この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
草江は恩田地域の1地区で、真締川下流左岸、周防灘に面し、宇部丘陵の東部に位置す
る。海岸部は近代に炭鉱の加土をもって埋立てられ造成された。
歩くエリアには草江、則貞、亀浦、八王子、岬の各地区がある。(歩行約5.8㎞)
JR草江駅は、1923(大正12)年宇部鉄道の停留場として開業、1978(昭和53)年
に簡易駅舎に改築されて今日に至る。
2017(平成29)年宇部線利用促進協議会のプロジェクトチームにより、草江駅に郷さ
とこさんによる駅舎アートが描かれる。線画家・郷さとこさんは埼玉県に生まれ、建築デ
ザイン事務所を経て、2012(平成24)年に作家活動をスタートさせる。
説明によると、この壁画はメインツリーのトックリキワタ(カリフォルニア州ではMajes
tic Beaty)という園芸品種の葉から幹を通り、循環した命はそれを囲むサボテン、花や鳥
が宇部を包み込んでいる。作品はプロジェクトチームによって色付けされたという。
草江第1踏切から空港入口交差点の手前を左折する。
草江児童公園の玉垣内に、遺跡のようなものが存在するが、何であるかはかわからなか
った。石柱に「昭和8年5月」「弐年祭記念」の刻字がある。
同じ公園内に石碑があるが、刻字は風化して読めず。
再びJR宇部線を横断する。(塩谷踏切)
草江2丁目から則貞6丁目の生活道。
今度は鉄道橋下を潜る。
県道220号線(宇部空港線)を横断すると、塚穴川河口に出る。
左岸から橋に行けそうだったが、道がはっきりしないため右岸を進むと、入口は施錠さ
れていた。
「遊具公園」の幟から山口宇部空港ふれあい公園に入る。
公園内にはインクルーシブ広場がある。障がいのある子もない子も一緒に遊べる大型遊
具だそうだ。(2023年5月設置)
遊具広場と滑走路の間に調整池があるが、周囲1㎞を周回できるようになっている。
河口部の右手が滑走路。
散歩しながら滑走路を離着陸する旅客機を観ることができるというが、時間帯が悪く観
ることができなかった。
調整池には島があって、一羽の黒い鳥が羽根を休めていた。明治の地形図には鍋島とい
う島が記載されている。
飛行機にとって離着陸の動作中、速度が比較的遅く、高度が低い時にバードストライク
(鳥衝突)が起こることが問題とされている。島にはサギ類の営巣(えいそう)防止策が講じら
れ、騒音にならない程度の音で、鳥を追い払う装置も設置され、時折、音が聞こえてくる。
周回路は歩きやすく、ジョギングやウオーキングをする方が多い。
山口宇部空港ターミナル周辺には、薔薇を中心に植栽されて、春と秋に訪れる人を楽し
ませてくれる。
国内線・国際線ターミナルを過ごし、西側の緩衝緑地帯と思われる丘へ向かう。
管理用道路らしき道は、雑木林の中に緩やかな坂道が設けてある。
用途が違うため展望は今イチである。
時間帯が悪く離着陸の旅客機は見られなかった。
青い海に進入灯が並ぶ。
階段を下れば宇部岬漁港。
通り側に六地蔵と地蔵尊が鎮座するが、看板には中山身語正宗(なかやましんごしょうしゅう)
・栄願寺とある。佐賀県の基山町に本部を置く真言宗系の新宗教という。
まちづくりのキーワード「緑と花と彫刻まち」としてデザインされたマンホール蓋。周
囲に市の花「クスノキ」と市の花「サルビア」、中央にときわ公園の「菖蒲」が描かれて
いる。
岬町3丁目界隈。
八王子町、岬町、草江の住宅地には見るべきものがなく、草江駅に戻ってくる。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
宇部岬・見初(みぞめ)は沖宇部にあり、旧長門国の東南端に位置する。隆起海岸の台地が
見られ、かつては岬から海底にかけて炭鉱があって賑わった地である。(歩行約6.6㎞)
JR宇部岬駅は山口県の最南端駅で、1923(大正12)年8月に宇部鉄道の駅として開
業する。駅舎の建築年代はわからないが、いずれはJR常盤駅のような簡易駅舎になるの
であろう。
駅の正面に創業100年を超える旅館・福久があり、日帰り温泉も可能とか。
浄土真宗の法泉寺の本寺は、小野村(現宇部市小野)の棯小野にあったが、世の中が移り
変わり、新川方面の発展により当地へ移住する者が多くなった。1921(大正10)年に出
張所を開設したが、仮屋で狭隘であったため、1929(昭和4)年に説教所として認可を受
け、のちに仏堂を建立したとされる。
岬町2丁目界隈の通り。
八王子町の交差点は、八王子児童公園への道を進む。
公園の先から丘に上がれば離陸する旅客機が見える。
反対側の宇部岬漁港は木の生長でよく見えない。
漁船が並ぶ宇部岬漁港。
宇部岬漁港前に蛭子神社。
山口県管理の第2種漁港で、湾内の中央部が出っ張って2手に分かれている。海面近く
を飛んで着陸する旅客機が見えるようだが、その姿を見ることはできなかった。
明神児童公園脇に住吉神社が鎮座するが、海上守護の神で「見崎明神」とか「水崎明神」
と呼ばれた。寺社由来は神社の由来を明らかにしていないが、境内の石碑(1879年建立)
によると、平安期の845(承和12)年に神のお告げにより住吉神を祀ったとある。
本殿階段の右側に大きな「かんかん石」がある。名のとおり叩いてみると、「カンカン」
と通常の石にはみられない音がする。石には盃状穴(はいじょうけつ)があって魔除け石や古墳
の蓋石など諸説あるようだ。
もとは海近くにあったようだが、海の埋立てで遠くになったのか、この地に遷座したの
かは知り得なかった。
1945(昭和20)年4月26日から8月5日まで計8回の空襲を受けて、被害は死者2
54人、罹災家屋6,243戸と推計されている。
7月2日の宇部岬から西中町一帯の東部市街地の空襲では、罹災者24,270人余とさ
れ、宇部空襲最大の空襲であった。罹災した市民は復興への事業に取り組み、約10余年
の歳月と巨費が投じられた。(区画整備された松山5丁目付近)
浄土真宗の福勝寺は、厚東村にあって住職は華道の大家であった。1925(大正14)年
要望により、この地に出張所を開設したのが始まりという。(昭和町4丁目)
西覚寺(真宗)は、1695(元禄8)年に原村(現宇部市厚南区)に創建されたが、1900
(明治33)年現在地に移転する。寺というより御殿のようであった。
寺の西側(寺からは行けない)に東見初街区公園があり、中央に四阿があって昼食休憩を
させてもらう。
松山町4丁目付近の通り。
松山町3丁目と4丁目の境に「曹達(ソーダ)の引込線」跡が残されている。美祢市の重
安駅から原料の石灰石が厚狭駅を経由して宇部岬駅まで輸送された。ここから約1㎞の宇
部曹達専用線で運び込んでいたが、2009(平成21)年に廃止された。
宇部曹達工業㈱は、1963(昭和38)年に旧セントラル硝子を吸収合併し、セントラル
硝子㈱に社名変更する。
常安寺(曹洞宗)は、1929(昭和4)年に熊毛郡勝間よりこの地に移建したという。
松山通り公園を過ごし、虎月堂(こげつどう)のある通りを南下する。1953(昭和28)年
創業の洋菓子店で、甘党の方にとっては最高のお店のようだ。(この先を右折)
