ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

船木鉄道(万倉~宇部)の鉄道敷跡を巡る (宇部市/山陽小野田市)

2024年06月12日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         船木鉄道は山陽本線宇部駅から旧山陽道の船木宿を経て、山間部の万倉と吉部を結ぶ
        17.7㎞の軽便鉄道であった。1944(昭和19)年に万倉~吉部間が廃止され、196
        1(昭和36)年に全線が廃止された。
         万倉~吉部間には鉄道敷跡の遺構が多く残されていたが、船木~宇部間は開発等で消滅
        していた。

        
         JR宇部駅から船鉄バスを乗り継いで、楠こもれびの郷バス停で下車する。トイレと弁
        当を買い求めて万倉駅があった万倉バス停に向かう。

        
         南に真っ直ぐ延びる道が鉄道敷跡。

        
         1923(大正12)年10月14日万倉駅頭において、船木~万倉間の開通式が行われた。
        当時の万倉駅は田圃の中に建設され、附近には4軒の農家があるに過ぎなかったという。
        (遺構はないがバス停が現存)

        
         車の多い道を歩くので、先ずは安全祈願のため宮尾八幡宮に参拝する。

        
         参道から鉄道敷跡に出る。

        
         船木までの鉄道敷跡は、その大半が道路に転用されている。

        
         船木~万倉間が開通し、1926(大正15)年11月に吉部までの区間が開通すると毎期
        に欠損が生じ、機関車の響音まで「ケッソン、ケッソン」と揶揄されるようになった。

        
         伏附(ふしつき)停車場があった附近だが、停車場の位置は確認できなかったがバス停が現
        存する。

        
         有帆川の第二夏田橋に橋台の一部が残るだろうと、橋下を見渡すが護岸工事などで消滅
        していた。(右手の建物は雇用促進住宅)

        
         途中でお会いした地元の方によると、この先の自販機(看板製作のⅯ社)前方に宗方駅が
        あった。温泉もあったが廃業されたとのこと。

        
         やがて宇部興産専用道路下を潜るが、この附近はどのように敷設されていたかはわから
        なかった。万倉入口に「万倉なすと岩戸神楽と硯の里」と案内されている。 

        
         船木中心部までの鉄道敷跡。

        
         右手の学びの森くすのき(図書館)敷地内に裁判所前停車場があったとされる。
         当時の船木村は家屋が約1,000戸建ち並び、5,600人の人々を擁する厚狭郡の中
        央都市であって、郡役所、裁判所、警察署、税務署、県立徳基高等女学校などの諸官庁が
        あり、商工鉱業が栄え、物資の集散市場であった。

        
         トイレ借用に立ち寄ると館内(博物館)に船木町駅のラッチが保存されている。

        
         旧山陽道筋を横断する。

                
                        (船木~有帆間)

        
         船木町駅舎(左手)と右の建物の間に数本の線路があったと思われる。

        
         当時の船木村には未だ電燈の恩恵に浴せず、町内には灯油の外燈が点火されていた。駅
        舎・待合室は石油ランプが灯されたが、後に危険なためロウソクに変わり、「松風提灯」
        が吊された。その後、カーバイドのガス灯となり電気へと変遷する。

        
         営業所入口に当時の信号機が保存されている。船木は政治・経済・文化の中心であった
        関係から、厚東村に設置された駅が「船木駅」(現在の厚東駅)とされたため、こちらの駅
        は「船木町駅」とされた。

        
         待合室にある木製ベンチも当時のものと思われる。

        
         さらに南下すると山陽新幹線下を潜る。山陽鉄道が三田尻~厚狭間の敷設に際し、船木
        を経由する案を提示したが、村民の反対が強く、地主の利権欲に阻まれ、地元負担金の見
        通し難のため鉄道実現は挫折する。1900(明治33)年12月に山陽鉄道が開通すると、
        物資の流通機構は変革をきたし、船木の商品市場は局地化した。

        
         正面の民家裏が船木町駅であり、鉄道敷は左手の舗装路であったのだろうか。ここも不
        明地点の1つであった。

        
         1908(明治41)年に山口軌道が山口~小郡間に軽便鉄道を開業させ、続いて宇部軽便
        鉄道が創立されるなど近隣に鉄道建設の動きが見え始めると、船木村でも軽便鉄道の具体
        化が図られるようになる。
         しかし、当時の船木村は派閥抗争が激しく、小野田駅を起点とする派閥と宇部駅を起点
        とする派閥の対立があったという。結果として宇部~船木案が採用されて鉄道院に上申さ
        れた。(指月附近) 

        
         峠の頂上付近が旧楠町と小野田市の境界。

        
         下って行くと左手に「千林尼の大休・指月石畳道」の案内がある。船木逢坂の観音堂に
        住んでいた千林尼が、険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、自ら托鉢をして浄
        財を集め、敷いた石畳道の一つで、1862(文久2)年8月に完成した。現存の石畳道はそ
        の一部で、敷石の長さ約260m、幅1.5mとある。

        
         字中村停車場は停留場(現在のバス停のようなもの)であったが、1920(大正9)年に長
        門起業炭鉱の寄付により、側線を増設して駅舎新築と駅員の配置がなされたという。この
        附近にあったと思われるが確証を得ることができなかった。

        
         山陽自動車道下を潜る。 

        
         鉄道敷はこのまま直進していたものと思われるが、この一帯も不明地点である。

        
         県道29号線(宇部船木線)に出ると有帆バス停がある。

        
                        (有帆~宇部間)

        
         バス停の先を左折して広い道を進むと民家が建ち並ぶ。結果として有帆駅の位置はわか
        らず終いとなる。片隅に「與三郎大神」と記された小さな神社がある。
         1914(大正3)年5月2日宇部~船木間の鍬入式が行われて、工事は厚南村鏡ヶ窪から
        開始されたが、有帆駅構内の用地買収で鉄道側と起業炭鉱との間で紛争があったという。
        後に紛争は解決したが、工事着工以来2年2ヶ月を要して完成する。

        
        
         生活道に入ると民家の先に築堤が見える。

        
         船木側は民家手前で消滅している。

        
        
         新道で二分されているが先に続いている。

        
        
         有帆側に残る橋台。

        
         正面に見える石橋で山中に入ってみる。

         
         鉄道敷跡に上がると歩けそうな道が続いている。 

        
         どなたかが整備されているのか歩きやすい道が続く。

        
         貯水槽の先にも続いている。

        
         山肌に崩落防止用の石垣が残存する。

        
         通行止めの先に民家があり、ここで引き返し貯水槽の所から生活道に出る。

        
         宇部興産専用道路の函渠を潜り、右折して非舗装の草道を進む。

        
         宇部興産道路と大和団地の間に出るが、鉄道敷はこの道を横断していたと思われる。

        
         鉄道敷は団地内を走っていたようだ。 

        
         県道29号線に合わすと、迫条バス停附近から山陽本線に並列していた。

        
         1942(昭和17)年2月に宇部油化工業㈱の石炭液化に伴い、船木鉄道と油化工業との
        撃密な共同化が行われた。この共同化は石炭輸送の強化が必要だったことによる。
         翌年には船木、宇部、小野田鉄道の国鉄買い上げ問題が起こったが、船木鉄道は油化工
        業に石炭30万屯を輸送することが捨て難く、買い上げ反対に及んだ。
         しかし、戦局の悪化にともない、1944(昭和19)年5月油化工業側より、条件解除の
        通知を受けて瓦解する。宇部・小野田鉄道は国鉄買収に応じ、現在も鉄道が維持されてい
        る。

        
         戦後になると鉄道収入の基盤であった石炭輸送は、最大輸送時より半減して収入は減少
        の一途を辿る。1960(昭和35)年9月に沿線炭鉱に対し、国鉄側が納入石炭の契約を解
        除すると、翌年10月14日鉄道の日に苦節45年の歴史を閉じる。
         宇部駅は現駅舎の向い側にあったが、宇部駅構内改良工事による用地交換により消滅す
        る。 


船木鉄道(吉部~万倉)の鉄道敷跡を巡る (宇部市)

2024年06月03日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         山陽鉄道は下関への延長工事を計画した時、船木村を通す予定であったが、当時の船木
        は藩政時代からの宿場町として繁栄していた。鉄道建設により町が寂れるとして、村民の
        反対を受け、交通の利便から取り残されることになった。1910(明治43)年に軽便鉄道
        法が、翌年に軽便鉄道補助法が施行される。小資本で軽便鉄道建設の道が開かれると、地
        元有力者たちにより船木軽便鉄道㈱が創立される。
         1916(大正5)年7月宇部~船木、1923(大正12)年12月船木~万倉、1926
          (大正15)年11月に吉部(きべ)までの全長17.7㎞の船木軽便鉄道が開通する。

        
                 JR宇部駅から船鉄バス船木行きに乗車、船木で瀬戸行きに乗換えて吉部バス停で下車
        する。この区間は100円均一でバス旅を楽しむことができる。

        
         バス停先にJAの倉庫があるが、ここが旧吉部駅だったとのこと。
         当時の吉部村は、戸数600、人口3,500人を擁し、船木宰判より萩城下に至る要路
        として、物資の集散地として栄え、旅人宿が賑わったところである。 

