ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市西浦の黒山周辺の史跡と小行司渡し 

2023年12月13日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         西浦(にしのうら)は佐波川河口の左岸、防府平野の最西端にある田島山の西に位置し、大
        海湾に面する。
         古くは佐波川河口に浮かぶ田島のうちで、黒山や女山(めやま)を中心に開けた地であった。
        1628(寛永5)年潮合開作の築立によって内陸部と陸続きになる。地名は田島の小泊に対
        し、島の西の浦であることに由来する。(歩行約8.7㎞、🚻なし) 

        
         JR防府駅南口(8:00)から防長バス小茅行き約25分、半田山バス停で下車する。

        
         吸江寺(曹洞宗)は田島がまだ孤島であった頃の大内氏全盛期(1354-1551)に、域内の上村
        に堂宇があったというが開基の年代は定かでない。
         1744(延亨元)年山口市小鯖の禅昌寺10世が吸江庵を隠居寺としたのをもって開山と
        され、明治になって現寺号に改められた。1985(昭和60)年2月に寺院を焼失したが、
        1993(平成5)年に現在地に再建されたという。

        
         江戸期の宮市道とされるが一部消滅した箇所がある。 

        
         江戸期には西浦から防府宮市に至る道は「宮市道」と呼ばれ、起点であった立石土手に
        「里程標」が設置されていたという。
         しかし、長い年月の間に忘れられて土手下に埋没していたが、2006(平成18)年の丸
        山道路拡張工事で発見され、昔、建てられていたと思われる地に再整備された。
         里程標には「西之浦竪石 是より諸方エ行程」、「萩唐樋御高札場エ12里24丁半余 
        中関同断エ35丁余 小茅波戸エ21丁余 泥江渡シエ19丁余」とある。

        
         公民館前にある案内板。

        
         信行寺(真宗)の寺伝によると、天文年間(1532-1555)摂州尼ヶ崎の俗姓大久保光成という
        浪人が、出家して河内国の太子堂に入っていたが火災
に遭う。筑紫へ下向の途中、大風に
        拒まれ中浦を有縁の地であるとし、1566
(永禄9)年小庵を建てて浄土真宗を創始する。
        1823(文政6)年現在地へ移転する。

        
         1902(明治35)年西浦郵便局が置かれたが、旧局舎と現局舎が並ぶ。(右が現局舎)

        
         1907(明治40)年に西浦農協の前身である西浦信用組合が建てたもので、現在は(有)
        正田金物さんが使用されている。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、近世以来の西浦村が単独で自治体を形成する。
        この地に村役場があったが、1939(昭和14)年防府市に編入される。

        
         街筋には料理屋・宿屋・呉服店・薬屋・魚屋などが軒を並べていたようだが、1959
        (昭和34)年12月塩田の閉鎖と共に街の賑わいは廃れていった。

        
         その昔、瀬戸内海に浮かぶ田島は周防一ノ宮玉祖(たまのおや)神社の社領で、田島庄の住
        民は氏子であったという。この神社は周防一ノ宮の若宮で玉祖命を祭神としているが、創
        建時期については、1738(元文3)年2月の火災で古記録が焼失して詳細は不明とのこと。
         こちらの神社名は「たまそじんじゃ」というが、一の鳥居はかなり古いものと思われる
        が、風化が進んで刻字が読めない。

        
         社殿は罹災後の6月氏子によって再建され、下って1831(天保2)年新たに再建された。

        
         西浦焼なのかはわからないが陶器の狛犬。

        
         往古は田島の属島であった黒山(島)には古墳4基が点在する。もとは5基あったそうだ
        が1基は取り壊されたという。防府で最古とされる1号古墳を目指すが、5号古墳は岩本
        邸の敷地内にあるため見学を残念する。

        
         山の神、屋敷神である荒神社が鎮座する朝日の丘。

        
         下ると石鳥居の先に御霊社と木船社がある。鳥居の右柱表には「昭和五年(1930)九月吉
        日 木船組」とあるので、地下(じげ)の木船の人達が建立したものと思われる。

        
         黒山第1号古墳の説明によると、1855(安政2)年5月大雨で石棺が露出し、中から人
        骨や玉類などが発見された。庄屋より勘場へ届け出されたが、貴人の塚であるとして「丁
        寧に葬り置くこと」と命じられ、再び土を盛り戻した。
         1901(明治34)年西浦村が再発掘し、人骨は西政寺へ再埋葬、玉類は宮内省に献納さ
        れる。埋蔵品から5世紀代の古墳と推定され、石棺は弥生時代以来の墓制である板石を長
        方形に配置した箱型石棺で、約9㎝厚さの凝灰岩で造られている。墳上には貴人の墓であ
        ったことから御霊社(みたましゃ)が祀られている。 

        
         黒山の山頂を目指して尾根筋を進むと、途中に大岩が重なる場所を過ごす。道は踏み跡
        もあって迷うことはないが、展望を得ることはできない。

            
         標高62.4mの黒山山頂には四等三角点が置かれているが、周囲は樹林に囲まれて展望
        はない。

        
         山頂から和立海(わたづみ)神社への道を下るが、シダがあるものの足元は見えるので不安
        なく下ることができる。

        
         黒山の西端丘上にある和立海神社は、1787(天明7)年西浦塩田の鎮守として萩藩によ
        って創建された。社殿の造営や神具の調製などすべて藩費で賄われたという。社地の中段
        から上には藩主・毛利重就の当役を務めていた国司就相(くにし なりすけ)が二ノ鳥居や灯籠
        18基、狛犬などを寄進する。さらに撫育方諸士、三田尻宰判の代官の寄進による石造物、
        下段には塩田関係者らによる鳥居や30基におよぶ灯籠が並んでいる。
         明治の神社明細帳に「綿津見神社(祭神が綿津見神)」とされたが、現社号の証が出たた
        め原称に復したとされる。

