ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市彦島の弟子待は佐々木巌流の弟子が待っていた地

2022年02月26日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         弟子待(でしまつ)は下関市彦島の一部で、大瀬戸と呼ばれる海岸線に位置する。
         地名の由来について、「類聚国史」に記される勅旨町(てしまつ)と読むことに由来する説
        と、口碑に宮本武蔵と佐々木小次郎が船島で決闘したとき、小次郎の弟子が待っていたこ
        とによるという説(市史)がある。(歩行約3.5㎞)  

        
         JR下関駅(11:22)からサンデンバス弟子待3丁目行き約20分、終点で下車する。バス
        は回転場で向きを変えて引き返して行く。

        
         海軍浜へは3ヶ所の進入路があったようだが、現在は彦島南公園経由の道だけとなり、
        長い階段を上がらなくてはならない。

        
         長い階段を上がればこの景色が得られる。

        
         グラウンドから見る弟子待3丁目付近の町並み。 

        
        
         日露戦争(1904-1905)が勃発する前の1902(明治35)年、ロシアバルチック艦隊が日本
        に迫ることを危惧し、関門海峡に侵攻してきた場合、これを迎え撃つため水雷基地が建設
        された。近年石組みの一部が崩落したため、2014(平成26)年に改修された。

        
         基地のすぐ傍には攘夷戦(外国人を日本から追い払う戦い)に備え、1863(文久3)年荻
        野隊と長府藩により台場が築かれ、連城砲7門が配備された。
         1864(元治元)年三条実美ら5卿が、台場を巡見するなど攘夷戦における主な台場の1
        つであったが、実戦に使用されることはなかったという。

        
         関門海峡の先に北九州市街地。

        
         赤煉瓦造のトンネルは水雷貯蔵庫とされる。

        
         3丁目バス停に戻って関門橋方向へ進む。道路の右手は昭和シェル㈱の社有地のようで、
        かっては油槽所があったと思われるが、今は太陽光パネルがずらりと並ぶ。 

        
         道路の左手は石垣が続くが、海岸線と境をなしていたようだ。

        
         家に上がる2つ目の道が龍宮神社への参道。その途中に「姫塚」があるとされるが、
        その塚なのかはっきりしない。刻字は風化して読めないが、そうであるとすれば平家にま
        つわる塚と思われる。

        
        
         さらに上がると龍宮神社。1896(明治29)年頃に創建とされたようだが、詳細は知り
        得ず。歩かれている方に神社について尋ねると、神社の存在すら知らず無縁のような口ぶ
        りだった。(個人の神社?)

        
         在来線の関門トンネルは下関から彦島に入り、弟子待から海底を潜って小森江に渡って
        いる。

        
         この付近が弟子待2丁目の町並み。(2丁目バス停)

        
         下関市の「し」の中にフグが描かれたマンホール蓋。

        
         国交省所管の下関港弟子待検潮所。

        
         岩礁の先に関門橋と門司港。 

        

        
         旧軍の施設を思わせるような塀。

        
         弟子待に駐在していた奇兵隊の福田氏が、地元の植田氏らと海面を埋め立てて貯炭場を
        開設したことが、この地の開発の一歩となったとされる。

        
         彦島八十八ヶ所霊場は、1923(大正12)年頃に彦島の真言宗寺院が呼びかけて設けら
        れたようで、ここ大師堂は19,45,83、88番札所となっている。

        
         1612(慶長17)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したとされる
        船島。敗れた小次郎の流派「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになった。
         島は旧軍の下関要塞地帯となり、島を撮影することも許されなかった。戦後に有人島と
        なったようだが、1973(昭和48)年無人島となり、現在は三菱重工業と下関市が所有し
        ている。

        
         行き交う船を見ながら弟子待2丁目バス停に戻る。 


下関市の竹の子島は彦島から島渡り

2022年02月24日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         竹の子島は下関市彦島に属し、彦島の北西部40mに位置する。面積は0.18㎢の細長
        い島で、標高10~15mの台地をなす東側に人家、農地、造船所がある。
         地名の由来は、島に藪竹の子が多くあったことによるという。(歩行約2.5㎞、🚻なし) 

        
         JR下関駅7番のりばからサンデンバス竹の子島行き約25分、終点で下車する。

        
         竹の子島は1952(昭和27)年架橋によって彦島と繋がり、1983(昭和58)年3月に
        現在の橋が竣工する。橋の親柱は竹の子の形をしている。

        
         こちらに旧橋があったようでコンクリートの支柱が残されている。

        
         東岸は江戸期に風待港として栄えた南風泊(はえどまり)港の一部をなしている。

        
         橋の左側には彦島の鼻が突き出ており、良好な舟だまりとなっている。

        
         橋を渡って左手の生活道に入ると金刀比羅宮への参道。

        
         鳥居には「天保五甲(1834)十一月吉日 阿知須浦(現在の山口市阿知須)縄舩中」と刻ま
        れている。鳥居左手の細い道を辿れば、北九州などが見渡せる海岸線に出ることができる。