        
         旧吉部駅から吉部小学校にかけて築堤が残されている。

        
         右手の片隅にある四角いコンクリート製は、信号機の土台のようである。

        
         参道と立体交差する地点までは築堤を歩くことができる。

        
         築堤を歩くときには気付かなかったが、小川があるので県道30号線を引き返すと卵型
        の橋梁がある。

        
         土手のように見えるのが鉄道敷跡。

        
         吉部八幡宮参道と立体交差していた場所に、石積みの橋台が残存する。

        
         吉部八幡宮(駐車場にトイレ)

        
         案内板のようなものが見えたので立ち寄ると、6世紀後半から7世紀頃に、全国で数多
        く造られた小円墳の1つである槍ヶ森古墳である。
         田畑の造成などで破壊されており、造られた当時の形は残しておらず、墳丘を覆ってい
        た土は流失し、天井石も外されている。

        
         築堤は吉部小学校東側で途切れる。

        
         吉部駅と大棚トンネル間は高低差がないようにされたためか、高い橋脚が設けられてい
        た。

        
         小学校の南側を廻って体育館前を過ごすと、大棚トンネルへの案内がされているが、鉄
        道敷は石垣と土盛りされた上にあったものと思われる。

        
        
         小学校西側から大棚駅跡まで鉄道敷跡が現存する。第二次大戦の戦局悪化により、19
        44(昭和19)年3月2日鉄道軌道統制法により、吉部~万倉間8㎞のレール供出を要求さ
        れて廃止となる。

        
         全長37mの大棚トンネル。(吉部側出入口) 

        
         トンネル内は垂直壁と半円構造で、石積みと煉瓦が用いられている。

        
         万倉側の出入口。小坂~吉部間は山肌の切落しが、度々の土砂崩壊により難渋したとい
        う。特に大棚附近の山肌切取りは、再度にわたって崩壊したので、終に隧道変更されたと
        いう。

        
         トンネルから50mほどの位置に、大棚駅ホームと駅標板が復元されている。

        
         大棚トンネルから先のルートはわからなかったが、県道の他は道がなさそうなのでピー
        クを越えるが、当時はもう少し勾配があったものと思われる。

        
         下って来ると100m先に、「黒川の妙典供養碑(市指定有文)」が案内されているので立
        ち寄る。

        
        
         鎌倉期から江戸期にかけて盛んに造られた板碑で、石造卒塔婆(そとば)では旧楠町内で唯
        一のものとされる。
         高さ128cmの自然石の正面上方には大日如来を示す梵字、中央には蓮弁が彫られ、下
        方には「天文15丙午(1546)8月24日 常音敬白 為妙典一部供養」と刻銘されている。

        
        
         この生活道が鉄道敷だったかどうかはわからない。道の左手を長谷川が並行する。

        
         長谷集落から緩やかな坂を上がって行くと、この附近に峠駅があったとされ、現在は同
        名のバス停が設置されている。

        
         笛太郎ファームの看板下に短いトンネルが残存する。

        
         現在は水路と化し、出入口附近は藪となって立ち入ることができない。

        
         トンネルの位置から考えると、県道より一段低い位置に敷設されていたと思われる。

        
         山中バス停附近から県道下に鉄道敷が長く延びる。

        
         県道との高低差がなくなる地点で合流し、芦河内集落入口へ向かう。(歩車分離でない道) 

        
         船原バス停を過ごすが大型車種が意外と多い。
      
                
                     (芦河内入口~万倉)

        
        
         芦河内バス停の先からは矢矯川左岸に敷設されていたようだが、跡らしきものは残存す
        るが藪化で進入不可であった。

        
        
        
         今富バス停から矢矯川に架かる出合橋を渡り、今富駅があった附近を目指すが、この時
        期は藪になって先に進めないため残念する。

        
         県道を斜めに横断していたと思われるが、この先は竹が繁茂して進入は困難であった。

        
                 県道の右手に橋台のようなものが見える。

        
         県道を右折して上矢矯集落の生活道に入り、鉄道敷跡への道を模索するが民地のため残
        念する。

        
         庚申塚の先に進入路があり、上がると矢矯(やはぎ)駅跡である。

        
         駅跡から鉄道敷を引き返すと橋台が見えるが、県道から見た橋台なのかはわからない。

        
         万倉側の橋台。

        
         吉部側の橋台下に踏み跡が残されているが、逆ルートであれば入口を見つけられたかも
        知れない。

        
         築堤の鉄道敷跡を引き返す。

        
         ほぼ直線的に敷設されているが、切通し附近はぬかるみ状態が続く。雨後であれば通行
        に難がありそうだ。

        
         矢矯駅跡にプラットホームが残存する。

        
        
         築堤は途切れたので生活道を歩くと、右手に築堤とコンクリート製の橋台、橋脚が見え
        てくる。

        
         築堤から矢矯駅方向を見返すが、橋台の先は民家である。

                 
         築堤の途中に柵があるため生活道に戻る。

        
         途中から農道と畦道を利用して築堤を横切る。

        
         万倉中心部に向かって真っ直ぐに敷設されていた。

        
         中心部入口付近から見返る。

             
        
         万倉駅と同名のバス停付近に駅があったものと思われる。吉部~万倉間は戦争協力とい
        う名の下で17年4ヶ月でその使命を終えたが、建設に協力した地区住民にとって余りに
        も大きな犠牲であった。万倉までの遺構を思い浮かべながら、船木経由でJR宇部駅に戻
        る。


宇部市の末信から霜降城跡と持世寺

2023年11月14日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         末信は厚東川下流域に位置する。右岸地域は旧氾濫原で低地、左岸には大部分が山地で    
        東に霜降岳がある。
         持世寺は吉見の小字で、厚東川中流域の左岸に位置する。(歩行約7.4㎞) 

        
         JR厚東駅から宇部市営バス八王子行き(10:35)約15分、霜降山登山口バス停で下車す
        る。

        
         末信集落への道に入ると登山口を示す道標がある。

        
         山陽本線大馬場踏切を横断して厚東川へ向かうと、前方に霜降岳山頂と南峰が望まれる。

        
         1998(平成10)年6月竣工の末信橋。厚東川は現在の美祢市秋芳町嘉万の大瀧山を源
        流とし、周辺の農地などを潤しながら周防灘に注いでいる。

        
         橋の東詰を右折すると宇部興産㈱宇部ケミカル工場の末信ポンプ場。

               
        
         正(しょう)八幡宮について風土注進案は、平安期の859(貞観元)年厚東氏が石清水八幡
        宮より勧請し、厚東川左岸の四ノ小野から下村までを氏子として創建する。1179(治承  
        3)年厚東武光の時、霜降城を築城した際、現在の地に社殿を造営して守護神とする。

        
         1928(昭和3)年建立の鳥居脇にある石灯籠は、「防府天満宮」と刻まれているが、当
        初の設置場所ではないようだ。

        
         あまり見かけない光景である。

        
         橋からの里道に集落が形成されている。 

        
         蔵の先が末信コースの登山口。

        
         畦道を進むと防獣フェンスが設けてある。(入って撮影)

        
         すぐ左手に諏訪社が祀られているが、祭神は「諏訪大明神」で、水や風の神とされ、農
        耕の収穫量を左右する重要なもので、農耕や開拓の神として農民から崇拝されている。

        
         すぐ先が二手に分かれているが、左手の霜降城跡説明板がある道が登山道である。11
        79(治承3)年厚東武光が築城し、1358(正平13)年大内弘世に攻め落とされまでの約
        180年間、厚東氏代々の城として続いたと説明されている。

        
         このような道が続くので迷うことはないし、ポイントには「霜降山登山道」の道標が設
        置されている。

        
         途中左手に「末信 本城・中ノ城」と「中ノ城(近道)」の案内がある。

        
         近道の方を選択して中ノ城へのルートに入ると、すぐにシダ道と化してシダが絡んだり、
        サルトリイバラがあって先に進むことができず退却する。

        
         素人はこちらの方を選択すべきだった。

        
         「姫の化粧水」の看板があるが水は得られない。

        
         中ノ城への分岐。

        
         途中に分岐があって右が本城で左が中ノ城への道である。

        
         シダが被り嫌な予感がしたが、こちらの方はすんなりと進むことができた。

        
         中ノ城は頂上部に自然岩が散在する他は、特に防御施設が設けられていないという。本
        城の支城としての連絡、物見的な役割をもっていたものと思われる。

        
         正面に霜降岳山頂が見え、先ほどの三差路で山頂を目指すことができるが、先に前城に
        行くため中ノ城入口に引き返す。

        
         支尾根を越えると本城・後城・前城の分岐に出る。

        
         前城は峰にあるため下って登り返さなくてはならない。下り終えた所に持世寺への分岐
        がある。

        
         前城は南峰(標高240m)の頂上にあって、立石を中心に砦が築かれていたという。東
        側は急峻で防御には好都合であるが、南西方向の傾斜は比較的緩やかで、防御の重点はこ
        の面に置かれたようだ。頂上を中心に南斜面に空堀があるという。

        
        
         四差路に戻って本城に取り付くと、案内板が設置されている所が空堀のようだ。空堀か
        ら出た土は前面に盛られて土塁を形成している。

        
         城というが近世の天守閣と石垣を備えた城と異なり、山頂に空堀や土塁で囲った中世の
        山城である。
         厚東氏は厚狭郡の豪族であり、壇ノ浦の戦いで名を上げ、長門国守護職に任じられる。
        のちに周防国守護職の大内氏と対立するようになり抗争を繰り返した。南北朝期の135
        8(延文3)年厚東義武は、大内弘世の攻撃に支えきれず落城する。霜降城は大内氏によって
        用いられることはなく、廃城のという形で終焉する。

