵築山王社の社伝によると、この地は入江であって、埋め立てて田地を造成しようとし
        たが、開作工事は難事業のため挫折した。
         平安期の1004(寛弘元)年出雲国杵築神社の三神を勧請すると、加護により事業は成就
        したとされる。

        
         別府八幡宮末社で境内には芭蕉の句もあり、桜の名所にもなっている。 

        
         コンビニ前の土取バス停からJR宇部駅に戻る。
     


山陽小野田市の高泊に周防灘干拓遺跡が現存

2021年01月24日 | 山口県山陽小野田市

        
                           この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         高泊は有帆川右岸に位置し、南は瀬戸内海に臨む。1889(明治22)年町村制施行によ
        り、有帆、西高泊、東高泊、千崎、高畑の各村が合併する。村名は各村の一字(帆・高・千)
        をとって高千帆村となる。(歩行約6.2㎞)

        
         JR小野田駅(10:06)から船鉄バス本山岬行き5分、市民病院入口バス停で下車するが、
        病院までは約500mの距離にある。

        
        
         関ケ原の戦い後、毛利氏は防長2州に押し込められたため、藩財政の立て直しが急務と
        なり、石高を増やすため積極的に土地造成(干拓・開作)が行われる。高泊開作もその1つ
        で、166(寛文8)年船木の代官・楊井三之允の尽力によって完成する。
         この水田に必要な用水を確保するため、江汐湖が造られ主水路として沖中川水路橋が設
        けられた。当初は石を削りつなぎ合わせたものだったが、水漏れのためコンクリートで作
        り直されている。

        
         水路は途中で長田屋川と江川に分かれ、高泊開作の西半分の水田を潤し、浜五挺唐樋の
        所にある遊水地へ入る。(右手の建物は山陽小野田市民病院)

        
         江汐公園のつり橋とミツバツツジがデザインされた旧小野田市のマンホール蓋。

        
         小野田橋から有帆川に沿って、浜の当嶋八幡宮まで直線道である。横土手と呼ばれる約
        1.3㎞の道は、江戸初期の新田開発時に造られた土手である。

                 
         亀甲模様に「山陽小野田市」の文字に市章が記されたマンホール。

        
         同じ道に台形の同心模様と中央に市章のマンホール。

        
         1917(大正6)年横土手の中ほどに開作250年を記念して建てられた汐止記念碑があ
        る。この場所は高泊開作築立に際し、最初に設けられた配水樋門の場所である。
         1668(寛文8)年7月横土手を築き排水門が完成した矢先、一夜の大暴風で樋門は流さ
        れ土手は崩壊する。のちに当嶋八幡宮下に岩盤を利用した樋門が設けられた。

        
         現在の高千帆樋門。

        
         現代は横土手の海側も埋め立てられ、土手に沿って民家や事業所の敷地として利用され
        ている。(正面に当嶋八幡宮)

        
         当嶋八幡宮の参道下にある切抜唐樋は、招き戸が5挺あることから「高泊開作浜5挺唐
        樋」と呼ばれている。(国指定史跡)

        
         自然の干満を利用して開閉する仕組みで、満ち潮時には潮の圧力により招き戸は自動的
        に閉まり、引き潮時には遊水池に溜まった水の圧力によって自然に排水できるようになっ
        ている。

        
         潮が引けば広大な干潟となり、その境界線に土手を築き排水門が設けられたが、当時の
        優れた土木技術を伝える貴重な史跡とされる。これにより高泊開作が築造され、今では官
        公庁、小野田駅、工場群などが立地する土地へと変貌を遂げている。

        
         当嶋八幡宮は有帆川河口の浜木屋港にある当嶋に、平安期の880(元慶4)年宇佐神宮か
        ら勧請されたと伝え、旧高泊村及び旧千崎村西部の鎮守神となる。
         もともと南側が参道であったが、開作築造の後に参道の石段を東に造って正面とし、社
               殿を現在の方向に変更したとされる。

        
         境内から見る樋門と横土手。

        
         南参道を下って右折すると三差路。バス路線に沿って進むと高泊神社の看板が見え、そ
        の先に勘場屋敷への案内がある。

        
        
         1668(寛文8)年開作造成時の臨時代官所(勘場)で、船木代官・楊井三之充が起居した
        役宅とされる。
         その後、開作が完成し代官が引き揚げる時、造成に協力した庄屋・目(のち藩名により作
        花姓)氏が屋敷を拝領する。

        
         施錠されて内部を拝見することはできないが、代官が起居した表8畳の間は、「上段の
        間」と呼ばれる一段高い造りになっているとか。

        
         高泊神社は、萩藩2代藩主・毛利綱広が高泊開作築造に当たって、安芸国厳島神社より
        勧請する。毛利家より社殿などが寄進され、厳島龍王社として高泊開作総鎮守の神社とな
        る。その後、水田が開かれて耕作者が増えると、五穀豊穣を願って京都伏見稲荷社からも
        勧請されて祀られた。

        
         開作が藩直営事業であったことから、本殿は萩で木組みが行われ船で用材が運ばれたと
        され、神紋には毛利家の家紋である一文字三星が使用されている。1917(大正6)年高泊
        神社と改号し、現在に至っている。

        
         珍しい子連れ狛犬だが、狛犬ファンにとって必見のようだ。

        
         境内には高泊開作開墾碑(1872年)と楊井三之允の頌徳碑(1924年)がある。頌徳
        碑の碑文には「‥業半ばに及び風浪至り堤防決潰、計画水泡に帰す‥再び風雨に遭い土砂
        崩壊、海水氾濫なす所を知らず‥寝食を廃して工を督す‥」とある。