        
         西浦塩業組合会所の庭に建てられていた石灯籠の竿石に「昭和三十四年(1959)十二月十
        五日 塩田廃止記念 西浦塩業組合」と刻み、塩田の鎮守であった和立海神社境内に移設
        された。(本殿下石段の左手)

        
         黒山3号古墳は和立海神社の東奥に位置する。羨室、前室、玄室からなる三部形式の横
        穴石室古墳である。5世紀中~後半頃の古墳とされる。

        
         二の鳥居から左折して玉祖神社への平坦道を進む。

        
         中間地点に西浦が一望できる展望地があり、山手側に2号古墳がある。

        
         急坂を上がると2号古墳があるが、こちらは羨室、玄室の二部形式で前室がない。

        
         引き返して階段を下ると参道入口に出る。一の鳥居には
           右柱表 天下泰平国家安全五穀豊穣
           右柱裏 大宮司五位陸奥守代
           左柱表 文化十四丁丑(1817)十月吉日建立 藤本幸助藤原包良とある。

        
         参道入口に古墳案内図。

        
         入川は塩田地場に潮を引き込むと共に、製品の塩や石炭、米を運ぶ上荷船の通路でもあ
        った。

        
        
         金切神社は、1823(文政6)年萩藩撫育方が鹿角開作前面に「西浦新御開作」を築くに
        あたり、鎮守として鹿角開作沖土手へ厳島神社より勧請して仮殿を建てた。
         1825(文政8)年新開作の干拓工事が完了した翌年に本殿が造られたが、3年後に大風
        で倒壊してしまう。1829(文政12)年撫育方によって現在地に厳島神社が再建されて遷
        座したが、のち引社によって現社号に改称する。

        
         金切神社付近に目の神様や共同井戸があるとされるが、見当たらず祠2基が存在する。

        

        
         灌漑用排出装置は「南蛮樋」と呼ばれ、樋門の外側にロクロ(滑車)で上下できる強固な
        板戸を装着していた。潮が引くにつれて板戸を引き上げ、開作地の溜まり水を排出させ、
        満ちてくると下げて潮の進入を遮断するものであった。

        
         見返ると黒山だが、明治から昭和初期頃までは全山赤禿で樹木も少なかった。大古には
        松柏がうっそうと茂っていたのでこの名があるという。

        
         沖土手のこんもりとした森に「荒神社」が祀られているが、 1823(文政6)年新開作
        が築かれつつあった時に創建されたという。地荒神と呼ばれ、地の神として信仰された。

        
         荒神社の西方にある1本の高い構築物は、NHK山口放送局のラジオ放送所である。1
        941(昭和16)年防府市桑山にNHK防府放送所が開設されラジオ放送が開始された。
         1959(昭和34)年西浦に新ラジオ放送所が開設され、3年後に放送局は山口に移転す
        る。アンテナの高さは110m・主力5kWで無人化されて県下の70%の範囲をカバーし
        ているという。

        
         1936(昭和11)年5月に建立された黄金通りを開設に尽力した「重宗弥兵衛」の功績
        碑。

        
         宮土地とされる地には、金切神社の御旅所が置かれ、人麿神社や荒神社、社日堂、地蔵
        尊などが祀られている。

        
         1867(慶応3)年新開作の清水虎之丞が、新開作北口から対岸の小島開作に渡り、田作
        りの草刈りを理由に藩から許可を得て始めたのが「小行司渡し」である。この渡しは川の
        両側に番線(太い針金)を張り渡し、それを手繰りながら船を操る仕組みであったという。
         泥江の渡しに木造の佐波川大橋が架けられると廃止されたが、佐波川の氾濫で橋が流さ
        れて復活したが、1953(昭和28)年コンクリート橋となり使命を終える。現在も石積み
        の突堤が残されている。

        
         西浦玉祖神社の西開作御旅所とされる地がある。女山西側に173町歩余の鹿角開作が
        築かれた際、最北部に設けられたものである。
         この先、線路に沿って次の踏切から旧国道に出て、泥江バス停からJR防府駅に戻る。


防府市中関は三田尻塩田と諸国廻船で栄えた町

2023年12月10日 | 山口県防府市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         中関(なかのせき)は防府平野の南西部に位置し、大部分は江戸期の開作により造成された
        地域である。東の上関、西の赤間関(下関)の中間に位置し、その繁栄にあやかるために明
        和年間(1764-1772)に中関と名付けられる。
         中関へは防府市新橋の旧山陽道から仁井令・植松を通る道と、防府市佐野からの中之関
        港道があった。(歩行約6.9㎞)

        
         JR防府駅南口から防長バス中浦行き約15分、下新前町バス停で下車する。 

        
        
         磯崎神社は、1738(元文3)年厚狭毛利氏が中野開作築立した際、その鎮守として市杵
        島姫命を勧請して厳島社を建立する。その後、中野開作は完成しないまま萩本藩に上地さ
        れる。1825(文政8)年社号を荒神社と改めたが、明治になって現社号に改める。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、田島村、浜方村と向島が合併して中関村と称
        した。村役場は域内の中心であるこの地(現えんしん幼稚園)に置いた。