        
         空堀のすぐ上が山頂で、一等三角点本点は県内に5点あるがその1つである。残念なが
        ら展望はなく白い標柱が目立つだけである。

        
         標高250.2mにある本城の周囲をみると、北面に後城、南には前城が連なり、東面は
        急崖を成しており、西面は比較的緩やかため空堀を設けている。
         山名の由来は不明とのことだが、風土注進案に「末信村 霜降ヶ嶺 厚東氏代々之要害
        と申前伝候事」とある。

        
         三角点のある地点から下って行くと後城への道に合わす。

        
         後城への道も下って登り返すが、西側斜面から南斜面にかけて不規則な武者返し作られ
        ていたようで、4段になった武者返しが見られる。

        
         後城も展望はなく直進すれば持世寺への道に合わすようだが、見ると急峻であまり利用
        されていないようなので引き返すことにする。

        
         東面は急崖で注意しながら戻ると四差路に合わす。

        
         前城の途中にあった持世寺への道を下る。 

        
         城山だけあって急な下りで手強い。 

        
         峠池が見えると持世寺への道は近い。

        
         峠下の分岐は道標に従い左折する。

        
         砂防堰堤を越える。

        
         丸太橋で持世寺川の右岸に移動する。

        
         下って行くと四阿のある場所に変った堰堤がある。鋼製スリットダムA型というもので、
        土石流の貯留又は減勢を図る設備とのこと。

        
        
         蔵のある民家右手を上がって行くと持世寺の案内板がある。説明によると平安期の99
        9(長保元)年厚東武道が比叡山の僧を招いて創建したと伝え、厚東氏最古の寺とされる。創
        建当時は厚東村下岡にあったが、鎌倉期の1221(保安2)年この場所に移転する。
         しかし、毛利氏の時代になると加護が衰えたことや、再三の火災により、1843(天保
        14)年に法灯が消える。

        
         見ることが少なくなった綿の実(コットンボール)。

        
         県道西岐波吉見線に合わすが、途中に石灯籠があった場所が持世寺観音のようだ。 

        
         厚東川のほとりにある持世寺温泉について、霜降城の鬼門除けとして創建された持世寺
        に由来するという。その当時から戦いでの傷を癒したとされる。
         温泉として営業を始めたのは、享和年間(1801-1804)で杉野湯の先祖と伝える。1950
        (昭和25)年に厚東川の浅瀬で温泉が発見され、亀が教えてくれたので「亀の湯」呼ばれて
        いたが、訛って「上の湯」になった。以前は4.5軒あった宿も現在では三つの源泉を持つ
        「上の湯」1軒のみだそうだ。

        
         厚東川に架かる持世寺橋を渡り、山陽本線を横断すると県道宇部美祢線の三差路に出る。
        持世寺温泉入口バス停(15:42)よりJR厚東駅に戻る。(右手の集落は吉見の下岡) 


宇部市の西宇部丘陵地から厚東川流域

2023年10月22日 | 山口県宇部市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         際波(きわなみ)は、厚東川下流右岸および厚南平野の北辺から上開作に続く丘陵地帯に位
        置する。地名の由来について、開作が進むまでは波打ち際であった説と、仲哀天皇が熊襲
        攻撃のため船にて行幸途中に激しい風に遭い、順風を祈ったところ「はや波は和波になり
        て来」とのことから、来和波という説もある。
         沖の旦は厚東川流域に位置し、左岸東部は河岸段丘とその周辺の低地からなり、右岸は
        低地である。地名の由来について風土注進案は、神功皇后がこの地で壇を築いて天神地祇
        を祈ったことによるという。(歩行約5.6㎞)

        
         神戸から馬関(現下関)までの鉄道は、私鉄の山陽鉄道によって
開通したが宇部駅は設置
        されなかった。
         1906(明治39)年山陽鉄道は官営鉄道となり、1910(明治43)年宇部駅として開業
        する。1943(昭和18)年宇部鉄道が国有化されると、宇部新川駅が宇部駅となり西宇部
        駅となる。山陽本線が電化されて特急列車の停車駅になると、1964(昭和39)年宇部駅
        に再改称されるという歴史を持つ。現在の駅舎は1986(昭和61)年に完成する。

        
         田中明神は田の神で、天文年間(1532-1555)里ノ尾沖開作の守護神として祀られた。田は
        宅地化されて役目を終えたのか平原八幡宮に遷座された。

        
         地下道で山陽本線を横断する。

          
          山陽本線に沿って小野田方向へ進むと、右手に平原八幡宮の参道がある。

        
         御旅所と思われる地。

        
         明照寺(真宗)は俗名為近源蔵が、1655(明暦元)年豊前小倉の永照寺で出家し、のち一
        宇を建立する。

        
         1829(文政12)年から1872(明治5)年まで寺小屋が開かれていたという。 

               
         平原八幡宮の縁起によれば、平安期の985(寛和元)年宇佐神宮より勧請して岡ノ原(現
        在の宇部商高付近)に創建し、1650(慶安3)年現在地に遷座したという。

        
         八幡宮の末社である田中大明神は、田の畔に蟹が害するため祈祷して鎮めたこともある。
        里ノ尾沖開作の守護神(農業神)であったが、現在はこの地に祀られている。

                
         イスノキはマンサク科の常緑高木で、伊豆半島以西から九州に分布している。葉がサカ
        キに似て、樹皮の灰はイス灰と呼ばれ、陶磁器の上薬に用いられている。(八幡宮の御神
        木) 

        
         八幡宮から里道を通って西宇部ふれあいセンター前に出る。(正面が八幡宮の森) 

        
         穀物の神である大歳社が祀られている。田中明神とともに里ノ尾沖開作の守護神である。

        
         参道横には庚申塚が集められている。

        
         宇部駅構内。

        
         1788(天明8)年から4年かけて萩藩撫育方が完成させた厚南諸開作の用水路。現在も
        灌漑用水しての役割を担っている。

        
         列車の車窓から見える厳島神社の縁起によると、昔は神社の前が海であり、奈良期の7
        48(天平20)年弁財天が漁師の網にかかり、弁財天を村の人々が鎮守の神として崇め、豊
        漁と五穀豊穣を祈った。1881(明治14)年祭神を厳島大明神とし厳島神社に社号変更さ
        れた。

        
        
         75段の石段を上った社殿から厚南平野が見渡せる。中世におけるこの地は、南西部に
        大きく湾が入り込み、中世から近世初期にかけて徐々に潟地の陸地化が進んだとされる。

        
         再び山陽本線下を潜る。

        
         県道琴芝際波線に合わすまでは田園地帯歩き。

        
        
        
         元禄年間(1688-1704)に厚東川が掘り替えられてから、1934(昭和9)年沖の旦橋がで
        きるまでの約200年間渡し船が往来していた。

        
         沖の旦橋から厚東川上流に霜降岳。

        
        
         1934(昭和9)年沖の旦橋ができた記念碑だそうで、碑には「沖の旦橋架設及取付道路
        費寄付芳名録」とあるそうだが読めず。 

        
        
         水分(みくまり)神社の創建年は不明だそうで、宇部市末信にある正八幡宮の末社とされる。 
        神社名から推察するに、農耕の民が水の恵みを祀ったものと思われる。

        
         境内には宇部市指定の天然記念物である「スダジイ」の巨樹がある。

        
         引き返して沖の旦橋から厚東川河口部。

        
         沖の旦開作の堤防跡碑。

        
         昔はこの辺りに厚東川の本流があったという。現在は二級河川の中川で最上流端を示す
        標識がある。

        
         JR宇部線沖の旦踏切を横断すると、宇部駅までは少し湾曲な道となっている。


宇部市鵜の島は近代上水道が敷設された地

2023年10月14日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         鵜の島は宇部丘陵の南西端、周防灘沿岸に位置し、江戸期までは海岸部に沖の山という
        砂嘴が延び、小串の丘陵地とこの沖の山との間は入海となっていたとされる。これらの区
        域は、1889(明治22)年の町村制施行時までは小串村の村域であった。(歩行約5.7㎞)

        
         JR宇部新川駅は宇部市の中心地にあり、この町の表玄関である。1914(大正3)年宇
        部軽便鉄道開業と同時に宇部新川駅として開業する。駅舎は木造2階建てで、開業以来の
        建物で宇部線の中間駅では唯一の有人駅でもある。

        
         海に向って2つ目の道を右折する。

        
         浄円寺(真宗)は、俗名日高藤兵衛が父の戦死により、その菩提を弔うために出家し、元
        和年中(1615-1624)中山村の禅宗古跡、宝珠庵を取り立てて真宗に改宗する。1912(大正  
        元)年藤山から現在地に移転する。

        
         路地の先に宇部の工場群。

        
        
         松涛(しょうとう)神社がある地は大正の初め頃は松林であり、宇部興産の創業者・渡辺祐
        策(1864-1934)の「松涛園」という別荘があった場所である。

        
         1955(昭和30)年に出雲大社から勧請され、神社を守るのは狛犬でなくライオンであ
        る。
         もとは真締川に架けられていた錦橋の欄干彫像だったが、橋の撤去に際して、この神社
        と宇部市新天地にある中津瀬神社に狛犬として奉納された。

