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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市東岐波‥岐波の海岸線から旧往還道

2020年01月24日 | 山口県宇部市

           
                この地図は、国土地理院の承認を得て、2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         岐波は宇部丘陵の東部外れに位置し、植松川・五反田川流域にあって周防灘に面する。
        (歩行約9㎞)

           
         1824(大正13)年に宇部鉄道の駅として開業したJR岐波駅は、島式ホームに待合室
        もなく雨の日は傘を差しての乗降となる。

           
         宇部線の踏切を横断して植松川に架かる高橋を左折する。正面の日ノ山は萩藩の狼煙(の
        ろし)
場山となっていたが、中世にはすでに狼煙場であったと思われる。

           
         日の山の麓に古尾稲荷社がある。

           
         由来によると、奈良期の751(天平勝宝3)年伏見稲荷より勧請し、現在の古尾八幡宮が
        ある地に創建したとされる。
         後に古尾八幡宮は消滅するが、1887(明治20)年稲荷社に八幡宮が勧請・合祀される。
        1953(昭和28)年八幡宮より日の山中腹に分社されたが、1985(昭和60)年現在地に
        新築移転する。

           
         植松川排水機は周防灘高潮対策事業として、1975(昭和50)年に水門が建設される。
         その後、1999(平成11)年9月に台風18号が宇部市付近に上陸し、宇部空港が冠水
        するなど沿線は被災したため、潮位の見直しが行われて供用開始された。

           
         植松川河口部。

           
         1996(平成8)年に宇部市が岐波海水浴場を再整備したキワ・ラ・ビーチ。

           
         遠浅のため干潮期には砂州も見られ、潮干狩り(有料)もできる。

           
         ビーチ裏手には標高10mの狭小な洪積台地に、5基の群集墓を形成している若宮古墳
        がある。

           
         被葬者は不明とのことだが、同程度の規模の古墳が群集することや、地理的位置や年代
        から推して、付近の農村もしくは波雁ヶ浜の製塩業に関係する族長級の家族墓の可能性が
        あると考えられている。

           
         これらの古墳は上部が欠失した横穴式石室であり、古墳時代後期の円墳群とされる。

           
         白髭神社(松堂址)を捜すが手掛かりはなく、小祠と板碑のようなものが岐波浦児童公園
        にある。白髭神社は猿田彦命で白い鬚(ひげ)を蓄えた老人の姿で、延命長寿と導きの神とし
     
   て崇敬されてきた。

           
         三光寺は菩提寺という天台宗の寺で、大内家の伽藍であったが大内家の滅亡と共に寺も
        衰退する。
         1591(天正17)年菩提寺は現在地に移転し、天台宗から浄土真宗に改宗した。後に本
        山から三光寺の寺号を賜わったという。

           
         岐波浦のメインロード。

           
         右手の岐波墓地には、1775(安政4)年岐波で生まれた三保虎五郎の墓があるとされる
        が、墓標が多く三保家と読める墓標以外に見つけ出せなかった。虎五郎は文化文政の頃、
        兵庫の貿易業者柴屋長太夫のもとで、北前船に乗り込み海産物の貿易に従事する。のちに
        主人の屋号「柴屋」を与えられ柴屋虎五郎とも称した。「三保」姓は島根県の美保神社の
        神官から得たとされ、岐波浦の畔頭(くろがしら)として活躍する。

           
         波雁ヶ浜(はかりがはま)の松林は
呼び名が違っていたようだが、1924(大正13)年宇部鉄
        道が開通すると、海水浴誘致に伴って波雁ヶ浜と名付けられた。
         享保年間(1716-1736)花園に住んでいた野村又右衛門が砂防林として、日向松の苗を植
        えたと伝えられる。

           
         波雁ヶ浜の松林にある古尾八幡宮は、奈良期の751(天平勝宝3)年に宇佐八幡宮から勧
        請し、現在の佐山、阿知須、東岐波、西岐波の総鎮守とした。世が進むにつれて参拝に不
        便を感じ、鎌倉期の1233(天福元)年南方八幡宮(西岐波)と北方八幡宮(阿知須)に分社す
        る。
         ところが、1879(明治12)年岐波村が西岐波村と東岐波村に分割されると、東岐波に
        は氏神がなく他の八幡宮を迎え、1887(明治20)年古尾八幡宮が復活する。