        
         須賀神社前から見る高泊神社。当時、高泊湾内唯一の岩島に本殿がある。

        
         高泊神社西の山寄りに須賀神社と恵比須社がある。須賀神社の創建は不明だが、古くは
        疫神社と呼ばれていたが、1871(明治4)年に改称したとされる。
         昔より風邪回復の神として崇敬され、湯茶をもって参拝する風習が残っているようだ。
        須賀神社の右隣に恵比須社が並んでいる。

        
         周辺には新しい住宅が点在する。

        
         高畑・高泊循環線の郷バス停(土日祝は5便)地点から北上するが、その前に西福寺へ寄
        り道をする。

        
         西福寺(浄土宗)の寺伝によると、南北朝期の1355年創建とされ、本堂は1784(天
           明4)
年に建立されたもので中間の柱をできるだけ省略し虹梁(こうりょう)を多用している。
         このため、内部の建具はなく空間を形作っている堂宇となっているようだが、拝見する
        ことができなかった。

        
         案山子の頭に稲穂を加えた鳥がとまり、外周に稲穂がデザインされた集落排水用マンホ
        
ール蓋。 

        
         左手に高泊小学校を見ながら信号機のある交差点を直進する。(横断してきた道を見返
        る)

        
         やがて左手に烏帽子岩神社が見えてくる。

        
         烏帽子岩神社の祭神は神功皇后とその子・応神天皇とされる。伝説によると、皇后が三
        韓出兵の時に海上の風波が高く、軍船は高泊湾に繋泊して波の鎮まるのを待った。
         早朝になって風波はますます激しくなり、皇后は自ら岩上に立って風鎮の祈願をされた
        が、その時にかぶっていた烏帽子を海浜の岩に掛けたという。
         このことからこの地を烏帽子岩といい、里人は祠を建てて神功皇后社と敬称する。19
        44(昭和19)年現神社名とする。

        
         境内から見る小野田の町並み。

        
         烏帽子岩神社の北にある法蓮寺(浄土真宗)は、大内氏の家臣であった藤村政俊が、大内
        義隆自刃後に得度して現美祢市伊佐に草庵を結ぶ。
         その後、旧楠町吉部に移り、一宇建立して本願寺から法蓮寺の寺号を免許されるが、火
        災で焼失する。1679(延宝7)年藩命により現在地に移り、開作新住民の檀那寺となった。

        
         本堂の軒先に懸かっている梵鐘は、開作住民の要請もあって時を告げる鐘であると同時
        に、災害の警鐘として鋳造された。太平洋戦争中の金属回収令に際し、いざという時の警
        鐘であることを理由に、やっとのことで供出を免れたという。
         この鐘は開作工事の折に使い残した古銅14貫百匁(約53㎏)は地金に供与されたとさ
        れる。

        
         国道190号を横断して県道に入る。

        
         1668(寛文8)年楊井三之允によって高泊開作が築造され、数年後には水の神である高
        須弁財天が創建される。1871(明治4)年厳島神社に改称された。

        
         境内には「来嶋又兵衛誕生地碑」がある。又兵衛は1817(文化14)年喜多村家の次男
        として生まれ、少年期はこの地で過ごす。20歳で来嶋家の聟(むこ)養子となるが、186
        4(元治元)年禁門の変で戦死し、48年の生涯を閉じた。
         喜多村家は神社の北150mにあったが、宅地跡は田んぼとなっている。同家は187
        2(明治5)年現宇部市の平原に転出するが、政府の旧士族の授産事業に応募し、一家を挙げ
        て北海道に移住したが、その後の消息は不明とされる。
 

        
         県道を東進してJR小野田駅に戻る。 
           


山陽小野田市埴生は低地に集落と干拓地内に花農場 

2021年01月16日 | 山口県山陽小野田市

        
                           この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。           
         埴生(はぶ)は糸根川・前場川流域の埴生低地に位置し、周囲を丘陵地が囲み、南は周防灘
        に面している。
         1889(明治22)年の町村制施行に伴い、埴生・福田・津布田の3村が合併して、旧村
        の1字をとって生田村となる。1948(昭和23)年に町制施行し埴生(はぶ)町、昭和の大合
        併で厚狭町と合併して山陽町埴生となるが、現在は平成の大合併で山陽小野田市の一部と
        なる。(歩行約7.2㎞)

                          
         JR埴生駅は、1901(明治34)年山陽鉄道の厚狭~馬関駅(現下関駅)間が開通したと
        同時に開業する。近くに山陽オートレース場があり、業務委託駅であったが現在は無人駅
        のよ
うである。駅舎は1982(昭和57)年に改築されている。

        
         1965(昭和40)年駅前に開場したオートレース場。

            
         川に沿うと正面に国道2号。

            
         前場川沿いを河口部へ向かい、国道190号を横断して下市に入る。

            
         左手に浄土宗の西念寺。山門右には法然上人の教えがある。
               「月影の いたらぬ里は なけれども 
                    眺むる人の こころにぞすむ」の石碑がある。
         室町期の寛正年中(1460-65)大内氏の庇護によって村内の東山に創建される。創建時の寺
        号は大喜庵であったが、その後、無住であったのを長府・浄厳寺の僧が引き受け、浄土宗
        に改宗して現寺号にしたという。

            
         カーブミラーのところに「右下之関」と刻まれた自然石の道標がある。

            
         糸根神社の由来によると、平安期の806(大同元)年宇佐神宮より江尻に勧請されて埴生
        八幡宮と称した。1908(明治41)年八幡宮を八坂神社に合祀して改称する。

            
         1604(慶長9)年に現在の社殿が造営された。(隣には川上神社)

            
         この道は埴生道とされた脇道で、旧山陽道の七日町の外れから埴生の上市に出て、町筋
        を西にとって、市から八坂(糸根)神社の東鳥居前を右折して旧国道に繋がっていた。

            
            