        
         松涛稲荷社。

        
         小松原通踏切の先に見える丘陵地を目指して直線道を進む。 

        
         街路樹の赤い実は秋空に映える。

        
         常盤公園で放し飼いにされていたモモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、
        その周りを市花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。

        
         産業道路と山大病院通りを過ごすと上り坂が始まる。

        
         計量室前から見る宇部の町並み。

        
        
         桃山の中腹に市街地への給水量を計る桃山配水計量室がある。1924(大正13)年沖ノ
        山炭鉱が建設し、2年後に宇部市が譲り受けたものである。
         外観はゴジック様式で、直線的な柱と、ゆるやかなアーチ型をした入口がある。建物は
        直径5.8mの八角形の構造だが、市民からは六角堂と呼ばれている。

        
         道路の中央にあるため歩行者と自転車、自動車と単車に通行区分されている。

        
         配水地内にはゴジック建築の旧排水池監視廊が残されている。宇部の上水道は、下関・
        小郡の上水道が地形を利用した自然流下による取送水であったのに対し、ポンプによる機
        械送水であった。

        
        
         1988(昭和63)年桃山の高台に完成した展望所付きの貯水池がある。残念ながら予約
        しないと見学できない。

        
         鵜の島小学校への道に下ると左手に薬師堂がある。島根県の一畑薬師より分霊されたお
        堂で、眼病平癒の薬師として信仰されている。 

        
         お会いした方が「行きはよいよい、帰りは怖いではないが、買い物の重たい荷物を持っ
        ての上り坂は、加齢もあってしんどいが生活のためには仕方ない。逆ならいいのだが‥」
        と休みを入れながら帰って行かれる。

        
         鵜の島小学校まで下って右折する。

        
         浜児童公園北側の駐車地に、1949(昭和24)年桃山炭鉱の事故で亡くなられた7名の
        慰霊碑がある。

        
         小学校筋に戻ると正面に標高30mの鍋倉山が見えてくる。

        
         宮地嶽神社の南参道。

        
         妙法寺については詳細知り得ず。

        
         山頂近くに秋富久太郎と秋田寅之助兄弟の像がある。久太郎は明治から昭和にかけて木
        材の事業で活躍し、養子に行った寅之助は海運業や造船業まで手掛ける。像は1958(昭
          和
33)年関係のあった会社が建立する。
 
        
         栄川は、1693(元禄6)年鵜の島開作の水はけをよくするために、居能と助田との境の
        砂浜を掘り割って造られた。当初は鍋倉山の下まで漁船が入っていたが、川も自然に浅く
        なり、1936(昭和11)年に埋め立てられた。(埋立記念碑)

        
         1897(明治30)年頃に建立された宮地嶽神社。その後、金毘羅宮、宇和島から和霊神
        社を勧請して合祀される。ここから展望を得ることができない。 

        
         何が祀られているのか知り得ず。

        
         大地主神社の下側に稲荷社。

        
         居能側に立派な参道と鳥居、灯籠があることから、こちらが表参道のようだ。
         宮地嶽神社は居能商店街の繁栄を祈念して建立されたようで、参道には除夜の鐘と同じ
        108段。一の鳥居の額束には宮地嶽神社。二の鳥居には宮地嶽と金毘羅、三の鳥居には
        3つの神社が併記されている。(二の鳥居) 

        
        参道を下ると狭隘な地に三階建て。 

        
         国道と産業道路が合流する鍋倉交差点から国道に沿って南下し、2つ目の信号を左折す
        ると宇部線が並行する。宇部線の盛り土と思ったが、今では想像すらできないが江戸期に
        は岬からのびた砂丘だったとのこと。
         助田バス停より宇部新川駅に戻る。


宇部市琴芝の旧高等女学校跡から大学院を巡る

2023年10月12日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         琴芝は宇部市の中央に位置し、南西をJR宇部線、北西に真締川が南流する。(歩行約6.
        1㎞)

        
        
         1929(昭和4)年宇部鉄道の駅として開業するが、2020(令和2)年木造駅舎が解体さ
        れて簡易駅舎になってしまう。(🚻なし)

        
         琴芝駅から塩田川に沿って参宮通りに出る。

        
         参宮通りとJR宇部線が交わる場所に、「交通安全琴崎八幡宮の碑」がある。1921
        (大正10)年宇部村から宇部市になり、1924(大正13)年この位置付近に道を跨いで琴崎
        八幡宮の参道を示す大きな鳥居が建てられたという。
         ところが車が増えて参道を広げたが、鳥居の片脚が道の中心に残って危険なため、19
        65(昭和40)年頃に解体され、その記念碑として灯籠が設置された。

        
         参宮通り。

        
         1928(昭和3)年即位大典を記念してできた神原公園には、同時に福原元僴(もとたけ・
        通称は福原越後)の銅像が建立されたが、先の大戦において武器生産に必要な金属資源の不
        足を補うため供出されたという。
         1930(昭和5)年に建てられた石碑が、銅像のあった位置に移転する。

        
        
         1899(明治32)年学校令により、高等女学校が各都道府県に創設され、山口県内では
        私立を含め約28校が開校し、その後、変遷を経て現在の高等学校に発展継承される。
         県立宇部高等女学校は、1913(大正2)年私立済美実科女学校として開校する。のちに
        村立及び市立を経て、1928(昭和3)年県立に移管されて宇部高等女学校となる。194
        8(昭和23)年宇部南高校(女子校)と名称変更されるが、宇部高校に統合され男女共学とな
        る。
         当時の女学校は現在の琴芝小学校の地にあり、跡地を示す石碑が校門入口に建立されて
        いる。

        
         県道琴芝際波線の街路樹が色づき始める。(煉瓦塀の先で左折)

        
         宇部中央高校手前に道重信教上人の生誕地碑と地蔵がある。1856(安政3)年この地で
        生まれ、13歳の時に浄土宗の松月庵に入り出家の道を歩み、京都知恩院の浄土宗教校(現
        佛教大学)に入学する。
         のちに徳川家の菩提所・増上寺の法主に就任し、明治天皇への御前講義を行う。関東大
        震災の三回忌法要を飛行機から行い、帰郷してからも仏教の民衆化を図り、在家宗教を説
        くなど教化に専念し、「今一休」と呼ばれた名僧であった。

        
         堂内には上人誕生地と刻まれた石碑と地蔵尊が祀ってあり、正面に上人の写真があった
        ようだがお隠れになられた。

        
         次の分岐左手に延命地蔵が祀られているが、いつ頃からあるのかよくわからないとのこ
        と。高校側を背にしているが、目の前の道は琴芝小学校の通学路とのこと。(西梶返3丁目
        7)

        
         高校のフェンスに沿うと琴芝ふれあいセンター前に石碑が一基。

        
        
         四差路を左折すると周囲には桃色煉瓦塀が目立つようになる。煉瓦は石炭灰と石灰を主
        原料として、たたき締めて干し固める製法で作られたものである。硬くて湿気に強いのが
        特徴で、耐火性にも優れ風呂の焚き口にも用いられた。
         大正期から昭和40年(1965)頃にかけて製造されたが、廃物リサイクルのさきがけとも
        いえる製品でもあった。

        
         この付近に猿田彦大神と刻まれた石碑があったが、草木に埋もれてお参りする人も少な
        くなる。戦後、新しい地蔵堂が建立された時、一緒に祀られたとのことで左手に庚申塚、
        右手に地蔵尊が鎮座する。

        
         この付近は新旧の民家が混在する。

        
        
         梶返八幡宮の由来によると、平安期の901(延喜元)年菅原道真が太宰府に左遷される途
        中、暴雨風に遭い、船頭は舵をこの浜に返して風を避けた。風が収まるのを待って船出し
        たが、道真は着任の2年後に亡くなった。村の人々は、道真の徳を仰ぎ、ゆかりの地に神
        社を建立したとある。

        
         菅原道真が嵐を避けて船から梶返の地に上がったとき、この池で手を洗われたと伝わる
        菅公御手洗の池。(神社西側の道筋に案内あり) 

        
         この一帯は亀甲模様と市章の中に「下」の文字が入ったマンホール蓋である。

        
         お堂の中に祀られているのは三界地蔵で、生死流転する3つの迷いの世界(欲界、色界、
        無色界)で苦しんでいる衆生を救われる菩薩とされる。

        
         四差路まで引き返して梶返東西道路を常盤湖方向へ向かう。

        
         源山墓地の中央付近に「東見初(ひがしみぞめ)炭鉱遭難者之墓」がある。1915(大正4)
        年4月12日の正午ごろ、宇部炭田最大の炭鉱海底陥没事故で235名が犠牲となる。
         墓の両横と裏の3面には犠牲者の名前が刻まれているが、犠牲者のほとんどが坑内夫で
        あるが、女性の名前もかなりあり、坑内で女性も働いていたことがわかる。

        
         天保八丁酉(1837)と刻まれた地蔵尊と、頭がはっきりしない六地蔵が並ぶ。墓地の奥に
        見えるのが真言宗の信光寺。

        
         源山墓地から東新川野中道路に出ると緩やかな上り坂となる。出会った女性が歩車分離
        でなく朝夕は渋滞し、昼間は速度制限を越えて下ってくる車があって歩行もままならない
        という。