        
         防府市スポーツセンターを目指すと入川があり、河口へ向かうと県道58号線(防府環状
        線)の和合橋に合わす。

        
         県道左前方の防音林に塩田関係の碑がある。 

        
         鳥居を潜ると、1699(元禄12)年以後に入浜式塩田(六ヶ所浜)が構築され、赤穂に次
        ぐ塩の生産地となった旨の塩田跡碑がある。

        
         1771(明和8)年萩藩は鶴浜に三田尻塩田大会所を設け、大年寄による休浜法の規定や
        塩田の営業の取り決め、販売統制などを行った。

        
         田中藤六は、明和年間(1764-1772)生産過剰による塩業大恐慌にあたり、三・八替持の休
        浜法を建策する。操業を3月~8月(現在の4~9月)とし、さらに塩田を2分して日替え
        に操業するというもので、安芸・備後・伊予・周防の四ヶ国協定を成立させて危急を救う。
        (顕彰碑)

        
         瀬戸内海全体の塩田振興のために、身を粉にして働いたが、1777(安永6)年に他界す
        る。右の碑は藤六の功績を称え、1908(明治41)年三田尻の浜主が建てた「白和翁田中
        藤六君之碑」で、「後の世も、人ならはなん(習はなん) 朝夕に、汲めや潮のつきぬ功を」
        と刻まれている。
         左手の碑は、1915(大正4)年11月大正天皇即位にあたり、藤六が従5位に叙せられ
        たことを記念して、1917(大正6)年「贈位承恩之碑」が建立される。

        
         1752(宝暦2)年鶴浜塩田の築立にあたり、厳島神社より勧請された厳島社と思われる。

        
         塩田に必要な物資のほとんどが船で運ばれた。各浜の境には海に通じる水路が造られ、
        それぞれの浜を結んで東西に走る水路(入川)が設けられた。

        
         三田尻塩田の概要は、1687(貞亨4)年に古浜、1721(享保6)年に中浜、1753
          (宝暦3)年に鶴浜、1766(明和3)年の大浜(1~5ノ枡の総称)が毛利藩の資本によって
                開発された。
         1959(昭和34)年塩田廃止の際、浜子の失業問題が起こったが、浜主の転業問題は起
        こらなかったという。すでに塩田を生活の糧にしていなかったことや、廃止による相当額
        の交付金が支払われたり土地所有権が残ったためといわれている。
         かっての塩田は開発公社が買収し、1970(昭和45)年以降に工業用地として転用され
        る。
          1899(明治32)年の地形図
               左より     大浜5        中浜
                            (中央に入川)
                   大浜4・大浜3・大浜2・大浜1・鶴浜 古浜

        
         最初の橋(浜方橋)で県道を横断すると、わが国の塩業史に大きな役割を果たしてきた三
        田尻塩田を記念して、1992(平成4)年鶴浜塩田跡地の一画に入浜式塩田の諸施設が復元
        された三田尻塩田記念産業公園が開業する。

        
         江戸期から古浜、中浜、鶴浜、大浜、江泊浜、西浦前ノ浜の六ヶ所浜で製塩が行われて
        きたが、戦後、外塩の輸入と「流下式製塩法」により内地塩は生産過剰となる。1959
          (昭和34)年塩業整備臨時措置法により、260年にわたり日本の塩業を支えた三田尻塩田
        は幕を降ろす。

        
         塩作りに使う砂(持砂)を塩田にまき、潮が着いた砂を沼井(ぬい)に入れて、海水などで濃
        度の高い鹹水(かんすい)を作るという作業工程が見られる。

        
         濃縮台と呼ばれるものだそうで、入浜式塩田で採鹹(さいかん)した鹹水(かんすい)を濃縮す
        るため装置だそうである。鹹水を自然に流下させて、太陽熱や風により水分を蒸発させ、
        雨の日は流下を止めて雨水を水路に流すようになっている。
         電力の普及によりポンプを利用して鹹水を汲み上げるようになり、浜子が桶で運んだり
        暗溝(鹹水を溜めておく施設)が姿を消したという。

        
         煎熬(せんごう)とは鹹水を煮詰めて塩を採るで、煎熬釜は江戸時代から明治にかけては石
        釜が使われており、その後は鉄製に変ったという。燃料も松の薪が使われたが、その費用
        は生産コストの中で大きな割合を占めていたが、経済的な石炭焚きが導入されると各浜に
        広がる。

        
         大正前期に造られた越中屋の石造り釜屋煙突で、髙さ12.5m、頂上の周囲は4.2m
        もある。塩釜で長い時間をかけて高温で煮詰めるため大きな煙突を必要とした。
         こちら側からではわからないが、右に廻り込むと入川方向へ少し斜塔となっているが、
        風速50mぐらいでは倒壊しないよう補強されているとのこと。(国登録有形文化財)

        
         煎熬釜に使用された花崗岩と同じ材質のようだ。

        
         桝築らんかん橋が移設されているが、大浜塩田に同形同大のものが9橋あったうちの1
        つである。

        
         右のお堂は防府霊場53番札所で、左の祠名は知り得なかったが、注連縄があるので現
        役のようである
。推測の域を出ないが、塩田に入る前に参拝してらんかん橋を渡ったので
        はなかろうか。(公園のある入川にも1基)

        
         塩田公園から西約700mの所に桝築(ますつき)らんかん橋がある。大浜に塩田が築かれ
        た明和年間(1764-1772)に架橋されたという。

        
         橋の中ほどが両脇より60㎝ほど高い構造になっている。製塩燃料の石炭や製品の塩を
        運搬する上荷船が、満潮期でも通行できるように工夫されている。
         橋の名は、浜の形が四角形で米や塩などを計る枡の形に似ており、その間に築かれたこ
        とから枡築、橋の両側には安全のため欄干が付けてあったので「枡築らんかん橋」といわ
        れた。

