ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

船路は佐波川ダム下から三田尻(石州)街道 (山口市徳地)

2024年07月05日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         船路は佐波川の中流域および同支流の奥河内川・宮河内川流域の山間部に位置する。地
        名の由来について風土注進案は、川の傍らに船石という石があることによるとも。俊乗坊
        重源がこの地より船に乗ったことによるともいう。(歩行約5.8㎞)

        
         徳地の堀から防長バス佐波川ダム行き約21分、終点の佐波川ダムバス停で下車する。
        (トイレあり)

        
         バス停からバス路線を引き返すが、右手の道を行けば佐波川ダムと愛鳥林散策路がある。
        (出合橋より)

        
         右手に佐波川の堰から流れ落ちる水音を聞きながら左岸を下ると、この先が野谷と船路
        地区の境界である。

        
         重源上人の弟子である蓮花坊が筏に乗って指揮していたが、正面の大岩(僧取岩)に当た
        り、右の淵(僧取淵)に沈んだといわれている。川の中に念仏岩があり、僧取淵には当時運
        送中に沈んだといわれる「坊主木」が埋没しているという。

        
         関水(せきみず)周辺の見取図。

        
         鎌倉期の1186(文治2)年に周防国は東大寺再建の造営料国にあてられ、俊乗坊重源上
        人が国司の役に任じられる。上人は佐波川奥地に入り、建築用材を伐採して直径15㎝の
        綱で佐波川に運び出し、水運を利用して運搬する。
         しかし、水深が浅いので水かさを増すため、水を堰き止めて幅9尺(3m)、延長23間(
        46m)の細長い水路を設けた。水路は左岸側に特設され、川底を石畳として流木したもの
        で、これを「関水」という。(説明板より抜粋)

        
         関水は118ヶ所あったとされるが、現在はこの1ヶ所のみとされる。

        
         発電用水圧鉄管(有効落差約55m)は建屋の裏にあるため全体を見ることができない。

        
         佐波川発電所は水の落差を利用して発電する水力発電で、1956(昭和31)年9月に運
        用開始された。現在は無人で遠隔操作方式で管理されている。

        
         大雨後の川面に「すっぽん」と思われるものが日光浴中。カメは硬く重い甲羅もってい
        るが、すっぽんはカメに比べると柔らかいそうだ。(カメかも?)

        
         見返ると右岸に屋敷集落と久保橋、左岸に国立青少年自然の家への道。

        
         佐波川は一級河川で国管理とされているが、国交省大臣管理区間とその他に区分されて
        おり、その他の部分は山口県管理である。国管理は徳地堀の上庄方付近から周防灘に至る
        区間とされ、この付近は県管理河川である。(取水堰)

        
         国道489号線下を潜ると御馬(ごもう)集落。

        
         緑一色の風景が広がる。

        
         集落内の田圃に鳥居と社、右に石碑が見える。石碑は地再来築(大地の再生、未来を築
        く)とあり、圃場整備竣工碑のようだ。

        
         田の神(農耕神)が祀られているが、どのような伝承や農耕儀礼が行われるのかは知り得
        なかった。一般的には
山の神が春の稲作開始時期になると里におりて田の神となり、農耕
        に携わる農民を見守り、稲作の順調な生育を助け、豊作をもたらす神とされる。        

        
         石州瓦が映える農家住宅だが更新されている。

        
         集落の入口にある六地蔵は、地域を守る存在として祀られている。敷地内には「整地記
        念碑」も建立されている。

        
         国道筋を少し進むと左手に旧道入口がある。

        
         船路の中心部に入るが、1889(明治22)年の町村制施行により、船路村、引谷村、三
        谷村、八坂村の4ヶ村をもって八坂村が発足する。のち佐波郡徳地町を経て、現在は山口
        市徳地船路である。(船路中央上付近) 

        
         四差路の山裾に小社があったが、何が祀られているのかわからず終いとなる。 

        
         佐波川に向かって民家が連なる。

        
         山口県内では小瀬川と佐波川のみが国管理の一級河川である。小瀬川は山口・広島県の
        両県を流れるので国管理とされているが、佐波川は同程度の川が他にあるものの一級河川
        とされている。
         どうも周防国府と関係があるようで、国府を支える重要な川であるとされて管理されて
        きたことが、今日につながると考えられているようだ。(高瀬橋より上流を望む) 

        
         橋を渡ると古民家があり、左手には「桑原翁壽碑」と刻まれた石碑がある。

        
        
         船路八幡宮の社伝によれば、平安期の905(延喜5)年陽悦山の麓に創建されたと伝え、
        1082(永保2)年に社殿が焼失したので下庄の宮河内に移建された。室町期の1467(応
          仁元)
年に洪水のため社殿が破損し、現在地に遷座したという。
         宝永年間(1704-1711)に岸見村(現徳地岸見)の三坂神社と式内社論争が始まったが、18
        71(明治4)年に至って式内三坂神社は岸見の方と決定される。このため社号替えが命じら
        れ、御坂大明神を廃し八幡宮に改めた。

        
         旧道まで引き返して南進する。(国道に船路バス停)

        
         奥河内川に合わすと前方に宗円寺。三田尻(石州)街道の一里塚がこの深瀬集落に設けら
        れ、三田尻船場(現防府市)まで7里12町(約28.8㎞)、石州境の野坂(現山口市阿東)ま
        で8里(約31.4㎞)であった。

        
         宗円寺(曹洞宗)は古くには端正庵といい、真言宗であったという。この地は宍戸元続の
        所領となり、伊予の河野家とは血縁関係にあったので、1577(天正5)年7月に死去した
        河野通宣の牌所に同寺をあて、通宣の法名に因んで現寺号とし、山口瑠璃光寺の和尚を招
        いて曹洞宗の寺院にしたことに始まるという。

        
         佐波川は徳地柚木の三ツヶ峰に発し、防府市の周防灘に注ぐ流長約56.5㎞で島地川、
        三谷川など30の重要支流もつ川である。(支流の1つである奥河内川)

        
         サッカー広場バス停近くの交差点でバスが通過したが、手を振るとバス停で待ってくれ
        る。待ってくれた運転手さんに感謝しながら防府行きのバスへ乗り込む。