この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年町村制施行により、貴飯村・久野村・楢崎村が合併して豊東郷村が
発足する。その後、楢崎村に村名変更したが、1951(昭和26)年岡枝村と合併して菊川
村に移行し、平成の大合併で下関市の一部となる。
久野(くの)は狗留孫山の南麓、田部川の支流である久野川流域に位置する。地名の由来に
ついて地下(じげ)上申は、往古、平野下野という侍が当地に居住し、下野死去後は9人の家
来が、この土地を拓いため九野と称し、これが久野になったという。
久野は旧長府街道筋ではないが、見どころもあるので散歩する。(歩行約3.1㎞、🚻な
し)
久野公民館に駐車して県道豊浦菊川線上の中村バス停付近から南下する。JR小月駅か
らバスを乗り継げば散歩することは可能だが、3集落を歩くには難がある。
県道沿いに大きな民家が並ぶ。
山間に田園風景が広がる。
日瀬(ひのせ)神社入口に稲原寅惣(1845-1930)翁の頌徳碑があるが、翁の一生は日本の興
隆期ー幕末から昭和初期にわたっており、その間、庄屋、戸長、村長など全生涯を地方自
治の振興と開発に尽力を注ぐ。
1959(昭和34)年の大干ばつでは、翁が精魂を傾けて築造した長谷溜池によって久野
地区は何も被害がなかった。同年に感謝を込めて碑が建立された。
日瀬神社は神仏混合時代に万年山妙見宮と称していたが、1874(明治2)年村社となり
日瀬宮に、さらに1909(明治42)年現社号に改称する。
1873(明治6)年神社境内に義方学舎が創立され、翌年には義方小学と改称するが、そ
の後に楢崎小学校の分校となったが、1886(明治19)年廃止される。
狛犬の台座には「近江源氏9代後胤 川北邑住人伊侂孫三郎源清長 天保15年(1844)」
とあるが、近江(現滋賀県)の方がどういう経緯で寄進されたのかは知り得ず。
正面に六万坊山を見ながら集落内を下る。
ケアハウス希望の郷への道に入ると菊川水掛不動尊。
広い敷地の一角に狗留孫山八十八ヶ所50番札所(薬師如来 )
菊川不動尊。
ここの湧水はラジウム泉質で、眼病、水虫、胃腸に効能があって、他地区から参詣して
冷水を持ち帰るという。
貴飯(きば)は狗留孫山の南麓、田部川の支流である貴飯川の流域に立地する。
地名由来について地下上申は、仲哀天皇が華山に登った時、この地で土地の者が食事を
差し上げたところ、喜んで「いと貴き飯なり」といったことによると記すが、木場を貴飯
としたものともいわれる。(歩行約1.3㎞)
県道の脇に庚申塔。
道標には「右楢原・内日(うつい)・小月」「御成婚記念」大正13年(1924)松田民三郎と
刻字あり。
貴船神社遥拝所改築記念碑があるが、詳細は知り得ず。
光明寺(真宗)の寺伝によると、開基の空正は上杉弾正顕定の子で、15歳の時仏門を志
す。室町期の1496(明応5)年西下し、貴飯に来て大藤浴の上に一宇を建立する。
のち、楢崎の麓にあった金光明無量密院の本堂を移して光明寺と称するようになり、1
648(慶安元)年寺地を現在地に移して本堂を建立したという。
光明寺前の道は、江戸期には郡部から長府藩へ通じる長府街道で、杢路子(むくろうじ)浴
を上り、貴飯峠を越えていたので、光明寺は幕府巡見使の本陣(休憩・昼食場所)となった。
1633(寛永10)年から1838(天保9)年まで10回幕使を迎え、脇本陣は惣別当の林家、
迫田家であったという。
生活バスの新藤内畑付近だが、民家は点在している。
楢崎は狗留孫山の南麓、田部川の支流である久野川、貴飯川の流域に位置する。
地名の由来は、古来、山林に楢の木が多いからという。(歩行約2km)
美栄(みさか)神社は、出雲大社から勧請されたが、その年代は不詳とされ、古くは妙見社
と称していたが、1803(享和3)年に現社号となる。国道491号の工事により現在地に
移転したと案内されている。
中の田公会堂前に猿田彦。
ヤマザクラと旧菊川町の町章がデザインされた農業集落排水用のマンホール蓋。
楢崎の田園地帯。
国道を横断すると楢崎(岡田)の町並み。
この付近が楢崎の中心だったと思い歩いてみたが,家々は更新されて昔日の面影は残っ
ていなかった。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
厚保川東村、厚保原村、厚保本郷村はもともと厚保村(あつそん)であったが、1871(明
治4)年の大小区制で3ヶ村に分かれた。1889(明治22)年の町村制施行時に、厚保川東
村は従来から村立していた山中村と合併し、東厚保村に移行する。一方の原村と本郷村は、
施行時に合併して西厚保村となる。
山中は厚狭川の支流である随光川流域の谷底平野に位置する。八頭の大蛇が逃げ込んだ
という伝説があるほど深山幽谷であり、それが地名の由来であるという。(歩行約2㎞)
JR厚狭駅から美祢駅行きの路線バスがあるものの、1日往復1便のみでバス利用する
