ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市秋穂の大海は秋穂湾から神社仏閣・小祠を巡る ② 

2024年04月14日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したっものである。

        
         2日目は大海小学校前バス停から海岸通りを北上する。

        
         大海小学校の正門には「創立明治7年(1874)11月23日」の表札と、1924(大正1
          3)
年建立の「報徳」と刻まれた碑がある。
                 正面の二宮尊徳(金次郎)像は、1939(昭和14)年に銅像で建立されたが、先の大戦に
        おいて武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出された。1942(昭和17)年にセ
        メント製の像が設置された。

        
         小学校前の広場に「EARTH and SKY(地球と空)」と紹介された石の作品がある。チェコス
        ロバキア生まれのペーターローラー氏の作であるが、作品のコンセプトはわからないが、
        2つあるので「地球と空」が表現されているのであろう。

        
         浜内会館脇に「小林和作先生頌徳碑」がある。洋画家の小林和作(1888-1974)は富裕な地
        主の家に生まれ、京都の美術学校を卒業して画家となる。1934(昭和9)年に尾道に移り
        住み、以後亡くなるまでの40年間尾道にあって創作活動を行う。
         1931(昭和6)年の経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産整理を行っている。碑文
        には「先生は郷土を愛する念厚く、郷土発展に貢献されること甚大‥」とある。国民宿舎「
        秋穂荘」に和作コーナーが設けてある。

        
         小学校からは海岸通り歩き。

        
        
         小学校東側から旧県道に出ると火除地蔵尊の木祠がある。立像の右手が欠損しているが、
        倒れ防止のため「はめ込め地蔵」となっている。

        
         東側が海ということもあって、台風などによる被害を受けてきた地域である。

        
         旧道沿いには立て管が数十メートル毎に設置されているが、排水システムに關係するも
        のだろうか。

        
         スーパーのある四差路を左折して小道に入り、2軒目の大村宅の西角に「大海小学校発
        祥之地」碑がある。民家から東泉寺、大昌寺の仮教室を経て、1874(明治7)年大海小学
        校として開校したという。

        
         バス路線であるが、県道25号線(宇部防府線)が新設されたため静かな通りとなってい
        る。

        
         旧道から新川右岸を辿ると、厄神社の石祠があるが祭神等は移転したようだ。

        
         新川橋の袂に赤崎宮の灯籠が、樹木に隠れるように立っている。

        
         大海小学校と東泉寺を繋ぐ道に瓦屋根付きのお堂がある。右の地蔵尊は頭部がセメント
        で接着されているが、民家での結婚式に運び出されたためだろうか。
         左の地蔵尊は他地より移転してきたようだが、後に2体に合わせてお堂が建てられたと
        思われる。

        
         ホームセンター向い側にも赤崎宮の灯籠がある。この道は大海小学校から東泉寺へ至り、
        山手を北に辿る「上ん道(うえんどう)」と呼ばれ、バス道路に対応した主要な道であったと
        いう。

        
         江戸期の秋穂は陸路の街道筋はなかったが、秋穂浦から幸田(現山口市秋穂二島)を経由
        する道と、大海峠を経由して東泉寺前を通る道があった。いずれも奥地より海港に出る道
        として、人の往来や物資輸送のために開かれた。

        
         東泉寺(浄土真宗)の寺伝によると、豊前国の大友宗麟の家臣であった森王弥権太夫時乗
        が、宗麟のキリシタン改宗に悲しみ、故国を去って当地に居住する。慶長の頃(1596-1615)
        に上京して剃髪して教善と称し、4代のときに寺号が与えられたという。
         豊後国から山口に攻め込んだ大内輝弘の乱(1569年)と時代が重なるが、関係するか
        否かはわからない。

        
         境内の西側に出ると、六角堂へは並びの悪い石段を上がる。

        
         長徳寺(現大昌寺)の末寺で「江月庵観音堂」と称し、大内義弘(1356-1400)が京都六角堂
                の如意輪観音を勧請して創建したと伝える。堂宇の形から六角堂と呼ばれ、本尊は秘仏で
        21年毎に開帳されて、本寺において供養が行われる。(秋穂八十八ヶ所12番札所)

        
         六角堂の裏手を進むと、旧大海保育園上の墓地一画に妙見社があるが、元は上下に離れ
        ていたという。妙見社は国土を守り、災いを消して人々に福寿をもたらす星の神とされる。

        
                 大海湾と大海の町並み、銀色に輝く球体が見える。

        
         旧大海保育園下にこんもりとした森があり、その中に注連縄が張られた石祠がある。郷
        の森様・幸大明神というらしいが詳細は知り得なかったが、今も大切に祀られている。

        
         県道交差点から海側に下ると、左手に小祠が見える。「森様」と呼ばれているが、土地
        を守る神が祀られているのだろうか。

        
         地区の中心地であったと思われ、店舗の構えを残す家が見受けられる。

        
         大海郵便局近くにある地蔵尊は台座に「三界萬霊」とあり、ここも首がセメントで補修
        されている。1794(寛政6)年に地元の網元が奉納したという。

        
         1994(平成6)年に完成した秋穂大海総合センターらんらんドーム。 

        
         1968(昭和43)年10月に秋穂漁港大海防波堤灯台が設置された。背後の佐波川に架
        かる防府新大橋は、2003(平成15)年に台道南交差点から富海に至る県道58号線(防府
        環状線)の一部として設けられた。

