ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市菊川町の久野・貴飯・楢崎は旧長府街道沿いの山間集落

2022年07月29日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、貴飯村・久野村・楢崎村が合併して豊東郷村が
        発足する。その後、楢崎村に村名変更したが、1951(昭和26)年岡枝村と合併して菊川
        村に移行し、平成の大合併で
下関市の一部となる。
         久野(くの)は狗留孫山の南麓、田部川の支流である久野川流域に位置する。地名の由来に
        ついて地下(じげ)上申は、往古、平野下野という侍が当地に居住し、下野死去後は9人の家
        来が、この土地を拓いため九野と称し、これが久野になったという。
         久野は旧長府街道筋ではないが、見どころもあるので散歩する。(歩行約3.1㎞、🚻な
        し)

        
         久野公民館に駐車して県道豊浦菊川線上の中村バス停付近から南下する。JR小月駅か
        らバスを乗り継げば散歩することは可能だが、3集落を歩くには難がある。

        
         県道沿いに大きな民家が並ぶ。

        
         山間に田園風景が広がる。

        
         日瀬(ひのせ)神社入口に稲原寅惣(1845-1930)翁の頌徳碑があるが、翁の一生は日本の興
                隆期ー幕末から昭和初期にわたっており、その間、庄屋、戸長、村長など全生涯を地方自
        治の振興と開発に尽力を注ぐ。
         1959(昭和34)年の大干ばつでは、翁が精魂を傾けて築造した長谷溜池によって久野
        地区は何も被害がなかった。同年に感謝を込めて碑が建立された。

        
         日瀬神社は神仏混合時代に万年山妙見宮と称していたが、1874(明治2)年村社となり
        日瀬宮に、さらに1909(明治42)年現社号に改称する。

        
         1873(明治6)年神社境内に義方学舎が創立され、翌年には義方小学と改称するが、そ
        の後に楢崎小学校の分校となったが、1886(明治19)年廃止される。 

                
         狛犬の台座には「近江源氏9代後胤 川北邑住人伊侂孫三郎源清長 天保15年(1844)」
        とあるが、近江(現滋賀県)の方がどういう経緯で寄進されたのかは知り得ず。 

        
         正面に六万坊山を見ながら集落内を下る。

        
         ケアハウス希望の郷への道に入ると菊川水掛不動尊。

        
         広い敷地の一角に狗留孫山八十八ヶ所50番札所(薬師如来 ) 

        
         菊川不動尊。

        
         ここの湧水はラジウム泉質で、眼病、水虫、胃腸に効能があって、他地区から参詣して
        冷水を持ち帰るという。

        
         貴飯(きば)は狗留孫山の南麓、田部川の支流である貴飯川の流域に立地する。
         地名由来について地下上申は、仲哀天皇が華山に登った時、この地で土地の者が食事を
        差し上げたところ、喜んで「いと貴き飯なり」といったことによると記すが、木場を貴飯
        としたものともいわれる。(歩行約1.3㎞) 

        
         県道の脇に庚申塔。

        
         道標には「右楢原・内日(うつい)・小月」「御成婚記念」大正13年(1924)松田民三郎と
        刻字あり。

        
         貴船神社遥拝所改築記念碑があるが、詳細は知り得ず。 

        
         光明寺(真宗)の寺伝によると、開基の空正は上杉弾正顕定の子で、15歳の時仏門を志
        す。室町期の1496(明応5)年西下し、貴飯に来て大藤浴の上に一宇を建立する。
         のち、楢崎の麓にあった金光明無量密院の本堂を移して光明寺と称するようになり、1
        648(慶安元)年寺地を現在地に移して本堂を建立したという。

        
        
         光明寺前の道は、江戸期には郡部から長府藩へ通じる長府街道で、杢路子(むくろうじ)
        を上り、貴飯峠を越えていたので、光明寺は幕府巡見使の本陣(休憩・昼食場所)となった。
        1633(寛永10)年から1838(天保9)年まで10回幕使を迎え、脇本陣は惣別当の林家、
        迫田家であったという。

        
        
         生活バスの新藤内畑付近だが、民家は点在している。 

        
         楢崎は狗留孫山の南麓、田部川の支流である久野川、貴飯川の流域に位置する。
         地名の由来は、古来、山林に楢の木が多いからという。(歩行約2km) 

        
         美栄(みさか)神社は、出雲大社から勧請されたが、その年代は不詳とされ、古くは妙見社
        と称していたが、1803(享和3)年に現社号となる。国道491号の工事により現在地に
        移転したと案内されている。

        
         中の田公会堂前に猿田彦。 

        
         ヤマザクラと旧菊川町の町章がデザインされた農業集落排水用のマンホール蓋。 

        
         楢崎の田園地帯。 

        
         国道を横断すると楢崎(岡田)の町並み。 

        
        