         1701(元禄14)年創業の竹山酒造場は、代々庄屋を兼ね、長府毛利藩が参勤交代の
        途次、常宿にしていたという。埴生の町は幕末期に2度(文政と嘉永)の火災に見舞われた
        が、この家だけは類焼を免れたという。酒造業はすでに廃業されている。

            
         通りに浄土真宗の教蔵寺。豊前国・森山安芸守の家来であった蓋松兵庫教清が出家して
        当寺を創立したとされる。

            
         竹山家の抱酒造場であったとされるS家。

            
         通りの下市と上市は商家筋だったが、店構えを見せるところはその多くが閉じた状態と
        なっている。海に近く低地であるため、1999(平成11)年9月24日の台風18
号によ
        る高潮で甚大な被害を被った地でもある。

            
         格子が美しい富田屋旅館。 

            
         富田屋旅館前にある「とうみや(東宮)」は、埴生祇園祭で神輿が1泊する場所とか。

            
         亀甲模様に「下水・山陽町」の文字が記されたマンホール蓋。

            
         糸根神社への参道。

            
         かって防波堤だった所を西進する。

            
         前場川橋。

            
         総合園芸農場とされる「花の海」には、食堂・カフェなどがあって休憩できる。

            
         国営干拓事業として1957(昭和32)年に着手され、1968(昭和43)年に完成した農
        地だが、耕作者の高齢化、後継者の不足など農業の社会・経済環境の変化の中、耕作放棄
        農地が増加しているようだ。

            
         国道190号の横断に信号機がないため、「ドライブインみちしお」の先にある信号を
        利用する羽目になる。「花の海」から国道に出て老健施設前を経由する方がより近道であ
        った。
 

        
         糸根川に沿う。

        
               「あらざらむ この世のほかの思ひ出に
                     今ひとたびの逢ふこともがな」(辞世の句)
         和泉式部は一条天皇の中宮彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部
        集」などの歌集を残し、恋多き歌人といわれている。

        
         地方へ出かけた後の消息はよくわかっていないことから、お墓といわれるものが全国に
        多く存在する。
         ここ埴生での伝説は、郷士と恋に落ち、一女をもうけ、ここで一生を終えたという。円
        形に一段高くなった盛土の上には「尊霊和泉式部御墓・享保16年戌(1731
)」と刻字され
        た墓がある。
事実かどうかは別にして、祖先が語り継いできた伝承は、和泉式部を身近に
        感じさせる貴重な史跡といえる。

        
         国道2号バイパス下を潜る。

        
         山陽オートレース場への広い道を横断して、山陽本線架道橋を潜ると小埴生集落。

        
         集落内を山手に向かうと青木周蔵誕生地の案内板がある。

        
         青木周蔵は三浦玄仲の長男としてこの地に生まれる。のちに宇部の藤曲に一家は移るが、
        21歳の時に藩医である青木家の養子となる。(周弼の弟・研蔵の養子)
         1868(明治元)年医学修業のためドイツに留学するが、政治学も学んだため30歳でド
        イツ公使となり、ドイツ貴族の妹と結婚する。
         その後、山県、松方内閣では外務大臣を務め、62歳の時にアメリカ大使となるが、1
        
914(大正3)年肺炎のため70年の生涯を終える。(現在も青木家の建物は萩城下町に現
        
存する。)

        
         この先、角野集落に出たため遠回りとなってしまう。青木周蔵生誕地から南へ進んで山
        陽本線踏切を越えれば、オートレース場前の道に出て埴生駅に戻れる。

        
         小埴生から角野に出ると目の前に埴生駅。

        
         山陽本線まで下って並進し、トンネルを潜ればJR埴生駅だが、1㎞以上も余分に歩い
        てしまう。
                   


山陽小野田市の木戸・刈屋に古い町並み

2020年06月08日 | 山口県山陽小野田市

          
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         木戸・刈屋集落は市街地の南東に位置し、竜王山の北西斜面に形成された集落である。
        目の前に火力発電所があって小野田港沿岸にはセメント工場などが立地する。

         漁村らしく緩斜面に民家が密集しているが、平らな宅地を造るため石垣が積まれるなど
        瀬戸内らしい構成となっている。(歩行約2.5㎞)


         
         JR小野田港駅から少し離れているため、JR小野田駅から理科大前行きバス20分、
        水神町バス停で下車する。 


          
         小野田港の入江奥へ進む。

          
         入江に祠が祀られているが祭神は不明。

          
         Barberおはら前で山裾の路地に入る。(木戸新町) 

          
         道は直線的ではないが地形に沿って平坦である。

          
         重要文化財の「徳利窯」とツツジがデザインされた雨水用マンホール蓋。

          
         左手に火除明神が祀られているが、消防設備のない頃、火事は地震、雷の次に恐れられ
        ていた。
この木戸でも江戸中期頃に大火があって、19軒が焼失したと伝えられ、集落
        守社として祀った後は大火がないという。


          
         この付近は比較的大きな家が連なる。

          
         通りの電柱に共同井戸と案内されており、路地を上がって行くと「本川の井戸」と呼ば
        れる井戸がある。今でも清水を湛えているが、いつ頃掘られたのかは不
明とのこと。19
        34(昭和9)年に上水道が設けられるまで共同井戸として、
150戸余りの生活用水を供給
        してきたが、今では鯉が泳ぐ井戸となってい
る。

          
         船木宿から刈屋の港を結ぶ道が「木戸刈屋道」で、船木から有帆中村、小野田旦、野来
        見、赤崎大明神を通る3里23町(約14.3㎞)の距離であった。


          
         細い路地は斜面方向に縦道、等高線に沿って横道が網目状に絡んで各家にアクセスして
        いる。一旦入り込むとどこにいるのかわからなくなってしまう。


          
         縦道を上がると工場群が見えてくる。

          
         横道に戻って木戸中ノ町に入ると、木戸公会堂との三差路にM家がある。家の広さから
        手広く商売をされていたようだ。 


          
         三叉路の角に庚申塔。

          
         所々に空家が目立つ。(O家)

