ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

備中高梁は備中の小京都

2018年10月24日 | 岡山県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
 
         近世、城下町松山に起源をもつ備中高梁は、域内の中央部を北から南へ貫通する高梁川
        の左岸に市街地が形成されている。
         松山城の南麓に城下町松山の建設が本格的に始まるのは、1600(慶長5)年に小堀新助
        ・作助父子が、備中国奉行として松山に赴任してからである。(歩行約5.5㎞)
 
           
         備中高梁駅は、2015(平成27)年に駅上駅舎となり、隣接する地には複合施設が設け
        られるなど駅周辺は様変わりしたようだ。

           
         散策しながら備中松山城を見学する予定にしていたが、 駅に降り立つと微雨のため、
        タクシーでふいご峠まで上がる。
         ふいご峠は臥牛山8合目で、備中松山城の御社壇に納められた三振の宝剣をここで作ら
        せていたので、大きな「ふいご」が設置されていたとのこと。

           
         ふいご峠(標高290m)から山頂まで700mと表示されているが、城のある地点が標
        高430mなので、標高差140mを登らなければならない。

           
         登城心得「あわてず ゆっくり歩むべし 城主」と高札あり。

           
         中太鼓櫓には石垣で造られた櫓台が残されている。

           
         下太鼓の丸と大手門とのほぼ中間で、城主の登城の際や有事の際に、太鼓の音で情報伝
        達をしていた重要な拠点でもあった。

           
         櫓台から見る高梁の町。

           
         美濃岩村城、大和高取城と共に日本三大山城とされるが、兵庫の竹田城も有名な山城で
        はあるが、江戸初期に廃城となり、幕末まで使われた城とは異なることから選ばれなかっ
        たとされる。

           
         両脇の櫓台の上に建物が建てられ、その下に門が設けられた櫓門形式の大手門であった
        とのこと。

           
         大手門の先には多くの石垣が残されている。正面の塀は天守と二重櫓と同様に現存する
        三の平櫓東土塀である。

          
         大手門跡の右手に聳える石垣群は、大きな岩盤を利用して石垣、土壁が築かれている。

           
         三の丸に足軽番所跡と上番所跡がある。

           
         曲輪ごとに石垣が築かれて段状に連なっている。

           
         鎌倉期の1240(延応2)年に秋庭三郎重信が備中有漢(うかん)郷(現・岡山県高梁市有漢
        町)の地頭となり、大松山に城を築いたのが創始とされている。(三の丸櫓跡)

           
         黒門跡。

           
         現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国の重要文化財となっている。他の
        11ヶ所は、弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、丸亀、伊予松山、宇和島、高
        知。
         
                                                   
           
         国内の山城に残っている唯一の天守は、1683(天和3)年に水谷勝宗が大修復する。三
        層に見えるように造られているが、二層二階の望楼型で高さは11mである。

           
         本丸にある東御門。石段を上がれば天守曲輪と二重櫓へと続くが、あいにくの雨で残念
        する。

           
         7代藩主の板倉勝静(かつきよ)は、1868(明治元)年の戊辰戦争で幕府軍に最後まで忠義
        を果したため、新政府の追討を受ける事態になる。松山藩の執政であった陽明学者の山田
        方谷は、朝敵となったことや領民を戦火から救い、板倉家存続させるために無血開城とす
        る。

           
         天守に入ると八の平櫓との接続廊下。急階段で1階に上がる。

           
         天守同様に現存する二重櫓は、天然の岩盤の上に石垣を築き、櫓が建てられている。

           
         天守1階には囲炉裏が設けられている。

           
         籠城時の城主一家の居室とされる装束の間で、戦いに敗れ、落城の時は死に場所にもな
        った。

           
         天守から本丸、五の平櫓、南御門、六の平櫓。縦連子窓のため展望は得難い。

           
         二階には御社壇と呼ばれる神棚が祀ってある。

           
         城見通りから花水木通りに入り、2つ目の信号を右折すると下町である。

           
         下町から本町にかけては、幅員三間余(5.45m)の備前往来沿いに町家が並んでいる。

           
         金物屋さん。

           
         平格子を持つI邸。 

           
           
         庇の下に帯状の板暖簾が吊り下げられているが、町家の前面がすり上げ戸で解放される
        ため、陽射しを防ぐ目的で付けられたとされる。

           
         紺屋川手前の左手には元醸造家の大きな町家があり、木瓜縁で縦格子とした虫籠窓と、
        縦格子の虫籠窓がみられる。

            
         高梁市中心部を流れる紺屋川(外堀)の橋上には、蛭子神社が祀られている。

           
         海鼠壁が目立つ町家。

           
         伝統的な町家建築に袖壁が見られ、これによって各家は独立性を高めている。

           
         縦格子の虫籠窓が多く見られる。

           
         柱から外に突出した部分を受ける支え板(絵様(えよう)持ち送り)は、装飾のため様々な意
        匠がされている。

           
           
