ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市の周南緑地西公園に戦争遺構 ②

2023年11月26日 | 山口県周南市

        
         和光幼稚園まで引き返し、国道2号線に通じる広い道を山手に向かう。

        
         周南緑地公園の西緑地は季節の花が楽しめる市民憩いの公園、中央緑地には陸上競技場
        やフレンドパーク、東緑地はスポーツセンターやサッカー場などの運動広場となっている。 

        
         季節の花が楽しめる公園とのことだが、この時期は花を見ることはできない。鮮やかな
        紅色の実をつけた常緑のトキワサンザシ(常盤山査子)が見られるが、西アジア原産の帰化
        植物だそうだ。

        
         正門(大内側入口)の案内板を見るとクモの巣状に散策路が設けてあるので、歩くポイン
        トを目に焼き付けて出発する。(目的は戦争遺跡)

        
         東山砲台の砲側弾薬庫へ弾薬搬入のために作られた道。看板右の道ではなく「←すぐそ
        こ」の道が運搬道のようだ。

        
         この道は案内板には記載されていないが、上がれそうなので進むことにする。

        
         防空指揮所前の道に合わす。(指揮所は15m下る)

        
         防空指揮所の説明によると、コンクリートのトンネル型で、縦横25m奥行18mの広
        さである。1945(昭和20)年5月10日の空襲で徳山警備本部は機能喪失し、慶万町の
        電話中継所内に指揮所を応急設置し、新設の防空指揮所をこの東山に設置することになり、
        隧道作業が行われたが運用されたかどうかは不明とのこと。

        
         塀に沿う。

        
         防空砲台跡入口。

        
                 1944年(昭和19)年に設置された砲台で、東山には12.7センチ連装高射砲2基が設
        置されていたという。士官1人、準士官2人、下士官・兵71人の陣容で何度か射撃した
        が、戦果はなかったとされる。(標高85m) 

        
        
         発電機の冷却用に使用するコンクリート製水槽が設置されていた。囲ってある場所に水
        槽があったと思われる。

        
         引き返して舗装路を進むと次の案内がある。待機所跡に行けるかどうかわからないが上
        がることにする。

        
         登って行くとコンクリート敷の平地に出る。「旅する蝶 アサギマダラを呼ぼう」の看
        板方向へ進むと三角点分岐に出る。 

        
         標高62.3mを示す三等三角点。(地形図山名なし) 

        
        
         探照灯を制御する「管制器」の台座が残されている。仕組みはよくわからないが、管制
        器というので探照灯を遠隔操作する装置と思われる。音を察知する設備がないようなので
        聴音機の役目も担っていたのだろうか。

        
        
         探照灯と管制器との間に待機所が置かれていた。 

        
         徳山桜は毎年4月初旬に13枚の花びらが品よく重なり、山桜には珍しい八重咲きの桜
        花が整うという。 

        
         ここに110mmの探照灯が設置されていた。戦争末期の1944(昭和19)年に連装高
        角砲の探照灯として敵機を照射していた。(有効照射5,000m)

        
         地元の方から下って行けば西出口に行けると教えていただく。

        
         周囲は京都大学の演習林で、大学の柴田信男氏が観音堂を築造されたもので、徳山試験
        地には最後まで責任者として在任され、観音信仰の厚い人だったという。現在は徳山西国
        三十三観音霊場の札所とされている。

        
         満開の桜が1本の木に描かれているマンホール蓋。

        
         市内で見かけたサルビアの花のデザインが違うマンホール蓋。

        
         万葉の森茶室前の池には、縄文時代に咲いていたという大賀ハス(7月中旬から8月上旬
        頃開花)がある。
         大賀一郎博士が開花に成功したもので、博士の郷里である岡山から万葉の森造園を機会
        に譲り受け、1976(昭和51)年5月この池に移植されたという。

        
        
         徳山毛利家墓所には、初代就隆から12代元靖までの歴代藩主と妻子の墓96基が祀ら
        れている。

        
        
         藩祖の就隆(№1)と公室の墓には、唐破風付き本瓦葺方形造りの覆屋が設置されている。
        墓石の上に覆屋が設置される事例は少なく珍しいとのこと。藩祖の就隆(1602-1677)は、1
        674(延宝2)年に大成寺を開いて菩提寺とした。

        
         7代藩主の就馴(なりよし)は藩校鳴鳳館を創設するなど、文教興隆の基礎を築いた。 

        
         9代藩主の元蕃(もとみつ)は徳山藩最後の藩主で、幕末維新に際しては本藩に橋梁して活
        躍する。元蕃は広鎮(ひろしげ)の七男で、禁門の変の責任者として自刃を命ぜられた本藩家
        老福原越後の弟、藩主毛利敬親公の嗣子となった毛利元徳の兄である。
         右隣には8代藩主であった広鎮の墓である。41年間の治績により幕府から城主格を与
        えられて4万石が認められる。

        
         手前から2基目の墓が3代藩主の元次で、明敏で好学の聞こえ高く、文化面で治績を上
        げたが、本藩との争い(万役山事件)によって改易の憂き目に遭う。

        
         大成寺(臨済宗)は、1670(寛文10)年富田村(現周南市富田)にあった観音寺を移転し、
        1674(延宝2)年初代藩主が徳山毛利家の菩提寺とした。境内には「百万一心」の碑があ
        る。

        
        
         現周南市長公舎は、1826(大正15)年海軍燃料廠の廠長官舎として建てられ、終戦を
        迎えるまで歴代の廠長が使用した。2度にわたる空襲を免れた木造公舎は、戦後、徳山市
        に払い下げられて市長公舎として使われた。洋館と和舘の2棟があるようだが、公開日以
        外は門扉前からの見学となる。(国登録有形文化財)

        
        
         緑地公園まではポイントにトイレがあったが、その先はないので御弓町公園に立ち寄っ
        て東川を下る。河岸は桜並木通りで花見時期は大勢の人が訪れる場所でもある。

        
        
         下松の「お満佐(まさ)」と「お加屋(かや)」、徳山の「お米(よね)」が都濃の三孝女とされ
        る。
         お米は、1791(寛政3)年に徳山(現周南市)橋本町に生まれ、6歳の時に母を喪ったの
        で父親の足手まといとなるため母方に引き取られる。1802(享和2)年お米が12歳の時、
        父親が病にかかり、看護のため帰宅して父親の孝養にその一生を尽くす。
         時の藩主より数回にわたって褒美をいただいたが、孝養を尽くすこと31年、お米42
        歳のときに父親がこの世を去る。後年には病にかかり、父母の墓の傍らに埋めるように頼
        んだという。(墓は徳応寺)
         駅までは近いのだが、歩き疲れたので揚柳橋バス停よりJR徳山駅に戻る。


周南市の周南緑地西公園に戦争遺構 ①

2023年11月26日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千の1地形図を複製加工したものである。
         遠石(といし)および周南緑地周辺は東川下流の東、梅花川流域に位置する。
         遠石の地名由来について地下(じげ)上申は、往古、磯浜の影向石(ようごういし)という大
        岩があって、遠国から宇佐八幡宮神がこの石に飛んできたことで遠石となったと伝える。
        (歩行約9㎞)

        
         JR櫛ヶ浜駅で下車する。

        
         原江寺(曹洞宗)は、1871(明治4)年に原始院とその末寺であった吸江庵とが合併し、
        両寺名の1字を取って現寺号に改称する。
         原始院は室町期の1496(明応5)年に創建され、久米の他地にあった。この地にあった
        のが吸江庵で、開山当時は東西には松が茂って松声高く、南を望めば海波遠く望み沖を島
        に囲まれた徳山湾が、あたかも中国湖南省にある洞庭湖の風景に似ていることから寺名を
        吸江庵にしたという。(本堂は改修中)

        
         村井七之助は明治期に櫛ヶ浜防波堤を建設し、漁港を完成させるなど地元の功労者であ
        る。1853(嘉永6)年に櫛ヶ浜に生まれ、1884(明治17)年戸長になり、その後、太華
        村長を16年間務める。

        
         左手に櫛ヶ浜駅構内を見ながら横浜緑地公園へ向かう。

        
         横浜大師堂は周南八十八ヶ所36番札所で、弘法大師像ほか3体が祀られている。建立
        年月日などは不明とのことだが、大師堂のおかげで横浜町(旧舟方かこ町)は火災の発生が
        なかったという。
         ここにあった家々は、公害防止事業団により緩衝緑地として整備されたため、周南団地
        に集団移住して、その跡は横浜緑地公園となっている。

        
         この地は仲小路廉(なかしょうじれん)の屋敷跡で、1865(慶応元)年徳山藩士の子として
        生まれ、司法省法律学校に学ぶ。東京地方裁判所検事、後に逓信次官となり、桂内閣、寺
                内内閣では農商務大臣を歴任などする。

        
         公園内だが車の通行は可能である。

        
         「舊藩舟方跡」は遠石八幡宮の宮前にある。1683(天和3)年徳山藩は御船手(海軍)を
        創設し、下松にあった御船倉を遠石町東端(長浜)の地に移転した。ここが当時の海岸線で
        あった。

        
         宮前の県道347号線(下松新南陽線)。

        
         遠石八幡宮前が旧山陽道。

        
         八幡宮の参道に入ると、右手に「千日寺四国88ヶ所札所」「福寿庵西国33番札所」
        の石柱がある。
         説明板は薄れているが、この奥に千日寺(千日庵)が安土桃山期に建立されたといわれ、
        山口県風土誌に「阿弥陀堂(無量寺末庵)もと千日寺の古跡なり」とある。境内に早乙女之
        碑、不動明王石仏、四国八十八ヶ所石仏、徳山西国三十三観音石仏等があると微かに読め
        る。

