ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市吉部は旧船木鉄道の終着地 

2020年04月30日 | 山口県宇部市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         吉部(きべ)は厚東川の中流域および有帆川の支流である今富川流域の丘陵及び沖積低地
        に位置する。
         江戸期には山陽道の要地である舟木市から秋吉村を経て萩に至る舟
木街道に沿って発達
        した市(町)で、今も町並みなどが面影を残している。(約2.8㎞) 

           
         公共交通機関を利用する場合、JR宇部駅(10:50)から船木経由(11:03-11:10)で宮ノ前
        バス停で下車する。

           
         吉部八幡宮参道の左手に旧船木鉄道の橋台跡が残る。

           
         吉部八幡宮は吉部市の北方山寄りに鎮座する。

           
         風土注進案によれば、寺尾八幡宮と記し、鎌倉期の1261(弘長元)年領主・厚東武村の
        命により宇佐神宮から勧請したのに始まるという。江戸期には厚狭郡の中心となった神社
        とのこと。
         毎年11月に行われる「芋煮の神事」は、鎮座直会の故事によるという。社殿の西浜床
        で、芋と餅を各9個を煮、神に供えて神意を問うという神事だそうだ。

           
         吉部八幡宮には社坊として神宮寺(真言宗)があり、江戸期には厚狭郡中の祈祷所とされ
        たが、1870(明治3)年廃寺となる。

           
         八幡宮横から厚東川支流に沿うと、正面に吉部小学校。

           
         船木鉄道の橋台跡。

           
         吉部中学校は、2003(平成15)年3月万倉中学校とともに統合されて楠中学校(船木)
        となり、跡地に小学校が移転してくる。

           
         旧吉部小学校校舎は、宇部市北部地域の活性化に取り組む「うべの里生徒会」の拠点と
        して、一部には食堂「職員室café」も運営されている。

           
         船木鉄道敷跡へは旧吉部小学校と現吉部小学校の間を抜ける。

           
         鉄道敷地跡には吉部千本桜桃源計画に基づいて桜並木が850mも続く。(東屋あり)

           
         集落北側の路盤は遊歩道兼農地用道路に活用されている。

           
         船木鉄道は旧山陽道船木市と山陽鉄道(現在の山陽本線)宇部駅を結ぶ鉄道として、19
        16(大正5)年に開通する。続いて万倉まで延長され、1926(大正15)年11月には吉部
        までが完成する。

           
         船木への乗客と沿線の石炭輸送を目的に宇部駅まで17.7㎞が開通したが、1944
          (昭和19)年3月吉部ー万倉間の8㎞は、戦局の悪化でレールの供出命令により廃止された。

           
         宇部駅から吉部までは12駅が設けられたが、大棚と吉部間に大棚トンネル(全長37
        m)があった。(トンネルを潜ると足下に枕木)

           
         大棚の線路敷から見る吉部の町並み。

           
         県道豊田美祢線を中心部へ向かう。

           
         町の木だったクスノキと町章、周囲にツツジがデザインされた旧楠町のマンホール蓋。

           
         2013(平成25)年第25回UBEビエンナーレで市民賞をとった「じいちゃんの鼻の
        穴に宇宙があった」(佐藤圭一氏寄贈)
         昼寝をしているじいちゃんの鼻を覗いたら宇宙が見えたという作品で、覗くと宇宙が見
        える仕掛けとなっている。

           
         県道南側の集落の川岸には、6月初旬にホタルが舞うとか。

           
         常光寺(真宗)の創建について風土注進案は、開基は美祢郡伊佐庄に住んでいた大内義隆
        の家臣・岩村彦右衛門政俊の子が、安土桃山期の1589(天正17)年一宇を建立したのに
        始まるという。後に現在地に移り、往還筋にあるので巡見使や萩藩の役人の宿になること
        が多かったと伝える。

           
         元造り酒屋だったそうでむくり屋根と虫籠窓が目立つ。

          
         往還道は元造り酒屋の前で鉤の手。

           
         吉部市の馬場東にある西念寺(真宗)は、風土注進案によれば大内義隆の家臣で阿部信勝
        が、本願寺の顕如に帰依したという。帰国後に廃絶していた田福寺の地に一宇を建立した
        のに始まるという。

           
         1600(慶長5)年に寺号が許され、寺社奉行の命令を配下寺院に伝達する船木寺社方触
        役を務める。

           
         舟木街道に沿って開かれた市であったが、本往来でなく往来人馬継所であり、馬8疋と
        して人足の定めはなく、入用の際は在村に割符を出して集めていたとされる。

           
         1889(明治22)年までは東吉部と西吉部の2村に分かれていたが、町村制施行により
        吉部村となる。1955(昭和30)年船木町・吉部村・万倉村が合併して楠町となるが、吉
        部ふれあいセンターの地に村役場が置かれていた。


山口市阿東の生雲中は山代街道の宿場町 

2020年04月28日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものものである。(承認番号 令元情複第546号)
         生雲市(いくもいち)は中央を南流する生雲川沿いに細長く盆地状に開け、東西を県道11
        号線(萩篠生線)が走る。
         萩城下から紙の産地であった山代を結ぶ街道が、生雲市を東西に通っていた。
(歩行約
        4㎞)

        
        
         JR新山口駅(8:52)から特急「おき」を利用してJR三谷駅で下車(9:34)し、駅前を左
        折して山口線に沿うと徒歩6分で三谷駅バス停がある。防長バス萩行き(10:10)7分、生雲
        バス停で下車する予定であったが、コロナ緊急事態宣言を受けて車利用とする。

        
         生雲市はJR三谷駅から約5.2㎞の距離にあり、県道筋にある警察署の交番手前から
        旧道へ入る。


               
         1849(嘉永2)年の橋供養碑が傍に残されている。

        
         阿武川の支流である生雲川の先に町並みがある。
 
        
        
         山代街道には8つの市(宿場)があり、その一つが生雲市であった。

        
         若味噌川が交わる所に八千代屋旅館、時計店、自転車店などがあったという。

        
        常盤橋が上市と下市の境。

        
         大谷家跡は常盤橋手前を右折し、県道310号線を100mほど北へ向かう。

        
         代々大庄屋を勤めた大谷家は本陣として使われ、明治~大正期までは小学校として使わ
        れたが、現在はわずか石垣が残るだけである。9代忠兵衛と10代久七は尊王の志が高く、
        1863(文久3)年長州に亡命した中山忠光と、七卿の一人沢宣嘉をかくまう。幕末の志士
        久坂玄瑞の母・富子は忠兵衛の妹であったので度々同家を訪れている。石州口の情報収集
        に訪れた大村益次郎やなどが集う家でもあった。