         この付近が楢崎の中心だったと思い歩いてみたが,家々は更新されて昔日の面影は残っ
        ていなかった。


下関市菊川町の轡井・道市・樅ノ木は山間の美しい里

2022年07月26日 | 山口県下関市

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、樅ノ木、道市、轡井など12ヶ村の区域をも
        って豊東村(とよひがしそん)が発足する。現在の下関市菊川町の東半分に位置する。
         その中の轡井(くつわい)は、西北に高畑山地が続き、東に猿王岳の山地が連なる。この2
        つの山地の間に
ある集落で、中央を駒込川が南流し木屋川に合流する。地名の由来は、往
        古、当地の山林を開墾した時、地中から轡(馬の口にくわえさせて馬を制御するのに用い
        る用具)を掘り出したことによるという。(歩行約3.2㎞)

        
         轡井には下関生活バス樅ノ木線があるものの予約バスで、利用が難しい地域である。県
        道日野吉田線を北上すると、右手に「厳島神社参道入口」の看板があり、路肩に駐車して
        神社への道を進む。

        
         途中から参道へ廻り込むと厳島神社の鐘楼門。

        
         梵鐘は、1702(元禄15)年に三浦半右衛門が願主となり、氏神である当神社に寄進し
        たという。先の大戦で武器生産に必要な金属資源を確保するため、金属類回収令が発動さ
        れたが特例で残されたという。(市指定有形文化財)

        
         1678(延宝6)年創建とされる社殿は、1846(弘化3)年に再建されたと伝わる。(権
        現造り)

        
         下轡井と上轡井の境なのか庚申塚。

        
         赤いトタン屋根は緑豊かな山間の農村集落にマッチする。

        
        
         1876(明治9)年開校の貴和小学校は、1907(明治40)年豊東尋常高等小学校に統合
        されたが、遠距離通学のため3年生以下は貴和小学校校舎を利用した分教場で学ぶ。
         現在の校舎は、1903(明治36)年現在地に移転して新築されたもので、その後、増改
        築などは行われたようだが、現在は「貴和の舘」として都市農村交流の拠点として活用さ
        れている。

        
         グラウンドの片隅にあるのが明拙呦記念碑。明拙呦師は薩摩藩士で姉がいたが、一向宗
        を信仰したため藩禁に触れ極刑に処せられる。師は逃れ高野に入り僧となり、20年の修
        行を終えた後、長門国の知友・長慶寺に寓居する。
         1872(明治5)年学制発布がされて、小学校を設立せんと多難を排して、1876(明治
          9)
年念願の小学校竣工を迎える。山口県令はその功を賞し、貴和小学校名と時計を下附し
        たが、その年の6月、病をもって没す。享年54歳。

        
         人口減少と高齢化により、担い手不足による耕作放棄地と空家が目立つようになってい
        るとか。

        
         轡井分校に通学した轡井・道市・樅ノ木の3地区民の方々が「貴和の里につどう会」を
        設立され、美しい里づくりに取り組んでおられる。

        
         竈(かまど)でご飯炊き、五右衛門風呂、囲炉裏といった農家の生活が体験できる「貴和の
        宿」がある。

        
         最奥部から見る轡井集落だが、駒込川沿いに道市から吉田(山陽道)に通じる街道があっ
        たという。

        
         道市(みちいち)は江舟山東麓、厚狭川の支流である原川の上流域に位置する。この地は山
        間にありながら各地に通じる交通の要地でもあり、中心に自然と市ができたので、これが
        地名になったという。(歩行約1.8㎞) 

        
         河内神社を中心として道筋に民家が並ぶ。

        
        
         河内神社は室町期の1495(明応4)年、上保木の雨郷から勧請され創建されたというが
        確証はないとのこと。
もと別の所にあったが、1696(元禄9)年現在地に遷座した。
         境内には生育に適し、地元民に守られてきた樹齢300余年の「夫婦杉」と呼ばれる巨
        樹がある。

        
         2015(平成27)年の国勢調査によると、14世帯27人が暮らす集落である。

        
         2005(平成17)年に菊川土地改良区が、農地の高度利用促進する事業を行った旨の碑
        が、樅ノ木と西厚保町原への三叉路に建立されている。

        
         引き返して保木地区への道に出ると、ここも広い屋敷地に大きな家が並ぶが、獣害防護
        柵が張り巡らされて柵の中にいるような錯覚を覚える。

        
         重厚感のある主屋、納屋、蔵が一体化された農家住宅。
    
        
         静かな山間の農村風景を楽しんで樅ノ木地区に移動する。

        
         樅ノ木(もみのき)は北に豊ヶ岳、西に大了寺山を望み、四方を山に囲まれ、厚狭川の支流
        である原川の源流をなす山間の集落である。地名の由来について地下上申は、「小村の樅
        ノ木村と申すは、往古、此所に樅ノ木の大木があり、それ故に村名になった伝える」とあ
        る。(歩行約0.9㎞)

        
         2015(平成27)年の国勢調査によると、5世帯13人が暮らす小集落である。

        
         集落を見守るように三界萬霊塔。

        
         下関市(菊川)生活バスの終点。

        
         天保2辛卯年(1831)3月建立の鳥居を潜ると長い急階段。

        
         広い平地の片隅に鎮座する河内神社は、現菊川町東長野の若宮八幡宮の末社とのこと。

        
         緑に囲まれた集落。

        
         集落に空家や休耕田を見ることがなかった。


下関市豊浦町の涌田後地と黒井

2022年05月28日 | 山口県下関市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、黒井村、吉永村、厚母郷村、涌田後地(わいたう
          しろじ)
の区域をもって豊西東村が発足する。1898(明治31)年に村名を黒井村と改称し、
        後に川棚村などと合併して豊浦町となるが、現在は下関市豊浦町である。
         公共交通機関の便数が少ないので車での対応とし、旧マリンピアくろい入口の駐車地を
        利用する。(歩行約2.4㎞) 
      
