ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市の蓋井島は本州最西端の島 

2022年09月30日 | 山口県下関市

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         蓋井島(ふたおいじま)は響灘に浮かぶ本州の最西端の島で、吉見漁港から約10㎞の海上
        にあって2.44㎢の小島である。
         地名の由来について、「みずしまの池」という清水をたたえる池があり、往古、住吉神
        社(現八幡宮)の神事には、この池から御神水を汲み、汲み終った後は固く蓋がされたこと
        から蓋井島という名が付いたという。地名辞書には「島勢中分し、遠望すれば二島に似た
        り、蓋井はニ処の義と云う」ともいう。(約6㎞、🚻渡船待合所のみ)

        
         JR吉見駅から徒歩約6分と案内されているが、土地勘がないため地図を頼りに約10
                分かけて渡船場に到着する。(渡船場に有料駐車場あり)

               
         吉見港を出港すると正面に竜王山。

        
         吉見本町を訪れた時は、この賀茂島が3つの島に見えたが、船上から見る島は1つに繋
        がっている。この付近でイルカやスナメリが見られるとのことだが、潮流と餌が関係する
        こともあってか拝見できず。

           
         正面に乞月山、左手に城山、最高峰の大山などが見えてくる。

        
         平地が少ないため階段状に民家が並ぶが、三方を山に囲まれた中に立地する。

        
         約40分の船旅を楽しむと蓋井島漁港に入港する。乗船の多くは釣り人や工事関係者な
        どで、下船数分後には姿が見えなくなる。(背後に灯台と城山) 

        
         1933(昭和8)年に防波堤を築造した旨の記念碑が建つ。山口知事の菊山嘉男は農山漁
        村経済更生計画を推進した知事であった。

        
         天日干しの「ひじき」は漁村センター脇の加工場で煮沸して、ここで乾燥させて袋詰め
        されるとのこと。天候が続くこの時期がベストで、夏場はハエが商品に卵を産むので不適
        とのこと。

        
         港から乞月山への道を進むと、ナンバープレートがない車を多く見かける。

        
         島周辺の環境悪化を防止する観点から、2002(平成14)年に下関市漁業集落排水事業
        として整備された。下関市の「し」にフグがデザインされたマンホール蓋。

        
         すぐ左手に八幡宮への参道。その手前は蓋井小学校職員住宅への道である。

        
         参道石段から見る湾内。

        
         蓋井八幡宮は、元々住吉大神のしずまり給う岩戸があるという謂れから氏神として拝し
        ていたが、室町期の1395(応永2)年に八幡宮を勧請したと伝える。

        
        
         第一次世界大戦後は航空機の発達が著しく、下関要塞地帯の防空体制の確立が急務とな
        り、1934(昭和9)年島の海岸2ヶ所に練石積埠頭と取付道路の工事が開始された。この
        工事は近郊村の出役で約1ヶ月の短期間に構築され、下関重砲連隊の第一大隊の本部と2
        つの中隊(1中隊でおよそ200人)が配備される。
         現在も正面に見える乞月山と反対側の大山には砲台や弾丸庫、兵舎跡などが残存するが、
        乞月山への道は廃道化して足を踏み入れる状況ではないようだ。(旧陸軍蓋井島砲台西繋船
        場と乞月山) 

        
         山の神の一ノ山・三ノ山へは左の道を進む。

        
         古来、この「山」と呼ばれる森は神聖な場所として、立ち入ることも枯れ枝を拾うこと、
        枝を切ることも禁じられ、7年毎に島を挙げての神事が行われる時のみ山に入ることが許
        されているという。(三ノ山入口は木などで封鎖)

        
         説明によると「山ノ神」は、島内各家の祖先が、それぞれ四つの「山ノ神」の森に帰属
        するという祖霊祭祀とも関連付けられていることが特色とされる。
         一ノ山(爺さんの森・神木はスダジイ)、二ノ山(婆さんの森・神木はヤブツバキ)、三ノ
        山(爺・婆の娘の森・神木はスダジイ)、四ノ山(娘婿の森)で、この御神木は特に大きくな
        く、この樹の周りを2~3mの長さの枯れ木を組んで作った神籬(ひもろぎ)に、当元(山ノ神
        の祭に関わる最も古い家系と考えられる4つの家)の祭壇から持参した御幣を入れ、縄で巻
        きつけてあるようだが、島にとって神聖な場所とされるので森に入らず。