        
         寺跡へ上がって行くと更地化されていた。ここにあった石仏はどこへ行ってしまったの
        だろうか。

        
         境内には、江戸時代に山陽道を通る若い飛脚が地元女性の評判となり、丁度田植え時期
        に通りかかった飛脚を五月女たちがとり囲んだところ、短刀で斬りつけたとされる。(他説
        もあり)
         この時に死亡した早乙女を供養するため、事件のあった久米ヶ瀬戸に塚(のちに石碑)が
        建てられたとのことだが、何らかの事情で移転させられたものと思われる。(2020年撮
        影)

        
         四国八十八ヶ所石仏など。(2020年撮影)

        
         この鐘は鎌倉時代の技法をよく表している銅造の洪鐘とのこと。1184(元暦元)年壇ノ
        浦合戦直前の戦いの際に流れ矢が当たり鐘声が悪くなった。新たに造り直したが思わしく
        なく2つの鐘を合わせて、1320(元応2)年に造り直したことが銘文に記されているとい
        う。

        
         洪鐘の裏丘に句碑が並ぶ。1859(安政6)年原田曲斎は「七草吟社」を創立し、曲斎以
        後徳山の俳壇は、七草吟社と鼓吟社(句碑は熊野神社)との対立が持続されたという。遠石
        八幡宮との関係やその後の経緯は知り得なかった。
                「澄む月や雲らぬ空のます鏡」 3代・翰斎張芝

        
               「真こころをうつすや月のかゝみ山」 2代・麦園瓢慮

        
                右の句「遠近の樹々に闇あり雪の山」
                左の句「鎮ます影やかつらの男山」 初代・原田曲斎

        
                「牛の啼く隣は遠し秋の暮」 7代・曲園我律  

        
               「花ちりてまとふ色なし峰の雲」 6代・六瓢園含翠

        
               「いつる日も入る日も遠き枯野かな」5代・穴倉瓢斎

        
               「人の世を忘れて雪のあしたかな」 4代・麦屋瓢仙 

        
         一対の献灯は櫛ケ浜の漁民・村井喜右衛門と弟の亀治郎が、1795(寛政7)年6月に奉
        納したものである。
         1798(寛政10)年10月オランダがチャーターした米国船籍が長崎港外で沈没した際、
        潮力と風力を利用して34日間を要して浮上させたとある。現在のサルベージの先がけ的
        な仕事をした人物である。

        
         「寄進 凱旋紀念」と刻字されているが、1906(明治39)年の日露戦争役の碑のよう
        だ。

        
         右から「見ざる・言わざる・聞かざる」が並ぶが、「自分に都合の悪いことや人の欠点
        や過ちなどは、見ない・聞かない・言わないのが良い」という。
         この言葉は、中国の思想家・孔子(紀元前552-479)の「論語」に由来するという説がある。   
        4つの戒めを人々にわかりやすく伝えるために、猿を使って3つを表現したと考えられる。

        
        
         遠石八幡宮の社伝によると、飛鳥期の622(推古天皇30)年頃宇佐八幡宮の分霊を祀り、
        708(和銅元)年に社殿を造営した。平安期には石清水八幡宮別宮で本朝四所八幡(豊前の
        宇佐、山城の男山、相模の鶴岡、周防の遠石)の1つと称された。
         神門の軒は一間で、門扉は桟唐戸両開きである。左右袖塀は各三間で中央を脇門とし、
        脇間に連子窓をたてている。

        
         拝殿は左右に翼部をのばし、正背面に構える向拝屋根の拝み部分を両翼の棟に重ねてい
        る。

        
         神門を潜ると右手に大きな「シャコ貝」が置かれている。石には「奉寄進 武運長久 
        南洋西カロリン群島パラオ島産」とあるが、寄進年などは読み取れなかった。
         1914(大正3)年日本はパラオを含むミクロネシアの島々を占領し、1945(昭和20)
         
年まで統治を続けた。

        
         拝殿の右奥に建つ祭器庫は平屋建て銅板葺きで、外側面は透塀に合わせた連子窓形の板
        壁である。両翼の位置にある神饌所と形式は同じである。 

        
         拝殿翼部両端から本殿背後を囲む透塀で、祭器庫と神饌所の妻に取り付いている。軒は
        一間で腰は竪板張で、連子窓には横長六角形断面の連子子(れんじこ)を並べる。

        
         遠石八幡宮裏手から下って行くと地蔵堂がある。昔、いつも詣でに来ていた大河内の人
        が、この地蔵様を大河内にお連れしようと、背中に背負って歩いていると遠石の人に出会
        った。そこに地蔵様を下ろして話をし、再び背負って歩こうとしたが動けなくなった。大
        河内の人は、この遠石の地は居心地が良いのだろうとお連れするのをあきらめたと‥。そ
        の場所が現在の地だそうだ。

        
         灯籠と違って火口のない六地蔵を彫った六角の石幢(せきどう)がある。

        
         遠石東町には吉田・福原といった醤油屋が並ぶ。(福原醤油) 

        
         梅花川の渡ると右手に鳥居と灯籠のある場所に影向石がある。遠石八幡宮縁起によると、
        宇佐八幡大神が神馬にまたがり、この磯浜に降臨し、この大石に降り立ったという伝説の
        岩である。

        
        
         居蔵造に連子格子造りの旧家がある。

        
         和光幼稚園と宝性寺(真宗)先の坂入口に、「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と
        刻まれた石柱が立っている。

        
         坂に一畑薬師堂があったことから、「なみあみだぶつ」と唱えながら通ったので念仏坂
        と呼ばれていたという。

        
         下り坂坂に入ると「明治42年」の道標がある。「古(こ)のうへ丹(に)いちば多(た)やく
        しあり」と刻まれている。

        
         旧山陽道は、この先徳山城下に入って行く。


徳山毛利家時代の生誕地碑などを巡る ① (周南市) 

2023年11月24日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         徳山は東川河口一帯の平地と金剛山南麓の丘陵山地に位置し、南は周防灘に面する。萩
        藩の支藩・徳山藩の城下町であり、城下の南側を旧山陽道が東西に走る。
         1945(昭和20)年5月と7月の徳山大空襲でほとんどが焼失して、城下町の面影を見
        ることはできない。
         徳山の地名について、近世に改名されたものは出目がはっきりしているが、この徳山に
        ついては諸説あって明らかでない。「増補周防記」のなかにある「得徳如山」の語からと
        いう説もある。(歩行約11㎞)

        
         JR徳山駅は、1897(明治30)年山陽鉄道㈱の駅として開業する。1969(昭和44)
        年9月に駅ビルが完成し、1975(昭和50)年に山陽新幹線の停車駅となる。老朽化と駅
        構造上から新たな駅舎(橋上駅)に建て替えられ、駅南北の自由通路と駅北口(みゆき口)の
        駅ビルには図書館など交流施設が併設されている。
         ホームに降り立つと、当地出身の童謡詩人・まどみちお(1909-2014)の代表作である「ぞ
        うさん」(1番ホーム)の到着メロディ―が流れる。ちなみに3・4番ホームは「一年生に
        なったら」の到着メロディ―である。

        
         御幸通りの両側は銀杏並木。この通りで年に1度の周南冬のツリーまつりが行われる。

        
        
         狛犬の台座には「徳山燃工会解消記念 昭和17年(1942)2月建立」と刻まれている。
        徳山燃工会とは、当時徳山の地にあった海軍燃料廠内の職工をもって組織された労働組合
        であった。1926(大正15)年10月に設立され、千名の従業員のうち約650名が加入
        したという。
         ところが、1931(昭和6)年の満州事変を契機に軍国主義が台頭、戦時体制が強化され
        て自主解散させられて戦時体制に統合される。会の解散時期ははっきりしないが、台座に
        は大東亜戦争開戦後の1942(昭和17)年2月建立とあるので、その前後に解散させられ
        たと思われる。

        
         桜馬場と御幸通りの銀杏。

        
         徳山藩家中の屋敷図。萩藩の支藩である徳山藩は、毛利輝元の次男である就隆が、16
        17(元和3)年に周防国都濃郡を中心に3万石を分地され立藩する。幕府より藩として正式
        に認められたのは、1634(寛永11)年のことである。
         当初は下松に館を構えたが、山陽道から隔たるなど不便なため野上村に居館を移し、1
        650(慶安3)年に地名を徳山と改め徳山藩とした。

        
         山口銀行徳山支店の地が奈古屋蔵人(くらんど・1758-1793)の屋敷跡とされる。徳山藩の
        家老として30余年にわたり、2人の藩主に仕えたが、学問を好み、特に藩校「鳴鳳館」
        の創設に尽力する。

        
         児玉家は源太郎が5歳の時に父・半九郎が死去したため、浅見栄三郎の次男である厳之
        丞(のち次郎彦)が源太郎の姉・久子と婚姻して児玉家の家督を相続した。
         次郎彦は藩の大目付などを務めたが、正義派の一人として活躍したため、1864(元治
          元)
年に旧屋敷地の玄関で非業の最期を遂げた。これにより児玉家は藩の命令で家名断絶と
        なり屋敷は没収されたが、「正義派」が政権を取ると、1865(慶応元)年源太郎が家名を
        相続し、この神社地に新しい屋敷が与えられた。

        
         児玉源太郎の功績を称える記念樹として、1925(大正14)年にタイワンゴヨウ(マツ
        科)の苗木数本が台湾から取り寄せられて児玉神社に植えられる。
         1962(昭和37)年都市計画による道路改修が行われる際に、伐採話もあったがそのま
        ま残されたという。