        
         大谷家墓所へは相栄町集会所から案内に従い、右手の坂道を上がる。

        
         生雲市の町並み。

        
         大谷家が萩に移るまでの墓所である。中央に久坂玄瑞の伯父にあたる大谷忠兵衛(戒名:
        楽山亭仙齢壽昌居士)、郷友隊を編成した大谷久七らが眠る。

        
         常盤橋から生雲八幡宮までが生雲市の中心として栄える。萩の乱(前原一誠の乱)では反
        乱軍が駐屯したため戦禍で大半が焼失する。

        
         市戎と思われる祠と村上酒場。

        
        
         医者宅であったようだが、山口に転居されて空き家だとのこと。

        
         大庄屋だった大谷家の建物とされる中市屋商店(寺山家)さん。棟札を拝見すると「天保
        12(1841)辛丑 2月13日 叶本宅 大谷種蔵代」とあり。

        
         煙出しのある家だが、構えから何か製造をされていたのであろう。

        
         通りの右側には手前から菓子店、理髪店、時計店があったとされるが、すでに廃業され
        ている。

        
         鳥居手前の右手には出勘場があり、生雲村時代には村役場が置かれた。

        
         鳥居の右手手前から生雲郵便局、文房具店、呉服店が並んでいた。

        
         参道入口に鳥居と常夜燈、参道には桜並木が続くが、鳥居の左手には脇本陣(目代所)の
        三戸家があったとされる。

        
         生雲八幡宮の社伝によれば、南北朝期の1349(貞和5)年宇佐八幡宮より勧請し、古宮
        の地に祀ったが、1695(元禄8年)現在地に遷座したという。1864(元治元)年8月七卿
        落ちの一人である澤宣嘉(さわ のぶよし)は、大庄屋大谷家に滞在中に生雲八幡宮へ詣で、尊
        王攘夷の願文を祝詞形式にして奉納する。

        
         神社前からは上新町通り。

        
         山代街道は元野村雑貨店先を右折して路地に入る。

        
         溜池奥に明尊寺の屋根。

        
         明尊寺(真宗)は蔵目喜村にあったが鉱山の閉鎖等で人口が減少し、慶応年中(1865-1868)
        に当地へ移転してきた。(住職談) 

        
         大谷忠兵衛の隠居地「楽山亭」があった地で、久坂玄瑞は14歳で母、15歳で父と兄
        を亡くし、よく伯父を訪ねて憩いの場とした。こうした縁故もあって、のちに公卿中山忠
        光や沢宣嘉などが隠棲地とした。

        
         1866(慶応2)年2月幕府軍と石州口での戦いに備えて、主力の南園隊は大谷家別邸を
        本陣とした。ここには演習場、兵舎、弾薬庫などが置かれたが、大谷家は武器調達などの
        資金も提供したとされる。

        
         生雲バス停(12:47)から三谷駅入口(12:55-13:05)で湯田温泉行きバスに乗車して戻る予
        定であったが、路線バスの旅を楽しむことなく新山口駅に戻る。


山口市阿東の嘉年は標高400mに位置する山村集落 

2020年04月28日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         嘉年(かね)は阿武川流域に位置し、四方を山々に囲まれた盆地の中に集落が点在する。地
        名の由来は、阿武川の源を意味する河根(かね)にちなむという。(歩行約2.4㎞)

        
         JR徳佐駅から阿東生活バス徳佐嘉年線があるが、JRやバスの便数などから車でない
        と訪れることができない地域である。(バス停の先に広い駐車地あり)

        
         国道315号線と県道13号線(萩津和野線)が交じる付近が嘉年の中心地である。

        
         国道と県道が交わう所に、2006(平成18)年廃校となった嘉年小学校がある。

        
         地域の親睦を深め明るい地域をめざすというコンセプトのもと、「案山子祭り」が行な
        われていたようだが、交通安全を願う六地蔵ならぬ六案山子が製作されている。

        
         阿東地域交流センター嘉年分館にある案内板だが、土地勘がないためか位置が特定でき
        なかった。

        
         市場上と長迫の境付近から旧道に入る。

        
         長迫生活バス停傍には農協農機事業センターがある。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、嘉年上村と嘉年下村が合併して嘉年村となり、
        昭和の大合併で旧阿東町になるまで村役場は長迫に設置された。旧役場跡には正面に石柱、
        その前には石段があったとされる。

        
         当時の蔵が残されている。

        
         旧道沿いに小さな集落。

        
         空家の傍に稲荷神社の鳥居。

        
         集落はわずか400mの距離内にある。

        
         聳える十種ヶ峰(とくさがみね)が集落のシンボルでもある。

        
         嘉年小学校は、1874(明治7)年吉部野に創立されたが、その後、大迫なめぎわに移転
        し、吉部野および神田に分校を設ける。1924(大正13)年現在地に移転するが廃校とな
        り、校舎は体育館前の運動場側にあったようだが姿を消していた。

        
         萩城下から石州津和野に至る石州街道(白坂道筋)が通っていた。嘉年中心部から旧街道
        を津和野方向へ400mぐらいの左手に市原家住宅がある。

        
        
         代々庄屋を務め、江戸末期の幕長戦争では清末藩主や萩藩の重役が当家を本陣として、
        国境巡見、津和野藩との交渉などにあたる。こぢんまりした門は地方の庄屋門の形を残し、
        門の脇に湯屋と長屋が併設されている。

        
         嘉年小学校神田分校があった神田(こうだ)集落。

        
         1876(明治9)年嘉年小学校が大迫に新築移転すると、吉部野と上郷に支校が設けられ
        る。のちに上郷支校は土居から神田へ移るが、1960(昭和35)年に廃校となる。この付
        近に分校があったとされるが場所を特定することができなかった。

        
         堂免集落は嘉年中心部から約3.6㎞も離れているが、生活バスで極楽寺前まで乗車可能で
        である。

        
         極楽寺(臨済宗)の寺伝によると、もとは五穀寺で室町期の1465(寛正6)年に創建され、
        12の末寺があったという。のちに極楽寺に改めたとされる。

        
        
         寺境内は美しさが保たれている。

        
        