には難がある。山中の中心部がよくわからないが、簡易郵便局や小学校がある地を歩いて
みる。
平地に水田、山裾に民家という農村風景が広がる。
庚申塚、地蔵尊などが並ぶ。
緑色の建物が東厚保簡易郵便局。
郵便局前から随光川に架かる横坂橋を渡り、西之浴集会所を過ごすと大隅八幡宮の参道。
(入口には8月21日に風鎮祭を行う旨の案内がされている。)
大隅八幡宮は室町後期頃に勧請されたと伝えるが、どこの神社から勧請されたかなどの
詳細は知り得ず。
境内から見る横坂集落。
「紹隆三宝」と刻された碑。
この付近が集落の中心地のようで、元は農協、商店、理髪店などがあり、生蓮寺の北の
丘には徳蔵庵という真言宗の寺があったが廃寺になったという。
随光川左岸の旧道に面する家々。正面に中国自動車道が域内を横断する。
山中は山中石灰を産出し、1902(明治35)年頃には生産量が一俵(約30kg)にて10
万俵を下ることがなかったが、大嶺線(現在の美祢線)が開通すると、伊佐石灰の生産が急
増し、大正期になると山中石灰は減少し生産中止に追い込まれる。
右岸にある生蓮寺(真宗)の寺伝によると、大橋彦右衛門重吉が仏門に入って法名を信教
と称し、1587(天正15)年8月に光録庵(土井ヶ内)の古跡を復活して一寺を建立。のち
に現在地へ移った。
東厚小学校は、1879(明治12)年山中小学として開校したが、2017(平成29)年3
月末で閉校となり、現在は東厚コミュニティセンターとして活用されている。
自動車道横坂高架橋下の地蔵尊を拝んで駐車地に戻る。
川東(かわひがし)は厚狭川中流域と同支流・柳井川、平原川の流域に位置する。
地名の由来は、厚保(あつ)の厚狭川以東地域ということによるという。(歩行約1.9㎞)
JR四郎ヶ原駅は、1905(明治38)年厚狭駅ー伊佐駅(現在の南大嶺駅)間が開業する
と同時に設置された。駅名については駅所在地の地名ではなく、 約1.8㎞北にある赤間
関街道の四郎ヶ原宿から命名されたといわれている。
駅近辺は閑散としている。1954(昭和29)年3町2村が合併して美祢市が発足し、東
厚保村が廃止されたのに伴い、村役場が東厚支所になったとされるが、支所も廃止され場
所の特定できず。
大向踏切で駅の裏側に廻ってみる。
裏手も閑散としていた。
天満宮とされるが由緒がないので詳細を知り得ず。
駅があるものの長閑な山間の地にある集落だった。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年の町村制施行により、樅ノ木、道市、轡井など12ヶ村の区域をも
って豊東村(とよひがしそん)が発足する。現在の下関市菊川町の東半分に位置する。
その中の轡井(くつわい)は、西北に高畑山地が続き、東に猿王岳の山地が連なる。この2
つの山地の間にある集落で、中央を駒込川が南流し木屋川に合流する。地名の由来は、往
古、当地の山林を開墾した時、地中から轡(馬の口にくわえさせて馬を制御するのに用い
る用具)を掘り出したことによるという。(歩行約3.2㎞)
轡井には下関生活バス樅ノ木線があるものの予約バスで、利用が難しい地域である。県
道日野吉田線を北上すると、右手に「厳島神社参道入口」の看板があり、路肩に駐車して
神社への道を進む。
途中から参道へ廻り込むと厳島神社の鐘楼門。
梵鐘は、1702(元禄15)年に三浦半右衛門が願主となり、氏神である当神社に寄進し
たという。先の大戦で武器生産に必要な金属資源を確保するため、金属類回収令が発動さ
れたが特例で残されたという。(市指定有形文化財)
1678(延宝6)年創建とされる社殿は、1846(弘化3)年に再建されたと伝わる。(権
現造り)
下轡井と上轡井の境なのか庚申塚。
赤いトタン屋根は緑豊かな山間の農村集落にマッチする。
1876(明治9)年開校の貴和小学校は、1907(明治40)年豊東尋常高等小学校に統合
されたが、遠距離通学のため3年生以下は貴和小学校校舎を利用した分教場で学ぶ。
現在の校舎は、1903(明治36)年現在地に移転して新築されたもので、その後、増改
築などは行われたようだが、現在は「貴和の舘」として都市農村交流の拠点として活用さ
れている。
グラウンドの片隅にあるのが明拙呦記念碑。明拙呦師は薩摩藩士で姉がいたが、一向宗
を信仰したため藩禁に触れ極刑に処せられる。師は逃れ高野に入り僧となり、20年の修
行を終えた後、長門国の知友・長慶寺に寓居する。
1872(明治5)年学制発布がされて、小学校を設立せんと多難を排して、1876(明治
9)年念願の小学校竣工を迎える。山口県令はその功を賞し、貴和小学校名と時計を下附し
たが、その年の6月、病をもって没す。享年54歳。
人口減少と高齢化により、担い手不足による耕作放棄地と空家が目立つようになってい
るとか。
轡井分校に通学した轡井・道市・樅ノ木の3地区民の方々が「貴和の里につどう会」を
設立され、美しい里づくりに取り組んでおられる。