        
         鳥居の右手前方には、1918(大正7)年の13回忌に後藤新平が揮ごうした「徳足以懐
        遠(徳足りるを以って遠くを懐かしむ)」の碑が建立される。児玉源太郎は台湾総督時代(18
        98-1906)に後藤新平を民政長官に抜擢し、ともに民政に力を注いだ。
         後藤新平(1857-1929)は現奥州市水沢で生まれ、医師であったが内務省に入り、台湾民政
        長官、南満州鉄道初代総裁などを務め、以後、逓相、内相、外相などを歴任する。

        
         児玉神社は、1922(大正11)年11月前田蕃穂外52名の有志が、神社設立の許可願
        いを内務大臣に提出する。翌年に許可されて屋敷跡に流造(ながれづくり)の社殿が建立さ
れる。
         社殿傍には元台湾総統の李登輝氏が揮ごうした「浩気長存(浩然の気は永遠不滅である)」
        の石碑がある。(浩気とは生気)

        
         1864(元治元)年禁門の変後に、徳山藩でも恭順派と正義派が激しく対立する。この年
        の8月9日夜、正義派の10数人は恭順派の藩士宅を襲い、これをきっかけとして恭順派
        は正義派を捕え処刑する。これを徳山藩の殉難七士という。
         七士とは河田佳蔵、児玉次郎彦、本城清、江村彦之進、浅見安之丞、信田作太夫、井上
        唯一で、七士殉難の後、徳山藩では恭順派の勢力が衰えると正義派の時代になり、やがて
        殉難七士の家は復興される。(もとは遠石にあったものが現在地に移される)

        
         桜馬場は藩士の調馬場として、旧三番丁の南端から西本町にかけて馬場をつくり、数百
        本の桜が植えられた。これ以来、桜馬場と呼ばれるようになる。(徳山小学校界隈)

        
         徳山藩の藩校は、1785(天明5)年に藩主の館邸近くに鳴鳳館(めいほうかん)として創立
        された。
         しかし、敷地が狭かったため、1831(天保2)年徳山城下の中央部(現在の徳山小学校)
        に新築移転する。1852(嘉永5)年に鳴鳳館名を廃して興譲館に改める。「鳴鳳館」名は、
        奈古屋蔵人と親交のあった儒学者・亀井南冥に依頼し、「詩経」の大雅の巻・阿の章から
        「鳳凰は鳴く」の2字を取って命名された。

        
         毛利町1丁目にある徳山カトリック教会。

        
         毛利町2丁目の桜並木通り。県総合庁舎がある地に徳山高等学校の前身である徳山高等
        女学校があったとされる。1911(明治45)年都濃郡立都濃高等女学校が開校し、県立化
        されると徳山高等女学校に名称変更する。
         1945(昭和20)年7月の徳山大空襲で校舎が全焼し、戦後の学制改革で徳山女子高等
        学校となり、のちに徳山東高等学校(女子高)と校名変更する。1950年(昭和25)年徳山
        西高等学校(男子校)と合併して、現在の徳山高等学校へ引き継がれる。

        
         岐山(きさん)通り2丁目付近の銀杏並木。

        
         井上唯一は奇兵隊の一員として活躍し、七卿都落ちの時にはその護衛の役を務める。幕
        末における徳山藩の内訌(うちわもめ)の際には、正義派の一員として活躍したため恭順派に
        捕えられて浜崎の獄舎入れられ、1864(元治元)年に処刑される。(享年23歳)
         処刑後に家名断絶とこの地にあった屋敷が没収されたが、藩論回復後に復興する。(弥生
        町2丁目のアプロース弥生傍)

        
         福原越後元僴(もとたけ)は徳山藩8代藩主・広鎮の子で、萩藩の家老であった福原家を継
        ぐ。1863(文久3)年の政変で京都を追われた長州藩は、翌年に京都へ攻めのぼるが、そ
        の際の長州藩の総大将を務める。
         しかし、禁門の変で敗退すると責任を負わされ、1864(元治元)年8月7日この付近に
        あった衣笠伊織宅に幽閉される。同年11月11日に岩国へ護送されて清泰院で自刃させ
        られる。(享年50歳)

        
        
         児玉源太郎は、1852(嘉永5)年2月25日この地にあった児玉家の屋敷で生まれる。
        屋敷は家名断絶の際に没収されたままとなっていた。
         明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷地の一部を残して近代的な児玉文庫を創設
        するが、1945(昭和20)年7月の大空襲で焼失する。 

        
         「産湯の井戸」とされる井戸が現存する。

        
         井戸の傍に「贈 従四位児玉次郎彦君遭難之跡」がある。

        
         旧徳山市時代の市花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。(現在もサルビアが
        市花) 

        
         本城三儒とは、紫巌・太華・素堂である。その本城家の屋敷跡がこの辺りあったとされ
        る。
         紫厳(1737-1803)は鳴鳳館が創立されると、初代学頭として発展に尽力する。
         太華(1775-1844)は紫厳の子で、九州の亀井南冥に学び、帰藩して鳴鳳館の助教となり、
        世子広篤(後の藩主・元蕃(もとみつ))の字読となる
         素堂(1825-1865)は、通称・清と呼ばれ、江村氏の出で本城家を継ぐ。藩主の元蕃の近侍
        になったほか、興譲館の教授となる。(碑は岐山通り中央の緑地帯) 

        
         岐山通りを見返り花畠町に入る。(進行方向の左手に徳山高校)

        
        
         初代藩主就隆は、1650(慶安3)年に地名を徳山と定め、城下町を整備する。1658
        (万治元)年には鐘撞堂をつくり、以来廃藩まで220余年にわたって城下に時を告げるとと
        もに、有事の際に利用されてきた。
         廃藩後、徳応寺の所有となった時鐘は、先の大戦で銘文のみを残して供出される。(碑は
        新堀自治会館前) 

        
         桜並木通りに出ると市美術博物館前に、藩の居館やその外諸臣の邸宅などを管理する作
        事方があったとされる。

        
         毛利町3丁目付近の桜並木。

        
         作事方の向い側に祐綏(ゆうすい)神社への道しるべがある。昔はここから北に桜、南に松
        並木があったとされ、指の指す方向が東を指し、50mばかり行って左折すると、公園に
        至る道が参道であった。現在は国道を渡る道がないので、北の文化会館方向を指している。

        
         道しるべから北へ向かうと旧藩武方跡碑がある。藩の武具一切を管理していたのが武方
        であった。(現在の美術博物館付近)

        
                 徳山藩は一国一城制度のもとで、堀というものもない「御館」で政務を行なった。藩の
        改易、再興を経て、1871(明治4)年まで9代・約220年間にわたり城下町として栄え
        る。現在は跡地に文化会館が建設されている。

        
         藩邸跡には遺構らしきものは残されていないが、片隅に庭園の一部と思われるようなも
        のがある。
         娘の麗子をモデルにした作品などで知られる洋画家・岸田劉生(1891-1929)は、1929
        (昭和4)年11月満州旅行の帰途に同伴の画商・田島一郎に伴われ、田島の郷里である徳山
        に立ち寄る。3週間滞在するが12月20日病のため、当地で38年の生涯を閉じる。

        
         徳川幕府は、1620(元和6)年から10年間にわたり外様大名に大坂城の石垣を修築さ
        せる。1624(寛永元)年毛利家は大津島の石98個を切り出し、その際に毛利氏の家紋を          
        略したものを刻んで船で大坂に運ぶ。これはその時の残石とされる。

        
         祐綏神社は、1811(文化8)年に徳山藩初代藩主・毛利就隆を祭神として建てられた。
        現在の徳山動物園の中にあったが徳山空襲で焼失し、1960(昭和35)年に現在の場所に
        再建される。名の由来ついては、「神道辨」の中にある「護神祐以綏萬民」という文から
        引用された。

        
         徳山藩初代藩主・毛利就隆が下松より野上に居館を移し、改称から250年を記念して、
        1901(明治34)年に東舩町中と東浜崎町中の有志が建立する。 
 
        
        
         徳山動物園の入口にはD51式蒸気機関車が展示されているが、1936(昭和11)年か
        ら1945(昭和20)年までに1,115両製造された。この機関車は標準形といわれるもの
        で、1940(昭和15)年に製造され、仙台、厚狭や広島などの機関区で約118万㎞を走
        る。 

        
         徳山動物園前庭にある種田山頭火句碑
                  「新しい 法衣いっぱいの陽か あたゝかい」
         久保白船の夫人・清子さんに法衣を仕立ててもらった時の句とされる。

        
                   「踞(うづくま)ればふきのたう 白船」
         久保白船(本名、周一)は、1884(明治17)年に熊毛郡平生町佐合島に生まれる。萩原
        井泉水の自由律俳句誌「層雲」の同人となり、選者として活躍する。1916(大正5)年に
        子女の教育のため徳山の佐渡町(現本町)に移住し、文房具と書籍の店を開業するかたわら、
        「雑草の会」を主宰する。1940(昭和15)年親友の種田山頭火が急死すると松山に渡り、
        遺体を荼毘に付すが翌年には白船も急逝する。(享年58歳) 

        
         岩井勝次郎(1863-1935)は京都に生まれ、大阪で創業した岩井商店㈱(日商岩井)の経営者
        で、1916(大正5)年に徳山に進出して日本曹達工業株式会社(現在のトクヤマ)、現在の
        日新製鋼㈱を創業する。工業都市周南の発展に寄与した氏の功績を称え、1937(昭和12)
        年遠石三丁目の薬師堂上に碑が建てられたが、1942(昭和17)年徳山公園(動物園前)に
        移設された。