          
         刈屋道はH家の先で左折する。

          
         江汐公園のつり橋とツツジがデザインされたマンホール蓋。

          
         木戸と刈屋の道は竜王山が出っ張っているため、海沿いに道を造ることができず、木戸
        から竜王山の山裾に道がつけられた。この道は中道(なかみち)と呼
ばれ、刈屋への主要道路
        であった。


          
         1921(大正10)年頃に大井亀蔵らの尽力で海岸沿いの道が造られる(木戸大鼻集落)

          
         反りをもって積まれた石垣もある。

          
         眼下に海を見下ろす山の斜面に、石垣を高く築いて家が建てられ、その間を迷路のよう
        に細い道が走る。

          
         木戸・刈屋の境界に当たる大鼻の海岸通りに、亀趺に乗った「大井両翁頌徳碑」がある。
         大井善右衛門(酒造業)と亀蔵(醤油醸造業)の兄弟は、郷土の発展に尽くした人物で、魚
        市場の運営、漁港の改修、道路整備など両集落の公益を図る目的として、木戸・刈屋共有
        議会を創設した。弟の亀蔵は刈屋集落の海岸道路の新設に尽力する。

          
         恵比須神社参道に木戸刈屋盆唄由縁の地とある。1830(天保元)年代より続く歌い舞
        う盆唄だそうだ。 

          
         漁労の神として刈屋浦には刈屋の西端、木戸には中央の中ノ町波止場に祀られていたが、
        明治の神社整理を受けてこの地に合祀される。 

          
         恵比須神社の隣には正圓寺があり、その先も中道が続く。(刈屋上条集落)

          
          
         徐行と時速制限の道路標識をみると明圓寺前。

          
         1632(寛永9)年に創建された明圓寺(浄土真宗)は、刈屋集落の最も高い所にあって車
        が入る道はなく、新築や修理を要する資材などはケーブルによって運搬されたという。

          
         開基は俗名・高橋蔵人とい尼崎藩の浪人であった。のちに縁あって当所に来て無住の念
        仏道場に住したことに由来するという。
         当寺は刈屋の波止場に近いこともあって、難風などに遭って避難上陸した幕府の役人や
        九州諸大名の休憩所に使用されたとか。

          
         境内から見る火力発電所。

          
         1847(弘化4)年の正月に火災が発生し、200余戸が全焼するという大火に見舞われ
        ている。

          
         正面のT邸前で鉤の手になっている。

          
         水路にパイプ管が設置されているが、雨水は別にしても汚水処理方法、膨大な石垣など
        の運搬についてお尋ねしようと思ったが、誰にも会うことなく残念する。

          
         傾斜地を切り開いて道や宅地を設けた先人たちの苦労が偲ばれる。

          
         中道も突き当り海岸線へ下る。風土注進案は神功皇后伝説を紹介して「この地に数戸の
        御仮屋を造立し滞陣したるよし‥」と記し、仮屋が誤用されたのが地名の
起りとする。

          
         県道妻崎開作小野田線(1968年開通)に出て刈屋港へ向かう。

          
         漁港の波止場先に高さ3.58mの立派な常夜燈が残されている。1818(文政元)年に
        吉敷毛利氏の手によって建てられ、明治の終わり頃まで毎晩灯されて、位置を沖の船に伝
        えるとともに入船・出船を見守ってきた。この地は江戸期には吉敷毛利氏の給領地であっ
        た。

          
         海岸線から見ると観覧席のように家が建ち並んでいる。

          
         刈屋バス停(魚市場前)から船鉄バスJR小野田駅行きに乗車する。この地の難点といえ
        ばトイレがないことである。
  


山陽小野田市の本山は小野田支線の終着駅と旧炭鉱跡 

2020年06月07日 | 山口県山陽小野田市

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         本山(もとやま)は竜王山の東から南の本山半島に延びる台地状に立地し、宇部市と境を接
        する。本山炭鉱を中心に栄えてきたが、廃坑後の現在は、石油精製所・大学の進出などで
        住宅街に変わりつつある。(歩行約7㎞)


         
         採掘した石炭および石灰石ををいかに搬出・搬入するかが課題となり、1915(大正4)
        小野田駅と小野田港駅は小野田軽便鉄道により、1929(昭和4)年雀田駅ー居能間が宇部
        電気鉄道が開業する。
         1937(昭和12)年宇部電気鉄道により雀田ー長門本山間が開業したが、1943(昭和
          18)
重要物資資源の輸送路線として国有化される。小野田港ー雀田間がつながったのは、1
        947(昭和22)年のことである。


          
         雀田駅ー長門本山駅間の約2.5㎞の支線には、1933(昭和8)年製造のクモハ42系
        電車が使用されて駅に常駐していた。約70年間走り続けてきたが、2
03(平成15)
        3月
14日に姿を消してしまう。(1994年撮影)

          
         Yの字形に線路が分かれ、その開いた線路と線路との間に三角形ホームが置かれている。
        クモハ42形とYの字型配線駅は、鉄道ファンには
知られた駅だった。

          
         JR雀田駅前から左折して踏切を越えると、2016(平成28年)公立大学に移行した山
        陽小野田市立山口東京理科大学。

          
         交差点を右折してJR本山支線に沿う。 

          
         県道妻崎開作小野田線が開通するまでは、本山への主要な通りだったようだ。

          
         県道小野田港線を横断する。

          
         1932(昭和7)年に開業した日本赤十字臨海療養院は、1928(昭和3)年に赤十字社支
        部が御大典記念事業として創設を決めたもので、当時の小野田町が誘致に乗り出して町内
        に建設が決まる。
         松原の海岸約6,300坪の広大な敷地に病棟などが建設され、当初は結核患者の治療
        にあたったが、現在は地域の高度慢性期病院としての役割を担っている。