竈(かまど)でご飯炊き、五右衛門風呂、囲炉裏といった農家の生活が体験できる「貴和の
宿」がある。
最奥部から見る轡井集落だが、駒込川沿いに道市から吉田(山陽道)に通じる街道があっ
たという。
道市(みちいち)は江舟山東麓、厚狭川の支流である原川の上流域に位置する。この地は山
間にありながら各地に通じる交通の要地でもあり、中心に自然と市ができたので、これが
地名になったという。(歩行約1.8㎞)
河内神社を中心として道筋に民家が並ぶ。
河内神社は室町期の1495(明応4)年、上保木の雨郷から勧請され創建されたというが
確証はないとのこと。もと別の所にあったが、1696(元禄9)年現在地に遷座した。
境内には生育に適し、地元民に守られてきた樹齢300余年の「夫婦杉」と呼ばれる巨
樹がある。
2015(平成27)年の国勢調査によると、14世帯27人が暮らす集落である。
2005(平成17)年に菊川土地改良区が、農地の高度利用促進する事業を行った旨の碑
が、樅ノ木と西厚保町原への三叉路に建立されている。
引き返して保木地区への道に出ると、ここも広い屋敷地に大きな家が並ぶが、獣害防護
柵が張り巡らされて柵の中にいるような錯覚を覚える。
重厚感のある主屋、納屋、蔵が一体化された農家住宅。
静かな山間の農村風景を楽しんで樅ノ木地区に移動する。
樅ノ木(もみのき)は北に豊ヶ岳、西に大了寺山を望み、四方を山に囲まれ、厚狭川の支流
である原川の源流をなす山間の集落である。地名の由来について地下上申は、「小村の樅
ノ木村と申すは、往古、此所に樅ノ木の大木があり、それ故に村名になった伝える」とあ
る。(歩行約0.9㎞)
2015(平成27)年の国勢調査によると、5世帯13人が暮らす小集落である。
集落を見守るように三界萬霊塔。
下関市(菊川)生活バスの終点。
天保2辛卯年(1831)3月建立の鳥居を潜ると長い急階段。
広い平地の片隅に鎮座する河内神社は、現菊川町東長野の若宮八幡宮の末社とのこと。
緑に囲まれた集落。
集落に空家や休耕田を見ることがなかった。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
高佐(たかさ)は蔵目喜(ぞうめき)川流域で高度300m以上の山間高地地帯、滑山や白浜山
が南東側、東台・西台と続く高い溶岩台地や北に権現山がある。その間の高佐盆地は、南
の伏馬山噴出による堰塞湖盆地で、肥沃な生産地帯を形成する。
地名の由来は地下(じげ)上申によると、往古は宅佐郷といい、のち両村に分かれ、雪も浅
く地勢のよい部を吉部と称し、当地は地形高き所ゆえ高佐村になったと伝えるが、他説も
存在する。(歩行 本郷約1.8㎞、上市約1㎞)
湯田温泉から吉部行きのバスがあるが、便数が少なく接続も悪く日帰りが難しい。(バス
停近くの路肩に駐車)
本郷で早くから酒造業をしていたのが櫛部家で、1912(大正元)年白井家に経営が移り、
櫛部時代の屋号「泉屋」と「白井家」の白をとって銘酒「白泉」とされた。
集落は山裾に点在し、蔵目喜川に沿って水田が広がる。
禅林寺への道がわからず、行き過ぎてしまって花見公会堂まで行ってしまう。この道は、
萩から津和野に至る石州街道(白坂筋)であるが、1887(明治20)年代に道路改修された
後の道路敷である。
引き返すと寺への案内と穴観音古墳の案内もあり、古墳の案内に従って入ってみるが探
し当てることができず。
花見集落とその奥に、馬が伏せたような形の伏馬(ふすま)山がある。標高499.1mの
山は、玄武岩質マグマの噴出によってできた山で、現在は死火山とされ、別名高俣富士と
も呼ばれているが、山頂にはテレビ中継塔が林立する。
禅林寺(臨済宗)は同宗の妙性院・高大寺・高徳寺が合併し、妙性院の地に住居して徳性
寺となり、1974(昭和49)年さらに三岳寺を合併して現寺号になったという。
境内にある宝篋印塔は、石見三本松(津和野)城主・吉見正頼の息女が、1585(天正1
3)年8月萩の指月邸で病死し、遺言により休息地であったこの地に葬ったという言い伝え
がある。
墓銘文は「妙性院殿」「吉見正頼息女「萩津死所」「天正十三年乙酉八月廿六日」とあ
るという。
「大正4 11月」と印刻された灯籠とお旅所の神輿台、鳥居は明治43年(1910)4月
建立。
高佐八幡宮の由緒によると、平安期の859(貞観元)年宇佐八幡宮より勧請し、域内の宮
面(みやめん)に祀った。後に現在地へ遷座し、1584(天正12)年吉見氏が社殿を造営した
と伝え、現社殿は1798(寛政10)年、拝殿と神楽殿は19世紀初めと推定されている。
高俣祖霊社の詳細は不明であるが、明治初期に設けられた社で氏子の先祖霊を祀ったも
のとされる。
宮廻集会所付近の民家は空家が続く。
1876(明治9)年に高俣小学が創立されたが、1998(平成10)年吉部小学校と統合し
てむつみ小学校となり、跡地はコミュニティセンターになっている。一角に碑と給食棟の
ような建物が残されている。