        
         大海漁港と思い込んでいたが、行政上は秋穂漁港(大海地区)とされ、管理者は山口市と
        のこと。

        
         1955(昭和30)年代の海岸保全工事と漁港修築工事は、関係地区の人々にとって台風
        被害の減少など受益するところが大きかった。(この先に浜中墓地) 

        
         浜中墓地の一画にある「福田先生之墓」は、1874(明治7)年大海小学校開校当時の主
        任教師だった福田微の墓である。教え子たちによって建てられたというが、慕われた心が
        墓標に刻まれている。

        
         山口県漁協大海支所の直売所。大海浦の漁業は秋穂浦より遅れて始まったが次第に隆盛
        となり、1878(明治11)年には大海浦魚市場が設けられた。日露戦争終了後の1905
          (明治38)年頃には、大海浦の漁家9割が専業で、漁家の多くが福岡県や長崎県沖まで遠洋
        漁業に進出するようになったという。
         現在は直売所と海鮮丼などを食する施設が併設されているが、常時ではないようなので
        事前に確認を要する店のようだ。

        
         漁村集落特有の海への細い路地が区画されたように設けてある。

        
         石碑の刻字は風化してはっきりと読めないが、大海浦漁業組合の記念碑のようだ。碑文
        には「大正5年(1916)3月元村営なりし大海漁海市場を大海浦漁業組合の経営となす。大
        正6年2月大海浦漁業組合に養殖場の件を認可せらる」とある。左には大正十年(1921)六
        月建立された旨の刻字がみられる。 

        
         浜中天神バス停があるので近くに天神社があるのでと探すと、記念碑のある広場に灯籠
        があり、「天満宮」「慶応元(1865)乙丑一季十月廿五日」とある。公園広場になっている
        が、社殿は台風で大破し、正面の保管庫で祭神が祀られているとのこと。
         古くは天御中主神を祀っていたが、宝暦年間(1751-1764)太宰府天満宮より勧請し、一時
        新川の疫神社に併祀されていた。1802(享和2)年今の地に移して祀るようになったとい
        う。

        
         無住のようだがトタン屋根の民家も少なくなった。

        
         1900(明治33)年山陽鉄道の大道駅が開業すると、幹線道路であった秋穂港ー大道間
        の道路改良が進められ、1925(大正14)年竣工したが、この道幅になったかどうかは定
        かでない。 

        
         赤いちゃんちゃんこに赤頭巾をかぶり、老夫婦のような姿をみせる微笑ましい地蔵尊。

        
         路地を抜けると出雲神社。その昔、疫病が流行したのを機に、出雲社を勧請して社を建
        てて祈願したという。

        
         大河内バス停よりJR大道駅に戻るが、バス停前に小さな地蔵尊が祀られている。19
        72(昭和47)年9月に3歳の子が、同所で飛び出し事故により亡くなり、その供養のため
        建立されたという。


山口市秋穂の大海は秋穂湾から神社仏閣・小祠を巡る ① 

2024年04月13日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         大海(おおみ)は大海山(亀尾山)の東側に小浜山、赤石山などの小山塊があり、これらの山
        地や小山塊の間に、日地・金山領・青江などの低地や中条・赤崎・中道などの台地がある。
        大海湾に沿って大河内から北条にかけては、低地に乏しく山地に続く山麓斜面が海岸近く
        に迫っている。
         1879(明治12)年大海村と青江村を合わせ秋穂東本郷村となるが、町村制施行により、
        秋穂西本郷村と合併して秋穂村に移行する。(歩行1日目約4.6㎞、2日目約5.8㎞)

        
         JR大道駅から防長バス秋穂漁港行き約15分、金山領バス停で下車する。

        
         金山領と青江の境にある親子地蔵(三界萬霊塔)

        
        
         正面に日地山(左)と赤石山、堰き止められた約40ヘクタールの青江湾を見ながら、約
        1.3㎞の日地崎線を歩く。

        
         東岸から見る堤防だが、車の往来が可能な広さである。

        
         青江湾締め切り堤防東側の山手にある工事記念碑。海に向かって表面には「記念碑 山
        口県知事小沢太郎書」、裏面に「締め切り工事 昭和31年(1956)2月着工、昭和32年
        3月2日完工」とあり。

        
         青江湾内は台風の度ごとに大きな被害を受けたが、1955(昭和30)年の第22号台風
        による被害が大きかった。そこで湾口部分を東側の日地山と赤石山を結ぶ延長483メー
        トルを防波堤で締め切られた。 

        
         この川は塩田の入川だったようで、河口部が締め切られたため土砂の堆積が進んできた
        とか。

        
         「日地の石風呂」への案内板向い側に、ひっそりと佇む石仏がある。台座正面に三界萬
        霊、右横に天保5年(1834)7月24日、左横に松永栄蔵(塩田主)とある。