        
         常盤中学校を過ごして里道に入り、道なりに進むと突き当りに道しるべがある。

        
         この道標は元旧道の四差路に建てられていたもので、「南 草江、岬」「北 井関、阿
        知須駅、山コシ」「西 新川、居能」「東 床波、阿知須」とあり、裏には明治42年(1
        909)1月建立と刻まれている。

        
         草江野中道路を横断すると野中公会堂前に、「明治三十七・八年戦役 野中若」裏には
        「旅順陥落記念」と刻まれている。

        
         大学院という名前に惹かれて坂を上がって行くと看板が見えてくる。

        
         宇部市内では唯一の天台宗寺院であるが、創建年および開基の名など不明とされる。左
        手が本堂と案内されている。
         草江野中道路を常盤中学校方向へ引き返し、高専グランド前バス停よりJR宇部新川駅
        に戻る。
     


宇部市上宇部の参宮通りから福原邸跡と宗隣寺

2023年10月10日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         上宇部は真締川中流の左岸、宇部丘陵の基部にあって緩やかな谷状の低地に位置する。
        大正期に沖の山が市街地されるまで宇部村の中心は上宇部の寺ノ前であった。今回は参宮
        通りの西側から真締川付近を散歩する。(歩行約4.5㎞)

        
         JR宇部新川駅バス停(10:02)から宇部市営バス交通局行約15分、八幡宮前バス停で下
        車する。

              
         琴崎八幡宮の森と参宮通りを見返るが宇部村が宇部市になり、1925(大正14)年町
        の中心が新川に移り
始めた頃、航行する船からも八幡宮が見えるようにとの願いから一直
        線に造られた。

        
         常盤公園の白鳥が中央に大きく描かれ、その周囲にも白鳥がデザインされたマンホール
        蓋。

        
         国道490号線(参宮通り)を南下してGSの先で右折すると、こんもりとした高台が宇
        部の給領主だった福原氏邸跡で、側面には白い土塀と石垣が再現されている。

        
         福原氏は毛利氏と同じく鎌倉幕府の源頼朝の家来であった大江広元を祖先としており、
        武蔵国長井庄を所領したことから長井氏を名乗っていた。安芸国に移り、南北朝期の13
        81年に福原庄を所領して「福原」を名乗る。

                
        
         萩藩の永代家老であった福原家は、宇部村ほか合わせて8,000石の領地が与えられ、
        この地に屋敷を構えた。藩の要職にあったため普段は萩屋敷にいたため、宇部の屋敷は御
        田屋(おたや)と呼ばれた。
             1976(昭和51)年宇部市福原史跡公園として整備された時、表門は萩の福原屋敷門を
        2/3に縮小して再現され、石段も模擬建造物である。

        
             
         御館は2階建ての主屋のほかに文武の稽古場、馬屋などがあったが、当時のものとして
        は井戸と祠(稲荷社と他に1基)、樹木が往時を偲ばせる。敷地全体はよく保存されている
        ようで、敷地は当時に近い状態と思われる。

        
         天保年間(1830-1844)に郷校として中村に晩成舎を設け、1845(弘化2)年には儒者・
        佐々木向陽(しょうこう)を招き、菁莪堂(せいがどう)と名を変えて福原邸の中へ移す。
         福原越後守元僴(もとたけ)の代、1864(元治元)年4月文武両道の教育施設として、この
        地に維新館が建てられた。洋式兵制にも力が注がれ、武士だけでなく庶民も入学が許され
        た。
         変革を意味する「維新(これあらた)」という語が使われたため、幕府からクレームがつい
        たとか。

        
         赤煉瓦塀と蔵のある民家前を過ごす。

        
         常盤公園で放し飼いとなっていたモモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、
        その周囲に市の花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。

        
         中村地蔵尊は、1682(天和2)年第15代の福原宏俊が大坂の石匠に依頼して制作され
        た。船便で京納台地の南側の講堂の地に安置され、大正期に現在地へ遷座させたという。

        
         地蔵尊の傍に「一石一宇経塋」と刻まれた経塚の碑がある。

        
         1827(文政10)年ある修験者が置いていったという不動尊と、他にあった荒神が一緒
        に祀られている。

        
         中村1丁目内を抜けると真締川に架かる御手洗橋があり、左前方に護国神社の看板が見
        えてくる。

        
         御手洗橋東詰にある2つの祠は、右側が八王子社で寛政八丙辰8月吉日(1796)川津村中    
        と刻まれている。左側が豊前坊として栄えた英彦山神社とのこと。

        
         護国神社の社務所がある広い平地は、いつ頃まで行われたか不詳であるが、祭りの時に
        は競馬場して使用されたとか。参道を進むと手水鉢舎には水琴窟が設けられている。

        
         1866(慶応2)年11月に創建された維新山招魂社は、禁門の変で戦死した21名とそ
        の責任を負わされた福原越後守元僴(通称は福原越後)の霊を祀ったものである。
         明治以後、日清・日露戦争やその後の戦いで戦死した人たちの霊を合祀するようになり、
        1939(昭和14)年内務省令により宇部護国神社と改称する。

        
               本殿前から左方向へ進むと招魂社跡があり、旧社殿跡には「殉国戦死之碑」が建立され
        ている。その奥には安否不明となった福原家臣の霊標が並ぶ。

        
         霊標には「不知所終(おわるところしらず)」と刻まれており、これは禁門の変で、亡くなっ
        た場所もわからないような壮絶な死に方をしたことを表しているとのこと。

        
         第二次幕長戦争を前に福原芳山が組織した西洋式の軍隊「知方隊(ちほうたい)」が、戊辰
        戦争での会津落城前にライフル銃16挺を献納したことを示す記念碑。碑には「献装條銃
        (そうじょうじゅう)」とあり、これは銃身内部にらせんの切れ込みを入れた当時最新式のミニ
        エー銃である。

        
         鎌田橋は真締川では最初に架けられた橋で、江戸期には宇部村と藤曲村を結ぶ重要な橋
        だった。

        
        
         鎌田井堰は真締川では一番大きな堰で、蛇瀬池の水と合わせて尾崎水路に流れ、小串・
        鵜の島開作へ送水されている。

        
         鎌田橋から道に沿って上がって行くと、右手に庚申塚があり猿田彦大神と刻まれている。
        日本神話で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向国高千穂の峰にくだったとき、先頭に立って道
        案内をしたという神。中世には「塞(さえ)の神」と混同されて道祖神となり、一方、仏教の
        影響を受けて「猿」が「申」との混同から、庚申の日にこの神を祀るようになった。

        
         鎌田橋から県道を避けて里道を歩くと、今では珍しくなった「はぜ掛け」が見られる。

        
         宗隣寺(臨済宗)は奈良期の777(宝亀8)年唐より来朝した為光(いこう)和尚がこの地に
        来た時、この辺りはまだ海水が入り込んでいた。ここの景色が故国の松江(ずんこう)に似て
        おり、この地に松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)を創建したと伝える。

        
         普済寺はいつのころか廃寺となったが、宗隣寺として再建されたのは、1670(寛文1
           0)
年福原広俊が、宇部の最初の領主であった亡父福原元俊の菩提ため、開創したといわれ、
                「宗隣」は元俊の法号からとられたものである。
         屋根瓦には福原家の家紋「二文字三つ星」、護国神社には「酢漿草(かたばみ)」が用いられ
        ている。

        
         福原越後は禁門の変の責任を取って、1864(元治元)年11月12日岩国市の龍護寺で
        切腹した。その首は広島の国泰寺に運ばれて首実検され、その後、宗隣寺に持ち帰られた。
        寺の裏山に墓所があるが、命日に法要が行われ、この日だけ一般公開される。 

        
         南北朝時代に築庭された山口県最古の池泉式庭園として知られ、潮の干満を表す干潟様
        の池では平泉の毛越寺(もうつうじ)の2箇所しかない造りとされる。

        
         方丈の北側にある龍心庭の池中には8つの夜泊り石は、蓬莱思想や仏教の四諦(したい)
        正道を表しているといわれている。
         四諦とは仏教の礎となる4つの心理、苦諦・集諦・滅諦・道諦。八正道とは正見・正思
        ・正語・正行・正命・正精進・正念・正定。 

        
         寺は宇部村で初めて小学校が開かれたところであり、現在は中国観音霊場23番霊場と
        山陽花の24ヶ寺になっている。

        
         福原芳山(ふくはらよしやま)は長州藩の上級藩士粟屋親陸の次男として生まれ、1864(元
        治元)年福原越後が禁門の変の責任を取り自害すると、藩命により宇部領主福原越後の養子
        となる。
         1867(慶応3)年藩命により大英帝国へ留学し、帰国後は不正に独占されていた厚狭郡
        内の採鉱権を、私財を投げ打って買い戻し、その後の宇部の炭鉱産業発展の基礎を築く。 

        
         大阪市北区の鶴満寺にある銅鐘に遼の太平10年(1030)の銘があり、「長門州厚東郡
        宇部郷松江山普済寺」「永和五年己未仲呂日」の追銘があるという。この銅鐘は普済寺
        の廃絶によって地中に埋もれていたが、元文年間(1736-1741)真締川の堤防工事中に発
        見され、藩主毛利氏によって鑑定のため大坂に送られていたのを、鶴満寺(大阪市北区)
        の再興するに際して延亨年間(1744-48)毛利氏より寄付されたと伝える。
         現在ある銅鐘の鋳造年などは知り得なかった。