萩から石州津和野に至る石州街道(白坂筋)が蔵目喜川の右岸を通り、本郷が高佐の中心
地となり賑わった。1918(大正7)年ここ上市に村役場移転すると、賑わいも移転してき
たという。
1889(明治22)年町村制の施行により、高佐上村・高佐下村と片俣村が合併して高俣
村となる。その後、昭和の合併では吉部村と合併して「むつみ村」となるが、平成の合併
で萩市の一部となる。むつみ村は日本で唯一のひらがなの村名で存在していた。
通りに残る唯一の商店。
旧むつみ村の特産品である紫福(しぶき)メロン、桃太郎トマト、千石台だいこんがデザイ
ンされた集落排水用マンホール蓋。
1948(昭和23)年に高俣農協として設立されたが、その後、統合により支所となった
が、2016(平成28)年12月に支所機能が消滅したようだ。
建物のガラス戸には旅館名が残されている。
こんもりとした杉林の中に赤塚稲荷神社がある。
石段を上がり草地の道を辿ると、鬱蒼とした中に赤塚稲荷神社があるが、創建など詳細
は知り得なかった。
上市の北端。
阿武東メインカントリーエレベーターは、農家が収穫した米が籾(もみ)のまま持ち込まれ、
重量が計られた後に大型乾燥機により乾燥される。乾燥された籾は温度管理され、出荷ま
で保管する施設である。
片俣は蔵目喜川の源流となる阿武高原の奥地に位置する。地名の由来について地下上申
は、嘉年郷が相撲の小俣を跳ね上げる片俣取りの手で高佐郷に勝ち、片俣と呼ばれるよう
になったという伝説があると記す。(歩行約2㎞)
国道315号と県道萩津和野線の三叉路に「道の駅うり坊の郷」(🚻)
国道を阿東方面へ歩くと第二金谷橋付近に集落が形成されている。
石州街道(白坂筋)は県道萩津和野線を横断して、蔵目喜川を渡り、阿東方面に200m
ほど進むと国道を横断する。のち旧村道出合線に入ると、金谷(かんだに)集落の中心部に駅
や札場があったとされるが場所は不明とのこと。
地元の方に会うことはなかったが牛が迎えてくれる。
恵美須神社の境内には、大正14年(1925)4月に社殿新築した旨の石碑が立つ。
盆地に稲作が広がるが「奥あぶ清流米」であろうか。
光雲寺(臨済宗)は、1870(明治3)年霊光寺と御舟子(みうなご)の養雲寺が合併し、霊光
寺の地に住居して現寺号に改称する。霊光寺の創建年代は不詳だが、当地の鎮守・天神社
の社坊として建立されたという。
片俣八幡宮は平安期の807(大同2)年、宇佐八幡宮より当地に勧請したとされる。
国道を挟んで道の駅の向い側にむつみ村高感度地震観測施設がある。地下203mの井
戸に地震計が設置され、高感度の地震観測が行われている。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
仁保下郷は白石山に西方、仁保川上流に位置する(歩行約5.6㎞)
JR仁保駅は仁保の西端に位置し、中心地の井開田地区までは2㎞も離れている。
山口線の山口~篠目間は、1913(大正2)年1月に工事が開始されたが、2年後の19
15(大正4)年12月23日、木戸山トンネルで落盤事故が発生して作業員56名が生き埋
めになる。昼夜を問わず救出作業が行われ、発生から120時間後に救出抗が開き32名
が救出されたが、24名が犠牲となる。
1916(大正5)年7月トンネル開通後、仁保駅構内を見下ろす高台に「招魂碑」が建立
される。(ホームに戻って探すと山手側に碑が見える。)
駅構内から見えるのが事故のあった木戸山トンネル(583.38m)で、篠目駅まで6ヶ
所のトンネルと高い擁壁の築堤など難工事の末、1917(大正6)年7月1日山口~篠目間
が開通する。
駅前の古民家。
この道は中国自然歩道で、山口県庁から一の坂川、常栄寺雪舟庭、KDDI衛星通信所
を経て、仁保川沿いを上流して磯村磯多生家から徳地へ至る道である。
国道376号から分岐すると仁保市。
ほぼ直線的な道が東へ向かって延びている。
旧仁保郵便局は民家となっている。
池田百貨店周辺にも理髪店や仁保農協支所などがあったが現存しない。
舟山八幡宮は平子(たいらこ)重経が源久寺の山道傍に建立したが、南北朝期の1347年、
重経から6代目の平子重嗣の手によって現在地に建立された。
後に大内氏が社殿を再建したが戦火により焼失し、1613(慶長18)年に毛利輝元が再
々建している。
八幡宮と御旅所の間に2つの祠がある。(左は恵比寿社)
舟山八幡宮御旅所には大杉がある。
御旅所から見る仁保市集落。
最近は少なくなったトタン葺きの家屋。この付近に1955(昭和30)年代に梅田醤油店
があったとされるが面影すら残されていない。
仁保酒舗。
浅地川に架かる仁保市橋までが仁保市。
教林寺(真宗)は、山口市矢原で医者をしていた石津玄祖が僧となり、一寺を建立したの
が始まりとする。1819(文政2)年現寺号が付けられ、木戸山トンネル事故の犠牲者24
名のうち20名を10代住職が導師となり、法名を与え葬儀が行われた。
橋を渡れば野上集落だが、多くは現在風の建物が主流を占める。
