ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市行波は7年毎に錦川の河原で神舞 

2021年12月24日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         行波(ゆかば)は錦川下流域の右岸、雲霞山を背にして、その山麓緩斜面に集落が形成され
        ている。
         玖珂郡誌に「往古虫明神、小浜へ御着船の砌、大波小波打行シ所也」と地名の由来らし
        き記述がある。(歩行約2.5㎞)

        
         錦川鉄道の行波駅は、1971(昭和46)年当時の国鉄が行波仮乗降場として設置する。
        単式ホーム1面のみの地上駅で駅前広場を有していない。

        
         ホームから見る集落と錦川。

        
         駅から見える荒玉社には神舞が奉納される。神舞は疫病の流行、災厄に苦悩し、凶作に
        困惑した里人達が人事を尽くして然る後に、神明の加護を願ったものとされる。神舞は式
        年奉納とされ、7年に1度、全12座の舞が奉納されるが、前回は2019年に行われた。

        
         行波の鎮守社として江戸中期頃には諏訪大明神が祀られていた。1791(寛政3)年旧鎮
        守の社地に社殿を造営したうえ、対岸より荒玉社、天疫社を勧請し、諏訪大明神と合祀し
        て、社号を「荒神社」とする。1811(文化8)年「荒玉大明神」と改称し、その後、拝殿
        新造時に「荒玉社」と称する。

        
         集落内を錦川清流線が走る。 

        
         40戸ばかりの小さな集落。

        
         龍雲寺前を走る清流線のひだまり号「桜のピンク」 

        
         架道橋を潜ると見上げる位置に龍雲寺山門。

        
         龍雲寺(臨済宗)は室町期の1395(応永2)年創建と伝える。

        
         今度はこもれび号「森林のグリーン」が走り去る。

        
         対岸の下地区とは行波橋で結ばれている。 

        
         岩国行きの列車まで時間があったので下地区を歩いてみる。

        
         山がちで耕地が少なく、大半が畑地で紙漉きなどして生計を支えた時代もあった。神舞
        は錦川河川敷に神殿(舞台)を設け、高さ約25mの松を立て木の上に祀ってある「三光」
        を燃やし、五穀豊穣、民安穏、厄疫退散を祈願する松登りが行われる。

        
         国道187号に出る。 

        
         観音寺はもと観音堂と称して臨済宗の寺院であったが、1669(寛文9)年再興されて浄
        土宗に改宗される。

        
         ほぼ国道筋に家並みと南側に団地がある。

        
         途中で駅に引き返し、13時12分岩国行きに乗車する。(建物は北河内幼稚園) 


岩国市の角・土生は沈下橋のある地から山間の集落

2021年12月24日 | 山口県岩国市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。        
         角(すみ)は保木川の西岸に位置し、域内の西を錦川が北流する。地名の由来を玖珂郡誌
        は、「角五郎右衛門資清居住、故角ト云」とある。
         
土生(はぶ)は域内中央部を貫流する保木川と近延川、竹安川の支流域に集落がある。地
        名の由来を玖珂郡誌は、かって土生伯耆守国広が住んでいたことに因むという。(歩行約
        6㎞)

        
         南河内駅は、1960(昭和35)年に国鉄・岩日線の駅として開業する。その後、国鉄分
        割民営化により錦川鉄道に移管されて今日に至る。
         単式ホーム1面1線でホーム上に屋根付きの待合スペースがあり、駅前広場を有している。
        (行波駅からは1区間)

        
         錦川に架かる3つの沈下橋のうち、真ん中にあるのが細利橋。駅から片道約600mの
        距離にある。

        
         右手の清流線高架を列車が走り去る。 

        
         橋の幅は他の沈下橋に比べて意外と広い。

        
         国道2号に通じているためか交通量は多い。

        
         細利集落側から見る沈下橋。車は離合できないので両岸で状況を見ながらスムーズに走
        行されている。

        
         駅と岩国西中学校の三叉路に椎尾(しいのう)八幡宮参道。

        
         174段の石段を上がると正面に神門(楼門)。

        
         平安期の大同年間(806-810)宇佐八幡宮より勧請したと伝え、南北朝期の1340(暦応
          3)
年に再建される。河内郷24ヶ村の氏神で多くの社坊があったとされ、通称河内の八幡
                様と呼ばれている。