区画整理された町並みだが、この一角だけ斜めに設けられている。
昭和町3丁目にある白亜の塔には、「宇部港東導灯(後灯)・初灯昭和28年(1953)」と
表示されている。導灯は狭い港への入港進路を示すもので、灯高は19mで光到達距離は
約13㎞とされる。前灯はセントラル硝子工場内に設置されている。
コンテナが並んでいるので近所に方にお聞きすると、コンテナ型ホテルで全国チェーン
とのこと。よく見るとコンテナにはホテルと記載されている。
再び引込線跡を横断する。
幸町界隈。
智照院太子堂の位置がわからず、少し右往左往してしまう。セントラル硝子の入口交差
点をフジグラン方向へ進み、コンビニ先の狭い脇道に入ると案内板がある。
1927(昭和2)年に京都の仁和寺よりお大師様が移されて創建されたという。本堂と周
囲には健康にご利益のある地蔵が並んでいる。
1958(昭和33)年にオープンした「友恵湯」は市内唯一の銭湯である。汗だくのため
ひと風呂浴びたかったが、15時30分からの営業となっていた。昭和の時代の雰囲気を
色濃く残す銭湯は、この地域のコミュニティの場にもなっているのであろう。
日蓮宗の圓満寺は、大内氏時代には吉敷郡宮野村にあり、享保年間(1716-1736)に同吉
敷村に移転する。将来の発展と日蓮宗寺院がないなどの理由で、1918(大正7)年に現在
地に移転する。
1945(昭和20)年の宇部空襲の際に堂宇は全焼し、その後再建されたが、往時の遺構
は堂脇に立つ供養塔のみとのこと。
ケヤキ通りと右手に昭和町公園。1953(昭和28)年戦災復興時に設けられた公園のよ
うで、通称・ハトポッポ公園と呼ばれているとか。
炭鉱地だった面影はなく寺巡りをしたようで、最後の三徳寺(真宗)も立派で、各真宗寺
院は競ってか豪華な本堂だったのが印象的である。(商工会議所前バス停からJR宇部新
川駅)
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
片倉・請川(うけがわ)は西岐波地区に属するが、地区の中心地は海側のJR床波駅周辺で
あるのに対し、北部の丘陵地に位置する。
域内には高度技術工業集積地域開発促進法に基づき、宇部新都市が形成されて産業団地
などに整備されている。これらの両端に昔ながらの生活空間がある。(歩行約7.5㎞)
JR東新川駅の正面に宇部市営バス東新川駅前バス停があり、約25分のバス旅を楽し
んで「あすとぴあ6丁目バス停」で下車する。
中央緑地内に庚申塚があるとのことで散策路を歩いてみたが、見つけ出すことができず、
片倉公園からあすとぴあ5丁目に出る。
片倉八幡宮はあすとぴあ開発工事にともない、南方八幡宮に移転させたそうだが、工事
完了により元の位置に戻された。
由緒などはなく創建年などは詳らかでないそうだが、石祠に「寛政6甲寅(1794)10月」
とあるとのことで、この頃に創建されたのではなかろうか。
灯籠には文政4年(1821)と天保6年(1835)の銘があるというので、確認のため中に入ろ
うとしたがフェンス入口は施錠されていた。
団地内を過ごし「北向地蔵尊」の案内に従う。
あすとぴあ地区とは好対照な集落である。
集落内の道に入り、最奥の西村宅の敷地内と思われる場所に小田中郷の地蔵堂がある。
地蔵菩薩は像高65㎝ぐらいの石造で、蓮華座の上に立っている。隣には「三界萬霊」の
文字が見え、位牌のようなものもある。
本覚寺南側の市道傍に「宮神社上片倉寺□」の石碑があるが、石祠は他に移設されてい
るようだ。(□は読めず)
本覚寺(真宗)は宇部市東岐波にあったが、火災により焼失したため、1626(寛永3)年
この地へ移ったという。移転時はすぐ上の小高い所にあったが、1990(平成2)年に新築
移転する。
寺に向かって右の道を上って行くと、旧境内にモッコク(木斛)の巨木がある。樹高約1
1m、樹周囲は2.7mとされるが、樹齢は不明とのこと。(市指定天然記念物)
「地蔵尊の由来」によると、室町時代の応永年間(1394-1428)片倉の土居に居を構えて
いた白松庄地頭の娘の菩提を弔うために建立されたといわれている。
別の説ではこの地区に豪族が住み、この付近で馬を走らせていたが、馬のひずめの音が
異様に響くのでおかしいと思い、近づくと無縁墓がたくさんあった。これを一ヶ所に集め
て地蔵を建てたという。(台座には天保11年(1840)と刻銘)
地蔵尊を北向きにすると、地蔵尊が下座になるため南に向いているのが多いとされる。
北向地蔵は人々に寄り添い、願いや悩みを聞き受けて、お参りに来た人々を救いたいとい
う願いから、あえて北向きに配されたといわれている。
本堂前に焚かれたかがり火に線香をくべて、香煙に願いを託した後に堂内へ入り、目の
悪い人は地蔵尊の目を、腰を病んだ人は腰をさすると、ご利益を授かる地蔵尊として広く
知られている。(例祭は毎月24日、大祭は1月、4月、8月の各24日)
宇部新都市は産・学・住の機能を合わせ持つニュータウンである。1983(昭和58)年
に制定された高度技術工業集積地域開発促進法(通称・テクノポリス法)によって制度化さ
れ、全国26の地域(宇部地域)が指定された。新都市はテクノ・タウン・アカデミーの各
センターと住宅地区など8つのゾーンに分けられている。(県産業技術センターの通り)
県道219号線(西岐波吉見線)に出ると、上請川自治会館裏に「向講内(むかいこうち)の
汲川」がある。道端にあって危険なため柵がされているが、葉っぱなどが入っているもの
のきれいな水が流れ出ている。この一帯にはこのような汲川が多く存在するが、ここでは
5~6軒が利用していたという。
石風呂の所在地が分からないため地元の方にお聞きすると、県道を北方向へ進むと、紫
陽花が植栽されている場所の山手にあるとのこと。
ただし、石風呂まで行けるかどうかわからないとのことであった。
山側を探し回ると入口を示す標柱があったが、すでに竹藪化して足を踏み入れることが
できず残念する。石風呂は明治初期頃に築造されて、1935(昭和10)年頃まで焚かれて
いたという。
平原墓地への道を上がると正面に山陽自動車道。
墓地入口に地蔵尊が鎮座するが、この地区の豪農が、1783(天明3)年の大飢饉による
犠牲者を悼み、供養するために建立したとされる。台座には「三界万霊」とある。
隣の石碑には「露の世や 露の世ながら さりながら」と刻まれ、1984(昭和59)年
供養のため建立とある。
1844(明治17)年床波小学校から錦波(きんば)小学校に校名変更されると、当時片倉に
あった西山小学校は分校となった。1892(明治25)年片倉から請川の明神社下に移され、
上請川・下請川・片倉仙台の1~2年生が通学していたが、1973(昭和48)年3月に廃
校となる。(明神社下に分校跡)
跡地には花崗岩の校門と、1914年11月の大正天皇大典に際し記念樹として、児童
たちが近くの山林から移植した楠の大樹がある。
明神社の鳥居とその奥の長い石段は、昭和初期に下請川の個人が寄進したとされる。
明神社は、1733(享保18)年に請川地区の住民により建立されたという。明治期に南
方八幡宮に合祀されたが、地区に災難が起ったため、地区民の強い要望により元の地で祀