        
         往時の地に残るものはこの一橋のみで、2基は塩田公園と山陽自動車道佐波川SA上り
        線に移設されている。

        
         らんかん橋の構造図。

        
         中関配水機場を過ごすと北側は航空自衛隊防府南基地。ここでは採用された航空自衛官
        の教育訓練が行われているが、約69万㎡という広さは周防国府の面積に匹敵する。ちな
        みに北基地は254万㎡の広さである。

        
         1932(昭和7)年に建設された中関橋は、幅3.4m、長さ11mのコンクリート造橋
        で、高欄のアーチと直線が組み合わされている。当時は町と塩田をつなぐ重要な役目を担
        っていた。

        
         中関は防府地域の主要幹線である旧山陽道や萩往還から離れており、人や物流の妨げに
        なっていた。国道の新橋南口から中関港への道路建設が1887(明治20)年後半に計画さ
                れ、1889(明治22)年に直線的な中之関港道が完成した。

               
        
         塩釜神社は、1767(明和4)年大浜塩田の築立てが完了した翌年、その鎮守として奥州
        一の宮・塩釜神社を中関の猿迫に勧請したが、1893(明治26)年6月現在地に迂祀した。     
        (山口県神社誌より)
         これよりも前、鶴浜塩田の築立にあたり、安芸宮島の厳島神社より勧請して厳島社が創
        建されたが、1907(明治40)年塩釜神社に合祀される。
         また、1766(明和3)年現中関本町に厳島神社が創建されたが、1965(昭和40)年塩
        釜神社に合祀され、塩釜厳島神社と改称する。かっての繁栄ぶりを示す塩竃厳島神社は神
        明造りの社殿である。

        
         萩藩7代藩主・毛利重就(しげたか・1725-1789)は、塩業中心であった中関の発展に力を
        注ぎ、産物や商品を積んだ船が出入りする港の整備も怠らなかった。
         上関は岩国領、赤間関(下関)は長府藩であったので、萩藩の港として田島の小泊(おどま
          り)
港と向島の小田港を整備し、風向きによってどちらかに停泊できるようにし、上関と下
        関の中間であることから「中関」と名付ける。
         1888(明治21)年重就の100年忌にあたり、彼の業績を称えその遺徳を後世に伝え
        るため境内に記念碑が建てられた。

        
         道を挟んで双方とも加藤家のようだが、山手側の加藤家には加藤勉二翁之碑が邸内にあ
        る。加藤勉二(1876-1940)は初代・伝蔵から数えて6代目の当主で、2代中関村長に就任し、
        防府町などと合併するまでの28年間村・町長として中関の発展に尽力したとされる。

        
         三田尻塩田は、1767(明和4)年大浜塩田の築立でほぼ完成し、各地から人が移り住む
        ようになる。藩は萩の町人・梅屋吉右衛門に町づくりを委ねたが、塩浜の不振により撫育
        方から借用した開発資銀の返済に行き詰まる。
         1783(天明3)年萩藩の招きで都濃郡浅江村の豪農・加藤伝蔵が町づくりを進めた。伝
        蔵は芝居小屋、料理屋、遊女屋などを建てて賑やかな町をつくる。

        
         伝蔵は新規に酒造業の承認を得て殖産にも力を入れた。1789年の天明末期から諸国
        廻船が西泊に入港するようになり、塩業の町として繁栄した。加藤家の前には蔵と井戸が
        残されている。

        
         川を挟んだ対面の塩田跡地は工業地に姿を変えた。

        
         この地に厳島神社があったものと思われる。

        
         広い敷地に小さな恵比寿社のみ。

        
         この先のマリーナに塩倉庫があったといい、灯台があるというが遠いためここで残念し
        て引き返す。

        
         三田尻塩田の塩を積み出す港として栄えたが、塩田の廃止とともに町は衰退する。(入川
        遊歩道を引き返す) 

        
         本町の町並み。

        
         普門寺(真言宗醍醐派)は、岩国市のと或る山の頂にあった竜宝院を現在地に移して祀っ
        たのが始まりとされる。1902(明治35)年現寺号に改称するが、現在は無住で他寺の住
        職が兼務し、門徒有志が寺を管理されているとのこと。

        
         中関の町並みを歩いて中関バス停よりJR防府駅に戻る。


防府市西浦の女山周辺の史跡と中之関港道

2023年12月08日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         西浦(にしのうら)は佐波川河口の左岸、防府平野の最西端にある田島山の西に位置し、大
        海湾に面する。
         古くは佐波川河口に浮かぶ田島のうちで、黒山や女山(めやま)を中心に開けた地であった
        が、1628(寛永5)年潮合開作の築立によって内陸部と陸続きになる。地名は田島の小泊
          (おどまり)に対し、島の西の浦であることに由来する。
         赤石から女山鼻を経て宗金開作土手を通り、泥江の堤防から佐野に至る中関佐野線(中之
        関港)線を散歩する。(歩行約8㎞、🚻なし)

        
         JR防府駅南口から防長バス中浦行き(10:55)約25分、岡城バス停で下車する。この道
        は防府市新橋から華城を経て中関の町に至る中之関港線(中関新橋線)である。

        
         バス停から引き返すと、左手の高台に浄福寺がある。入口には「志やうふくしみち」と
        あり、唐門が見えるので参詣することにする。

        
         入口の唐門は反り曲がった曲線状の破風を持った門で、嘉永年間(1850-1854)に造られた
        ものという。

        
         浄福寺(黄檗宗)は、1755(宝暦5)年萩東光寺の8代和尚の願いで、中野・新上地開作
        の潮止め祈願所として錦江庵が建立される。1769(明和6)年萩・東光寺の末寺として現
        在地に移し、現寺号に改称したという。

