ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

船木鉄道(万倉~宇部)の鉄道敷跡を巡る (宇部市/山陽小野田市)

2024年06月12日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         船木鉄道は山陽本線宇部駅から旧山陽道の船木宿を経て、山間部の万倉と吉部を結ぶ
        17.7㎞の軽便鉄道であった。1944(昭和19)年に万倉~吉部間が廃止され、196
        1(昭和36)年に全線が廃止された。
         万倉~吉部間には鉄道敷跡の遺構が多く残されていたが、船木~宇部間は開発等で消滅
        していた。

        
         JR宇部駅から船鉄バスを乗り継いで、楠こもれびの郷バス停で下車する。トイレと弁
        当を買い求めて万倉駅があった万倉バス停に向かう。

        
         南に真っ直ぐ延びる道が鉄道敷跡。

        
         1923(大正12)年10月14日万倉駅頭において、船木~万倉間の開通式が行われた。
        当時の万倉駅は田圃の中に建設され、附近には4軒の農家があるに過ぎなかったという。
        (遺構はないがバス停が現存)

        
         車の多い道を歩くので、先ずは安全祈願のため宮尾八幡宮に参拝する。

        
         参道から鉄道敷跡に出る。

        
         船木までの鉄道敷跡は、その大半が道路に転用されている。

        
         船木~万倉間が開通し、1926(大正15)年11月に吉部までの区間が開通すると毎期
        に欠損が生じ、機関車の響音まで「ケッソン、ケッソン」と揶揄されるようになった。

        
         伏附(ふしつき)停車場があった附近だが、停車場の位置は確認できなかったがバス停が現
        存する。

        
         有帆川の第二夏田橋に橋台の一部が残るだろうと、橋下を見渡すが護岸工事などで消滅
        していた。(右手の建物は雇用促進住宅)

        
         途中でお会いした地元の方によると、この先の自販機(看板製作のⅯ社)前方に宗方駅が
        あった。温泉もあったが廃業されたとのこと。

        
         やがて宇部興産専用道路下を潜るが、この附近はどのように敷設されていたかはわから
        なかった。万倉入口に「万倉なすと岩戸神楽と硯の里」と案内されている。 

        
         船木中心部までの鉄道敷跡。

        
         右手の学びの森くすのき(図書館)敷地内に裁判所前停車場があったとされる。
         当時の船木村は家屋が約1,000戸建ち並び、5,600人の人々を擁する厚狭郡の中
        央都市であって、郡役所、裁判所、警察署、税務署、県立徳基高等女学校などの諸官庁が
        あり、商工鉱業が栄え、物資の集散市場であった。

        
         トイレ借用に立ち寄ると館内(博物館)に船木町駅のラッチが保存されている。

        
         旧山陽道筋を横断する。

                
                        (船木~有帆間)

        
         船木町駅舎(左手)と右の建物の間に数本の線路があったと思われる。

        
         当時の船木村には未だ電燈の恩恵に浴せず、町内には灯油の外燈が点火されていた。駅
        舎・待合室は石油ランプが灯されたが、後に危険なためロウソクに変わり、「松風提灯」
        が吊された。その後、カーバイドのガス灯となり電気へと変遷する。

        
         営業所入口に当時の信号機が保存されている。船木は政治・経済・文化の中心であった
        関係から、厚東村に設置された駅が「船木駅」(現在の厚東駅)とされたため、こちらの駅
        は「船木町駅」とされた。

        
         待合室にある木製ベンチも当時のものと思われる。

        
         さらに南下すると山陽新幹線下を潜る。山陽鉄道が三田尻~厚狭間の敷設に際し、船木
        を経由する案を提示したが、村民の反対が強く、地主の利権欲に阻まれ、地元負担金の見
        通し難のため鉄道実現は挫折する。1900(明治33)年12月に山陽鉄道が開通すると、
        物資の流通機構は変革をきたし、船木の商品市場は局地化した。

        
         正面の民家裏が船木町駅であり、鉄道敷は左手の舗装路であったのだろうか。ここも不
        明地点の1つであった。

        
         1908(明治41)年に山口軌道が山口~小郡間に軽便鉄道を開業させ、続いて宇部軽便
        鉄道が創立されるなど近隣に鉄道建設の動きが見え始めると、船木村でも軽便鉄道の具体
        化が図られるようになる。
         しかし、当時の船木村は派閥抗争が激しく、小野田駅を起点とする派閥と宇部駅を起点
        とする派閥の対立があったという。結果として宇部~船木案が採用されて鉄道院に上申さ
        れた。(指月附近) 