        
         室町期の1555(弘治元)年陶晴賢が厳島での戦いに敗れ、この地を治めていた野上氏も
        運命をともにする。
         野上氏に代わって杉元相が野上を支配すると、元相は見晴らしのよいこの地に居館を構
        え毛利氏に仕える。その子元宣は、1589(天正17)年野上庄沖ある大島で不慮の死を遂
        げる。杉氏はわずか20数年で断絶してしまう。


徳山毛利家時代の生誕地碑などを巡る ② (周南市)

2023年11月24日 | 山口県周南市

        
         国道2号線の地下道は、入口に大きな「にじいろカバさん」が出迎え、地下道に入ると
        ZOO内にいる動物たちが描かれ、「ぞうさん」のメロディが流れる。

        
         弁財天はこの地より東方100mの所にあったが、1974(昭和49)年の都市整備に伴
        って移転する。

        
         毛利就隆が武家屋敷に設けた4ヶ所の関門のうち、この石は一番丁北上に設けられた北
        の関門の片方の石で、戦災で焼けた跡にあったものを地元の人が発見し、弁財天の所に運
        んで保管する。

        
         1869(明治2)年の箱館の戦いを最後として、戊辰戦争に参加した徳山藩の山崎隊や献
        功隊は徳山に凱旋する。そこで徳山藩政府は、翌年の11月この花畠に兵塾を建設して練
        兵場を創設する。
         しかし、1871(明治4)年徳山藩は山口藩と合併することとなったため、諸隊は解散さ
        せられて一部は山口藩へ移管された。(長州藩に脱退騒動が起こる)

        
         長州藩三家老の一人である益田親施(ちかのぶ)も禁門の変の責任者として、ここより東寄
        りの位置にあった惣持院(1871年に廃寺)に幽閉されて、1864(元治元)年11月12
        日に切腹させられる。(享年32歳)  

        
        
         徳山藩の庶務や会計などの行政を担った「御蔵本(おくらもと)」があった地。徳山大空襲
        で90%が焼け野原となったが、敷地をめぐる土塀は難を免れて残されていたが取り壊さ
        れた。

        
        
         毛利町2丁目(県総合庁舎前)の銀杏並木。足元にはたくさんの銀杏の実が落下している。

        
        
         三番町2丁目(県総合庁舎東側筋)に浅見安之丞と児玉次郎彦の生誕地碑。
         安之丞は興譲館の句読師となり、槍術の指南役を務め、1861(文久元)年藩主に従って
        江戸に赴き、翌年京都に入り尊皇攘夷のために活動する。1864(元治元)年8月に恭順派
        に捕らえられ、本城清、信田作太夫らと共に浜崎の獄につながれ、翌年の1月に新宮の海
        辺で縊殺される。

            
         歩道橋で県道徳山港線を横断する。

        
         「大日本野(や)史」291巻の著者・飯田忠彦の生家跡。野史とは民間で編纂した歴史で、
        1392年以降の420年間を30年余りをかけて刊行する。
         忠彦は尊王の大義を唱えたため、安政の大獄のとき留置の身となり、1860(万延元)
        5月に自殺する。(享年63歳) 

        
        
         県道下松新南陽線に合わして大成寺への道に入る。茶系のビル下に本城清生誕地・江村
        彦之進屋敷跡の碑がある。
         本城清は江村忠韶の第2子で、本城家を継ぎ興譲館教授を務める。1864(元治元)年の
        恭順派との争いの際、浅見安之丞と信田作太夫とともに浜崎の牢獄に入獄され、1865
        (慶応元)年正月14日に新宮の海辺で縊殺される。
         江村彦之進は本城清の弟で、興譲館訓導役を務めていたが、1864(慶応元)年に暗殺さ
        れる。

        
         御弓町公園には元海軍集会所があった所とされ、門扉にヒンジ(ちょうつがい)が見られ
        る。

        
         国司親相(くにし ちかすけ
)幽閉されていた澄泉寺で、1864(元治元)年11月12日切
        腹する。(享年23歳) 
                 寺は公園より
西方100mほどの場所にあったが、1871(明治4)年に廃寺となり、碑
        は開発のために公園内に移設された。

        
         東川左岸を上流に向かう。

        
         角場というのは射撃の練習場(試し撃ちをする所)のことで、徳山藩では、元禄から享保
        にかけて銃器は軍制上、足軽の所用とされ、武士はその技を修めなかった。
         1810(文化7)年に稽古料として、毎年銀200匁を修業者に支給したことで、武士の
        砲術が始まったとされる。

        
                  「毬つくや 岐陽山河の 数へ唄」
                   「今日の日を 包みて了(お)へぬ 花芙容」
         兼崎地橙孫(本名は理蔵)は徳山藩士・昌司(号・橙堂)を祖父に持ち、父は茂樹(号・地外)
        で、地橙孫という俳号は、父と祖父の号から一字をとり、それに孫をつけた。
         1910(明治43)年に河東碧梧桐と出会い、弁護士活動の傍ら県俳句会の指導者として
        後進の指導にあたる。

        
         東川筋を下る。

        
         川端町1丁目に藩校「興譲館」の教授を務めた島田蕃根屋敷跡。

        
         徳応寺(浄土真宗)は、もと播磨国の武士であった宗覚法師によって遠石の地に開基され
        る。1617(元和3)年に現寺号とし、1685(貞亨2)年2代藩主・元賢より寺領を拝して
        現在地に移転する。(現川端町2丁目) 

        
         都濃三孝女の一人、阿米(およね)の墓がある。阿米の孝養は徳山藩主の耳にも届き、たび
        たび表彰されたという。

        
         赤松安子(1865-1913)は与謝野照幢(しょうどう・1862-1921)と結婚し、1886(明治19)
        年徳応寺本堂で「徳山婦人講習会」を開設する。この会は翌年に「私立白蓮女学校」に発
        展し、1890(明治23)年同寺の門前に校舎を新築して「私立徳山女学校」と改称する。
         しかし、1913(大正2)年安子の死没ともに募集を止め、1916(大正5)年に閉校する。
        照幢の弟である京都出身の歌人・詩人である与謝野鉄幹(1873-1935)は、兄の照幢に招かれ
        て徳山女学校の教師を務めるが、後に上京して雑誌「明星」を創刊する。

        
                  「貧山の釜霜に鳴聲寒し」(霜釜塚)
         1681(延宝9/天和元)年松尾芭蕉38歳の句。貧山は貧しい寺のことで貧乏寺を訪れた
        とき、そこの茶釜が音をたてて湯が沸いていた。霜の降りる寒い日の句のようだ。

        
                  「登る程遠のく雲や山さくら」(二世可律坊)

        
         昭和町2丁目から糀町界隈を歩いてフェリー乗り場へ向かう。

        
         晴海埠頭への跨線橋からJR徳山駅。

        
         この石灯台は、1893(明治26)年に当時の蒸気船問屋の「共栄社」によって建立され
        た。当初は東浜崎に建てられてランプによって点滅していたが、その役目を終えて戦後の
        都市計画でフェリーボート乗り場に移設されたが、2002(平成14)年3月に徳山湾頭の
        晴海親水公園に移設される。
         この公園の対岸には、工場群やクレーンなどが立ち並ぶ周南コンビナートが広がってお
        り、工場夜景の鑑賞スポットにもなっている。(日本夜景遺産に認定)

        
         1863(文久3)年8月18日の政変後、勤王派の7公卿は京都を追われ、3隻の船に分
        乗して兵庫を船出して長州へ向かう。1番船には三条実美、2番船には三条西季知・壬生
        基修・四条隆謌・錦小路頼徳、3番船には東久世通禧・沢宣嘉が乗り込む。
         3隻とも三田尻まで直行する予定であったが、嵐のため1番船と2番船は笠戸に1泊し、
        翌日に徳山の東浜崎に上陸して三田尻へ向かった。
         五卿が東浜崎に上陸したことを記念し、1913(大正2)年上陸地点(旧東浜崎)に「五卿
        登陸處」の石碑が建立されたが、徳山港の整備により晴海親水公園の一画に移転する。

        
         1904(明治37)年海軍煉炭製造所(後の海軍燃料廠)が設けられたことをきっかけに、
        日本曹達工業(現トクヤマ)など様々な企業が進出する。これを受けて、1922(大正11)
        年に徳山港が開港し、特別輸出入港に指定される。(昨年が開港百周年)
         第一次世界大戦(1914-1918)後の軍艦は、燃料を煉炭から重油への転化が進み、これを受
        けて煉炭製造所は、1921(大正10)年海軍燃料廠に改組する。

        
         みなと会館の敷地内に「開港記念碑」が設置されているが、特別輸出入港の指定を受け
        たが、当時の港湾施設は海軍や各工場の専用で、公共用の船溜まりや防波堤がある程度で
        あった。そこで民間資本による開港会社を設立し、公有水面の埋立て、灯台の設置、税関
        支署や水上警察派出署の敷地造成が行われた。
         1927(昭和2)年この地に門司税関徳山支署が置かれ、開港記念碑が建立される。 

        
         幕末にアメリカの黒船が浦賀に来航し、開国か攘夷かの論議が高まり、1863(文久3)
        年4月に幕府が奏上した5月10日を期限として外国船を打ち払うこととなる。そこで徳
        山藩は海岸防衛のため、熊野権現社付近に砲台場を築造する。(攘夷論を主唱したのは長州
        藩) 

        
         熊野神社の創建などは知り得なかったが、1945(昭和20)年の徳山大空襲で社殿は全
        焼したが、その後現地に復興されたという。

        
         大野直輔(1842-1922)の報徳之碑で、徳山藩士の三男として生まれ、藩校の興譲館や萩の
        明倫館で学び、徳山藩のひとつであった山崎隊の初代総督を務める。
         1868(明治元)年に毛利元功(もといさ)のイギリス留学に随行し、帰国してからは造幣局
        長や銀行局長を歴任する。(右手の碑は不詳)