         通りに面して1階のみならず、2階の壁面にも格子が見られる。

           
         、享保年間(1716~1736)頃に池上家は、この地で小間物屋「立花屋」を開業し、その後、
        両替商、高瀬舟の船主等を経て「かねたつ」醤油製造で財をなした豪商とのこと。

           
         千本格子や漆喰壁、掲げられた看板などに歴史が感じられる。

           
         池上邸の帳場と暖簾。商家の雰囲気が伝わってくる。

           
         1843(天保14)年に建てられた現在の建物は、大正時代に一部改修されたとのこと。

           
         小高下谷川(内堀)にも蛭子神社が祀られている。

                                   
           
         御根小屋とは藩主の住居と行政用の建物を兼ねたもので、1605(慶長10)年に備中国
        奉行となった小堀遠州が頼久寺からここに移り住んだ。1681(天和元)年に水谷勝宗が備
        中松山城と御根小屋を大改築したが、現在は当時の建物は残っておらず、跡地は岡山県立
        高梁高校となっている。

           
         武家屋敷通り(石火矢町)には土塀が250mほど続いている。武者窓が見られるが武家
        屋敷の表長屋の外側に設けた竪格子のある窓で、屋敷を警固するため外の様子を窺う目的
        で作られたとされる。板倉藩の家老・中之条左衛門の屋敷跡の一部で、かつては北側の古
        井戸塀に武者窓があった。今の武者窓は、現梶谷邸を新築した際に作り直したものとされ
        る。

           
         ひときわ立派な風格を漂わせる屋敷が旧折井家で、書院造りの母屋などから当時の武士
        の生活を知ることができる。

           
         160石馬回り役を勤めた折井家の屋敷は、180年前の天保年間(1830-1844)に建てら
                れた。

           
         長屋門をくぐると前庭があり、式台、玄関へと続く。

           
         奥座敷と手前は居間。

           
           
         白壁、土塀が続く町並み。

           
         旧埴原(はいばら)家は120~150石取りの武士であったという。

           
           
         式台と玄関、玄関の奥に棚が設えてある。

           
         内玄関から入ると、手前から広敷、玄関座敷、座敷と連なっている。

           
         奥座敷には付書院、花燈窓と違い棚などがあり、武家屋敷としては寺院建築風の要素を
        取り入れた珍しい造りとされる。150石取りの武士だが、
藩主の生母を出したため贅沢
        な造りになっているという。


           
         武家屋敷南端辺りから、往時の御根小屋跡に建つ高梁高校が見える。

           
         1877(明治10)年に上房郡役所が本町に設置されたが、その門が岡村邸に移設されて
        いる。「男はつらいよ 寅次郎恋歌」の映画では、葬儀の会場に使用された。

   
        

         1615(元和元)年の武家諸法度(ぶけしょはっと)によって、城の新築・改修などが厳しく
        規制
された。時の城主・水谷勝隆は堅固な石垣で囲まれた寺院を建立することで、町を城
        塞化したのである。

         このため、源久寺や水谷氏の菩提寺である定休寺など20余の寺院が建ち並んだとのこ
        と。


           
         頼久寺は足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つである。当寺の庭園は備中国
        奉行・小堀新助の作庭とされる。


           
           
         頼久寺の書院から望む枯山水の庭園。今回は時間の都合で入園できなかった。(06年
        撮影) 


           
         1889(明治22)年築の高梁基督教会堂は、現存する岡山県下最古の教会であるとのこ
        と。1879(明治12)年に始まった高梁でのキリスト教布
教活動は、翌年に新島襄が来高
        すると急速に発展し、信者の浄財によって教会
が建築される。

           
         泰立寺・薬師院は寺伝によると、花山法皇の開基により、平安期の968(安和元)
に創
        建されたと伝える。山門前に「男はつらいよ ロケ地」の石柱が立つ。


           
         仁王門から境内に入る。ここは中国薬師霊場2番札所でもある。

           
         客殿。

           
         1624(元和10)年築の薬師堂(本堂)は、勾配のある大屋根とこれを支える組物、浅唐
        戸の彫刻、ほか随所に桃山風の特徴がよく表れている。

     
           