         ウスギモクセイはキンモクセイの変種とされる。インド、中国、日本の九州(南部)自生
        が知られるが、多くは古く中国から持ち込まれたものといわれる。花は黄白色で10月頃
        に開花する。(1016年10月撮影)
         また、山門入口には大きなシダレザクラもあり、四季折々に参拝者を楽しませてくれる。


山口市阿東の徳佐は十種ヶ峰の麓にあって石州街道の宿場町 

2020年04月28日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         徳佐は阿武川の上流域で三方を山に囲まれた内陸山間地帯に位置する。地名の由来は、
        十種の神宝を埋めたとされる山(十種ヶ峰)の正面にある麓の里であることから徳佐という。
        (歩行約4.3㎞)

        
         JR新山口駅(9:13)から山口線を利用してJR徳佐駅下車としていたが、コロナ感染予
        防のため公共交通機関の利用を残念して車での対応とする。JR徳佐駅前のJA駐車場(許
        可要)を利用させていただく。
         徳佐駅は、1918(大正7)年三谷駅からの延伸した際、終着駅として開業する。駅舎は
        開業当時のものかどうかはわからないが、大正から昭和の時代に建てられた木造駅舎が現
        存する。島式1面2線のホームを持ち特急停車駅でもある。

        
         JAと郵便局の間の道を徳佐上方向へ向かう。

        
         この地域のシンボルである十種ヶ峰(とくさがみね)の麓では、田植えの準備が始まってい
        る。


        
         左手に山口高校徳佐分校を過ごすと、石州街道合流点付近には製材所、家具製造などの
        工場があったようだが姿をとどめない。


        
         国道9号線と石州街道が交差する地点より徳佐中心部へ引き返す。

        
         右手に狐塚古墳が案内されている。

        
         狐塚古墳は洪積段丘に立地する横穴式の石室をもつ小型の前方後円墳で、古墳時代の後
        期(6世紀頃)に造られたと云われている。残念ながら入口に鍵がかけられており、中を拝
        見することができない。

        
         全長約35mの古墳前方部は狭くて低く、後円部の高さは約4~5m、石室の全長約8
        mで、玄室の長さ約3.6m、幅1.7m、高さ約2mの前方後円墳である。
         前方後円墳を造ることができるのは、畿内の王権と関連があり、この地に強大な豪族が
        いたことがわかるとのこと。(説明板より)

        
         県農業試験場寒冷地分場跡地は、阿東ふるさと交流農園や交流促進センターとして活用
        されている。

        
         上市地区の街道筋。

        
         徳佐八幡宮の参道は石州街道に接し、入口には1934(昭和9)年名勝徳佐桜として、国
        の指定(史跡名勝天然記念物保護法)を受けた旨の石碑が残されている。

        
         駅通りに合わすと、右前方の山口銀行徳佐支店は華浦銀行の支店であったが、1944
        (昭和19)年に合併消滅する。

        
         駅通りの先が中市で街道筋の中心地であった。

        
         門構えのある商家は澄川釣具店。

        
         石州瓦の家が並ぶ。

        
         真光寺(しんこうじ・真宗)の屋根も石州瓦一色。

        
         金子家は江戸中期頃に目代(もくだい)を務めたとされ、目代当時には屋敷前の松に馬を繋
        いだと伝える。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、徳佐上村、徳佐中村、徳佐下村が合併して徳
        佐村となり、この付近に村役場が置かれたようだ。

        
         椿家は江戸時代に代々大庄屋を務めた家で、徳佐村に3軒あった本陣(脇本陣含む)の内
        のひとつ。現在は本陣門だけが遺る。

        
         風土注進案によると、下市と中市付近に脇本陣・椿又左衛門宅があったとされる。

        
         脇本陣前には本陣椿家の一族で新屋と呼ばれた目代椿家があったとされる。天明年間(1
        781-1789)以降目代を務めた。(元村上履物店付近)

        
         1929(昭和4)年築の大草医院は石州街道筋に面して建ち、道路から石段を3段上がっ
        た所に敷地を構えている。当時の医院は警察署・刑務所などとともに敷地を道路面よりも
        高く構えたという。

        
         大草一真医師が長崎医専を卒業後、東大伝染病研究所などの勤務を経て、1929(昭和
        4)年に帰村し、医業を継ぐに際して建築したものである。洋風建築を思い立ったのも長崎
        にいたことが係わるらしい。

        
         大草医院先の街道。

        
         名の如く石州街道は石州瓦がよく似合う。(T家)

        
         市川を渡ると石州街道は、左手の民家前で右折して阿武川に至る。(橋の先左手に平野
        屋旅館があった)

        
         踏切を越えた左手付近に脇本陣の河野家があったとされるが、痕跡は残されていない。

        
         四差路に戻って南下すると、石州瓦の中にトタン屋根が光る。

        
         街道から国道9号線を横断する。

        
         徳佐保育園前に長い塀。

        
         370mの参道両側に植えられたシダレサクラとヒガンザクラ。1825(文政8)年氏子
        有志によって植栽された桜である。
         その後、老木・枯木となり、1956(昭和31)年国の指定解除となるが、現在の桜はそ
        の後に捕植・増植されたものである。

        
         平安期の1182(寿永元)年創建の徳佐八幡宮は、大内満盛が豊前国宇佐八幡宮から古宮
        山に勧請したと伝える。1680(延宝8)年現在地に遷座するが、現在の社殿は遷座時の建
        物に、1788(天明8)年に手を加えたものと推定されるとのこと。

        
         一の鳥居と二の鳥居の間は国道によって分断されている。

        
        
         JR徳佐駅までの商店街。古いアーケードのようなものが残されているが、コロナの影
        響か人通りはまったくない。

        
         国道より駅まではわずか380mの距離。


防府市台道の旧山陽道筋と種田山頭火・大楽源太郎

2020年04月27日 | 山口県防府市

                          
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複写したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         台道は大海湾に注ぐ河内川・横曽根川流域に位置する。東西の山麓に挟まれた扇状の低
        地であり、往古は奥深くまで海であった。土砂の堆積と海辺の砂土が吹き寄せて繁枝砂丘
        が形成され、土砂の堆積によってできた大海湾の干潟は、順次干拓されて今の姿となった。       
         1889(明治22)年町村制施行により、切畑村と台道村が合併して大道村となったが、
        1955(昭和30)年に防府市に編入されて大字台道と切畑になる。(歩行約6.3㎞)