        
         由来によると、1820(文政3)年萩の宮辺道右衛門が建立し、後に天満宮も合祀され、
        島民にとって大切な社とされている。

        
         メゴ笹のような竹に囲まれた1本道は整備されている。

        
         海岸線手前に崩れ落ちそうな橋が架けてあるが、漁場用のものであろう。海岸線の台場
        鼻には潮流信号所があるが、その海側に1900(明治33)年建造の台場鼻灯台があったよ
        うだが、航路標識が整備され、灯台の役目を終えて近年に解体されたという。

        
         対岸に北九州市の工場群。

        
         地質は新第三紀の芦屋層群に属する砂岩層で形成されており、海岸線には奇怪な造形が
        見られる。

        
         集落内の生活道。

        
         細長い生活道。

        
         台場鼻には通航流信号所があって、船舶通航信号と潮流信号を発信している。

        
         赤煉瓦塀はイギリス積み。 

        
         生活道は前田造船所前でメイン道に合わす。

        
         下関市の「し」の中にフグが描かれたマンホール蓋。デザインマンホール100選の1
        つとされる。

        
         旧道を進むとすぐ左手に路地があって、海岸線に出ると正面に六連島。

        
         島の裏側にはペットボトルなどの漂着ごみが散乱している。

        
         前田造船所の大型クレーンはどこからでも目立つ。

        
         放置されたハウスを多く見かけるが、ここでは花が栽培されていた。ガーベラと思った
        ら違うようで、栽培されて方から花名を教えていただいたが、聞きなれない名前のため彼
        方へとなる。

        
         生活道終点付近にある民家。この付近からは海岸線に出ることはできない。

        
         前田造船所前までは道幅もあってバスが進入できそうだが、回転場ができないため島入
        口までとされているとのこと。

        
         台地と樹林が響灘からの強風などを防いでいる。
 
        
         バス停に戻るとバスは待機していたが、少し時間があったので漁港付近から島を眺める。

        
        
         竹の子島の西岸は台地であったが、ここから見るとほぼ平坦な地形をなしている。地層
        以外に何か特色がある島ではないが、山口県内で架橋や渡船で行ける有人離島が30島あ
        るが、船を使わずに島から島へ行けるのは、この島と沖家室島(周防大島町)だけである。


周南市小畑は浴間の地に棚田

2022年02月21日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         小畑(おばた)は富田川の支流・神代川流域に位置し、北に四熊ヶ岳が聳える。
         地名の由来は、浴間の地で平地が少なく、小さな梯子畑が多いことに因むという。(歩行
        約5.5㎞) 

        
         小畑へは路線バスがあるものの夕方の2便のみ。朝便は山口市徳地堀発で、夕方は徳山
        駅発堀行きで通学等が考慮された運行のようだ。JR新南陽駅からタクシー利用とする。

        
         国道489号線を横断する形で旧道と思われる道が続いているが、復路の歩きを考える
        とこの付近でUターンする。

        
         祇園社の常夜燈だが、江戸期までは「祇園社」と称していたが、明治の神仏分離令で「
        祇園」のような仏教語は使用が禁止となり、多くの神社が社号を改めたという。

        
         最奥部に浄光寺(曹洞宗)と羽山集落。

        
         バス停前に門構えと塀に囲まれた重厚な民家。 

        
         平地は耕地に利用し、山裾に小さな集落を形成している。

        
        
         河内神社境内より歩いてきた道と羽山集落。

        
         下って行くと新幹線と山陽自動車道が横断する。

        
         高架を過ごすと広谷口分岐には、四熊ヶ岳登山口まで504mを示す案内板がある。

        
         急坂の右下に小畑市民センターと旧小畑小学校。

        
         四熊ヶ岳山麓の広谷集落へは山陽自動車道を越える。

        
         やまぐち棚田20選の1つとされる小畑の棚田。 

        
        
         水が張られる
時期になれば美しい光景が見られるだろう。

        
         作業効率の悪い棚田は耕作放棄地になっている。

        
         民家も石垣の上に建つ。

        
         広谷集落。

        
         石垣には足場石が組まれている。

        
         車道最奥部の「金明水」は、火山岩を浸透して出てくる地下水である。この名水を求め
        て遠方から来られる方や、一度に大量の水を汲まれる方など絶え間がないそうだ。


        
         ここが広谷口に案内されていた四熊ヶ岳登山口のようだ。  

        
         最奥民家(空家)の石垣は、樹木を利用した足場が設けてある。

        
         広谷口手前まで引き返し、学校裏から旧道に出ると小畑小学校前。

        
         小学校の建物と思ったが小畑市民センターだった。

        
         同敷地内にある小畑小学校は、1874(明治7)年開校したが、児童数の減少により20
        04(平成16)年休校となる。

        
        
         1889(明治22)年下上村、四熊村、小畑村の区域をもって富岡村が発足する。村名は
        古名の地名にちなみ、富田の岡ということで富岡村となったという。合併後、従来の三村
        独立の体制が長かったので、小学校の一本化には配慮がなされたのである。
         また、江戸期には四熊村と下上の一部が徳山藩領、小畑が萩本藩領だったことも起因し
        ているようだ。

        
         学校周辺は引地集落。

        
         国道に合わし永源山公園前を下り、県道新南陽津和野線の土井橋バス停からJR新南陽
        駅に戻る。(引地集落入口からバス停まで約2㎞)