         地名の由来は、古くは高橋と称したが、鎌倉期の1330(元徳2)年頃に高橋宗康が備中
        国の守護職として当地に入った際、地名と城主の名が同じであることは
好ましくないとの
        理由で「松山」とした。 

         市史には、1868(明治元)年に伊予松山と混同するために元に戻し、「橋」の字に雅字
        の「梁」の字を当てて高梁藩としたとある。


備中高梁市の吹屋はベンガラ色の町並み

2018年10月24日 | 岡山県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         吹屋は標高500m前後の高原にある村で、吹屋往来や備後東城に至る道が通る。往来
        には弁柄釜元、問屋、酒醤油製造、米問屋などが軒を並べた。(歩行約1.5㎞)

           
         高梁バスセンターから備北バス吹屋行き約1時間10分、終点の吹屋バス停に到着する。
        最終便まで4時間超の滞在が可能であるのでゆっくりと散策できる。駐車場にトイレが併
        設されているので、一旦駐車場まで下って引き返すことになる。

           
         土産物屋のベンガラ屋(山内家)は、明治初期の入母屋造、妻入りで二階建ての建物。鬼
        瓦は山と内の字を組合せたデザインになっている。
         三菱商会の吉岡銅山に、鉱夫の扶持米を納める米問屋だったが、大正末期にベンガラ化
        学工場を始めた。この建物は別荘に使っていたとのこと。

           
         本片山家が明治期に分家を出し、本家の向かい側に分家3棟が建ち並ぶ。坂上から北片
        山、中片山、角片山と呼ばれた。中片山家は明治期に薬屋、大正初めから終戦までは銀行
        の代理店を務めていた。

           
         坂本村の本山銅山で硫化石鉱が採掘されたのを契機に、江戸期の1751~64年頃よ
        り吹屋村、坂本村、中野村で緑礬(ローハ)作りが本格化し、吹屋の片山家などで株仲間を
        を結成して弁柄を量産した。

           
         1759(宝暦9)年創業の旧片山家は、220年にわたって弁柄の製造及び販売を手掛け
        た老舗である。主屋は18世紀末期築を基本に、1830(文政13)年までに増築が続けら
        れて現在の形となったという。

           
         仏間から、主婦居間・奥座敷へは床が1段高くなっている。

           
         1階は店舗と接客の場に充て、2階を寝室や物置に使用。通り土間に面した所に店の間
        や台所があり、当時の商家の佇まいを見ることできる。

           
           
         当時使用されていた運搬具、帳箱なども置かれている。

           
         庭のある地には弁柄蔵、仕事場及び部屋がある。

           
         裏門を潜ると最奥部に道具蔵、弁柄蔵、米蔵が取り巻いている。

           
         意匠のよく似た建物が2軒並ぶが、手前が中片山家で隣は角片山家である。中片山家は
        1866(慶応2)年頃の建物で、入母屋・妻入り形式で、入口は捲り上げ大戸が残ってい
        る。

           
         分家の角片山家住宅は郷土館として活用されている。1874(明治7)年から5年をかけ
        て、石州大工の手で建築された入母屋・妻入り形式である。

           
         主屋は採光のため中庭が設けてある。

           
         座敷の書院まわりは生漆と弁柄で塗り上げ、それぞれに飾り金具が用いられている。

           
         間口5間、奥行16間という中級商家の定形でもある。

           
         長尾屋(本長尾家)は弁柄釜元の1軒で、江戸期には鉄・油などの問屋で酒造業も営む。

           
         1700年代末頃の建物をベースに、大正時代まで増改築を重ねたとされる。左側にく
        ぐり戸付きの長屋門を持つ。

           
         長尾家の向かいが仲田家。江戸末期造の切妻造りの平入りで、二階の外壁が黒漆喰塗り
        である。左右の虫籠窓には白い格子戸、玄関の左側には出格子がある。叶(川野)屋という
        弁柄釜元で、天領だった吹屋村の庄屋を務めた。

           
         明治に入ってから弁柄屋は5軒だったが、その中の1軒が東長尾屋(東長尾家)であった。
        明治中期頃の建物で、表側は半蔀戸(はんしとみど)格子になっている。

           
         1874(明治7)年開局した吹屋郵便局は、1993(平成5)年に3代目の局舎として建て
        替えられる。左側の建物は元呉服屋、右側は前局舎を撤去して、以前にあった建物に近い
        姿で復元される。

           
         暖簾が掛かる玄関脇には、1871(明治4)年の郵便事業開始頃に使われていた書状集箱
        と同型の黒いポストが置かれている。(現役のポスト) 