          
         JR浜河内駅前

          
         JR浜河内駅は支線のほぼ中間点に位置する。

          
         駅前交差点から南下して行くと、標高136mの竜王山が裾野を広げる。山頂からは3
        60度の展望で、自動車道や登山道が整備されているとのこと。

         
         大通りに合わし海岸方向へ向かう。

          
         1943(昭和18)年に設立された正法院は、3年後に本堂が建立された比較的新しい寺
        院である。

          
         支線の終着駅である長門本山駅は、車止めの先に単式ホーム1面1線で来た列車が、そ
        のまま折り返す構造である。列車は朝夕の3本のみで、廃線されない不思議な支線でもあ
        る。

          
         JR長門本山駅先の海岸から見る本山の町並み。

          
         本山公民館手前の海側に炭鉱遺構と思われるものが残されているが、ネットが張り巡ら
        されて確認できず。

          
         大須恵の住宅街に児童公園があり、その一角に本山炭鉱斜坑口跡がある。(左手の林)

          
          
         この坑口は、1917(大正6)年に大日本炭鉱が運搬坑道として設け、1941(昭和16)
        年に宇部鉱業が完成させて、1963(昭和38)年3月の閉山まで使用された。
         坑道は沖合3㎞、最深部は200m、形状は鉄筋コンクリート造で側面は石組みとなっ
        ているが、津布田断層と異常出水に悩まされ続けた炭鉱でもあった。

          
          
         本山岬への周辺部には炭鉱社宅が並び、1940(昭和15)年には約1,873人の抗夫
        と家族が居住したとされる。社宅は6畳と4.5畳、台所があり、石炭・水道は無料であっ
        たようだ。

          
         第二次世界大戦中には本山炭鉱に捕虜収容所があり、連合軍捕虜が炭鉱で働かされた。

          
         本山岬の高台にあった炭鉱鉱員寮を改築し、木造平家の長屋数棟が収容所となる。現在
        は荒地で足を踏み入れることができないが、コンクリート製の水槽と門柱と思われるもの
        が名残りをとどめている。

          
         旧小野田市の最南端、竜王山の峰が南に延びて台地状となり、周防灘に突き出た所が本
        山岬である。(バス停があり1時間毎の便数)

          
         道標に従うと本山岬公園には、駐車場と旧式トイレ、案内板などがある。

          
         公園入口に金毘羅大権現社が祀られているが、1893(明治26)年小野田セメントに原
                料の粘土を運搬していた船問屋の柴田寿之助が、海の神様である讃岐の金毘羅社から勧請
        して建立したとされる。
         隣には観音菩薩と蛇神を祀った石祠2体がある。蛇神は蛇の神様で、この周辺には毒蛇
        が多かったことに所以するという。

          
         海岸への階段を下ると目の前は西部石油山口製油所。

          
          
         地質が砂岩層や礫岩層のため、風波などの浸食によって奇岩が生まれた。残念ながら満
        潮だったため「くぐり岩」は海に沈んで近寄ることができなかった。

          
         長門本山駅バス停から約600m先の海岸線に「きららビーチ焼野」がある。海水浴や
        マリンスポーツができるそうだが、海を眺めながら遊歩道を歩くのも最適な場所である。

          
         本山駅バス停からバスルートが2つに分かれるようで、こちら側は本数が少ない。きら
        ら交流館前バス停(13:32)よりJR小野田駅に戻る。


山陽小野田市須恵は徳利窯などの遺構が残る小野田セメントの町 

2020年02月21日 | 山口県山陽小野田市

        
            この地図は、国土地理院院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
         須恵は有帆川の左岸に位置し、南は周防灘に面する。(歩行約3.5㎞)


        
         JR南小野田駅はセメント町駅から小野田港駅、小野田港駅北口と駅名変更してきたが、
        1962(昭和37)年3月に現駅名となって今日に至る。


        
         1994(平成6)年小野田セメントと秩父セメントが合併して秩父小野田セメントが誕生
        したが、1998(平成10)年日本セメントと合併し
て太平洋セメントになる。
         1927(昭和2)年小野田セメントの事務所として建てられたもので、正面のパラボラ状
        柱形にみられるように、デザインを重視した大正建築の流れを受け継いでいる。


        
         旧小野田セメント徳利窯は一般公開されており、太平洋セメント正門前に案内板が設置
        されている。残念ながら改修工事中のため見学することがで
きなかった。


        
         徳利の形をした窯であることから「徳利釜」と呼ばれるが、1883(明治16)年に設置
        された4基のうち、一番西の1基を改造して大型化したもので、1
25,000個の煉瓦で
        造られている。国内に現存する最古のセメント焼成窯で
あるとのこと。
(17年5月撮影)

        
         窯の周囲に展示されている蒸気機関や製樽機とともに、経済産業省より「近代産業化遺
        産」に認定されている。


        
               
         使用方法は、窯内の下にある火床の上に焚付用の枯れ枝を敷く。その上に燃料の石炭と、
        石灰と川で採った泥土を混ぜて、塊にした原料を交互に12~1
3回積み重ねて、窯内の
        最大径のところまで積み終えると点火し、平均7昼夜
をかけて焼成する。


        
         覆屋で隠されているが、もともとこの窯が屋根から突き出た状態で操業されていたため、
        それに似せて復元された。最盛期には12基の窯が稼働していた
が、1913(大正2)年に
        廃止が決定されて1基だけが残された。


        
         焼成取出し口で下部の火床を外し、焼魂を取り出す構造である。(約10㌧程度)

        
         繁如院(はんにょいん)は、1921(大正10)年に玖珂郡灘村より引寺し、3年後に公称寺
        院となる。


        
         門を潜ると左手に「釈尊佛跡北インド巡拝土砂埋蔵碑」がある。1979(昭和54)年住
        職が釈迦の佛跡を訪ね、そこの土砂を持ち帰り埋めたとされる。
碑の前には足形があり、
        ここに足を合わせて拝めば、佛跡を踏んだのと同じ
功徳があるといわれている。