           
         JR大道駅は、1900(明治33)年12月山陽鉄道の開通と同時に開業されたが、当時
        は大道村であったことから駅名となる。2004(平成16)年駅南側に高等学校が移転して
        きたため、現在の橋上駅舎となる。

           
         大道駅前は新しい建物が主流を占める。

           
         繁枝(しげし)神社の社伝によると、飛鳥期の685(白雉36)年台道地区の鎮守として下津
        令に創建された。室町期の応永年間(1394-1428)に台道村を二分し、旧山陽道の北側は小俣
        八幡宮が奉斎されることになる。鎌倉期の1191(建久2)年下津令より現在地に遷座し、
        後に6つの神社を合祀する。

           
         繁枝神社の右手に大楽源太郎記念碑があるが、碑文だけは死後まもなくできていたそう
        だが、当時は国賊であったことから建碑は差し控えられた。
         1889(明治22)年の憲法発令による大赦令で復権し、翌々年に記念碑が建立される。
        篆額は山田顕義、澄川拙三撰文、入江石泉書である。

           
         勝海舟「大楽は善さそうな男だったよ。あまり会ったことはなかったが、話せる奴らし
        かった。長州では珍しい男さ」と‥。
         真相はともあれ、大楽源太郎が寺内正毅など多くの人材を次の時代に送り出したことは
        確かである。

           
         1874(明治7)年台道小学と台道南小学が開校するが、1877(明治10)年に統合され
        て繁枝小学校となる。その後、現在地(市東)へ移転し、校名も変更されて繁枝小学校は役
        目を終える。

           
         JR大道駅から旧山陽道への道。

           
         大事にされているお地蔵さん。

           
         1906(明治39)年種田山頭火(正一)は、父・竹治郎と大道村の山野酒造場を買い取り
        酒造業を始めるが、暖冬で酒が腐敗したことが原因で破産に追い込まれる。1916(大正
          5)
年妻子とともに熊本に移り住んだのは、山頭火34歳の時であった。大楽源太郎同様に
        大道の地を追われるように離れていったもう一人の人物である。
         この樽と釜は、大林酒造場(種田酒造の後継)から譲り受けて展示されている。(神社と山
        陽道との中間あたりの道筋) 
            山頭火句 「酒樽洗ふ夕明り 鵙(もず)けたたまし」
                               (大正3年(1914)「層雲12月号」
)

           
         旧山陽道と交わる位置に「山口道」の道標がある。大道より山口への道として重視され
        ていた。

           
         旧山陽道は国道2号線を越えて大道に入り、山口道と交差すると
大道市である。

           
         右手に小さな祠と御旅所の台座。

           
         左手に浄土真宗の諧光寺。

           
         大道市は天下荷物送り場に宿馬10疋を備えた半宿で、家数は80軒位だったという。

           
         上り坂のためか左右に紆曲している。

             
         上田家は県内屈指の旧家で、家は解体されて近代的な家屋になっている。道沿いに井戸
        が残されているが、江戸期には酒造業を営み代々庄屋を務め、農地解放以前は県内有数の
        大地主であった。
         この家屋の表札には上田敏雄(1900-1982)とあるが、五男一女の四男としてこの地に生ま
        れ、詩人として活躍する。国家主義が台頭し始めると、1934(昭和9)年に「自由詩は何
        処へ行く」を発表して詩壇から去る。
         現在の芝浦工大で英語を教えていたが、東京空襲が激しくなり郷里の山口に妻子ととも
        に疎開し定住する。その後、現山口大学、山口高専で子弟の教育に携わりながら、194
        8(昭和23)年に長い沈黙を破り詩壇に復帰する。
         上田少蔵(堂山・1758-1838)は文人に理解が深く多くの文人達が寄宿し、太田南畝、頼山
        陽、村田清風などが訪れている。

           
           
         1832(天保3)年上田家により建立された厳島六社大明神があり、この先で市尻となる。

           
         その先で国道2号線と合流する。

           
           
         引き返して中田商店前を右折して上り熊集落を目指す。

           
         中山家の山手側に西山書屋があるが、私有地のため了解を要する。

           
         大楽源太郎はこの地で家塾(西山書屋)を開き、子弟を教えていたので四境戦争には参加
        しなかったが、多くの子弟が参加する。塾は、1869(明治2)年までの3年間と短い期間
        であったが、従学人数は百数十人であったといわれている。

           
         大村益次郎暗殺事件、山口諸隊脱退騒動に大楽の門下生がいたことから嫌疑の目が向け
        られる。(ここに茶室があった)
         1870(明治3)年3月5日に諸隊会議所から召喚がある。門人1人と小鯖筋に入るが、
        危険の切迫を覚った大楽は、小鯖八幡宮前の店屋「杉屋」で一休憩した際に、大便を催し
        たと両刀を門人に預けて家の裏から逃げる。山の中を逃げ隠れしながら、夜を利用して密
        かに村へ立ち帰り下津令に潜んだとされる。

           
         上り熊集落から山陽本線峠第2踏切と河内川を過ごせば下津令集落。

           
         この地が繁枝神社の旧跡である。隣には下津令のお地蔵様は三界萬霊と刻字され、17
        40(元文5)年に建立される。

           
               「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」 山頭火
         昭和8年(1933)7月11日の其中日記に椹野川に沿うて散歩した。月見草の花ざかりで
        ある途上で数句拾うたあるが、その数句の中にこの句がある。日ざしを浴び、雨に打たれ、
        風を受ける地蔵尊はたくさんの人の目にとまる。そのやわらかな微笑からは今日を生きる
        元気をもらえる。山頭火も散歩中にお地蔵さまと対面したのであろう。

           
         大楽源太郎は台道村に立ち戻ると門弟であった下津令の弘中宅や山県宅に隠れた。妙蓮
        寺にもしばらく潜んでいたとされるが、20日間ほど下津令のあちこちに隠れていた。
        (妙連寺の山門) 

           
         捜査の手が厳しくなってきたので父の知友を頼って、旦の海岸から脱出し姫島に渡る。
        弟の山県源吾と門人2名の同行者と共に九州各地を転々としたが、18
71(明治4)年3
        月16日、久留米において暗殺される。(享年38歳)

           
         柴山の麓には大楽源太郎の墓入口を示す道標が立てられている。

           
         ひっそりと3基の墓が並ぶ。中央は父の山県信七郎の墓で、後年に五郎右衛門と改称し
        て私塾を開いていたが、1873(明治6)年1月に71歳で逝去し、墓は門人たちが建立。
        奥には大楽家の墓がある。