        
         涌田後地は響灘に面して室津湾の北に位置し、青井鼻と烏山の地塊に挟まれて立地する。
         岬一帯は黒井漁協が、1977(昭和52)年海と海岸の自然を生かしたリゾート施設を整
        備したが、入場者の減少により採算が悪化し、1997(平成9)年頃閉鎖に追い込まれた。

        
         心光寺筋に入る。

        
         心光寺(真宗)は俗名片山又市(法名浄流)が、もと真言宗の古跡に心光寺を興して開山し
        たという。

        
         点々と白壁の家が見られる。

        
         海への路地が数本あって、海からの心地よい風を受ける。 

        
         この地域も石州瓦の赤褐色が際立つ。

        
         風雨にさらされないよう大事にされている地蔵尊。 

        
        
         和田守神社は涌田後地の氏神で、1914(大正3)年集落に点在する祇園社、大歳社(五
        穀豊穣)、秋葉社(火除け)、龍王社(雨乞い)を合祀した。
         和田守神社の前身は恵比須社(豊漁)のようだが、鳥居の額束には「八大竜王」とある。
        人名のような神社名のルーツはわからなかった。

        
         参道から見る涌田後地。

        
         このような構えを見せる民家を
多く見かける。

        
         吉永地区だろうか白壁の旧家は見られなくなる。 

        
         どこにでも見られるような風景になったので引き返す。

        

        
        
         路地には大きな家屋や土塀に囲まれた家がある。 

        
         第1種の涌田漁港。1849(嘉永2)年本藩士・吉田松陰が藩命で、北浦海岸を巡視した
        が、この時にはすでに正面の青井鼻に台場が築かれていたという。

               
         黒井は豊浦山地の南側にある鬼ヶ城山の西北麓に位置し、杜屋川流域の小沖積平野を中
        心に北西は響灘に面する。耕地の接点に大小の灌漑用の溜池が多い。(市役所黒井支所に駐
        車、歩行約4.5㎞) 

        
         原踏切を横断する。

               
         西念寺(真宗)は、往古、西光院という寺であったが、盗賊のために全焼したという。そ
        の後、室町期の1527(大永7)年、村上民部(法名:西念)が、この西光院を興し開創した
        寺で、1665(寛文5)年西光院を改めて西念寺とする。

        
        
         JR黒井村駅は、1914(大正3)年長州鉄道として開業する。島式ホーム1面2線の交
        換可能な駅。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、4ヶ村が合併したが大正期に流行した歌に、「
        いろは黒いが 情けは厚母 しんぼう吉永 金にゃ涌田」と歌われたように、村内融和に
        は長い年月が必要だったようだ。

        
         黒井村踏切を横断して黒井川方向へ向かう。

        
         鳥居の先に長くて急な石段。近所の方によると、戦争で亡くなられた方をお祀りしてい
        たが、杜屋神社境内に移転したという。

        
         静かな通りとなった旧道。

        
         越路地蔵尊について、1739(元文4)年7月長徳寺の和尚が、世のため、卦悪、疾病を
        治さんと祀ったとされる。右は婦人病諸疾病、左が咽喉の疾病に霊験あらたかという。

        
        
         杜屋神社は延喜式神名帳(平安中期の927年に撰進)に掲げられた格式高い神社で、長
        門国三の宮と称されている。
         1906(明治39)年の神社合祀の勅令により、黒井村の萩ノ尾八幡宮と厚母郷の尾崎八
        幡宮を合祀して今日に至る。

        
         本殿背後には、古代において神を迎え祭るため、岩石を用いて設けられた祭場「磐境(い
          わさか)
」と思われる岩室がある。

        
         黒井川と厚母川が合流する付近に、山陰本線郷踏切と割烹旅館。

        
         黒井川に沿って山側へ向かう。

        
         郷杜屋の庚申塔は、高さ140㎝の自然石だが無銘である。

        
        
         赤間関街道北浦道筋に出ると白壁の人家が見られる。

        
         安養寺(浄土宗)は、1669(寛文9)年創建と伝えており、現在の堂宇は1901(明治3
          4)
年再建という。

        
         黒井市筋も旧町道として改修されたが、道の両側が屋敷地なので、幅員は旧状を保って
        いると思われる。

        
         四つ辻の右に八王子溜池が満々と水を湛えており、石像座像の地蔵が溜池に面して鎮座
        する。

        
         域内にある庚申塔の多くは無銘であり、この大門の塔も無銘で、しかもこの種の大きさ
        の塔が一般的である。
         塔に掛けるものには「ハチマキ」と「サル」の2種類がある。ハチマキは塔の頭部をぐ
        るりと巻き、御幣を3本垂らす。注連縄の形をハチマキに見立てたものである。
         サルは「牛の犁(すき)」の先につけるもので、農家にとって牛を使って田をおこすために
        は必要なものであった。この「サル」は、塔の前面にぶらさげるようにつけられている。