        
         熊野神社から江田ヶ薮(えだがや)第一踏切で、みゆき口側に移動して駅に戻る。


周南市の呼坂から勝間の旧山陽道

2023年11月07日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         呼坂(よびさか)は島田川の支流である中村川の上流域に位置する。地名の由来は、町が東
        西にV字形の坂上にあって、坂下へは呼び声が手近く、よく聞こえることによるという。
        また、坂が海老のように曲がっていることから海老坂と呼び、これが転訛して呼坂となっ
        たという説もある。
         勝間は笠野川の支流である中村川流域の盆地に位置する。地名の由来を地下(じげ)上申は、
        天竺の昆首羯摩という人が作った仏像があることから、羯摩(かつま)村と呼び、豊臣秀吉が
        寄宿したことにより勝間に改めたという。(歩行約3.6㎞・🚻は高水駅、勝間駅のみ) 

        
         JR徳山駅から防長バスゆめプラザ熊毛行き約55分、原バス停で下車する。今回は3
        6停留所を経由するが、車では凡そ通ることのない場所を巡るバス旅はおもしろい。

        
         バス停から引き返し交差点を右折すると、左手に寺嶋忠三郎誕生の地を示す案内板があ
        る。

        
         西原集会所には寺嶋忠三郎生誕地碑と辞世の句碑、76番札所および刀山寺嶋先生碑(裏
        側に靖国神社に合祀、正四位を贈らる)と刻まれた石碑がある。

        
         1843(天保14)年寺嶋忠三郎は呼坂で生まれ、16歳で吉田松陰の門下生となり尊攘
        運動に身を投じる。1864(元治元)年7月の蛤御門の変で敗れ、鷹司邸で久坂玄瑞と刺し
        違えて自害する。享年21歳。
         辞世の句 
           賊勢 潮の如く砲雨飛ぶ
           快なるかな我が死心と達す
           日向草木秋まさに残(そこなわ)
           首養なお期す晩暉(ばんき)を留めんことを 

        
         狭い里道を抜けると旧山陽道の緩やかな下り坂に合わす。ここに街道らしい町並みがあ
        り、右手の屋敷はかって西原庄屋であったK宅とされる。

        
         左手に兜造りの大きな民家。 

        
         旧熊毛町章の周りにナベヅルが描かれたマンホール蓋。

        
         過去に路地を入って行くとT家の方がおられて快く家前を通していただいたことがある。
        生誕地の経緯についてお聞きすると、この地が寺島忠三郎の生誕の地であって、集会所は
        碑が設けられただけとお聞きしたことがある。
         今回は声掛けしたが不在のようで、畦道を利用して墓地のある場所へ上がる。

        
         崩れかけた石段を上がると、この付近に寺があったようで坊主墓と寺嶋家と刻まれた墓
        がある。

        
         墓は閉眼供養を終えているとのこと。左が忠三郎の髪の毛が納められていた墓で、右手
        が弟の直道の墓。忠三郎の墓は京都にあるという。

        
         街道はV字型になっている。 

        
         時に古民家が見られる。

        
         交差点から中村川までは下り坂。

        
         右手にある橿原(かしはら)神社は、平安期の811(弘仁2)年9月に紀伊国熊野神社より勧
        請し、初め関屋の森重山に鎮座する。その後に呼坂市の西端に移動し、年代は不詳だが当
        地に遷座したという。

        
         鳥居の周辺には金毘羅権現の他、八十八ヶ所札所などが祀られ、向い側には日清凱旋記
        念碑がある。

        
         社伝によると王子権現と称していたが、明治になると大権現は仏道であるので解消すべ
        しとされる。神武天皇東征の折に呼坂に一泊した故事にちなんで、1873(明治6)年に橿
        原神社と改める。

        
         参道入口にある古民家。

        
         中村川に架かる橋が見えてくる。

        
         河内家は代々庄屋・大庄屋であり、家業として酒造業を営む。天明年間(1781-1789)頃
        に本陣を引き受け、江戸末期まで続いたという。

        
         呼坂宿は人足49人、馬15疋が置かれ、不足の時は原集落などより調達されていた。
        大名・公家などが宿泊する本陣であったが、宿泊は少なく休憩所にあてられた。

        
         中村川の先からは上りとなっている。川を挟んで西側が西町、東側が本町である。

        
         正式な宿場町として発展したのは近世に入ってからで、初めは西側丘陵の場所(古市)に
        あり、やがて現在の場所に移転してきたそうで、大きな町家も現存する。(かって漢方薬店
        を営んでいK家)

        
         藩政時代には呼坂御米蔵の余剰米が大坂市場で売却されていた。運搬経路は呼坂橋の袂
        から川に沿って枝往還が南の安田に通じ、ここから島田川の川舟で光市浅江の河口に送り、
        本船に積み替えて室積の米倉庫へ運ばれていた。
        
        
         橋左手の二軒目に、木戸孝允の祖父で町医者の藤本玄盛(げんしょう)の旧宅があったよう
        だが解体されていた。

        
         右手には吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の碑がある。1859(安政6)年に江戸送りとなった
        吉田松陰が、6月3日に呼坂宿へ到着する。見送るため橋の袂まで出向いたが、人垣の中
        から師を見送るだけであったとされる。
           手前の石碑には
               かりそめの 今日の別れは幸なりき 
               ものをも言はば 思いましなん  松陰

               よそに見て 別れゆくだに 悲しさを 
               言にも出でば 思いみだれん  忠三郎 とある。 

        
         呼坂宿西市の松屋小路入口に市戎があったが、往還改修の際に山田屋の裏庭に遷した。

        
         小路に入ると塀越しに銅板葺きの屋根が見えるが、これが市戎のようだ。

        
         山田屋さん隣の立派な門構えは、地主だった石光家だが現在は無住とのこと。

        
         右手の門構えは旧庄屋宅で屋号を松屋という。(木村家)

        
         手前から門構えのH家、元ミシン商会、玩具店と続く。

        
         旧山陽道は直進して古市へ向かう。

        
         西善寺(真宗)は本陣が宿泊にあてられた際、脇本陣として宿泊の用を承る。
         1831(天保2)年防長全域にわたる大一揆では、9月21日から24日にかけて呼坂村
        ほか7ヶ村の農民300余名が同寺に集まり、呼坂村と大河内村の庄屋・富農宅を打ち壊
        した。 
         要因は、藩が財政難打開のため安い値段で特産物を買い上げる「御内用産物方」を設置
        した。この制度は専売制の強化策であったことや、吉敷郡小鯖村の皮番所で、産物方用達
        が禁忌を犯して動物の皮を持ち歩いたことも契機となった。 

        
         交通の難所の1つとされた坂道は、距離は短いが大変な急カーブ(通称コックリ曲り)が
        ある。上がれば呼坂が一望できる。

        
         古くは古市に宿駅があったが坂の下に町屋が移り、江戸中期頃に坂の下が宿駅と定まっ
        た。(右手に一等水準点・標高71.1m) 

        
         古市の西端に火伏地蔵。

        
         国道2号線を横断する用水路。

        
         下って行くと国道2号線に合わすが、岩徳線は古市トンネルで古市の下を通り抜けてい
        る。街道は線路の左側を通っている。

        
         岩徳線のトンネル上を越えると「トンネルの強度不足につき車両通り抜け禁止」とあり。
        街道は鉄道敷設により寸断されて遠回りしなくてならない。

        
         岩徳線大江踏切を過ごすと呼坂大江地区に入る。

        
         少し国道歩きとなる。

        
         歩道橋がある所で街道筋の勝間集落に入る。

        
         勝間は亀甲模様に旧熊毛町の町章が入ったマンホール蓋である。
      
        
         国道2号線の裏道になったためか寂しい通りとなっている。

        
         四差路から右手を見ると、こんもりとした森に熊毛神社が鎮座する。

        
         国道2号線から灯籠の並ぶ参道を進む。

        
         熊毛神社の創建年代は不詳であるが、奈良期の738(天平10)年の周防国正税帳に「熊
        毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。延喜式神名帳には熊毛郡では石城神社とと
        もに式内社として記載されているが、その後の変遷はつまびやかでない。
         鎌倉期の1245(寛元3)年の大内弘貞社領安堵状には勝間八幡社とみえ、これ以前に勝
        間八幡社とよばれていたと思われる。
         内藤氏や毛利氏などの厚い崇敬を受け、1870(明治3)年熊毛神社と社号を改める。現
        在の社殿は明治期に再建されたものである。 

        
         JR勝間駅は盛土上にあって、勝間の町並みを眺めることができる。

        
         1934(昭和9)年に周防花岡駅と高水駅の開通と同時に開業する。ホームは徳山に向か
        って右側に単式1面1線であるが、左側にもホームのようなものが残されている。 


周南市の津木・桑原は溺れ谷海岸に小集落  

2023年04月28日 | 山口県周南市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         津木(つぎ)、桑原(くわばら)は周南市大字戸田の小字で南陽湾に面する小集落である。(歩
        行約9.3㎞)

        
         JR福川駅の海側にふれあいセンター前バス停があり、防長バス長田海浜公園行きに乗
        車すると、行先に団地があるためか多くの方が乗車されていた。

        
         バスは常盤橋から反対方向を循環して海浜公園へ向かう。室尾2丁目バス停(旧世界長バ
        ス停)で下車して工場群筋を歩く。

        
         海岸部には長田フイシャリーナと銘打ってヨットハーバーが設置されている。年間使用
        料13万から19万と庶民には無縁の施設である。

        
        
