ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の殿居にはきらりと光る郵便局舎がある地 

2022年08月14日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
        
 殿居(とのい)は古くには殿井とも書いた。油谷湾に注ぐ粟野川上流域と同川の支流である
        開作川流域に立地する。
         地名の由来は地下(じげ)上申によると、往古、大内家臣の杉民部小輔元重の居城があり、
        殿が居たことから起こったという。(歩行約3.5㎞、🚻なし)

        
         公共交通機関で殿居バス停で下車できると思っていたが、JR小月駅から西市までは問
        題ないが、滝部行きの接続が悪く日帰りが難しいので車を使用することになる。(旧滝部小
        に駐車)

        
        
         見竜寺(真宗)は大内義隆の家来であった山本隼人信重が、本願寺へ帰依し剃髪して法名
        を教流と改め、室町期の1572(元亀3)年真言宗であった見竜寺の跡地(現在の厳島神社
        付近)に草庵を構えたのが創始とされる。以後数度移転して1913(大正2)年現在地に移
        転する。

        
         毛利元鎮(もとしげ)の墓は、見竜寺から左へ進むと道標があり、足場の悪い坂道を上がる
        と右手に階段が見えてくる。この階段を上がらずに直進すると、下った先の階段道を辿れ
        ば墓地がある。

        
         元鎮は久留米城主の毛利(小早川)秀包(元就の九男)の嫡男で、母は大友宗麟の娘引地君
        である。1589(天正17)年久留米で生まれ、キリスト教の洗礼を受けたが、関ヶ原の戦
        いで改易となり、元鎮が毛利輝元より滝部3千石を賜る。1625(寛永2)年輝元の死後、
        家督を元包に譲って隠居し、久留米から随従した家臣柏村重内を相手に、風月を友として
        余生を殿居で過ごし、1670(寛文10)年逝去する。

        
         寺前に耕作放棄地が広がる。

        
         国道南側の筋に空家が並ぶ。

        
         粟野川に架かる歩行用の橋は役目を終えたようだ。

        
         殿居郵便局は、1923(大正12)年10月10日に落成する。かねてより洋風建築に意
        のあった2代目局長河田寛氏は、洋風局舎の新築を決意し、地元の大工棟梁を東京に同行
        させて見学を行い、帰村後、意匠を決定して同棟梁に建築を依頼した。

        
         アーチ式形飾りがおしゃれである。

        
         本日は郵便局が営業時間外のため内部が見学できなかった。(2020年見学)

        
         1879(明治12)年に郵便局として開設されたが、その後、廃止と再興を繰り返すが、
        1902(明治35)年殿居郵便局となる。(土間より事務室)

        
         建物は木造平屋建てであるが8角塔屋部分は2階建て、内部は白漆喰塗りの壁である。
        外部の東北は半切妻屋根で、塔屋の屋根は銅板葺きルネッサンス様式である。(畳の間は吏
        員宿直室)

        
         明治初期に全国的に流行した擬洋風建築は、すでに廃れた頃に、ひなびた田舎に都会を
        真似て完成させた「時代遅れ」の建物だけに価値がある。(塔屋の2階部分)

        
         1914(大正3)年に完成した東京駅は8角ホールをもっていた。その東京駅も関東大震
        災(1923年)後はトンガリ帽子形となったが、建築当初の模造遺構がこの山村に残され
        ている。

        
         河田酒造は明治期から創業されていたが、太平洋戦争の統制令で廃止された。蔦を被る
        煙突がシンボルとして残る。

        
         その隣にあるK宅。

        
         厳島神社参道入口に林正路翁を偲ぶ碑がある。1913(大正2)年村内の三社(厳島、日
        幡、三島)の社掌となり、粟野八幡宮、及び県社八幡磨能峯宮社司などを勤めた。
         また、自宅に三省学舎なる塾を設け、郷土の青少年の教育に尽力する。1964(昭和3
          9)
年地元有志により顕彰碑が建立される。

        
         厳島神社参道。

        
         西教寺(真宗)は、往古、天台宗の西教寺と称した古跡に、見竜寺の2代目が隠居後、我
        が子の一人を伴い、安土桃山期の1585(天正13)年に浄土真宗の寺院として再興したと
        古記に誌されているという。

        
         厳島神社は、平安期の978(天元元)年宮島の厳島神社より勧請して創建される。室町期
        の作とされる神像4体と仏像4体が安置されていたが、現在は他に保管されているようだ。
        旧豊田町では最古の神社である。

        
         明治の初頭、荒木村に育英小学校として開校。1882(明治15)年現在地へ移転し、の
        ちに殿居小学校となる。2016(平成28)年豊田中小学校へ統合され、児童たちはスクー
        ルバス通学となる。

        
         殿居村役場があった地に石組みが残されている。1889(明治22)年町村制施行により、
        一ノ俣、荒木、佐野、殿居、杢路子村の5村が合併して豊田上村が発足。1912(明治45
           )
年殿居村に改称する。(小学校プールの東側)

        
         殿居公民館に庁舎改築記念の写真が残されているが、いつ頃に撮影したものかは記され
        ていない。

        
         殿居夢・夢ハウスとされ、室内から演奏が聞こえてくる。 


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