ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

柳井市の平郡島は柳井港から22㎞沖合いの島

2022年10月28日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         平郡(へいぐん)島は柳井市の南約22㎞の伊予灘に浮かぶ周囲28㎞余の島で、
東西に細
        長い地形の大半は山である。

         地名の由来は、平安期の1182(寿永元)年木曽義仲が平宗盛追討の時、源頼朝の勘気を
        受け粟津にて討死する。そのときに義仲の家臣で紀伊国藤代城主・鈴木仲光が義仲の幼児
        ・平栗丸を保護して吉野に入り、さらに伊予宇和島に逃れ、この島に主従が住み着く。
        平栗丸は幼くして死去、その名に因んで平栗島と呼び、後年に平郡島となったという。(歩
        行約8㎞)

        
         JR柳井港駅から海側へ徒歩5分、定期船「へぐり」(1日2便)で平郡東港まで1時間
        40分の船旅である。

        
         出港すると背後に琴石山、左に大島大橋、笠佐島と屋代島、右に室津半島と上関大橋と
        見飽けない風景が続く。行き交う船を見ながら船旅を楽しむと、平郡西港に寄港して島の
        南側から東港へ入港する。

        
         198トンで航海速力12.5ノットと速度は遅いが、安定感のある定期船である。

        
         平郡島は漁場に恵まれた島で、1本釣りや素潜り漁などが行われている。3月になると
        島民の多くがヒジキの収穫に追われ、採取したヒジキを天日干しするため、道端にずらり
        と並ぶ光景は風物詩とされている。

        
         海岸通りを羽仁漁港へ向かう。

        
         下船すると民宿の方から昼食可能と声掛けがあったが、五十谷(いや)まで足を延ばしたた
        め立ち寄ることができなかった。

        
         民宿前が早田八幡宮の参道入口兼御旅所。

        
         石仏は河童のような生き物「猿猴」が、人の通行を妨げるのを防ぐためのものだという。
        当初は鉄の碑を建てていたが腐ってしまい、再び妨害が始まったので石碑に替えたと伝え
        る。

        
         多くの路地が山に向かって設けてあるが、どれをみても直線的でないため、奥へ入り込
        むと迷路になってしまう。

        
         強い海風から家屋を守るため周囲を石垣で囲んでいる。

        
         浄光寺(真宗)は室町期の天文年中(1532-1555)、大内氏の従臣・神代兵庫頭が開創したと
        伝わる。

        
         浄光寺入口に村役場だったような構えをみせる建物は浦保育園跡。1889(明治22)
        町村制の施行で、平郡島は単独で自治体を形成して平郡村が発足する。長らく周防大島と
        の関係を密にしてきたが、
1954(昭和29)年島民の90%が柳井への合併を希望したこ
        とで、
柳井市に編入されて柳井市平郡となる。

        
         山口県内では2番目に大きな島で、架橋されていない島では山口県最大級である。東西
        の集落を合わせて250名(2022.4月現在)が暮らす。

        
         平郡東小学校は、1872(明治5)年浄光寺を仮校舎として開校し、1947(昭和22)
        現校名に改称する。児童数の減少により、2003(平成15)年に休校したが、2012(平
          成24)
年に児童1名が入学して開校されたが、現在は休校中とのこと。(市出張所を併設)

        
         海岸線の道路は山口県の最も南にある県道東浦西浦線で、途中には防波堤だったような
        ものが残されている。

        
         海童(わだつみ)神社の鳥居と御旅所。後背地の山頂近くにそびえる巨大な立岩は大嶽(標
        高271m)と呼ばれ、平郡三景の1つとされる。
         地元の方によると、大嶽から集落全体が見下ろせ、天気の良い日には遠く四国や九州の
        山々が見渡せるなど絶景が楽しめる。但し、登山道は崩落箇所と春からこの時期までマム
        シが多いので足元には注意してくださいとのことであった。(時間の関係で大嶽は残念する)

        
         海側に窓を設けていない家や、窓があっても海風を避けるためか雨戸で閉じられている。

        
         羽仁の漁港。

        
         羽仁漁港側の防波堤完成記念碑は、刻字が風化して詳細を知り得ない。防波堤の脇に石
        祠1基と、道路を挟んで向かい側には恵比寿神が祀られている。 

        
         入口の案内は「真俱様」と記されているが、2基の石碑が建立されており、右手に注連
        縄らしきものが残されているので熊野の新宮明神であろう。左手は海賊襲来の時に戦って
        犠牲となった鈴木又五郎真俱が祀られている。

        
         海岸線から路地に入ると、平郡東中学校跡地と校門が残されているが、1994(平成6)
        年頃に廃校になったという。

        
         焼き杉壁は風雨に強く、表面が炭化しており火が燃え広がりにくいという特性と、防虫
        効果もあってか多くの家屋に用いられている。

        
         海童神社参道から見る平郡東地区。水はけ、日照時間、通気性と3拍子揃った土壌で育
        った特産の「さつま芋とみかん」は糖度が高いとされる。

        
         海童神社は海の神様を祀る羽仁地区の氏神とされる。かっては権現様と称して大嶽に祀
        られていたが、1870(明治3)年改称して現在地に遷座される。

        
         路地筋にある井戸はお地蔵さんに見守られているが、現在は簡易水道も完備されて井戸
        水は使われていないようだ。

        
         海蔵院(曹洞宗)は14世紀前半に平郡西に創建されたが、1871(明治4)年の寺院整理
        により、東にあった円福寺跡へ引寺された。

        
         民家の間を縫うように路地歩き。

        
         地蔵尊と旧平郡東郵便局舎。

        
         藤井宅に行者堂があるが、1617(元和3)年に庄屋・鈴木家より輿入れの際に持参した
        と伝えられる。入口の扉が板で封鎖されて中を拝見することはできない。

        
         五十谷(いや)三島まで2㎞と表示されていたので行くことにするが、やや勾配のある坂道
        から、時折、海と島が見える風景に出会える。(電線は浄水場用)

        
         金光稲荷神社は江戸中期頃、京都の伏見稲荷より平郡の守り神として勧請された。ご神
        体は大きな岩をぐるりと巻いて龍の姿に化身されているとのこと。

        
         金光稲荷より下って行くと早田八幡宮との分岐。再び上りに入ると平郡東港の先に周
        防大島が横たわる。

        
         上り坂を終えると長い下りに入り、海岸近くまで下ると美しい海を背景に牧場が広がる。
        牛たちは牛舎にあって放牧地では見ることができなかった。

        
         美しい海と砂浜は島にとって自慢できる場所の1つとされ、海水浴を楽しむことができ
        るとのこと。

        
         五十谷三島は平郡三景の1つとされ、美しい海に3つの島が連なっている。干潮になる
        と小島へ歩いて渡れるトンボロ現象が見られそうだ。

        
         岩場に階段が設けてあって、祠と鳥居のようなものが見えるが詳細はわからず。

        
         三差路まで戻って鳥居を潜る。 

        
         早田八幡宮は平郡東の氏神で、1185(文治元)年に鈴木仲光が平栗丸を連れて平郡島に
        渡り、年代は不詳だが仲光が宇和島から勧請したと伝える。

        
         神社から見る平郡東。

        
         定期船乗り場に戻り東の集落を歩くと、羽仁地区にも火の見櫓があったが、ここは途中
        に鐘がついている。

        
         詩人・宗野真幌(本名:徳尾、1905-1986)はハワイで生まれ、平郡島に帰国すると農業
        しながら詩を書き、島で一生を過ごす。数々の詩誌に作品を発表したが、島に暮らしなが
        ら島のことを書かない詩人でもあった。(この路地を入った突き当りが宅跡)

        
         「平郡タコ」は明石のタコに負けないうま味があるという。タコ漁は5月から8月にか
        けて行なわれるが、盆を過ぎると産卵を終えて身が痩せることや、取り過ぎないための調
        整と期間が設けられている。(島の特産品)