        
         菅原社には大草履と烏天狗。

        
         神社の車道を下ると保木川沿いに角集落がある。

        
         川の左岸を上流に向かうが、右岸の道は国道2号。

        
        
         保木川の支流・竹安川に架かる橋を渡ると、校門と校舎のような建物があったが詳細は
        知り得ず。

                
                その先の民家から山に向かう道に入ると、巨木の下
               に何かが祀られている。

        
         山裾を辿ると次の集落が見えてくる。

        
         相ノ谷、二鹿に通じる道に出ると左手に国道2号。赤瓦は南河内郵便局。 

        
         四叉路の左手に光西神社と光西寺。 

        
        
         国道筋の家々は建て替えられており、白壁に囲まれたO家だけが残る。

        
         徳山~岩国間に路線バスがあるが、1日5便と少なく16時過ぎまで便がないので引き
        返し、椎尾八幡宮下の直進道を駅に向かう。

        
         河内椎尾宮祖霊社とされ、明治以降の神仏分離と神葬祭の普及に伴い、氏子のなかで神
        葬祭をもってした人々のを合祭する社だそうだ。


山口市陶は旧山陽道沿いに家並みと陶窯跡・司家跡 

2021年12月23日 | 山口県山口市

          
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         陶(すえ)は椹野川の左岸に位置し、南側に新開作ができ、名田島村が成立するまでは瀬戸
        内の山口湾に面していた。西部を椹野川、東部を綾木川が南流し、山陽新幹線、山陽本線、
        国道2号線が域内を東西に走る。
         地名の由来は、古代この地で須恵器を製していたことによるといわれている。(歩行約
        8.5㎞)

        
         JR四辻駅は、1920(大正9)年大道駅ー小郡駅間に新設開業し、開業当時のレトロな
        木造駅舎であったが、2021(令和3)年1月に簡易駅舎となる。正面の松の木や植栽は駅
        開業を祝って、地元の人が持ち寄って造ったもので現状のままだった。
         駅名の多くは設置当時の町村名が使用されたようだが、鋳銭司村の小字が用いられたと
        される。 

        
         駅から西へ進むと矢田踏切。

        
         高橋川に架かる高橋橋で旧山陽道に合わす。

        
         川傍に石祠と庚申塚。

        
         橋の先に大村益次郎が医業を始めた地がある。1846(弘化3)年3月に蘭学を学ぶため
        大阪の緒方洪庵の塾に入り、ここで5年余、医学・蘭学を学び、1850(嘉永3)年に
適塾
        を辞して郷里に帰り、25歳で医業を開く。翌年には隣村の農家・高樹半兵衛の娘・コ

        (琴子)を娶る。

        
          
         街道筋も家屋の更新が進んで古民家が少なくなった。

        
         綾木川から先が陶地区。

        
         旧山陽道の設置は古く、豊臣秀吉が文禄・慶長の役により、出兵のために道が整えられ
        たといわれ、後に山陽道となる。
         その道筋に春日神社の参道があり、その入口に立(建)石があるが、東西南北を表現した
        石とも伝えられており、東西の方向に立てられている。石には刻まれた文字はなく、いつ
        頃、誰が、何のために立てたか不明だそうだが、この付近の地名(立石)になったといわれ、
        山陽道を行き交う人の道標にもなっていた。

        
         参道に入ると立石自治会館があり、会館左手の国道2号立石地下道を潜る。

        
         春日神社の由緒によると、飛鳥期の708年藤原不比等が創建したとも、奈良期の78
        5年奈良の春日大社から勧請したとも伝える。
         古くは本殿が4棟横に並んでいて、春日大社と同じ様式であったが、江戸中期頃に大風
        で棟が破れたため、現在の本殿になった。

        
         拝殿に掲げてある「鋳銭司古図」の絵馬には、古い時代の鋳銭司が描かれているが、陶
        村は鋳銭司村の枝郷であった。1870(明治3)年綾木川を境として、東を鋳銭司村、西を
        陶村として行政的にも区分されて独立した。

