ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の和田は島末庄時代の中心地だった地 

2021年01月31日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         和田は屋代島の東部に位置し、逗子ヶ鼻西の入海となった海岸砂州に立地する。
         地名の由来について、当地は大島郡の島端部ではもっとも早く開けた所で、田畑を開い
        
た時に土地が棉(わた)のように軟らかく開きやすかったので「和田」と名付けたという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、和田、内入、小泊の3村が合併し、1955
          (昭
和30)年油田、白木、和田村をもって東和町となるが,現在は周防大島町の一部である。
        (歩行約2.6㎞)

        
         JR大畠駅(8:58)から防長バス周防油宇行き約1時間、周防和田バス停で下車する。

        
         バス停から旧道に向かうと、角に大きな倉庫風の建物がある。地元の人によると、農協
        の建物で精米所などがあったという。

        
         どう歩くべきか思案したが、とりあえず旧道を久賀方面へ歩くことにする。すぐ左手は
        潜り門のある民家。

        
         ほぼ直線的な道。

        
         山に降った雨をスムーズに海へ流し出す水路が設けてあるが、満潮期には海水が入り込
        んでフグが泳いでいる。

        
        
         この地も空家が目立つ。

        
         中央に旧東和町の町章、周囲には町木のサクラ、鯛、みかんの花と実がデザインされた
        マンホール蓋で、特定環境保全下水道として整備されている。

        
         油宇への道に合わすとその先は隣集落の内入(うちのにゅう)。右折すると海岸線沿いの国
        道に出る。

        
         正面に大見山、海に出張った所が厨子ヶ鼻で筏八幡宮がある。社伝によると、
        平安期の貞観年中(8
59-877)に宇佐八幡を山城国岩清水に勧請する時、和田村の沖磯合に神
        光が現れ、暗夜激流の中を無事に通航する。この時、神光を放ったのは筏に乗った厨子入
        りの神鏡で、祀るようにとの神託があり、筏八幡宮として祀ったのが起こりという。
         防波堤にはたくさんの太公望たちが釣り糸を垂れている。

        
         バス停まで戻って最初の道を直進すると、周防大島町東和総合支所和田出張所がある。
        1955(昭和30)年和田村ほか3村が合併して東和町が発足するまで、村役場があった地
        とされる。

        
         屋根に煙突が見える風景に出会える。

        
         正面に淡島神社の看板を見て左折すると、村上水軍史跡を示す案内板がある。

        
        
         史跡案内板と石仏3体のある所から石段を上がると、村上家の墓所がある。
         室町期の1558(永禄元)年村上武吉の次男として生まれた景親は、毛利軍の一員として
        戦いに参加する。関ケ原後は屋代島の内で1,500石を与えられて毛利家御船手組の組頭
        となる。三田尻(現防府市)に役宅、和田には田屋を造ったが、隠居後は和田に住み、16
        10(慶長15)
年この地で亡くなる。

        
         墓所から見る和田集落と、正面に浮島(うかしま)が浮かぶ。

        
         正岩(しょうがん)寺がある地には浄土宗の西浄寺があったが、1871(明治4)年隣村であ
        る油宇の寺と合併して廃寺となる。時の照岩寺住職が境内地と伽藍を譲り受け、域内にあ
        った寺を移転させて正岩寺と改める。

        
         照(正)岩寺は、1606(慶長11)年村上景親が草創となり、都濃郡長穂にある竜文寺(曹
        洞宗)の和尚を講じて開山された。

        
         境内地にある淡島神社は、1781(天明元)年紀州の加太にある淡島神社から勧請したと
        される。婦人病をはじめとして安産・子授けの神として崇敬されている。

        
         溜池の中に建てられた「楽楽亭」は、1972(昭和47)年寄贈とあるが、用途等は知り
        得なかった。

        
         今度は水路に沿って海側へ下る。

        
         旧道との出合いにある古民家。

        
         国道と旧道の間にある路地にも空家が目立つ。

        
         旧道を右折して引き返す。

        
         人にも動物にも会うことはなかったが、約1㎞にわたって町筋が形成されている。

        
        
         この地方の家は比較的新しい家が多いが、要因として強い潮風や波にさらされるため、
        家が傷みやすく耐用年数が短いことにあるという。70~80年で家を建て替えるという
        のが一般的であったようだが、近年は防波堤などが整備されて古民家もそのまま維持され
        ている。

        
         域内には商店らしきものは存在せず、JAふれあい店も平日のみ営業のようである。こ
        の付近に村上水軍田屋(私邸)があったとされるが特定することができなかった。

        
         建物構造をみると旧郵便局舎のようだ。

        
         向かい側に浄土真宗の長専寺。

        
         海を眺めながらのバス旅と洒落込んだが、滞在時間が長いので車の方が得策であった。
        (待合所あり)
                 


美祢市の於福は瀬戸崎往還道沿いに集落

2021年01月30日 | 山口県美祢市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         於福(おふく)は厚狭川の上流域に位置し、東は急傾の於福台のカルスト台地、西は緩やか
        な丘陵地で、於福ポリエ(溶食盆地)と呼ばれる南北の低地にある。
         1889(明治22)年の町村制施行により、於福下村と於福上村をもって於福村となるが、
        昭和の大合併で6町村と合併して美祢市於福となる。(歩行約3㎞) 