        
         羽仁漁港側にも祀られていた恵比須様。春と秋に漁業関係者がお参りするとのこと。

        
         漁港を囲む長い防波堤と完成記念碑が設置されているが、刻字が風化して読めず、築造
        年代などを知ることはできない。

        
         14時発の定期船で柳井港に戻るが、どこの島にも猫が多いが、平郡島も猫の島であっ
        た。

        
         五十谷三島を船上から眺める。

        
         東浦と西浦の距離が14㎞もあって、船の関係で一度に2ヶ所は難しい。機会があれば
        いつか西も歩いてみたいものだ。  


赤穂市の赤穂城界隈を巡る

2022年10月22日 | その他県外

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         赤穂は千種川河口に発達したデルタに立地する。地名の由来は、海辺に生じる蓼(たで)
        の穂が赤いこと。また、元正天皇の時、赤穂の蓼が生じて帝へ奉献したことによると、い
        ずれにしても特産の赤い穂の蓼に由来するという。(歩行約5.8㎞)

        
         播州赤穂駅は、1951(昭和26)年に赤穂線の終着駅として開業する。現在の橋上駅舎
        は、2000(平成12)年に供用開始された。駅名は開業当時、飯田線に赤穂(あかほ)駅が存
        在していたので、頭に「播州」を冠した。

        
         駅からお城通りを歩くが、城までは約1㎞、約15分の距離である。

        
         1616(元和2)年日本三大水道(江戸神田水道、広島福山水道)の1つ、赤穂上水として
        築造された。赤穂城下の上流にある切山に隧道を堀削して千種川の水を導入し、城と城下
        町の各戸へ給水した。赤穂城下はデルタ上にあるため掘井戸は塩水が湧き、飲料にならな
        いため上水道が造られたが、この事業は池田家の赤穂郡代だった垂水半左衛門が築造の指
        揮をとったと伝える。

        
         主君浅野内匠頭長矩の江戸城での一件を知らせるため、早水藤左衛門と萱野三平が、江
        戸から早駕籠を乗り継いで4日半かけて赤穂城下に到着し、その時、この井戸で2人は水
        を飲み一息継いで赤穂城(大石邸)に向かったと伝えられる。(息継ぎ井戸)
         同広場には高さ4mほどのからくり時計「義士あんどん」が設置してある。9時から2
        0時までの毎正時に、義士の音楽と共に扉が開き、からくり人形が忠臣蔵の名場面を再現
        するそうだが、タイミングが悪く見ることができなかった。

        
         赤穂市のシンボル木である桜の中に市章、その周りに市花であるツツジとギザギザ模様
        は陣太鼓、下部に千種川と思われる川面がデザインされたマンホール蓋。 

        
         花岳寺筋の商店街。

        
         曹洞宗の花岳寺(かがくじ)は、1645(正保2)年常陸国(現茨城県)笠間より転封になった
        浅野長直が浅野家の菩提寺として創建する。
         山門は、もと赤穂城の西惣門(塩屋門)を、1873(明治6)年に寺が購入して移築したも
        のとされる。

        
         現在の本堂は、1758(宝暦8)年に再建され、幕に2つの家紋が施してあるが、右の
        「違い鷹の羽」は赤穂浅野家の紋。左の「二ツ巴」は大石家の家紋。

                
         
本堂の中には入れないが土間まで入ることができる。参拝を済ませると天井には大額
        (法橋義信の「竹に虎」)がある。

        
         拝観受付を済ませて義士墓所に参詣する。1701(元禄14)年3月14日(旧暦は4月
        21日)江戸城中で、浅野内匠頭長矩が旗本の吉良上野介義央に対して刃傷沙汰を起こし、
        即日切腹、浅野家は改易となる。
         その後、浅野の遺臣である大石内蔵助義雄以下赤穂浪士47名が翌年12月14日(旧暦
        1月30日)に吉良邸に討ち入り、吉良の首を泉岳寺の主君の墓前に捧げたのち、幕命によ
        り切腹する。
         花岳寺に墓所が建てられたのは、1739(元文4)年義士の37回忌とされる。墓には遺
        髪が埋められ、中央に浅野内匠頭長矩、右に大石内蔵助良雄、左に大石主税良金、周りを
        囲む墓標は格式順に建てられている。

        
         浅野家墓所には笠間藩主だった長重、赤穂藩初代藩主の長直、二代藩主の長友の他に、
        大石頼母の墓、義士宝物館、義士木像堂、森家の墓、大石家先祖の墓、義士家族墓などが
        ある。

        
         花岳寺門前にある古民家。

        
         旧備前街道筋の古民家。

        
         右手の古民家は旅館として再生されている。

        
         
        
         花岳寺から赤穂城まで道は、かってのお成り道(藩主が通った道)とされる。  

        
         赤松滄洲(そうしゅう・1721-1801)は江戸中期の儒学者で、藩主森忠洪(ただひろ)により藩儒
        に登用され、私邸では塾静思亭を開いた。のち、儒業を長子・蘭室に譲るが、蘭室ととも
        に藩校の設立に尽力し、1777(安永6)年塩屋門外に「博文館」が設立される。その後、
        京都で生活したが晩年は赤穂に帰り、81歳で没した。(宅跡) 

        
         お成り道に残る町家。

        
         赤穂城は現在の千種川によって形成された三角州の先端部分に築かれた平城で、現在は
        城の周囲が埋め立てられて、海岸線から遠く離れているので海に守られた城とは想像しが
        たいが、城の南側まで海が入り込んでいたという。

        
        
         この城の特徴の1つとして、櫓台状の突出部・櫓矢桝形が城全体に多用され、防衛力を
        高めていた。1935(昭和10)年に太鼓橋、1955(昭和30)年に三の丸大手隅櫓と大手
        門(高麗門形式)が復元された。

                 
         大手門を潜ると内桝形構造になっている。

        
         大石神社の白壁塀を見ながら進むと、重職にあった近藤源八宅跡の長屋門がある。源八
        の妻は大石内蔵助の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあった。
         長屋門は4戸部分に別け、下級武士の住宅として使われていたという。近藤家の門は大
        石家の長屋門の斜め向かいにあったと考えられている。

        
         大石家は、1645(正保2)年浅野長直が赤穂に入封して以来、1701(元禄14)年浅野
        家が廃絶するまでの57年間、3代にわたりこの地に居住した。赤穂城開城の4月16日、
        ここを引き払って尾崎の仮寓に移る。
         後に屋敷は森藩の藩札製造所や会所に使われたが、1729(享保14)年火災により建物
        の大半が焼失し、長屋門と庭園を残すのみとなった。長屋門は間口29m、奥行き9mの
        木造瓦葺きである。

        
         赤穂城三の丸から本丸にいたる重要な位置に二の丸門が設けられた。やや南寄りの西方
        に開かれた桝形構造を持つ切妻式楼門であったようだが、明治維新後に門は取り壊されて
        しまう。

        
         二の丸門を挟んだ東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、189
        2(明治25)年千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として取り除かれたが、
        現在は白壁の一部と低石垣が復元されている。

        
         大石頼母助良重は大石内蔵助の大叔父にあたる人物で、家老職にあって藩主・浅野長直
        に重用され、二の丸に屋敷を構え、妻は長直の娘を迎えたという。
         山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で8年余を過ごしている。門は
        発掘調査に基づき、薬医門形式の屋敷門として復元された。

        
         二の丸庭園は、赤穂城二の丸北西部に存在した回遊式庭園で、東は大石頼母助の屋敷か
        ら、西は西仕切りまで及ぶひょうたん形の雄大なものであったという。

        
         赤穂城は、天正年間(1573-1592)に宇喜多秀家が岡山城の支城として構築したが、160
        0(慶長5)年播磨国が姫路城主・池田輝政領となり、当地には末弟の池田長政が配され掻上
        城が築かれた。1615(慶長20)年輝政の第5子正綱が3万5千石で分知立藩、正綱没後
        に弟輝綱が入封するが乱心により改易となる。
         1645(正保2)年浅野長直が移封され、幕府から新城構築の許を得て、支城のあった場
        所に13年の歳月をかけて築城する。1701(元禄14)年浅野長矩が江戸城中で刃傷にお
        よんで改易となり、一時幕府領となったが翌年に永井直敬が入封、1706(宝永3)年森長
        直が入封して廃藩まで続く。(本丸表門)

        
         この城の特徴的なものとして、江戸軍学をそのまま具現化したことにあり、本丸御殿か
        ら見える位置に単独で天守台のみが構築され、天守台まで上がれるように石段が付設され
        ている。天守を築ける天守台を持つことが何よりも優先されたと考えられるが、最後まで
        天守が築かれることはなかった。