左手にKDDIのパラボラアンテナが見えてくる。この方角を向くアンテナは、インド
洋上の衛星と交信している。
峠が下郷と中郷の境で国道を引き返す。
鷹野原墓地由来によると、河川改修や圃場整備により一帯は整備されたが、墓地は荒地
と化していたため整備・安置したとある。
長井家は旧家であったことが記され、吉田家については三浦家初代平子重経より分家し
た家系だが、室町期の1569(永禄11)年10月、吉田元種、武種父子は吉川元春の家老
・江田智次により浅地川で殺害され、この地に葬られたとある。
大内・陶氏滅亡、毛利氏の時代へと移行する中で、領主だった三浦(仁保)氏も時代の波
に押し流される。
鎌倉期の1197(建久8)年地頭職として下向した平子重経が、居館を構えた地といわれ
る。重経の子孫は地頭として、以後、この地に居住し、その出目の姓をとって三浦氏、ま
た当地の名によって仁保氏を称した。
近世に入り、毛利氏に仕えて三浦元忠の時、亀山城番を命じられて山口町に住すること
になり仁保の地を離れた。
源久寺参道脇に平子重経の墓と伝える高さ1.6mの宝篋印塔がある。年号などの刻銘は
ないが、鎌倉時代の形式がよく残るとされる。
1984(昭和59)年住職が知人から株を譲り受けて植えたもので、夏には大賀ハスが大
輪の花を咲かせて訪れる人を楽しませてくれる。
2022年は例年ない水不足により、蓮田に水があたらずハスの花を見ることができな
い。(2016年9月に撮影)
源久寺の寺伝によると、鎌倉期の1199年に源頼朝が没したので、仁保庄の地頭・平
子重経が当寺を創建して、その位牌を置いたという。1244(元仁元)年に重経が没し、
当寺に葬られて法名源久寺殿西仁大禅定門と称し、以後、源久寺は三浦家(仁保家)の菩提
寺となる。
第22代・三浦元忠(1555-1596)の墓とされる宝篋印塔が墓地内にある。
門前バス停(13:02)よりJR山口駅に戻る。
源久寺から妙見社、玄答院を経て深野八幡宮まで約7㎞もあり、後日、車で訪れる。深
野八幡宮は、いつ、誰が創建したかは不明であるが、昔からあった社に平子氏の分家、深
野氏が舟山八幡宮から勧請して祭ったものであろうと伝えられている。
境内にはねじれながら成長した「ねじれ杉」がある。
玄答院(曹洞宗)の開創年は不明だが、弥称寺、寿光寺、法春寺、玄答院と寺号が4度変
わっている。1577(天正5)年弥称寺再興の時に曹洞宗となり、益田景祥の菩提寺となっ
て母の戒名から法春寺、1630(寛永7)年に景祥が没したことにより、戒名から現寺号と
なる。
本堂に上がると左手に高さ270㎝の大きな阿弥陀如来像がある。深野八幡宮の社坊、
神宮寺に祀られていたもので、深野大仏と呼ばれている。
仁保上郷の大畑神社(妙見宮)と仁保中郷の諏訪神社、この妙見社を仁保三古社という。
妙見社は一説によると、595(推古天皇3)年下松の老松に星が降りかかり、占い師が「3
年後異国より太子がくる。それを守るために天から降った」と予言し、百済の国から琳聖
太子が上陸、妙見神社が建立されたという。
その後、各地に勧請され、平安期の826(天長3)年仁保下郷に妙見宮が建立されたと伝
えられる。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
仁保中郷は仁保盆地の中心に位置し、仁保川とその支流・坂本川、石坂川流域に位置す
る。(歩行約4.8㎞)
JR新山口駅(8:20)から防長バス道の駅「仁保の郷」行き約1時間10分、KDDIバ
ス停で下車する。
たばこや果樹が栽培されていた地に、1969(昭和44)年我が国2番目となる国際通信
所が開設される。アメリカと日本の通信は太平洋上の衛星、ヨーロッパはインド洋上の衛
星を使って行われ、当通信所はヨーロッパとの通信を受け持っていた。現在は通信技術の
進歩により2ヶ所あった通信所は仁保に集約されている。(見学はコロナ禍のため事前予約
制)
諏訪社はバス停の先右手に「ひらきの里」の案内があり、道なりに進むと左手の高野公
民館敷地内に鎮座する。
仁保の三古社の1つで、大内氏の鎮守といわれ、狩猟・農業の神である。昔は鷹野と呼
ばれて鷹狩りが行われていたため、狩猟にまつわる諏訪社が建立されたという。
仁保中郷の家並み。
左手の道に入ると井開田地区。
招魂社から見る井開田地区。
日清戦争から日露戦争に従軍し戦死した仁保村の霊を慰めるため、日露戦争後の190
6(明治39)年現在の大内町招魂社境内に碑が建立された。
1955(昭和30)年仁保・大内・小鯖の3ヶ村が合併して大内町になると、太平洋戦争
までの戦病死者・570柱(仁保地区は202柱)を慰霊するために、全村からの寄付で、
1959(昭和34)年に大内町招魂社が建立される。
パラボラアンテナがデザインされたマンホール蓋。
長州藩(萩藩)は藩庁となる居城を萩から山口へ移鎮したことにより、萩と山代を結ぶ山
代街道は、萩~鹿野間が山口から仁保、徳地を経由する道に変更された。