周南市四熊は四熊ヶ岳の北に細長い山村集落

2022年02月18日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         四熊(しくま)は富田川支流の四熊川流域の山間に位置する。(歩行約6㎞、🚻なし)

        
         JR新南陽駅から防長バス中野行き約30分、松兼バス停で下車する。ここからバス路
        線を引き返す。

        
         新畑集落の家並みは雛壇状に並ぶ。

        
         見る機会が少なくなった氷柱。

        
         集落の最奥部に大楽寺。

        
         正面の山裾に奥四熊集落。

        
         急坂の先に棚田とゴルフ場、背後の山は四熊ヶ岳。

        
         何を生業にされているのかわからないが、いろんなものが所狭しと置かれている。

        
         棚田が広がる。

         
         次の集落は里四熊。右手の麓に四熊市民センターとその奥の集落内に四熊小学校がある。

        
         1882(明治15)年に開設されたという四熊八十八ヶ所霊場。地区住民の方が大切にさ
        れ、縁日には接待も行われているとのこと。

        
         四熊地区は里四熊を含めて7つの集落があり、歩く筋に松兼、新畑、庄原、井谷と四熊
        川沿いに向山、盆地の最奥部に奥四熊がある。

        
         陽を受けて輝く木造校舎の四熊小学校。

        
         四熊小学校は1878(明治11)年四熊小学として創設され、1899(明治32)年現在地
        に移転する。木造校舎として1855(昭和30)年改築されたが、児童減少により2015
        (平成27)年閉校となる。

        
         庄原集落手前から見る里四熊集落。

        
         倉の垰から井谷の棚田。道はこの先でアピンカーブして真下にある人家前に出るため、
        急坂だが生活道を利用する。

        
         峠から下ると才の本バス停前に出る。ここは早くから陽が差し込んだのか残雪が見られ
        ない。

        
         この付近の棚田は維持管理されている。

        
         井谷(いだに)中村バス停付近から見る棚田。 

        
         井谷集落を眺めているとウオーキング中の方が、戸数はたくさんあるように見えるが空
        家が多いという。

        
         2010(平成22)年3月「やまぐちの棚田20選」に選定された旨の看板がある。棚田
        の保全を図る目的で会も結成されたが、当時の平均年齢が66歳であり、維持管理は厳し
        いものがあるようだ。

        
         下井谷バス停付近から井谷集落を眺めると、法師ヶ岳山頂に「ひまわり子育て観音」が
        設置されており、管理者の徳山国際カントリー倶楽部と新エネルギー産業技術総合開発機
        構の共同事業で、発電事業も展開されているとか。
         この先で四熊地区から上村地区に入り、県道新南陽津和野線の保安寺前バス停から新南
        陽駅に戻る。 


周南市長穂の竜文寺から長穂市を巡る  

2022年02月16日 | 山口県周南市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         長穂(ながほ)は竜文寺山の南麓を大きく迂回した錦川が、再び北流する付近、主として南
        部の小盆地に位置する。
         地名の由来は、往古、長田(ちょうだ)と呼称していたが、次第に人家が増えて開発も進め
        られた。あるとき、ことのほか長い稲の穂ができたので村中の人々は、これを喜び村名を
        長穂に改めたという。(歩行約3.8㎞) 

        
         JR徳山駅(11:25)4番のりばから防長バス徳山カントリー前行き約40分、終点で下車
        する。バスはそのまま直進すると回転場があるそうだ。

        
         門前橋左手に微かだが向道ダムが見える。瀬戸内の工業地帯や海軍燃料廠などの用水を
        確保するため、1938(昭和13)年3月に着手し、1940(昭和15)年10月に完成した。
        多目的ダム(治水、工水、上水道、発電)としては、日本で最初に運用が開始されたものだ
        という。

        
         木立に囲まれた緩やかな坂道を上ると、竜文寺(曹洞宗)の山門が見えてくる。山門は2
        005(平成17)年に再建されたという。

        
         山門を潜ると石畳の先に本堂が見える。1881(明治14)年5月の火災で多くの堂宇を
        焼失し、その後、再建されたが旧観は山門をとどめるにすぎない。

        
         室町期の1429(永亨元)年陶盛政が大内持世の命によって創建した古刹で、その後、陶
        氏代々の菩提寺とする。
         1555(弘治元)年、陶晴賢は厳島の戦いで毛利氏に敗北し自害する。晴賢死後、居城の
        富田若山城は先に父を殺害された杉重輔によって攻め落とされた。
         伝承では晴賢の嫡男・長房はこの寺に逃れたが、周方神社祭礼の踊りに紛れて寺内に乱
        入してきたため、陶一族は自害したという。

        
         周方神社の踊りは、その後、陶氏追善供養のため7月7日に舞われてきたが、やがて雨
        乞いの踊りへと変化し、長穂の念仏踊りとして現在に引き継がれている。(大内菱の入った
        鬼瓦) 

        
         本堂の左側に出ると「陶氏墓所」が案内されている。石段を含め約100mの所にある。

        
        
         陶盛政、弘房、弘護、興房、長房らの当主および宗族の家臣らの五輪塔墓が50~60
        基あるようだが、人物を特定できるのは2基のみだそうだ。

        
         下車したバス停まで戻ってバス路線を東へ向かう。

        
        