         こちらが一般庶民向けの海浜公園のようだ。

        
         長田海浜公園は人口ビーチや遊歩道が設置されており、夏場には周南市唯一の海水浴場
        として賑わうそうだ。
         また、事前に許可を受ければ、キャンプ・バーベキューをすることが
できる。

        
         防波堤はサメ防止網の設置と波消しの役を果たしているようだ。正面の島は御影石の採
        石が行われている黒髪島だが、島自体は国有地だそうだ。

        
         大津島など島々を眺めながら海岸道路を西進する。津木、桑原、四郎谷の海岸線は、丘
        陵地が沈水して生じた溺れ谷海岸の特徴を示す。

        

        
         次の湾に入ると正面に東津木集落が見えてくるが、旧新南陽市から旧徳山市域に入る。

        
         海岸部でなく谷筋にも民家がみられる。

        
         正面に回天の基地があった大津島。

        
         海岸線が目前だったのか石組みが残されている。

        
         戸田市民センター津木分館のある地には、1877(明治10)年戸田小学校津木分校が創
        設される。のち支校、分教場に名称変更されたが、1962(昭和37)年に廃校となる。校
        舎は火事により焼失したそうで、津木公民館として建て替えられた。

        
         17世帯27名が暮らす東津木集落の海岸部は、埋め立てられて戸田(津木)漁港が整備
        されているが、漁業主体という生活スタイルが少し変化しているようにみえる。

        
         海岸部を巡ればハマダイコンの咲く散歩道。

        
         散歩道で会えたのはこの方のみだった。

        
         西津木集落も東と同様に13世帯26名の小集落だが、コミュニティバスは運行されて
        おらず、車が唯一の交通手段のようだ。

        
        
         馬蹄形の集落は付替え道路で湾を塞がれている。

        
         集落の西入口には岩の隙間に地蔵尊が鎮座。 

        
         海岸部から離れると長い上り坂。(集落を見返る)

        
         峠越えをすると鰯浜散策路の案内があるので海岸部で休憩。左手の山裾に見える石組み
        が戸田(長江)漁港のようだ。

        
         戸田(長江)漁港まで来ると正面に周南コンビナート、海には仙島、黒髪島、大津島の島
        々が浮かぶ。

        
         戸田(長江)漁港を過ごす。 

        
         長江集落は背後に山が迫るため道路筋に並ぶ。(通過後に撮影)

        
         長江集落からは再び上り坂。

        
         この看板を見ると桑原集落へと下って行く。

        
         眼下に戸田(桑原)漁協の防波堤、遠くに防府市の大平山が見えてくる。 

        
         三方を山に囲まれた入江に桑原集落がある。

        
         家の立地状況からすると、ここも後に海岸部が埋め立てられたのであろう。

        
         裏手を山陽本線が走っており、車窓から湾を眺めることができる。 

        
         プラ用タコ壺を多く見かける。 

        
         29世帯56名が暮らす漁村集落だが、漁村といったイメージが一掃された建物が多い。

        
         津木への分岐に戻ると貨物列車が通り去る。

        
         桑原集落からは山陽本線が並行する単調な道筋である。

        
         山陽自動車道下と夜市川の橋を渡ると国道2号線と合わす。徳山方面へ進むとJR戸田
        駅がある。


周南市戸田の昇仙峰に戦時遺構と四郎谷集落

2023年01月31日 | 山口県周南市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         四郎谷(しろうだに)は三方を山に囲まれた入江の集落で、海岸部を山陽本線が走り、山間
        に棚田が
がる。
         昇仙峰(しょうせんぼう)は戸田と四郎谷の間にそびえる山で、標高261mの山頂には戦時

                中に徳山港防備のための徳山要港警備隊が置かれた。(歩行約10㎞、🚻なし)

        
         利便性はJR戸田駅からの方がよいが、JR防府駅から防長バス徳山行き(10:05)に乗車
        して約30分、車窓からの景色とバス停(地名)を楽しんで湯野温泉口バス停で下車する。

        
         歩道橋で国道を横断して、昇仙峰を仰ぎながら四郎谷に通じる車道を進む。

               
         歩道橋から約700m歩くと山陽自動車道上下線のガードを潜る。

        
         そのまま四郎谷へと思ったが昇仙峰登山口の案内を見て、山頂に戦争遺構があると
聞い
        ていたのを思い出して、山登りは素人であるが登山道は整備されているようなので挑戦し
        てみる。

        
         案内に従うと約100m先に登山口があり、ここから左手の自動車道法面に取り付く。
        舗装路であるが急勾配なので休みながらの歩きとなる。(車の場合、ガード傍か登山口駐車
        可能)

        
         次の分岐で見返ると戸田の町並みが眼下に広がる。分岐を左折して金網に沿うが急勾
        配は続く。

        
         やがて広くなった所に階段と大将軍の経塚説明板がある。山陽自動車道の工事中に法面
        から大将軍と呼ばれる経塚が発見されたという。経典を埋納する経塚は、末法思想と弥勒
        信仰に基づき、末法の世に経典が失われてしまうことを恐れ、地中に埋経したことに始ま
        るという。(頂上まで800mとあり)

        
         説明板の先からは未舗装になるが、幅員の広い旧軍道路で落葉を踏みしめながら尾根上
        に上がる。さらに上って行くと左手に水槽のような遺構がみられる。

        
         「頂上まで200m」の案内を過ごすと、左手に海軍の標石と思われるものがあるが刻
        まれた文字は読みとれない。

        
         発電用燃料庫と付属屋は便所であるが、付属屋は当時のものではなさそうだ。 

        
         藪となってはっきりしないが発電所用水槽で、その近くにディーゼル発電機が設置され
        ていたとされる。

        
         燃料庫の裏側から山腹を進むと、兵舎跡と思われる広い平坦地がある。

        
         水槽と思われるものと防空壕のような穴が残っている。

        
        
         軍用道路に戻って少し登ると水槽が2つあるが、手前側は兵舎用水槽、頂上側はポンプ
        により送水した水を貯める貯水槽(写真下側)である。

        
         指揮所の建物。

        
        
         内部は施錠されていないので見ることができるが、大高神山や野島で見たのと同じ形式
        である。

        
         台座にラッパ状の聴音機を据えて敵機の高度や速度を測った。聴音のため周囲の音源を
        遮断する必要があり、探照灯や指揮所、発電所から離れた位置に設置するだけでなく、掩
        体(えんたい)によって音を遮断する仕組みであった。

        
         山頂は初日の出を迎える絶好の山のようで、焚火や場所取り跡などが残されている。

        
         指揮所の屋上は偽装のため植物が植えられ、その中央部に管制器が設置されていたとの
        こと。ここから徳山湾などが一望できる。 

        
         山頂には毘沙門天と石鎚様が祀られているが、毘沙門天は戸田市の心光寺に移されてい
        るとか。

        
        
         石組みの上には150㎝の探照灯が設置されていたが、上空の敵機を聴音機で測定して
        探照灯で照射する仕組みである。航空機による夜間爆撃に対する防空手段で、高射砲など
        の射手がターゲットしやすいように補助するものであったが、半面、照射位置がわかるた
        め攻撃の的になることもあったようだ。

        
         探照灯台の東側に「四郎谷下山道」の案内あり、少し下ると左側に煉瓦のようなものが
        見えるの
で立ち寄ると、兵舎があった真下に残骸が放置されている。

        
         こんな道が続くだろうと期待したが‥‥

        
         下って行くと荒神社の上宮。

        
         上宮の鳥居は笠木と貫が欠落しているが、柱には明治□4年3月吉日とある。

        
         上宮からはほぼ直下降する荒れた道で、上りに使用するのがベストである。

        
         眼下に四郎谷集落と海に浮かぶのは回天基地があった大津島。

        
         集落内で地元の方にお尋ねすると、一昨年(2021)の10月に森林火災があって、海水で
        消火したため緑を取り戻すには時間がかかるだろうと話してくれる。

        
         文政8年乙酉(1825)3月10日と刻まれた石鳥居を潜る。 

        
         鳥居の先で市道に合わす。

        
         ヘアピンカーブを曲がれば左手に荒神社。

        
         四郎谷地区の棚田はやまぐち棚田20選の1つとされるが、見るかぎりでは耕作放棄地
        のようである。

        
         軒数は多いが人口は何人ぐらいだろうか。

        
        
         周南市戸田市民センター四郎谷分館および四郎谷愛郷館の看板がある地は、1879(明
        治12)年に開校した戸田小学校四郎谷支校(後に分校)があった。1942(昭和17)年本校
        に統合されたが、門柱は当時のものと思われるが、建物は1957(昭和32)年に消失し、
        翌年に鼓南中学校(周南市大島)の校舎解体資材によって建設された。


        
         集落背後の昇仙峰には、往古、山麓に正仙坊という寺があり、山を正仙坊山と称してい
        たが、時期や理由はわからないが現在の表記になったという。白くなった箇所が火災によ
        り焼失した箇所である。

        
        
         1898(明治31)年3月17日山陽鉄道の徳山ー三田尻(現在の防府)間が開通、戸田ー
        富海間にトンネルが設置された。1906(明治39)年山陽鉄道は国営(鉄道省)に移管され、
        1935年代に山陽本線は複線化、1964(昭和39)年には電化されて蒸気機関車は姿を
        消した。電化は高さを必要としたため旧トンネルはお役御免になったようだ。

        
         2つのトンネルを歩いてみたが、ライトを忘れたため内部を知ることができなかった。 

        
         下部は石組みで天井部分は煉瓦が用いられている。 

        
         トンネルを出ると車窓からも眺められる風景が広がる。

        
         トンネルから引き返すと橋の袂に「天野屋の碑、この矢印の方向」と案内されている。
        碑から先に案内はないが小山の頂上に構築物が見えるので、とりあえずこの方向に進んで
        みると入口に案内がある。