        
         JR於福駅は、1920(大正9)年10月美祢軽便線が重安駅から延伸した際の終着駅と
        して開業する。木造駅舎は改装されて、現在は交流ステーションとして公民館的な役割に
        利用されている。駅舎は集落側に設けられているが、駅の東側を国道が走り、傍には道の
        駅が設けられるなど、線路を挟んで対照的な駅周辺である。

        
         美祢市役所於福出張所前の道。

        
         通りの住宅は改築が行われ、このような住宅はここのみであった。

        
         域内には瀬戸崎から於福の大ヶ峠、於福を通って赤間関街道までの瀬戸崎往還道と、三
        隅から嘉万を通って於福で合流する嘉万往還道があった。

        
         最初の三差路に志道(しじ)家墓所の案内がある。

        
         高い建物がないので火の見櫓が目立つが、今ではスピーカーの設置や半鐘もないのでホ
        ースを干す程度の機能と思われる。集落の見える位置にそびえているが、先の大戦では鉄
        の供出により取り壊されたものが多いので、戦後から1955(昭和30)年代にかけて建て
        られたものと思われる。

        
         緩やかな上り道が続く。

        
         2つある石碑の左手は忠魂碑だが、右は風化して読めず。

        
        
         蔵の側面に鏝絵があるが、くちばしと目があるので鶴だろうか。

        
         志道家は於福村の小杉に屋敷を構え、同所の徳明院を菩提寺としていた。その屋敷跡は
        
小杉に開けた棚田を上り詰めると山腹にあり、高台から小杉、金山一帯を一望することが
        できる。

        
         志道就幸が当地方を宛がわれ、1625(寛永2)年真言宗の永福寺跡に菩提寺を建てて法
        号によって徳明院と称する。寺院は広大であったようだが、今では小杉観音堂のみとな

        ている。

        
         境内に志道家の墓所があり荒廃しているが、3,000石の寄組だった格式をしのぶこと
        ができる。 

        
         厚狭川の則田橋まで戻って旧往還道を北上する。

        
         六地蔵。

        
         変化のない町並みと寒さが伝わってきたので、次の三差路で駅に向かう。

        
         
地元の方が「冬は北からの花尾山下ろしが谷間を抜けるので風が強くて冷たい」と言わ
        れていたが、川の先に三角錐の花尾山が見える。


美祢市の四郎ケ原は赤間関街道中道筋の宿場町だった地

2021年01月27日 | 山口県美祢市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         四郎ヶ原(しろうがはら)は南流する厚狭川の中流域に位置し、赤間関街道中道筋に設けられ
        た近世の宿駅(人足30人、馬10疋)であったが、閑散とした宿駅であったようだ。
         1847(弘化4)年厚狭川が堀削されて川舟が通じると、近隣の米の津出基地となり活況
        を呈したが、鉄道の開通とともに役目を終える。今では県道も町中を避けてしまったため、
        地元の専用道となっている。(歩行約1.8㎞、🚻なし)

        
         四郎ヶ原集落はJR四郎ケ原駅から約1.7㎞も離れており、県道下関美祢線は歩車分離
        となっていない。安全を確保するためJR小月駅からサンデンバス美祢行き約40分、叔
        母河内バス停で下車する。

        
         県道下関美祢線(33号)を引き返すと、右手の旧道入口には街道を示す道標が設置して
        ある。

        
         1721(享保6)年に新設された四郎ケ原宿は、宿場の長さが2町10間(約230m)と
        記録されている。

        
         町に入ると右手上に火伏様(右側の社)があるが、1837(天保8)年4月13日の大火に
        より町筋が焼失する。

        
         東端近くの北側に春定札、中ほどに人馬・賃銀札が立ち、宿場には酒屋・宿屋・油屋・
        酢屋・醤油屋などがあったとされる。これらの町家は妻入りか平入りであった。

        
         厚狭川の堀削により通船できるようになったが、早水(流れの早い)の時には通航の難し
        い場所もあって、年貢米などは木屋川口までこの街道を利用して陸送りが行われた。

        
         1864(元治元)年は長州藩にとって激動の年となる。禁門の変、四ヶ国艦隊報復攻撃や
        
幕府の長州征討などを受けて、正義派に変わって恭順派が政権を握ると、正義派への弾圧
        を強化する。
         12月16日高杉晋作が挙兵すると、諸隊の追討命令をもって鎮静軍が萩を出立した。
        諸隊は12月16日に伊佐への転陣を決め、19日に伊佐へ到着したが膺懲隊はこの地に
        宿陣する。

        
         1811(文化8)年伊能忠敬は測量の途次に投宿し、吉田松陰も平戸遊学のため、185
        0(嘉永3)年8月25日この地で一泊している。

        
         岡藤家は宿場で宿年寄を務めた家であり、古くから酢醸造を営んでいた。主屋は瓦葺き
        き平入りの2階建て、道路に面して格子があり、玄関前の井戸は宿場用水として利用され
        たのであろう。

        
        