        
         境内から中関などが一望できる。(正面に自衛隊南基地)

        
         中之関港線はここで二手に分かれるが、中関や西浦から防府の町や山口に至る幹線道路
        であった。
         1943(昭和18)年太平洋戦争中に赤石開作を中心に陸軍航空隊の飛行場建設が始まり、
        田島山や女山山麓から山土搬出のトロッコ用軌道が無数に道路を横断して使用不能となる。         翌年5月に飛行場が完成すると、赤石から光宗寺に至る道が消滅する。(正面に自衛隊北基
        地)
         一方の中之関港線(中関佐野線)は、ここから西浦地区へ向かう。

        
         次の分岐は右手が中之関港線、左手が西浦から防府に至る道であったようである。正面
        に見える女山は、古人が山や川を人格化して名付けたように、田島山を男山に見立てて、
        後方の山を女山と名付けたのであろうとされている。

        
         華西中学校前の市道に出ると、学校を挟んで左手に井否田堤(いびたつつみ)がある。右手
        は孤島時代に塩田があった地といい、小字で塩田(しおた)とされている。

        
         孤島の頃には井否田堤辺りに3町3反余の水田があったと伝え、これが「田島」の名の
        起こりとされる。
         堤は、1673(延宝元)年に笹川開作と木船開作が拓かれた時、灌漑用の池として掘られ
        たという。

        
         堤を過ごすと小堂があるが、祀られている地蔵尊は素人が刻んだ尊像のようで、早世し
        た我が子のために作造して霊を祀ったものと思われる。

        
         女山南麓にある椎の老木樹下に、1773(安永2)年建立の猿田彦大神の石祠がある。こ
        の場所は江戸期には西浦から宮市に通じる主要な宮市道が通っていたところであり、道案
        内役を司った道祖神を祀るには最適な場所だったようである。

        
         長井雅楽(うた)は、幕末期に幕府は朝廷に従って施策をなし、朝廷は幕府の開国を認める
        べしとする「航海遠略策」(公武周旋案)を説いたが、攘夷論の台頭で失敗に終わり切腹を
        命じられ、1863(文久3)年2月萩の自邸にて果てた。享年45歳。
         若い頃に現在の華西中学校のテニスコート付近に住んでいたという。

               
         女山墓地入口(女山登山道入口)に立つ地蔵尊は、天明年間(1781-1789)頃に前ノ浜塩田が
        拓かれた時、女山から木を伐り出す時に事故が起こり、死者を弔うために造立されたとい
        う。古墳は登山道を入り、テープが取り付けてある道に入らず、直進すると石垣のある所
        を左折する。

        
         女山が田島の属島「女島」であった頃の横穴石室式古墳がある。当山に9基があったと
        されるが、先の大戦で飛行場建設のため5基が破壊された。これは女山3号古墳とされ、
        女山古墳の中では最も遺構を残しているとされる。

        
         女山3号古墳下辺りに、1628(寛永5)年潮合開作の築立により、田島が本土と陸続き
        となった1600年後半頃に、禅寺「臥雲庵(がうんあん)」が存在したとされる。いつ頃に
        廃寺となったかはっきりしないが、1741(寛保元)年鋳造の「喚鐘」が市内伊佐江の光宗
        寺に残されているという。(喚鐘とは梵鐘を小さくしたもの)

        
         3号古墳の西側30mほど行ったところに4号古墳。

        
         東潮合交差点の道端に玉祖社御旅所の灯籠が立っているが、竿石は「道しるべ」を兼ね
        ており、下の方に「右西乃浦、左中乃せき」とある。道路改修前は前方中央付近にあった
        とされる。

        
         この一帯に萩藩士の市川、生田、河野屋敷が並んでいたという。寺子屋「市川塾」は、
        1807(文化4)年市川新八が開いた塾で、明治期に「西浦小学」が開校すると潮合分校と
        して、1884(明治17)年12月まで存続したという。
         パチンコ店がある場所には、給地が支給されない無給通(むきゅうどおり)として仕えた生田
        家屋敷跡とされる。

        
         県道190号線(中之関港線)の潮合バス停手前を左折して旧中之関港道を進む。

        
         石風呂の痕跡は残されていないので位置を特定することができなかったが、1937(昭
          和12)
年頃まで女山の北端である女山鼻の山裾に石風呂があったという。
         この石風呂がいつ頃築造されたかは明らかでないが、世界大戦が勃発すると燃料の購入
        もままならず、戦時中は子供の遊び場になっていたという。(泥江に至る三叉路付近)

        
         中之関港道を外れて女山西界隈を散歩すると、鍵曲りになった道路の片隅に北向き地蔵
        が祀られている。建立の由来については不詳とのことだが、寛政九丁巳(1797)四月八日建
        立とされる。

        
         幹線用排水路が並行する。

        
         女山会館傍に江山圭一顕彰碑がある。西浦小学校3代校長をはじめ市内の小学校の校長
        を歴任し、退職後は西浦村長を務めたとされる。
 
        
         鹿角(かつの)開作は、1678(延宝6)年に開かれた173町歩に及ぶ広大な開作(写真左
        手)が出現し、女山西北部には右田毛利の家臣たちが居を構えたという。

        
         太陽光パネルのある所から山手に入って行くと灯籠が見えてくる。

        
         灯籠がある地には、1824(文政7)年西浦に新開作が拓かれた時には、既に観音堂(庵)
        に
尼僧が住していたという。当庵開基の天室浄輪禅尼の墓や位牌が祀られていたが、昭和
        の初め頃、女山の人達が江戸期に右田毛利家に「抱き守り」として奉公していた右田毛利
        の家臣であった妻女が、毛利家より拝領した金銅製の子安観音像を屋敷内で祀っていたも
        のを、この地にお堂を再建して祀ったのが始まりという。