           
         現在の社殿は旧稲荷社であり、社殿前に並ぶ灯籠の大半は、王子権現や赤崎神社
など合
        祀した神社のものとされる。

           
         現在の東岐波体育広場は、古墳時代後期(6~7世紀)頃の波雁山製塩遺跡とされる。
         1897(明治30)年黒崎海岸付近に避病院が建設されたが、隔離病舎は村財政の面で延
        期されていた。1906(明治39)年波雁山隔離病棟がこの地に新設されると、黒崎避病院
        は統合されて波雁山避病院となったが、1945(昭和20)年に閉鎖されて解体された。

           
         波雁ヶ浜の海側に東條恩師記念林の碑がある。東條三郎は山口の小鯖村出身で、188
        9(明治22)年に小学校教師として赴任する。35年の長きにわたって東岐波の教育に尽力
        し、1908(明治41)年卒業生らが波雁ヶ浜に敷地を買い、小松を植えて碑を建てた。

           
         月崎から波雁ヶ浜、三神社のある岬まで続く東岐波の干潟は、満潮時の深さが1~3m
        と遠浅の海が続いている。

           
         見える建物は山口宇部医療センターで、1942(昭和17)年傷痍軍人療養所山陽荘とし
        て建てられた。終戦後はニュージーランド軍に接収されたが、その後は国立結核療養所を
        経て、現在は総合病院としての機能を有している
        
         
         医療センターの坂道を上がって行くと、左手にケアハウス棟が案内され、この道を進む
        と、左手に広々とした芝生先に白亜の4柱が見える。

           
         1946(昭和21)年5月ニュージーランド軍の接収命令を受け、その後2年間は軍の宿
        舎として使われた。1948(昭和23)年8月に解除されたが、ニュージーランド軍が 残し
        ていった記念碑である。

           
         高台から岐波の海岸線と日の山。山の形が象に似ているので象山とも呼ばれている。東
        には瀬戸内海が眺望できる。

           
         痕跡は残されていないが黒崎避病院(ひびょういん)があった地。1876(明治9)年コレラ
        が流行し、明治政府は日本各地に避病院の設置を進める。ただ、当時の医療技術からすれ
        ば隔離するための施設であった。
         このため郊外に設置されることが多く、迷惑施設のため流行が収まると速やかに破却さ
        れた。1897(明治30)年伝染病予防法が制定され、法的に伝染病院となったが、避病院
        
は俗称として長く用いられた。

           
         県立こころの医療センター周辺部を巡って宇部線高架を潜る。

           
         国道に合わす左手に「吉敷郡東岐波村役場跡」の碑がある。1879(明治12)年に岐波
        村は東・西岐波に分村し、1882(明治15)年この地に戸長(村)役場を新築する。195
        1(昭和26)年他へ移転するまでの69年間、村の中心をなした場所である。

           
         国道190号線を阿知須方面に進むと、五反田川のほとりに「部坂正恒頌徳碑」がある。
        碑文には五反田川を造って水難を防いだと記されている。

           
         国道を横断すると浄土真宗の西福寺。

           
         寺前から旧往還道を北上するが、旧道にマッチする建物は現存しない。 

           
         墓地の右手入口には、1723(享保8)年に建立された地蔵立像がある。鎌倉時代以降に
        発達した円頂形の地蔵で、左手に摩尼宝珠、右手に錫杖を持った延命地蔵。大正末期頃ま
        で使用された往還道の道標にもなったとされる。

           
         花園小学校は岐波村と井関村が共同で開校した最初の小学校で、1873(明治6)年まで
        寺子屋があった地に10年間ほど存立する。

           
         山口市嘉川から宇部村に通じていた旧往還道。

           
         民地の傍に一基の常夜灯。

           
         永亨年間(1429-1440)に天台宗・善翁庵と称して、日の山近くに草庵を結び、その後に
        桃林寺と改称したが大内輝弘の乱で伽藍を焼失する。江戸期に浄土真宗に改宗して善照寺
        となり、当地に引寺される。