        
         廃藩置県後に本丸跡地は田畑となったそうだが、1928(昭和3)年に兵庫県立赤穂中学
        校(現在の赤穂高等学校)敷地として使用されることになる。
         その後、国史跡となったため校舎は城外に移転し、絵図を基に御殿の間取りが復元され
        る。 

        
         御殿南面に大池泉庭園が復元されている。

        
         浅野家改易の報が赤穂に届けられ、籠城か切腹か大評定の結果、城を明け渡して家中は
        離散した。山科(現京都)に隠棲した大石内蔵助は長矩の弟・浅野大学長広による浅野家再
        興を目指しながらも、同志と連絡を取りながら堀部安兵衛らの急進派を押さえつつ仇討ち
        の時期を待つ。
         しかし、翌年の1702(元禄15)年長広が広島藩宗家に預けと決まると、吉良邸討入り
        に向って行動を起こす。初め120名の同盟者がいたが最終的に47名となり、同志たち
        は江戸に集結して12月15日未明吉良邸に討入りする。吉良の首級をあげ、芝・泉岳寺
        へ引き上げて幕命を待ったが、結局切腹と決まりお預かりの大名家で切腹する。

        
         1873(明治6)年に一般的にいわれる廃城令で、赤穂城も民間に払い下げることになる。
        このような事態を見かねた花岳寺の住職が、大石家の屋敷を買い取り、1912(大正元)
        大石神社を建立する。

        
         赤穂城塩屋門は三の丸の西に開かれた門で、搦手にあたり桝形と高麗門で構成されてい
        た。浅野長矩の刃傷・切腹を知らせる早便が入った門とされ、城請取り役となった備中足
        守藩主木下肥後守の軍勢も、この門から入城したとされる。

        
         赤穂といえば忠臣蔵で有名だが、赤穂の塩として名を馳せていた。1645(正保2)年浅
        野長矩が入封すると、入浜塩田の開拓に着手し、3代で約100haの塩田を開いた。のち、
        永井、森家へと引き継がれ、結果的に千種川を挟んで左岸(東浜塩田)に約150ha、右岸
        (西浜塩田)に約250haが開拓された。
         明治になると日露戦争の戦費調達と国内塩業保護を目的に、1905(明治38)年専売法
        が導入され、全国22ヶ所に塩務局を設置して塩の収納と売渡しを担わせ、下部組織に出
        張所(167ヶ所)を設ける。

         
         1908(明治41)年大蔵省塩務局庁舎として建てられたが、赤穂在住の大工たちによっ
        て、和の技術を用いながらアーチ状の庇屋根、イオニア風の柱頭飾、壁面から突き出た梁
        (ハンマービーム)を多用した西洋風の趣を持つ事務所が建築される。
         事務所のほか文書庫、塩倉庫も建築され、ほぼ完全な形で残されているのはここだけと
        のこと。1907(明治40)年10月塩務局や煙草専売局などが統合されて、新たに「専売
        局」が設置されて業務が引き継がれた。後に日本専売公社赤穂支局、現在は民俗資料館と
        して活用されている。

        
         入館すると吹き抜けのホールがあり、2階部分にはギャラリーを廻して 手すりが備え付
        けられている。今は狭いホールだが、かっては事務室との間に長いカウンターがあったと
        のこと。

        
         当時は事務所として利用された場所で、その天井には、メダイヨン(フランス語で「大型
        メダル」)とよばれる円形の浮き彫りが2ヶ所に施されている。(1ヶ所だけ撮影) 

        
         塩倉庫だが当時は11棟あったとされる。

        
         本館南側にある煉瓦造の建物は文書庫で、外壁はイギリス積みが変形したような積み方
        がなされている。(内部は非公開) 

        
         2階に上がると部屋の左右に、向き合った形で壁の上部から水平に突き出した梁が支え
        ている。これがハンマービームと呼ばれるもので、壁の上端から突き出した片持ち梁を利
        用している。

        
         城の石垣に沿ってお城通りに出て駅に戻る。

        
         ホーロー看板など昭和のものが所狭しと置かれているが、「赤穂玩具博物館・懐かしい
        昭和の世界」とされ、通りから目を惹く一角である。


瀬戸内市の牛窓は風待ち・潮待ちだった港町

2022年10月21日 | 岡山県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         牛窓(うしまど)は、古くには牛転(うしまろび)、牛間戸とも書いた。瀬戸内海に面する牛窓
        半島に位置し、牛窓瀬戸を挟んで前島、黒島、黄島、青島がある。
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の区域をもって邑久郡牛窓村となる。
        のちに町制に移行して、1954(昭和29)年牛窓町、鹿忍町、長浜村が合併し、改めて牛
        窓町が発足する。現在は平成の大合併で邑久町、牛窓町、長船町が合併し、瀬戸内市の一
        部となる。(歩行約2.5㎞)

        
         JR邑久駅前から瀬戸内市営バス牛窓行き約22分、終点の牛窓バス停で下車する。こ
        の牛窓中央線は、両備バス路線廃止に伴い新設されたもので、平日13往復が運行されて
        利便性が高く、しかも運賃が100円と格安である。(駅にコインロッカーなし)

        
         バス停からバス路線を引き返すと牛窓きらり館(観光センター)があり、レンタサイクル、
        コインロッカーなどが常備されている。

        
         岡山県の東、瀬戸内海に面する温暖な地と他島美から「日本のエーゲ海」と称され、中
        世には中国・朝鮮との交易が行われ、瀬戸内海屈指の商業港となった。1695(元禄8)
        岡山藩主・池田綱政は津田永忠に命じて牛窓西港前の海に、長さ373間(678m)の一
        文字波止を藩の負担で築造させる。

        
         海遊文化館には牛窓が朝鮮通信使の寄港地であったため、通信使にまつわる資料が数多
        く展示されている。
         建物は、1887(明治20)年牛窓警察署として、牛窓村の助成金と20数名の篤志家寄
        付金で、地元大工の手によって建てられたもので、1977(昭和52)年まで牛窓警察署庁
        舎として使用された。明治中期に長崎や神戸などの大港湾都市に建築された真壁、大壁造
        りの和洋折衷の建物が、地方の港町に現存し、玄関を飾るステンドグラス等によって往時
        の文明開化の様相を知ることができる。玄関前には樹齢150年以上とされる大蘇鉄は、
        豪商・奈良屋(那須家)の庭から移植されたものという。

        
         「だんじり展示室」には、牛窓神社の秋季例大祭で町を練り歩くだんじり(山車)が展示
        されている。牛窓のだんじりは竜頭をモチーフにした船型のもので、綿密な彫刻が施され
        ている。

        
          文化館の背後に本蓮寺の三重塔と鐘楼。

         
          本蓮寺(法華宗)は、鎌倉期の元弘年間(1331-1333)京都の妙顕寺2世が、西国布教の途中
         に海路で牛窓に立ち寄って法華堂を建てたのが始まりという。

         
          本堂は室町期の1492(明応元)年建立とされ、平面及び側面は5間(9.09m)で中央
         に向拝をつけ、構造は寄棟造である。(国重要文化財)
          1607(慶長12)年から1811(文化8)年の間に12回渡日した朝鮮通信使の三使(正
         使・副使・従事官)の宿館として4回利用された。三使の宿館は御茶屋に変更された後も、
         通信使が寄港する度に岡山藩の中心的な施設として利用された。

         
          1690(元禄3)年創建の三重塔は、平面は方3間(5.45m)、高さは12.6mの禅宗
         様式である。(県指定文化財)

         
          しおまち唐琴通りは江戸期の道幅のままとされる。

         
          牛転(うしまろび)と記された喫茶店は、1935(昭和10)年に建てられた旧牛窓郵便局を
         改修して使用されている。

         
          入口に架かるのは「牛王宝印」で、新年にお寺から授与される護符である。

         