        
         峠の頂上付近が旧楠町と小野田市の境界。

        
         下って行くと左手に「千林尼の大休・指月石畳道」の案内がある。船木逢坂の観音堂に
        住んでいた千林尼が、険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、自ら托鉢をして浄
        財を集め、敷いた石畳道の一つで、1862(文久2)年8月に完成した。現存の石畳道はそ
        の一部で、敷石の長さ約260m、幅1.5mとある。

        
         字中村停車場は停留場(現在のバス停のようなもの)であったが、1920(大正9)年に長
        門起業炭鉱の寄付により、側線を増設して駅舎新築と駅員の配置がなされたという。この
        附近にあったと思われるが確証を得ることができなかった。

        
         山陽自動車道下を潜る。 

        
         鉄道敷はこのまま直進していたものと思われるが、この一帯も不明地点である。

        
         県道29号線(宇部船木線)に出ると有帆バス停がある。

        
                        (有帆~宇部間)

        
         バス停の先を左折して広い道を進むと民家が建ち並ぶ。結果として有帆駅の位置はわか
        らず終いとなる。片隅に「與三郎大神」と記された小さな神社がある。
         1914(大正3)年5月2日宇部~船木間の鍬入式が行われて、工事は厚南村鏡ヶ窪から
        開始されたが、有帆駅構内の用地買収で鉄道側と起業炭鉱との間で紛争があったという。
        後に紛争は解決したが、工事着工以来2年2ヶ月を要して完成する。

        
        
         生活道に入ると民家の先に築堤が見える。

        
         船木側は民家手前で消滅している。

        
        
         新道で二分されているが先に続いている。

        
        
         有帆側に残る橋台。

        
         正面に見える石橋で山中に入ってみる。

         
         鉄道敷跡に上がると歩けそうな道が続いている。 

        
         どなたかが整備されているのか歩きやすい道が続く。

        
         貯水槽の先にも続いている。

        
         山肌に崩落防止用の石垣が残存する。

        
         通行止めの先に民家があり、ここで引き返し貯水槽の所から生活道に出る。

        
         宇部興産専用道路の函渠を潜り、右折して非舗装の草道を進む。

        
         宇部興産道路と大和団地の間に出るが、鉄道敷はこの道を横断していたと思われる。

        
         鉄道敷は団地内を走っていたようだ。 

        
         県道29号線に合わすと、迫条バス停附近から山陽本線に並列していた。

        
         1942(昭和17)年2月に宇部油化工業㈱の石炭液化に伴い、船木鉄道と油化工業との
        撃密な共同化が行われた。この共同化は石炭輸送の強化が必要だったことによる。
         翌年には船木、宇部、小野田鉄道の国鉄買い上げ問題が起こったが、船木鉄道は油化工
        業に石炭30万屯を輸送することが捨て難く、買い上げ反対に及んだ。
         しかし、戦局の悪化にともない、1944(昭和19)年5月油化工業側より、条件解除の
        通知を受けて瓦解する。宇部・小野田鉄道は国鉄買収に応じ、現在も鉄道が維持されてい
        る。

        
         戦後になると鉄道収入の基盤であった石炭輸送は、最大輸送時より半減して収入は減少
        の一途を辿る。1960(昭和35)年9月に沿線炭鉱に対し、国鉄側が納入石炭の契約を解
        除すると、翌年10月14日鉄道の日に苦節45年の歴史を閉じる。
         宇部駅は現駅舎の向い側にあったが、宇部駅構内改良工事による用地交換により消滅す
        る。 


井関(阿知須)の史跡を巡る (山口市)

2024年06月10日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         井関は土路石川、井関川流域に位置し、東は山口湾に面する。(歩行約7.2㎞)

        
         サンパークあじすバス停からコミュニテイバス(タクシー)約3分、井関バス停で下車す
        る。(100円均一運賃)

        
        
         バス停から山手に向かうと蓮光寺(真宗)がある。井関・野口・杖川の3集落は、この地
        域を玉川と呼んでお互い連帯感を深めていた。
         ここには宇部市厚南区にある蓮光寺の檀家が約70戸あるという。この支坊は井関説教
        所であったが、1974(昭和49)年に庫裏を建設し、以後は蓮光寺支坊というようになっ
        たという。