           
         境内の花崗岩で造られた宝篋印塔は、1810(明治43)年頃に聖社にあったものが移設
        されたとのこと。

           
         街道筋で唯一の古民家。

           
         1903(明治36)年花園東に花園郵便受取所が開設され、その後に東岐波郵便局に改称
        する。大正期に花園南に移転するが、業務拡大と利便性を考えて石碑のある地に再移転し、
        196(昭和39)年までの34年間業務が行われた。


宇部市船木(旧楠町)‥厚狭郡の中心地だった町

2019年12月09日 | 山口県宇部市

        
                        この地図、国土地理院の承認を得て、2万5千分1地形図を複製したものである。
         船木は北部を国道2号線、南側を山陽新幹線が東西に走り、内を東から西へ有帆川が流
        れる。旧山陽道の本宿が置かれるなど、この地域の中心として発展した。(歩行約6㎞)

           
         船木へはJR宇部駅から船鉄バス約15分、終点の船木バス停で下車する。

           
         バス終点は船木鉄道本社で、かつては宇部市西宇部から吉部間を結んでいた船木鉄道の
        中心駅であった。

           
         興福寺には「番匠観音」と呼ばれる地区内最古の木造仏像「聖観音菩薩」がある。航海
        安全に霊験あらたかといわれている。

           
         国木田独歩の父・専八が裁判所主席書記として赴任した際に、現在の筑尾さん宅裏側に
        ある2階家に住んでいた。著書「欺かざるの記」にその時代を述懐している。

           
         旧山陽道に出て右折すると、緩やかな上りである。

           
         願生寺(浄土真宗)は、大内義隆の家臣だった山名源二郎が、1551(天文20)年義隆の
        敗死に殉じ、その子山名刑部は出家する。周防国富田の善宗寺の弟子となり、帰国後に船
        木の西山に一宇を建立し、1592(文禄元)年現在地に移転する。


           
         寺の境内に「史跡松下園(寺小屋)跡」と書かれた標柱がある。1848(嘉永元)年から1
        872(明治5)年まで25年間ほど寺小屋が開かれていた。

           
         岡崎八幡宮の大きな鳥居の向かい側に、舟木宰判高札場跡を示す標柱がある。1902
        (明治35)年頃まで、舟木、万倉、棚井など6ヶ村の掲示板として利用し、掲示板は「ゴコ
        ウサッパ」と呼ばれていた。

           
         舟木峠から下った市頭に「山陽道一里塚跡」と記された白い標柱がある。赤間関間で9
        里(約35.4㎞)
、安芸境小瀬まで27里(約106㎞)とある。

           
 
       
         岡崎八幡宮の社伝によると、奈良期の770(宝亀元)年に和気清麻呂が宇佐八幡宮より勧
        請して廟を建て、岡崎の宮と称したことに始まるという。一時衰退したが大内義弘の時代
        に再興された。
         1551(天文20)年陶隆房(晴賢)逆乱の時、兵火のために回禄、歴代の神宝もこの時に
        多くは焼失したとされるが、1576(天正4)年に再建されている。

        
         全国でも4社しかない清酒醸造許可を持つ神社として知られている。他は伊勢神宮、出
        雲大社、千葉県の莫越山神社。
         神功皇后が中国地方で米の作り方を習われ、この地に手植えされた米で神酒を造り、お
        供えしたのが始まりとされる。現在の醸造法は室町時代の作り方だそうで、酒税法に基づ
        き税を納付されているとのこと。作られた御神酒は、正月3ヶ日、節分の日、秋祭り、新
        嘗祭でいただくことができるそうだ。

           
         楠町の由来となった樹齢700年のクスノキがある。クスノキの巨木に寄生するシーボ
        ルト・コギセルという巻貝は、潮の干満につれて幹を上下すると云われ、海上安全の神と
        して珍重されたとのこと。            

           
         1873(明治6)年4月勘場の東側にあった長谷川宅の長屋を校舎として、日本で3番目
        の女学校が誕生した。
         厚狭毛利家10代毛利元美の妻・勅子(ときこ)は学校創設者であり、日本初の女性校長で
        もあったが、1879(明治12)年2月2日に61歳で没する。同年4月新築校舎が落成し、
        勅子女史の名にちなんで舟木女児小学を「徳基学舎」と改称する。