られるようになったという。拝殿のある立派な社殿が古くなり、1993(平成5)年に改築
されて小さな社となった。
安楽寺(真宗)の寺伝によると、室町期に雲庵謄禅師がこの地に禅宗寺院の王蘇庵を建立
したのが始まりとされる。その後長い間無住であったが、1702(元禄15)年庵の古跡に
真宗寺院が建立され、2年後に安楽寺の寺号が本山から許された。
上請川墓地入口にある六地蔵は、もともと別の所にあったものが、この地へ移されて七
地蔵となっている。奥側の地蔵は台座に「三界萬霊」とあり、単独の地蔵尊として祀られ
ていた。
墓地の奥まった所に「岡本四郎平衛(号静因)の墓」がある。四郎兵衛は、1867(慶応
3)年に請川の農家の納屋に寺子屋を開き、1876(明治9)年廃業するまで間、地域の子
弟を教育した。
四郎兵衛に関する資料はないそうで、墓碑銘には明治25年(1892)に66歳で没したこ
とが記されている。
県道を片倉方向へ進み、最初の信号を右折して川上中学校へ向かう。
川上中学校付近にバス停が2ヶ所あるが、「川上校入口」バス停よりJR宇部新川駅に
戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
船木鉄道は山陽本線宇部駅から旧山陽道の船木宿を経て、山間部の万倉と吉部を結ぶ
17.7㎞の軽便鉄道であった。1944(昭和19)年に万倉~吉部間が廃止され、196
1(昭和36)年に全線が廃止された。
万倉~吉部間には鉄道敷跡の遺構が多く残されていたが、船木~宇部間は開発等で消滅
している。(歩行約11㎞)
JR宇部駅から船鉄バスを乗り継いで、楠こもれびの郷バス停で下車する。トイレと弁
当を買い求めて万倉駅があった万倉バス停に向かう。
南に真っ直ぐ延びる道が鉄道敷跡。
1923(大正12)年10月14日万倉駅頭において、船木~万倉間の開通式が行われた。
当時の万倉駅は田圃の中に建設され、附近には4軒の農家があるに過ぎなかったという。
(遺構はないがバス停が現存)
車の多い道を歩くので、先ずは安全祈願のため宮尾八幡宮に参拝する。
参道から鉄道敷跡に出る。
船木までの鉄道敷跡は、その大半が道路に転用されている。
船木~万倉間が開通し、1926(大正15)年11月に吉部までの区間が開通すると、毎
期に欠損が生じ、機関車の響音まで「ケッソン、ケッソン」と揶揄されるようになった。
伏附(ふしつき)バス停附近に停車場があったようだが、その位置は確認できなかった。
有帆川の第二夏田橋に橋台の一部が残るだろうと、橋下を見渡すが護岸工事などで消滅
していた。(右手の建物は雇用促進住宅)
途中でお会いした地元の方によると、この先の自販機(看板製作のⅯ社)前方に宗方駅が
あった。近くに宗方温泉もあったが廃業されたとのこと。
やがて宇部興産専用道路下を潜るが、この附近はどのように敷設されていたかはわから
なかった。万倉入口に「万倉なすと岩戸神楽と硯の里」と案内されている。
船木中心部までの鉄道敷跡。
右手の学びの森くすのき(図書館)敷地内に裁判所前停車場があったとされる。
当時の船木村は家屋が約1,000戸建ち並び、5,600人の人々を擁する厚狭郡の中
央都市であって、郡役所、裁判所、警察署、税務署、県立徳基高等女学校などの諸官庁が
あり、商工鉱業が栄え、物資の集散市場であった。
トイレ借用に立ち寄ると館内(博物館)に船木町駅のラッチが保存されている。
旧山陽道筋を横断する。
(船木~有帆間)
船木町駅舎(左手)と右の建物の間に数本の線路があったと思われる。
当時の船木村には未だ電燈の恩恵に浴せず、町内には灯油の外燈が点火されていた。駅
舎・待合室は石油ランプが灯されたが、後に危険なためロウソクに変わり、「松風提灯」
が吊された。その後、カーバイドのガス灯から電気に変遷する。
営業所入口に当時の信号機が保存されている。船木は政治・経済・文化の中心であった
関係から、厚東村に設置された駅が「船木駅」(現在の厚東駅)とされたため、こちらの駅
は「船木町駅」とされた。
待合室にある木製ベンチも当時のものと思われる。
さらに南下すると山陽新幹線下を潜る。山陽鉄道が三田尻~厚狭間の敷設に際し、船木
を経由する案を提示したが、村民の反対が強く、地主の利権欲に阻まれ、地元負担金の見
通し難のため鉄道実現は挫折する。1900(明治33)年12月に山陽鉄道が開通すると、
物資の流通機構は変革をもたらし、船木の商品市場は局地化した。
正面の民家裏が船木町駅であり、鉄道敷は左手の舗装路であったのだろうか。ここも不
明地点の1つとなった。
1908(明治41)年に山口軌道が山口~小郡間に軽便鉄道を開業させ、続いて宇部軽便
鉄道が創立されるなど近隣に鉄道建設の動きが見え始めると、船木村でも軽便鉄道の具体
化が図られるようになる。
しかし、当時の船木村は派閥抗争が激しく、小野田駅を起点とする派閥と宇部駅を起点
とする派閥の対立があったという。結果として宇部~船木案が採用されて鉄道院に上申さ
れた。(指月附近)
峠の頂上付近が旧楠町と小野田市の境界。
下って行くと左手に「千林尼の大休・指月石畳道」の案内がある。船木逢坂の観音堂に
住んでいた千林尼が、険しい坂道を行き来する人馬の苦しみを見かね、自ら托鉢をして浄
財を集め、敷いた石畳道の一つで、1862(文久2)年8月に完成した。現存の石畳道はそ
の一部で、敷石の長さ約260m、幅1.5mとある。
中村停車場は停留場(現在のバス停のようなもの)であったが、1920(大正9)年に長門
起業炭鉱の寄付により、側線を増設して駅舎新築と駅員の配置がなされたという。この附
近にあったと思われるが確証を得ることができなかった。
山陽自動車道下を潜る。
鉄道敷はこのまま直進していたものと思われるが、この一帯も不明地点である。
県道29号線(宇部船木線)に出ると有帆バス停がある。
(有帆~宇部間)
バス停の先を左折して広い道を進むと民家が建ち並ぶ。結果として有帆駅の位置はわか
らず終いとなる。片隅に「與三郎大神」と記された小さな神社がある。
1914(大正3)年5月2日宇部~船木間の鍬入式が行われて、工事は厚南村鏡ヶ窪から
開始されたが、有帆駅構内の用地買収で鉄道側と起業炭鉱との間で紛争があったという。
後に紛争は解決したが、工事着工以来2年2ヶ月を要して完成する。
生活道に入ると民家の先に築堤が見える。
船木側は民家手前で消滅している。
新道で二分されているが先に続いている。
有帆側に残る橋台。
正面に見える石橋で山中に入ってみる。
鉄道敷跡に上がると歩けそうな道が続いている。
どなたかが整備されているのか歩きやすい道が続く。
貯水槽の先にも続いている。
山肌に崩落防止用の石垣が残存する。
通行止めの先に民家があり、ここで引き返し貯水槽の所から生活道に出る。
宇部興産専用道路の函渠を潜り、右折して非舗装の草道を進む。
宇部興産道路と大和団地の間に出るが、鉄道敷はこの道を横断していたと思われる。
鉄道敷は団地内にあったようだ。
県道29号線に合わすと、迫条バス停附近から山陽本線に並列していた。
1942(昭和17)年2月に宇部油化工業㈱の石炭液化に伴い、船木鉄道と油化工業との