         隆光寺参道の右手に大庄屋だった河崎家の屋敷跡が残っている。

        
         河崎家前で歩いてきた道を見返るが、岡藤家以外は建物が更新されて昔の町並みをとど
        めていない。

        
         隆光寺(浄土真宗)は地下(じげ)上申には登場しないので、その後に創建されたと思われる。

        
         浅山家は長府藩家老・椙森家の老臣であったが、18世紀初めに故あって主家とともに
        藩を退く。後に浅山道琢が萩藩内大嶺(現美祢市大嶺町)において医業を始めたとのこと。
        1910(明治43)年築の旧浅山医院が現存する。

        
         1964(昭和39)年数百点の古医書が山口大学医学部図書館に寄贈され、四熊文庫同様
        に浅山文庫として収蔵されている。浅山文庫は浅山良輔の書籍から成り立っているが、い
        ずれも幕末から明治初期にかけたもので、医学教育にとって貴重なものであるようだ。

        
        
         1919(大正8)年創業の大場醤油醸造場は、一部が煉瓦造で切妻の建物である。今も醸
        造されているかどうかはわからなかったが、昔ながらの手づくりの醤油を提供されてきた
        という。

        
         1872(明治5)年開校の城原小学校は、2019(平成31)年3月をもって閉校とな
る。

        
         学校の隣にある若宮八幡宮には、1837(天保8)年の大火を知る御神木(タブノキ)や天
        保3年(1832)銘の石灯籠がある。

        
         街道は県道に合わすが、この先は盛土や藪化して通行不能のようで、街道歩きの場合は
        県道を利用する以外にないようだ。

        
         街道と分かれて県道を北上する。

        
         わずかな距離であったため田園地帯を歩いてみることにする。(信号先に下関方面の四郎
        ケ原バス停)

        
         県道を横断して厚狭川方向へ進む。

        
         美祢線大沖第2踏切と厚狭川の七田橋を渡って左折する。

        
         正面に叔母ヶ河内集落が見えてくる。

        
         集落道から見る四郎ケ原。

        
         近年は自脱式コンバインにより排藁が細断処理されるため、「としゃく」を見ることは
        少なくなった。

        
         叔母ヶ河内集落の入口にある「カフェギャルリとりのこ」で美味しいコーヒーをいただ
        く。バスの時間待ちには最適な場所であるし、店主からこの一帯の情報をお聞きすること
        もできるお奨めのカフェである。(毎週月曜日と第1日曜日が休店)

        
         下渡踏切と叔母ヶ河内橋を越えると、左手に下関行きの叔母河内バス停がある。


山陽小野田市の高泊に周防灘干拓遺跡が現存

2021年01月24日 | 山口県山陽小野田市

        
                           この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         高泊は有帆川右岸に位置し、南は瀬戸内海に臨む。1889(明治22)年町村制施行によ
        り、有帆、西高泊、東高泊、千崎、高畑の各村が合併する。村名は各村の一字(帆・高・千)
        をとって高千帆村となる。(歩行約6.2㎞)

        
         JR小野田駅(10:06)から船鉄バス本山岬行き5分、市民病院入口バス停で下車するが、
        病院までは約500mの距離にある。

        
        
         関ケ原の戦い後、毛利氏は防長2州に押し込められたため、藩財政の立て直しが急務と
        なり、石高を増やすため積極的に土地造成(干拓・開作)が行われる。高泊開作もその1つ
        で、166(寛文8)年船木の代官・楊井三之允の尽力によって完成する。
         この水田に必要な用水を確保するため、江汐湖が造られ主水路として沖中川水路橋が設
        けられた。当初は石を削りつなぎ合わせたものだったが、水漏れのためコンクリートで作
        り直されている。

        
         水路は途中で長田屋川と江川に分かれ、高泊開作の西半分の水田を潤し、浜五挺唐樋の
        所にある遊水地へ入る。(右手の建物は山陽小野田市民病院)

        
         江汐公園のつり橋とミツバツツジがデザインされた旧小野田市のマンホール蓋。

        
         小野田橋から有帆川に沿って、浜の当嶋八幡宮まで直線道である。横土手と呼ばれる約
        1.3㎞の道は、江戸初期の新田開発時に造られた土手である。

                 
         亀甲模様に「山陽小野田市」の文字に市章が記されたマンホール。

        
         同じ道に台形の同心模様と中央に市章のマンホール。

        
         1917(大正6)年横土手の中ほどに開作250年を記念して建てられた汐止記念碑があ
        る。この場所は高泊開作築立に際し、最初に設けられた配水樋門の場所である。
         1668(寛文8)年7月横土手を築き排水門が完成した矢先、一夜の大暴風で樋門は流さ
        れ土手は崩壊する。のちに当嶋八幡宮下に岩盤を利用した樋門が設けられた。

        
         現在の高千帆樋門。

        
         現代は横土手の海側も埋め立てられ、土手に沿って民家や事業所の敷地として利用され
        ている。(正面に当嶋八幡宮)

        
         当嶋八幡宮の参道下にある切抜唐樋は、招き戸が5挺あることから「高泊開作浜5挺唐
        樋」と呼ばれている。(国指定史跡)

        
         自然の干満を利用して開閉する仕組みで、満ち潮時には潮の圧力により招き戸は自動的
        に閉まり、引き潮時には遊水池に溜まった水の圧力によって自然に排水できるようになっ
        ている。