           
         手前に「大楽奧年夫婦の墓」とあるのは、妻の死後(1879.3.12)に建てられたもの。大
        楽の名は弘毅または奥年ともいい源太郎は字である。


           
         直線道に高川学園が見えると、線路に沿えばJR大道駅南口。


下関市豊浦町の室津浦は鏝絵が見られる町 

2020年04月15日 | 山口県下関市

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである、(承認番号 令元情複 第546号)
         室津浦は響灘に面し、室津湾に注ぐ沖田川の河口部に位置するが、明治期に2度の大火
        に見舞われ、防火対策として江戸時代からの施行法である家の壁面を赤土で固め、その上
        に漆喰を塗る方法がとられた。再建された家屋に鏝の絵が描かれたが、今では家の建て替
        え等で数は少なくなっている。(歩行約1.5㎞) 

           
         JR黒井村駅は、1914(大正3)年4月長州鉄道の駅として開業したが、駅名は開業当
        時の村名とされた。 

           
         駅前(10:16)からブルーライン交通室津行きバスに乗車、室津漁港前で下車する。

           
         県漁協室津支店前からの中広小路。

           
           
         マップは室津公民館でいただける。

           
         公民館の山手側民家にも鏝絵がある。(私有地のためガイド同行でないと敷地内に入る
        ことができない)

           
         土蔵に「鶴・亀・松竹梅」(2014年10月撮影)

           
         公民館駐輪場には数点の鏝絵が保存されている。

           
         駐輪場裏手に保存されている長さ8mの「龍」の鏝絵。中村家解体の際、3分割に取り
        壊して移設されたという。 

           
         中広小路と東広小路を繋ぐ路地。

           
         元寇の頃に「元」の使者が上陸した地と伝えられ、室津八幡宮も古くから祀られていた
        と考え
られるが史料はないそうだ。一説に室町期の1401(応永8)年宇佐神宮から勧請と
        もされるが確証はないとのこと。

           
         大工として名工匠だった安部浅蔵氏は、1891(明治24)年室津浦の大火で自家の焼失
        を顧みず、室津八幡宮の消火に努めたが社殿は焼失してしまう。心を傷めた阿部氏は、1
        902(明治35)年に70歳の老体を推して復元の陣頭指揮をとったとされる。

           
         室津八幡宮裏手の路地に鏝絵。

           
         中谷家のくぐり門の先に鏝絵。

           
         中谷家のくぐり門にあった「城」の鏝絵。1897(明治30)年10月に新築した際、持
        ち主が額装して室津八幡宮に奉納したが、1905(明治38)年に八幡宮が改築された折、
        持ち主に返納されたとのこと。現在は室津公民館駐輪場に保存されている。

           
         「濱」という姓の頭文字だが、現在は見ることができない。

           
         「濱」の表側に「鳳凰」があり民有地から見学できたが、現在は取り除かれて公民館に
        常設されている。

           
         鏝絵は日本で発展した漆喰を用いて作られたレリーフで、左官職人が鏝で仕上げたこと
        から名が付いたとされる。(東広小路)

           
         玄関側に「つる花」のある民家の路地側には、鏝絵があったような造作がなされている。

           
         「つる花」

           
         神さん小路から民家の細い路地に入ると「龍」の鏝絵がある


           
         薄くなっているが「藤」で、姓の頭文字が描かれている。

           
         室津浦の屋根は石州瓦だが、黒っぽい瓦がまだら模様に見える。(中広小路を横断)

           
         中広小路先の路地。

           
         戸袋に2つの鏝絵があり、右が牛若丸、左は浦島太郎が筆と大福帳・そろばんを抱えて
        いる。

           
         鏝絵の題材は福を招く花鳥風月が中心であり、財を成した豪商や網元が主屋や土蔵を改
        
築する際、富の象徴として外壁の装飾に盛んに用いたと云われている。(汐汲み小路)

           
           
         汐汲み小路の反対側小路に「大黒さんと恵比須さん」

           
         西広小路。

           
           
         西広小路にあるN邸には「鶴・亀・松竹梅」の鏝絵。真向いにあるとされる「龍」を見
        つけることができなかった。

           
           
         「鶴・亀・月」の鏝絵。室津の鏝絵は石見の左官、冨士永桝市の作品といわれているが、
        定かでないとのこと。

           
         西広小路を横断すると突き当りにH家。右側の狭い路地に入る。

           
         廻船で財を成した家だそうだが、なまこ壁の下地は平瓦で漆喰が落ちないように刻みが
        設けられている。

           
         鏝絵の土台をなす造作が残る。

           
         山裾にある阿弥陀院(浄土宗)

           
         1730(享保15)年の大火により本堂・庫裡を焼失して古記録を失ったため、創建年な
        どは不詳とのこと。

           
         奥の院から見る室津浦の町並み。

           
         2013(平成25)年に閉鎖されたヨットハーバーに隣接して、漁港風景を眺めながら宿
        泊できる施設「ヴィラむろつ」が設けられたが、利用者減少で2019(平成31)年3月を
        もって閉館となる。

           
         山手側に共同井戸だったのだろうか2ヶ所あり。

           
         狗留孫山八十八ヶ所第48番札所に手を合わせてバス停に引き返す。


下関市菊川町の田部は赤間関街道筋に栄えた町 

2020年04月14日 | 山口県下関市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         田部(たべ)は田部川が木屋(こや)川に流入する付近の南側に位置する。町を赤間関街道が
                南北に通っており、田部市は街道沿いにできた市で毎月立市が行われてきた。今も上市、
               下市が存在するが、上市の裏側には田部川の船着場もあった。(歩行約3.5㎞)

        
         JR小月駅(12:02)からサンデンバス西市行き19分、込堂(こみどう)で下車する。藩政期に
        は中山村が萩藩領、岡枝村は清末藩領で岡枝村側に込堂がある。