         
          海への路地にも焼き板壁が用いられているが、潮風や雨水で外壁が傷まないように工夫
         されたものであろう。

         
          旧松屋本家の長屋門は、明治期に武家屋敷構えで建てられたもので、江戸期より材木流
         通業を営み、
木造船の材料などを多く扱ったという。

         
          通りの中央付近に火の見櫓。

         
          牛窓天神社の石段は120段あるとのことで参拝を残念する。火の見櫓が設置してある
         地は、旧牛窓町役場跡のようで門柱が残されている。

         
          牛窓の秋祭りに使用される関町のだんじりは、1845(弘化2)年に制作されたもので、
         町内8基の中ではもっとも華やかな総欅造りである。前部は目をらんらんと輝かせ、牙を
         むき真っ赤な舌をのぞかせた竜の頭を取り付け、船形の上に二層の屋形を建て、船底には
         木製の車輪が取り付けてある。10月23日が秋祭りとのことで、その準備をされている
         最中であった。

         
          天保年間(1830-1844)創業の備中屋高祖(こうそ)造は、1955(昭和30)年代までこの
         地で酒造されていたが、現在は2㎞西にある千寿蔵で酒造されている。
          主屋は明治中期の和風建築で、酒造家住宅の佇まいを見せる座敷蔵と圧搾蔵は創業当時
         に建てられ、煉瓦煙突は1932(昭和7)年頃建造されたという。(国登録有形文化財) 

         
          岡山城下を結ぶ牛窓往来の起終点とされる地。道程6里28町で、寛文・延宝年間(166
         1-1680)頃に整備された考えられている。この中庭には、往来の起点を示す道路元標があっ
         たという。(関町だんじり小屋前の小公園)

         
          しおまち唐琴通りの町並み。

         
          最一(さいいち)稲荷の由来によると、北側の山にいた老狐が、1871(明治4)年に社のあ
         るところで天寿を迎えた。霊狐となって人の願いを叶えたため多くの訪れるようになり、
         1874(明治7)年伏見稲荷より分霊を賜ったという。

         
          金比羅宮への参道口だが先に進む。 

         
          赤煉瓦の建物が見える場所は桝形の道だったようだ。

         
          赤い鳥居なので稲荷社であろう。

         
          1915(大正4)年に牛窓銀行本店として建てられ、その後、中国銀行牛窓支店に引き継
         がれ、1980(昭和55)年まで使用された。現在は街角ミュゼ牛窓文化館として活用され
         ている。

         
          内部は吹き抜けで、上の階の窓を開閉するための細い通路(キャットウォーク)が設けて
         ある。

         
          銀行裏手にも同じ構造の付属屋が建てられている。

         
          敷地内には金庫のような土蔵も残されている。

         
          牛窓は大きな川もなく、夏になると水をめぐる争いが起こり、水売りが来る地域であっ
         た。この井戸は、1654(承応3)年岡山藩が御茶屋用として掘ったもので、他の井戸が枯
         れてもここだけは枯れなったと伝える。

         
          旧銀行が見える通り。

         
          屋根部分が道路側と山側に違いをみせる。

         
          しおまち唐琴通りの町並み。(本町付近) 

         
          纜石(ともづないし)といわれ、神功皇后の船を繋いだという伝説が残る。

         
          牛窓燈籠堂は唐琴の瀬戸に面して建てられているが、いつ頃創建されたかは不詳のよう
         だが、1680(延宝8)年以前に建てられたといわれる。明治時代になって堂は壊されて石
         垣のみ残されていたが、1988(昭和63)年に復元された。(手前はえびす宮)

         
         
          纜石前の石段を上がると、塀に囲まれた五香宮(ごこうぐう)の社殿がある。往古、神宮皇
         后が三韓征伐の折に当地に立ち寄り、住吉三神を祀り、海路の平安・安産を祈願をされた
         という伝説が残されている。
          住吉神社は江戸時代に一度破却されたが、京都伏見の御香宮から勧請して五香宮にした
         といわれている。現在の社殿は1918(大正7)年に建てられたもので、一間社神明造り銅
         板葺きである。

         
          境内から海上3里(約11.7㎞)を照らしたという高さ5間半(約10m)の燈籠堂。

         
          高台より牛窓の東町。

         
          地元では東寺と呼ばれる妙福寺観音院(高野山真言宗)は、瀬戸内三十三観音霊場6番札
         所とされている。創建は天平勝宝年間(749-757)とされ、現在の建物は1746(延亨3)
         に再建されたという。正面と側面5間の建物で、中央1間に向拝をつけている。

         
          境内から海が垣間見える。

         
          寺から海岸線に出てバス停に戻るが、参勤交代が実施されて以来、瀬戸内海を往来する
         幕使や諸大名の多くは牛窓に寄宿した。また、西廻航路の開設によって物資の集散地とも
         なり、「備前牛窓帆舟の柱、町に黄金の花が咲く」といわれたほど繁栄した。

         
          家前は海だったようで、階下に舟の格納庫のような痕跡が見られる。


岡山市西大寺は裸祭りで有名な寺がある地

2022年10月20日 | 岡山県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         西大寺は南西流する吉井川河口近くの右岸、砂川との間の沖積地に位置する。地名は寺
        名の西大寺に因み、西大寺の門前市場として、また後背地からの物資が集散する川湊集落
        として発展した。(歩行約2.5㎞、🚻なし
)

        
         JR西大寺駅から両備バス南まわり牛窓線に乗車し、西大寺観音院入口バス停で下車す
        る。(乗車時間2分程度)  

        
         仁王門は裸祭りの入場にふさわしい三間一戸の楼門で、和様と禅宗様が併用された建物
        である。1740(元文5)年に再建されたもので、高欄に回縁をめぐらした雄壮な構えをみ
        せる。

        
         寺伝によると、奈良期の751(天平勝宝3)年周防国玖珂庄の藤原皆足媛(みなたるひめ)が、
        大和国長谷観音の化身である仏師に千手観音を彫らせ、彩色のため都に運ぶ途中、金岡浦
        に停泊したところ船が動かなくなった。そのため同所に小堂を建て、観音を安置したのが
        草創という。
         その後、777(宝亀8)年紀伊国の人・安隆が長谷観音の夢告によって、浄財を募り現寺
        地に竜神から授かった犀の角を埋めて伽藍を建立したことから「犀戴寺(さいだいじ)」と号
        した。のちに後鳥羽上皇の祈願文から「西大寺」に改称された。現在の本堂は、1854
          (嘉永7)年四たび消失して、1863(文久3)年再建された。

        
         中国観音霊場会は普陀山仏教教会の交流10周年を記念して、普陀山から10分の1の
        大きさの南海観音像の贈呈を受け、1番札所の当山でお祀りすることになったという。

        
         1880(明治13)年に再建された牛玉所殿。本殿には牛玉所大権現と金毘羅大権現が合
        祀され、脇には青面金剛が祀られている。

                 
         2本の楠が寄り添うように立つ姿から和合の楠といわれている。指(右指上)を交差和合
        させて合掌し、子宝・家庭円満良縁成就をお祈りくださいとある。樹齢約150年。

        
         西大寺本坊の客殿に到る鐘楼門は、入母屋造りで門にかかる梵鐘は朝鮮鐘(国の重文)と
        される。2階部分には会陽(えよう)の祝主と福男の名が記された行灯が掲げてある。

        
         弘法大師を祀る高祖堂(御影(みえ)堂とも呼ばれる)は、延宝年間(1673-1681)に建立され
        たが、軒の出が深いためか低平な感じがする。

        
         三重塔は、1678(延宝6)年に再建されたもので、総高22.1mの本瓦葺きで境内の
        中では最も高い。江戸時代の塔としては均整がとれた美しい塔である。

        
         俗に石門と呼ばれているが、扁額にあるように正式には「龍鐘楼」という。1819(文
          政2)
年に建立されたもので、1階が石造で2階は木造の漆喰塗、縁は朱塗りとなっている。

        
         「裸祭り」とも呼ばれる西大寺会陽(えよう)は、
日本三大奇祭(組合せ複数あり)の1つと
        され、会陽に際して2週間前からお祭り当日まで、ここで心身を清める「水垢離の行」と
        いう修行が行われる。

        
         神明鳥居の先に恵比寿神社。千鳥破風を載せた切妻造りで、擬宝珠高欄付き縁を設けて
        おり、屋根には外削りの千木と鰹木がついている。

        
         会陽橋から見える新堀川左岸は桜並木。

        
         「犀戴寺」という名の起こりに因んで作られた像。(向洲公園の一角)