        
         バス停に戻って井関小学校方向へ進む。

        
         16世紀の中頃、この丘陵地に堀を巡らした領家(りょうけ)と呼ばれる城館があったとさ
        れる。この一帯を治めていた有力権者の屋敷跡とされ、軍事的あるいは政治的な機能を有
        する遺構の一部とされる。現在地はその南の中央にあたるところで、東西に走る堀の北に
        並行して塀と柵、矢倉門が設けられていたという。
         現在は地下遺構とされて説明板のみとなっている。碑は阿知須中区圃場整備記念碑。

        
         左手に井関小学校を見ながら、県道213号線(きらら浜沖の原線)を横断して旦地区に
        入る。

        
         途中の路傍にある石造地蔵尊には「三界萬霊」とあるが、この世に存在する一切の霊(萬
        霊)を多くの人に供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。三界とは
        生命あるものが住む3つの世界(欲界・色界・無色界)のことである。

        
        
         往古は山王社と号していたが、1871(明治4)年に日吉神社と改めた。風土注進案には
        縁起についての記載はないが、石鳥居の刻文に「正徳六丙甲(1716)」とあり、それ以前に
        存在していたと思われる。一説によると、万年池溜池の鎮守社として祀られていたともい
        われている。
         1906(明治39)年の小社統合を免れ、1912(明治45)年9月に北方八幡宮へ統合さ
        れた浜の二宮神社の社殿を買い求めて、これを移建したという。

        
         境内には「雨乞紀念碑」と「大旱記念碑」が建立されている。1897(明治30)年8月
        6日に建立された雨乞碑によると、明治に入ってから30年に至るだけでも、明治6年、
        11年、14年、16年、25年、30年の6度にわたって雨乞祈願がなされた。
         近年では1966(昭和41)年夏に行われたが、特に1939(昭和14)年はひどく、この
        時に行われた雨乞祈願については、大旱記念碑裏面に記述されている。この年は未曽有の
        大干ばつで、各地の溜池貯水量は充分ならずとある。

        
         増光寺(浄土宗)は旦区公民館の敷地にあったとされる。寺社由来によると、当時、旦村
        には80軒余りの人家があったが、寺はなく先祖の供養にも不自由していた。その頃に嘉
        川村の浄土宗抱えの光昭坊が無住になっていたので、 1737(元文2)年に藩府よりその
        古号・古跡を移すことが認可されたとある。 

        
         1940年代には尼僧が居て、村の農繁期には地域の幼児たちを預かるなど地域住民に
        人望があったという。亡き後は無人となり、1967(昭和42)年廃寺となる。本尊の地蔵
        菩薩は敷地隅に建てられたお堂に祀られ、如来像2軀と33観音は阿知須合同納骨堂へ移
        された。お堂は白松新四国八十八ヶ所15札所とされている。

        
         徳田譲甫翁(1855-1931)は現宇部市西岐波白土の土屋家に生まれ、1870(明治3)年徳
        田小三郎の長女ユキと養子縁組をする。小三郎の長男・文作が生まれ、まもなく小三郎が
        死去したため、家督を相続して文作の親代わりとして養育する。
         村会議員・村長、県会議員、衆議院議員となったが、村の米作りの要であった水不足解
        消のため、江畑池堤防再建のため国や県に奔走する。1931(昭和6)年県営で溜池工事が
        完成するのを見届けて他界する。(徳田邸内に銅像)

        
         左手に丸塚山を見ながら市街地を目指す。飛石地区に石風呂跡があるというが、民家の
        庭とのことで残念する。

        
         飛石公民館敷地内に水を司る水神の「龍神社」祀られている。当初は旧阿知須幼稚園の
        敷地内にあったが、1980(昭和55)年に現在地へ遷座したという。建立時期は不明だそ
        うだが、江戸期に干潟が開作され、18世紀半ば以降に祀られたと思われる。
         鳥居の額束は「飛石龍神社」、柱の刻文は「寛政四子年(1792)九月一六日」、石灯籠に
        は文化4年(1807)とある。

        
         さらに県道を東進して信号機で横断する。

        
        
         丸塚第5号古墳は洪積段丘の端に位置し、南北を主軸にして南側に開口部がある。複室
        の横穴式石室を内部にもつ円墳で、6世紀後半に築造されたものだそうだが、周辺の開墾
        と永年の侵食などにより、石室が露出した古墳であったという。

        
        