        
         歌野川を渡ると赤間関街道北道筋と合わして南下する。

        
         直線道が続くと船場集落に入る。幕末の木屋川通船の開拓によってこの地が船着き場と
        なり、俄かに栄えたとされる。

        
         集落の中ほど小畑家の一角に、1890(明治23)年建立の道標がある。宅の人によると、
    
    30m先の左へカーブする右側にあったとのこと。

        
         道標はカーブミラーがあった所にあったようだ。

        
         鉤の手道の先で集落は途切れる。

        
         小さな水路橋の先が荒小田集落。

        
         街道から外れた民地の中に背を向けて庚申塚が建っている。全長1.7mの自然石で裏
        には「文政十(1828)戌子年」とある。


        
         鷺が姿を見せる農村風景の1コマである。

        
         田部川に突き当ると道は川に沿って南西へ向かう。

        
         1797(寛政9)年造立の石地蔵があるが、伝承によれば田部川に出没する猿猴(えんこう)
        が子供や牛馬を曳き込み、死に至らしめることから害を防ぐために、この地を通りかかっ
        た僧侶が建立したという。

        
         荒小田水神社。

        
         水神社から150m進むと風月橋に出る。ここに石橋が架かり、川を境に清末藩領岡枝
        村と長府藩領田部村に分かれていた。

        
         橋を渡ると街道は南西方向へ進む。(上市)

        
        荒廃した民家も存在する。

        
         旧横田医院の建物は菊川名店会などに活用されている。

        
         街道の道幅は約4mを保ち、ほぼ直線的な道が500mほど続く。

        
         1773(安永2)年に建てられた吉富家は、町内では一番古い町家建築である。田部薬の
        製薬業を営み、後も薬屋を営んできたという。

        
         石州瓦の商家は時計・陶器店であった。

        
         W家は築100年以上とか。一軒隣のH家も商家だったという。

        
         旧町役場筋に新道ができたためか閑散としている。

        
         重厚な古民家も見られる。(H家)

        
         南北朝期の1350年創建と伝える延龍寺(真宗)は、1989(平成元)年に焼失したが再
        建された。寺にあった山門は長府藩米蔵の門を移設したものだったが、再建時に取り壊さ
        れた。

        
         向い側に教念寺(真宗)という寺があるが、1724(享保9)年田部村大火の際に類焼した
        とか。

        
         旧菊川町の町木だったヤマザクラと木屋川、中央に花芯が町章になっている集落排水用
        マンホール蓋。

        
        
         田部市には築後100年を経た民(商)家が数件現存している。

        
         この先の四差路で田部市は終わる。

        
         南端に1789(寛政9)年の一字一石塔と、1780(安永9)年に造立された地蔵尊がある。
        伝承によると、田部市の入口に設けられた関とのこと。(左端は恵比須社)

        
         旧町役場筋の道は新しい住宅が主流を占めているため、手押し信号機より国道に出る。
 
        
         田部バス停は国道491号線上にあり、便数も多く時間に制限されることなく散歩でき
        る。


津和野の城下町は伝統的建造物保存地区

2020年04月08日 | 島根県

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         津和野の街を1日で歩くには時間が足りないので、レンタサイクルを利用して伝統的建
        造物群保存地区と乙女峠コース、津和野城址と石州街道コースに分けて散策する。(伝建コ
        ース約4.5㎞)
 
        
         1922(大正11)年開業のJR津和野駅は、1977(昭和52)年現在の駅舎に建て替え
        られたが、「山陰の小京都」の表玄関にふさわしく、平屋ながら堂々とした構えである。
        (駅前にレンタサイクル)

          
         駅から益田方面に約250m進むと旧石州街道(山陰道)に合わす。

          
         鉄炮丁通りは本町・祇園通りとは対照的な通りである。

          
         「鯉のおるお米屋・吉永」という木彫りの看板があり、店奥に水路を引き込んだ大きな
        池に鯉が泳ぐ。

          
         1617(元和3)年亀井政矩(まさのり)が、この地に「祇園社」(今の弥栄神社)の御旅所と
        して、「祇園社休堂」を建てたのが始まりとされる。当時はまだ町の整備が始まったばか
        りで、町の北端を決めるため藩の庇護のもとに置かれた。(駅通り筋) 

          
         伝統的保存地区は橋北地区とされ、江戸期以前の吉見氏時代には城下町は城の西側にあ
        ったと伝えられており、東側(現在の城下町)には田畑が広がっていた区域である。江戸期
        に岡山から坂崎氏が津和野に入り、当地区の城下町として整備が行われ、坂崎氏の治政1
        6年ののち、亀井氏が鳥取県鹿野から入城して現在に続く地割整備を完成させる。
         2004(平成16)年から2年をかけて道路修景・無電柱化事業が行われた本町・祇園丁
        通り。

          
         創業200年以上の高津屋伊藤薬局は、森鴎外にとって馴染み深い店で、鴎外が日露戦
        争に出征する際、5代目当主から餞別としてもらった漢方胃腸薬「一等丸」を愛用したと
        いう。店内には薬箱や秤など鴎外が暮らした時代そのままに残されている。(明治中期頃
        に建築)

                
         伊藤薬局の裏筋にある酒蔵。

          
         「華泉」の銘柄で酒造を営む華泉酒造は、1730(享保15)年創業で、主屋は明治中期
        に建てられたとされる。

          
         1717(享保2)年創業の橋本本店は、津和野最古の造り酒屋であったが、現在は販売の
        みとされているようだ。

          
         「角海老舎」は代々醤油醸造業を営む商家であったが、築後180年以上の建物をリフ
        ォームされて、「海老舎(えびや)」として生活雑貨の店に変身している。

          
         古橋家は江戸期には広島藩士で、明治維新より当地に移り住み、1878(明治11)年か
        ら酒造りを始めたという比較的歴史の浅い酒造場である。当酒造場の代表銘柄である「初
        陣」は、当家が武家であった時代の名残を伝える。建物は大正期の建物らしく他家と比較
        して建ちが高い。

          
         古橋酒造の酒蔵。

          
         1854(安政元)年呉服商として創業された「さゝや」さん。主屋は江戸末期に建てられ
        た。

          
         明治中期に建てられた俵種苗店。

          
         椿家は屋号を「分銅屋」と称し、蝋燭や髪付油を取り扱った御用商人で、主屋は江戸末
        期の安政年間に建てられた。
         椿家隣の疑洋風建築は、1934(昭和9)年に旧布施時計店が建てたもので、現在は新聞
        社の支店として活用されている。

          
         この先に津和野城下の旧武家町と旧商人町の境で惣門があったとされる。津和野城下は
        1853(嘉永6)年の大火によって大半が焼失し、町家は大火後に建てられた。