        
        
         1924(大正13)年に小野田セメント重役社宅として建てられたもので、コンクリート
        造の赤瓦住宅が5軒並んでいたが、現在は1棟だけが保存されて
いる。


        
         住吉神社は小野田セメントの創立者・笠井順八が、1887(明治20)年に自宅敷地内
        (現在の住吉神社)に出身地である萩の住吉神社より勧請し
たという。1899(明治32)
        に社殿を改築して現在の規模とした。


        
         1908(明治41)年小野田セメント所有となり、以来、会社の守護神として祀られた。

        
         セメントをつめる樽は木樽で、400ポンド(約181㎏)の重さがあったとか。(奉納
        は模型)


        
         1835(天保6)年萩藩御舟手有田甚平の三男として萩で生まれ、萩藩士笠井英之進の家
        名を相続する。明治維新後は山口県の勧業局主任として殖産興
業に力を注ぐ。
         その後、生活に困窮していた士族の救済と、高価な輸入品だったセメントの国産化を目
        指し、1881(明治14)年日本初の民間のセメント製造会社(
後の小野田セメント)を創立
        する。
小野田を選んだのは、地元の石炭・粘土などの原料調達や製品の輸送に便利な地で
        あったためとされる。


        
         旧小野田セメント山手倶楽部は、第4代社長笠井真三氏がヨーロッパ遊学の帰途、イギ
        リスからコンクリートブロックの型枠を持ち帰り、
1914(大正3)年にブロックを製造し
        て完成させた。大正期のブロック建築は大変珍しいもの
であり、建築史上貴重な建物であ
        るとされる。


        
         正門は閉ざされているが、住吉祭り時に倶楽部の1階が一般公開されるとのこと。

        
         1階は応接間、客間、食堂、2階は図書室及び寝室とベランダなどで構成され、古典的
        なデザインを基調とした本格的な倶楽部建築である。
社員クラブとして建てられたものだ
        が、当時、小野田はホテルもなく、市の
来賓にも使われていた。


        
         1925(大正14)年築の伊藤医院。

        
         小野田二番溜池沿いの道路高台に福井忠次郎記念碑がある。小野田新開作は石炭採掘を
        目的として計画されたもので、福井が工事を主管した。この開作
地は、その後、南にセメ
        ント、北に硫酸の会社が設立されて近代小野田発展の基
礎となった。


        
         千代町にある報恩寺は、毛利家の家臣だった渡辺七郎崇光が防長二州に移封された際、
        僧となって目出村の松江八幡宮近くにお堂を建てた。小野田新開
作に2つの会社が設立さ
        れ、1892(明治25)
小野田の町が形成されたこの地へ移転する。


        
         千代町の町並み。

        
        
         1899(明治32)年に開業した旧小野田銀行は、小野田セメント創業者の笠井順八が初
        代頭取となる。1923(大正12)年に百十銀行と合併して小野田
支店となり、1944(昭
          和19)
年に山口銀行小野田支店となる。その後、小
野田支店の倉庫として使用されていた
        ようだ。


        
         千代町バス停からJR小野田駅への便数は多い。


山陽小野田市の旦・目出に硫酸瓶垣と登り窯 

2020年02月21日 | 山口県山陽小野田市

                
                 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を
                        複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)

         もとは東須恵村に属していたが、1879(明治12)年の村境決定で、有帆川左岸に位置
        する旦(だん)と目出(めで)地区は西須恵村に属することになる。
         1889(明治22)年の町村制施行により東須恵村が合併して消滅したことで、西須恵村
        は須恵村に改称する。(歩行約5.5㎞)

        
         JR小野田駅は、1900(明治33)年12月山陽鉄道の開通と同時に開業する。

        
         かって飲食街だった駅前。

        
         県道30号線(小野田美東線)を横断すると旦橋への道。

        
         徳利窯とツツジがデザインされたマンホール蓋。

        
         有帆川に架かる旦橋。

        
         旦橋を左折して小野田線高架を潜ると、左手に「瓶垣」と案内されている。山手に向か
        うと道は二手に分かれるが、右手の道を進み四差路を左折する。

        
         左手に瓶の破片が積み重ねられている。


        
        
         焼きキズのある硫酸瓶や焼酎瓶を活用して築かれた三好邸の瓶垣。

        
         1894(明治27)年この地で三好源之助氏が製陶所を創業する。3年後に河野正喜氏に
        引き継がれ、1955(昭和30)年頃まで硫酸瓶を製造する。登り窯に付随する煉瓦造りの
        煙突が当時の面影をとどめている。


        
         原土撹拌(かくはん)機、石や異物を除去する篩(ふるい)などが泥こし場に残されている。

        
         1889(明治22)年日本舎密(にっぽんせいみ)製造会社(現日産化学小野田工場)が設立さ
        れると、硫酸や硝酸を運搬するために硫酸瓶が作られるようになった。


        
         旦橋に戻って案内に従い左手の道に入る。

        
         三差路を左折すると前原一誠の宅跡を示す標柱がある。

        
         維新の十傑の一人とされる前原一誠(1834-1876)は、6歳の時に父が藩の郡使となったた
        め一家で目出に移る。農漁業に従事する傍ら、近隣の子弟と塾に学
ぶ。
         13歳から18歳まで姉が嫁いだ萩の家に寄宿したが、目出村へ戻って農漁業に従事し
        ながら父親の陶器製造を手伝う。24歳の時に父が御駕籠奉行になったのに従い萩に戻る。