         周方(すわ)神社の社伝によれば清寧天皇の時(480-484)、
出雲国より現鎮座地の南方にあ
        たる下莇(しもあざみ)の地に影向された。
         のちに他地へ遷座し周方大明神と称し、年次は不明であるが現在地に
社殿を造営して祭
        ったと伝える。
         
        
         右後方の高台には、2001(平成13)年開校した翔北中学校の校舎が見えるが、201
        2(平成24)年に休校となり、今は建物だけが集落を見下ろしている。
         その校舎を利用して、中山間地域の若者定住を取り組む会社があると聞いていたが、こ
        こからは人の出入りは感じられないが撤退してしまったのだろうか。

        
         何の建物だったのだろうか。「刃物とぎます」の看板が目立つ。

        
         小盆地に広がる農地。左前方の周防カントリークラブ(22年2月末閉鎖予定)付近に、
        1941(昭和16)年に干ばつ対策として山口ダムが完成し、地区内の1/3の水田を潤してい
        る。

        
         この付近から民家が密集する。

        
         1889(明治22)年の町村制の施行により、莇地(あどうじ)村と長穂村の区域をもって長
        穂村が発足し、旧村名を大字として地名を存続させた。
         昭和の大合併で須々万村、中須村と合併して都濃町が発足するが、1966(昭和41)
        徳山市に編入される。

        
         域内の中心は長穂市で日本海の多雪地帯に分布される。花の数が少ないとされるオクチ
        ョウジ桜があるとのこと。

        
         旧郵便局舎前に長穂バス停。15時05分発までには時間があるので付近を周回する。

        
         下って行くと火伏せ地蔵尊がある付近で民家が途切れる。

        
         旧長穂小学校はグラウンドのみが残され、校舎は解体されて跡地には周南市支所、市民
        センターが建設されている。


周南市大向はダムで移転した集落 

2022年02月14日 | 山口県周南市

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大向(おおむかい)は金峰山(みたけさん)の南西麓に位置し、地内に向道ダムがある。地名の
        由来は、地下(じげ)上申に「大水出之時分は うら向遠相見申候につき 大向と申し候」と
        ある。(歩行約2㎞)

        
         JR新南陽駅(9:29)から防長バス「コアプラザかの」行き約35分、大向バス停で下車。

        
         バス停前(大向市民センター)から国道筋を引き返す。

        
         錦川は周南市鹿野町を水源とし、大向地区を南東に流下した後、向道ダムを経て長穂地
        区で北へ向きを変えて菅野ダムへ流れ込む。

        
        
         青尾にある曹洞宗の西方寺(さいほうじ)は、室町期の1441(嘉吉元)年創建と伝える。

        
         こじんまりした小さな町(集落) 

        
         国道の山手側に集落道。

        
         大向小学校の校舎とグラウンド。

        
         明治初期頃に大向小学として創立され、1878(明治11)年青苧地区に校舎を新築する。
        1940(昭和15)年ダム建設により現在地へ移転して、1977(昭和52)年現校舎の新築
        が行われたが、児童減少などもあって、2009(平成21)年休校となる。

        
        
         学校の思い出が懐古展として窓に写真が展示されているが、その中の1枚を借用する。

        
         二俣神社は平安期の延喜式神明帳に「都濃郡一座二俣神社」と記されるが、当神社と推
        定される。

        
        
         境内入口に狛犬と左右に長い石垣と玉垣。 

        
         社伝によると、弥生時代後期の189年創建といい、旧社地は東方の金峰山麓あったと
        いう。最も古い棟札は室町期の1489(延徳元)年で、その他いくつかの棟札が残るようだ
        が、1782(天明2)年頃現在地に遷座したという。

        
         同じ敷地内に出雲大社大向教会所 

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、大向村と大道理村の区域をもって向道村が発
        足する。村役場は大向とされたが、大道理から遠いため中間付近の横瀬に移転するなど、
        発足当初から村政に関して紛争が起こり、二村分離の村会決議がなされたが、分離は食い
        止められた。このような両地区の関係もあって、小学校は統合されることなく2校に分け
        て運営された。(この先で道は国道と合わす) 

        
         二俣橋から見る上流の国道筋。

        
         1938(昭和13)年に着手された向道ダムにより、村の中心だった青苧地区は湖底に埋
        没する。
         そのため、150戸の地区民は二俣やその他の地に移り、内、28戸は村外に移転した
        という。(橋下流の町並み)

        
         二俣神社参道で引き返して大向バス停に戻る。


下松市西豊井は降松神社から柳井往来道

2022年02月12日 | 山口県下松市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         西豊井(にしとよい)は切戸川下流域一帯の沖積地に位置する。1889(明治22)年町村制
        の施行により、東豊井村と西豊井村の区域をもって豊井村を形成し、後に下松町と改称す
        る。現在の国道188号北側一帯は、1939(昭和14)年までは久保村の区域であった。(
        歩行約6.8㎞、🚻途中に公園、ゆめタウン)