        
         潮が引けば広大な干潟となり、その境界線に土手を築き排水門が設けられたが、当時の
        優れた土木技術を伝える貴重な史跡とされる。これにより高泊開作が築造され、今では官
        公庁、小野田駅、工場群などが立地する土地へと変貌を遂げている。

        
         当嶋八幡宮は有帆川河口の浜木屋港にある当嶋に、平安期の880(元慶4)年宇佐神宮か
        ら勧請されたと伝え、旧高泊村及び旧千崎村西部の鎮守神となる。
         もともと南側が参道であったが、開作築造の後に参道の石段を東に造って正面とし、社
               殿を現在の方向に変更したとされる。

        
         境内から見る樋門と横土手。

        
         南参道を下って右折すると三差路。バス路線に沿って進むと高泊神社の看板が見え、そ
        の先に勘場屋敷への案内がある。

        
        
         1668(寛文8)年開作造成時の臨時代官所(勘場)で、船木代官・楊井三之充が起居した
        役宅とされる。
         その後、開作が完成し代官が引き揚げる時、造成に協力した庄屋・目(のち藩名により作
        花姓)氏が屋敷を拝領する。

        
         施錠されて内部を拝見することはできないが、代官が起居した表8畳の間は、「上段の
        間」と呼ばれる一段高い造りになっているとか。

        
         高泊神社は、萩藩2代藩主・毛利綱広が高泊開作築造に当たって、安芸国厳島神社より
        勧請する。毛利家より社殿などが寄進され、厳島龍王社として高泊開作総鎮守の神社とな
        る。その後、水田が開かれて耕作者が増えると、五穀豊穣を願って京都伏見稲荷社からも
        勧請されて祀られた。

        
         開作が藩直営事業であったことから、本殿は萩で木組みが行われ船で用材が運ばれたと
        され、神紋には毛利家の家紋である一文字三星が使用されている。1917(大正6)年高泊
        神社と改号し、現在に至っている。

        
         珍しい子連れ狛犬だが、狛犬ファンにとって必見のようだ。

        
         境内には高泊開作開墾碑(1872年)と楊井三之允の頌徳碑(1924年)がある。頌徳
        碑の碑文には「‥業半ばに及び風浪至り堤防決潰、計画水泡に帰す‥再び風雨に遭い土砂
        崩壊、海水氾濫なす所を知らず‥寝食を廃して工を督す‥」とある。

        
         須賀神社前から見る高泊神社。当時、高泊湾内唯一の岩島に本殿がある。

        
         高泊神社西の山寄りに須賀神社と恵比須社がある。須賀神社の創建は不明だが、古くは
        疫神社と呼ばれていたが、1871(明治4)年に改称したとされる。
         昔より風邪回復の神として崇敬され、湯茶をもって参拝する風習が残っているようだ。
        須賀神社の右隣に恵比須社が並んでいる。

        
         周辺には新しい住宅が点在する。

        
         高畑・高泊循環線の郷バス停(土日祝は5便)地点から北上するが、その前に西福寺へ寄
        り道をする。

        
         西福寺(浄土宗)の寺伝によると、南北朝期の1355年創建とされ、本堂は1784(天
           明4)
年に建立されたもので中間の柱をできるだけ省略し虹梁(こうりょう)を多用している。
         このため、内部の建具はなく空間を形作っている堂宇となっているようだが、拝見する
        ことができなかった。

        
         案山子の頭に稲穂を加えた鳥がとまり、外周に稲穂がデザインされた集落排水用マンホ
        
ール蓋。 

        
         左手に高泊小学校を見ながら信号機のある交差点を直進する。(横断してきた道を見返
        る)

        
         やがて左手に烏帽子岩神社が見えてくる。

        
         烏帽子岩神社の祭神は神功皇后とその子・応神天皇とされる。伝説によると、皇后が三
        韓出兵の時に海上の風波が高く、軍船は高泊湾に繋泊して波の鎮まるのを待った。
         早朝になって風波はますます激しくなり、皇后は自ら岩上に立って風鎮の祈願をされた
        が、その時にかぶっていた烏帽子を海浜の岩に掛けたという。
         このことからこの地を烏帽子岩といい、里人は祠を建てて神功皇后社と敬称する。19
        44(昭和19)年現神社名とする。

        
         境内から見る小野田の町並み。

        
         烏帽子岩神社の北にある法蓮寺(浄土真宗)は、大内氏の家臣であった藤村政俊が、大内
        義隆自刃後に得度して現美祢市伊佐に草庵を結ぶ。
         その後、旧楠町吉部に移り、一宇建立して本願寺から法蓮寺の寺号を免許されるが、火
        災で焼失する。1679(延宝7)年藩命により現在地に移り、開作新住民の檀那寺となった。

        
         本堂の軒先に懸かっている梵鐘は、開作住民の要請もあって時を告げる鐘であると同時
        に、災害の警鐘として鋳造された。太平洋戦争中の金属回収令に際し、いざという時の警
        鐘であることを理由に、やっとのことで供出を免れたという。
         この鐘は開作工事の折に使い残した古銅14貫百匁(約53㎏)は地金に供与されたとさ
        れる。