        
         誠意小学校前を過ごすと国道に出るが、この筋に旧家が残る。


下関市豊北町の矢玉は小さな漁村集落 

2022年05月05日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         矢玉(やたま)の西は響灘に面し、背後に山間を縫って矢玉川が流下し、その河口のデルタ
        地帯に位置する。
         地名の由来は「地下(じげ)上申」に、往古、蒙古襲来の時、矢と玉をこの地の者が献上し
        たので矢玉といったとある。(歩行約1.6㎞) 

        
         土井ヶ浜バス停からブルーライン交通JR二見駅行き(13:25)約5分、矢玉北バス停で下
        車する。

        
         バス停から引き返し、加藤味噌醤油醸造場より路地歩きをする。

        
         1914(大正3)年9月10日に大火が発生するが、民家が密集しているため、江戸期以
        降においてもしばしば大火に見舞われた地域である。

        
         夜珠橋で矢玉川右岸に移動する。

        
         どこからでも海に通じる路地がある。

        

        
         防波堤入口にある碑は「夜珠‥」とは読めるが、下の方は読めず。防波堤か漁港に関す
        るものだろう。

        
         碑の傍にある下関要塞第一区地帯標は、蓋井島に砲台が設置されたことから「要塞地帯
        法」により、この周辺が第一区地帯となった。(今も漁協により防波堤は立入禁止)

        
         醤油醸造場の煙突と煙り出し。

        
         集落内の人家は密集度合いが高い。 

        
         海辺に恵美須社。矢玉浦は江戸期には長府藩領で、地域内の大部分が本藩領であったた
        め飛地であった。その理由として田耕(たすき)、粟野などからの年貢米を運ぶ時、その中間
        地や避難地として矢玉浦が必要だったとされる。
  
        
         恵比須社から見る第2種の矢玉漁港は、1955(昭和30)年以後に海岸部が埋め立てら
        れ、数回にわたって整備が行われた。

        
         西慶寺(真宗)は、大内義隆の家臣であった俗性伊藤兵庫種康が、仏恩の深きを感じて剃
        髪して僧となる。神田村において山野を開拓し、一宇を建立したのが同寺の始まりという。
        時に室町後期の1547年という。        


下関市豊北町の神田上に弥生パークとコバルトブルーの海

2022年05月05日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         土井ヶ浜は響灘に面し、ほぼ海岸線に沿って国道191号が走る。この一帯の住居表示
        は下関市豊北町神田上だが、域内は広いため土井ヶ浜弥生パークを中心に散歩する。(歩行
        約3.5km、🚻パーク内のみ)

        
         JR下関駅から山陰本線でJR二見駅下車。ブルーライン交通(9:27)に乗り換えて土井
        ヶ浜バス停で下車する。

        
         下車するとバス進行方向に神功皇后社の大鳥居が見える。

        
         鳥居からの道。

        
         右手に人骨の出土密度が高い部分に覆屋(ドーム)。

        
        
         弥生時代の人骨約300体や副葬品などが出土した「土井ヶ浜遺跡」の全容を紹介した
        施設である。正面にはシンボルのゴホウラ貝輪と、1993(平成5)年に出土遺物を収蔵す
        る土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムがある。(国指定遺跡)

        
         弥生式土器が並ぶ。

        
         弥生人のレプリカ。

        
         人骨の埋葬密度がもっとも高い部分に半地下式ドームが設けられ、一般に公開されてい
        る。ここには約80体の人骨が発掘時の姿で復元されており、顔を西に向けているのが特
        徴である。(人骨はレプリカ)

        
         埋葬には無施設のもの、四隅に1個ずつ石を置く簡単なもの。石囲いのもの、組合せ箱
        式石棺の4種類がみられる。

        
         6体埋葬の石棺。

        
         遺骸の中には11本もの石鏃(せきぞく)や牙鏃(がぞく)が腰などに射込まれた男性人骨があ
        る。
         酸性土壌の日本では、土に触れ続けると人骨は消滅してしまうが、ここ土井ヶ浜は、海
        岸から吹き飛ばされてきた貝粉が非常に多く含まれており、貝に含まれているカルシウム
        が長い年月の間に溶解し、骨に浸透したことによって、骨を良好な状態で保存してきた。

        
         浜出祭(はまいでさい)は、7年毎に行われる田耕(たすき)神社と神宮皇后社双方の神事で、
        花神子が滝部堀切で合流して
土井ヶ浜で浜出神事が行われる。
         蒙古襲来と結び付けられた伝説があるが、民間では、厳島神社と海側の土井ケ浜にある
        蛭子社との男女2神の再会の神事であるといわれている。それぞれ生産を異にする山地と
        浜とが、定められた年に、合同で祭礼行事をすることによって、村内の繁栄と秩序を願っ
        たものではないかと考えられている。(浜出祭の祭場)

        
         元寇の碇石。(ディサービス向日葵の向い側)

        
         海の家がある地点から見る土井ヶ浜。

        
         海の中にある白い島が壁島で、「鵜」が11月下旬から翌年の3月頃まで越冬し、鵜の
        糞で白く見えるという。その奥に角島が横たわり、角島大橋が曲線を描く。