        
         地蔵尊から橋を渡ると、「日地の石風呂」を管理されている家の奥様に案内していただ
        く。説明によると、1862(文久2)年に築造されたもので、塩田労働者をはじめ多くの人
        々が利用した。築造主は青江浜主の栄楽屋・松永栄蔵である。
         奥様から石風呂の周りは山続きで、樹木の根っこが石風呂内に伸びて傷めないように、
        年1回私どもが内部を燃やして保存に留意しているとのこと。

        
         入口上の小石に掘り出しがある。右は胸に薬壺を持つ薬師像で、左は右手に五鉾杵を持
        つ弘法大師像である。入口の左上方にも小さい薬師像が祀られている。

        
         「日地の石風呂」から右の木段を上がると、3個の石造物がある。右側が入山戸明神社
        の石祠で、1741(寛保元)年にこの地を開いて塩田を造り、浜の宮を建立して塩田の守護
        神とした。中央にあるのが恵比須社の石祠、左側には「一畑薬師如来」と刻まれた石祠で
        ある。
         この3基は青江塩田の守護神の森にあったもので、塩田廃止に伴いこの地へ移された。
        青江塩田は秋穂塩田、防府塩田などとともに、1959(昭和34)年国の第二次塩業整備に
        より廃止された。

        
         赤崎へ続く道の途中に「親政地蔵菩薩」が祀られていたが、祠だけが残されて地蔵尊は
        存在しなかった。祠のある家の方にお聞きすると、どこに移されたかは知らないという。
         安曇野でみられるような道祖神スタイルで、一見に値するとのことであったが残念であ
        る。

         
         路地を抜けると秋穂八十八ヶ所47番札所で本尊は地蔵菩薩である。お堂は地区公民館
        に併設されていたが、2001(平成13)年に新公民館が他へ竣工したため 、後にお堂が建
        て替えられたようだ。

        
         県道25号線(宇部防府線)に合わす手前で右折する。

        
         日地から赤崎地区に入る。旧大海村は大河内、赤崎、日地など13の小名がある。 

        
         亀甲模様に旧秋穂町の町章が入った集落排水用のマンホール蓋。

        
         赤崎公民館前に鎮座する北向き地蔵尊は、昔から縁結びの地蔵尊として親しまれてきた。
        現在の結婚式はそのほとんどが自宅外で行われているが、1950(昭和25)年頃までは自
        宅で行われていた。
         花婿の傍に花嫁が座り、結婚の行事が進められ最高潮になった頃、地元の若者に抱えら
        れて参上し、新郎新婦の前に地蔵尊を座らせる。今日から花嫁はこの家で、お地蔵様のよ
        うにどかっと腰を据えられるようにとのことらしい。地蔵尊は一晩夫婦の元で一緒に過ご
        し、翌日、2人で地蔵尊を元の場所に戻すことになるが、この地蔵尊も結婚式の時期には
        活躍したものと思われる。

        
         そのためか右の地蔵尊の頭部はセメント、左の地蔵尊は左肩裏が欠損しているという。
        中央は三界萬霊塔である。

        
         赤崎神社は、奈良期の727(神亀4)年に豊前国宇佐嶋よりこの地に鎮座したと伝える。
        古来より牛馬安全・海上安全守護の神として崇敬され、阿知須の赤崎社、長門の赤崎社な
        どに分霊が祀られている。

        
         平安期の1185(元暦2)年3月20日、源義経が平家追討のためこの浦に着船し、赤崎
        神社に詣でて朝敵退治を祈願し、鎧を奉納したという。
         鎧は年代を経てほころびて原型をとどめないが、義経が出陣するにあたり、汐待ちをし
        た石と伝えられる平らな石が、本殿に向かって左手にある。

        
         神社の西側に2つの池があり、共に蓬莱竹が植えられた中島がある。中つ島に宗像大明
        神、遠(おき)つ島に厳島大明神を移したとされる。そのためか池に鳥居が立っている。

        
         赤崎神社裏から山手に向かうと大昌寺(曹洞宗)がある。鎌倉期の1244(寛元2)年に大
        内弘貞が創建したと伝える。もとは赤崎神社の別当坊で長徳寺と称していたが、1870
        (明治3)年秋穂町中野にあった定林寺を合併する。その寺跡に下関市壇ノ浦にあった長徳寺
        を引寺して長徳寺と称することにしたが、同じ寺号では困ることもあろうと大昌寺に改め
        たという。

        
         山門入口に「不許葷酒入山門」碑があるが、野菜(ニラ・ニンニク類)や酒を口にした者
        は、心を乱し修行の邪魔になるので、寺の中に入ることは許さないというものである。

        
         九層の屋根を持つ石塔は、自然石上の台石に「寛政八丙辰(1796)八月吉日 三田尻中濱
        ・村屋兵蔵・祖母」とある。 

        
         宝篋印塔の塔身部は三方がくり抜かれ、中に小さな首なし地蔵2体が座る。背面には「
        無盡(尽)法界 有縁無縁塔 文政五年壬午(1822) 五月吉日」とある。
         隣の地蔵尊は正面に「法界」、右側に「安永六丁酉(1777)正月吉日」とある。石段下に
        あるお堂は秋穂八十八ヶ所13番札所、上にあるのが14番札所で、六角堂の北側付近あ
        ったものを境内に移したとされる。