        
         国道190号を横断して県道に入る。

        
         1668(寛文8)年楊井三之允によって高泊開作が築造され、数年後には水の神である高
        須弁財天が創建される。1871(明治4)年厳島神社に改称された。

        
         境内には「来嶋又兵衛誕生地碑」がある。又兵衛は1817(文化14)年喜多村家の次男
        として生まれ、少年期はこの地で過ごす。20歳で来嶋家の聟(むこ)養子となるが、186
        4(元治元)年禁門の変で戦死し、48年の生涯を閉じた。
         喜多村家は神社の北150mにあったが、宅地跡は田んぼとなっている。同家は187
        2(明治5)年現宇部市の平原に転出するが、政府の旧士族の授産事業に応募し、一家を挙げ
        て北海道に移住したが、その後の消息は不明とされる。
 

        
         県道を東進してJR小野田駅に戻る。 
           


周防大島の小松は屋代島の玄関口だった町

2021年01月20日 | 山口県周防大島町

               
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         小松は屋代島の西端部、飯の山を境として、西北部が大畠瀬戸に面し、屋代川河口の低
        地とその周辺部に立地する。
         地名の由来を風土注進案は、人ありて八幡山に松の苗を数本植えたところ、この松が盛
        りに繁ったことによろこび、所名を「小まつ」と云い習わしたという。(小松港バス停ま
        での歩行約4.3㎞)

        
         JR大畠駅(9:48)から防長バス橘病院行き約23分、開作港バス停で下車する。

        
         開作港から見る小松の町並みと、背後の飯の山には山頂まで車道があって、山頂の展望
        台から360度の大パノラマが楽しめるとのこと。

        
         塩釜神社の由緒によると、塩田増築祈願のため安芸国厳島神社と陸奥塩釜神社から勧請
        し、1690(元禄3)年に祭祀されたとある。

        
         粟屋就貞は藩役多年の功績により、小松沖干潟百余町を拝領。製塩の条件に恵まれた地
        であることに着目し、1690(元禄3)年9月神社で鍬入れ式を行い、約6年を歳月を費や
        して古浜が完成する。(境内に粟屋大夫頌徳碑)

        
         玉垣には七代目市川団十郎や各地の豪商が寄付したことを伝えている。

        
         旧三田尻塩務局小松志佐出張所は、1905(明治38)年大島郡の塩業を管理するために
        開設される。後にたばこ販売を主たる業務とする小松タバコ販売所、1949(昭和24)
        専売公社小松出張所として、1973(昭和48)年まで使用された。廃止後は大島町考古資
        料館として利用されたが、現在は空家となっている。

        
         洒落たデザインの洋風建物は、中央の主屋内に事務室と所長室、主屋左側に少し張り出
        して妻を向ける玄関が接続する。右側は検査室でアーケードによる通路を設けている。

        
         倉庫は赤煉瓦造、基礎部分には白い御影石、窓は鉄製の庇がついていたようだが、屋根
        は崩落して無残な姿となっている。(入口は海とは反対側の山側)

        
         塩・石炭の輸送水路だった入川と正面に頂海山。

             
         1966(昭和41)年新浜塩田跡地は大島商船高等専門学校の敷地に転用される。

        
         日毎に塩買い船や石炭船が出入りし、新しく開かれた町には多くの人々が集まり、料亭
        や船問屋、多数の小店が軒を並べたとのこと。

        
         途上には、1961(昭和36)年開校した田布施農高大島分校があったが、2010(平成
        22)年閉校する。
         その北側にあった明新小学校の講堂は、1923(大正12)年卒業生のうち移民してアメ
        リカ・ハワイで働いている人や移民で帰国した人たち、村民の寄付で建てられた。201
        3(平成25)年頃老朽化によるものか解体され、移民の手による遺産が消滅した。その先、
        屋代川に架かる橋を渡ると屋代口である。

        
         通りには小店が並ぶが、その多くはシャッターで閉じられている。安村百貨店だった看
        板には花札、トランプ、百人一首と懐かしい名が残る。

        
         浄蓮寺は小松の賀屋清蔵が真宗に帰依して出家し、1624(寛永元)年に開いたとされる。

        
         看板建築の家具店。

        
         通りに面する志駄岸八幡宮参道には大灯籠があり、台石には大坂問屋や備中笠岡など他
        国の問屋名が刻まれている。

        
         二ノ鳥居の説明によると、1637(寛永14)年に建立されたもので、上部の笠木と島木
        は一枚石、柱は真円でなく丸く角張ったのが特徴とされる。大きな神輿が通行するため、
        柱脚は露出した形になっているとのこと。

        
         神社入口左手には、1884(明治17)年創業の川村酒造場。

        
         奈良期の772(宝亀3)
年宇佐神宮から勧請されるが、1890(明治23)年に造営された
        現在の本殿は、江戸期の神社様式に権現造りを加えた豪華な造りとなっている。

        
         本殿前からは笠佐島と大島商船高等専門学校の建物が見える。大島商専は、1897(明
        治30)年大島郡立大島海員学校として創設され、県立商船学校を経て文部省、逓信省、運
        輸通信省、運輸省と所管が転々とする。文部省に再移管されたが、現在は独法国立高等専
        門学校機構の所管である。(境内に🚻あり)