        
         JR下松駅南口1番バス停から防長バスゆめプラザ熊毛行き約10分、下松高校前バス
        停で下車する。

        
         交差点の角に原田重庸(はらだちょうよう)先生之碑がある。下松市大河内に住み、降松神社
        の宮司を務めながら、付近の子弟を集めて教育したという。
         没後に教えを受けた門弟たちが石碑を建立したもので、碑には明治25年(1892)12月
        18日と辞世の句が刻まれている。

        
         県道を横断すると妙見橋手前に御旅所。先ほどの石碑の奥に大河内集会所があり、「地
        下(じげ)上申」に記載される妙見社の舞殿(妙見休殿)があったとされるが見落とす。(鳥居
        は一の鳥居)

        
         妙見橋背後の高台にある下松高校は中世の寺跡。

        
         橋を渡れば二の鳥居。延宝七己未(1679)の銘がある。

        
         降松(くだまつ)神社若宮の参道と随神門。

        
         参道の途中に下松市指定記念物の「ヤマザクラ」と麓は大河内集落。

        
         由緒によると、推古天皇の代に青柳浦に大星が降り、百済より太子が来朝するとの神託
        があって、神霊を祀り北辰妙見社となり鷲頭庄の氏神となる。
         のちに鷲頭山に上宮・中宮が建立され、大内弘世が鷲頭山の麓・赤坂に若宮を建立する。               
        (拝殿の唐破風に大内菱)
         元和年間(1615-1624)下松藩の毛利就隆が若宮を現在地に遷し、現在の若宮は1767(
        明和4)年毛利就馴(なりよし)の再建とされる。明治政府の神仏分離政策により、1870(明
          治3)
年仏像などは鷲頭寺(じゅとうじ)に移され、妙見社は降松神社と改められる。

        
         妙見社の別当坊であった鷲頭寺が参道脇にあったが、1879(明治12)年中市へ移転す
        る。

        
         若宮から降松神社上宮まで約2㎞もあり、下松駅までの距離を考えると残念せざるを得
        ない。

        
         切戸川に沿うと右手に降松神社若宮。

        
         大河内橋の先で切戸川左岸道を進む。

        
         石場建て工法に濡れ縁が置かれた古民家。(現在は無住のK家) 

        
         幼稚園の中に寺があるといった感じの西念寺(浄土真宗)は、1635(寛永12)年俗名山
        崎外摂によって創建されたと伝える。明治期に女子教育の私塾(淑徳女学院)が開かれたが、
        大正の初めに閉校したという。

        
         西念寺がある地域を八口(はっこう)といい、八つの村(下松・末武・花岡・生野屋・山田・
        久保市・吉原・八条)よりの入口なので八口と名がついたようだ。

        
        
         1617(元和3)年毛利就隆が、この地方で高3万石の地を与えられ分封したとき、下松
        の地に居館を設ける。1640(寛永17)年就隆の側室・永心寺殿の菩提寺として永心寺が
        創建された。
         1625(寛永2)年永心寺殿が生んだ伊勢姫は、就隆にとって最初の娘であったが、病弱
        のため一生婚せず45歳で死去する。伊勢姫も同寺に葬られ、永心寺殿母娘の戒名から松
        心寺と改められる。
         両名の墓が境内墓地にあるが、入口付近が改修中であったので立ち入らず。(この付近ま
        でが旧久保村)

        
         国道188号の函渠を潜ると旧豊井村。

        
         丘陵地帯の麓を西へ向かうと、右手に東光寺観音堂への石段がある。

        
         石段を上がると下松市の記念物であるヤマザクラが根元付近で伐採されていた。近所の
        方によると、強風で折れ危険回避のため伐採された。階段は149段もあるが急坂でない
        ので難なく上がれますとのことだった。

        
         東光寺観音堂は、東光寺の寺跡にあったものを現在地に移したとされ、現在は泉所寺の
        所有とされる。

        
         
         観音堂の裏手に行けば市街地西部が一望できる。
    
        
         ゆめタウン下松で一息入れて平田川を目指す。

        
         ゆめタウンから住宅街を通り、平田川の大海町橋手前で西市に入る。(歩いてきた道)

        
         平田川下流から玉鶴川までが西市、切戸川を渡って樋の上までが中市で、家が密集して
        繁華街をなしていたという。この道は本往還ではないが、上関、大島、熊毛方面への往来
        道であった。

        
         このような建物が残っている。

        

        
         正福寺(真言宗)は江戸期の火災によって、旧記類を焼失したため古い時代のことはわか
        らないそうだが、すでに大内氏の時代から厚い加護を受けていたという。

        
         医院だった建物。

        
         貴船神社の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、水の神として祀られている。1870(明
        治3)年天満宮を併祀している。その先、玉鶴川を渡ったところから中市。

        

        
         この付近は船着場として早くから開けたところで、商家や荷揚場が多くあったという。
        (切戸橋)

        
         電業社だったのか美容院だったのか不明だが崩壊の途にある。

        

         往来道だった頃の面影を残す家並み。

        
        
         寺伝によれは、室町期の天文年中(1532-1555)大内氏が現在の地から東北方3町ばかりに
        西福寺(さいふくじ)を建立する。大内氏滅亡後は衰退したが、1626(寛永3)年毛利就隆が
        亡母の菩提を弔うため、その法号から「周慶寺」(浄土宗)と改める。
         その後、現在地に移り諸堂を建立する。
門前には寺経営の「市屋敷」があり、寺を中心
        に中市・西市・東市が形成されたという。