        
         1935(昭和10)年頃の土砂崩れで倒壊したため、20mばかり上がった所へ建て替え
        られたのが、現在の「子安観音堂」である。

        
         神功皇后が船を繋いだと伝わる「皇后岩」

        
         鹿角神社の鳥居は神明型の花崗岩製で、右柱表「鹿角龍神社 恆佐」左柱表「安政六甲
        虎(1856)四月吉日 願主百姓中」とあるので、黒山に社殿があった頃のものと思われる。 

        
         1678(延宝6)年右田毛利家が鹿角開作を築立のとき、鍬入式に鹿の角を掘り出したこ
        とにより、瑞(めでた)いことが起こる前兆を記念して鹿角開作と名付けられる。
         鹿の角を御神体として初め黒山に社を建てて鎮守とし、後に女山に鹿角神社として存在
        したが、明治の神社整理令により西浦玉祖神社の境内社となるが、形式的なものであった
        ようで、実際には社殿を残して祭祀が行われているという。

        
         中之関港道に戻り宗金開作土手を北上する。

        
         開作地であるため見るべきものはないが、空には自衛隊の練習機が何機も着陸体勢に入
        っているのか、大きな音を立てながら低空飛行している。

        
         山陽本線上生須(かみいけす)第二踏切を横断し、県道187号線(高井大道停車場線)も横
        断する。

        
         佐波川を泳ぐ鮎と右田ヶ岳、西浦にある天然記念物エヒメアヤメがデザインされた防府
        市のマンホール蓋。

        
         赤石から女山鼻を経て泥江の渡しで佐野村に至る。歩いてきた道を見返ると、1881
        (明治14)年に6尺(1.8m)に拡幅され、山陽道に連絡した。1890(明治23)年更に9
        尺(2.7m)に拡幅された。

        
         1764(明和元)年に泥江の渡しが開設されたが、1758(宝暦8)年頃中関に鶴浜塩田が
        拓かれ、後に大浜、前ノ浜塩田も築立されて田島宰判と萩城官間の往来が頻繁となる。上
        流の萩往還道の舟橋や山陽道の大崎渡しは、洪水の度に川留めされたが、泥江の渡しはほ
        とんど影響を受けない貴重な存在であったという。

        
         1890(明治23)年佐野~中関道の改修にあわせて架橋されて中関橋と命名されたが、
        1902(明治35)年11月腐朽により橋は落下する。再び渡しが復活し、1953(昭和2
          8)
年佐波川大橋の完成で役目を終える。(現在の佐波川大橋) 

               
         1876(明治9)年1~3等道路を廃して、国道、県道、里道の三種になる。佐野峠を越
        えていた旧山陽道(国道)は、1877(明治10)年に佐野峠東口から大坂を下り、山沿いに
        台ヶ原を過ごして横曽根川を渡り、右岸堤防を伝って旧道に合する路線となる。

        
         旧道に出会う角に「中之関港道」の道標がある。明治期に中関町長の加藤氏によって、
        国道と中関港を結ぶ2本の道路(もう1つは新橋~華城経由)が新設されて道標が設置され
        た。
         1975(昭和50)年頃に旧設置場所から撤去、折れたまま放置されていたが、1998
        (平成10)年頃現在地に再興された。(佐波川大橋バス停よりJR防府駅) 


山口市大内御堀の中心地から鰐石橋までの旧萩往還道

2023年12月04日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         大内御堀(おおうちみほり)は山口盆地の東南に続く地で、仁保川に沿って山口と防府を結
        ぶ旧萩往還道が東西に走り、川の南側を国道262号線が通る。
         地名の由来について風土注進案は、「今の乗福寺の奥に、もとの伽藍があった所で、昔
        の大内殿の御館なりし‥(中略)‥御館の外堀ということで御堀と名づけたのであろうか」
        という。
         1963(昭和38)年山口市と合併した際、御堀に大内を冠称して「大内御堀」となる。
        (歩行約7.9㎞)

        
         JR防府駅からJR中国バス山口大学行き約30分、光円寺前バス停で下車する。

        
         光円寺バス停と銘打ってあるが、寺までは少し引き返さなくてはならない。もとは天台
        宗の寺で、1630(寛永7)年浄土真宗の寺に改宗したとされる。

        
         寺伝によると、この地に矢田太郎弘家(大内氏21代の大内弘家)の居館があったという。
        鎌倉期末期頃の人物で、1300(正安2)年没とされ、この供養塔が大内弘家の墓とされる。

        
         再び引き返して市役所支所の道を進む。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、御堀・長野・矢田の3ヶ村が合併して大内村
        が成立する。1894(明治27)年に村役場が新築されたが、郡内で最も粗末な役所であっ
        たため、1935(昭和10)年に鉄筋コンクリート造の本館と議事堂が新築される。

        
         現存するのは議事堂のみで、当初の陸屋根は寄棟瓦葺きに改造され、床から天井まで伸
        びる2連の縦長窓も変更されている。現在は大内公民館の体育館として活用されているよ
        うだ。

        
         大内地域交流センター裏手の道が旧萩往還道。

        
         萩往還道の重要な橋の1つであったが、出水の度に流失したそうで架け替えが繰り返さ
        れたとのこと。

        
         山口市の説明によると、2015(平成27)年2月氷上橋に歩道橋を建設する際、橋脚の
        基礎を作るために川底を掘ったところ親柱が発見されたという。
         中央にあるのが三差路に建立されていた山口大神宮への石灯籠(道標)だが、道路拡張の
        ため移設されている。