        
         八坂社の由来によると、もとはこの南の岩砂山にあり、祇園社と称していたが、明治政
        府の神社合祀政策により現在地に移転したという。
         社は南北朝期の明徳年間(1390-1393)疫病が発生した時に大内義弘が建立したと伝える。
        その後、ウンカ発生による被害際にも祈願、藩政時代には小郡勘場の代官も参拝し管内の
        平穏を願ったという。

        
         神社前の参道を引き返し、右折道に入り団地内を抜けると旧山陽道に合わす。

        
         右手に浄土真宗の円覚寺があり、古くは法古坊といい大内家の祈願所であったという。
        大内家没落後に寺は荒廃したが、江戸初期に八木主膳なるものが再興して真宗の道場とし、
        1664(寛文4)年寺号を受けたという。
         道は寺の西側で大きく北に曲がり、さらに西に折れると陶上市である。

        
         道の左側に上市えびすの小祠があり、丹塗りの社殿に恵比寿像が祀られている。小祠と
        並んで石の庚申塔があり、正面に猿田彦太神、反対側の面に庚申と刻まれているが、一石
        に猿田彦と庚申が刻まれているのは珍しいとされる。

        
         市自治会館の敷地に宝篋印塔と石地蔵が並んで立っているが、近くにあった観音堂が廃
        絶したとき、この地に移したという。
         宝篋印塔は1776(安永5)年、石地蔵は1721(享保6)年の建立で、それぞれ日本廻
        国の行者が願主になって造立したという。 

        
         秋穂から山口に通じる秋穂街道は、陶付近は山口湾が迫っていたこともあって岩砂山東
        山麓を通って旧山陽道に合わしていたようだ。

        
         橋の西側袂に下市えびす社(左側)と地蔵堂があるが、百谷川で上市と下市に分かれてい
        た。  

        
         地域交流センター敷地の角に石柱2本。左側は「サイレン寄贈者吉野伊作氏」と刻まれ、
        右は「大正15年5月29日御手播□□」とある。昭和天皇が皇太子時代に山口を行啓され
        た石碑のようだ。

        
        
         藁葺屋根の上にトタンを被せた家が散見できる。

        
         陶小学校西側から山手に向かうと左側に西円寺(真宗)がある。由来によると、創建は南
        北朝期の明応年間(1492-1501)山口にあった善福寺の末寺で、当初は西陶にあったが、領主
        であった益田氏から土地を貰って移転。大内家滅亡後に家臣の八木主税が得度して、16
        17(元和3)年建立したとされる。

        
         陶峠に向かうと右手に八雲神社があり、土地の人は荒神様と呼んでいる。社伝によると、
        推古天皇13年(605)に月見山の頂上に創建されたが、後に現在地に遷座したという。
         ここの神事「腰輪踊」は、馬の病難除けと五穀豊穣を祈願して始められたもので、室町
        後期の1558年から続く古い神事である。

        
         神社裏手の百谷川沿いに石風呂がある。いつの時代かは定かではないそうで、使用時期
        も収穫期の終わる秋から冬にかけて主として老人が使用していたという。大正期中頃まで
        使用され現在は風呂のみが現存する。

        
         陶峠への道に戻って台地上にある寺家集落へ向かう。

        
         右折する角に大歳大明神、地蔵尊、首無し石像などが並ぶ。 

        
         左前方に正護寺(しょうごじ)が見えるが、寺前の台地には周防国鋳銭司の庁舎があったと
        いわれる。司家(じけ)之跡の碑は、この道の途中から右折して民家前を右折すると案内板が
        ある。

        
         これまで長門国に置かれていた鋳銭司が、平安期の825(天長2)年周防国に移され、
        「富寿神宝」や「承和昌宝」を鋳造した。
         司家は移転から約20年間この地に置かれていたが、847(承和14)年に東方の潟上山
        に移された。 

        
         正護寺(臨済宗)の寺伝によると、南北朝期の延文年中(1356-1361)2代陶弘政によって建
        立された。弘政の父・弘賢が、この地を領し陶氏の祖となるが、居城を構えた頃に祈願所
        として寺を建立したとされる。
         室町期の1569(永禄12)年大内輝弘の乱で兵火にかかり寺を焼失する。しばらくは再
        建されなかったが、江戸期に陶氏の居城跡に移転する。
         1869(明治2)年の脱退騒動では、一時多くの脱退兵が駐留し、本堂の柱には銃弾跡が
        残されているとあるが、施錠されて見ることができず。