        

        
         参道に「妙見宮」の額束がかかる鳥居。

        
         妙見宮鷲頭寺は真言宗御室派に属するが、本堂は権現造りで神社のような佇まいを見せ
        る。

        
         もとは鷲頭山の麓にあって妙見宮の別当坊であったが、明治の神仏分離令により、18
        79(明治12)年現在地に移転する。

        
         狛犬も存在し、周南七福神の大黒様(大黒天)も祀られているので、神社と錯覚して手を
        叩きそうになる。

        
         裏路地を歩くと飲食街。

        
         笠戸大橋と笠戸ヒラメがデザインされたマンホール蓋。

        
         裏路地から普門寺(浄土宗)への道は、江戸期には切戸川からここまでが中市、現在の駅
        前付近が東市であったようだ。
         1600年代に創建された境内には、龍のように幹を伸ばした老松がある。 

        
         普門寺前の大通りは整備されて面影を残していない。

        
         浄西寺(浄土宗)は、1615(元和元)年磯部常安が出家して、先祖供養のため創建したと
        いう。

         
         飲食店街に戻るとコロナによる休業を知らせる張り紙が多くみられる。


下松市東豊井は海側に工場群、山側が住宅地 

2022年02月11日 | 山口県下松市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         東豊井(ひがしとよい)は切戸川下流左岸に位置し、西は笠戸湾に面する。地名の由来につ
        いて、地下(じげ)上申は清水の湧き出る豊かな井戸があったことによるとする。(歩行約5.
        9㎞)

        
         JR下松駅は、1897(明治30)年山陽鉄道の広島ー徳山間が開通したと同時に開業す
        る。
駅舎は1965(昭和40)年現在の橋上駅となったが、県内では最初の橋上駅である。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、東豊井村と西豊井村の区域をもって豊井村が
        発足し、のちに下松町なるが、駅前の広島銀行東の路地が合併前の村境であったという。 

        
         新町は、1677(延宝5)年新たに造られた町だそうだ。

        
        
         新町の一本松老人集会所のある地は、かって一本松寮(寺の寮?)と呼ばれ、観音菩薩が
        祀られ市内最古の宝篋印塔があったとされる。石碑ははっきり読めないが、一本松寮を再
        建した記念碑のようである。

        
         当時の下松藩(のちの徳山藩)の御舟倉があった地とされる。

        
         鍵曲りになった地に海上の守護神、和歌の神、商売繁盛の神として崇敬されてきた住吉
        神社。

        
         さらに進むと県道徳山下松線に合わす。 

        
         県道を横断すると二宮町公園内に埴常社(はにとこしゃ)があるが、1802(享和2)年富洲
        屋が建立したとされる。1917(大正6)年久原房之介(日立製作所)が一帯を買収後、当時
        の地区の人々が現在の地に移転した際、社も移転したとされる。

        
         県道合流点に戻って直進すると弁財天社がある。祭神は下松の有力者だった小嶋家由来
        のもので、1941(昭和16)年に旧国道から移転する。常夜塔や鳥居は東洋鋼板内にあっ
        た旧磯部・矢嶋邸より移設される。

        
         弁財天社の隣には金倉寺と記されたお堂と、手前に「力石」が置かれている。

        
         下松は海軍工廠のある光市と海軍燃料廠のある徳山市に隣接し、大規模な兵器製造工場
        があったことから米軍の標的となる。1945(昭和20)年5月以降6回にわたる空襲を受
        け、2・3回目は市街地を焼失するなど甚大な被害をもたらした。

        
         大谷川に架かる橋の親柱。

        
         東洋鋼板の敷地内に、1709(宝永6)年「富洲屋」の初代磯部好助が建てた別荘と、邸
        の東に広大な塩田があったという。大谷川と県道笠戸島公園線に挟まれた一角にある老松
        が邸の残りを留める。

        
         右手に日立製作所を見て右折すると、今でも引込線がある。

        
         次の線路は山陽本線で中豊井踏切を横断する。

        
         豊井小学校前を右折すると、学校先に大地之森(おおじのもり)と呼ばれる森がある。石祠
        とお堂が祀られ、祠を取り囲むように下松市保存樹のムクノキ、エノキの巨木がある。

        
         さらに東へ向かうと国道高架を潜る。

        
         慶雲寺(曹洞宗)

        
         東端にある摂社・降松神社は、もと宮ノ洲山にあった小社で、明治期に摂社となった後、
        久原房之助の用地買収により、恋ヶ浜にあった荒神社を合祀してこの地に移転したとされ
        る。摂社とは本社に付属し、その祭神と深い神を祀った神社のことらしい。

        
         境内には宮洲屋関連の狛犬や灯籠が現存し、手水鉢には「筑州柳川領廻船中」と刻まれ
        ている。

        
         亀甲模様に市章と「汚水」が入った下松市のマンホール蓋。 

        
         豊井小学校裏に疫神を祀る八坂神社の由緒等は不明。

        
        