        
         赤崎神社に戻って参道を下ると、両脇には約60基の石段積み灯籠が並ぶ。

        
         参道入口には総高6m近くある灯籠がある。重厚な笠と中台には「海上安全」と刻まれ、
        竿の部分に「明治二年己巳(1869)八月」とある。


岩国市長野は小瀬上関往還道筋の集落

2024年04月10日 | 山口県岩国市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         長野は峰山東麓の長野川流域に位置し、東は瀬戸内海に面する。海岸に平地は少なく、
        長野川流域に少し平地がみられる。
         小瀬上関往還道は、岩国市小瀬から上関町まで全長15里(約60㎞)、通津から長野の
        辻堂峠を越え、生屋(しょうや)に出て由宇川沿いを経て長田尻から柳井市日積へ至っていた。
         1889(明治22)年の町村制施行により、長野村と通津村が合併して通津村となる。昭
        和の大合併で岩国市に編入されて今日に至る。(歩行約6.8㎞)

        
         JR由宇駅は、1897(明治30)年広島ー徳山間の開通と同時に開業する。駅前に出る
        と笠塚カープ練習場行きの防長バスが待機している。

        
         駅から生屋バス停まで約8分のバス旅である。

        
         この辺りは旧由宇町で、町の花「ユリ」を中心に町の木「カエデ」がデザインされたマ
        ンホール蓋。

        
         県道149号線(柳井由宇線)を山手に進み、小瀬上関往還道だったと思われる県道14
        1号線(祖生通津停車場線)を通津方面へ向かう。

        
         坂を上り詰めると右手に教覚寺(真宗)

        
        
         岩国市高森にある受光寺末寺とされ、室町期の1495(明応4)年創建開基と伝える。
        1902(明治35)年現在地に寺地を開き、翌年に本堂を建立して今日に及んでいる。最初
        の梵鐘は戦争中に供出し、戦後に作った梵鐘は材質が悪くひび割れしたため、1997(平
          成9)
年に鐘撞堂及び梵鐘すべてを作り直したという。

        
         長野上地区の舞々集落。

        
         長野上の火伏地蔵尊。

        
         高台から教覚寺方向を望むと、遠くに瀬戸内海が望める。

        
         坂を上がって行くと長徳寺入口を示す案内がある。

        
         長徳寺(臨済宗・永興寺末寺)は中世に創建された古寺であったが、吉川氏入封の時には
        衰微して住職もいなかったので、堂宇を解体して普請用木に流用されたという。
         1684(元禄7)年堂宇が再建され、寺領10石が付与されたが、現在は無住のようで周
        囲は荒れ放題である。

        
         境内から瀬戸内海を望む。

        
         道端に石仏が見られるが、道しるべとされた地蔵尊か? 

        
        
         通津小学校通西分校と案内されているが、1879(明治12)年長野小学として創立され
        る。のち通津小学校の分校となり、1997(平成9)年に休校となる。

        
         小瀬上関往還道がどの道なのかわからず終いとなる。

               
         河本先生碑とあるが、1902(明治35)年に小学校が山崩れで倒壊し、河本慶三郎校長
                が殉職されたが、それまでの功績を称える碑のようだ。

        
         石仏から下って県道を横断して長野川に出る。

        
         長野川を渡って向いの山を上がって行く。

        
         1906(明治39)年の神社合祀令により、長野地区9つの小規模神社や荒神様などが合
        祀させられ、杵築(きづき)神社となる。

        
         注連石、鳥居や灯籠が多いのは、この社に集められたことによるという。右手には明治
        32年(1899)に建立された鳥居。 

        
         内務省令により「神社は基本財産2,000円以上有すること。これに足らない場合は合
        併してこれを満たすこと」との通達を受けて、大歳神社(5ヶ所)・杵築神社・疫神社・鎮
        守社(2ヶ所)の9社を菅原社に合祀する。
         参拝するのに便利さと広さを考慮して、菅原社(通称長野天神)に合併されたが、社は未
        登録社であったために登録済みの杵築神社とし、名目上の基本財産をクリアして届け出た
        という。

        
        引き返して長野川に沿うと長野中の集落。

        
         再び山裾を上がって行くと墓石が並ぶが、この付近に知足寺という寺があったという。
        1779(安永8)年頃に「知足庵」として再興されたが、檀家がなかったため廃寺となり、
        のち景福寺に合併された。

        
         長野中の火伏地蔵は農道あたりにあったようだが、道ができたため移動させられた。 

        
         四反田バス停付近だが、県道が往還道だったかどうかはわからない。 

        
         擁壁に石仏。

        
         蓮華花、菜の花と桜を見ながら旧道を下る。

        
         長野入口に出る。

        
         国道188号線を柳井方面へ向かうと、大きな桜の木の下に火伏地蔵尊と厄徐地蔵尊。

        
         長野尻火伏地蔵尊は、嘉永年間(1848-1854)に長野尻地区において火災が続き、地区内協
        議の結果、火伏地蔵尊を祀ることとなった。四国八十八ヶ所霊場第19番立江寺より勧請
        し、現在地より10メートル奥地に安置すると、当地から「ボヤ」など火災もなくなった
        という。
         風水害により現在地に移転したが、1964(昭和39)年国道拡張により一部が国道とな
        る。その補償金で鉄骨のお堂を建立し、記念として桜の木を植えたという。隣の祠は脇地
        蔵尊と厄徐地蔵尊とのこと。