           
         石炭発祥の地とされる大きな石碑があるが、毛吹草(けふきぐさ:江戸前期の俳書)に「舟木
        石炭」が見え、舟木の石炭は江戸期から著名であった。
         風土注進案によると逢坂村、舟木市村の出炭は少なく、当時でも有帆村、東須恵村の方
        が出炭量は多かったが、周辺部を含めて「舟木石炭」と称されていたのであろうと記す。

           
         毛利家の公館で、今でいう「迎賓館」的存在で、藩主や幕府の役人、大名などの宿泊・
        休憩に利用された。

           
         萩藩は領内を18の行政区として、18の宰判(つかさどり,判する所)を置き、萩から
        出張する代官がいる所を「代官所」といい、庄屋、村役人が出勤する所を「勘場」といっ
        た。

            
         1889(明治22)年町村制の
施行により、舟木村が単独で船木村として自治体を形成し、
        この地に村役場を置いた。

           
         むくり屋根が特長の不二醤油さん。

           
         宿場の用水路は普通1本だが、船木は南北に2本ある。この北用水路は大木森住吉社前
        に流れ出て有帆川に注いでいる。

           
           
         南用水路は防火用水として使用され、所々に井側が埋め込まれ、渇水対策がなされてい
        る。

           
         町の南側を新幹線が遮断している。

           
         瑞松庵(ずいしょうあん・曹洞宗)は、室町期の1411(応永18)年に山口市小鯖の泰雲寺
        が火災焼失したため、定庵(じょうあん)禅師は長門の大寧寺3世となった。1417(応永24
        )年に辞してこの地に庵を構え、師である薩摩福昌寺の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を迎
        えて開山する。


           
         珍しい茅葺きの山門である。

           
         船木宰判の勘場にあった裏門で、1878(明治11)年郡区町村編制法に基づき勘場は厚
        狭郡役所となったが、1882(明治15)4月の火災で焼失したが残存する。1935(
          和10)
年道路改修の際に船木町より寺へ寄贈される。

           
         山門手前には幕末の社会事業家・千林尼の顕彰碑がある。16歳で嫁ぐが夫との不和か
        ら、家を出て仏門に入り宇部常盤池畔に住んでいた。1857(安政4)年3月船木の逢坂観
        音堂の堂守となり、その後、船木に通じる道路を改修する。1869(明治2)年5月厚狭町
        字木部田の玉泉庵で逝く。

           
         室町期の1431(永亨3)年長門守護職大内持盛が寺堂を建立する。以来、大内氏や毛利
        氏の手厚い加護を受けた。1800(寛政12)年に寺堂が大破し、1802(亨和2)年現在の
        建物が建工される。

           
         開山石屋真梁禅師及び定庵禅師は薩摩の人、4世守邦和尚は島津元久の子であり、島津
        の家紋が寺紋とされている。

           
         関ヶ原の戦いで敗けた毛利輝元は家康が大坂城を攻めた時、徳川軍に参戦する一方、吉
        部の荒滝城主・内藤元盛に大阪方に加わるよう命じた。大阪夏の陣で豊臣氏の敗北で毛利
        氏一門であったことが露見する。萩藩のために責任をとって、1615(元和元)年山城国の
        鷲巣寺で自刃し、事情を知る息子の元珍・元豊は幕府の追及を恐れる輝元によって自刃さ
        せられる。

           
         女子教育の先覚者である毛利勅子(1819-1879)の遺言によって招魂碑が建立される。
        「厚狭にむくろは帰るとも、魂は長く舟木の地に留まる。厚狭には懇意な舟木の人々が参
        ってくれるのに、不便であり遠路で困るであろうから、私の遺髪をこの地に留める」と、
        遺髪が青磁の壺に納めて石碑下に埋められた。