仁保川手前にあった山根自転車店も廃業。
1901(明治34)年仁保中学校下に、病床数13床(収容可能人数36人)の伝染病患者
に対応できる避(伝染病)病院が開設された。この病院は1948(昭和23)年頃まで続いた
とされる。(現在は畑地)
皇徳寺(曹洞宗)は、1872(明治5)年釈迦堂の横に廃寺となった見性院の檀家が中心と
なって竹林寺が再興された。1880(明治13)年鹿児島の天皇家由来の皇徳寺の寺号を引
き継いで現在に至るという。
1690(元禄3)年建立の釈迦堂には、平安末期の釈迦如来像ほか二天立像、地蔵像が祀
られている。
皇徳寺墓地の東側から衛星通信所のアンテナ群が望める。東向きのアンテナはアメリカ、
西を向いているのがヨーロッパで、他にインマルサット衛星を介して航空機、船舶の通信
も行われている。
1717(享保2)年の春、入会権のない他地区の農民が、何度も仁保の山野に立ち入って
柴草を刈り取ったことから「下田のしぐれ」事件が起こった。当時、芝草は田畑の大事な
肥料であったため、庄屋たちは藩の役所に訴えたが聞き入れてもらえず、怒った農民80
0人余が上郷から篠目経由で藩庁へ訴え出ようとしたが、途中で役人に制止・説得されて
訴えは収まる。
その後、仁保の言い分が認められたが、7人の庄屋は騒ぎを起こした罪で、1718年
下田河原で斬首された。遺骸は下田の山中に埋葬され、その威徳を偲ぶ墓標と六地蔵が建
立された。
仁保川に架かる下田橋の袂に、仁保七義民300年祭の六地蔵と、対岸に「七義民の留
魂」碑がある。
1889(明治22)年の町村制の施行により、仁保上・中・下郷村が合併して旧村名を継
承して発足し、左手の派出所付近に仁保村役場が設置された。その後、大内町との合併を
経て、1963(昭和38)年に山口市となる。
この周辺に仁保農協本館、生活部、ガソリンスタンド、安藤医院(現存)などがあったと
される。
仁保井開田の谷口周辺の水田は、水量が少なく耕作するのに苦労が多かった。そこで江
戸末期、水量の多い坂本川の水を谷口周辺に廻す工事が行われた。この偉業を後世に伝え
るために、1926(大正15)年に溝渠(こうきょ)碑が建立される。(碑は林の中)
天神社は元井開田周辺の給領主であった国司氏が、防府天満宮から勧請したものである。
境内には1872(明治5)年に建立された菅原道真の歌碑がある。
信行寺(真宗)の開基は、毛利氏の家臣であった香川景邑が、牧川(仁保)に来て念仏三昧
の生涯を送ったが、その子・玄秀が現在地に建立したのが始まりとする。
1897(明治30)年8月8日午後9時半頃、隕石記念碑の西約50mの水田と信行寺
本堂裏に隕石が落下し、近くの住民が探索して2つの隕石を発見した。1個は東京の国
立科学博物館に収蔵されている。(1個は所在不明)
大正期に建てられたという煉瓦造の蔵がある民家。
東井開田地区の東端付近で県道に出合う。左手は徳地町八坂、右手は国道に合流する。
衛星通信所を見ながら道の駅「仁保の郷」に戻る。
道の駅バス停(14:13)からJR新山口駅行きに乗車する。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
仁保上郷(にほかみごう)は物見ヶ岳南麓、仁保川上流に位置する。北から東は標高500
~800mの山地が広がり、南北に細長い地域である。
この地を訪れる公共交通機関がないため、車に頼る以外に方法はない。
仁保川の塩川橋を渡れば仁保上郷の北河内地区。
北河内の県道沿いに疣(いぼ)が治るという地蔵尊が祀られている。疣ができた人が祈願し
ても治らないが、人に頼んで祈願すると治るという不思議な地蔵尊で、別名「ことづけ地
蔵様」と呼ばれている。
左右の山裾に数軒の民家が軒を並べる。
県道沿いの「月読神社・石風呂」の道標に従うと、急坂で荒れた山道である。
月読命を祭神とする月読神社。1874(明治7)年山口の多賀社より移転したという。
長崎県壱岐の神社に祀られたのが始まりとされ、最初は海上の神であったが、その後農
耕の神として祀られるようになったという。
石風呂は現在のサウナ風呂のようなもので、石を丸く囲んでドーム状に積み上げ、その
中で薪などを燃やして熱くした後、石菖(せきしょう)や筵(むしろ)などを敷いて寝ころんだ。
医者にかかることが少なかった時代に疲れを取り、病を癒す貴重なものであったという。
石菖はサトイモ科で水辺に群生する常緑の多年性植物で、根茎や葉は薬草として用いら
れている。
法雲院(曹洞宗)は、1870(明治3)年当地にあった養徳院と大富の法雲寺が合併して法
雲院と改称し、犬鳴口にあった光明寺も合併して現在に至る。
犬鳴川渓谷の入口に光明寺跡。
1933(昭和8)年7月28日、種田山頭火はこの地を行乞する。「分け入れば水音」は
生前交友のあった詩人・和田健氏所蔵の短冊にあった山頭火直筆とのこと。
案内によると、その昔、一獲千金を夢見た鉱山師が、この付近の岩場を採掘した跡だと