        
         本堂前の門は小郡勘場の正門が移設されたという。

        
         1821(文政4)年陶村に生まれた富永有隣は、9歳で明倫館で学び、自他ともに許す国
        学者といわれたが、理由のない罪により野山獄に囚われた獄中で吉田松陰と巡り合う。
         幕長戦争では鋭武隊を引いて前線で戦うが、1970(明治2)年山口藩は収入減を理由に
        兵制改革を断行し、商農兵士が職を失うという事態が起こる。この兵制改革に反対して陣
        頭指揮を執ったことで捕えられたが、のちに許されて田布施で塾を開く。国木田独歩の小
        説「富岡先生」は、当時の有隣をモデルにしたものである。

        
         正護寺は富永家の菩提寺である。

        
         参道に並ぶのは歴代住職の墓であるが、宝篋印塔は陶晴賢の分骨塔とされる。 

        
         参道から道路を横断して草道に入る。

        
         途中には猪の耕作跡や日吉神社傍の溜池、六地蔵を過ごすと正面に老人ホーム日吉台が
        見えてくる。
         この道は正護寺参詣と墓参に利用していたそうだが、クルマ社会になって使わなくなっ
        たという。

        
         駐車地に陶窯跡案内図があり、徒歩は問題ないようだが車の場合は施設に連絡するよう
        案内されている。

        
         標高約80mの丘陵の傾斜地につくられた須恵器制作の窯跡で、ほぼ完全な窯体を残す。
        須恵器造りの技術は朝鮮半島から伝わるが、ここ陶窯は窯の形態と発見された須恵器の破
        片から推して、奈良期から平安中期頃の窯跡とされる。

        
         
         前庭部と燃焼部が破損し埋没しているため、全体の構造と形状はつかめないが、半地下
        式の登り窯である。

        
         日吉神社は防長風土注進案によると、室町期の1504(永正元)年大内義興の時に造建さ
        れ、この地の領主であった陶弘政が滋賀県の日枝神社から勧請したと付け加えられている。
        古くは山王大権現または山王社と称していたが、1871(明治4)年に現社号になった。

        
         日吉神社前から長い参道を歩くと旧山陽道に出る。

        
        
         右手に陶中央公園(トイレ付き)を過ごすと、左手の高い所に艫綱(ともづな)の森と呼ばれ
        る一角があり、鳥居や石祠、石碑などがある。
         これらは200mほど南の国道にあったもので、1971(昭和46)年国道新設により移
        れた。推古天皇19年(611)大内氏の祖といわれる琳聖太子が、この地に着岸され、土器
        の製法を教えられたのに始まるという伝説があるが、石碑はそれにより江戸期に建てられ
        たものという。

        
         山陽本線と路線バスが並行しているため便数は少ないが、陶小学校前バス停15時8分
        の防長バス防府駅行きに乗車して四辻駅入口で下車する。


周防大島の三蒲は大川の河岸にわずかな平地 

2021年12月14日 | 山口県周防大島町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三蒲(みがま)は屋代島の西北部に位置し、南東に文珠山があり、文珠山の支脈のうち北へ
        延びる段ノ木迫、池の岡は200mを越す山地を形成して海岸に至り、東の境となってい
        る。南および西は飯ノ山を結ぶ分水嶺によって仕切られ、西や北は大畠瀬戸に面する。(歩
        行約2.7㎞、🚻なし)

        
         JR大畠駅から防長バス久賀経由の橘病院行き10分、西の浜バス停で下車する。

        
         美蒲神社は往古より真宮大明神と呼ばれ、社近くに湯が湧き出していた。
         しかし、社が大破して神社が中絶した時、この湯が神力によって伊予国道後に移ったと
        申し伝えがある。元和年中(1615-1624)三蒲村旧領主・村上太左衛門の総鎮守として、家臣
        の今田九兵衛が再興する。