          
         戝間家は江戸期には御用商人として活躍し、明治中期以降は酒の小売販売を営む。18
        
99(明治32)年に建てられた商家住宅が当時を伝える。

          
         建坪120坪(396.7㎡)を超えるという大規模な商家。

          
         旧河田家具店の建物は明治後期(30年代)に建て替えられたもので、殿町の境界位置に
        所在し、財間家住宅と対を成している。

          
         本町通りは商人町筋で、殿町は家老屋敷が並んでいた。

         
         津和野カトリック教会は、1928(昭和3)年シェファー神父が津和野藩町年寄堀九郎兵
        衛宅跡に建設したが、1930(昭和5)年の火災で焼失する。現在の建物は1931(昭和6)
        年に再建された。

            
             教会は木造平屋建ての鉄板葺で、シンプルな図柄のステンドグラス
            を有する短塔式のゴジック様式である。

          
         殿町通りの水路は、明治期に新しく造られ、昭和になって鯉が放たれ、花しょうぶが植
        えられた。

          
         津和野のイメージにもなっている鯉は、民俗学者・宮本常一氏の提案によって、193
        4(昭和9)年に放流されたのが今日の姿の始まりとされる。

          
         津和野町役場の表門は、家老・大岡家の表門が明治の初めに取り外されて保存されてい
        たものが、1975(昭和50)年代に今の場所に戻された。

          
         1919(大正8)年鹿足郡役所として建てられたが、郡役所制度の廃止後、警察署として
        使用された。1955(昭和30)年の町村合併で町役場となり、現在も現役の役場庁舎とし
        て使用されている。

          
         1786(天明6)年に8代藩主亀井矩賢が、堀内(現津和野小学校裏付近)に藩校「養老館」 
        を創設した。1853(嘉永6)年の大火で創設当時の建物は焼失する。

          

         1855(安政2)年現在地に移転して再建されるが、1872(明治5)年に廃校となる。
        現在は武術教場(槍と剣術)の建物と敷地が当時のまま残されている。

          
         多胡家は亀井家11代にわたって家老職を務め、藩財政に大きく貢献した家柄である。
        間口4m、高さ26mの武家屋敷門で、両脇に物見と番所が設けられている。

          
         弥栄神社の鷺舞は、室町期に大内氏が山口の八坂神社を分祀した際に鷺舞も伝承し、1
        542(天文11)年津和野城主吉見正頼が大内義興の息女を迎え入れたとき、津和野の弥栄
        神社に伝えられたといわれている。

          
         津和野大橋から高岡通りを駅方向へ戻る。

          
         右手に和崎医院を見て、次の四差路を左折して直進する。(久保踏切)

          
          
         永明寺の塔頭(たっちゅう)永大院の裏山に津和野藩主亀井家の墓所がある。(塔頭とは本寺
        の境内にある小寺)

          
         築地塀に囲まれた藩主亀井家歴代の墓所。
 

          
         永明寺(ようめいじ)は、室町期の1420(応永27)年吉見頼弘が開き、吉見、坂崎、亀井
        氏といった歴代城主の菩提寺となる。山門をくぐると右手に鐘楼、中門、17
29(享保1
          4)
年再建の本堂がある。

          
         本堂は屋根葺き替え工事中であった。

          
         森鴎外は11歳で上京し、故郷の土を踏むことがなかったが、死の間際に「余は石見人
        
森林太郎と死せんと欲す」の言葉を残す。

          
         坂崎出羽守直盛は宇喜多忠家の長男として生まれ、宇喜多秀家、徳川家康に仕える。関
        ヶ原の戦い後に津和野藩主となり坂崎姓を名乗る。
         大坂夏の陣で家康の孫・千姫を救出したことから千姫事件に発展し、経緯については諸
        説あるようだが、1616(元和2)年9月に自害(殺害説もある)し、大名の坂崎家は断絶す
        る。
         墓は改易された横手城主・小野寺義道が、庇護を受けていた恩義から建てたとか、町方
        大年寄の堀平吉郎が建てたと諸説あるようだ。墓碑は「坂井出羽守」となっている。

          
         2009(平成21)年当時の本堂。

          
         書院の間。

          
         谷文晁に師事して南画を学んだ津和野藩家老・多胡逸斎(1802-1857)は、多くを江戸の藩
        邸に在勤した。隠居後は津和野で画事に専念する。

          
         書院前の池泉庭園は、ほぼ円形の中心に中島(亀島)があり、架け橋により亀の甲に乗る
        ことはできる。作庭時期は不明とのこと。

          
         千人塚までは舗装路であるが上り一辺倒の道。

          
          
         乙女峠殉教者の墓(千人塚)にはキリスト像とともに「為義而被害者来乃冥福」と刻まれ
        た碑が立っている。乙女峠の殉教者の遺骨を谷の諸所から集め、1892(明冶25)年にピ
        ヨリン神父が碑を建立する。

          
         十字架の道だが逆回りをしているようだ。

          
         1951(昭和26)年に「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」聖堂として、乙女峠マ
        リア聖堂
が建立された。

               
          聖堂のステンドグラスには当時の悲劇の様子が描かれている。

              
         1868(明治元)年長崎の浦上から153名の隠れキリスタンが、乙女峠にあった光琳寺
        に送られてきた。
         1873(明治6)年に宗教の自由が認められるまで、津和野藩は改宗を迫り36名が殉教
        した。その内の一人・安太郎が三尺牢に入れられていた時、生母マリアが出現したという
        伝説が再現されている。

          
         明治政府は神道を普及させるため、江戸時代同様に「キリシタン宗門制禁」を続ける。
        1871(明治4)年11月政府使節として欧米に赴いた岩倉使節団に対し、諸外国が浦上キ
        リシタン問題を厳しく追及する。弾圧が不平等条約改正の障害になっていると判断し、1
        873(明治6)年に禁制が廃止された。

          
         津和野川まで戻って次のコースを散策する。
   


津和野の城跡から旧石州街道界隈

2020年04月08日 | 島根県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
 
         津和野は東に青野山を中心とした青野火山群と、西は中世から近世にかけての城山に挟
                まれた南北に細長い盆地で、その中心を津和野川が流れる。(城址ルート約11㎞)

           
         乙女峠より津和野大橋に戻って弥栄神社。

           
           
         弥栄神社は津和野城の鬼門を守るために祀られた古社で、境内のケヤキの大木がその歴
        史を物語っている。毎年7月に祇園祭の神事として奉納される「鷺舞」の舞台でもある。

           
         弥栄神社先の赤い鳥居が表参道入口。(道傍に駐輪)