        
         現在の清水橋は3代目で、2代目は1956(昭和31)年相撲巡業に来ていた相撲取りが
        渡った直後に落ちたというエピソードが残る。

        
         高瀬舟が荷物の積み下ろしに使った雁木(石の階段)で、当時の面影が残っている唯一の
        証だそうだ。

        
         琴松庵の創始は室町時代だが、昔、奇怪な運命に翻弄されて、たびたび三毛猫から命を
        助けられた女性が、最後は尼となって愛猫と暮らしたという。それに因み、通称「猫庵」
        とも呼ばれた。(左手の建物で2005年改築) 

        
         琴松庵から五福通りに出ると、看板建築の商家が立ち並ぶ。(野口商店の看板建築) 

        
        
         「五福」とは人生の五種の幸福、すなわち、寿(寿命の長いこと)、富(財力の豊かなこ
        と)、康寧(無病なこと)、好徳(徳を好むこと)、終年(天命をもって終わること)で、裸祭
        りで裸衆が奪い合う宝木(しんぎ)は、この五福を授ける意味で与えられたことから、この
        通りが五福通りと呼ばれるようになったという。

        
         五福うさぎさんと茶蔵さん付近の町並み。

        
        
         1907(明治40)年築の松島屋さんは、跳ね上げ大戸と袖卯建が特徴。もともとは木・
        竹製品を扱うお店だったとか。

        
         ガラス看板には「履物問屋・野崎本店」とある。

        
         中央に岡山の「岡」が図案化された市章と、周囲に「山」を幾重にも配置したマンホー
        ル蓋。

        
         左手2軒目の看板建築された久山薬局は、明治初期築の建物だそうで、2008(平成2
           0)
年まで営業されていた。その奥側の看板建築は野村帽子店で、明治初期~中期頃に建
        てられたという。

        
         1930(昭和5)年から1936年にかけて、バスなどを通すために道路の拡張が行われ、
        道路側の1階部分の軒先が切られたため、看板建築という手法が用いられ、現在のような
        特徴ある町並みが形成されたという。

        
         五福通りから県道西大寺山陽線にある商家。

        
         旧今町・渡場町の町並みを歩きたかったが、時間の制約もあって西大寺駅に戻る。


備前市伊部は備前焼の里

2022年10月20日 | 岡山県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         伊部(いんべ)は北に熊山山魂、南は大平山山魂が続き、中央に平地が開け、不老川が南流
        する。地名は氏族的職業集団として勢力を誇った忌部氏に由来するものと考えられている。
        伊部周辺には忌部の人々が住み、そこから忌部が地名となり、漢字が転じて伊部になった
        という。(歩行約2㎞)

        
         JR伊部駅は、1958(昭和33)年赤穂線が日生(ひなせ)から当駅まで延伸した際に終着
        駅として開業し、北側に平屋の駅舎が設置された。のちに南口が開設され、北口は198
        7(昭和62)年備前焼伝統産業会館内に併設された。
 
        
         国道2号線を横断すると窯元の煙突が並ぶ。

        
         不老川への道筋。

        
         履掛(くつかけ)天神宮は、菅原道真公が太宰府に西下の時、休憩されたという伝承があり、
        鳥居前には備前焼の狛犬が置かれ、お宮の屋根も備前焼である。

        
         板壁と石壁、瓦壁が並ぶ。

        
         不老川に出ると蔓が這う2つの煙突。

        
         川上へ進むと旧山陽道に合わす。
        
        
         不老川と山陽道が交わる場所に茅葺きの屋根と門構えのある民家は、伊勢崎さんの工房
        で築200年以上の建物とか。

        
         伊部橋から赤穂方面への街道歩きだが、橋の親柱は備前焼で、橋の袂にあったお地蔵さ
        んも備前焼だった。

        
         10月15・16日は備前焼まつりが行われたようが、静かな備前焼の里をのんびり歩
        くのも格別である。

        
         備前焼の狛犬と市章がデザインされたマンホール蓋。 

        
        
         町中を歩くと美術館の中にいるような感覚となる。

        
         煙突から煙がみられる時期ではないようだが、1200℃を超える中で2週間も焼き続
        けられるという。

        
         店先で見られるのは作家の自信作のようだ。

        
         からくり人形でも出現するような造りの店構え。

        
         通りにも備前焼の工房が並ぶ。

        
         焼物の知識を持ち合わせていないが、備前焼は釉薬(ゆうやく)を使わない独自の製法が特
        徴のようで、釉薬を塗ると光沢と耐水性が増すが、備前焼は使わないためひとつとして同
        じものができないとされる。

        
         看板には「陶印」が施してあるが、備前焼が「大窯」と呼ばれる共同窯で焼かれるよう
        になった室町期頃から、作品を見分けるために刻印を始めたという。

        
         備前焼の歴史は古く、平安末期から中世にかけて当初は熊山山中で焼かれていたが、時
        代が経つにつれて麓に降りてきたという。
         「備前の擂り鉢、投げても割れぬ」と謡われたように、堅牢な作りから生産を増やし、
        山陽道だけでなく片上湾の海運と吉井川の高瀬舟の水運にも恵まれて販路を拡大した。(駅
        通り)

        
         備前焼の魅力に惹かれて何度も訪れる陶芸ファンも多いという。

        
         左右には和と洋の小西陶古。

        
         店先には大甕が並ぶ。

        
         しっとりと落ち着いた佇まいを見せる。

        
         天津(あまつ)神社の鳥居にある扁額は屋根付き、狛犬は履掛天満宮同様に備前焼であり、
        参道には陶板が敷き詰めてある。

        
         神門の屋根も備前焼瓦で葺かれている。

        
         由緒等は不明のようで、古老の口碑によると、昔から伊部、浦伊部は菅原氏の荘園であ
        ったことにより、室町期の1411(応永18)年に配祀されたという。
         社殿は当初、浦伊部に創建されたが、1579(天正7)年伊部に疫病が流行した際に遷座
        したという。

        
         天津神社境内に室町時代から江戸時代にかけて、この地に備前焼の同業者が共同で使用
        した大規模な窯のひとつである伊部北大窯があった。室町時代末期に北、南、西の3ヶ所
        に大窯が設けられたが、幕末になると窯の経営がたちゆかなくなり、使用されなくなった
        という。(窪地になっている所が大窯跡と、窯を保護するための溝だそうだ。) 

        
         忌部神社は天津神社の境内末社で、備前焼の窯元六姓(金重・森・木村・大饗・寺見・頓
        宮)が、古くから小祠のあったこの地に、1929(昭和4)年伊勢神宮から摂末社をいただ
        き、伊勢から船で片上湾へ船で運ばれて建立されたという。祭神は天太玉命で、玉串、注
        連縄をはじめ多くの祭具を作ったことにより、物造りの神として祀られている。

        
         神社から2~3分ほど小径を登ると、展望台(標高60m)から伊部の里が一望できる。

        
         天保窯のある道を下ると町並みが見えてくる。

        
         町全体に窯元の赤煉瓦煙突が並ぶ。

        
        
         江戸後期まで三大窯で生産していた備前焼も、藩の保護の減少、燃料の関係で規模を縮
        小した三基の小窯が造られた。天保窯はその1つで、1832(天保3)年頃に築窯され、1
        940(昭和15)年頃まで焼き継がれた。
         当初は長さ23mであったが、乾燥などによる崩壊で残存長は17.5mになったという。
        保護屋根の設置や窯体を強化保存する工事が行われたが、崩落による危険防止のため金網
        が設けられている。(上部の写真は燃焼口、下部は崩壊の様子) 

        
         街道を過ごして駅に戻る途中、煙突を間近に見ることができる。次の予定もあって駅の
        南側を見て歩きできなかったが、日本六古窯に数えられる備前焼の里を見納めする。


赤穂市坂越は赤穂の塩積出し港だった地

2022年10月19日 | その他県外

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         坂越(さこし)は東に釜崎半島の尾根沿いに半島南端まで内海川を占め、南は播磨灘に開け
        る坂越湾、北はほぼ南西に流れる千種川に接する。
         地名は地勢上狭い鳥居坂を越えたことに因むという。また、644(皇極天皇3)年秦河勝
        が、曽我入鹿の乱を避けてきた地が転じたという説もある。(歩行約5.5㎞)