        
         西三蒲から見る三蒲集落の海岸線。

        
         周防大島八十八ヶ所40番札所(遍照庵)の本尊は地蔵菩薩。

        
         西三蒲から東に向けて歩を進める。 

        
         三蒲神社参道。

        
         第1種漁港の三蒲漁港には漁船の隻数は多く、1本釣を主な漁法とされているようだ。

        
         出航の準備をされている家族。

        
         お店だったような構えの家が並ぶ。

        
         見るべきものがないためか直線道は長い。 

        
         山に降った雨水をスムーズに海へ流し出す水路が数本ある。

        
         旧道に沿って平入の大きな人家が並ぶ。 

        
         たわわに実をつけた木の先に大畠瀬戸。

        
         三蒲川の上流に標高463mの文珠山。 

        
         永代橋の角に古民家。

        
         スリップ止め用の蓋に周防大島町の町章があるマンホール蓋。

        
         東三蒲地区。

        
         国道437号に合わす。

        
         大洲若宮神社は、往古、大島郡瀬戸に奉斎の一の宮大明神(後に大多満根神社と改称)に
        海神を勧請して龍神社と称したが、江戸期の天保年間(1830-1844)淫祀解除令により廃社に
        至る。
         1872(明治5)年大多満根神社の遥拝所として社殿を建立し、その後、分社して大洲若
        宮神社となる。

        
         民家を改装して宗教団体が入居されているようだ。この先の周防東浜バス停より大畠駅
        に戻る。


平生は南蛮樋が残る町 (平生町)

2021年12月12日 | 山口県上関・平生・田布施町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         平生(ひらお)は室津半島の付け根辺りに位置し、域内の北半部は赤子山南麓にあたり、南
        半部は低地帯で水田が広がる。
         古くは内海で、田布施川をはじめ河川が運ぶ土砂の堆積と、江戸期に開作が行われて低
        地帯を形成している。 (歩行約5㎞) 

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き25分、平生小学校前バス停で下車する。1つ手前の
        横土手バス停と距離に差はないが、路地歩きができる道を選ぶ。 

        
         バス停から引き返して水越交差点を横断し、次の三叉路を左折する。

        
         左前方の森に
野島神社があり、その手前のT字路を右折すると、その先に大野毛利家の
        居舘跡がある。(居館跡、野島神社については「大野」に記載)

        
         生野邸に並んで藤井酒場があったようだが現存しない。

        
         大内川に石柱群が立っているが、家屋の礎石のようで平生町の町並み図では川に沿って
        家並みが記載されている。

        
         桜町筋はマロニエ通りが横断している。

        
         何の商売をされていたのだろうか2階には袖卯建が残る。

        
         説明によると、堀川南蛮樋は江戸末期からの塩浜廃止により、耕地化されていくなかで
        築造された。この地域の防潮と排水機能を維持し、海抜0mに暮らす人々の生産と生活を
        守ってきた。公共下水道整備のため、1993(平成5)年堀川公園に移築されたとある。

        
         三界萬霊塔は、世に生を受けたものすべての霊を供養するものとされ、建立される位置
        は墓地などに多く見かけるが、旅先で亡くなった方や争いが起こらないように願いを込め
        て、町の境に設置されたようだ。

        
         三界萬霊塔横の民家には学校を思わすような門柱があるが、この付近に塩業会所があっ
        たとされ、これに関連するものだろうか。

        
        
         1651(慶安4)年から8年の歳月をかけて、約120町歩の耕地と20町歩の塩浜が完
        成する。また、雨水を排水するために大井川、大内川、堀川、熊川などの人工河川も築造
        された。これらの河川に設けられた樋門は42ヶ所を数える。
         その中で、熊川に設けられた土手町樋門にはオランダ技法が採用され「南蛮樋」と称さ
        れた。1987(昭和62)年大内川防潮水門・排水場の竣工により、約300年間の使命を
        終える。(熊川の河川改修のため移築復元) 

        
         西ノ町入口に旧生永酒場。

        
         酒場の地に平生郵便局があったという。

        
         萬安旅館付近には百十銀行平生支店などがあって平生の中心街であった。

        
         平生町のマンホール蓋。

        
         森本油屋だった建物。

        
         浄土真宗の真覚寺。 

        
         寺の横は神社の御旅所。

        
         地元の方にお聞きすると、真言宗の欣成寺という寺があったとのこと。

        
         こちらの三界萬霊地蔵菩薩は座像である。

        
        