        
         海岸部に咲くハマヒルガオは、茎や枝が地面を這うように伸びる匍匐性(ほふくせい)植物。

        
         神功皇后社への道を辿ると庚申塚と御旅所の鳥居。

        
          土井ヶ浜の南外れの台地上に鎮座する神功皇后社。住吉神社を一の宮というのに対し、
         通称二の宮と呼ばれ、神功皇后を祀る。

        
         社伝によると、鎌倉中期の1288年蒙古襲来のとき異国降伏祈願のため、長府から勧
        請して社殿を建立したという。

         特殊神事として浜出祭と呼ばれる神事は、土井ヶ浜での行事であるが、浜にあった蛭子
        社が明治期に当神社に合祀されてしまったため、現在は神輿及び行列はここから出発して
        いる。

        
         神社脇の道から見る豊北の海。

             
        
         集落としてのまとまりを見せないが、広い屋敷地に蔵・長屋などを有する民家が多い。 

        
         峠手前の人家脇を抜けると海の家駐車場に出る。

        
         駐車場の最奥部の左手にある鎌倉の森は、弘安の役(1281)で蒙古軍と戦い討死した鎌倉
        方の武士を祀った祠であるという。一方の蒙古兵の骨を埋めた「鬼の松」とされる場所は
        見つけることができず。

        
         コロナ禍で影響を受けた海水浴場だが今年はどうだろうか。コバルトブルーの海と白い
        砂浜が続く風景を堪能して、往路を引き返し、バス停から矢玉に移動する。


下関市の前田・火の山に砲台跡

2022年03月29日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         前田は霊鷲山(りょうじゅせん)山麓に発する前田川流域に位置し、関門海峡東入口に面す
        る。 
         一方、火の山は、関門海峡東側の早鞆瀬戸に面する独立峰。海峡を扼する要害の地で、
        山名の由来は、敵の来襲を都に知らせる烽火(のろし)場があったことによる。(歩行約6㎞、
        🚻前田にはなし)

        
         JR下関駅①、②番のりばからサンデンバス小月行き約15分、前田バス停で下車する。

        
         バス停からバス進行方向へ歩くと看板が見えてくる。

        
         国指定史跡「長州藩前田台場跡」は、幕末の下関で攘夷戦(外国勢力を追い払う)におい
        て、長州藩が関門海峡沿いに構築した台場である。

        
         1863(文久3)年5月、初めて外国船に攻撃して戦果をあげたが、翌月には米仏軍の報
        復を受け、台場は壊滅的な打撃を受けた。
         しかし、台場を修復したうえ、新たな台場を構築して海峡封鎖を続行した。1864(元
          治元)
年8月、米英仏蘭の4ヶ国艦隊の攻撃をうけ、陸戦隊によって占拠・破壊された。(山
                は火の山だが煉瓦造は不詳)

        
         この敗戦によって長州藩は軍備の西洋化を進め、攘夷の方針から倒幕への道をとること
        になるが、その起点となった重要な史跡である。(碑は行啓記念碑?) 

        
         高台にあった御茶屋を移転して台場を増設し、以前からあった台場を「低台場」、増設
        された台場を「高台場」とする。その高台場に「皇太子殿下駐駕之處」の碑が立っている。

        
         高台場から低台場と前田の町並み。 

        
         すみれ保育園前から前田川筋へ向かう。

        
         路地を通って旧山陽道に出る。

        
         旧山陽道は現在の国道9号線よりも10数m高い山裾を通っていたようで、今は消滅し
        て辿ることはできない。

        
         民家を結ぶ路地を抜けると広い道に出る。

        
         西進して国民宿舎「海峡ビューしものせき」を過ごすと、正面に火の山ロープウェイ壇
        の浦駅が見えてくる。

        
         山頂まで歩いて上がる予定にしていたが、ロープウェイが運行されていたので利用する。
        (往復520円) 

        
         1887(明治20)年西日本における国防の拠点として、下関に要塞砲大隊の設置が決定
        され、下関要塞の一部として「火の山砲台」の建設が開始される。1890(明治23)年の
        完成後、太平洋戦争の終結まで、他の丘陵とともに一般人立入禁止の要塞地帯となる。

        
         第一砲台はロープウェイ駅の設置により消滅。第二砲台の観測所指令室は、ロープウェ
        イ駅から遊歩道に沿うと、火の山展望台の直下にある。 

        
         観測所があった所に展望台が置かれ、関門海峡を一望することができる。

        
         展望台からコンクリートの一部に丸い穴が見える。

        
         第3号砲側庫(弾薬庫)の入口に「第三號」の文字が見える。

        
         入口はモルタル仕上げとなっているが、構造は煉瓦造である。展望台から見た2つの穴
        はこの砲側庫だった。 

        
         砲側庫よりも高い位置にテレビ中継局が建っているが、ここに「2番砲座」があったと
        される。その一角にコンクリートの構造物があるが正体不明である。

        
         テレビ中継局の入口に煉瓦積みと石が置かれているが、これも遺構のようである。 

        
         砲側庫は半地下式の構造になっているが、戦後の公園化事業により、当時の状況がどの
        ようであったかはわからない。

        
         次の第3砲台の砲側庫は柵もなく、スロープが設置されて中に入ることができる。

        
         砲側庫が3つ並び、内部は休憩所になっている。 

        
         煉瓦とコンクリート、石で築造されており、24センチカノン砲の弾薬が納められてい
        た。

        
         第4砲台は地下棲息掩蔽(ちかせいそくえんぺい)部や砲座、堡塁等が当時の姿で残されてい
        る。

        
         