        
         JR坂越駅は、1951(昭和26)年12月に赤穂線が相生ー赤穂間が開業したと同時に
        設置された。
        
        
         駅前はひっそりとしているが、千種川に向って桜並木となっており、春には桜の花が出
        迎えてくれるという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、坂越、浜市、高野村など6村の区域をもって
        坂越村となる。のち町制に移行し、現在は赤穂市の一部だが、駅のある地は旧浜市村であ
        る。

        
         駅から木戸門跡まで約1.3㎞と離れており、途中には千種川が南流する。(左岸に坂越
        の中心地)

        
         坂越橋東詰の地下道を潜り、坂越小学校前を過ごすと坂越大道への広い通りに出る。

        
         高谷の石仏がある付近は田畑で、石仏があると耕やすに不便なので、何度か他に移すと
        一夜にして元のところへ帰ってきたという。石仏は「高谷の霊石」と呼ばれ、このあたり
        の地名も「石仏(いしぼとけ)」というようになったという。

        
         廻船業で栄えていた頃、町を守るために木戸門(幅約4m、高さ約2m)が設置され、朝
        に開いて夕に閉じる門番がいたといわれる。

        
         かって高谷駐在所付近にあった道標だそうで、「右:大坂、左:城下 道」、側面は「右;
                み那と」とあり、右方面が坂越港及び大坂方面の道、左が赤穂城下への道を示していた。

        
         鳥井町付近は上り坂。

        
         坂越大道の坂の頂上付近にある鳥井町地蔵堂は、1721(享保6)年築とされる。

        
         本町への下り坂。 

        
         坂越浦は領内廻船の基地、他国船の寄港及び退避港であり、17世紀後半には、奥藤、
        大西、岩崎、渋谷の各家が廻船業を営んでいたとされる。(袖卯建のある家) 

        
         坂越まち並み館は、大正末期に奥藤銀行坂越支店として建てられたもので、兵和銀行、
        神戸銀行、赤佐信用金庫、はりま信用金庫の坂越支店として使用された建物である。

        
         館内には古いアメリカ製の大金庫が残されている。金庫上には赤佐(赤穂と佐用)信用金
        庫の看板も目を引く。

        
         江戸塩問屋の支配を受けながら18艘の塩廻船の経営を請負い、赤穂塩の回漕に従事し
        た。幕末から1897(明治30)年代までが坂越廻船業の最盛期で、坂越の5業者が地船で
        赤穂塩の4分の3を関東に、残り5分の1を大坂へ回漕したが、1905(明治38)年塩専
        売法の施行以後、急速に衰退した。(山二家)

        
         妙道寺(真宗)は、室町期の1532(享禄5)年創建とされ、本堂は1734(享保19)年、
        山門は1753(宝暦3)年にそれぞれ再建された。

        
         坂越大道(さこしだいどう)は下駄を履いて歩きたくなるような石畳の道が続き、軒先には石
        造りの水路が残るなど風情を感じる町並みである。

        
         奥藤酒造前から港方向の町並み。 

        
         白壁が続く酒蔵は奥藤酒造で、1601(慶長6)年創業とされ、他に廻船業も手掛けて財
        をなし金融、製塩、電燈などの各事業にも参入した豪商。
         築300年といわれる主屋は入母屋造りの建物で、西国大名の本陣にも充てられた。酒
        蔵は寛文年中(1661-1673)の建物で、高さ2m余の半地下構造とのこと。

        
         1805(文化2)年10月伊能忠敬一行の測量隊が、坂越浦を計り奥藤家に止宿している。

        
         奥藤家の向い側にも虫籠窓、格子、袖卯建を持つ古民家が並ぶ。

        
         港側から見る坂越大道。

        
         坂越浦会所は、1831(天保2)年に行政や商業などの事務をとるための施設として建て
        られたが、この会所は村会所であるとともに、赤穂藩の茶屋的機能も持っていた。

        
         2階の次の間から一段低い所に藩主専用の御成之間(観海楼)がある。ここから湾に浮か
        ぶ生島が展望できる。

        
         会所前の広場に北前船の模型が展示されているが、地元に残っていた5分の1の模型を
        復元したものだという。

        
         北前船の傍に「とうろん台」と呼ばれる櫓台がある。坂越浦を航行する船舶に、海洋気
        象を知らせる施設だったとのこと。
         当時は、神戸海洋気象台から坂越郵便局に入電する気象情報を鳥井町にあった役場の人
        が、日中は布製蛇腹の吹き抜きを台の柱の上に掲げ、夜はランプを吊って船舶に知らせた
        という。この櫓は当時のものを縮小再現したものである。(説明板より) 

        
         海に面していたような家の造りだが、当時は「とうろん台」付近が海岸線だったと思わ
        れる。

        
         港沿いの通り。

        
         大避(おおさけ)神社の鳥居は、1835(天保6)年奉納、石灯籠は1746(延亨3)年奉納
        とある。

        
        
         門前の坂越湾に生島が浮かぶ。

        
         大避神社は宝珠山中腹に生島を望んで鎮座し、祭神は蘇我入鹿の乱を避けた秦河勝とさ
        れ、創立年は定かでないという。現在の本殿は1769(明和6)年、拝殿と随神門は174
        6(延享3)年に再建された。

        
         拝殿両脇の絵馬堂には40余の絵馬が掲げられており、廻船業者が航海の安全を祈願し
        て奉納したものである。

        
         坂越小学校は、1963(昭和38)年に高谷へ移るまで、この地に大きな木造校舎が建ち、
        上の展望広場が運動場、石柱は当時の校門として使われていたものという。

        
         坂越浦城・番所跡展望広場から見る坂越湾。この地には江戸期に赤穂藩の御番所が置か
        れ、坂越浦を出入りする船の監視に当たった。
         湾に浮かぶ生島は、聖徳太子死後、秦河勝が蘇我入鹿の乱を避けて難波から船出して、
        この島に漂着して生き永らえたことから島名になったという。

        
         旧小学校の地はもともと妙見寺の本坊があったが、明治の学制発布で坊舎は坂越小学校
        の校舎として使用された。1908(明治41)年に校庭整地のため観音堂下に縮小移築され
        たが、のちに老朽化が起因して大雨で倒壊。現在はこの山門が残るのみである。

        
         妙見寺(真言宗古義派)の寺伝によると、天平勝宝年間(749-757)に行基が開基し、宝珠山
        の中腹にかけて16の坊舎と6つの庵があったとされるが、室町期の1485(文明17)
        僧兵一揆により焼失したという。
         観音堂は、1659(万治2)年宝珠山の中腹に建立されたが、暴風のため大破し、172
          (享保7)年現在地に再建された。急峻な山の斜面に建てられた観音堂は、「懸造り」とい
        う建築様式である。

        
         観音堂からの眺め。

        
         小倉宮(小倉御前)は南北朝時代の後亀山天皇の皇子で、京都嵯峨野の小倉山下に住んで
        いたので「小倉の宮」と呼ばれた。南朝の系統に属する宮家で、皇位継承や室町幕府の権
        力闘争に翻弄された末に絶家となる。
         この地に隠れ住んでいたが、やがて追っ手が迫ってきたことで坂越湾に身を投じたと伝
        える。入水した辺りの海底にあった岩(のちに御前岩)は、海岸整備により埋め立てられて
        陸地になったが、海から見て岩があった方向に碑が建立されている。

        
         木戸門から千種川に至る道も塩の道とされる。(上高谷) 

        
         亀甲模様の中央に赤穂市の市章というシンプルなマンホール蓋。

        
        
         千種川河口の海は遠浅のため大型船が入港できず、代わって坂越港が玄関口として役目
        を引き受ける。この地で内陸部からは米・麦・木炭・綿など、海岸部からは塩・海産物が
        運ばれた。この船着場で物資の荷揚げ・積込みが行われ、大いに賑わったという。
         中土手から本通り土手に渡す石橋は、「高瀬の石橋」と親しまれ、名残りの石橋を跡地
        に保存するためモニュメント広場が設けてある。


海田町の海田市は旧山陽道の宿場町だった地

2022年10月12日 | 広島県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         海田市は瀬野川河口のデルタ状平野部に位置する。地名の由来は、平安末期以来の荘園
        ・開田荘に因み、市(いち)が付加されたものと思われる。瀬野川以南の平野部はすべて江戸
        期の新開地である。
         1889(明治22)年町村制の施行により、海田市町と奥海田村(後に東海田町)が発足。
        昭和の大合併で両町が合併して海田町となり今日に至る。(歩行約1.9㎞)