        
         大島宮の下バス停前に玉垣に囲まれた御旅所がある。

        
         妙善寺(浄土真宗)は、1700(元禄13)年真言宗の光照寺跡に建てられた。入口の案内
        には「三国貫嶺は同寺の3男として生まれ、幕長戦争大島口の戦いでは高杉晋作が乗り込
        んだ丙寅丸の燃料や総本陣(西蓮寺)への食糧確保に尽力するなど裏方である輜重(しちょう)
          
役を担った」とある。

        
         山門横にはお墓参りの心得がある。「まず本堂、正月・彼岸・盆、祥月命日、誕生日、
        祝い事、夢を見たら、迷いがおきれば、嘆きがあれば、感謝と報恩、近くに来たら」と記 
 
        されている。

        
         三差路の角に浄土宗の称念寺には、本堂前に周防大島八十八ヶ所第37番札所がある。
        詠歌「み仏の み名を称うる 称念寺 参り拝めば すぐに極楽」とある。(寺から海への
        両
側は元新浜塩田跡である)

        
         海岸線の主要県道に出ると大畠瀬戸。正面に柳井の琴石山、瀬戸に浮かぶ船は高専練習
        船「大島丸(228トン)」

        
         板塀に囲まれたK家。

        
         海側に主要県道が新設されたため、こちら側の道は静かな通りとなっている。

        
         スリップ止めを兼ねたマンホール蓋の中央には、周防の「S」と大島の「O」をモチー
        フした町章が小さくデザインされている。

        
        
         路地に入ると大島八十八ヶ所第38番札所の四福寺。

        
        
         古民家は空家が目立つ。

        
         大島病院付近で休憩を入れて大島大橋を目指す。

               
             小松港バス停(病院前)からJR大畠駅までの距離は約3.2㎞。

        
         やや上りの道だが歩道もあって歩くには支障がない。

        
         大島大橋の歩道は右側にあるため地下道が設置してある。

        
         1976(昭和51)年7月に開通した大島大橋は、3径間トラス橋で橋長1,020mで
        ある。歩車道とともに島民にとって不可欠な光ケーブル、送水管が設けてある。

        
         バス乗車時には気が付かなかったが、歩くと道は山形となっている。

        
         眼下を船が行き交う。

        
         頂上部付近が柳井市と周防大島町の境界のようだ。2018(平成30)年10月22日に
        ドイツの貨物船が橋桁に衝突するという事故が起こった。

        
         山陽本線を真下に見ると橋を渡り終える。鉄道ファンにとっては絶好の撮影スポットの
        ようだ。

        
         観光センターを過ごすと右に急坂の道がある。

        
         2つの函渠を潜り、突き当りを左折すると国道に出る。

        
         鯛と大島大橋が描かれた旧大畠町のマンホール。

        
         国道を右折するとJR大畠駅。


山陽小野田市埴生は低地に集落と干拓地内に花農場 

2021年01月16日 | 山口県山陽小野田市

        
                           この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。           
         埴生(はぶ)は糸根川・前場川流域の埴生低地に位置し、周囲を丘陵地が囲み、南は周防灘
        に面している。
         1889(明治22)年の町村制施行に伴い、埴生・福田・津布田の3村が合併して、旧村
        の1字をとって生田村となる。1948(昭和23)年に町制施行し埴生(はぶ)町、昭和の大合
        併で厚狭町と合併して山陽町埴生となるが、現在は平成の大合併で山陽小野田市の一部と
        なる。(歩行約7.2㎞)

                          
         JR埴生駅は、1901(明治34)年山陽鉄道の厚狭~馬関駅(現下関駅)間が開通したと
        同時に開業する。近くに山陽オートレース場があり、業務委託駅であったが現在は無人駅
        のよ
うである。駅舎は1982(昭和57)年に改築されている。

        
         1965(昭和40)年駅前に開場したオートレース場。

            
         川に沿うと正面に国道2号。

            
         前場川沿いを河口部へ向かい、国道190号を横断して下市に入る。

            
         左手に浄土宗の西念寺。山門右には法然上人の教えがある。
               「月影の いたらぬ里は なけれども 
                    眺むる人の こころにぞすむ」の石碑がある。
         室町期の寛正年中(1460-65)大内氏の庇護によって村内の東山に創建される。創建時の寺
        号は大喜庵であったが、その後、無住であったのを長府・浄厳寺の僧が引き受け、浄土宗
        に改宗して現寺号にしたという。

            
         カーブミラーのところに「右下之関」と刻まれた自然石の道標がある。

            
         糸根神社の由来によると、平安期の806(大同元)年宇佐神宮より江尻に勧請されて埴生
        八幡宮と称した。1908(明治41)年八幡宮を八坂神社に合祀して改称する。

            
         1604(慶長9)年に現在の社殿が造営された。(隣には川上神社)

            
         この道は埴生道とされた脇道で、旧山陽道の七日町の外れから埴生の上市に出て、町筋
        を西にとって、市から八坂(糸根)神社の東鳥居前を右折して旧国道に繋がっていた。

            
            