         海の島であった
玖珂島は、江戸期に干拓されて陸続きとなり、干拓地は塩田とされた。
              玖珂島に祀られている玖珂島神社は、竪ヶ浜の荒木大明神から勧請されたともいうが、由
        緒がないため創建年など知り得ず。



        
         右にカーブする地蔵尊の前に「小川今蔵旧家跡」の碑がある。1864(元治元)今の平
        生町曽根の布浦作次郎の6男として生まれ、1888(明治21)年小川家の養子となり、そ
        の2年後、久保白船(自由律俳人で種田山頭火の親友)の姉・武免(ムメ)と結婚する。
         今蔵は麻里府村役場の書記をしており、国木田独歩と知り合い、独歩は「酒中日記」に
        大河今蔵として登場させている。
         その後、1905(明治38)年麻里布村長に就任し、1913(大正2)年まで務めるが、村
        長を辞して1年後に47歳で他界する。

        
         戎町には居蔵造の民家(旧立山建具店)と奥に法輪寺。

        
         法輪寺(浄土宗)の本堂を探し求めるが見つからず。平生開作築造の折、犠牲になった者
        のために玖珂島に1ヶ寺建立されたとされるが、欣成寺なのか当寺かは知り得ず。

        
         熊川(旧水保川)傍にある祠。 

        
         堀川南蛮樋は熊川にある土手町南蛮樋を参考に築造された。ロクロの心棒部分と板戸を
        縄で結び、鉄製ハンドルを手動で回転させることにより、板戸を上下させて海水の防禦を
        図る仕組みになっている。干潮時には板戸を巻き上げて上流からの余水を放流し、満潮時
        には板戸を降ろして下流側からの海水の進入を防ぐ仕組みで、毎日2回樋守によって樋門
        が管理されていた。
         この南蛮樋も下流に排水機場が設置され、その役目を終える。その後、公共下水道整備
        のため解体されることになったが、1993(平成5)年堀川公園の一角に移設復元される。

        
         南蛮樋の脇に平生開作の設計・施工をした「横道忠右衛門豊行顕彰碑」がある。この忠
        右衛門の功績を妬む人物により、1676(延宝4)年12月28日大野字中村において暗殺
        される。(享年48歳)

        
         習成小学校は、1872(明治5)年文部省の学制により、翌年1月大野毛利氏の弘道館を
        上関部第3小学として横土手に開設される。その後、各地区にあった小学を統合して18
        78(明治11)年習成小学と改称された。「習成」という名称は、中国古典の書経にある「
        習与性成
」からとったとされる。
         1914(大正3)年塩田跡地であったこの地に新築移転し、1963(昭和38)年大野・曽
        根小学校を統合して平生小学校に改称する。1966
(昭和41)年大野南に新校舎が完成し
        て移転する。
(説明板より)

        
         人間魚雷「回天」2型の胴体部分(実物)で、光市の武田薬品光工場の敷地から発掘され
        たものである。
         この2型は、1944(昭和19)年12月までに2基がテスト用に準備されたが、深度2
        00mまで耐えるように設計されたが、実際には60mが限度であったという。
         最終的には設計上の問題点が解決せずに放置されたが、艦体のみは200基が完成した
        という。(説明より) 

        
         平生歴史民俗資料館内に、神花山(じんがやま)古墳より出土した頭骨の古代女王復顔像が
        ある。

        
         赤子山に向かって緩やかな坂道を進み、坂ノ下1号函渠を潜る。

        
        
         沼八幡宮の創建について、風土注進案は元仁元年(1224)の春、沼の農民・平右衛門の夢
        枕に海中に漂う宇佐の神が立ち、「此地に跡を垂むと欲て来る也,吾が祭の事を司どら
        しむ者ハ汝なり、汝が姓は水沼なり」と告げた。翌朝、海岸に流れ寄った幣を宇佐の神
        として祀ったのが始まりと記す。

        
         秀厳寺(浄土宗)は毛利就頼(旧吉見政春)が、養子先の養父・吉見広頼の菩提を弔うため
        阿武郡大井村に創設し、広頼の戒名をとって現寺号とする。その後、玖珂郡通津村に移転
        し、1679(延宝7)年現在地に移転する。

        
         境内に入ると左手に案内板があり、その上の段に初代就頼の生母と正室ならびに正室の
        生母のお墓がある。(同じような墓が3基あったので撮影するが間違いかも‥)