撃密な共同化が行われた。この共同化は石炭輸送の強化が必要だったことによる。
翌年には船木、宇部、小野田鉄道の国鉄買い上げ問題が起こったが、船木鉄道は油化工
業に石炭30万屯を輸送することが捨て難く、買い上げ反対に及んだ。
しかし、戦局の悪化にともない、1944(昭和19)年5月油化工業側より、条件解除の
通知を受けて瓦解する。宇部・小野田鉄道は国鉄買収に応じ、現在も鉄道が維持されてい
る。
戦後になると鉄道収入の基盤であった石炭輸送は、最大輸送時より半減して収入は減少
の一途を辿る。1960(昭和35)年9月に沿線炭鉱に対し、国鉄側が納入石炭の契約を解
除すると、翌年10月14日鉄道の日に苦節45年の歴史を閉じる。
宇部駅は現駅舎の向い側にあったが、宇部駅構内改良工事による用地交換で消滅する。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
山陽鉄道は下関への延長工事を計画した時、船木村を通す予定であったが、当時の船木
は藩政時代からの宿場町として繁栄していた。鉄道建設により町が寂れるとして、村民の
反対を受け、交通の利便から取り残されることになった。1910(明治43)年に軽便鉄道
法が、翌年に軽便鉄道補助法が施行される。小資本で軽便鉄道建設の道が開かれると、地
元有力者たちにより船木軽便鉄道㈱が創立される。
1916(大正5)年7月宇部~船木、1923(大正12)年12月船木~万倉、1926
(大正15)年11月に吉部(きべ)までの全長17.7㎞の船木軽便鉄道が開通する。(歩行約
11.4㎞)
JR宇部駅から船鉄バス船木行きに乗車、船木で瀬戸行きに乗換えて吉部バス停で下車
する。この区間は100円均一でバス旅を楽しむことができる。
バス停先にJAの倉庫があるが、ここが旧吉部駅だったとのこと。当時の吉部村は、戸
数600、人口3,500人を擁し、船木宰判より萩城下に至る要路として、物資の集散地
として栄え、旅人宿が賑わったところである。
旧吉部駅から吉部小学校にかけて築堤が残されている。
右手の片隅にある四角いコンクリート製は、信号機の土台のようである。
参道と立体交差する地点までは築堤を歩くことができる。
築堤を歩くときには気付かなかったが、小川があるので県道30号線を引き返すと卵型
の橋梁がある。
土手のように見えるのが鉄道敷跡。
吉部八幡宮参道と立体交差していた場所に、石積みの橋台が残存する。
吉部八幡宮(駐車場にトイレ)
案内板のようなものが見えたので立ち寄ると、6世紀後半から7世紀頃に、全国で数多
く造られた小円墳の1つである槍ヶ森古墳である。
田畑の造成などで破壊されており、造られた当時の形は残しておらず、墳丘を覆ってい
た土は流失し、天井石も外されている。
築堤は吉部小学校東側で途切れる。
吉部駅と大棚トンネル間は、高低差がないように高い橋脚が設けられていた。
小学校の体育館前を過ごすと、大棚トンネルへの案内がある。鉄道敷は石垣と土盛りさ
れた上に敷設されていたと思われる。
小学校西側から大棚駅跡まで鉄道敷跡が現存する。第二次大戦の戦局悪化により、19
44(昭和19)年3月2日鉄道軌道統制法により、吉部~万倉間8㎞のレール供出を要求さ
れて廃止となる。
全長37mの大棚トンネル。(吉部側出入口)
トンネル内は垂直壁と半円構造で、石積みと煉瓦が用いられている。
小坂~吉部間は山肌の切落しが、度々の土砂崩壊により難渋したという。特に大棚附近
の山肌切取りは、再度にわたって崩壊したので隧道に変更されたという。(万倉側の出入口)
トンネルから50mほどの位置に、大棚駅ホームと駅標板が復元されている。
大棚トンネルから先のルートはわからなかったが、県道の他は道がなさそうなのでピー
クを越えるが、当時はもう少し勾配があったものと思われる。
下って来ると100m先に、「黒川の妙典供養碑(市指定有文)」が案内されているので立
ち寄る。
鎌倉期から江戸期にかけて盛んに造られた板碑で、石造卒塔婆(そとば)としては旧楠町内
で唯一のものとされる。
高さ128cmの自然石の正面上方には大日如来を示す梵字、中央には蓮弁が彫られ、下
方には「天文15丙午(1546)8月24日 常音敬白 為妙典一部供養」と刻銘されている。
この生活道が鉄道敷だったかどうかはわからないが、道の左手を長谷川が並行する。
長谷集落から緩やかな坂を上がって行くと、この附近に峠駅があったとされ、現在は同
名のバス停が設置されている。
笛太郎ファームの看板下に短いトンネルが残存する。
現在は水路と化し、出入口附近は藪となって立ち入ることができない。
トンネルの位置から考えると、県道より一段低い位置に敷設されていたと思われる。
山中バス停附近から県道下に鉄道敷が長く延びる。
県道との高低差がなくなる地点で合流し、芦河内集落入口へ向かう。(歩車分離でない道)
船原バス停を過ごすが大型車種が意外と多い。
(芦河内入口~万倉)
芦河内バス停の先からは矢矯川左岸に敷設されていたようだが、跡らしきものは残存す
るが藪化で進入不可であった。
今富バス停から矢矯川に架かる出合橋を渡り、今富駅があった附近を目指すが、この時
期は藪になって先に進めないため残念する。
県道を斜めに横断していたと思われるが、この先は竹が繁茂して進入困難であった。
県道の右手に橋台のようなものが見える。
県道を右折して上矢矯集落の生活道に入り、鉄道敷跡への道を探すが、民家で行き止ま
りとなる。
庚申塚の先に進入路があり、上がると矢矯(やはぎ)駅跡である。
駅跡から鉄道敷を引き返すと橋台が見えるが、県道から見た橋台なのかはわからない。
万倉側の橋台。
吉部側の橋台下に踏み跡らしきものが見える。
鉄道敷跡を引き返す。
ほぼ直線的に敷設されているが、切通し附近はぬかるみ状態が続く。雨後であれば通行
に難がありそうだ。
矢矯駅跡にプラットホームが残存する。
築堤は途切れたので生活道を歩くと、右手に築堤とコンクリート製の橋台、橋脚が見え
てくる。
築堤から矢矯駅方向を見返すが、橋台の先は民家である。
万倉側は築堤の途中に柵が設けてあって歩くことができない。
途中から農道と畦道を利用して築堤を横切る。
万倉中心部に向かって真っ直ぐに敷設されていた。
万倉側より見返る。
万倉駅と同名のバス停付近に駅があったものと思われる。吉部~万倉間は戦争協力とい
う名の下で、17年4ヶ月でその使命を終えたが、建設に協力した地区住民にとって余り
にも悲しい結末になった。万倉までの遺構を思い浮かべながら、船木経由でJR宇部駅に
戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
末信は厚東川下流域に位置する。右岸地域は旧氾濫原で低地、左岸には大部分が山地で
東に霜降岳がある。
持世寺は吉見の小字で、厚東川中流域の左岸に位置する。(歩行約7.4㎞)
JR厚東駅から宇部市営バス八王子行き(10:35)約15分、霜降山登山口バス停で下車
する。
末信集落への道に入ると登山口を示す道標がある。
山陽本線大馬場踏切を横断して厚東川へ向かうと、前方に霜降岳山頂と南峰が望まれる。
1998(平成10)年6月竣工の末信橋。厚東川は現在の美祢市秋芳町嘉万の大瀧山を源