        
         石段を上がると正面に観測所と司令室。

        
         司令室手前の左側には地下棲息掩蔽部へ通じるトンネル。 

        
         棲息掩蔽部は5つの兵員室と、それを挟む形で両側に砲側庫が置かれている。

        
         石段があって棲息掩蔽部に下りることができる。

        
        
         棲息掩蔽部(兵員室)は煉瓦とコンクリート石でアーチ状に築かれ、南北に長い部屋の造
        りで、双方に出入口が設けてある。

        
        
         内部にはカマドや貯水式井戸などがあって、ここで身を潜め食事や休息をとっていたも
        のと思われる。

        
         南側の棲息掩蔽部(兵員室)出入口。左の開口部は砲座に上がる階段。

        
         司令室の上に観測所。

        
         円形の中央部にある円柱は、敵艦を観測する測遠機が置かれていた台座である。

        
         2つの砲座に挟まれた中央に観測所と司令室があり、観測所で敵艦の距離や方向を測り、
        測量結果を指令室に伝え、指令室から両脇の砲座に指示がなされていた。

        
         28㎝榴弾(りゅうだん)砲の砲座。

        
         第4砲台入口まで戻って、外側の堡塁に沿って反時計回りで歩いてみると、堡塁の形が
        しっかりと残っている。(歩いて見返る)

        
         9号砲側庫の南側に大砲を据え付けた砲座があって、ここには小型砲の弾薬などが保管
        されていた。

        
         子供の遊具がある北東側に第10と11の砲側庫があり、第9号と同サイズのように思
        われる。

        
         砲側庫の奥に砲座跡があるが、説明によると明治時代に築かれた火の山砲台は、大正期
        を迎え国の防衛に対する方針転換からその役目を終える。
         昭和期に入ると、新たに上空に向けた防衛の役割が重要となり、高射砲陣地が配置され
        る。中央にある多角形のコンクリート基礎が砲座跡とされる。

        
         岩盤の上に石組みと煉瓦で壁を作り、防御壁としていた堡塁の壁のようだ。

        
         ロープウェイのおかげで時間的な短縮と疲労が軽減できた。 

        
         みもすそ川までの遊歩道を下る。

        
         みもすそ川公園は源平合戦最後の戦いとなった壇ノ浦に面しているため、平家にまつわ
        る碑などが設置されている。

        
        
         早めにみもすそ川バス停に下ったため、1958(昭和33)年に開通した関門トンネル人
        道を県境まで歩いて引き返す。

        
         みもすも川バス停からJR下関駅に戻る。


下関市の吉見は漁港を中心とした町

2022年03月14日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         吉見(よしみ)下は竜王山の西麓に位置し、家屋が密集して地内の中心をなしており、西
        に網代の鼻、東は串本岬に囲まれた吉見漁港の沖に賀茂島が浮かぶ。海岸に沿って国道1
        91号とJR山陰本線が並行して走る。(歩行約3㎞)

        
         JR吉見駅は1914(大正3)年長州鉄道の駅として開業する。

        
         国道と山陰本線に挟まれた生活道が東西に走る。

        
         高台に神社のようなものが見えたので山裾の道を進むと、額束に「天狗之宮」と記され
        た鳥居がある。

        
         吉見の町を見下ろすように山の斜面に建つ。

        
         正式には宗教法人石鎚本教吉見教会だそうで、神仏分離以前の形式を生かすべきと19
        46(昭和21)年法人化された。本殿を見ると神仏習合を表すような造りである。

        
         境内から見る吉見の町並み。

        
         賀茂島は島が3つ並んで見えるが1つの島とのこと。吉見のシンボルで夕日に映える風
        景が美しいとされる。

        
         国道まで戻って旧国道と思われる道を西進する。 

        
         通りの家々は更新されている。

        
         第2種の吉見漁港。

        
         呉服店だったF家。

        
         漁村特有の海への道が何本も伸びている。 

        
         神社名はわからないが海へ向かって鎮座する。

        
         駅からの道は漁港に通じる直線道だったようだが、拡張などされて三叉路となっている。
        郵便局がある場所が旧村役場跡、その近くに家具店があったようだ。

        
         もとは商店だったN家。

        
         三叉路から西側の通り。

        
         下関の「し」の中にフグがデザインされ、げすいどうの文字下に「25」とあるマンホ
        ール蓋。他に一面がスリップ防止模様となったマンホール蓋も見かける。

        
         西田川の先が新町。

        
        