        
         旦の皿山の硫酸瓶垣は、硫酸瓶の底の部分で焼き傷があり、売り物にならない硫酸瓶を
        積み上げて垣にしている。

        
         食卓用の皿など家庭品を焼いていたことから「皿山」という名が生まれたとのこと。

        
         旦の登り窯は、陶工甚吉が佐世彦七(前原一誠の父)の援助を受け、窯を開いたのが始ま
        りとされる。

        
         旧江本製陶所登り窯(通称・旦の登り窯)は、1840(天保11)年頃に陶工甚吉が登り窯
        を開き、製陶業繁栄へと繋がった往時を偲ばせる窯である。

        
        
         登り窯は荒れるに任せた状態で、窯の中は崩れている箇所もある。

        
         1890(明治23)年頃にブロック状の大型煉瓦を使って建てられ、「とんばり」と呼ば
        れる窯10袋と火力調整用のふかせ1袋、煙突1基で構成されている。
         第二次大戦後、硫酸瓶はステンレスやポリエチレン製の容器に取って替わられ、旦地区
        の製陶業は衰退してしまう。

        
         煙突の高さは12.3mあったとされるが、煙突の上部は崩落している。

        
         片隅に置かれた硫酸瓶。

        
         このような風景が所々に残っている。

        
         小野田線が接近(一丁田踏切)する反対側に、空地と民地の間に田平山墓地への細い道が
        ある。陶工・甚吉の墓は奥まった右手の片隅にある。

        
        1840(天保11)年代に都濃郡富田(現在の周南市)の製陶に携わる家に生まれたが、小
        野田の伊藤家に作男として農作業をしていたある日、旦の畑の土が焼き物に適していると
        甚吉窯を起こした。一人作業で効率の悪さや販路も小さくて大した儲けもないまま、18            
        58(安政5)年に病没する。

        
         線路に沿いながら坂道を下ると旦児童公園。

        
         有帆川を見ながら河口を目指す。

        
        
         目出駅は「メデタシ」の語呂合わせから一時期、入場券ブームを呼ぶ。1915(大正4)
        年小野田軽便鉄道の小野田駅とセメント町間が開業した際に設置されたが、1982(昭和
        57)年の秋、無人駅になってしまう。

        
         松江八幡宮は、奈良期の709(和銅2)年江本四郎丸貞頼が宇佐から勧請して社殿を祀り、    
        目出地方の守護神としたのが始まりと伝える。

        
         目出という地名は、寄進された社領地の税を免ぜられた免田による語音の転化であって、
        いつしか「めで(目出)」となり、社号の松江は松の生い茂る入江に因んだものとされる。

        
        
         線路が周囲より高い場所または低い場所に設けられた踏切は、極端に盛り上がったり窪
        んだ形状になるため、「かまぼこ型踏切」といわれる。見れば線路付近が高くなっている。

        
        
         県道233号線(小野田港)に合わすと、三差路手右の小野田橋東詰には、硫酸瓶が「お
        わに船」によって積み出される様子をイメージして造られた広場がある。

        
         1891(明治24)年に操業を開始した日本舎密(せいみ)製造㈱小野田工場では、硫酸を製
        造して頑丈な硫酸瓶に詰めて出荷されていた。舎密とは英語のケミカルの当て字で「化学」
        の意味だそうだ。
         いくつかの社名変更を経て、1937(昭和12)年現在の日産化学工業と改める。197
        2(昭和47)年に硫酸製造は中止され、現在は農薬や殺虫剤、医薬品の原薬が製造されてい
        る。

        
         南栄町から中川1丁目付近も現在的な建物に様変わりしている。(正面に小野田線)

        
         JR南中川駅も小野田軽便鉄道の開通に伴い、中川町停留場として設置される。築堤の
        上に設けられた片側使用のホームから、市街地や工場群を見渡すことができる。小野田線
        も日中の便数は少なく、利用するには不便である。

        
         バス利用のため県道に出ると、シルバーセンター敷地内に「風水害救援感謝碑」がある。
        1942(昭和17)年8月27日の周防灘台風により市街地が水没し、死者142名が出る
        など甚大に被害を受けた。全国から救援物資をいただいた感謝を表す碑である。

        
         バスの便数が多いので、時間に束縛されることなく歩くことができる。(中川通バス停) 


山陽小野田市の厚狭は旧山陽道筋と寝太郎さんの町 

2018年09月08日 | 山口県山陽小野田市

                     
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
 
   
         厚狭は町の東部を厚狭川が南流し、標高の低い山に囲まれた厚狭盆地に市街地、その周
        囲に水田地帯が広がる。東西を旧山陽道が通り、南流する厚狭川と交差する左岸に厚狭市
        が形成される。船木、吉田宿の半宿であったが、海辺への利便性がよく商業が発達する。
        (歩行約8㎞)

           
         JR厚狭駅は、1900(明治33)年に山陽鉄道が三田尻駅から延伸し、その終着駅とし
        て開業する。1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で改築された駅舎は健在である。

           
         厚狭の寝太郎伝説は、1842(天保13)年の「防長風土注進案」に物語の原型とされる
        記述がある。この物語は灌漑工事という事実と、それを行った寝太郎という人物が民話と
        して結びついたと考えられている。
         民話によると、寝太郎の父が庄屋であることや三年と三ヶ月寝て暮らしたこと。佐渡金
        山の草鞋から資金を調達し、厚狭川を堰き止め、大井出(土手)や水路を作り、千町ヶ原の
        沼地を水田にした話などが加えられて、現在の寝太郎物語が形成されていったとされる。
         一説には大内氏の家臣だった縄田四郎兵衛(平賀)清恒がモデルともいわれている。

           
         閑散とした千町商店街。

           
         美祢線踏切を越えた四差路の角に福永薬局。看板は武田薬品前身の武田長兵衛商店時代
        のもので、全国的にも珍しいとか。

           
         明治36(1903)年創業の民正堂は、厚狭銘菓のダイナマイト羊羹を製造・販売されてい
        た。ダイナマイトの形をした羊羹とのことだが、厚狭にある日本化薬の工場でダイナマイ
        トを製造していたということに由縁するそうだ。