流とし、周辺の農地などを潤しながら周防灘に注いでいる。
橋の東詰を右折すると宇部興産㈱宇部ケミカル工場の末信ポンプ場。
正(しょう)八幡宮について風土注進案は、平安期の859(貞観元)年厚東氏が石清水八幡
宮より勧請し、厚東川左岸の四ノ小野から下村までを氏子として創建する。1179(治承
3)年厚東武光の時、霜降城を築城した際、現在の地に社殿を造営して守護神とする。
1928(昭和3)年建立の鳥居脇にある石灯籠は、「防府天満宮」と刻まれているが、当
初の設置場所ではないようだ。
あまり見かけない光景である。
橋からの里道に集落が形成されている。
蔵の先が末信コースの登山口。
畦道を進むと防獣フェンスが設けてある。(入って撮影)
すぐ左手に諏訪社が祀られているが、祭神は「諏訪大明神」で、水や風の神とされ、農
耕の収穫量を左右する重要なもので、農耕や開拓の神として農民から崇拝されている。
すぐ先が二手に分かれているが、左手の霜降城跡説明板がある道が登山道である。11
79(治承3)年厚東武光が築城し、1358(正平13)年大内弘世に攻め落とされるまでの約
180年間、厚東氏代々の城として続いたと説明されている。
このような道が続くので迷うことはないし、ポイントには「霜降山登山道」の道標が設
置されている。
途中左手に「末信 本城・中ノ城」と「中ノ城(近道)」の案内がある。
近道の方を選択して中ノ城へのルートに入ると、すぐにシダ道と化してシダが絡んだり、
サルトリイバラがあって先に進むことができず退却する。
素人はこちらの方を選択すべきだった。
「姫の化粧水」の看板があるが水は得られない。
中ノ城への分岐。
途中に分岐があって右が本城で左が中ノ城への道である。
シダが被り嫌な予感がしたが、こちらの方はすんなりと進むことができた。
中ノ城は頂上部に自然岩が散在する他は、特に防御施設が設けられていないという。本
城の支城としての連絡、物見的な役割をもっていたものと思われる。
正面に霜降岳山頂が見え、先ほどの三差路で山頂を目指すことができるが、先に前城に
行くため中ノ城入口に引き返す。
支尾根を越えると本城・後城・前城の分岐に出る。
前城は峰にあるため下って登り返さなくてはならない。下り終えた所に持世寺への分岐
がある。
前城は南峰(標高240m)の頂上にあって、立石を中心に砦が築かれていたという。東
側は急峻で防御には好都合であるが、南西方向の傾斜は比較的緩やかで、防御の重点はこ
の面に置かれたようだ。頂上を中心に南斜面に空堀があるという。
四差路に戻って本城に取り付くと、案内板が設置されている所が空堀のようだ。空堀か
ら出た土は前面に盛られて土塁を形成している。
城というが近世の天守閣と石垣を備えた城と異なり、山頂に空堀や土塁で囲った中世の
山城である。
厚東氏は厚狭郡の豪族であり、壇ノ浦の戦いで名を上げ、長門国守護職に任じられる。
のちに周防国守護職の大内氏と対立するようになり抗争を繰り返した。南北朝期の135
8(延文3)年厚東義武は、大内弘世の攻撃に支えきれず落城する。霜降城は大内氏によって
用いられることはなく、廃城のという形で終焉する。
空堀のすぐ上が山頂で、一等三角点本点は県内に5点あるがその1つである。残念なが
ら展望はなく白い標柱が目立つだけである。
標高250.2mにある本城の周囲をみると、北面に後城、南には前城が連なり、東面は
急崖を成しており、西面は比較的緩やかため空堀を設けている。
山名の由来は不明とのことだが、風土注進案に「末信村 霜降ヶ嶺 厚東氏代々之要害
と申前伝候事」とある。
三角点のある地点から下って行くと後城への道に合わす。
後城への道も下って登り返すが、西側斜面から南斜面にかけて不規則な武者返し作られ
ていたようで、4段になった武者返しが見られる。
後城も展望はなく直進すれば持世寺への道に合わすようだが、見ると急峻であまり利用
されていないようなので引き返すことにする。
東面は急崖で注意しながら戻ると四差路に合わす。
前城の途中にあった持世寺への道を下る。
城山だけあって急な下りで手強い。
峠池が見えると持世寺への道は近い。
峠下の分岐は道標に従い左折する。
砂防堰堤を越える。
丸太橋で持世寺川の右岸に移動する。
下って行くと四阿のある場所に変った堰堤がある。鋼製スリットダムA型というもので、
土石流の貯留又は減勢を図る設備とのこと。
蔵のある民家右手を上がって行くと持世寺の案内板がある。説明によると平安期の99
9(長保元)年厚東武道が比叡山の僧を招いて創建したと伝え、厚東氏最古の寺とされる。創
建当時は厚東村下岡にあったが、鎌倉期の1221(保安2)年この場所に移転する。
しかし、毛利氏の時代になると加護が衰えたことや、再三の火災により、1843(天保
14)年に法灯が消える。
見ることが少なくなった綿の実(コットンボール)。
県道西岐波吉見線に合わすが、途中に石灯籠があった場所が持世寺観音のようだ。
厚東川のほとりにある持世寺温泉について、霜降城の鬼門除けとして創建された持世寺
に由来するという。その当時から戦いでの傷を癒したとされる。
温泉として営業を始めたのは、享和年間(1801-1804)で杉野湯の先祖と伝える。195
0(昭和25)年に厚東川の浅瀬で温泉が発見され、亀が教えてくれたので「亀の湯」呼ばれ
ていたが、訛って「上の湯」になった。以前は4.5軒あった宿も現在では三つの源泉を持
つ「上の湯」1軒のみだそうだ。
厚東川に架かる持世寺橋を渡り、山陽本線を横断すると県道宇部美祢線の三差路に出る。
持世寺温泉入口バス停(15:42)よりJR厚東駅に戻る。(右手の集落は吉見の下岡)
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
西宇部地域は宇部市の西部に位置し、厚東川下流域にあって北は丘陵地帯だが、その南
は江戸前期までは厚東川西の周防灘に面していたという。(歩行約5.6㎞)
神戸から馬関(現下関)までの鉄道は、私鉄の山陽鉄道によって開通したが宇部駅は設置
されなかった。
1906(明治39)年山陽鉄道は官営鉄道となり、1910(明治43)年宇部駅として開業
する。1943(昭和18)年宇部鉄道が国有化されると、宇部新川駅が宇部駅となり西宇部
駅に変更される。山陽本線が電化されて特急列車の停車駅になると、1964(昭和39)年
宇部駅に再変更されるという歴史を持つ。現在の駅舎は1986(昭和61)年に完成する。
田中明神は田の神で、天文年間(1532-1555)里ノ尾沖開作の守護神として祀られた。田
は宅地化されて役目を終えたのか平原八幡宮に遷座する。
地下道で山陽本線を横断する。
山陽本線に沿って小野田方向へ進むと、右手に平原八幡宮の参道がある。
御旅所と思われる地。
明照寺(真宗)は俗名為近源蔵が、1655(明暦元)年豊前小倉の永照寺で出家し、のち一
宇を建立する。
1829(文政12)年から1872(明治5)年まで寺小屋が開かれていたという。
平原八幡宮の縁起によれば、平安期の985(寛和元)年宇佐神宮より勧請、岡ノ原(現在
の宇部商高付近)に創建されたが、1650(慶安3)年現在地に遷座したという。