        
         国道筋からJR通津駅に出る。


防石鉄道(防府-堀)の鉄道敷跡を巡る (防府市/山口市徳地) 

2024年04月07日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         防石鉄道は、かつて防府市と旧佐波郡徳地町堀の間を結んでいた鉄道である。当初は周
                防と石見を結ぶ路線として「防石」と名付けられたが、第一次世界大戦による物価高騰に
        より、資金調達と工事ははかどらず、やがて国鉄山口線が開通したため陰陽連絡の夢は破
        れた。中関への延長も実現せず、防府ー堀間が開通したのみとなるが、モータリゼーショ
        ンの進行には勝てず、1964(昭和39)年に廃止される。

        
         防府から堀まで約20㎞もあることから、レンタサイクルでの対応とし、佐波川左岸を
        サイクリングする。

        
         駅北口の西側辺りに防石鉄道の駅があったとされるが、公園化されて痕跡は残されてい
        ない。

        
         当初の計画路線は新橋から佐波川を渡り、右田市を経て石州街道沿いの鈴屋・奈美・岸
        見など人家密集地に敷設される予定であった。
         しかし、資金難であったことで土地・人家の買収は難しく、この路線を残念して人家の
        少ない佐波川左岸に敷設せざるを得なかった。(防府市八王子1丁目付近)

        
         山陽本線沿いの鉄道記念広場には、1894(明治27)年製造のドイツ・クラウス製2号
        機関車が展示・保存されているが、開業にあたって川越鉄道から譲り受けたとされる。当
        初は130号機関車とともに活躍し、1919(大正8)年7月の開業時から廃止までの45
        年間走り続けた唯一の機関車である。

        
         この広場は、1996(平成8)年の鉄道高架事業によって従来の鉄道敷地跡に建設された
        もので、そこには山陽線の鉄路がそのまま残されている。
         迫戸(せばと)児童公園にあった機関車と客車は展示に先立ち、JR幡生工場で整備修復さ
        れた。

        
         保存されて客車2両は「ハ6」と「ハニフ1」である。ちなみに「ハ」は普通車(3等
        車)、「ニ」は荷物、「フ」車掌室のある車両で、数字の1~6は2軸式ボギー車という。

        
         ハニフ1の車両内部だが、運よく防石鉄道のOB会によって清掃中で内部を拝見できた。
        普段は落書きなどもあって施錠されているとのこと。

         
         開業当初は1日6往復、所要時間55分で運賃は70銭(大正期の白米10㎏が約1円
        78銭)だったが、山間を走る防石鉄道は、当初から赤字続きであったという。(鉄道公園
        入口) 

        
         鉄道敷地跡は公園道路として整備され、新橋の旧山陽道が合わす手前まで整備されてい
        る。

        
         高倉荒神社の由来について、飛鳥期の611(推古天皇19)年百済国の琳聖太子来朝の際、
        航海安全の守護神として高倉の地に祀られる。
         のち大内氏が山口に本拠を置くと、荒神社は現山口市平川に遷座する。1885(明治18)
        年現在地に分霊を還座させて、1964(昭和39)年社殿を新築したとある。

        
         浄土真宗の福宝寺には珍しい山門がある。

        
         右にカーブしながら国道262号線に合わす。当時は田園地帯の中を走っていたと思わ
        れる。

        
         国道を横断するとタクシー会社付近に周防宮市駅があり、車庫と工場が併設されていた
        という。この先、鉄道線路敷地は県道184号線(三田尻港徳地線)に変更されて今日に至
        る。 

        
         歩車分離でないため佐波川土手を北上する。この時期は芝桜と桜見ができる。

        
         萩往還道が交差する付近に、1946(昭和21)年頃まで船本駅があったというが位置は
        特定できず。

        
         現天神山森林公園から競輪場入口付近まで急勾配で、15.5/1000の勾配であったという。 
        (1000mの区間で15.5m高くなる)
         勾配を上るときは蒸気圧一杯上げ、そして煙を一杯吐き出すことで、人々はこの情景を
        会社の懐具合をからめて、上るときは機関車の音が「シャッキン、シャッキン‥」(借金と
        いうちょる)とか、「オリテオッセ」(降りて押っせ)、下り始めると勢いがついて「カッ
        チャーソン、カッシャーソン」(借っちゃ損)などとおもしろおかしく表現したが、悪口を
        尻目に軽やかに走ったという。

        
         人丸駅があったが痕跡は残されていない。

        
         矢筈公園入口付近の鉄道跡。佐波川自転車道でないため歩車分離されていない。

        
         佐波川土手はダイコンの花。

        
         真尾集落に入り普明寺川を渡る(鉄橋だったと思われる)と、真尾駅跡にホームの痕跡が
        残されている。

                