いう。
犬鳴の由来によると、昔、座頭が隣村の篠目に行くために愛犬を連れてこの渓谷に入り、
足を取られて滝壺に落ち込んで亡くなった。それを見た犬が三日三晩鳴き通した後に、滝
壺へ身を投げて主人の後を追ったという伝説からきているという。
学校のプールまで遠いこともあって河川プールが設置されているが、コロナ禍で使用禁
止になっている。
金比羅、稲荷、荒神、大森大神(祭神は知り得ず)、仁保八十八ヶ所(何番札所かは不明)
が神仏習合で祀られている。
KDDI山口衛星通信センターのパラボラアンテナがデザインされた山口市のマンホー
ル蓋。
この地蔵尊はここから南西に50m、堂ヶ迫川が仁保川に合流する手前の小橋の袂にあ
ったという。昭和の初め頃までは病気を患っても医者にかかることができず、「御立願(ご
りゅうがん)」といって病気平癒を祈願し、治ったらお礼の意味を込めて地蔵尊と一緒に簡単
な食事をとるという風習があったという。
医療制度が充実すると風習は廃れたが、その後も地蔵尊を大切に守り続けてきたが、高
齢化のため鎮座する場所に日々のお参りが困難になってきたため、この地に移転したとい
う。
このお堂は岩瀬戸山に鎮座していたが、老朽化のため現在地に移転させて新たなお堂を
建立したが、お堂は北向きを否(いな)とするので、県道に背中を向ける形となった。お堂の
所在が判りづらいと考え、お祀りしてある3体の絵図を道側に掲げたという。
農協の購買部を思い出させるような建物。
1861(文久元)年大富小学校の前身となる私塾が開かれ、1874(明治7)年に上仁保小
学校として発足する。のちに大富小学校に改称し、尋常小学校、国民学校を経て1947
(昭和22)年再び大富小学校と称した。1966(昭和41)年仁保小学校に統合され、建物は
大富公民館として活用されている。
「私は都会で死にたくない
異郷の土にこの骨を埋めてはならない」
磯多
ここに建立された碑は、望郷の念やみがたい彼の心情を短文ながらよく表した「上ヶ山
の里」からの一節を刻んだものである。
仁保上郷から佐波郡柚野へ行く道は、峠越えの狭隘な道で馬車が通れなかった。そこで
1889(明治22)年から1892年にかけて拡幅や橋を架けるなどの改修工事が行われ、
物資の往来が可能になった。これを記念しての碑である。
仁保の三古社の1つとされる大畑神社(妙見宮)は、平安期の807(大同2)年に勧請され
たと伝えられ、仁保では最も古い社である。大内氏ゆかりの神社で、拝殿の桁に大内菱の
紋章が彫られているが、現在改修中で、拝殿まで行くことができず。
なお、嘉村磯多の作品「神殿結婚」の舞台でもある。
嘉村磯多(1897-1933)は嘉村若松の子としてこの地に生まれ、山口中学校に入ったが4年
で退学する。この頃キリスト教や仏教の影響受け、その後、役場や森林組合に勤める傍ら、
水守亀之助から文学の影響を受ける。
1921(大正10)年上京して雑誌「十三人」の社友になり、以後、小説を書いたり同人
雑誌を発行したりしたが恵まれず、山口に帰ったり、また、上京するなどした。
その後、雑誌記者の傍ら私小説を発表して次第に文壇で認められるようになる。とくに、
1932(昭和7)年に発表した「途上」は高く評価されたが翌年病没する。
古民家での生活体験ができる施設で、利用者がいたため土間から室内を見学する。
生家から仁保川を川上に向うと上ヶ山公民館があり、橋の先に「磯多の道」がある。そ
れに沿うと分岐には墓への案内があり、墓地には数基の墓があるが、「昭和8年11月3
0日」の刻字が磯多の墓である。
作品「上ヶ山の里」に「背戸山には白百合の花が咲く。そこの近くに墓地がある。私の
兄や弟や妹が眠ってゐて、3つの地蔵さんが合掌してござる。私は都会で‥略‥それは私
の衷心の願である。あのお地蔵さんのそばへ埋る日を思うて、このこころ躍る!」とある。
揚山(上ヶ山)の薬師堂は眼病に霊験あらたかとか。
上ヶ山の里には上ヶ山・葛坂の2つの集落があり、それぞれに神仏を祀ってきたが、建
物の老朽化による維持管理が困難となりつつあった。
ところが1996(平成8)年の県道の拡幅工事で客神社、厳島神社、六地蔵尊が移転する
ことになり、この地に社殿を新築し他の神仏も集めて上ヶ山の村社とした。ちなみに8神
社(人丸・客・河内・足王・霊・厳島・木崎・金比羅)と3菩薩(観世音・地蔵・弘法大師)
が並んでいる。
上ヶ山集落。
仁保の名水「平家の泉」の取水口で、伝説の平家の泉・平家岩は、ここから500m先
にあるという。
平家の泉へは薮道が続き途中で残念するが、説明によると下関の壇ノ浦で源氏に敗れた
平家の落人は、各地に四散したが、その中に平家一門の万寿姫もいた。姫はわずかな郎党
に守られながら仁保川を遡り、上ヶ山の里から小径にさしかかると巨大な岩の傍には湧水
が出ており、喉を潤すと姫は笛を取り出し静かに吹き始めたという。一行は休息の後、徳