         1701(元禄14)年創業の竹山酒造場は、代々庄屋を兼ね、長府毛利藩が参勤交代の
        途次、常宿にしていたという。埴生の町は幕末期に2度(文政と嘉永)の火災に見舞われた
        が、この家だけは類焼を免れたという。酒造業はすでに廃業されている。

            
         通りに浄土真宗の教蔵寺。豊前国・森山安芸守の家来であった蓋松兵庫教清が出家して
        当寺を創立したとされる。

            
         竹山家の抱酒造場であったとされるS家。

            
         通りの下市と上市は商家筋だったが、店構えを見せるところはその多くが閉じた状態と
        なっている。海に近く低地であるため、1999(平成11)年9月24日の台風18
号によ
        る高潮で甚大な被害を被った地でもある。

            
         格子が美しい富田屋旅館。 

            
         富田屋旅館前にある「とうみや(東宮)」は、埴生祇園祭で神輿が1泊する場所とか。

            
         亀甲模様に「下水・山陽町」の文字が記されたマンホール蓋。

            
         糸根神社への参道。

            
         かって防波堤だった所を西進する。

            
         前場川橋。

            
         総合園芸農場とされる「花の海」には、食堂・カフェなどがあって休憩できる。

            
         国営干拓事業として1957(昭和32)年に着手され、1968(昭和43)年に完成した農
        地だが、耕作者の高齢化、後継者の不足など農業の社会・経済環境の変化の中、耕作放棄
        農地が増加しているようだ。

            
         国道190号の横断に信号機がないため、「ドライブインみちしお」の先にある信号を
        利用する羽目になる。「花の海」から国道に出て老健施設前を経由する方がより近道であ
        った。
 

        
         糸根川に沿う。

        
               「あらざらむ この世のほかの思ひ出に
                     今ひとたびの逢ふこともがな」(辞世の句)
         和泉式部は一条天皇の中宮彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部
        集」などの歌集を残し、恋多き歌人といわれている。

        
         地方へ出かけた後の消息はよくわかっていないことから、お墓といわれるものが全国に
        多く存在する。
         ここ埴生での伝説は、郷士と恋に落ち、一女をもうけ、ここで一生を終えたという。円
        形に一段高くなった盛土の上には「尊霊和泉式部御墓・享保16年戌(1731
)」と刻字され
        た墓がある。
事実かどうかは別にして、祖先が語り継いできた伝承は、和泉式部を身近に
        感じさせる貴重な史跡といえる。

        
         国道2号バイパス下を潜る。

        
         山陽オートレース場への広い道を横断して、山陽本線架道橋を潜ると小埴生集落。

        
         集落内を山手に向かうと青木周蔵誕生地の案内板がある。

        
         青木周蔵は三浦玄仲の長男としてこの地に生まれる。のちに宇部の藤曲に一家は移るが、
        21歳の時に藩医である青木家の養子となる。(周弼の弟・研蔵の養子)
         1868(明治元)年医学修業のためドイツに留学するが、政治学も学んだため30歳でド
        イツ公使となり、ドイツ貴族の妹と結婚する。
         その後、山県、松方内閣では外務大臣を務め、62歳の時にアメリカ大使となるが、1
        
914(大正3)年肺炎のため70年の生涯を終える。(現在も青木家の建物は萩城下町に現
        
存する。)

        
         この先、角野集落に出たため遠回りとなってしまう。青木周蔵生誕地から南へ進んで山
        陽本線踏切を越えれば、オートレース場前の道に出て埴生駅に戻れる。

        
         小埴生から角野に出ると目の前に埴生駅。

        
         山陽本線まで下って並進し、トンネルを潜ればJR埴生駅だが、1㎞以上も余分に歩い
        てしまう。
                   


下関市王喜は町中と畑集落の鏝絵

2021年01月14日 | 山口県下関市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         王喜(おうき)は周防灘に注ぐ木屋川最下流域のに位置する。1665(慶長5)年から3年か
                けて海岸部の干拓を行った際、安全祈願のため龍神を祭る祠を作った。完成年に大干ばつ
        に見舞われ、大明神として新築した。王喜は「竜王歓喜」の意味から取られ、新田名を王
        喜新田と改める。
         1889(明治22)年の町村制施行により、宇津井村と松屋村が合併した際、村名も「竜
        王歓喜」から王喜村としたが、昭和の大合併で下関市に編入される。(歩行約6.5㎞)

        
         JR小月駅(10:13)からサンデン交通宇部中央行き5分、宇津井バス停で下車する。進行
        方向の横断歩道で県道下関美祢線を横断する。

        
         萩藩は開作地耕作のため、53戸の農民をこの地に移住させたので新町と呼ばれたが、
        木屋川の氾濫で町は消滅したとされる。

        
         白崎神社縁起によると、1668(寛文8)年この地の開拓を進めるために龍神を祀ったこ 
        とが創始で、本殿は白崎にあり、ここは御旅所(御休殿)である。

