ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市の川下は中津居館跡から楠巨樹群

2024年08月06日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         川下(かわしも)は錦川がつくった三角州にあり、東は瀬戸内海に面する。大半は江戸期の
        干拓によってできた平地である。地名は錦川の下流にあることによるという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、向今津(こいまず)村、車村と中津村の区域をも
        って川下村が発足する。1940(昭和15)年岩国町など5町村が合併して岩国市に移行す
        る。(歩行約5㎞)

        
         JR岩国駅からいわくにバス梅ヶ丘行き約7分、大藪バス停で下車する。

        
         この延長線上に米海軍海兵隊岩国基地があるので、時折、航空機の離着陸によるものか
        地響きするような轟音が聞こえてくる。

        
         北側に飲食店が並び、南側には防衛施設事務所、駐留軍労働者労務管理機構、労基署な
        どがある。(車町1丁目)

        
         岩国市役所川下出張所に「ふるさとの散歩道」の案内板がある。

        
         1871(明治4)年創業の酒井酒造は、銘柄「五橋」で知られている。(中津町1丁目)

        
         川下小学校への道に入ると旧車村だが、車という地名は、まだ人家がない時、中津村に
        居住する加陽浄全が田屋を作り、中津境に水車をかけて用水にしたことによると伝える。 

        
         寿街区公園の向い側に大歳神社。五穀を守護し、家の安全・幸福を守護する大歳神が祀
        られている。

        
         大歳神社境内地には、会津戦争以降の殉死者を祀った忠魂碑がある。

        
         寿共用会館の地に川下村役場があったというが、確証を得ることができなかった。

        
         川向いが岩国領(藩)の港があった今津地区。河川敷には畑地が並ぶが、河川法により制
        約はあるものの、河川管理に重大な支障を及ぼさなければ耕作は可能のようだ。

        
         川下小学校の裏手に吉田二鳩先生頌徳碑がある。幕末から明治にかけて、寺小屋の時代
        から川下小学校となった後も、約60年間多くの子弟を教えたという。

        
         車川跡の案内があるが、この辺りから川下出張所の方へ車川が流れ込んでいた。169
        3(元禄6)年に川は堰き止められ、今のような三角州になる下地ができたという。

        
         大正橋の南詰に中津薬師堂の碑があるが、薬師堂を見つけ出すことができなかった。

        
         酒井酒造駐車場の奥に椿地蔵菩薩が祀られている。創建年など詳細はわからないが、椿
        の好きな人がいて、家の周囲に椿を植栽していたという。椿の守護を願って建立されたの
        で椿地蔵と呼ばれ、岩国南八十八ヶ所30番札所になっている。

        
         通りの名前はわからないが、昔ながらの家が見られる。

        
         専念寺(浄土宗)の本尊・阿弥陀仏は、元白崎八幡宮の中本坊であった神宮寺の本尊と伝
        える。1610(慶長15)年中津御屋敷地に創建されたが、1660(万治3)年当地に移建し
        た。 

        
         大藪バス停付近から楠交差点までに市道楠中津線が建設中であった。防衛省の補助事業
        だそうだが、三角州の中央を分断する形の道である。工事中の道を横断して門前川側に移
        動する。

        
         仏性寺(真宗)は、1617(元和3)年創建と伝える。 

        
         万行寺も浄土真宗で、1619(元和5)年3月岩国の牛野谷の地に小庵を創建する。明暦
        年間(1655-1658)に中津御屋敷地へ移転したが、その後、当地に再移転したという。寺境内
        の一部には、1948(昭和23)年開設の万行寺幼稚園がある。

        
         万行寺の先から今津川に向かうと寺裏に広い空地があり、片隅に「加陽(かや)和泉守やし
        き跡」と案内されている。
         岩国市によると、以前は「加陽和泉守居館跡」とされていたが、この人物は毛利元就の
        直轄水軍の一人として、厳島の戦いに参戦し、この合戦後に中津居館に駐留したとされる。
        誰が造ったのかという記録はないそうで、大内氏の時代、岩国を拠点に勢力を持っていた
        弘中一族が築いたのではとされている。居館の成り立ちから遺跡周辺の地名である「中津」
        をとって、「中津居館跡」に名称変更したという。

        
         古い石垣の案内によると、川下地区は土や砂には恵まれていたが、大きな石がなくて困
        ったという。朝日長者という人物が、屋敷の石垣の石を集めるのに、「石一ぱいに銀一ぱ
        いやる」といって集めた石でつくられた石垣とある。 

        
         楠3丁目街区公園(薬師堂公園)には、薬師堂、朝日長者やしき跡と土一升米一升の丘に
        ついての案内板がある。(正面の高台が土一升米一升の丘)

        
         案内によると、この地は瑞光寺の境内であったといい、玖珂郡志に「瑞光寺殿ハ大内弘
        世ノ息女ニシテ弘中氏妻也ト申伝」とある。室町時代に遡る古寺であったが、近世の初め
        に岩国城下の永興寺の末寺となる。万治年間(1658-61)に吉川広正が堂宇を再建し、吉川興
        経の位牌を当寺に預けたが、1866(慶応2)年興経父子の位牌を永興寺に移し、本堂など
        は解体されて廃藩とともに廃絶する。

          
              国道南岩国バイパスを横断して門前川沿いに出ると、「殿様いん居やしき跡」の案内が
        ある。2代目領主・吉川広正(1601-1666)は、1663(寛文3)年に家督を長男の広嘉に譲
        って隠居する。風光明媚なこの地を選んで隠居所としたが、3年後に隠居館で病没する。
        (場所は右手の墓地一帯)

        
         門前川上流へ向かうと楠の巨樹群が見えてくる。
        
        
         この楠は、1659(万治2)年2代領主の吉川広正が、隠居所を設ける際、堤防の改修時
        に楠を植えたともいわれる。
         また、1676(延宝4)年この地の庄屋が植えたという伝承も残されている。

        
         楠巨樹群の中に海原神社が建立されているが、創建年などはわからなかったが、漁業・
        航海・商業の神として崇められていたと思われる。

        
         本数は数えなかったが、11本が県天然記念物に指定されているとのこと。

        
         三角州の頂点で錦川が今津川と門前川に分流するが、門前川側に大きな井堰が設けられ
        ている。今津を湊にするため堰き止め、今津川の水量増を図るためとされる。

        
         今津川の右岸を下る。

        
        
         今津川橋を利用して、八幡バス停(13:45)よりJR岩国駅へ戻る。