         妙法寺(曹洞宗)の沿革によると、1854(嘉永7)年11月の南海地方の大地震で山門を
        残して全焼し、昭和期にも大火に見舞われて詳細な古文書を失ったが、室町期の1553
        (天文22)年が開創とされている。
         山門は2度の大火を免れたが、老朽化のため昭和期に同型に改修された。

        
         土地勘がないため地図を頼りに駅方面へ向かうが、予定とは違う道を歩いてしまう。

        
         右手の西教寺(真宗)は、1941(昭和16)年駅前の道路拡張に伴い、当地に移転してき
        たという。

        
        
         先祖伝承をまとめた「大内多々良譜牒」によると、推古天皇の頃、青柳浦に星が降って
        きて、松の木の上に留まって七日七晩輝き「異国から太子がこの地にやってくる。太子を
        護るため降ってきた」というお告げがあったことに始まり、3年後に百済の琳聖太子が来
        朝したため、人々は降臨の松・連理の松・相生の三樹が鼎の形をしているので鼎(かなえ)
        松と呼んで松の木を崇めたという。(現在の松は5代目) 

        
         鼎大明神を祀る金輪神社。下松の地名は「星が降った」が「降り松」となり、下松にな
        ったといわれるが他説もあり。

        
         JR下松駅北口に戻る。


光市小周防は周防国造在所があった地

2022年02月09日 | 山口県光市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         小周防(こずおう)は島田川中流域の河岸低地、及び同川支流の笠野川・虹川に沿った沖積
        低地と背後の小周防丘陵に立地する。
         もとは古周防と記し、周防の古府の地であり、何時となく小周防となったという。(歩行
        約4.8㎞)

        
         JR島田駅から島田駅前バス停までの小路に「牛馬の碑」がある。説明によると、島田
        川の氾濫が明治、大正、昭和、平成とそれぞれ1回起きている。その氾濫時に三島橋に樹
        木とともに牛馬が引っ掛かり、その慰霊・鎮魂のための碑と伝える。

        
         島田駅前バス停から防長バス兼清行き約10分、小周防バス停で下車する。三丘温泉が
        あるためかバスは概ね1時間に1本運行されている。

        
         バス停先で県道が交わるが、ここを左折して県道下松田布施線を下松方面へ向かう。

        
         島田川が域内を二分する。

        
         八幡所交差点から笠野川への道に入る。

        
         笠野川の上流へ向かうと門前橋。

        
        
         渓月院までは約480mの上り坂。 

        
        
         渓月院の由緒によると、室町期の文安年間(1444-1449)頃に創建された曹洞宗金剛派の4
        道場(他に廿日市の洞雲寺、徳島の丈六寺、下関の功山寺)のひとつとされる。
         大内時代に建立された堂宇は焼失し、毛利氏の手によって再建されたが、明治中期に再
        び火災に遭い昔の面影が失われた。
         室町期の1555(弘治元)年毛利元就が都濃郡須々万の沼城攻撃に際し、仮陣所を設けた
        寺と記されている。

        
         県道まで戻って島田川に架かる永代橋を渡り、川に沿うと道路の右側に住宅が並び、左
        手は農地といった風景になる。

        
         住宅が途切れる付近で田園を横断して県道光玖珂線側に移動する。交差する角に「八幡
        宮常夜燈」があるが、近辺に八幡宮は見当たらず。

        
         周防小学校グラウンド脇に周防国造在所之地碑が建立されている。周防国造(すはのくにの
          みやつこ)
は周防(周芳)国を支配したとされ、応神天皇の時代(200-310)に加米乃意美(かみの
                   おみ)
を国造に定めたことに始まるという。
         碑の周辺に国造の在所があったとされ、大化の改新後、大和政権から凡直(お
おしのあたい)
        の姓を受け、周防国の有力豪族として長らく栄えたという。
         律令制度が整えられ、それまでの地方豪族による国造制から機構が変わり、周防の国府
        は古くから開けた佐婆(防府)に置かれた。

        
         バス停付近まで戻ると左手に光市立さつき幼稚園の建物がある。少子化の影響もあって
        年々園児の減少が続いたようで、2018(平成30)年に閉園になったとのこと。

        
         幼稚園入口には田園の環境を守り、収穫の効率性を求めて、1952(昭和27)年島田川
        土地改良区を発足させて、圃場整備等を行ってきたが、その役目を終えて解散した旨の碑
        である。
         13時32分のバス時間までバス停傍のジョイフル小周防店で時間待ちする。


柳井市神代は中心部が柳井で岩国市に駅

2022年02月02日 | 山口県柳井市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         神代(こうじろ)は滝川流域に位置し、南東は瀬戸内海に面している。
         地名の由来について、「地名淵鑑」には神稲代の稲を省いたものと記している。(歩行
        約6㎞、🚻観光センターと途中に1ヶ所)

        
         JR神代駅は、1899(明治32)年山陽鉄道の駅として開業したが、その後、閉鎖や停
        車場に格下げになるなどの変遷を繰り返したが、1944(昭和19)年駅に昇格する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の神代村がそのまま自治体を形成し
        て村名が駅名となった。
         ところが、1855(昭和30)年の昭和の大合併で旧神代村の過半は大畠村に属し、駅の
        ある東部分は由宇町に編入されて字神東となったが、駅名は設置当時の名称で残された。