         5号古墳の道を進むと工場の先に池が見えてくる。1569(永禄12)年に毛利軍は九州
        に出陣して大友軍と激しい戦いを交えていた。この時、大友氏は毛利軍の背後を衝くため、
        大内輝弘を周防国の秋穂浦から阿知須浦に上陸させた。
         山口に攻め入るために光明寺の住職と5人の村人を無理やりに道案内させた。大内軍壊
        滅後、毛利氏は大内軍に協力したということで6人を首谷ヶ浴(くびたにがえき)で殺害する。
         それ以降、池で自殺する者が相次いだため、1924(大正13)年に近隣の僧と住民によ
        って供養祭が行われ碑が建てられた。その後、自殺する者がいなくなったという。(説明板
        より)

        
         さらに北上すると右手に丸塚2号古墳が見えてくる。 

        
         丸塚2号古墳はミカン園の中にあり、5号古墳と同様に南に開口した複室の横穴式石室
        を内部主体とする古墳である。墳丘は周辺の開墾や耕作によって一部が削り取られている
        が、円墳であったと考えられている。

        
         信号機まで引き返し、船渡児童公園の道を南下する。

        
         白壁の居蔵造を象徴するなまこ壁の格子柄と、旧阿知須町の町木であった金木犀がデザ
        インされたマンホール蓋。

        
         井関川から見た飛石の樋門で「ごろうえび」と呼ばれるが、湿地帯の排水を改善し、稲
        作向上に貢献した人物の名をとったという説もあるが不詳とのこと。 

        
         井関川は旧阿知須町大坪に発し、東流して山口湾に注ぐ2級河川で、流長は9㎞とされ
        る。

        
         藩に納める年貢米を、この橋を渡って橋の袂で収納し、満潮時に船へ積み込み、上方に
        海上輸送する拠点であった。通称「御米(ごまい)橋」と呼ばれた。

        
         中州に祀られている地蔵尊。

         
         「白地に赤と青のライン」の列車は、1987(昭和62)年に国鉄が民営化された後から、
        30年間にわたり運行されていた。
         2022(令和4)年7月より復活運行されているが、運行期間は「当分の間」とされてい
        る。


船木鉄道(吉部~万倉)の鉄道敷跡を巡る (宇部市)

2024年06月03日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         山陽鉄道は下関への延長工事を計画した時、船木村を通す予定であったが、当時の船木
        は藩政時代からの宿場町として繁栄していた。鉄道建設により町が寂れるとして、村民の
        反対を受け、交通の利便から取り残されることになった。1910(明治43)年に軽便鉄道
        法が、翌年に軽便鉄道補助法が施行される。小資本で軽便鉄道建設の道が開かれると、地
        元有力者たちにより船木軽便鉄道㈱が創立される。
         1916(大正5)年7月宇部~船木、1923(大正12)年12月船木~万倉、1926
          (大正15)年11月に吉部(きべ)までの全長17.7㎞の船木軽便鉄道が開通する。

        
                 JR宇部駅から船鉄バス船木行きに乗車、船木で瀬戸行きに乗換えて吉部バス停で下車
        する。この区間は100円均一でバス旅を楽しむことができる。

        
         バス停先にJAの倉庫があるが、ここが旧吉部駅だったとのこと。
         当時の吉部村は、戸数600、人口3,500人を擁し、船木宰判より萩城下に至る要路
        として、物資の集散地として栄え、旅人宿が賑わったところである。 

        
         旧吉部駅から吉部小学校にかけて築堤が残されている。

        
         右手の片隅にある四角いコンクリート製は、信号機の土台のようである。

        
         参道と立体交差する地点までは築堤を歩くことができる。

        
         築堤を歩くときには気付かなかったが、小川があるので県道30号線を引き返すと卵型
        の橋梁がある。

        
         土手のように見えるのが鉄道敷跡。

        
         吉部八幡宮参道と立体交差していた場所に、石積みの橋台が残存する。

        
         吉部八幡宮(駐車場にトイレ)

        
         案内板のようなものが見えたので立ち寄ると、6世紀後半から7世紀頃に、全国で数多
        く造られた小円墳の1つである槍ヶ森古墳である。
         田畑の造成などで破壊されており、造られた当時の形は残しておらず、墳丘を覆ってい
        た土は流失し、天井石も外されている。

        
         築堤は吉部小学校東側で途切れる。

        
         吉部駅と大棚トンネル間は高低差がないようにされたためか、高い橋脚が設けられてい
        た。

        
         小学校の南側を廻って体育館前を過ごすと、大棚トンネルへの案内がされているが、鉄
        道敷は石垣と土盛りされた上にあったものと思われる。

        
        