        
         片隅に庚申塚。

         
         小串バス停よりJR宇部新川駅に戻る。


宇部市の沼・山門・開地域にある史跡を巡る

2023年10月07日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         上宇部は真締川中流の左岸、宇部丘陵の基部にあって緩やかな谷状の低地に位置する。
        大正期に沖の山が市街地されるまで宇部村の中心は上宇部の寺ノ前であった。今回は参宮
        通りと称される常盤湖側を見て歩きする。(歩行約5.9㎞)

        
         JR宇部新川駅前(9:02)から宇部市営バス参宮通り経由約10分、沼バス停で下車する。

        
         参宮通りを北へ向かうと、中学校通り入口に厳島神社(水の神)と稲荷社(五穀豊穣の神)
        がある。
         江戸期に水害に悩まされたとき、稲荷社を上宇部中学校と山大工学部辺りに祀ると、水
                害もなく稲も良く育つようになったとか。灯籠には文政丁亥(1827)沼村中と刻まれている。

        
         参宮通りにある日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)は、日を限ってお願い事をすれば、願いが叶
        えられるといわれる地蔵尊である。きらら交流館辺りに通じる道が完成した時に設置され
        たという。

        
         中学校通りに沿うと右手「火の神様」が祀られている。

        
         明治初め頃の教念寺前の通りには酒屋、酢屋、醤油屋、宇部でただ一軒の旅館もできた。
        村役場、小学校もでき、年の瀬には市も開かれたという。
         今、寺ノ前通りを見ると狭く感じられるが、明治の頃としては広い道であったようだ。 

        
        
         宇部の給領主・福原氏は禅宗であったが、教念寺(真宗)に対して 、1661(万治4)
        に現在の地を授けた。1744(延亨元)年に本堂が落成したが、1825(文政8)年には本
        堂・庫裏を全焼する。3年後に今の本堂が建ったが、当時の宇部では大変な事業であった
        とされる。

        
         寺と宇部高校との間に煉瓦造の煙突が聳える。

        
         玄関に聳えるケヤキの木は宇部村役場からのもので、1962(昭和37)年火事が原因で
        腐朽が進んだが、諸般の方々の努力で元気を取り戻す。2015(平成27)年の校舎建て替
        えの際、校舎を北東に10mずらしたという。

        
         1920(大正9)年4月全国初の村立中学校として宇部小学校の校舎で授業が開始された。
        のち村役場の隣地に宇部村立中学校が新築され、第1回卒業生が「宇部中学校記」の石碑
        を建立する。

        
         宇部高校創立100周年記念モニュメント。第28回UBEビエンナーレ新部門プロポ
        ーザル部の第1号で、「飛翔」がテーマであったとか。

        
         宇部高校グランドを過ごすと教念寺山。

        
         教念寺歴代の住職と室の墓だそうで、古い教念寺の地ともいわれている。

        
         京賀のお大師様と記念碑。 

        
         1939(昭和14)年荷馬車が通れるほどに道を拡張した記念に建立される。

        
         鎌倉期の1196(建久7)年真言宗の文殊院として建立されたと伝える。1625(寛永2)
        年福原元俊の次女が吉敷毛利家に嫁したが、若くして亡くなり、その位牌を本寺に迎えて
        真言宗から浄土宗とし、寺号も戒名から「松月庵」と称した。1911(明治44)年松月院
        と改める。

        
         1969(昭和44)年築とされる本堂と山門は、2009(平成21)年7月の豪雨で屋根が
        傷み修理した際、山門を含め木材色に塗装された。 

        
         この域内には学校が多く、右手に上宇部小学校を見ながら大小路筋の広い道に出る。

        
         常盤公園方向に進むと三差路左手に、1895(明治28)年建立の道標がある。もとは道
        路の向かい側にあったが道路拡張でこちらに移転したという。今の参宮通りができる前の
        参宮通りで、ちょうど分岐になることから設置されたとのこと。

        
         道標から琴崎八幡宮への道を進むと左手に細い路地があり、家前に「申田彦大神」と刻
        まれた石を祀るお堂がある。猿(申)田彦は道案内の神とされるので他に鎮座していたもの
        と思われる。

        
         この道が旧来の参宮通りだそうだ。

        
        
         1794(寛政6)年時雨川に架けられた太鼓橋は、1984(昭和59)年河川改修により朱
        塗りで擬宝珠付きの渦橋に架け替えられた。旧渦橋は地元自治会によって御旅所下に移設
        復元された。
         琴崎橋の親柱は、2003(平成15)年国道490号線沿いの橋が架け替えられ際に移設
        された。

        
         神社の祭礼(御神幸祭)において、御神体を乗せた三基の神輿を氏子が担いで本殿を出御
        (しゅつぎょ)して、御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。この台座は、1822
        (文政5)年9月氏子によって寄進されたとある。

        
             琴崎八幡宮の宮碑によると、貞観年中(859-877)頃宇佐八幡宮を山城国男山へ勧請する途
        次、海上の時化のため琴芝浦に寄港する。出発時に際して幣(ぬさ)に分けてこの地に留めた。
        里人は琴芝村八王子に社を建立し、平安期の1184(寿永3)年厚東武光が西ノ宮に遷座さ
        せて宇部郷の鎮守とする。厚東氏滅亡後に新社地を求め、南北朝期の1377(永和3)年現
        在地に遷座される。

        
         1936(昭和11)年に三間社流造りの現社殿が新築された。1921(大正0)年宇部村
        が宇部市になり、町の中心が新川に移り始めると、1925(大正14)年海を航行する船か
        らも八幡宮が見えるようにとの願いから、参宮道路は一直線に造られた。

        
        
         琴崎保育園の裏山に常盤用水路がある。常盤湖に灌漑用と工業用水を確保するため、厚
        東川の末信から常盤湖に入水させる工事を県が計画し、1938(昭和13)年から5年の歳
        月かけて完成する。
         水路は全長8.3㎞、幅2mで、末信、中山、小羽山、琴崎八幡宮を経由して常盤長尺り
        エゴ(入り江)へと入水されている。

        
        
         この広場で江戸期には琴崎八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)が行われ、明治以後は西洋式の競馬
        場が行われたという。鐘台の台座に「市制10周年記念競馬場大拡張」と刻まれており、
        1931(昭和6)年に拡張工事が行われ、1964(昭和39)年まで競馬が続いたという。左
        手の鐘台には「勝敗場」とあり、鉄製には鐘が吊り下げられていたものと思われる。

        
         風呂ヶ迫の墓地内にある雨乞祈願成就碑は、日照りが続いたため雨乞い祈願をするため、
        千把焚き(せんばたき)が行われた。3日目に雨が降り、開・山門・大小路の住民が、193
        3(昭和8)年9月墓地手前に記念碑を建立した。 

        
         佐々木向陽(しょうよう・1801-1863)は長崎の通訳の家柄に生まれ、17・8歳頃には6ヶ
        国語に通じていたという。江戸へ行く途中、難破して丸尾へ避難する。阿知須の江口茂兵
        衛に学識と人物を請われ、 阿知須に留まって子弟の教育し、傍ら医を開業する。
         その名声が高くなり宇部の晩成舎に招へいされ、阿知須と宇部の子弟を教えることを楽
        しみとした。宇部では晩成舎を廃して郷校・菁莪(せいが)堂を建てることになり、学頭とし
        て招こうとしたが、当時は領内の者でないと採用できない制度のため、佐々木という人の
        いない家を継いで佐々木向陽と改める。宇部に在ること18年の間、青木周蔵など多くの
        人材を輩出する。

        
         右手は佐々木松墩(しょうとん・1835-1885)頌徳碑が建立されているが、萩藩益田家の家臣
        の子(荻野時行)として生まれ、のち佐々木向陽の一人娘・八重と結婚して養子となり跡を
        継ぐ。のち萩明倫館の教授、維新後は京都師範教諭となり京都で没する。 

        
        
         山門のお大師堂(八十八ヶ所)には、文化三丙寅(1806)五月と刻まれた弘法大師像が祀ら
        れている。外側には2列87体の石仏が並ぶ。
         四国霊場の巡礼は船で渡り、徒歩で1ヶ月以上を要したので、各地に小型の霊場を設け
        て四国参りの代わりとした。

        
        
         1915(大正4)年11月御大禮記念として、開黒岩青年支会が道標を建立する。読み取
        りが難しいが、東:床波・丸尾、西:新川・居能、南:岬、北:井関・阿知須駅と刻まれ
        ている。
         ここで歩きを終えて、傍の開バス停(13:23)より宇部新川駅に戻る。


宇部市の常盤池周回と野外彫刻

2023年05月24日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         常盤公園は宇部市の中心部から東へ4.5㎞、市域の南東部に位置する常盤池を中心とし
        た市営総合公園である。公園の中心にある常盤池は東洋のレマン湖の愛称で呼ばれる。(歩
        行約8.6㎞・🚻あり)

        
         社会見学の子供たちと列車を見送る。1925(大正14)年宇部鉄道の停留所として設置
        されて駅舎も建てられたが、2020(令和2)年駅舎が解体されて待合所のみとなる。

        
         この駅は、正面に青い海と宇部空港を離発着する旅客機が見られる。

        
         歩道橋で国道を横断する。

        
         南駐車場前の案内図。

        
        