        
         真尾駅跡を過ごすと右手に旧真尾小学校跡(現真尾公会堂)。 

        
         自転車道が合わすと歩車分離になるが、真尾と奈美間(現在JAライスセンター付近)は
        16.6/1000あったという。

        
         山裾に六地蔵。
 

        
         ウオーキング中の女性にお聞きすると、この付近に奈美駅があり、奈美の住人は渡し舟
        を利用して汽車に乗ったという。1920(大正9)年に下和字駅を奈美駅、これまでの奈美
        駅を上和字駅に改称する。

        
         女性によると黒瓦の住宅の先に唯一のトンネルがあったという。工事は小野村和字の大
        歳トンネルから始まり、1919(大正8)年に防府ー和字間(約11.3km)、翌年に和字―
        堀間(7.4km)が開通する。

        
         上和字駅(旧奈美駅)に残るホームの石垣。

        
         虹橋から見ると山裾がはみ出しており、急勾配の連続だったと思われる。

        
         久兼川と久兼集落。

        
         15/1000を超える旧勾配が8ヶ所もあったという。

        
         徳地岸見の野尻集落に入る。

        
         左手に見かけることが少なくなった蓮華畑。

        
         野尻バス停は岸見駅があった場所である。

                

        
         奥畑駅周囲に人家はないが、渓谷に沿うと2.5km先に奥畑集落があり、1942(昭和
                   17)
年に開業する。(防府から14.5km地点)

        
         奥畑駅から樋渡川の先にある根啼山の裾野も急勾配だったようだ。

        
         伊賀地集落に入るが、その手前の山裾に「林滝野(1877-1966)」の文学碑を見落とす。
        滝野は徳地伊賀地の新田にある旧家に生まれ、私立徳山女学校の在学中に教員だった与謝
        野鉄幹と恋愛関係に陥る。1899(明治32)年10月滝野と鉄幹は家族の反対を押し切っ
        て駆け落ちをし、鉄幹と共に雑誌「明星」を創刊、初期の編集発行人となった。
         しかし、鉄幹の浮気性が続いたため滝野は愛想を尽かし、1901(明治34)年離別し、
        後に4歳若い詩人の正富汪洋(おうよう)と結婚する。
         文学碑には「詩天九重 与門大学」と刻まれているとか。

        
         山口市徳地の「伊賀地(いかじ)マップ」によると、バス停が駅だったと記されている。 

        
         バス停傍にある小さな祠。鳥居には「文政」とあるが以下は読み取れず。

        
         船津の地名は佐波川通船ができる以前から川渡しがあったことによるという。船津バス
        停に山根駅があったとされる。

        
         伊賀地小学校は、1874(明治7)年伊賀地島ヶ瀬に開校する。その後、出雲台小学校の
        分教場、伊賀地簡易小学校などに名称変更してきた。1955(昭和30)年町制施行により、
        徳地町立伊賀地小学校と改称する。
         しかし、児童数減少などを受けて、1971(昭和46)年に堀、岸見、伊賀地、御所野の
        4校を統合し中央小学校となる。(現伊賀地ふれあいの館) 

        
         大元神社の祭神は国常立尊で国土の守護神とされる。創建年月は不明とされるが、芸州
        厳島の大元宮より勧請されたと伝える。

        
         沖の原について風土注進案は「山端ばかりに家があって、沖の方は野原であった」とあ
        るが、当時の佐波川は思うがままに流れ下り、氾濫原として形成された地域である。
         ここバス停にあった沖の原駅は、1931(昭和6)年に新設されたものである。

        
         曹洞宗の西宗寺は、鳥井ヶ瀬にあった西方寺と伊賀地村西大津にあった深光寺、堀の宗
        徳寺が合併して西宗寺となる。1876(明治9)年春に現在地へ移転する。
         山門左手に市指定の天然記念物ヤマザクラがあるが、桜特有の病気にかかったようであ
        る。

        
         境内から走る列車が見えたのであろう。

        
         三田尻―堀間には佐波川に流れ出る支流が多くあり、真尾川、久兼川、樋渡川など5m
        以上の橋が8ヶ所あったという。その中でも島地川橋梁が一番長かったようだ。
         当初は資金の関係で一部鉄橋、一部木橋という鉄木混合であったという。鉄橋は国鉄か
        ら払い下げを受け、トラス構造の連弦橋に架け替えられた。

        
         橋の袂に鎮座する北向き地蔵は、鉄橋を渡る汽車を眺めたことであろう。

        
         島地川の先に堀の中心地と要害岳。

        
         線路は右の土手下にあったものと思われる。

        
         右手の建物付近に終起点に堀駅があったという。
           路線距離 18.8km
           軌  間 1,061㎜
           駅  数 12駅(終起点駅含む)
           複線区間 なし 

        
         駅前だったという友景旅館。高い運賃であったが佐波川流域の住民にとっては、交通の
        便利さに加え、山村から産出する木材、木炭、農林物産、和紙などの運搬には貴重な存在
        であった。