        
         普段はこのように緩やかに流れる仁保川は、この下流で問田川と合流して椹野川に流れ
        込んでいる。3つの川にそれぞれ降った雨が、この周辺に集中するため氾濫危険水位を超
        えることが多いという。(正面の山が姫山) 

        
         上田鳳陽(1770-1854)は宮崎家の三男としてこの地に生まれる。幼少の頃に上田家の養子
        となり、藩校明倫館で修養に努め、47歳で山口講堂を開いて教育に尽力し、山口大学の
        基礎をつくる。生誕地碑は氷上橋北側の民地内に建てられている。

        
         往還道は氷上橋北詰の先で左折して鍵曲となっている。その理由はわからないが橋の位
        置に関係するのだろうか。

        
         屋根のある木祠に大小の地蔵尊と猿田彦大神の石碑が祀られている。  

        
              大内氏の時代、この奥の氷上山一帯は興隆寺境内として栄えたが、大内氏滅亡後、毛利
        氏になっても崇敬されたが大内時代の壮観さは失われ衰退した。
         明治になると神仏分離で寺領を失い、堂塔は他に移されたり火災による焼失などで姿を
        消すこととなる。
         かっては大内氏の氏寺であったため、一般人は参道にある灯籠の中や鳥居を潜ることは
        許されず、通行する脇道が鳥居の右手に設けられていたという。

        
         興隆寺(天台宗)は、飛鳥期の613年(推古天皇21)年に琳聖太子によって創建されたと
        伝わる。全盛期にはこの一帯に100余りの僧坊が建ち、500人の衆徒が住んでいたと
        いわれる。明治の神仏分離によって廃退し、本堂(釈迦堂)は焼失した山口町の龍福寺本堂、
        東照宮は八坂神社内の築山神社として、また、護摩堂は神福寺の観音堂として移築される。
         本堂跡地には、1890(明治23)年県立山口農学校が開校するが、20年後に小郡へ移
        転している。

        
         北辰妙見大菩薩を祭神とする妙見社は、平安期の827(天長4)年大内茂村が現下松市の
        鷲頭山の妙見社を勧請する。もと興隆寺の裏山にあったが、明治の神仏分離令により現在
        の地に移される。建物は毛利氏が再建したもので家紋が施してあり、脇には大内菱の瓦が
        置かれている。拝殿は山口特有の楼拝殿形式である。

        
         江戸初期には一時期荒廃するが、徳地出身の行海和尚が中興(開山)する。1694(元禄
          7)
年に没したが、中興の祖を称え翌年に建立される。現在は中興堂を興隆寺仏殿とし、釈
        迦三尊像が安置されている。 

        
         この梵鐘は、室町期の1532(享禄5)年大内義隆が氏寺の興隆寺に寄進したもので、総
        高189cm、口経111.8cmと巨鐘で、朝鮮鐘の影響を受けているとされる。(国重文)

        
         南北朝期の1372(文中元)年明国の使節・趙秩(ちょうちつ)が大内弘世の依頼で、山口の
        美しい風景10ヶ所を詠んだもので「山口十境詩」といわれている。七言絶句(7文字の句
        が4つ)の漢詩である。
                   「氷上に暑を滌(さ)く」
                 光は山罅(さんか)に凝れり、銀千畳
                 寒色は人を清やかにして、欝蒸(うつじょう)を絶つ
                 異国には、更に無し、河朔(かさく)の飲
                 煩襟(はんきん)には、毎(つね)に憶ふ、玉稜層 

        
         鮎川義介(1880-1967)は旧長州藩士・鮎川弥八を父とし、母を井上馨の姪を母として吉敷
        郡御堀村(現在の大内御堀)に生まれる。この地は興隆寺の元家臣・伊達家が長年居住され
        ている所で、1879(明治12)年頃から1~2年間邸内に寄寓したという。政財界で活躍
        したが、満州国では軍・官・財の「弐キ参スケ」の一人とされた。
         碑は、1964(昭和39)年伊達家の当主に了解を得て、伊達家の敷地内に建立されてい
        る。

        
         杉孫七郎(1835-1920)は植木五郎右衛門の次男としてこの地で生まれ、のちに長州藩士の
        杉家の養子となる。1861(文久元)年には幕府の遣欧使節に随行し、産業革命の進む西欧
        諸国に衝撃を受け、伊藤博文ら5名の密航留学に尽力する。明治後は宮内省官僚として活
        躍する。(鮎川義介生誕地の向い側)

        
         往還道から山手側に入ると、「氷上古墳」の案内板があり、各ポイントにも設置されて
        いる。

        
         大内氷上古墳は、山根観音堂裏山の標高80mの丘陵上に自然地形を利用して築造され
        た前方後円墳である。築造の時期は5世紀半ばから後半にかけて築造されたもので、規模
        は全長28m、幅は14~15mとされる。後円部中央に竪穴式石室があったが、損壊し
        ている場所に役行者の石造が祀られている。 

        
         山根観音堂は、1884(明治17)年興隆寺にあった観音堂を移したもので、江戸時代中
        期の建物とされる。

        
         観音堂裏のクスノキには、木喰上人作とされる地蔵菩薩の立木仏がある。木喰上人は甲
        斐国(山梨県)の人で、江戸末期頃に周防国の所々に宿って多くの仏像を彫っている。

        
         福田侠平は、1829(文政12)年吉敷郡後河原(現山口市後河原)の長州藩士・十川権右
        衛門の次男として生まれ、のちに御堀の氷上に居住するが大津郡の福田家の養子となる。
         結成当初から奇兵隊に入り、高杉晋作の片腕として活躍し、晋作が最も信頼した男とも
        いわれる。1868(明治元)年11月12日の明治政府成立を祝ったが2日後に急逝する。
        住居としていた地の山手に同志により遺髪墓が建てられた。

