この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
吉部(きべ)は厚東川の中流域および有帆川の支流である今富川流域の丘陵及び沖積低地
に位置する。
江戸期には山陽道の要地である舟木市から秋吉村を経て萩に至る舟木街道に沿って発達
した市(町)で、今も町並みなどが面影を残している。(約2.8㎞)
公共交通機関を利用する場合、JR宇部駅(10:50)から船木経由(11:03-11:10)で宮ノ前
バス停で下車する。
吉部八幡宮参道の左手に旧船木鉄道の橋台跡が残る。
吉部八幡宮は吉部市の北方山寄りに鎮座する。
風土注進案によれば、寺尾八幡宮と記し、鎌倉期の1261(弘長元)年領主・厚東武村の
命により宇佐神宮から勧請したのに始まるという。江戸期には厚狭郡の中心となった神社
とのこと。
毎年11月に行われる「芋煮の神事」は、鎮座直会の故事によるという。社殿の西浜床
で、芋と餅を各9個を煮、神に供えて神意を問うという神事だそうだ。
吉部八幡宮には社坊として神宮寺(真言宗)があり、江戸期には厚狭郡中の祈祷所とされ
たが、1870(明治3)年廃寺となる。
八幡宮横から厚東川支流に沿うと、正面に吉部小学校。
船木鉄道の橋台跡。
吉部中学校は、2003(平成15)年3月万倉中学校とともに統合されて楠中学校(船木)
となり、跡地に小学校が移転してくる。
旧吉部小学校校舎は、宇部市北部地域の活性化に取り組む「うべの里生徒会」の拠点と
して、一部には食堂「職員室café」も運営されている。
船木鉄道敷跡へは旧吉部小学校と現吉部小学校の間を抜ける。
鉄道敷地跡には吉部千本桜桃源計画に基づいて桜並木が850mも続く。(東屋あり)
集落北側の路盤は遊歩道兼農地用道路に活用されている。
船木鉄道は旧山陽道船木市と山陽鉄道(現在の山陽本線)宇部駅を結ぶ鉄道として、19
16(大正5)年に開通する。続いて万倉まで延長され、1926(大正15)年11月には吉部
までが完成する。
船木への乗客と沿線の石炭輸送を目的に宇部駅まで17.7㎞が開通したが、1944
(昭和19)年3月吉部ー万倉間の8㎞は、戦局の悪化でレールの供出命令により廃止された。
宇部駅から吉部までは12駅が設けられたが、大棚と吉部間に大棚トンネル(全長37
m)があった。(トンネルを潜ると足下に枕木)
大棚の線路敷から見る吉部の町並み。
県道豊田美祢線を中心部へ向かう。
町の木だったクスノキと町章、周囲にツツジがデザインされた旧楠町のマンホール蓋。
2013(平成25)年第25回UBEビエンナーレで市民賞をとった「じいちゃんの鼻の
穴に宇宙があった」(佐藤圭一氏寄贈)
昼寝をしているじいちゃんの鼻を覗いたら宇宙が見えたという作品で、覗くと宇宙が見
える仕掛けとなっている。
県道南側の集落の川岸には、6月初旬にホタルが舞うとか。
常光寺(真宗)の創建について風土注進案は、開基は美祢郡伊佐庄に住んでいた大内義隆
の家臣・岩村彦右衛門政俊の子が、安土桃山期の1589(天正17)年一宇を建立したのに
始まるという。後に現在地に移り、往還筋にあるので巡見使や萩藩の役人の宿になること
が多かったと伝える。
元造り酒屋だったそうでむくり屋根と虫籠窓が目立つ。
往還道は元造り酒屋の前で鉤の手。
吉部市の馬場東にある西念寺(真宗)は、風土注進案によれば大内義隆の家臣で阿部信勝
が、本願寺の顕如に帰依したという。帰国後に廃絶していた田福寺の地に一宇を建立した
のに始まるという。
1600(慶長5)年に寺号が許され、寺社奉行の命令を配下寺院に伝達する船木寺社方触
役を務める。
舟木街道に沿って開かれた市であったが、本往来でなく往来人馬継所であり、馬8疋と
して人足の定めはなく、入用の際は在村に割符を出して集めていたとされる。
1889(明治22)年までは東吉部と西吉部の2村に分かれていたが、町村制施行により
吉部村となる。1955(昭和30)年船木町・吉部村・万倉村が合併して楠町となるが、吉
部ふれあいセンターの地に村役場が置かれていた。