           
         長尾家(旧松田家)の屋号は氏屋と称し、本片山の弁柄の売り子で、陶器、金物などの雑
        貨屋だった。松田家は、大正初期、県南で弁柄製造を手掛けていたが、東長尾家が大正時
        代に建物を買い取り、農協の事務所として使用されていた。(現在はギャラリー吹屋)

           
         中野屋(中山家)は弁柄釜元の1軒であったが、明治・大正期は醤油屋を営む。1700
        年代末の建物でなまこ壁に特徴がある。

           
         歩いて来た町並み。

           
         1902(明治35)年創業のおみやげ「あさだ」は、100余年続く老舗の土産店。

           
         明治中期に建てられた赤木家は、1965(昭和40)年頃まで「松栄館」の屋号で旅館業
        を営んでいた。

           
         中野口へ下って行く。

           
         吉川家(栩木屋)は江戸時代末期の建物で、吉川家の先住は旅館業を営み、大正末期から
        1965(昭和40)年頃まで理髪業を営んでいた。

           
         町並みは緩やかな下り道。

           
         川本家の建物は江戸末期に建てられたもので、2階の右側の手摺は開閉できる仕組みと
        なっている。表の木製衝立は泥除けのものである。

           
         下って見返ると右手に江戸末期、弁柄仲間の一人であった大黒屋の建物がある。その後
        は居住人が数回入れ替わり今日に至る。

           
         那須家(旧永野旅館)は江戸時代末期の建物で、屋号を松乃屋と称し、昭和初期から2代
        にわたって旅館業を営んでいた。

           
         赤木家(大工屋)は明治中期の建物であるが、雨漏り等が激しくなったため、2001(平
        成13)年に屋根を葺き替えるなど手が加えられてきた。

           
         松浦本家(旧日向家)は江戸時代末期の建物で、屋号は松木屋と称して雑貨商、木賃宿な
        どを営む。1950(昭和25)年から約60年、名物おばあちゃんの日向氏が美容院を営む。

           
         中野口手前の下町付近から引き返す。

           
         三叉路まで戻ると吹屋小学校方向から下ってきた人が、吹屋小学校は工事中と教えてく
        れる。(とりあえず行って見る)

           
           
         吹屋小学校は、1900(明治33)年に西校舎・東校舎(木造平屋建)が竣工し、1909
        (明治42年)に本館が竣工する。現役で使用される日本最古の木造校舎として知られていた
        が、児童数の大幅な減少により、2012(平成24)年3月に廃校となる。現在は保存修理
        工事中のため見ることができない。(06年5月撮影)

           
         姿を見ることができないのでバス停に戻る。

           
         笹畝坑道や広兼邸まで約3㎞の距離だが、残念してJR備中高梁駅に戻る。


苗羽は醤油醸造の町 (香川県)

2018年10月22日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         苗羽(のうま)は小豆島の東部、内海湾の東部海岸に位置する。地名の由来は明らかでない
        が、「続日本記」には、平安期の784(延暦3)年に恒武天皇が備前児島郡小豆島に放つ官
        牛を長島に移すとあり。
官牛を放牧していた牧から地内馬木の地名が起こったと伝えられ、
        苗羽も野馬に由来するものと考えられている。(ルート約3㎞)

           
         苗羽の町並み。

           
           
         京宝亭佃煮販売処店舗は、もと「伝九郎」醤油醸造場の醤油蔵で、1948(昭和23)
        から佃煮製造所となり,現在は桁行11m,梁間10m規模に切縮められて佃煮販売所の
        店舗として活用されている。

           
         左海(さかい)醤油工業醤油蔵は、桁行17m、梁間11mの規模で桟瓦葺き、切妻造の南
        に桁行9m、梁行10m規模の切妻造を繋げている。

           
         ポケットパークには役目を終えた醤油樽が置かれている。

           
         丸金醤油前にある醤油樽にも「醤(ひしお)の郷」と明記されている。「醤」とは、古来中
        国から伝わった日本の伝統的な調味料で、味噌、醤油の原型と云われている。
 
                  
         丸金醤油の天然醸造蔵。キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ(3社は千葉県)、ヒガシマル(兵
        庫県)と共に5大醤油メーカーの1つとされる。