           
         杉井金物店は店舗兼住宅といった造りである。

           
         厚狭毛利家の助言により、1625(寛永2)年に当地の枝村家が同家の鎮守神として、萩
        の金谷天満宮の分霊を勧請したことに始まるという。天明年間(1781-1789)の頃、鴨ノ庄村
        や末益村の開拓地が水害にあい、土手を築いて侵入を防止したが役に立たなかった。18
        30(文政13)年に天満宮をこの堤防に遷祀して堤防の守護神としたとされる。 

           
         街灯があってレトロな感じの鴨橋だったが、新しい橋に架け替えられ、明治4年(1871)
                8月と刻まれた橋の親柱が残されている。橋を渡れば旧山陽道筋の厚狭市(本町商店街)で
        ある。

           
         健康茶「どくだし茶」の看板がある村谷茶店。
  
           
         清酒「山猿」の銘柄のほか、焼酎、ワインを手がけられている永山酒造。

           
         本町は江戸期から明治にかけて、厚狭川を渡った千町は明治から昭和初期に建てられた
        家屋が多いとされる。

           
         レトロな雰囲気を残す佛工所。

           
         現在は日本棋院山陽支部となっているが、それ以前は何に使われていたかは不明である。

           
         フクマン醤油の商標で、みそ・しょうゆを製造販売されていた福田屋本店。その手前は
        旅館「山城屋」だったとか。

           
           
         村田家の軒丸瓦と妻壁には丸に十字の家紋。

           
         左手の重厚な家は元造り酒屋で、雛めぐり期間中は公開されるとか。

           
         形状の違う鳥居が2つ並んでいるが、手前が護国神社の神明鳥居。奥側は鴨神社の一の
        鳥居で、その間を旧山陽道が通っている。

           
         鴨神社参道を旧国道2号線が横断する。

            
         風土注進案によると、大内氏の祖と伝える琳聖太子の母が来朝の折、厚狭の久津(現沓)
        に宮居した所と伝える。

           
         神社名は村内に賀茂御祖神社(現在の下鴨神社)の社領が、厚狭庄にあったことに由来す
        ると伝えられる。

           
         物見山の厚狭護国神社は、1866(慶応2)年12月に厚狭毛利家が開いた招魂場である。

           
         社殿左右に霊標が並んでいるが、その中に小倉戦争戦死者7名の家臣と、脱退騒動鎮圧
        の戦死者・桑原玄播の霊標がある。

           
         村谷茶店前まで戻って左折すると殿町筋。

           
         浄土宗・貞源寺の山門。

           
         向拝口は厚狭毛利家の玄関を移築したものとされる。厚狭毛利家の側室(3代元宣)の墓
        があるが、どうやら側室は自分の出所に縁のある寺に葬られたようである。

           
         毛利元就の五男である元秋を祖とし、後に八男の元康が元秋の後を継ぎ、関が原の合戦
        後、厚狭郡に1万5百石を拝領したのが厚狭毛利家の始まりである。
         その後、元秋の子・元宣が家督を相続し、厚狭郡末益村(現在の山陽小野田市大字郡)に
        居館を構えたことで「厚狭毛利」と呼ばれるようになる。現在は、殿町四自治会内に井戸
        と石垣の一部がわずかに残されているのみである。

           
         屋敷内に祀られていた神社。

           
         総社八幡宮の一の鳥居は、厚狭毛利家5代就久が奉納したという。

           
         厚狭毛利家との関わりが深い神社である。

           
           
         1582(天正10)年に毛利元康によって建立された妙徳寺は、厚狭毛利家の菩提所でも
        ある。

           
         洞玄(とうげん)寺は、毛利元宜が父元康(洞玄寺殿)の菩提を弔うため一宇を建立し、洞玄
        寺と寺号を改め曹洞宗の寺院として再建した。

           
         厚狭毛利の菩提寺として庇護を受けてきたが、1869(明治2)年の長州藩脱退騒動で、         
        時の住職・実音が反乱軍に加担脱走したことにより形式上は廃寺となる。正福寺(大津郡よ
        り引寺)と名前を変えさせられたが、1969(昭和44)年、洞玄寺に復した。

           
         千林尼(せんりんに)は宇部市西岐波に生まれ、16歳で結婚するがすぐに離婚して、20
        歳前後で仏門に入る。船木の逢坂観音堂の堂主となり、1869(明治2)年に玉泉庵(厚狭
        の吉部田)で60歳で生涯を終えた。悪路を石畳にするなど社会活動に貢献したため、女性
        ボランティア活動の先駆者ともいわれている。
         寺資料によると玉泉庵は洞玄寺末庵であり、2003(平成15)年に千林尼の墓石等を当
        境内に移したという。

                
         厚狭毛利家では、1774(安永3)年に6代元連の死により、世子がいなかったため娘の
        千代菊に徳山毛利家より養子を迎えた。
         しかし、夫は26歳の若さで逝去、一男二女の愛児にも先立たれる。1780(安政9)
        亡き父の7回忌にあたり「法華経一宇一石塔」を造立して追善供養を営んだとされる

           
           
         苔むした石段を上がって行くと、厚狭毛利家の2代(元康)から太平洋戦争で戦死した1
        4代(一彦)までの墓所で、42基の五輪塔と笠塔などがある。

           
         樹林に囲まれた寝太郎荒神社は、厚狭駅新幹線口近くの住宅街の一角にある。

           
         沼地だった千町ヶ原を美田に変えたとされる寝太郎に感謝し、1750(寛延3)年に石祠
        が建立される。 

         JR厚狭駅新幹線口から在来線の利用も可能である。