        
         「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフを残した義心の人、利兵衛の生誕の地と伝え
        られて碑が建立されている。忠臣蔵の物語として登場する人物で、諸説あるようだが「天
        野屋利兵衛のふるさと」を眺めて戻ることにする。

        
         児童たちの通学を見守り続けた地蔵さんに一礼して峠を下る。

        
         右手に棚田を見て、道の駅ソレーネ周南からバス(15:16)でJR戸田駅に出る。


周南市夜市は若山城跡から集落内を散歩 

2023年01月04日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         夜市(やじ)は夜市川と同支流である的場川の流域に位置する。
         地名の由来は、貝籠(かいこもり)という小村の山王社を普請していた折、矢の根を掘り出
        したことから矢地と称していたが、矢地は地を失うに似ているため忌避して、いつ頃か弥
        地あるいは夜市の字をあてるようになったという。(歩行約7㎞、🚻若山
) 

        
         JR福川駅は、1898(明治31)年山陽鉄道の徳山-防府間が開通したと同時に開業する。
        駅舎はあるものの現在は無人駅である。

        
         旧国道2号線(現在は県道下松新南陽線)を横断して、国道2号線に通じる道へ入ると、
        周辺は近代建築で面目を一新している。旧山陽道は「福川」で散歩しているので、福川本
        陣から散歩する。

        
         1721(享保6)年幕府が随行員制限令を発すると、その前後から陸路による通行が激増
        する。長州藩の場合も、1725(享保10)年を境に海路併用から総陸路利用へ転換する。
         当初はお客屋と称して藩主の領内巡視や参勤交代の西国大名たちの休憩所に当てられた
        が、のちに御茶屋と改称する。1741(寛保元)年福田宇右衛門に管理を委託し、山陽道の
        本陣を兼ねることになった。本陣の名残をとどめる本陣門は、1838(天保9)年福田四郎
        兵衛の代に建て替えられたものである。

        
         本陣門から引き返し、正面に見える若山に向って川筋を進む。若山は福川の北にあり、
        標
高217mの山頂には若山城があった。
         陶氏の城砦について「地下(じげ)上申」は、矢地(夜市)村の項に「矢地の伊賀の上にあり、
        ただし大手は南の福川村にて御座候」とある。

        
         筋にはこのような建物は1軒のみだった。

        
         地蔵尊と宮灯籠。

        
         国道2号線の函渠を潜ると左折して国道筋に上がるが、域内は国道で分断された形とな
        っている。

        
         国道を防府方面へ進むと若山城跡への案内がある。

        
         登山口には地蔵尊や記念碑などが並ぶ。

        
         こちらの登山道は舗装路で単調な道だが、こんな看板が車道終点まで掛けてあるので読
        みながら歩ける。

        
         登山道からの展望は期待できない。

        
         自転車を漕いで上がってくる3人組や、ウオーキング中の数組に出会い、挨拶しながら
        登ること35分程度で二の丸・三の丸に到着する。

        
         若山城は通称「若山」とよばれる山体の頂部を本丸とし、稜線上に支郭が造られている。
        本丸の西に続く稜線上に西の丸及び蔵屋敷とよばれる郭があり、本丸から南東に下る尾根
        筋には二の丸、三の丸が連続して配置されている。

        
         三の丸跡から見る福川の町並みと徳山湾。

        
         ここから山頂まで徒歩5分。(ここに🚻)

        
        
         鳥居を潜れば山頂。鳥居は「明治33年旧4月1日 福川講中」とあり。

        
         陶氏は吉敷郡の陶(現山口市)を本拠地とした大内氏の一族であったが、南北朝期の陶弘
        政の頃、鷲頭庄(現下松市)を本拠とした鷲頭氏に対するため、居館を現在の周南市下上の
        武井付近に移した。若山城はその後に築かれて陶氏の城砦となったが、築城年代は不明と
        のこと。

        
         典型的な中世山城の形態をしており、空濠などを備えた防御に優れた山城であったと思
        われる。
         しかし、1555(弘治元)年10月厳島の戦いで、陶弘護の孫にあたる陶晴賢が毛利軍に
        敗れた後、杉重輔に攻められて落城する。その後、大内氏を滅ぼして防長2州を手中した
        毛利氏は若山城を廃城にする。(石鎚神社の詳細は知り得ず) 

        
         大きな桜の木の片隅に「海軍省・徳山要港境域標」がある。海軍燃料廠があった徳山港
        は、1938(昭和13)年に要港指定を受け、軍港に次ぐ重要な港に位置づけられた。要港
        になったため海上および陸上に境界線が引かれ、域内における船舶や人の行動に制限が設
        けられた。

        
         三の丸から見た風景とあまり変わらないが、福川の町を夜市川が湾に向って蛇行し、湾
        の正面に黒髪島、その右前方に大津島が浮かぶ。

        
         西に細長く夜市の集落。

        
         本丸から下って行くと石組みされた西の丸が見えてくる。

        
        
         西の丸は標高196mで本丸より21m低い。この敷地は東西は長い長方形で、東端を
        高さ2.3m余り、長さ14mばかりの石垣とし、西側は削崖によって郭の敷地を壇状に
        築いている。

        
         化学工場群の先に要港だった徳山港、浮かぶ島は仙島、遠くの高い山は太華山。

        
         蔵屋敷は西の丸より西方に位置する。

        
        
         蔵屋敷から伊賀コースを下るが、登山道は土砂で潰れているが微かな踏み跡を辿り、途
        中は倒竹もあって登山の素人には不向きなルートであった。

        
         中電鉄塔付近から明瞭な道となり、安堵を覚えるとJRの変電所用フェンスがある場所
        に出る。

        
         墓地を過ごすと夜市の町並みが間近に見えるようになる。

        
         夜市の伊賀集落に出る。

        
         幟旗がある所が若山観音堂で、大内弘世が京洛文化の1つ西国霊場をこの地に勧請し開
        創する。
         はじめは若山の法蓮寺にあったが、若山城落城後に荒廃したため
普春寺が、1695(元
          禄8)
年現在地に遷座させたという。普春寺(曹洞宗)の創建年は不明だそうだが、陶隆房(晴
        賢)創建と伝わるという。

        
         従来は農家を中心として構成されてきたと思われるが、現在は混住化地域である。(若山
        方向)

        
         小さな亀甲模様に旧徳山市の市章が入ったマンホール蓋。

        
         域内を北から山陽新幹線、国道2号線、山陽本線、旧山陽道が横断するが、集落は国道
        2号線以北に形成されている。

        
         新幹線高架に並ぶ理容院。

        
         鷹飛原(たかとびはら)八幡宮は、室町期の1596(永正3)年火災にかかり、旧記を焼失し
        たため創建年など不明とされる。神社名は神霊が豊後国宇佐の方より金色の鷹と化して飛
        んで来たことによるという。

        
         参道を上がると石祠が2基鎮座しているが、一丈六尺の岩室を設けたので丈六様(石宮八
        幡宮)と呼ばれている。


        
         現在の社殿は、1876(明治9)年に造営された。

        
         本殿裏手に若宮八幡宮があるが詳細は知り得なかった。 

        
         夜市小学校裏手の道はほぼ一直線だが、以前は農地と思われるが新興住宅地となってい
        る。

        
         山裾に大きな屋敷地を持つ家が並ぶが、その並びに妙栄寺(真宗)がある。創建年は不明
        だそうだが元は真言宗で、1612(慶長17)年に改宗したという。

        
         
壁の大きな家(原田邸)を右に廻り込むと旧山陽道に合わす。

        
         この一帯が矢地市と呼ばれる所だが、「戸田市」歩きの際に散歩したのでカットしてJ
        R戸田駅へ向かう。
         矢地市は山陽道に沿ってできた町であるが、東の福川や西の戸田市に比べ規模は小さく、
        茶屋はなかったという。


高水は高水神社から旧山陽道今市宿 (周南市)

2022年09月03日 | 山口県周南市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、原・樋口・清尾の3村が合併して高水村が発足
        する。昭和の大合併で高水・三丘・勝間・八代の4ヶ村が合併して熊毛町となるが、現在
        は周南市の一部である。
         高水(たかみず)は、烏帽子岳南麓の丘陵地帯および島田川の支流である石光川流域に位置
        する。江戸期には
樋口の今市に宿が設けられたが、呼坂宿の予備的な存在であったようだ。
         (歩行約6.7㎞、🚻駅と寺) 

        
         JR高水(たかみず)駅は、1934(昭和9)年徳山~岩国間が全通して山陽本線の駅となる
        が、10年後に柳井駅経由が山陽本線に変更されると岩徳線の駅になる。設置当時は高水
        村であったため駅名となり今日に至っている。

        
        
         駅前から山越えをして清尾(せいのお)地区に入る。島田川上流である石光川流域の低地お
        よび丘陵地に位置する。地名の由来は、高水権現の社頭が多くあり、清浄なる月並みの行
        事を執行し、夫婦岩の尾崎に社を設けたので清尾になったと伝える。
   
    
        
         河村□□翁之碑と読めたが功績は知り得ず。

        
         夫婦岩は高水神社裏の清尾山山頂にある2つの巨大な石で、共に高さ8m以上に及ぶ。
        熊野権現をこの地に勧請した折の影向石と伝えられ、修験道では大日如来として礼拝され
        たとも伝わる。(左前方の山頂)

        
        
         真言宗善通寺派の三光寺は、高水神社の7坊の1つであった三蔵院跡に開山する。(19
        49(昭和24)年設立)  
         域内には百余体の諸仏をはじめ豆地蔵、周南七福神とされる弁財天が祀られている。