        
         木屋川方向へ進むと山陽本線が並行する。

        
         1901(明治34)年5月山陽鉄道が厚狭駅~馬関駅(現下関駅)間まで延伸されたが、敷
        設された側の架道橋内部は煉瓦造となっている。

        
         橋がなかった頃は、ここから対岸へは船で往来していたとされる。今は河川改修工事で
        往時の渡場風情は失われたとのこと。

        
         3本の石柱は、1885(明治18)年道路法が施行されて、同年、宇津井渡場に豊厚橋(木
        橋)が架けられた。
         しかし、老朽化と時代の要請になじまず、1927(昭和2)年上流に新たな橋が完成する。
        橋脚だった石柱は後世に語り継ぐ記憶遺産としてこの地に建てられた。

        
         途中の山陽本線、旧国道は橋桁下を潜るようになっている。

        
         川があるので水害慰霊碑と思ったら違っていた。碑は村境の豊厚橋で万感の思いで故郷
        を振り返り、再び故郷に帰還できなかった英霊に「帰りなさいふるさとでゆっくりお休み
        ください」との念いで建立されたとある。

        
         木屋川ラブリバーパーク沿いにある遊歩道で、桜並木が約500mも続く。ラブリバー
        (ラブリバー制度)とは国土交通省の事業で、ボランティア活動で
堤防の草刈り等を行って
        いる住民に対し、河川敷を住民の植栽や花壇としての利用を開放するというものである。
         1993(平成5)年に整備された木屋川ラブリバーパークは、テニスコートなどスポーツ
        広場に利用されている。

        
         車の往来を避けるため新幹線下の農道を歩く。(左前方の集落が畑集落)

        
         昔はこの道まで木屋川の河口が広がり、ここは津として使われ、その際に船の艫綱(とも
          づな)
を繋ぐ石の柱「立石」が立っていた。
         その後、萩藩が開作を推し進め広々とした水田になったが、船着場は無くなり、無用と
        なった立石は埋もれてしまった。残っているこの立石は、この場所から南東30m、現在
        の道路下に埋もれていた上半分をここに移したと案内されている。

        
         宇津井八幡宮入口には八幡宮と天満宮の鳥居が重ねて建てられている。
        
        
         八幡宮の由緒によると、平安期の860(貞観)年京都岩清水八幡宮より勧請。八幡宮の
        東側には天満宮と王垂乳(おおたらし)神社が合祀された社がある。

        
        
         宇津井八幡宮を引き返して旧道を吉田方面へ向かうと、「畑の鏝絵」が見られる。会館
        先の左手に「鶴」と思われる鏝絵。(S邸)

        
        
         先へ進むと左手に狭い道があり、上がって行くと右手の民家に「鶴と波」の鏝絵。

        
        
        
        
 さらに奥へ進むと白塀のある家に2つの鏝絵。(ここもS邸)

        
        
         県道左手の民家にある「松」の鏝絵。

        
         畑バス停先の右手にある鏝絵。もっと数はあると思われるが、5軒だけ探し当てること
        
ができた。
         JR小月駅(10:10)から東行庵経由のバスを利用して、畑バス停で下車してラブリバー
        パーク、宇津井バス停から小月駅に戻るのも一考であった。(バス便は少ない)

        
         引き返して新幹線下から南へ進む。

        
         この石垣上の水田が実祭寺跡とされるが、地下(じげ)上申によると、実祭寺村に実祭寺が
        あったが、元禄年中(1688-1704)頃に萩へ寺号とご本尊共に取り上げられたと案内されてい
        る。

        
         道路左手に鳥居があり、石段を上がると王垂乳神社跡。天保風土記によると、応神天皇
        の乳母の墓と伝えるが、昔から乳神様として母乳の出が悪い母の信仰が厚かったとされる。
        (現在は宇津井八幡宮境内に天満宮と合祀されている)

        
         「ほたるの里清水川」の標柱を見て、川に沿うと水神社がある。創建時期は不明だが江
        戸期に大庄屋伯野家が建立。農耕の豊穣と同家の副業であった酒造業の守護神として祀っ
        たとのこと。

        
         ここも引き返して小学校への道に入る。

        
         下関市のシンボルマークとなっている「ふく」と下関市の頭文字の「し」、造形化した
        「波」がデザインされたマンホール蓋。

        
         王喜本町は石州瓦住宅と近代的な住宅が混在する地域である。

        
         この付近は「宇津井の皿山」といわれ、1886(明治元)年に豊田製陶所が家庭用品を作
        ったことに始まる。1930(昭和5)年本工場が移転すると、一門である川原正一が引き継
        いで川原製陶所を起こし、硫酸瓶の製造を行うがポリ容器の出現で需要は減少。川原は1
        955(昭和30)年、豊田も1962(昭和37)年閉鎖する。

        
         王喜小学校裏を巡るが薬師堂を見落とす。

        
         1912(明治45)年この地で生まれた林伊佐緒は、大学入学まで過ごす。明治大学中に
        「旅の宿」で歌手デビューする。
         1936(昭和11)年キングレコードに専属入社。以来55年余り歌手・作曲家として1
        500曲を歌唱・作曲するなど活躍するが、1995(平成7)年に逝去。

        
         王喜小学校脇を下る。

        
         中原町公民館傍に地蔵尊と庚申塚。

        
         王喜小学校校門前に林伊佐緒顕彰碑と校歌碑がある。

        
         王喜支所前バス停(13:52)からJR小月駅に戻る。