八幡宮の末社である田中大明神は、田の畔に蟹が害するため祈祷して鎮めたこともある。
里ノ尾沖開作の守護神(農業神)であったが、現在はこの地に祀られている。
イスノキはマンサク科の常緑高木で、伊豆半島以西から九州に分布している。葉がサカ
キに似て、樹皮の灰はイス灰と呼ばれ、陶磁器の上薬に用いられている。(八幡宮の御神
木)
八幡宮から里道を通り、西宇部ふれあいセンター前に出る。(正面が八幡宮の森)
穀物の神である大歳社が祀られている。田中明神とともに里ノ尾沖開作の守護神である。
参道横には庚申塚が集められている。
宇部駅構内。
1788(天明8)年から4年かけて、萩藩撫育方が完成させた厚南諸開作の用水路。現在
も灌漑用水しての役割を担っている。
列車の車窓から見える厳島神社の縁起によると、昔は神社の前が海であり、奈良期の7
48(天平20)年弁財天が漁師の網にかかり、弁財天を村の人々が鎮守の神として崇め、豊
漁と五穀豊穣を祈った。1881(明治14)年祭神を厳島大明神とし、厳島神社に社号変更
された。
75段の石段を上った社殿から厚南平野が見渡せる。中世におけるこの地は、南西部に
大きく湾が入り込み、中世から近世初期にかけて、徐々に潟地の陸地化が進んだとされる。
再び山陽本線下を潜る。
県道琴芝際波線に合わすまでは田園地帯歩き。
元禄年間(1688-1704)に厚東川が掘り替えられてから、1934(昭和9)年沖の旦橋がで
きるまでの約200年間渡し舟が往来していた。
沖の旦橋から厚東川上流に霜降岳。
1934(昭和9)年沖の旦橋ができた記念碑だそうで、碑には「沖の旦橋架設及取付道路
費寄付芳名録」とあるそうだが読めず。
水分(みくまり)神社の創建年は不明だそうで、宇部市末信にある正八幡宮の末社とされる。
神社名から推察するに、農耕の民が水の恵みを祀ったものと思われる。
境内には宇部市指定の天然記念物である「スダジイ」の巨樹がある。
引き返して沖の旦橋から厚東川河口部。
沖の旦開作の堤防跡碑。
昔はこの辺りに厚東川の本流があったという。現在は二級河川の中川で、最上流端を示
す標識がある。
JR宇部線沖の旦踏切を横断すると、宇部駅までは少し湾曲な道になっている。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
鵜の島は宇部丘陵の南西端、周防灘沿岸に位置し、江戸期までは海岸部に沖の山という
砂嘴が延び、小串の丘陵地とこの沖の山との間は入海となっていたとされる。これらの区
域は、1889(明治22)年の町村制施行時までは小串村の村域であった。(歩行約5.7㎞)
JR宇部新川駅は宇部市の中心地にあり、この町の表玄関である。1914(大正3)年宇
部軽便鉄道開業と同時に宇部新川駅として開業する。駅舎は木造2階建てで、開業以来の
建物で宇部線の中間駅では唯一の有人駅でもある。
海に向って2つ目の道を右折する。
浄円寺(真宗)は、俗名日高藤兵衛が父の戦死により、その菩提を弔うために出家し、元
和年中(1615-1624)中山村の禅宗古跡、宝珠庵を取り立てて真宗に改宗する。1912(大
正元)年藤山から現在地に移転する。
路地の先に宇部の工場群。
松涛(しょうとう)神社がある地は、大正の初め頃は松林であり、宇部興産の創業者・渡辺
祐策(1864-1934)の「松涛園」という別荘があった場所である。
1955(昭和30)年に出雲大社から勧請され、神社を守るのは狛犬でなくライオンであ
る。
もとは真締川に架けられていた錦橋の欄干彫像だったが、橋の撤去に際して、この神社
と宇部市新天地にある中津瀬神社に狛犬として奉納された。
松涛稲荷社。
小松原通踏切の先に見える丘陵地を目指して直線道を進む。
街路樹の赤い実は秋空に映える。
常盤公園で放し飼いにされていたモモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、
その周りを市花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。
産業道路と山大病院通りを過ごすと上り坂が始まる。
計量室前から見る宇部の町並み。
桃山の中腹に市街地への給水量を計る桃山配水計量室がある。1924(大正13)年沖ノ
山炭鉱が建設し、2年後に宇部市が譲り受けたものである。
外観はゴジック様式で、直線的な柱と、ゆるやかなアーチ型をした入口がある。建物は
直径5.8mの八角形の構造だが、市民からは六角堂と呼ばれている。
道路の中央にあるため歩行者と自転車、自動車と単車に通行区分されている。
配水地内にはゴジック建築の旧排水池監視廊が残されている。宇部の上水道は、下関・
小郡の上水道が地形を利用した自然流下による取送水であったのに対し、ポンプによる機
械送水であった。
1988(昭和63)年桃山の高台に完成した展望所付きの貯水池がある。残念ながら予約
しないと見学できない。
鵜の島小学校への道に下ると左手に薬師堂がある。島根県の一畑薬師より分霊されたお
堂で、眼病平癒の薬師として信仰されている。
お会いした方が「行きはよいよい、帰りは怖いではないが、買い物の重たい荷物を持っ
ての上り坂は、加齢もあってしんどいが生活のためには仕方ない。逆ならいいのだが‥」
と休みを入れながら帰って行かれる。
鵜の島小学校まで下って右折する。
浜児童公園北側の駐車地に、1949(昭和24)年桃山炭鉱の事故で亡くなられた7名の
慰霊碑がある。
小学校筋に戻ると正面に標高30mの鍋倉山が見えてくる。
宮地嶽神社の南参道。
妙法寺については詳細知り得ず。
山頂近くに秋富久太郎と秋田寅之助兄弟の像がある。久太郎は明治から昭和にかけて木
材の事業で活躍し、養子に行った寅之助は海運業や造船業まで手掛ける。像は1958(昭
和33)年関係のあった会社が建立する。
栄川は、1693(元禄6)年鵜の島開作の水はけをよくするために、居能と助田との境の
砂浜を掘り割って造られた。当初は鍋倉山の下まで漁船が入っていたが、川も自然に浅く
なり、1936(昭和11)年に埋め立てられた。(埋立記念碑)
1897(明治30)年頃に建立された宮地嶽神社。その後、金毘羅宮、宇和島から和霊神
社を勧請して合祀される。ここから展望を得ることができない。
何が祀られているのか知り得ず。
大地主神社の下側に稲荷社。
居能側に立派な参道と鳥居、灯籠があることから、こちらが表参道のようだ。
宮地嶽神社は居能商店街の繁栄を祈念して建立されたようで、参道には除夜の鐘と同じ
108段。一の鳥居の額束には宮地嶽神社。二の鳥居には宮地嶽と金毘羅、三の鳥居には
3つの神社が併記されている。(二の鳥居)
参道を下ると狭隘な地に三階建て。
国道と産業道路が合流する鍋倉交差点から国道に沿って南下し、2つ目の信号を左折す
ると宇部線が並行する。宇部線の盛り土と思ったが、今では想像すらできないが江戸期に
は岬からのびた砂丘だったとのこと。
助田バス停より宇部新川駅に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
琴芝は宇部市の中央に位置し、南西をJR宇部線、北西に真締川が南流する。(歩行約6.