        
         墓地の一角から見る平生の町並み。

        
         大野毛利家の墓所は、正面の民家前を左折して道なりに進むと案内板がある。

        
        
         案内によると、ここは海前寺(曹洞宗)の墓地で寺は麓にあったが、1868
(明治元)年阿 
        月の岩休寺へ合併される。ここには2代・就詮(なりあき)ほか10基の墓がある。

        
         下ってくると入口に道標が設置されていた。

        
         国道を横断すると十八割バス停だが、交差点先の十三割バス停は路線が違うようで便数
        が多い。 


平生町大野には大野毛利氏の居館があった地

2021年12月08日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大野は室津半島への出口辺り、大星山の北西に位置する。地名の由来を風土注進案は、
        用明天皇の時、豊後国満能長者の娘・玉誉姫が上洛の途次、鳴門(大畠)の瀬戸で、渦に巻
        かれようとした船を救うために入水した。その供奉の大野帯刀が住んだことにちなむとい
        う。(歩行4.9㎞) 

        
         公共交通機関の利便性が悪いため車とし、大野地域交流センターに許可を得て駐車する。

        
         この一帯に大野小学校、大野村役場、大野産業組合(農協)があり、この地に小学校の講
        堂があった。文部省の学制発布により、1875(明治8)年常春寺を仮校舎にして大野南小
        学が創設された。1904(明治37)年校舎を新築して大野小学校と改名したが、1963
        (昭和38)年大野・習成・
曽根小学校が統合されて平生小学校となり、この地での学び舎は
        役目を終える。

        
         浄土真宗の浄圓寺。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、大野北村・大野南村をもって大野村が発足し、
        この一角に村役場が設置された。1955(昭和30)年平生町、曽根村、佐賀村の4町村が
        合併して村役場が廃止される。

        
         常春寺(浄土宗)はもと宝珠院と号する禅庵であったが、弘治年中(1555-1558)浄土宗に転
        宗して正心寺と改称した。寛文年中(1661-1673)の頃、阿曽沼太郎左衛門の菩提所であった
        鳳安寺(旧塩田村)と合併し、鳳安寺にあった阿曽沼先祖の位牌を当寺に移し、阿曽沼氏の
        戒名から現寺号に改めたという。 

        
         常春寺の長い石垣と白塀、江戸初期の建築様式をもつ2階建ての楼門(山門)が目を引く。

        
         神領川傍に西向き地蔵。

        
         県道伊保庄平生線に出ると、人と勘違いするような出来栄えの人形が据え付けてある。

        
         南蛮樋がデザインされた平生町のマンホール蓋。

        
         板塀で囲まれた民家。

        
         建て替えが進んで古き時代の建物は希少だった。

        
        
         野島神社の由緒によると、万治年中(1658-1661)に完成した平生開作は、多くの島(40
        島)を崩して埋め立てられたといわれるが、その時に野島と玖珂島の2島は残された。開作
        後、野島には厳島大明神を勧請して開作の守護神としたとある。

        
         明神町筋に袖卯建を設けた民家と理髪店の看板が残る。

        
         大内川沿いの法雲寺前にある祠。

        
         法雲寺(真宗)は大内義隆の家臣・友吉九郎左衛門俊明は大野村に住し、田布施町国木の
        正信庵に居住の住臣に2人の娘があって、その末妹を妻とする。妻より法義を勤めし、

        いに剃髪して庵を譲り受けたことに始まるという。

        
         大内川沿いにある旧家。

        
         大野毛利館・弘道館跡の説明によると、大野毛利氏の初代は、岩国領・吉川広家の次男
        で、1612(慶長17)年6歳の時に津和野藩主・吉見氏の養子となり吉見政春と名乗る。
         その後、1637(寛永14)年萩藩主・毛利秀就が、大野村を中心に吉見政春を給領主と
        し、毛利就頼と改めさせて毛利一門に加えた。

        
         敷地内にある祠は蘇鉄が邪魔をして見えないが、正面にある家紋は「一文字に三つ星」
        でなく、吉見氏の「丸に二つ引」のように見える。

        
         1814(文化11)年7代当主・親頼が、居館に隣接して郷校「弘道館」を創設して、家
        臣・子弟の教育を奨励する。居館、弘道館および一門の邸宅は現存しないが、ここ50坪
        余りが大野毛利氏の所有地として残されているとのこと。