        
         神東は平地部分が少なく、国道と山陽本線に挟まれた中に家々は立地するが、国道は歩
        車分離でなく交通量も多いので柳井市神代に移動する。

        
         JR大畠駅は、1897(明治30)年海を埋立して山陽鉄道の駅として開業する。ホーム
        の目の前には大畠瀬戸と、対岸の周防大島を結ぶ大島大橋が見える。駅のある地は旧神代
        村であったが、山陽鉄道開通時から駅名は大畠駅だったようだ。

              
         駅前から岩国方面に進み、陸橋の先で左折して小さな丘を上がると、大島大橋の広場前
        に出る。

        
         1976(昭和51)年7月大島大橋は日本道路公団により有料道路として開通する。その
        後、山口県に事業譲渡され、1996(平成8)年6月無料開放された。

        
         山陽本線と国道をまたぐため、大畠瀬戸に沿って走る列車の撮影スポットとされる。列
        車を待ったが冷たい風が吹きつけるため早々に引き上げる。

        
         大橋筋の道を大畠方面に引き返すと、右手に大畠観光センターがある。トイレや食堂も
        併設されて弁当や地元産品もゲットできる。(月曜日が定休、営業時間は15時まで)

        
         大島大橋と大畠瀬戸の渦潮、跳ねる鯛一匹がデザインされたマンホール蓋。

        
         大島大橋の全景が見えることを期待して観光センター裏手の道を上がる。

        
         周防大島への送電鉄塔。

        
         鉄塔を巻くように下って行くと、角度は悪いが大島大橋と大畠瀬戸、対岸の飯の山が見
        える。

        
         般若姫は豊後国の満野長者の娘であったが難病を患っていた。あるとき「橘豊日皇子」
        (後の用明天皇)が流鏑馬神事で彼女の病を治したという。
         その後、二人は結ばれたが皇子は都に帰らなければならなくなり、般若姫は皇子に会う
        ために臼杵の港から旅立つ。
         しかし、大畠瀬戸にさしかかった折、大きな嵐に見舞われ、嵐は長者に池を潰されて家
        族を殺された「金龍神」の嵐だといい、1週間も収まらず、嵐を鎮めるには命を捧げるし
        かないと瀬戸の海に身を投じたという般若姫伝説がある。

        
         瀬戸山墓地園を過ごすと国道に合わし、次の三叉路で岩国方面へ向かう。

        
         海側の神代集落。

        
         三方を山に囲まれた集落。

        
         海岸部を国道と山陽本線。

        
         1918(大正7)年に住宅として建てられたもので、当主が郵便局長であったことから、
        一時期は神代郵便局として使用された。翼廊付き総2階建ての洋風建築で、唐破風屋根と
        の取り合わせが独特である。(H邸)

        
         注連石(しめいし)の先にある鳥居は、1693(元禄6)年岩国領主・吉川広紀が寄進。

        
         春は椿(ツバキ)、夏は榎(エノキ)、秋は楸(ヒサギ)、冬は柊(ヒイラギ)といわれるよう
        に、ご神木のエゾエノキ(蝦夷榎)は夏の木とされる。夏にたくさんの葉をつけて涼しげな
        木陰をつくる所以だろうか。

        
         神代浦東浜の山手に鎮座する正(ただす)八幡宮。玖珂郡誌は安土桃山期の1595(文禄4)
        年に内藤河内守元栄という者が、山城国石清水八幡宮より勧請したと記す。

        
         拝殿に「お福豆」と「清めの塩」が置かれていたので、お賽銭をプラスして豆をいただ
        く。明日は節分、次の日は立春、「1月は往ぬる2月は逃げる3月は去る」といわれるよ
        うに月日が流れてゆく。

        
         岩国領主が領内巡見で通った往還道を少し歩いてみる。

        
         どの道が往還道なのかわからないが、国道から離れて集落道に入る。

        
         棚田の中に人家といった感じになる。

        
         金魚の口から水が噴き出ている消火栓蓋。

        
         中筋より神代の浦を臨む。

        
         中筋の台地東方にあった神代勘解由屋敷は、神代の浦を臨む位置にあった。中世の頃に 
        神代氏の本拠地であったと考えられる。

        
         中筋地区公会堂から畦道に入ると光明寺跡。その跡に室町期の板碑が立っている。

        
         自然石板碑は正面中央部に円を描き、その中に弥陀三尊種子を、その圏外上部中央に金
        剛界大日如来種子を刻む。もらいものができたときに祈ると治るといわれている。

        
         周回できるようだが急坂のため引き返し、大畠保育所前から滝川右岸を下る。

        
         神代のマンホール蓋は、大島大橋と鯛2匹がデザインされ、「こうじろ」の文字が入っ
        ている。

        
         公園にみかんの形をしたトイレ。

         
         この地域は路線バスがないため駅まで歩かなければならない。国道437号歩きは長い
        上り坂を耐えなければならないので、国道188号に出て大畠駅に戻る。
         これといった名所がある町ではないが、見えぬ先に何かがあるのではとワクワク歩きを
        させる町だった。