           
         醸造蔵の中には、このような杉樽が100個も並んでもろみが発酵しているとか。正面
        には碁石山が見える。

           
         醸造蔵の裏手に「天然醸造蔵ギャラリーステージ」があり、蔵の中が見学できる。

           
         苗羽散策路とされる緩やかな坂道を登ると、醤油蔵が残されている。

           
         小豆警察署先の信号を横断して、苗羽小学校側の路地に入る。

           
         小豆島で唯一の酒蔵とされる国森酒造。

           
         県道を横断して馬木に入る。

           
         馬木の散策路に金大醤油。

           
         丸金醤油をぐるりと歩いてもかなりの距離である。

           
         「もろみ蔵」は細長い切妻造、平屋建てを2棟並べた形式である。街路に面した北側は、
        壁面上半に大振りな開口部を規則的に並べている。

           
         内海湾側の丸金醤油工場群。

           
         「もろみ」から醤油を搾り出す圧搾工場は、大正初期に建てられたもので記念館として
        活用されている。

           
         木桶の中で発酵を順調に進める上で最も大切なのは、もろみの状態に応じてきめ細かく
        もろみに空気を送り込む「撹拌(かくはん)」という作業が行われる。季節や気温などに応じ
        て、人間の感覚によるきめ細かいコントロールが必要とされる。
         攪拌は長い“櫂棒”を使って人力で作業されていたが、現在は圧縮空気で行っているよ
        うだ。

           
         大きな樽「大桶(おおこが)」をくり抜いたトンネルとなっているが、この樽で30石(約
        54㎘)のもろみを造ることができ、5㎘の醤油(1㍑のペットボトルで約5千本)が搾られ
        るとのこと。

            
         近世中頃までは塩田で栄えたが、1838(天保9)年には盛時の1割まで落ち込む。塩業
        衰退のため塩を原料とする醤油製造業が盛んになる。
         1897(明治30)年代から一段と発展し、最盛期には400軒の醸造所があったが、今
        は丸金醤油など大手の会社も当地に集中するなど、20軒以上の醤油蔵や佃煮工場が軒を
        連ねる。

           
         醤油造りに必要な道具類が展示してある。建物の構造は合掌造りとなっている。
     


田浦に小説「二十四の瞳」の舞台である岬の分教場 (香川県)

2018年10月22日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         田浦(たのうら)は小豆島の南東部から西方に内海湾を囲むように突出した細長い田浦半島
        の先端に位置する。南・西・北は海に面しており、低地はほとんどない。
         地名の由来は不詳であるが、田浦とは水田の多い地方に付けられる地名であるため、他
        の同地名の地から移住して来て成立したとも考えられるとのこと。(歩行約1㎞)

           
         漁業が中心の小さな集落の一角に「岬の分教場」がある。

           
           
         1902(明治35)年に田浦尋常小学校として建築され、1910(明治43)年から苗羽小
        学校田浦分校として使用されてきたが、1971(昭和46)年に廃校となる。

           
         小説「二十四の瞳」は、1952(昭和27)年に小豆島坂手村出身の壷井栄が発表する。
        発表の2年後に映画化され、その舞台として有名になる。
       
           
         入口から廊下に上がると1・2年学級の教室。小説では大石先生は1年の担任とされる

           
         3・4年学級教室。

           
         小説では1928(昭和3)年から1946(昭和21)年の18年間が描かれている。分教場
        に赴任した女性教師と12人の1年生とのふれあいを軸に、戦争により庶民にもたらした
        苦難と悲劇が対象的に描かれている。

           
         分教場より700m南に、大正・昭和初期の小さな村が出現する。映画「二十四の瞳」
        のロケ用オープンセットが改築されて、映画村として利用されている。

           
         2つ並んだ醤油樽のバス停。醤の郷から映画村までの間と、映画村駐車場近くの2ヶ所
        で見ることができる。

           
         入口には全長54mの壁面パネルアートがある。

           
         撮影に使用された建物は、雑貨屋、お土産屋などに変身している。

           
         海の魚が泳ぐとされる汐江川。

           
         昔のままに再現された映画館の切符売り場。

           
         ロケで使用された漁師の家。晴れた日は必ずフンドシなど洗濯物が干されている洗濯好
        きの家とされている。

           
           
         セット用の分教場が再現されているが、教室からは播磨灘を一望することができる。

           
         映画「八日目の蝉」でもロケの舞台となった素麺屋。

           
         1987(昭和62)年に撮影された当時は、小豆島も近代的な開発の波が押し寄せていた。
        このため、映画用の村風景が創り出されたのである。

           
         撮影に使用された民家は、売店や食堂などに活用されている。       

           
         
裏通りは村の風情が漂う。

         映画村バス停から土庄港まで約1時間15分のバス旅も楽しめる。(バスは5便)