         満水時に堤防(本土手)が決壊しないように、荒手(水量が増えた時に水を流す排水路)が
        設けられている。この悪水溝に架けられた石橋で、1909(明治42)年までは石橋を利用
        して土手を往来していたというが、新道の完成後は通る人も少なく一部が崩落している。

        
         常盤公園入口の東側に飛び上がり地蔵のお堂がある。中に2体の地蔵が祀られているが、
        1929(昭和4)年常盤池の底から飛び出すように浮かんだことから、飛び上がり地蔵と呼
        ばれている。 
         どちらも頭と胴が後にくっつけられたもので、左の方が古いがいつ頃造られたものなの
        かは不明とのこと。

        
         石炭記念館は宇部から炭鉱が姿を消してから2年後の1969(昭和44)年、炭鉱で栄え
        た宇部の歩みを長く後世に伝えるため、日本初の石炭記念館として誕生した。櫓は宇部興
        産㈱東見初(ひがしみぞめ)炭坑で活躍した竪坑櫓とのこと。

        
         常盤公園バス停の傍に際立つ鮮やかな赤色の彫刻が目を引くが、内田晴之さんの「重力
        空間ー赤」という作品である。横長の物体が水平に保たれており、マジックを見ているよ
        うな錯覚に陥る。
         ステンレス製の箱4つのうち、赤い箱に磁石が内蔵されており、反発し合うことで横長
        の箱が水平に保たれているとのこと。

        
         石炭記念館入口に荻原守衛さんの「坑夫」。荻原さんはロダンに教えを受けた彫刻家と
        される。

        
         常盤公園の白鳥と鯉が描かれたマンホール蓋。

        
         常盤橋前にある西野康造さんの「風になるとき」は、  常盤池一周は5.73㎞とあり。
        3本脚に支えられた翼が、風によって浮遊するように動
        いているが、鳥が大空に向かって羽ばたくような姿にも
        見える。

        
         常盤橋付近にはたくさんの白鳥が見られたが、2011(平成23)年2月高病原性鳥イン
        フルエンザが発生し、全白鳥の処分が行われた。現在は湖畔で白鳥を見ることはできない
        が、白鳥池前の飼育施設で数羽が飼育されているという。

        
         桜山入口にある関正司さんの「ロッキング・ロール」は、ボディ部分が衣装のようで裾
        は波形にふちどりされている。顔部分の髪は逆立した女人像である。

        
         池から初夏の風を受けながら周遊路を散歩。

        
         桜並木の散歩道。

        
         常盤池を地形図で見ると、掌を広げたように入り込んだ地形で、入江と突き出た岬はそ
        れぞれに表情を変えるので、次の入江はどんな表情を見せるのか楽しみの1つとなる。

        
         常盤池は上宇部、沖宇部、西岐波にまたがり、宇部丘陵地の新田開発のた
め灌漑用溜池
        として築造された。宇部の給領主・福原氏が藩に願い出て許可後、家老の椋梨権左衛門に
        命じて丘陵中の広くて長い浸食谷の最狭部に、堤高9.4m、堤長65mの堰堤を築き、周
        囲の台地から流入する水が自然に溜まるようにしたものである。
         3年の歳月をかけて1698(元禄11)年供用開始したもので、2016(平成28)年「世
        界かんがい施設遺産」に登録される。

        
         「宇部炭田発祥の地」には炭生(たぶ)跡が残る。炭生とは一散堀で採炭された竪坑(深さ
        3~7m)の事で、常盤池が完成する以前には家庭用石炭の採掘が行われていたという。

        
              周囲には窪みがたくさん存在するが、2002(平成14)年に一散堀が埋め戻された跡と
        のこと。

        
         1ヶ所のみ現状保存されている。

        
         平日だが多くの方がウオーキングされているが、皆さんは速足で散歩ベースではおぼつ
                かない。(常盤橋から2㎞地点)

        
         1920(大正9)年頃池のほとりの別荘地に桜が植樹されると、景勝地として知られるよ
        うになる。その後、地元の実業家・渡辺祐策らにより、常盤池周辺の土地購入活動が推進
        される。購入された土地が市に寄贈されたことで、1925(大正14)年宇部市常盤公園が
        開設された。(キャンプ場付近)

        
         左手にサッカー場と車道に合わす付近が3㎞地点である。

        
         常盤スポーツ広場管理棟前で周遊路を外れて黒岩観音に立ち寄る。

        
        
         黒岩観音は、1926(大正15)年松月院住職の道重上人から「黒岩山の中腹で、清水の
        流れる所に開(ひらき)部落の守り本尊として、観音様を建立したらよい」との勧めで、子安
        観音菩薩(子供の成長と妊婦の安産)、馬頭観音菩薩(馬の守護)の2体が奉安される。

        
         主要な入江が7つあるという。

        
         薬草園付近が6つ目の入江。

        
         常盤池に流入する自然河川はなく灌漑用に造られた池であったが、宇部曹達工業(現セン
        トラル硝子)や東見初炭坑などが工業用水に使用すると、渇水期には水不足が生じ始める。
         1943(昭和18)年宇部市末信の厚東川より常盤池までの8.5㎞をつなぐ導入路が設
        けられたことで、池の底を見せることがなくなる。(近代化産業遺産)

        

        
         1992(平成4)年竣工の白鳥大橋と武荒信顕さんの作品「あなたと‥(わすれてしまっ
        たこと)」

        
         楢原の入江に架かる斜張橋は青空に白色の橋が映える。

        
         しょうぶ苑には中央にスイレンの池があり、周りにハナショウブの花が見られる。

        
         外磯秀昭さんの「Sin」は、大きな形が小さな形を包括している作品。

        
         常盤神社は、1698(元禄11)年常盤池築堤に際し、堤の上に「水神様」を勧請したの
        が始まりとされる。後に変遷があったようだが江戸後期頃に小島(小鍋島)に遷座したとい
        う。
         橋手前の鳥居には「慶應四(1868)戌辰八月」と刻まれており、境内にある鳥居、灯籠な
        どは、1969(昭和44)年草江の大歳神社を合祀した際に移設されたようだ。

        
         高病原性鳥インフルエンザで殺処分を免れたペリカンは、野鳥との接触を避けるため、
        ペリカン島全体がネットで覆われている。

        
         林の中にひっそりとある土屋公雄さんの「底流」は、1991(平成3)年第14回彫刻展
        の作品だが橋脚が再利用されているようだ。

        
         永廣隆次さんの「杜」
      
        
         向井良吉さん(1918-2010)は野外彫刻展の草創に尽力し、のちも同展の発展に寄与した人
        物である。この「蟻の城」という作品は、1962(昭和37)年宇部をテーマにした彫刻で
        現地制作されたものという。材料は地元企業から提供された鉄クズ(バネやレールなど)で
        構成されている。
彫刻の丘展示場で毎年出品作は変わっても、「宇部のシンボル」として
        この場所から動かず常設され続けている。
         左手奥は「月と山、水脈」という岡田健太郎さんの作品。

        
         三宅之功さんの「はじまりのはじまり」は、高さ3・5mの卵型をしており、表面はス
        テンレスのプレートと苔で覆われている。動植物に共通する「奇跡の誕生」を現わしたも
        のという。

        
         一風変わった作品は松本勇馬さんの「変身」で、木材・竹・稲わらで構成されており、
        全身に毛が生えた動物のような人間の造形である。 

        
         新宮晋さんは自然エネルギーで動く作品を制作されているが、噴水池にある「時のシル
        エット」は、9枚の白い帆が今目の前を通り抜けた風の軌跡を示しているという。
         まだたくさんの作品があったが、少々歩き疲れたので公園を後にして、正面入口のバス
        停よりJR宇部新川駅に移動する。


宇部新川の野外彫刻と真締川 (宇部市)

2023年05月24日 | 山口県宇部市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         宇部新川は宇部丘陵の南部に位置し、南は周防灘に面する。宇部という地名については、
        海辺が転訛したとも、ムベが繁茂していたからとも、宇治部という古代部民集団の居住に
        因むともいう。
         「新川」は宇部市中心部を指す地域名称のようで、住居表示あるいは大字の呼称として
        は存在しない。一般的には宇部市立新川小学校の校区が該当するという。残念ながら先の
        大戦で焦土と化し、戦前の遺構等が残されていないため、野外彫刻と真締川の沿いを散歩
        する。(歩行約6.9㎞、川沿いに🚻あり) 

        
         JR宇部新川駅は、1914(大正3)年宇部軽便鉄道の開業と同時に設置される。当初の
        設置場所は平和通りの宇部中央バス停付近に設置されたが、線路付替えにより現在地に移
        転する。
         駅名については、当初は宇部新川駅であったが、1943(昭和18)年宇部鉄道が国有化
        されると宇部駅に改称する。1964(昭和39)年山陽本線西宇部駅が「宇部駅」に変更さ
        れると、開業当時の駅名に戻る。

        
         駅前にある澄川喜一さんの「そりのあるかたち」は、高さ3mの巨大な石柱を軸にして、
        左右に大きく翼を広げた抽象的形態で、大きく羽ばたこうとしている。