1㎞)
1929(昭和4)年宇部鉄道の駅として開業するが、2020(令和2)年木造駅舎が解体さ
れて簡易駅舎になってしまう。(🚻なし)
琴芝駅から塩田川に沿って参宮通りに出る。
参宮通りとJR宇部線が交わる場所に、「交通安全琴崎八幡宮の碑」がある。1921
(大正10)年宇部村から宇部市になり、1924(大正13)年この位置付近に道を跨いで琴崎
八幡宮の参道を示す大きな鳥居が建てられたという。
ところが車が増えて参道を広げたが、鳥居の片脚が道の中心に残って危険なため、19
65(昭和40)年頃に解体され、その記念碑として灯籠が設置された。
参宮通り。
1928(昭和3)年即位大典を記念してできた神原公園には、同時に福原元僴(もとたけ・
通称は福原越後)の銅像が建立されたが、先の大戦において武器生産に必要な金属資源の不
足を補うため供出されたという。
1930(昭和5)年に建てられた石碑が、銅像のあった位置に移転する。
1899(明治32)年学校令により、高等女学校が各都道府県に創設され、山口県内では
私立を含め約28校が開校し、その後、変遷を経て現在の高等学校に発展継承される。
県立宇部高等女学校は、1913(大正2)年私立済美実科女学校として開校する。のちに
村立及び市立を経て、1928(昭和3)年県立に移管されて宇部高等女学校となる。194
8(昭和23)年宇部南高校(女子校)と名称変更されるが、宇部高校に統合され男女共学とな
る。
当時の女学校は現在の琴芝小学校の地にあり、跡地を示す石碑が校門入口に建立されて
いる。
県道琴芝際波線の街路樹が色づき始める。(煉瓦塀の先で左折)
宇部中央高校手前に道重信教上人の生誕地にお堂がある。1856(安政3)年この地で生
まれ、13歳の時に浄土宗の松月庵に入り出家の道を歩み、京都知恩院の浄土宗教校(現佛
教大学)に入学する。
のちに徳川家の菩提所・増上寺の法主に就任し、明治天皇への御前講義を行う。関東大
震災の三回忌法要を飛行機から行い、帰郷してからも仏教の民衆化を図り、在家宗教を説
くなど教化に専念し、「今一休」と呼ばれた名僧であった。
堂内には上人誕生地と刻まれた石碑と地蔵尊が祀ってあり、正面に上人の写真があった
ようだがお隠れになられた。
次の分岐左手に延命地蔵が祀られているが、いつ頃からあるのかよくわからないとのこ
と。高校側を背にしているが、目の前の道は琴芝小学校の通学路とのこと。(西梶返3丁目
7)
高校のフェンスに沿うと、琴芝ふれあいセンター前に石碑が一基。
四差路を左折すると周囲には桃色煉瓦塀が目立つようになる。煉瓦は石炭灰と石灰を主
原料として、たたき締めて干し固める製法で作られたものである。硬くて湿気に強いのが
特徴で、耐火性にも優れ風呂の焚き口にも用いられた。
大正期から昭和40年(1965)頃にかけて製造されたが、廃物リサイクルのさきがけとも
いえる製品でもあった。
この付近に猿田彦大神と刻まれた石碑があったが、草木に埋もれてお参りする人も少な
くなる。戦後、新しい地蔵堂が建立された時、一緒に祀られたとのことで左手に庚申塚、
右手に地蔵尊が鎮座する。
この付近は新旧の民家が混在する。
梶返八幡宮の由来によると、平安期の901(延喜元)年菅原道真が太宰府に左遷される途
中、暴雨風に遭い、船頭は舵をこの浜に返して風を避けた。風が収まるのを待って船出し
たが、道真は着任の2年後に亡くなった。村の人々は、道真の徳を仰ぎ、ゆかりの地に神
社を建立したとある。
菅原道真が嵐を避けて船から梶返の地に上がったとき、この池で手を洗われたと伝わる
菅公御手洗の池。(神社西側の道筋に案内あり)
この一帯は亀甲模様と市章の中に「下」の文字が入ったマンホール蓋である。
お堂の中に祀られているのは三界地蔵で、生死流転する3つの迷いの世界(欲界、色界、
無色界)で苦しんでいる衆生を救われる菩薩とされる。
四差路まで引き返して梶返東西道路を常盤湖方向へ向かう。
源山墓地の中央付近に「東見初(ひがしみぞめ)炭鉱遭難者之墓」がある。1915(大正4)
年4月12日の正午ごろ、宇部炭田最大の炭鉱海底陥没事故で235名が犠牲となる。
墓の両横と裏の3面には犠牲者の名前が刻まれているが、犠牲者のほとんどが坑内夫で
あるが、女性の名前もかなりあり、坑内で女性も働いていたことがわかる。
天保八丁酉(1837)と刻まれた地蔵尊と、頭がはっきりしない六地蔵が並ぶ。墓地の奥に
見えるのが真言宗の信光寺。
源山墓地から東新川野中道路に出ると緩やかな上り坂となる。出会った女性が歩車分離
でなく朝夕は渋滞し、昼間は速度制限を越えて下ってくる車があって、歩行もままならな
いという。
常盤中学校を過ごして里道に入り、道なりに進むと突き当りに道しるべがある。
この道標は元旧道の四差路に建てられていたもので、「南 草江、岬」「北 井関、阿
知須駅、山コシ」「西 新川、居能」「東 床波、阿知須」とあり、裏には明治42年(1
909)1月建立と刻まれている。
草江野中道路を横断すると野中公会堂前に、「明治三十七・八年戦役 野中若」裏には
「旅順陥落記念」と刻まれている。
大学院という名前に惹かれて坂を上がって行くと看板が見えてくる。
宇部市内では唯一の天台宗寺院であるが、創建年および開基の名など不明とされる。左
手が本堂と案内されている。
草江野中道路を常盤中学校方向へ引き返し、高専グランド前バス停よりJR宇部新川駅
に戻る。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
上宇部は真締川中流の左岸、宇部丘陵の基部にあって緩やかな谷状の低地に位置する。
大正期に沖の山が市街地されるまで宇部村の中心は上宇部の寺ノ前であった。今回は参宮
通りの西側から真締川付近を散歩する。(歩行約4.5㎞)
JR宇部新川駅バス停(10:02)から宇部市営バス交通局行き約15分、八幡宮前バス停
で下車する。
琴崎八幡宮の森と参宮通りを見返るが宇部村が宇部市になり、1925(大正14)年町
の中心が新川に移り始めた頃、航行する船からも八幡宮が見えるようにとの願いから一直
線に造られた。
常盤公園の白鳥が中央に大きく描かれ、その周囲にも白鳥がデザインされたマンホール
蓋。
国道490号線(参宮通り)を南下してGSの先で右折すると、こんもりとした高台が宇
部の給領主だった福原氏邸跡で、側面には白い土塀と石垣が再現されている。
福原氏は毛利氏と同じく、鎌倉時代に源頼朝の家来であった大江広元を祖先としており、
武蔵国長井庄を所領したことから長井氏を名乗っていた。安芸国に移り、南北朝期の13
81年に福原庄を所領して「福原」を名乗る。
萩藩の永代家老であった福原家は、宇部村ほか合わせて8,000石の領地が与えられ、