           
         新幹線から山門を見ることができる。

           
         瑞松庵から県道29号線(宇部船木線)を引き返すと右手に船木保育園。その左手の山裾
        に来迎寺がある。

           
         慶長年間(1596-1615)に毛利元安の帰依により創立される。門外の標石には日本最初の
        願生尊とあるが、詳細は知り得なかった。

           
         境内より船木の町並み。

           
         舟木宿の西端で旧山陽道は国道に合わす。

           
         国道が北側を迂回したため、旧宿場町の家並みは今でも雰囲気を残し、静かに息づいて
        いる。

           
         神社そばの地蔵座堂は、1723(享保8)年岡崎八幡宮の境内に建立された。明治の神仏
        分離令(1868)により河原近くに遷座したが、同年に現在地へ移された。

           
         1871(明治4)年に諸隊脱退兵が舟木に集結したが、その際に兵士たちが地蔵の背中に
        鉄砲弾を撃ち込んだとされる。(コンクリートで補修)

           
         大木森住吉宮の祭神は海上航路の安全を守護する神(住吉大明神)とされる。神宮皇后が
        軍船を造るために、ここのクスノキを切られたという巨木伝説から「船木村」「楠町」な
        どの発祥の地とされる。

           
         訪れる度に古い町家は取り壊されたり、改築されたりして変貌しつつある。

           
         船木宿は願生寺の下り坂から、ほぼ一直線に西下している。

           
         山陽鉄道が船木に敷設される予定であったが、地元民の反対で町を迂回したため、厚狭
        郡の中心は厚狭に移転する。(袖壁のある町家)

           
         元タバコ屋さんと不二醤油屋さんに通じる路地。

           
         正面には虫籠窓でなく角型の窓が複数並んでいるが、九州の建築文化の影響とも云われ
        ている。

           
         古い町家の形態は残されているが、そのほとんどが近年に手が加えられている。

           
         元クリーニング店と元ふじや食堂。

           
         先に進むと交差点手前の左手に旅人荷付場跡がある。江戸期には駅馬15頭と人足十数
        人が用意され、公儀役人や大名行列、旅人の世話をしていた。
         1871(明治4)年12月に廃止されて郵便取扱所の会所となるが、現在は小公園となっ
        ている。

           
         クスノキがデザインされた旧楠町のマンホール蓋。

           
         正円寺参道。

           
         正円寺(真宗)は元々、御茶屋があった所に立地していたが、1646(正保3)年から16
        61(寛文元)年まで郡代官所は吉見村の中村(現宇部市)にあったが、厚東川の氾濫に脅かさ
        れるなど立地不安定なため船木に移転することになり、寺は移転させられたという歴史を
        持つ。

           
         幕末に千林尼(せんりんに)が托鉢をして浄財を集め、棚井山田石畳道を造った史跡が残さ
        れているが、距離的に遠く残念してバス停に戻る。                 


宇部市万倉(旧楠町)‥万倉の中心部から国司家ゆかりの地

2019年12月09日 | 山口県宇部市

           
                この地図は、国土地理院の承認を得て、2万5千分1地形図を複製加工したものである。
         万倉(まぐら)は有帆川の上・中流域の丘陵と冲積低地に位置する。
         地名の由来について風土注進案は、郡家の西南に楠の大木があり、その木が大木である
        ため、この地方を覆い常に暗かったので村名を真暗と名付け、後に万倉となったとされる
        が附会のようだ。マグラのマは「真赤」とか「真白」、クラは「岩、谷」のことで、「岩
        の多い所」という説がある。(歩行約6㎞)


           
         芦河内まで行くにはバスの利便性が悪く、車を使用して「楠こもれびの郷」を起点とす
        る。

           
         こもれびの郷入口には案山子コンテスト用の作品が展示中。

           
         宮尾八幡宮参道は桜並木で、右手は戦前まで宮競馬が行われていたようだが、今は近所
        の方が畑として耕作されている。

        
         宮尾八幡宮について風土注進案は、社地は旧万倉村の「亀之頭」にあって神功皇后朝鮮
        出兵の際に軍船を作った旧跡で、応神天皇の時代に武内宿禰がその場所に一社を造立させ
        たのに始まるという。その後、南北朝期の文和年間(1352-1356)厚東義武の時、現在地に
        遷座して宇佐神宮より勧請・合祀したという。

           
         境内社として玉垂神社・菅原神社などがあり、鎮守の森は椎の木を主体とした照葉樹林。

           
           