下関市高畑から壇ノ浦と野久留米街道を巡る

2024年04月02日 | 山口県下関市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         高畑は霊鷲山(りょうじゅせん)の南麓、前田川上流域の山間に位置する。地名の由来につ
        いて長府旧蹟案内によると、平家の残党が当地に隠棲し、平家は赤旗であるため赤旗と称
        していたのが、高畑に転訛したものという。
         壇ノ浦は関門海峡の東口、早鞆の瀬戸の下関市側の海岸部に位置する。(歩行約7.9km)

        
         JR長府駅からサンデンバス下関駅行き約8分、城下町長府バス停で下車する。

        
         壇具川に沿って功山寺まで進む。

        
         兼崎地橙孫(1890-1957・本名は理蔵)は山口市に生まれ、第五高等学校(現熊本大学)へ進
        学する頃には、荻原井泉水の「層雲」に投句を始める。卒業後は京都帝国大学法科に進学
        し、卒業後は弁護士となる。しばらくして下関市に住み、弁護士業の傍ら創作活動を開始
        するが、下関空襲により被災して徳山市に疎開したが病に倒れる。
         書家でとしても知られており、この句も六朝体の書で刻まれている。
                 「虹の弧に 故郷の山河 収めたり」

        
         功山寺山門の左手に「回天義挙之所」の碑がある。1864(元治元)年12月15日の夜
        半、高杉晋作が長州藩の俗論派を打倒するために挙兵する。功山寺に結集したのは84名
        で、死を覚悟した高杉は、大庭伝七(白石正一郎の弟)に遺書を託し、功山寺に下野してい
        た三条実美ら五卿に挨拶を済ませて、下関新地会所を襲撃する。

        
         功山寺門前から辻堂峠への道は緩い上りで、長府の町を外れるため山間の道である。

        
         野久留米街道(山陽道の一部)は功山寺から前田に抜ける道だが、藩政時代には政事の中
        心地長府と、商業と港町赤間関を結ぶ大動脈であった。
         決起した高杉晋作たちも、あるいはこの道を走り抜けて赤間関の新地会所に向かったの
        かも知れない。(見返って撮影)

               
         壇具川の脇に「軍神広瀬中佐亡友展慕記念碑」がある。軍神広瀬武夫中佐とは、日清・
        日露戦争に従軍した軍人で、1904(明治37)年の日露戦争において、旅順港閉鎖作戦を
        指揮していた福井丸から撤退することになった際、行方不明となった部下の杉野兵曹長を
        探した結果、自らもロシア軍の砲撃で戦死する。
         この碑は、1894(明治27)年に広瀬中佐が日清戦争出征の際に、その前年に病死した
        海軍兵学校時代の親友・福田久槌の墓参に訪れたことを記念して、1935(昭和10)年に
        建立されたとある。

        
        
         小さい橋を渡ると右手の道路脇に「庚申塚」がある。いつ頃に祀られたかはわからない
        そうだが、街道を行き交う人々を静かに見守ってきた。(まだ上り坂) 

        
         左手にパルク浜浦台を見ると下り坂に入る。

        
         高畑への別れ道の手前に温水地蔵が祀られている。祀られた年代は不明とされる。 

        
         高畑への道に入る。

        
        
         僧都地蔵の水(霊鷲山の湧水)について、僧都地蔵菩薩は長府毛利公に仕えた岡田栄蔵直
        水が参勤交代のおり、渓谷湧水の清水を主君に捧げると満悦格別の詞を賜る。
         国許のこの地より薬水が噴くのを見て、地蔵尊を刻み、平家末裔の生活守護菩薩とし、   
        「丘の一杯水」と名付けられたとか。

        
         曲りくねった道を進むと、一部関門海峡が見える場所がある。

        
         山間の里である高畑は、壇之浦合戦で滅んだ平家の落人が隠れ住んだところといわれて
        いる。平家塚はその落人の墓と伝えられている。

        
        
        
        
         古い五輪塔が6基のほか墓石がひっそりと佇んでいるが、3基のみ拝見できた。市道の
        向い側にもあるようだが、時間の関係で霊神社側のみとする。
         ここは「平家やぶ」といわれ、かつてはここに一歩でも入ると、祟りがあると恐れられ
        ていたという。

        
         壇ノ浦の戦いで傷ついた平家の落武者が、平家の赤旗をかけた松があったという。現在
        の松は、1976(昭和51)年に寄贈植栽されたというがわからなかった。

        
        
         平家の落人の霊が祀られているという霊神社は、初め平家塚の近くにあったが、明治の
        中頃の大火でこの地に移され、2つの祠も新しく建立されたようである。
         一対の灯籠には、寛政元年(1789)と刻まれ、狛犬と奥の灯籠は、1907(明治40)年頃
        に忌宮神社へ合祀された旧高畑八幡宮にあったものという。

        
         最奥部の集落と光證寺。
 
               
         前田までは1本道で民家などは存在しない。

        
         前田までは1本道で民家などは存在しない。

        
         前田簡易郵便局前に出て前田集落に入る。 

        
         地元の方に貴船神社の場所をお聞きすると、右側を見ながら下って行くと、鳥居がある
        ので見落とさないようにとのことであった。

        
         由緒によると、平家の大将・平知盛は、西下にあたり京都鞍馬山に鎮座する貴船神社よ
        り勧請して、貴船尻に祀ったという。後世、長府毛利氏の命により、火の山の中腹を霊地
        と定めて祀られて今日に至るという。