        
         この一帯は、1945(昭和20)年の戦災により焼野原となった所で、戦災復興方針に基
        づき、この道が建設されて焼け野原に樹を植え、花が咲く道となる。
         平和を願い復興を取り組む中で、いつしか「平和通り」と呼ばれるようになり、「緑と
        花と彫刻の町ー宇部」のシンボルロードとなる。(彫刻は竹内三雄さんのTransfiguration
               “Link”VⅡ
 )

        
         新川大橋北の真締川公園西に関根伸夫さんの「空の天秤」。宮城県産の伊達冠石とステ
        ンレスで作られ、大きい石と小さい石がバランスを保って天秤状態となっている。

        
         桜井祐一さんの「あるポーズ」がある公園は、緑豊かな散歩道。

        
         緑橋は、この付近が白砂青松の「緑が浜」であったといい、その名が橋名に残された。
        大正期には装飾灯があったという。

        
         重村三雄さんの「風景のある抜け殻」は、柱の上部に逆さとなったセミの抜け殻。

        
         前田哲明さんの「Untitled 01-A」は、大きなステンレスの軸がうねりながら斜めに伸び
                上がる。パラボラアンテナのような不思議なパーツを通って、最後は逆さになったアクリ
                ル製のピラミッドに到着するというコンセプトだそうだが、アクリル板は修理中なのか存
                在しなった。

        
         1910(明治43)年9月宇部村立新川尋常小学校としてこの地に開校するが、1941
        (昭和16)年10月宇部市西小串へ新築移転する。 

        
         黒川晃彦さんの「ロンド」は、ベンチに座った少し滑稽な姿をした人物が楽器を奏でて
        いる。ベンチの片隅が空いているので記念写真も可能のようである。

        
         ANAクラウンプラザホテル宇部と宇部興産ビルは、建築家・村野藤吾(1981-1984)最晩
        年の設計とされ、1983(昭和58)年に完成する。

        
         宇部市渡辺翁記念会館は、宇部市発展の基礎を築いた渡辺祐策翁の遺徳をしのび、翁の
        関係した7事業所の寄付で、1937(昭和12)年に建てられた。
         かの有名な村野藤吾設計によるもので、ゆるやかなカーブを描く外観は、煉瓦に模した
        タイルが張られているがしっとり感がある。建物を上空から見ると飛行機のような形をし
        ているという。
         村野氏と丹下健三氏は日本を代表する世界的な建築家であるが、丹下氏は官公庁関係が
        多いのに対し、村野氏は民間関係の建築を多く手掛けた。同館は2005(平成17)年に国
        登録重要文化財に指定された。

        
         宇部市文化会館は、1979(昭和54)年村野藤吾設計によって建てられた。

        
         モモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、その周りを市の花であるサルビ
                アが描かれたマンホール蓋。

        
         宇部中心部を流れる真締川は、霜降岳を源に発し、南に向かって周防灘の宇部港に注ぐ。  
        かっての宇部の中心は上宇部で、南に沖の山砂丘が広がっていた。真締川が宇部本川と呼
        ばれていた頃は、樋ノ口(現山口大学医学部)で西に向かい居能へ流れていた。
         このため、洪水で農地が被害を受けるので、1797(寛政9)年樋ノ口から河口まで開削
        して、流路を取り換えて新川と名付けた。真締川は「新川地区の間を占める川」から間占
        川となり、転じて真締川となる。塩田川から流れ込む樋門があったので、樋ノ口となり橋
        名にもなる。

        
         散歩するにはベストなコースであるが、橋詰を横断するには信号機を利用しなければな
        らない。

        
         山口大学医学部付属病院にはドクターヘリが駐機中。

        
         西野康造さんの「空を行く2005」は、風で動く彫刻で、3つの回転軸が個別で動く
        ことで伸びたり縮んだり、広がったりと空の上で複雑に変化している。(やすらぎ橋の上流) 

        
         山口大学付属病院通りの宇部大橋で左岸に移動する。

        
         吉野辰海さんの「大首Ⅲ」は、犬の大きな首で瞳は静かに前を見据えている。20世紀
        から21世紀へ、時を凝視することを止めた人間に代わって視る大首。

        
         やすらぎ橋は、中央に半円形の突き出たテラスと休憩用のベンチが置かれた歩行者専用
        橋。

        
         光善寺(曹洞宗)の創建等は知り得なかったが、本堂前に「人間のいのちは燭涙火(ろーそ
          く)
のようにまわりを照らしながら減ってゆく 止めることはだれもできません ただ ど
                こをどのように照らしていくか 与えられたたった1つの自由である」と‥。使える命(時
        間)の尊さを学び、寺を後にする。

        
         宇部図書館前にある佐藤忠良さんの「冬の子供」は、厚着のハーフコートがすっぽり包
        み込み、靴を履いた顔の表情がよい。佐藤忠良は日本を代表する彫刻家のひとりでもある。
         “彫刻の町・宇部”の育ての親、故星出市長を顕彰し、宇部市民有志によって寄贈され
        たものとされる。

        
        
         1917(大正6)年に発足した宇部紡績工場の遺構で、1930(昭和5)年には従業員数
        1,400人を数えたという。
         第二次世界大戦になると材料の確保が難しくなり、1942(昭和17)年紡績工場の整理
        で福島紡績と合併したが翌年に解散する。工場は呉海軍工廠宇部分工場となり、学生動員
        により特殊潜航艇のエンジンなどを作ったそうだが、1945(昭和20)年の空襲で大被害
        を受ける。戦後は市の車両課が使っていたが、現在は琴芝県営住宅、市立図書館などが建
        ち、図書館には工場の壁の一部が組み込まれている。

        
         旧宇部軽便鉄道の鉄道橋が使用されているが、「日立製作所笠戸工場製造大正12年(1
        923)3月」というプレートがあるそうだ。

        
         宇部線を過ごすと公園内に入るが、日影を歓迎する季節になってきた。

        
        
         1938(昭和13)年7月に架橋された松島町と寿町を結ぶ寿橋。橋詰には巨大な擬和風
        の親柱にはガス灯が付けられており、近代化土木遺産とされている。

        
         山内壮夫さんの「宇部産業祈念像」は、宇部市の戦後復興の祈念ともいうべきモニュメ
        ントである。男女が持つスコップが植物になって、柄から若葉が芽吹いている。

        
         同じく山内壮夫さんの「母のひざ」は、セメントで制作された2体の女像で、母のひざ
        をベンチ代わりにして座れるように工夫されている。

        
        
         新川大橋東詰を左折して常盤通りを市役所方向へ進むと、市役所は建て替えられて旧庁
        舎は解体中。少し先に進めば井筒屋というデパートがあったが、ここも建物が解体中であ
        った。

        
         中津瀬神社は、1801(享和元)年新川疎通のお礼と村の鎮護のために川の左岸(東)、今
        のヒストリア宇部の場所に祀られた。祭神は、農耕・水産諸産業の守護神とされ、本殿は
        川の方角(西向き)に建立されていたが、1991(明治44)年に川幅を拡張したとき現在地
        に遷座する。
         建立当時は松浜にポツンと建てられ、敷地も広かったと思われるが、今は建物に囲まれ
        窮屈そうにみえる。

        
        
         神社や本殿を魔物から守るため、魔除けとして狛犬が置かれているが、ここでは珍しい
        ライオンの石像である。1922(大正11)年に旧錦橋ができた時、橋の飾りとして造られ
        たものだという。

        
         法興寺は、東寺真言宗の別格本山という直轄寺の格式を持った寺である。新川に移転し
        てきたのは大正期とされるが、平安前期の859(貞観元)年大和国の大安寺の行教という高
        僧が天皇の命を受けて宇佐神宮に参詣した。
         のち京都の雄徳山に行く途中、赤間関(下関)に寄り亀山八幡宮を建立し、翌年に神宮寺             
        として建てたのが同寺の始まりという。

        
        
         宝篋印塔には安永10年(1781)の年号と、塔身の下方に菊の紋が彫ってある。1913
        (大正2)年に下関から移転させたものという。

        
         新天町商店街を歩く。

        
         旧宇部銀行館は、渡辺翁記念会館などを手掛けた村野藤吾設計により、1939(昭和1
          4)
年建築された。
         1944(昭和19)年1県1行(戦時統合)の政策を受けて、県内の各行が合併して宇部銀
        行は山口銀行宇部支店となる。現在は総合コミュニティホールとして活用されている。(近
        代化産業遺産) 

        
         銀行の建物配置からすると、戦前の常盤通りは現在とは異なる角度で真締川交差してい
        たと思われる。(建物は宇部市役所)

        
         歩行者専用橋である新川橋を渡ると、木戸修さんの「支え合う螺旋」。

        
         平和通りと国道分岐点に伊藤憲太郎さんの「SEED 増殖」がある。5mを超える巨
        大な砂時計のような彫刻で、空に伸び上がるような形である。つやつやした球体は周囲の
        景色を取り込んでいる。

        
         往路とは反対側の平和通りを歩く。

        
         二口金一さんの「メッセージ」は、マントを羽織った人体像をピラミッド形に集約され
        て、三人三様の動きを持たせている。 

        
         塚本洋守さんの「エンドレス コア」だが、歩いた道にあった43作品を撮影したが、
        事前に作品コンセプトを知り得ていたら、違った作品の見方ができたのかなと思いつつ駅
        に戻る。

        
         宇部線の列車はロングシートのため車窓を楽しむ雰囲気でないため、宇部市営バスの特
        急「新山口駅」行きに乗車して車窓からの風景を楽しむ。