         小学校西側から大棚駅跡まで鉄道敷跡が現存する。第二次大戦の戦局悪化により、19
        44(昭和19)年3月2日鉄道軌道統制法により、吉部~万倉間8㎞のレール供出を要求さ
        れて廃止となる。

        
         全長37mの大棚トンネル。(吉部側出入口) 

        
         トンネル内は垂直壁と半円構造で、石積みと煉瓦が用いられている。

        
         万倉側の出入口。小坂~吉部間は山肌の切落しが、度々の土砂崩壊により難渋したとい
        う。特に大棚附近の山肌切取りは、再度にわたって崩壊したので、終に隧道変更されたと
        いう。

        
         トンネルから50mほどの位置に、大棚駅ホームと駅標板が復元されている。

        
         大棚トンネルから先のルートはわからなかったが、県道の他は道がなさそうなのでピー
        クを越えるが、当時はもう少し勾配があったものと思われる。

        
         下って来ると100m先に、「黒川の妙典供養碑(市指定有文)」が案内されているので立
        ち寄る。

        
        
         鎌倉期から江戸期にかけて盛んに造られた板碑で、石造卒塔婆(そとば)では旧楠町内で唯
        一のものとされる。
         高さ128cmの自然石の正面上方には大日如来を示す梵字、中央には蓮弁が彫られ、下
        方には「天文15丙午(1546)8月24日 常音敬白 為妙典一部供養」と刻銘されている。

        
        
         この生活道が鉄道敷だったかどうかはわからない。道の左手を長谷川が並行する。

        
         長谷集落から緩やかな坂を上がって行くと、この附近に峠駅があったとされ、現在は同
        名のバス停が設置されている。

        
         笛太郎ファームの看板下に短いトンネルが残存する。

        
         現在は水路と化し、出入口附近は藪となって立ち入ることができない。

        
         トンネルの位置から考えると、県道より一段低い位置に敷設されていたと思われる。

        
         山中バス停附近から県道下に鉄道敷が長く延びる。

        
         県道との高低差がなくなる地点で合流し、芦河内集落入口へ向かう。(歩車分離でない道) 

        
         船原バス停を過ごすが大型車種が意外と多い。
      
                
                     (芦河内入口~万倉)

        
        
         芦河内バス停の先からは矢矯川左岸に敷設されていたようだが、跡らしきものは残存す
        るが藪化で進入不可であった。

        
        
        
         今富バス停から矢矯川に架かる出合橋を渡り、今富駅があった附近を目指すが、この時
        期は藪になって先に進めないため残念する。

        
         県道を斜めに横断していたと思われるが、この先は竹が繁茂して進入は困難であった。

        
                 県道の右手に橋台のようなものが見える。

        
         県道を右折して上矢矯集落の生活道に入り、鉄道敷跡への道を模索するが民地のため残
        念する。

        
         庚申塚の先に進入路があり、上がると矢矯(やはぎ)駅跡である。

        
         駅跡から鉄道敷を引き返すと橋台が見えるが、県道から見た橋台なのかはわからない。

        
         万倉側の橋台。

        
         吉部側の橋台下に踏み跡が残されているが、逆ルートであれば入口を見つけられたかも
        知れない。

        
         築堤の鉄道敷跡を引き返す。

        
         ほぼ直線的に敷設されているが、切通し附近はぬかるみ状態が続く。雨後であれば通行
        に難がありそうだ。

        
         矢矯駅跡にプラットホームが残存する。

        
        
         築堤は途切れたので生活道を歩くと、右手に築堤とコンクリート製の橋台、橋脚が見え
        てくる。

        
         築堤から矢矯駅方向を見返すが、橋台の先は民家である。

                 
         築堤の途中に柵があるため生活道に戻る。

        
         途中から農道と畦道を利用して築堤を横切る。

        
         万倉中心部に向かって真っ直ぐに敷設されていた。

        
         中心部入口付近から見返る。

             
        
         万倉駅と同名のバス停付近に駅があったものと思われる。吉部~万倉間は戦争協力とい
        う名の下で17年4ヶ月でその使命を終えたが、建設に協力した地区住民にとって余りに
        も大きな犠牲であった。万倉までの遺構を思い浮かべながら、船木経由でJR宇部駅に戻
        る。