        
         弘中農園まで戻って右折する。

        
         入口から車道に並行して大野八幡宮の長い参道が続く。

        
         大野八幡宮の社伝によれば、上古・伝承の時代である5世紀末頃、氏神として天照大神
        を勧請し神明宮として祀った。
         その後、鎌倉期の1215(建保3)年宇佐神宮より勧請、合祀して八幡宮と称するように
        なったと伝える。

        
         普段あまり訪れない地だけに方向が定まらず、大野毛利家
居館跡を探し当てるのに時間
        を費やしてしまう。他に史跡や町並みがあったと思うが、
神社から歩いたルートを確認し
        て駐車地に戻る。


平生町曽根は人間魚雷「回天」の基地があった地 

2021年12月06日 | 山口県上関・平生・田布施町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         曽根は平生湾入口の東岸に位置する。地名の由来を風土注進案は、阿曽山権現が天より
        遥降したため、阿曽根村といい、いつの頃からか「阿」を除き曽根村になったという。(歩
        行約4㎞、🚻交流館) 

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き30分、新地バス停で下車する。

        
         曽根地域の新地、水場、百済部(くたなべ)地区と、佐賀地域の阿多田、田名地区までぶら
        り歩きする。

        
         昭和の時代には割烹旅館、酒場、廻船問屋などが軒を並べていたという。 

        
       
        

        

        

        

        
         通りには繁栄した時代の商家などが散見できる。

         
         県道23号線(光上関線)に合わす。

        
         海に浮かぶ百済部神社は、1893(明治26)年百済部(くたなべ)に伝えられた百済部神社
        をここにあった文島竜神社に合祀された。海の守護神として崇敬され、地元でが明神さま
        ・龍宮さまの呼び名で親しまれているという。

        
         欄干のついた石橋は、もと大野毛利家にあったものと伝えられている。

        
         百済部神社(旧竜神社)の社殿。

        
         1994(平成6)年に完成した田布施町と平生町を結ぶ南周防大橋。

        
         1585(天正13)年に草創された教相寺(真宗)は、現平生町佐賀および百済部集落を経
        て現在地に移転する。(本堂は雨漏り修理中だった)

        
         水路に沿って上流へ向かう。

        
         額束に「百済部神社」とあり。 

        

        
        
         1942(昭和17)年太平洋戦争が勃発すると、旧海軍の軍事基地として設置される。1
        944(昭和19)年大竹潜水学校柳井分校となり、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の基地へと
        変容する。
         入口にある人間魚雷のレプリカは、2006(平成18)年に公開された映画「出口のない
        海」に使用されたものである。(交流館は月曜日休館)

        
         回天基地及び特殊潜航艇の教育機関があった阿多田半島。

        
         半島の根もとにある「回天碑」は、1945(昭和20)年7月18日に平生基地から伊号
        58潜水艦に回天6基が搭載されて出撃し、沖縄海域で5名、訓練中に3名、終戦直後に
        1名が自決する。碑は元基地搭乗員の希望により、阿多田の海を臨むこの地に建立される。
 

        
         神花山(じんがやま)古墳は標高39mの山頂部にある。(駐車場とトイレあり)

        
         古墳は全長約30m、高さ約2.5mの前方後円墳で、5世紀前半に造られたものと推定
        されている。

        
         この古墳は、1944(昭和19)年頂上に高射砲陣地を構築する際に石棺が発見される。
        この古墳人は男性と思われていたが、再鑑定の結果、20歳代半ばの女性と判明する。こ
        の地域に居住していた豪族の女性首長と考えられるとのこと。(石棺はこの地に埋められて
        いる)

        
         山頂より瀬戸内海の島しょが望める。

                 
         残された頭骨をモデルに復元像が作られたが、これをもとに古代女王像が「ふるさと創
        生」事業として建立された。像の高さは台座を含めて10mぐらいで、左手は胸に鏡を持
        ち、「日出づる」東を向いている。

        
         古墳から県道に出ると田名バス停がある。ただし、便数が少ないので事前に時刻表の確
        認を要する。