この地に屋敷を構えた。藩の要職にあったため普段は萩屋敷にいたため、宇部の屋敷は御
田屋(おたや)と呼ばれた。
1976(昭和51)年宇部市福原史跡公園として整備された時、表門は萩の福原屋敷門を
3分の2に縮小して再現され、石段も模擬建造物である。
御館は2階建ての主屋のほかに文武の稽古場、馬屋などがあったが、当時のものとして
は井戸と祠(稲荷社と他に1基)、樹木が往時を偲ばせる。敷地全体はよく保存されている
ようで、敷地は当時に近い状態と思われる。
天保年間(1830-1844)に郷校として中村に晩成舎を設け、1845(弘化2)年には儒者・
佐々木向陽(しょうこう)を招き、菁莪堂(せいがどう)と名を変えて福原邸の中へ移す。
福原越後守元僴(もとたけ)の代、1864(元治元)年4月文武両道の教育施設として、この
地に維新館が建てられた。洋式兵制にも力が注がれ、武士だけでなく庶民も入学が許され
た。
変革を意味する「維新(これあらた)」という語が使われたため、幕府からクレームがつい
たとか。
赤煉瓦塀と蔵のある民家前を過ごす。
常盤公園で放し飼いとなっていたモモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、
その周囲に市の花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。
中村地蔵尊は、1682(天和2)年第15代の福原宏俊が大坂の石匠に依頼して制作され
た。船便で京納台地の南側の講堂の地に安置され、大正期に現在地へ遷座させたという。
地蔵尊の傍に「一石一宇経塋」と刻まれた経塚の碑がある。
1827(文政10)年ある修験者が置いていったという不動尊と、他にあった荒神が一緒
に祀られている。
中村1丁目内を抜けると真締川に架かる御手洗橋があり、左前方に護国神社の看板が見
えてくる。
御手洗橋東詰にある2つの祠は、右側が八王子社で寛政八丙辰8月吉日(1796)川津村中
と刻まれている。左側が豊前坊として栄えた英彦山神社とのこと。
護国神社の社務所がある広い平地は、いつ頃まで行われたか不詳であるが、祭りの時に
は競馬場して使用されたとか。参道を進むと手水鉢舎には水琴窟が設けられている。
1866(慶応2)年11月に創建された維新山招魂社は、禁門の変で戦死した21名とそ
の責任を負わされた福原越後守元僴の霊を祀ったものである。
明治以後、日清・日露戦争やその後の戦いで戦死した人たちの霊を合祀するようになり、
1939(昭和14)年内務省令により宇部護国神社と改称する。
本殿前から左方向へ進むと招魂社跡があり、旧社殿跡には「殉国戦死之碑」が建立され
ている。その奥には安否不明となった福原家臣の霊標が並ぶ。
霊標には「不知所終(おわるところしらず)」と刻まれており、これは禁門の変で、亡くなっ
た場所もわからないような壮絶な死に方をしたことを表しているとのこと。
第二次幕長戦争を前に福原芳山が組織した西洋式の軍隊「知方隊(ちほうたい)」が、戊辰
戦争での会津落城前にライフル銃16挺を献納したことを示す記念碑。碑には「献装條銃
(そうじょうじゅう)」とあり、これは銃身内部にらせんの切れ込みを入れた当時最新式のミニ
エー銃である。
鎌田橋は真締川では最初に架けられた橋で、江戸期には宇部村と藤曲村を結ぶ重要な橋
だった。
鎌田井堰は真締川では一番大きな堰で、蛇瀬池の水と合わせて尾崎水路に流れ、小串・
鵜の島開作へ送水されている。
鎌田橋から道に沿って上がって行くと、右手に庚申塚があり猿田彦大神と刻まれている。
日本神話で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向国高千穂の峰にくだったとき、先頭に立って道
案内をしたという神。中世には「塞(さえ)の神」と混同されて道祖神となり、一方、仏教の
影響を受けて「猿」が「申」との混同から、庚申の日にこの神を祀るようになった。
鎌田橋から県道を避けて里道を歩くと、今では珍しくなった「はぜ掛け」が見られる。
宗隣寺(臨済宗)は奈良期の777(宝亀8)年唐より来朝した為光(いこう)和尚がこの地に来
た時、この辺りはまだ海水が入り込んでいた。ここの景色が故国の松江(ずんこう)に似てお
り、この地に松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)を創建したと伝える。
普済寺はいつのころか廃寺となったが、宗隣寺として再建されたのは、1670(寛文1
0)年福原広俊が、宇部の最初の領主であった亡父福原元俊の菩提ため、開創したといわれ
「宗隣」は元俊の法号からとられたものである。
屋根瓦には福原家の家紋「二文字三つ星」、護国神社には「酢漿草(かたばみ)」が用いら
れている。
福原越後は禁門の変の責任を取って、1864(元治元)年11月12日岩国市の龍護寺で
切腹した。その首は広島の国泰寺に運ばれて首実検され、その後、宗隣寺に持ち帰られた。
寺の裏山に墓所があるが、命日に法要が行われ、この日だけ一般公開される。
南北朝時代に築庭された山口県最古の池泉式庭園として知られ、潮の干満を表す干潟様
の池では平泉の毛越寺(もうつうじ)の2箇所しかない造りとされる。
方丈の北側にある龍心庭の池中には8つの夜泊り石は、蓬莱思想や仏教の四諦(したい)八
正道を表しているといわれている。
四諦とは仏教の礎となる4つの心理、苦諦・集諦・滅諦・道諦。八正道とは正見・正思
・正語・正行・正命・正精進・正念・正定。
寺は宇部村で初めて小学校が開かれたところであり、現在は中国観音霊場23番霊場と
山陽花の24ヶ寺になっている。
福原芳山(ふくはらよしやま)は長州藩の上級藩士粟屋親陸の次男として生まれ、1864(元
治元)年福原越後が禁門の変の責任を取り自害すると、藩命により宇部領主福原越後の養子
となる。
1867(慶応3)年藩命により大英帝国へ留学し、帰国後は不正に独占されていた厚狭郡
内の採鉱権を、私財を投げ打って買い戻し、その後の宇部の炭鉱産業発展の基礎を築く。
大阪市北区の鶴満寺にある銅鐘に遼の太平10年(1030)の銘があり、「長門州厚東郡宇
部郷松江山普済寺」「永和五年己未仲呂日」の追銘があるという。この銅鐘は普済寺の廃
絶によって地中に埋もれていたが、元文年間(1736-1741)真締川の堤防工事中に発見され、
藩主毛利氏によって鑑定のため大坂に送られていたのを、鶴満寺(大阪市北区)の再興する
に際して延亨年間(1744-48)毛利氏より寄付されたと伝える。現在ある銅鐘の鋳造年など
は知り得なかった。
片隅に庚申塚。
小串バス停よりJR宇部新川駅に戻る。