        
         新興住宅や近代的なアパートが建ち並び、往還道だった面影は見られない。(往還道から    
        乗福寺への道)

        
         乗福寺の寺伝によると、鎌倉期の1312(正和元)年大内重弘が開基したとされる臨済宗
        の寺で、周防最古の禅寺とされる。

        
         十境詩の1つが門前にある。
                  「南明の秋興(しゅうきょう)
                 金玉の楼台、翠微(すいび)を擁し
                 南山の秋色、両つながら輝(き)を交ふ
                 西風、葉を落として雲門静かなり
                 暮雨(ぼう)、来たらんと欲して僧未だ帰らず

        
        
         永正年間(1504-1521)の火災により伽藍のほとんどを焼失し、復興もなく荒廃したが、1
        530(享禄3)年頃に大内義隆が再建する。
         大内氏滅亡後は衰退し、1668(寛文8)年には近火により類焼する。現在の場所には塔
        頭の1つであった正寿院があり、1691(元禄4)年乗福寺本堂として再建される。

        
         寺の裏手には大内氏の始祖と伝わる琳聖太子の供養塔がある。琳聖太子は百済国の皇子
        で、防府に上陸後、奈良を訪れて聖徳太子によって大内の地を安堵されたといわれている。

        
         大内弘世は大内氏第24代当主で、1360(正平15)年頃に館を御堀から山口市内の中
        心地へ移設し、以後大内文化発展の基礎を築いた人物である。(1380年没)
         右手は大内氏第2代当主の大内重弘の墓である。(1320年没) 

        
         1815(文化12)年私塾山口講堂(後の山口大学)を開いた上田鳳陽(右)と弟子の服部東
        陽の墓。

        
         額束は「三保里神社」とある。

        
         1669(寛文9)年御堀村に大火があって、八幡宮、厳島大明神、大歳大明神が類焼する
        が、翌年に3社を合併して村社八幡宮として再建される。1909(明治42)年村社八幡宮、
        氷上の氷上神社、金成の鏡山神社と八幡宮の摂社である厳島神社が合併し、御堀神社と改
        称する。

        
         本殿と幣殿は八幡宮のもので、拝殿は氷上神社のもの、二の鳥居は厳島神社、手水鉢は
        氷上神社のものが持ち寄られて造営されたという。

        
         神社から往還道に合わして山口市街地へ向けて歩く。

        
         福田屋は屋号を楳旭堂といい、萩往還道沿いで江戸時代から「ういろう屋」を営み、藩
        主の参勤交代、来山した文人墨客、地元の人々などに愛されてきた。
         第二次大戦で後継者をなくして廃業されてしまうが、江戸末期の建物は現存し、当時の
        面影をよく残している。

        
         家の前にあったという芭蕉翁の
                  「梅の香にのつと日の出る山路哉」
         早春の明け方に山道を歩いていると、梅の香に誘われたか、山並みのむこうから朝日が
        のつと顔を出したという意味らしい。

        
         上田鳳陽の顕彰碑は、1855(安政5)年福田家の当主が同家敷地内に建立したものであ
        るが、学生教育に役立ててほしいという福田家の意向を受けて、2022(令和4)年1月山
        口大学に移設された。
服部東陽の碑と大神宮の石灯籠(道標)は現存する。(擁壁の工事中) 

        
         次の信号機で右の道に入ると宮島町界隈。

        
         椹野川に架かる鰐石橋は、風土注進案によると土橋で長さ12間(約21.82m)、幅2
        間(約3.64m)であったという。現在の橋は昭和に架橋された。

        
         山口十境詩の「象峯積雪」
                 夜來の積雪、象頭の峰
                 老却したる溪山、玉龍に変ず
                 便ち龍に乗り帝闕(ていけつ)に朝せんと欲す
                 瑤階瓊宇(ようかいけいう)、更に重重 

        
         昔、域内にあった四王寺の阿難堂が洪水で流されてきたのを祀ったのが始まりという。
        穴の開いた石や竹などを供えて祈ると耳がよくなるといわれている。

        
         厳島神社は、1406(応永13)年大内盛見(もりはる)が安芸宮島から勧請し、現在の県庁
        地に祀られたが、1864(元治元)年毛利藩主の御屋形となったため現在地に移される。多
        宝塔(本殿の中)は檜作りで、室町時代初期に造営されたとされる。

        
         こんな看板を見てジグザグ道を辿ると、手水鉢のある広場に出る。宮地嶽神社跡とのこ
        とでそのまま進むと展望地に出る。

        
         気晴らしの丘には象頭山に因んで、象のイルミネーションが点灯されるとか。 

        
         山口側に山口市街地が一望できる。

        
         大内側に配水池跡だろうか広い平坦地がある。

        
         鰐石橋から見る象頭山。

        
         椹野川に架かる鰐石橋の袂に重岩(かさねいわ)がある。大内氏の時代、重岩は鰐石町の市
        恵比寿として祀られ、岩が2つ重なっていることから2つ重なった餅を供え、売るように
        なったとか。

        
         山口十境詩の「鰐石に雲を生ず」
                 禹門(うもん)の点額、竜と成らず
                 玉石、渓(たに)に流れて激衝に任す
                 是より煙霞、釣鰲(ちょうごう)の処
                 幾重の苔蘚(たいせん)、白雲封(ほう)ぜり 

        
         山口線踏切付近に街道らしい民家を見てJR山口駅に出る。