         橋の先にS家とK家。

        
         新町も家屋が更新されている。

        
         煉瓦造の煙突の先に登山者で賑わう竜王山。

        
         駅側から見える西本味噌醤油醸造元の煙突。


下関市彦島の弟子待は佐々木巌流の弟子が待っていた地

2022年02月26日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         弟子待(でしまつ)は下関市彦島の一部で、大瀬戸と呼ばれる海岸線に位置する。
         地名の由来について、「類聚国史」に記される勅旨町(てしまつ)と読むことに由来する説
        と、口碑に宮本武蔵と佐々木小次郎が船島で決闘したとき、小次郎の弟子が待っていたこ
        とによるという説(市史)がある。(歩行約3.5㎞)  

        
         JR下関駅(11:22)からサンデンバス弟子待3丁目行き約20分、終点で下車する。バス
        は回転場で向きを変えて引き返して行く。

        
         海軍浜へは3ヶ所の進入路があったようだが、現在は彦島南公園経由の道だけとなり、
        長い階段を上がらなくてはならない。

        
         長い階段を上がればこの景色が得られる。

        
         グラウンドから見る弟子待3丁目付近の町並み。 

        
        
         日露戦争(1904-1905)が勃発する前の1902(明治35)年、ロシアバルチック艦隊が日本
        に迫ることを危惧し、関門海峡に侵攻してきた場合、これを迎え撃つため水雷基地が建設
        された。近年石組みの一部が崩落したため、2014(平成26)年に改修された。

        
         基地のすぐ傍には攘夷戦(外国人を日本から追い払う戦い)に備え、1863(文久3)年荻
        野隊と長府藩により台場が築かれ、連城砲7門が配備された。
         1864(元治元)年三条実美ら5卿が、台場を巡見するなど攘夷戦における主な台場の1
        つであったが、実戦に使用されることはなかったという。

        
         関門海峡の先に北九州市街地。

        
         赤煉瓦造のトンネルは水雷貯蔵庫とされる。

        
         3丁目バス停に戻って関門橋方向へ進む。道路の右手は昭和シェル㈱の社有地のようで、
        かっては油槽所があったと思われるが、今は太陽光パネルがずらりと並ぶ。 

        
         道路の左手は石垣が続くが、海岸線と境をなしていたようだ。

        
         家に上がる2つ目の道が龍宮神社への参道。その途中に「姫塚」があるとされるが、
        その塚なのかはっきりしない。刻字は風化して読めないが、そうであるとすれば平家にま
        つわる塚と思われる。

        
        
         さらに上がると龍宮神社。1896(明治29)年頃に創建とされたようだが、詳細は知り
        得ず。歩かれている方に神社について尋ねると、神社の存在すら知らず無縁のような口ぶ
        りだった。(個人の神社?)

        
         在来線の関門トンネルは下関から彦島に入り、弟子待から海底を潜って小森江に渡って
        いる。

        
         この付近が弟子待2丁目の町並み。(2丁目バス停)

        
         下関市の「し」の中にフグが描かれたマンホール蓋。

        
         国交省所管の下関港弟子待検潮所。

        
         岩礁の先に関門橋と門司港。 

        

        
         旧軍の施設を思わせるような塀。

        
         弟子待に駐在していた奇兵隊の福田氏が、地元の植田氏らと海面を埋め立てて貯炭場を
        開設したことが、この地の開発の一歩となったとされる。

        
         彦島八十八ヶ所霊場は、1923(大正12)年頃に彦島の真言宗寺院が呼びかけて設けら
        れたようで、ここ大師堂は19,45,83、88番札所となっている。

        
         1612(慶長17)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したとされる
        船島。敗れた小次郎の流派「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになった。
         島は旧軍の下関要塞地帯となり、島を撮影することも許されなかった。戦後に有人島と
        なったようだが、1973(昭和48)年無人島となり、現在は三菱重工業と下関市が所有し
        ている。

        
         行き交う船を見ながら弟子待2丁目バス停に戻る。 


下関市の竹の子島は彦島から島渡り

2022年02月24日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         竹の子島は下関市彦島に属し、彦島の北西部40mに位置する。面積は0.18㎢の細長
        い島で、標高10~15mの台地をなす東側に人家、農地、造船所がある。
         地名の由来は、島に藪竹の子が多くあったことによるという。(歩行約2.5㎞、🚻なし) 

        
         JR下関駅7番のりばからサンデンバス竹の子島行き約25分、終点で下車する。

        
         竹の子島は1952(昭和27)年架橋によって彦島と繋がり、1983(昭和58)年3月に
        現在の橋が竣工する。橋の親柱は竹の子の形をしている。

        
         こちらに旧橋があったようでコンクリートの支柱が残されている。

        
         東岸は江戸期に風待港として栄えた南風泊(はえどまり)港の一部をなしている。

        
         橋の左側には彦島の鼻が突き出ており、良好な舟だまりとなっている。

        
         橋を渡って左手の生活道に入ると金刀比羅宮への参道。

        
         鳥居には「天保五甲(1834)十一月吉日 阿知須浦(現在の山口市阿知須)縄舩中」と刻ま
        れている。鳥居左手の細い道を辿れば、北九州などが見渡せる海岸線に出ることができる。