        
         海田市駅は、1894(明治27)年山陽鉄道の糸崎ー広島間が開通したと同時に開業した
        駅で、1903(明治36)年に当駅から呉線が開通して分岐駅となる。現在の駅舎は198
        6(昭和61)年に橋上駅舎として運用開始された。

        
         海田市駅北口から西条方面へ向かう。

        
         1894(明治27)年の大火、その後の度重なる水害などに対応した火の見櫓が現存する。

        
        
         狭い路地を抜けると旧山陽道(西国街道)。1928(昭和3)年アムステルダムオリンピッ
                クでの三段跳金メダリスト・織田幹雄さん(1905-1998)が生まれた地でもある。

        
        
         明顕寺(真宗)は1541(天文10)年開基とされ、1865(慶応元)年12月の第二次幕長
        戦争で越後高田藩が海田市に宿陣する。翌年の6月広島と長州の藩境である小瀬川(芸州口)
        の戦いで大敗を喫した際、戦死した34名の高田藩士がここに葬られた。
         梵鐘の説明によると、1752(宝暦2)年芸州の名工とされた金屋(植木)源兵衛・新兵衛
        作とされ、海田の嶋屋、奥田屋、金屋源兵衛が寄進したとある。

        
         三宅家は江戸期から明治にかけての商家で、屋号を「新宅屋」といい、街道を北面して
        主屋を設けている。敷地背面の河港をつなぐ敷地内通路の両面に土蔵群を並べるなど、海
        田市に残る数少ない町家遺構であるとのこと。

         
        
         千葉家は大内氏に属していたが、その後、毛利氏に属し小早川隆景の配下で活躍したと
        のこと。近世になって海田に来住して永住し、江戸期を通じて「天下送り役(幕府の荷物を
        扱う役目)」や「宿送り役(藩の荷物を扱う役目)」、町年寄役などを担った。

        
         屋号は「神保屋」で、御茶屋(本陣)や脇本陣に準ずる施設として、要人の宿泊にも使用
        された。建物は街道沿いに面して建ち、主屋・角屋(つのや)・座敷棟及び泉庭により構成さ
        れているという。残念ながら常時の一般公開はされておらず、外観のみの見学となる。

        
         左手に真宗寺(真宗)と龍洞保育園。保育園の中に寺があるといった感じである。

        
         海田公民館は、2020(令和2)年に小田幹雄スクエアができて公民館機能が移転したが、
        江戸期にはこの地に脇本陣があったとされる。
         屋号は猫屋(加藤家)で広島の猫屋町から来住し、海田市の庄屋や宿駅業務の脇本陣役を
        務めたという。詳細な資料は残っていないそうだが、古文書の一部に記録されているとい
        う。

        
         宿場町だった面影は見られない。 

        
         海田町の花である向日葵が、上下から1本づつデザインされたマンホール蓋。

        
         海田恵比須神社の由来によると、徳川幕府は参勤交代制の確立のため街道を整備したが、
        ここ海田市は往来の拠点として重要な場所となる。1699(元禄12)年頃には本陣、問屋
        場、旅籠など宿場町の体裁が整う。これに先駆けて、1674(延宝2)年町の発展と商売繁
        盛を願って、町の中心に設置されたという。

        
         本陣跡への案内板。

        
         御茶屋(本陣)があった地で、約770坪(約2,545㎡)の敷地だったとされる。

        
         熊野神社は、平安期の1026(万寿3)年紀州熊野大社より勧請されたと伝える。江戸
        期には「新宮社」と呼ばれ、宿場町海田市の氏神として信仰を集めていたが、1873(明
          治6)
年現社号に改めた。

        
         1825(文政8)年築の拝殿は、広島県内では最大級クラスの1つとされる。広島藩主
        浅野家の信仰が厚く、鷹の羽の定紋(じょうもん)を許された。(幕に定紋)

        
         駅前の案内板に熊野神社から大師寺へ通じる「灘道」が記載されていたので歩くことに
        したが、灘道を歩いたどうかは定かでない。

        
         旧山陽道(西国街道)が整備される以前、東西を結ぶ生活道として利用されていたという。

        
         海田の町並みと遠くに広島湾。

        
         細い舗装道を辿ると大師寺が見えてくる。

        
         耳の病気に御利益があるとされる楠木地蔵堂、1799(寛政11)年9月と刻まれた墓碑
        が並ぶ。

        
         大師寺(高野山真言宗)の縁起によると、厄除けの寺で知られ、海田景勝の地である日の
        浦山中腹に、1840(天保11)年開創される。裏山より山頂まで日の浦山四国八十八ヵ所
        の石仏を安置し、山全体を信仰の霊場として一般に開放、別名海田のお大師さんとして親
        しまれている。(新広島八十八ヶ所第35番札所)

        
         明治初年に大和国信貴山より毘沙門天を勧請。信貴山広島別院昇格記念に、総本山朝護
        孫子寺をモデルに毘沙門天本堂を再建。一見、京都の清水寺を思わせる舞台造りである。

        
         参道を下るとすぐ右手に清正寺に通じる道があったが、柵で閉鎖されていたので参道を
        下る。

        
         旧山陽道に出て広島方面へ向かうと、清正寺入口に「一里塚跡」がある。広島城下の元
        安橋東詰から2つ目の一里塚で、かっては街道の両側に直径6mの塚があり、松の木が植
        えられていたが、1921(大正10)年撤去されたとのこと。

        
         新町筋には袖卯建が残る民家が見られる。一里塚まで戻って駅に向かう。 

        
         神社が向い合わせて鎮座するが、手前の胡子神社は、1834(天保5)年に勧請されて他
        地に鎮座していたが、昭和初期に遷座させて今日に至るという。
         一方の荒神社は、1814(文化11)年に勧請され、1873(明治6)年瀬野川の瀬替えに
        伴い移設された。


東広島市西条は広島の酒都で酒蔵が並ぶ 

2022年10月12日 | 広島県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         西条は西条盆地の北東部に位置し、域内には山がなく竜王山から南流する古川と半尾川
        沿いに東西が挟まれている。
         地名の由来は西条盆地に施された条里制に由来するとのことで、条里制は東西に分かれ
        ていて西半分に相当する地域という。(歩行約3.8㎞)

        
         JR西条駅は、1894(明治27)年山陽鉄道の三原―広島間が開通したと同時に開通す
        る。駅舎は3代目で橋上駅舎に生まれ変わっていた。

        
         駅通りを南下してM歯科医院前を左折する。

        
         JR西条駅から芸術文化ホールまでの歩道に旧8町が作成したマンホール蓋が設置され
        ているようだが、見かけたのが旧河内町のツツジ、稲穂、ホタルがデザインされた農業集
        落排水のマンホール蓋。

         
         1675(延宝3)年創業と伝える嘉登屋(島氏、酒名・白牡丹)が最古で、幕末の頃には他
        に角胡屋(逸見氏)、立身屋(脇氏)などの造酒屋があったという。(白牡丹酒造)

        
         いち(市)の井戸の説明によると、江戸時代に掘り当てられたといわれ、戦前までは牛馬
        市場の一角にあった。古くから酒造の仕込み水として利用され、近隣の酒造場が水買いに
        訪れていたという。(白牡丹酒造所有)

        
         玄関前に立つ道標。「四日市 市尻 みそのうみち」とある。 

        
         右前方に白牡丹酒造の煙突が見えてくる。

        
         旧山陽道筋に出会うと白牡丹酒造の延宝蔵。1675(延宝3)年に酒造りを始められた蔵
        で、年号をとって延宝蔵といい、改良はされてはいるが取壊しもされず、間口13間、桁
        行30間(54.54m)の規模のまま現存されている。

        
         南端蔵に建つ延宝蔵煙突は、高さ25mのイギリス積みで、最上部は蛇腹状に張り出し
        ている。

        
         高層住宅と対比するように古民家。

        
         白牡丹酒造の「白牡丹」とは、1839(天保10)年五摂家(近衛・九条・一条・鷹司・二
        条)のひとつである鷹司家の当主から、品質の良さを賞され、鷹司家の家紋にちなんで命名
        されたという。酒は甘口で棟方志功らが好んで愛飲したとされる。(白牡丹酒造の主屋)