        
         高水神社入口の向い側に「河村先生之碑」があり、2つの「河村碑」が存在するが、河
        村なる人物の一人に河村道篤(1842-1920)という人がいる。
         1889(明治22)年高水村が発足すると初代村長に推され4ヶ年にわたって務める。の
        ち、1898(明治31)年に高水村塾が設立されると、初代塾長に就任して15年間その職
        を全うする。

        
         高水神社参道には155基の石燈籠が並ぶが、御田頭祭(7月中旬)には献灯される。

        625(寛永2)年の古文書によると、参道で流鏑馬が行われていたとか。

        
         平安期の天徳・応和年間(957-964)に紀州熊野三所大権現を勧請し、この地に社を建立し           
        て高水三所大権と称した。明治の太政官通達により権現号を廃止し、「高水神社」と改め
        る。

        
         高水神社より約150m先に宍戸家の家老だったされる家があるが、樹木と草に覆われ
        て近づくことができない。

        
        
         夫婦岩を見返り、岩徳線の函渠を潜ると樋口地区。烏帽子岳南麓の丘陵地帯および島田
        川の支流である石光川上流域に位置する。地名の由来について風土注進案は、往古、樋口
        某という人が居住したことに因むという。

        
         旧山陽道を左折して今市新町筋を進むと、正覚寺山門前に出る。門前に宮川視明が開い
        た磨鍼塾(まんしんじゅく)という私塾があったが、1880(明治13)年に没すると後継者が
        なく中絶する。
         1898(明治31)年4月塾出身者3名が発起して正覚寺敷地内に高水村塾を開設する。
        後に高水中学校、新制高水高校と変遷したが、時代は農村部における私学経営を揺るがし
        はじめたため、1954(昭和29)年岩国市へ転出して現在の高水学園となる。

        
         手前は中所括襄(なかじょかつじょう)先生頌徳碑。優秀な人材を徳修館に送って学ばせたと
        いう。
         奥側は塚本与十郎顕彰碑で、明治初期に萩で竹細工の技術を習得し、地元の人たちに現
        金収入の道を拓いた。

        
         正覚寺(浄土宗)は、寛永年間(1624-1644)三丘の給領主であった宍戸就尚の室(正覚院)菩
        提のために建立された。

        
         1798(寛政10)年に建立された山門。

        
         今市橋を渡ると今市宿に入るが、西隣の呼坂宿までわずか半里(約2㎞)と近い距離に宿
        場が設けられた。東隣の高森宿の間に中山峠があり、峠越えの準備や越えてきた人たちの
        休憩のため設置された。九州の大名が時々小休憩したが、本陣がないので正覚寺あるいは
        岡田彦左衛門の屋敷が当てられたという。(なまこ壁の蔵がある一角にかっては有海酒屋が
        あった。) 

        
         左手に妻入りと平入の商家が並ぶ。中央が酒販売を営む竹本本店であるが、醤油製造を
        営まれたこともあるとか。

        
         門のある民家傍に北へ向かう道があり、道標には「北 米川、川越、桑根村約4丁(約
        436m)上り 西へ八代、中須村道」と刻字されている。この道が高森の外れから鳴川・
        成川を経由して、今市に至る鳴川道(成川道)である。

        
         坂を上がって行くと右手に碑があるが、「長谷川‥」までは読めたが以下は読めず。

        
         長い上りが続く。

        
         正面に山陽新幹線、右手に高水小学校が見えてくる。

        
         大歳神社について風土注進案には、出雲大社より勧請されたとあるが年月日は記されて
        いない。

        
         中央に旧熊毛町の町章に「くまげ・おすい」、その周囲にナベヅルが描かれたマンホー
        ル蓋。

        
         道標まで戻って西進する。(町田酒店付近から見返る)

        
         何が祀られているかわからなかった。 

        
         今市の西外れから少し上り坂となる。

        
         その先でJR岩徳線の辻堂跨線橋を渡る。


周南市の中野・上村・川曲は過疎の山間集落と混住化地域 

2022年07月07日 | 山口県周南市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、中野村・川上村・川曲村・上村の4ヶ村が合併
        して加見村(かみそん)が発足し、1942(昭和17)年徳山市に編入されるまで村立する。
         中野は富田川の支流である中野川流域に位置する。地名の由来は、佐波郡徳地から富田
        に至る道筋にあたる当地は、往古、人家はなく広野ばかりであったためという。(歩行約1
                ㎞、🚻なし)

        
         中野へはJR新南陽駅から四熊経由で路線バスがあるが、1日4便と少なく車に頼らざ
        るを得ない場所である。川上ダム湖の付け替え道路に沿って1本道を進む。

        
        
         神上(こうのうえ)神社は、
1600(慶長5)年に勧請されたと伝え、旧藩時代は神上大明神
        と称していた。鳥居は大正4年乙卯年(1915)の御大典記念と記す。 

        
        
         神社から約300m奥に進むと旧中野村の中心地で、12世帯14人が暮らす。(集落入
        口の路肩に駐車)

        
         菊川小学校中野分校は、1877(明治10)年南野小学中野分校として創立。のちに中野
        簡易小学校、分教場、分校などに校名変更してきたが、1982(昭和57)年に休校し、1
        994(平成6)年廃校となる。(片隅に二宮金次郎像) 

        
         二宮金次郎像傍に「伝 中野出土舟形石棺」2基が保存されているが、左側の石棺は終
        戦後に発見されたが、石を穿(うが)って作られており、破片となっていたものが復元された。  
        右のものは、古くから保安寺(上村)にあったもので、石棺の蓋と伝えられている。(説明板
        より) 

        
         中野消防庫脇に中野薬師堂。2003(平成15)年に入佛法要祭が行われたと記す。 

        
        
         分校跡から右手の集落道を上がって行くと、10軒程度の民家が道に添うが空家が多い。

        
         バスはここで折り返すが、平日4便、土日祝は2便と少なく、利用者(利便性)と便数(収
        益)の関係はいたちごっこのようだ。

        
         バス回転場の脇に地蔵尊と道路奥にも人家。

        
         最奥民家も空家。

        
         車庫らしき建物の中に墓碑と、壁には各地の寺社の御朱印が掲げてある。

        
         古老によると中野川を挟んで棚田が広がっていたが、耕作放棄後は棚田だったことが嘘
        のような姿になってしまったという。奥に民家があったのであろう電柱と舗装路が延びて
        いる。

        
         川上は西から四熊川、北西から中野川が注ぎ込む富田川の中流域に存在した。川上ダム
        により地区の家屋計60戸、面積68万7,243㎡が水没し、現在では川上ダム管理事務
        所があるだけである。

        
         山口県営多目的ダムとして1958(昭和33)年に着工、1962(昭和37)年に完成した
        重力式コンクリートダム。
         しかし、水需要のさらなる増大により、1979(昭和54)年に既設ダムが16.5mかさ
        上げされた。

             
         上村(かみむら)は富田川中流域の両岸に位置し、東と西は山が迫る地にある。(歩行約
        2.5㎞) 

        
         中国電力間上(はざかみ)発電所は、1940(昭和15)年に発電が開始された。背後の急傾
        斜地に敷設された水圧鉄管で、水の落下を利用したダム水路式発電所である。。

        

        
         間上集落とバス停付近に水車2基。

        
         県道新南陽日原線から市道間上線に入り富田川沿いを下る。

        
         川の左岸に東南野集落の家並み。

        
         富田川に架かる恵比須橋と、袂に恵比須神の小祠。

        
         保安寺(ほうあんじ)は曹洞宗のお寺で、室町期の1465(寛正6)年に陶弘房の妻・保安寺
        殿華谷妙栄の菩提寺として創建される。1821(文政4)年天神山下から今の地に移転する。

        
         寺前から見るべきものもないのでウオーキングになってしまう。(再合流の県道付近より
        見返る)

        
         市道徳山加見線を下る。

        
         亀甲模様に市章と文字が入った周南市のマンホール蓋。

        
         東南野には数軒ほど農家住宅らしい建物が見られる。

        
         川曲(かわまがり)は富田川の支流・川曲川流域に位置する。地名の由来は、川の流路の曲
        りが多いためという。(歩行約2㎞) 

        
         集落は市道徳山加見線分岐から下川曲バス停まで2.3㎞の距離にあり、三嶋神社を挟ん
        で下と上に分かれている。

        
         バス便はJR新南陽駅から1日1便のみで、病院、生活物資購入など生活するためには
        車に頼らざるを得ない状況のようだ。

        
         大きな屋敷地を構える民家。

        
         人の気配が感じられないが、下川曲では11世帯18人が暮らしているという。

        
         大きな民家だが無住のようだ。

        
         川に沿って右カーブした所に三島神社。1590(天正18)年河野五郎右衛門が伊予国三
        島神社の分霊を祀ったことに始まるという。

        
         15世帯21人が暮らす上川曲集落。

        
         東荘寺(曹洞宗)の創建年は不明だそうで、1750(寛延3)年富田より移転する。本寺は
        大道理の龍豊寺とされるが、現在は廃寺同然の姿を見せる。

        
         大乗妙典は法華経のことを意味し、小さな石にお経を一字づつ書いて埋めたものとされ
        る。

        
         段々状に並ぶ民家には車などがあって日々の営みを感じる。

        
         上川曲集落の中心部にバス停。この先600mほど入ると、10世帯20人が暮らす矢
        櫃集落だが猛暑で歩けず残念する。

        
        
        
         過疎対策にこれといった特効薬もないようで、将来展望を描くことの難しさを感じつつ
        往路を引き返す。