        
         由来によると、1820(文政3)年萩の宮辺道右衛門が建立し、後に天満宮も合祀され、
        島民にとって大切な社とされている。

        
         メゴ笹のような竹に囲まれた1本道は整備されている。

        
         海岸線手前に崩れ落ちそうな橋が架けてあるが、漁場用のものであろう。海岸線の台場
        鼻には潮流信号所があるが、その海側に1900(明治33)年建造の台場鼻灯台があったよ
        うだが、航路標識が整備され、灯台の役目を終えて近年に解体されたという。

        
         対岸に北九州市の工場群。

        
         地質は新第三紀の芦屋層群に属する砂岩層で形成されており、海岸線には奇怪な造形が
        見られる。

        
         集落内の生活道。

        
         細長い生活道。

        
         台場鼻には通航流信号所があって、船舶通航信号と潮流信号を発信している。

        
         赤煉瓦塀はイギリス積み。 

        
         生活道は前田造船所前でメイン道に合わす。

        
         下関市の「し」の中にフグが描かれたマンホール蓋。デザインマンホール100選の1
        つとされる。

        
         旧道を進むとすぐ左手に路地があって、海岸線に出ると正面に六連島。

        
         島の裏側にはペットボトルなどの漂着ごみが散乱している。

        
         前田造船所の大型クレーンはどこからでも目立つ。

        
         放置されたハウスを多く見かけるが、ここでは花が栽培されていた。ガーベラと思った
        ら違うようで、栽培されて方から花名を教えていただいたが、聞きなれない名前のため彼
        方へとなる。

        
         生活道終点付近にある民家。この付近からは海岸線に出ることはできない。

        
         前田造船所前までは道幅もあってバスが進入できそうだが、回転場ができないため島入
        口までとされているとのこと。

        
         台地と樹林が響灘からの強風などを防いでいる。
 
        
         バス停に戻るとバスは待機していたが、少し時間があったので漁港付近から島を眺める。

        
        
         竹の子島の西岸は台地であったが、ここから見るとほぼ平坦な地形をなしている。地層
        以外に何か特色がある島ではないが、山口県内で架橋や渡船で行ける有人離島が30島あ
        るが、船を使わずに島から島へ行けるのは、この島と沖家室島(周防大島町)だけである。


下関市吉母は本州最西端の集落

2021年11月11日 | 山口県下関市

               
                        この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         吉母浦(よしもうら)は島しょ部を除けば本州の最西端、西は響灘に面する。
         地名の由来について、藻を集めることから「寄せ藻」という言葉ができ、後に吉母に転
        訛したという。(歩行約2.3km)

        
         JR下関駅からサンデンバス吉母港行きがあるが、毘沙ノ鼻に立ち寄るため車で訪れる。  
        バス終点の吉母港バス停付近は「地元駐車場」とされているが、広い空地の片隅に駐車さ
        せてもらう。

        
         正面に黒嶋観音堂。

        
         漁業の守護神であるゑびす神社。

        
         金比羅大権現の鳥居と頂上に黒嶋観音堂。

        
         沖合いに浮かぶ蓋井島。

        
         お堂は阿波国第1番・霊山寺とされ、釈迦如来の地蔵尊が祀られている。山手側は黒嶋
        観音堂への参道。

        
         参道の途中には四国八十八ヶ所霊場の石碑が並ぶ。

        
         観音堂が建つ突端部の小高い丘は、今は陸続きだが、名のとおり昔は島であった。西光
        寺の飛地境内であり、奈良期の739(天平11)年行基が開創したとされ、十一面観音の秘
        像を本尊とする。

        
         境内から見る吉母の町並み。

        
         吉母漁港は下関市が管理する地元漁業者を主体とする第1種漁港で、漁業者は一本釣り、
        採貝を主な漁法としている。(栽培センター付近より) 

        
        
         漁村集落特有の1~2軒ごとに海への通路が設けてある。

        
         この地に「産堂(うぶどう)」と呼ばれる祠堂があったが、由来については諸説あるようだ
        が、地元ではこの祠の祭神を彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)として祀ってきたという。
         1908(明治41)年若宮神社に合祀されて、跡地に「胞塚(えなづか)」のみが現存すると
        いう。

        
         かってのメインストリートに出る。

        
         郵便局付近。

        
         どういう通りであったかはわからないが、商店と民家が混在していたものと思われる。

             
         1874(明治7)年吉母小学校は西光寺を教室にして開校。その後、名称変更を経て現校
        名となる。ハマユウの育成に取り組むことで知られていたが、今もされているか否かは

        り得なかった。

        
         古塀の先で集落は途切れる。 

        
         草場川の川辺で白鷺が一羽佇むほど静かである。

        
         海の家前が吉母海水浴場。

        
         これといった見処があるわけではないが、本州最西端の集落ということで歩いてみた。

        
         毘沙の鼻まではポイントに案内があってスムーズに行くことができる。岬には駐車場と
        トイレも完備され観光地化されている。

        
         展望広場まではフラットな遊歩道が設けてある。

        
         海抜120mの広場には「本州最西端の地」と記された灯台型モニュメントがあり、そ
        の先に展望デッキが設置されている。正面に蓋井島が横たわるが、あとは大海原が広がっ
        ている。 

        
         東屋の先から見る断崖の海岸線。