         旧道に家並みが続くが、新しい住宅が主流を占める。

           
         1889(明治22)年町村制の施行により、芦河内、今富、矢矯、奥万倉、西万倉、東万
        倉村の区域をもって「万倉村」が発足。この地に万倉村役場が置かれた。

           
         1865(慶応元)年長州藩主・毛利敬親の意を受けて各郡に招魂場を設置する。
        1868(慶応3)年万倉村を知行地としていた国司純行は、土井垰山に招魂場を設置し、禁
        門の変の責を負い自刃した義父・親相をはじめ、戦死した26名の英霊を祀ったのが始ま
        りとする。

           
         本殿の中央に国司親相(くにし ちかすけ)の肖像画が掛けられている。

           
         100基を越える戦没者の霊標が並ぶ中に、幕末の禁門の変や第二次幕長戦争における
        国司家の戦死者が祀られている。

           
         護国神社から今富地区への市道を緩やかに上ってゆく。

           
         万倉盆地の北にある正楽寺集落。

           
         四国八十八ヶ所弘法大師御山安置札所の石碑がある。

           
         天竜寺(曹洞宗)は初め正楽寺と称していたが、南北朝期の1348(貞和4)年厚東武村が
        祈祷所として諸堂を建立し、南禅寺の末寺となる。厚東氏没落後、
観音堂のみ残ったが、
        1494(明応3)年末富重泰が再建して天竜寺としたが再度荒廃する。1570(元亀元)
        当地の信田之丸(しだのまる)城主・杉重良が、周防国宮野村より定林寺を引寺して菩提所と
        するが、やがて衰微する。 
  
       1625(寛永2)年萩藩家臣の国司備後が、周防国下徳地二宮(現山口市徳地)から万倉村
        に給領地替えになる。二宮にあった宗吽寺(しゅううんじ)を移建して菩提所とし、1743
        (寛保)
竜寺と改称する。

           
         堤堰堤を巡ると国司家歴代の墓所がある。(手前が国司親相夫妻の墓)

           
         室町期の1493(明応2)年杉重春が万倉に隠居屋敷を賜ったことが見え、杉重矩(しげの
          り
)は陶晴賢の反乱を招いた黒幕といわれる。晴賢に組みしたが後に対立して鴨庄で討たれ
        る。この境内に杉家の墓もある。

           
         広矛(ひろほこ)神社は、鎌倉期の永仁年間(1293-1299)に奥万倉の柏ノ木に創建されたと
        伝え、若一(びゃくいち)王子と称していたという。1471(文明3年)社の近くに葬場が造ら           
        れ、神託により大内氏の家臣・平(杉)武辰が域内の平野に移建する。永正年間(1504-152
        1)頃村人の金右衛門に神託があったが、村人はとりあわずにいたため疫病が流行したと伝
        える。1571(元亀2)年領主の杉重良が神託のあった現在地に社殿を移して再興したとい
        う。

           
         寺と神社の間を抜けて有帆川に沿う。

           
         国司家は毛利譜代の重臣で寄組に列し、万倉伊佐地に居館を構えた。

           
         国司親相は、毛利元美(厚狭毛利)の後を受けて、赤間関総奉行に任じられる。一代家老
        に進み、七卿と萩藩の失脚を挽回すべきと、1864(元治元)年益田・福原とともに兵を率
        いて上京したが、禁門の変の責任を負って切腹する。

           
         居館跡の上方に鎮座する美登里神社は、国司信濃親相を祭神とする。出立のとき「跡た
        れて 君をまもらむ みどりそふ 万倉の山の 松の下かげ」と詠む。享年23歳

           
         県道37号線(宇部美祢線)を歩いて
楠こもれびの里に戻ってくる。

           
         室町期の1418(応永25)年に芦河内薬師堂が再建され、茅葺、寄棟造りで正面と両面
        が吹き抜けという古い形の薬師堂である。

           
         堂内には阿弥陀如来、薬師如来などの像がある。

           
         1876(明治9)年に芦河内小学校が設置されるが、1884(明治17)年万倉小学校の分
        校となる。1974(昭和49)年に廃止されて芦河内地区集会所として活用されている。

           
         県道沿いに芦河内バス停があるが、集落までは片道約1.6㎞も離れておりバス便数は少
        ない。