        
         曹洞宗の慈雲寺。

        
         前田集落から壇ノ浦に出る旧山陽道は、この国道9号線よりも、5ないし10数メート
        ル高い山裾を縫うように通っていたようである。今はこの道を辿ることはできないが、現
        在の国道9号線ではないことだけは確かである。 

        
        
         壇ノ浦の戦いは始め平家側が有利であったが、潮の流れが逆になると形勢は逆転して源
        氏の勝利に終わる。この戦いで平家側のある者は捕らわれ、また海に落ち傷を負いながら
        岸にたどり着いた者もいた。
         そのうちの武将一人は、傷を負いながら命がけで岸に泳ぎ着き、あたりを見渡すとわず
        かな水溜まりを見つけて、その水を手のひらですくい喉を潤したという。武将にとって命
        の水とも思えるもので、2度目を口にしたところ、大きくむせて吐き出してしまった。不
        思議なことに真水は塩水に変わっていたといわれる。(平家の一杯水の説明より) 

        
        
         壇ノ浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしたが、四ヶ国艦隊に大敗してしまう。
        外国の進んだ軍備に目覚めた長州藩は、開国・倒幕へと転換して明治維新を実現する原動
        力となる。壇ノ浦は、武家社会の出発点となった源平合戦からおよそ700年後に、はか
        らずも武家社会を終わりに導く歴史の転換の舞台となった。
         長州藩の加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球状の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて
        損害を与えるものであったが、連合艦隊の新しい大砲は、距離・威力ともはるかに優れた
        ものであった。
         これは長州藩の安尾家に伝わる20分の1の模型を参考に、原寸大に復元されたレプリカ
        である。

        
         天保製長州砲は、1844(天保15)年萩藩の鋳砲家・郡司喜平治作とされ、1864(元
        治元)年の関門海峡での攘夷戦において、下関海岸砲台に装備された青銅砲は、すべて戦利
        品として運び去られた。
         フランス政府の好意により、1984(昭和59)年6月に貸与という形で里帰りし、フラ
        ンス政府の了解を得て原寸大かつ精密に模造されたものである。

        
         作家・松本清張は、幼少期(11歳まで)を下関の壇之浦で過ごした。自叙伝的小説「半
        生の記」には「家の裏にでると、渦潮の巻く瀬戸を船が上下した。対岸の目と鼻の先には
        和布刈神社があった。山を背に鬱蒼とした森に囲まれ、中から神社の甍(いらか)などが夕陽
        に光ったりした。夜になると、門司の灯が小さな珠をつないだように燦めく」という一節
        が刻まれた文学碑が建てられた。中央に空けられた穴からは、対岸にある和布刈神社(小説
        「時間の習俗」)の舞台が望める趣向になっている。 

        
         平家の末路は、屋島の戦い後に瀬戸内海の制海権を失い、長門へと撤退するが、源範頼
        軍に九州を制圧されたことで包囲される形となる。
         1185(元暦2)年3月24日に関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた。彦島を根拠
        地とした平知盛軍は、田ノ浦へ進めば、源氏軍は満珠・千珠の島影より兵を進める。紅白
        (赤旗は平氏、白旗は源氏)入り乱れて死闘数刻、平家一門は急潮に敗走する。
               今ぞしる 身もすそ川の 御ながれ
                   波の下にも みやこありとは (長門本・平家物語) 

        
         公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで、早鞆の瀬戸といわれ、その幅700メ
        ートルにすぎないが、潮流も一番早く関門海峡の景色が堪能できる場所である。国道9号
        線を挟んで向かい側に、関門トンネル人道口がある。  

        
         1939(昭和14)年に試堀隧道が完成し、同年から10ヶ年継続事業として本隧道に着
        手した。この間、第二次世界大戦もあって困難を極めたが、1944(昭和19)年12月全
        線の導坑が貫通する。
         しかし、終戦間近の6・7月に戦災を受けて工事は一時休止となったが、1952(昭和
        7)
年に有料道路として工事が再開され、1958(昭和33)年3月9日開通の運びとなる。
        
        
         昭和の初期には、早鞆の瀬戸にトンネルはできないといわれていたが、世界的な視野か
        ら研究されて出来ぬことはないと決断したのが、関門国道建設事務所の初代所長であった
        加藤伴平氏である。
                人の才を集めて成りし水底の
                     道にこの世はいやさかゆかむ 

        
         陸路の輸送力を拡張するため、トンネル開通から15年後の、1973(昭和48)年11
        月に開通した関門橋。 

        
         立岩稲荷の正面海中に烏帽子岩という注連縄のかかる立石は、立石稲荷の御神体とされ、
        毎年12月10日に航海安全と豊漁を祈願して、重さ20㎏の注連縄交換が風物詩となっ
        ている。 

        
         国道を挟んで山側にへばりつくようにあるのが立石稲荷神社。平家が西下したとき伏見
        稲荷の分霊をここに祀ったといわれている。(みもすそ川バス停よりJR下関駅)