        
         「冥加の水」は300年以上の歴史を持ち、旅人の喉を潤したとされる。日本酒「白牡
        丹」は創業以来、この水を仕込み水として使い続けているという。白牡丹酒造は2つの井
        戸があって銘柄により使い分けされているとのこと。

        
         小島屋の土蔵は「置屋根造り」といわれ、天井まで土壁で覆われた上に屋根を載せた形
        式で、火事で屋根は焼けても蔵の中に火が入らない構造である。
            
        
         小島家が宿駅の継立役を担っていた江戸後期の土蔵だそうで、明治中期に木村酒造にな
        ったとき、曳屋されて今に位置に移動したとのこと。
         継立場とは幕府や大名が移動する際、必要な人馬を用意しておいて、彼らの荷物を次の
        宿駅まで運ぶのが業務であった。

        
        
         天保井水(西条鶴酒造)は、天保年間(1830-1844)に掘られたと伝えられる井戸で、西条鶴
        が創業した1901(明治34)年から酒造りに使用されてきたという。

        
         賀茂鶴酒造の佛蘭西屋は日本酒ダイニングレストラン。

        
         旧山陽道筋に商家だったと思われる建物が並ぶ


        
         左に酒蔵の壁と右に煙突の壁、中央に酒蔵と東広島市の「ひ」の文字が鳥の飛体で表現
        された市章、広島空港が近いこともあって飛行機が描かれたマンホール蓋。

        
         亀齢酒造の酒は、甘口の酒と言われる広島の酒では辛口に属する。亀は万年といわれる
        ように長命と繁栄を願って「亀齢」と命名されたとか。
         亀齢1号蔵には先祖が毛利家の家臣だったとのことで毛利家の家紋、その下には防火の
        おまじないとして「水」の文字が見える。

        
         明治中頃に建造された井戸。「万年亀(まねき)井戸」は社名の由来にちなんで名づけられ
        た。

        
         路地をまたいで屋根裏がつながった建物があり、この門は通称「くぐり門」と呼ばれて
        いる。昭和初期に賑わった芝居小屋「朝日座」の入口であった。この付近一帯は花街だっ
        たともいわれている。

        
         岡田酒販の前に、「日本映画界のドン」と呼ばれた東映の名誉会長だった岡田茂氏が紹
        介されている。

        
         近世初期まで続いた寺町村(吉行、土与丸、助実、次郎丸)は、のちに分村して次郎丸は
        四日市と合わせて四日市次郎丸村となる。1889(明治22)年の町村制施行により、近世
        以来の区域をもって四日市次郎丸村が発足し、その翌年に町制施行して西条町となる。の
        ちに近辺の村と合併して、改めて西条町となるが、1974(昭和49)年西条町、八本松町、
        志和町、高屋町が合併し東広島市が発足する。

        
         江戸末期からようやく盛んになってきた酒造業が一時に開花した形で、その銘柄を競い、
        西条酒の名を高めた。これに呼応して、1828(昭和3)年に広島県醸造試験場が設立され、
        1975(昭和50)年に廃止されるまで西条の酒造技術向上に貢献した。
         1929(昭和4)年に建てられた五角形のマンサードルルーフが特徴の建物だが、現在は
        賀茂泉酒造が所有する。

        
         左が次郎丸井戸、右が賀茂泉の井戸。

        
         巨釜の傍にある道標は「右 四日市、左 竹原」とあり。賀茂泉酒造付近の辻にあった
        ものと思われる。 

        
         1912(大正元)年創業の賀茂泉酒造は、米と米麴だけで作る純米酒の製造を全国に先駆
        けて始め、広島を代表する純米酒メーカーとなる。

        
         土蔵の妻壁に「大黒天と恵比寿天」の鏝絵。右の恵比寿天は右手に賀茂泉のゴロマーク
        が入ったとっくりを持ち、左手に大きな鯛を抱える。大黒天は米俵に立って、右手に打ち
        出の小づちを持ち、左手におちょこを持っている。

        
         賀茂泉酒造の酒蔵。

        
         福美人酒造大黒蔵側の煙突。

        
         中央を十字方向に区切り、その先にペンと鉛筆のようなものが描かれ、その周囲に市の
        花と木と思われる松とツツジがデザインされたマンホール蓋。

        
         山陽本線の函渠を潜って安芸国分寺へ向かう。

        
         国分寺仁王門は典型的な八脚門で、両脇には仁王像が安置されている。建築年代は16
        世紀後半と推定され、現在の仁王門が建立される前には、この位置に中門または南大門が
        建っていたと推定されている。

        
         奈良期の741(天平13)年聖武天皇の詔により日本全国66ヶ国に建立された国分寺の
        1つで、750(天平勝宝2)年頃には金堂など主要な建物が建立されていたという。平安期
        に国府が安芸郡の府中に移ったこともあって衰退の途を辿り、江戸期には寺領が没収され、
        1759(宝暦9)年の火災で多くの堂宇が焼失する。何度も廃寺の危機に遭いながら、20
        04(平成16)年金堂が再建される。

        
         福美人酒造は、1917(大正6)年に全国の酒造業者が出資して創業。優秀な杜氏を育て、
        全国に送り出したことから「西条酒造学校」とも呼ばれていた。(恵比寿蔵) 

        
         酒蔵通りの福美人酒造界隈。

               
         福神井戸は、その昔、福美人創業の地の字名は「福神」といわれ、そのことから、酒名
        を「福美人」とし、醸造蔵も七福神にあやかって恵比寿蔵、大黒蔵とする。この井戸は、
        地中深く湧き出る竜王山の伏流水で、福美人醸造用水の1つである。(説明より)

        
         酒蔵通りの一角にある円通寺(臨済宗)は、縁起によると聖徳太子の古道場であったとさ
        れるが、その後、廃寺を繰り返し、万治年間(1658-1661)頃に再興されて今日に至るという。
        (境内に入らず)

        
         右手に賀茂鶴酒造、左手に亀齢酒造の5号蔵で、この付近は白壁に囲まれた見応えのあ
        る通りとなっている。

        
         1873(明治6)年創業の賀茂鶴酒造は、1958(昭和33)年に全国に先駆けて吟醸酒を
        製造。広島の酒の代表格でもある。

        
         亀齢酒造の酒蔵通り側の蔵。

        
         白壁の酒蔵になまこ壁と2本の煙突、その傍にレトロな洋館。

        
         江戸時代に西国街道(山陽道)の宿場町として栄えた四日市には、大名や幕府の要人が宿
        泊する本陣(御茶屋)が置かれた。明治以降は賀茂郡役所などに使用されたが、現在は賀茂
        鶴酒造の所有で外観のみ見ることができる。

        
        
         賀茂鶴酒造の福神井戸。

          
         白牡丹酒造延宝蔵北端棟は、1階部分が醸造場で2階部分が麹室となっているようで、
        外観は腰板張りで上部は漆喰塗り、漆喰部分に水切瓦を通している。

        
         西国街道(山陽道)を八本松方向へ歩く。 

        
         1912(大正元)年創業の山陽鶴酒造。山陽道の松並木に鶴をあしらって「黒松山陽鶴」
        と命名したという。

        
         跨線橋で駅北側に移動する。

        
         教善寺(真宗)について芸藩通志は、竹田光明が出家して浄円と号し、庵を結びここに居
        す。天文年中(1532-1555)に近江の佐々木六角弾正、本願寺を攻める日に浄円馳登り、戦闘
        に功あり。帰えるにおいて、この寺を建て光明坊と号す。のちに現寺号に改めたとある。

        
        
         御建(みたて)神社の由緒によると、飛鳥期の706(慶雲3)年諸国に疫病が流行した時、
        素戔嗚命に祈り疫病が止んだ事から当時の人々が社を建てて祀ったのが当社の起こりと伝
        えられている。
         もとは西条町字御建に鎮座していたが、1910(明治43)年西条町字北の若宮八幡神社
        ・胡子神社・金崎神社・西条町大地面の大地面神社及びその境内社を御建神社に合併し、
        翌年10月現在地に遷座した。1824(大正13)年火災により神殿が焼失したが、現在の
        社殿が再建された。
         御建神社の傍らに、京都嵐山の松尾大社から分霊を勧請し、酒都西条の酒の守護神とし
        た松尾神社がある。