           
         伏見稲荷大社と同様に、千本鳥居があり、遠くからでも鳥居が確認できる。約300m
        におよぶ石段を登ればご利益がありそうだ。

           
         「太皷谷」は、津和野城がある城山の一角にあり、江戸期には時刻を知らせる太鼓が鳴
        り響いた谷間であることから名付けられたとされる。

           
         神門を潜れば眼下に津和野の町並み。

           
         太鼓谷稲成神社は、1773(安永2)年7代藩主・亀井矩貞が京都の伏見稲荷を勧請し、
        津和野城の鬼門に当たる太鼓谷の峰に創建する。「稲が成る」と表記するのは珍しく大願
        成就の願いが込められているとのこと。

           
         1867(慶応3)年津和野の乙女山にあった熊野権現社を遷して相殿となる。以来、社号
        は熊野神社となるが、1927(昭和2)年に稲成神社と改称する。現在の社殿は1969(昭
          和44)
年に造営された。

           
         今年の6月頃まで城山改修工事のため登山道利用はできず、リフト(往復700円)を利
        用する以外に手立てがない。下り便の最終時間が16時20分なので要注意である。

           
         大手門(東門)への登城口。

           
         東門跡は亀井氏の代は大手門となる。

           
         三段櫓跡には二階櫓が建っていたという。

           
         腰郭と二の丸、正面の石垣が三十間台。

           
         台所跡から見た天守台と三十間台。天守台は最高所でなく、一段下がった所にある変わ
        った城である。

           
         天守台石垣下にある中心部の縄張り図。

           
         搦め手側の西櫓門跡。

           
         正面の人質櫓(跡)には三十間台からのみ出入り可能な造りであるが、元来は三十間台を
        補強するために築かれたともいわれている。

           
         三の丸(霊亀山山頂)から見る人質櫓跡と三十間台。

           
         形の整った青野山は津和野のシンボル。

           
         三の丸の南端にある南門櫓跡。

           
         天守台から見ると左手に馬を繋ぎとめておく馬立場跡と台所跡、その奥に搦め手を監視
        する海老櫓跡。

           
         坂崎氏時代に三層の天守が建てられたとされるが、1686(貞亨3)年落雷によって火災
        が発生し、天守などが焼失した後は再建されることはなかった。

           
         三十間台から見る太鼓門跡と太鼓丸。

           
         三十間台は城の最高所で、実質的な本丸に相当する郭であったようだ。

           
         津和野の城下。津和野川が蛇行し、川の北側が伝建地区で、グランドは津和野小学校。

           
         町の南側には東の山裾をJR山口線と石州街道(山陰道)、県道13号線が南北に走る。

           
         三十間台から見る人質櫓跡と三の丸。

           
         かって津和野藩邸があった所で、明治維新後に藩邸は解体され、北側に津和野高校グラ
        ンド、南側に庭園跡が残された。もとは津和野高校の正面付近にあった物見櫓は、大正期
        の道路新設により嘉楽園の敷地内に移された。

           
         藩邸を橋北(現津和野庁舎)から津和野城直下(現津和野高校グランド)に移し、明治維新
        まで江戸期を通じて藩政を担ってきた。

           
         遊歩道と幸橋が交わる所に馬場先櫓があるが、藩邸の隅櫓で馬場に接していたことから
        名付けられた。江戸末期の嘉永大火で焼失した後に再建されたものである。

           
         太鼓谷稲成神社入口まで戻って石州街道に沿う。(津和野川)

           
         津和野町郷土館の門は、津和野藩主亀井家一族の草刈家屋敷門を移設したものである。

           
         殿町の風景とツワブキ、アヤメがデザインされたマンホール。

           
         山口線を潜ると街道だった面影は失われている。

           
         石州街道(山陰道)を南下すると、JR山口線手前に津和野藩の筆頭庄屋の屋敷を改装し
        た杜塾美術館がある。

           
         中座方面に進むと道は鉤の手になっている。

           
         津和野中学校付近の街道。

           
         街道を見返る。

           
         船蔵と百石蔵と呼ばれる酒蔵が街道に面する。

           
         1791(寛政3)年創業の戝間酒場は中座地区にあり、店舗・酒蔵は江戸時代後期の建
        物とされる。斜面地に建つため棟を段違いとするなど複雑な屋根構成を見せる。

           
         戝間酒場の先が石州街道(山陰道)と参勤交代道(津和野廿日市街道)との追分である。

           
         旧津和野藩亀井家の別邸と称される屋敷は、1900(明治33)年導火線製造販売で財を
        成した津和野出身の実業家・吉田三輔が建てたものである。1874(明治7)年亀井家の本
        邸が取り壊されたため、1920(大正9)
年津和野への逗留地確保を目的に購入したもので
        ある。

           
         鷲原八幡宮は津和野城南端の山裾にあり、津和野川に挟まれた地に立地し、津和野城お
        よび城下を守る重要な地であった。南北朝期の1387(嘉慶元)年石見国地頭職・吉見頼直
        により鶴岡八幡宮から勧請され、室町期の1405(応永12)年現在地に遷座したと伝えら
        れる。

           
         流鏑馬(やぶさめ)馬場は地形的制約のためか、八幡宮の参道を直行するように配置されて
        いる。全長270mの馬場は、日本で唯一原型を留めている馬場で、毎年流鏑馬神事が行
        われる。
 

           
         現在の社殿は、室町期の1554(天文23)年陶晴賢による津和野城攻めによる焼失後、
        1568(永禄11)年に再建された。

           
         境内に南面して本殿、拝殿、楼門が一直線上に立ち並ぶ構造となっている。拝殿と楼門
        の間に方形池を設けて、その上に潔斎橋が渡してある。

           
           
         西周(にしあまね)は、1829(文政12)年津和野藩医の子に生まれ、法学・西洋哲学をオ
        ランダで学んだ哲学者で、周が4歳から25歳までの住居である。土蔵には3畳の勉強部
        屋がある。

           
           
         森鴎外は、1862(文久2)年80石取りの藩医の嫡男として生まれ、11歳で上京する
        まで住んでいた家で、
平屋建ての簡素な造りには、父の調剤室や4畳半の勉強部屋などが
        ある。軍医と作家という2つの人生を生き、1922(大正11)年に没す。享年60歳。

           
         旧宅と一体となった森鴎外記念館。

           
         津和野川左岸遊歩道からJR津和野駅に戻り、16時56分の新山口駅行きに乗車する。
        (昼間はこの列車のみ)