地の白井の里(大字野谷の西部)へと旅立っていったと伝えられている。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年町村制施行により、中野村・川上村・川曲村・上村の4ヶ村が合併
して加見村(かみそん)が発足し、1942(昭和17)年徳山市に編入されるまで村立する。
中野は富田川の支流である中野川流域に位置する。地名の由来は、佐波郡徳地から富田
に至る道筋にあたる当地は、往古、人家はなく広野ばかりであったためという。(歩行約1
㎞、🚻なし)
中野へはJR新南陽駅から四熊経由で路線バスがあるが、1日4便と少なく車に頼らざ
るを得ない場所である。川上ダム湖の付け替え道路に沿って1本道を進む。
神上(こうのうえ)神社は、1600(慶長5)年に勧請されたと伝え、旧藩時代は神上大明神
と称していた。鳥居は大正4年乙卯年(1915)の御大典記念と記す。
神社から約300m奥に進むと旧中野村の中心地で、12世帯14人が暮らす。(集落入
口の路肩に駐車)
菊川小学校中野分校は、1877(明治10)年南野小学中野分校として創立。のちに中野
簡易小学校、分教場、分校などに校名変更してきたが、1982(昭和57)年に休校し、1
994(平成6)年廃校となる。(片隅に二宮金次郎像)
二宮金次郎像傍に「伝 中野出土舟形石棺」2基が保存されているが、左側の石棺は終
戦後に発見されたが、石を穿(うが)って作られており、破片となっていたものが復元された。
右のものは、古くから保安寺(上村)にあったもので、石棺の蓋と伝えられている。(説明板
より)
中野消防庫脇に中野薬師堂。2003(平成15)年に入佛法要祭が行われたと記す。
分校跡から右手の集落道を上がって行くと、10軒程度の民家が道に添うが空家が多い。
バスはここで折り返すが、平日4便、土日祝は2便と少なく、利用者(利便性)と便数(収
益)の関係はいたちごっこのようだ。
バス回転場の脇に地蔵尊と道路奥にも人家。
最奥民家も空家。
車庫らしき建物の中に墓碑と、壁には各地の寺社の御朱印が掲げてある。
古老によると中野川を挟んで棚田が広がっていたが、耕作放棄後は棚田だったことが嘘
のような姿になってしまったという。奥に民家があったのであろう電柱と舗装路が延びて
いる。
川上は西から四熊川、北西から中野川が注ぎ込む富田川の中流域に存在した。川上ダム
により地区の家屋計60戸、面積68万7,243㎡が水没し、現在では川上ダム管理事務
所があるだけである。
山口県営多目的ダムとして1958(昭和33)年に着工、1962(昭和37)年に完成した
重力式コンクリートダム。
しかし、水需要のさらなる増大により、1979(昭和54)年に既設ダムが16.5mかさ
上げされた。
上村(かみむら)は富田川中流域の両岸に位置し、東と西は山が迫る地にある。(歩行約
2.5㎞)
中国電力間上(はざかみ)発電所は、1940(昭和15)年に発電が開始された。背後の急傾
斜地に敷設された水圧鉄管で、水の落下を利用したダム水路式発電所である。。
間上集落とバス停付近に水車2基。
県道新南陽日原線から市道間上線に入り富田川沿いを下る。
川の左岸に東南野集落の家並み。
富田川に架かる恵比須橋と、袂に恵比須神の小祠。
保安寺(ほうあんじ)は曹洞宗のお寺で、室町期の1465(寛正6)年に陶弘房の妻・保安寺
殿華谷妙栄の菩提寺として創建される。1821(文政4)年天神山下から今の地に移転する。
寺前から見るべきものもないのでウオーキングになってしまう。(再合流の県道付近より
見返る)
市道徳山加見線を下る。
亀甲模様に市章と文字が入った周南市のマンホール蓋。
東南野には数軒ほど農家住宅らしい建物が見られる。
川曲(かわまがり)は富田川の支流・川曲川流域に位置する。地名の由来は、川の流路の曲
りが多いためという。(歩行約2㎞)
集落は市道徳山加見線分岐から下川曲バス停まで2.3㎞の距離にあり、三嶋神社を挟ん
で下と上に分かれている。
バス便はJR新南陽駅から1日1便のみで、病院、生活物資購入など生活するためには
車に頼らざるを得ない状況のようだ。
大きな屋敷地を構える民家。
人の気配が感じられないが、下川曲では11世帯18人が暮らしているという。
大きな民家だが無住のようだ。
川に沿って右カーブした所に三島神社。1590(天正18)年河野五郎右衛門が伊予国三
島神社の分霊を祀ったことに始まるという。
15世帯21人が暮らす上川曲集落。
東荘寺(曹洞宗)の創建年は不明だそうで、1750(寛延3)年富田より移転する。本寺は
大道理の龍豊寺とされるが、現在は廃寺同然の姿を見せる。
大乗妙典は法華経のことを意味し、小さな石にお経を一字づつ書いて埋めたものとされ
る。
段々状に並ぶ民家には車などがあって日々の営みを感じる。
上川曲集落の中心部にバス停。この先600mほど入ると、10世帯20人が暮らす矢
櫃集落だが猛暑で歩けず残念する。
過疎対策にこれといった特効薬もないようで、将来展望を描くことの難しさを感じつつ
往路を引き返す。