        
         二ノ山には鳥居が設置されている。神事は2018(平成30)年11月に行われたので、
        次は2025年に行われることになる。

        
         乞月山の軍事遺構は残念して集落に戻る。

        
         32世帯84人が暮らす島には商店や民宿がある。

        
         海岸道路から集落内に入る。

        
         蓋井島漁港は利用範囲が地元を主とする第一種漁港である。 

        
         屋敷地のみと思っていたが畑地もある。

        
         島特有ではあるが、ここもネコが多い。

        
         地図がないと歩けそうもない迷路が続く。

        
         一段上がれば一段下の屋根。集落は四組に分けられいるが、強い連帯感で結ばれた集落
        のようだ。

        
         正覚寺(浄土宗)は室町期の1443(嘉吉3)年、恵全法師が開山した真言宗であったが、
        1598(慶長3)年に下関の引接寺(いんじょうじ)の和尚が来島して浄土宗に改めたという。

        
        
         車道に出ると対面に灯台への石段があるが、地元の方が言うように荒れ放題の道だが、
        近道のため難を押して上がる。 

           
         蓋井島灯台は、1912(明治45)年に石油蒸発白熱灯を光源として業務が開始されたが、
        1951(昭和26)年日本で初めての風力発電装置が導入され、発電には直径9mの風車が
        使用されたとのこと。1967(昭和42)年吉母~島内に海底ケーブルが敷設されて送電が開
        始され、灯台も電力による点灯となる。

        
         蓋井島の湾内と乞月山、遠くに下関の山並みが連なる。

        
         少し進むと金毘羅社の鳥居と金毘羅山(城山)の山頂が見えてくる。

        
         鳥居から三叉路までは下り坂の舗装路であるが、展望は期待できない。(三叉路は右手に
        進む) 

        
         次の三叉路を右折すると左手に畑地が広がる。

        
        
         小学校への道を下って行くと、小屋にエミューのイラストが描かれている。二足歩行の
        飛べない鳥に属するエミューは、オーストラリア原産のダチョウに次ぐ大きな鳥で、島お
        こしの一環として飼育が始められたという。 

        
         1883(明治16)年に開校した蓋井小学校は、のちに尋常小学校などを経て今日に至る
        
が、終戦の年には機雷が爆発して校舎が大破するという戦禍を受けた。中学校は1947
          (昭和22)年豊西中学校蓋井分校として開校するが、1968(昭和43)年廃校となる。
         しかし、2023年4月から小学校の児童が進学するのに合わせ、小中一貫校にするた
        め小学校の一部を改修中である。

           
         海が見える地に龍神が祀られている。 

        
         路地筋の屋根にネットが張られている家を見かけるが、風で瓦が飛ばされないようにさ
        れているのだろう。

        
         15時50分が最終便のためか工事関係者、釣り人、行政関係者など大勢が乗り込む。
        湾外に出ると白波が立つ中を少し揺られながらの船旅であった。

        
         夕日に映える風景が美しいとされる賀茂島だが、夕日には少し早い時間帯であったが、
        その雰囲気を十分に味わう。港から大急ぎでJR吉見駅に戻り、16時59分の下関行き
        に乗車して島旅を終える。


三次市の三次町は石畳通りに袖卯建の商家が並ぶ

2022年09月22日 | 広島県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三次(みよし)は標高170mの比熊山南麓に、東・西・南の三方を川に囲まれ舌状に張り
        出す沖積平地に立地する。
         地名の由来について諸説あるようだが、「水(み)」と古代朝鮮語の「村(すき)」が合わ
        さって「みすき」となり、のちに「みよし」に転訛したという説が有力である。(歩行約
        4㎞)

        
         JR三次駅からくるるんバスで約15分、三次もののけミュージアムバス停で下車する。  
        (正面がミュージアム)

        
         ミュージアム傍に86(ハチロク)の愛称で親しまれた機関車が展示されている。Cとか
        Dなどのアルファベットをつける以前の機関車で、機関車は作った順に番号が付けられて
        おり、この型の機関車第1号は8620で、下2桁を20から始め、99に達すると次は
        「86」の前に1を繰り上げて再び20から始める80進法の付番法である。
         ちなみに当機関車は「48650」であるので、4×80と末2桁が50なので合わせ、
        それに1を加えたものが製造順(371番目)となる。1821(大正10)年に製造されて日
        本各地を走り続け、1965(昭和40)年山口県小郡機関区から三次機関区に配属され、1
        971(昭和46)年その役目を終えた。 

        
        
         比熊山の南麓にある鳳源寺(臨済宗)は、1633(寛永10)年中世の領主・三吉氏の居館
        跡に、三次藩祖である浅野長治が先祖の菩提を弔うため当寺を創建する。
         境内には阿久利姫の輿入れの際、三次に迎えに来た赤穂藩・大石義雄手植えの桜、神道
        碑、本堂裏には愚極泉という池がある。

        
         浅野長治の五女・阿久利は、幕府から赤穂藩主浅野内匠頭長矩との縁組が許可され、7
        歳の時に江戸三次藩下屋敷に入り、14歳で長矩の許に嫁いだ。
         1701(元禄14)年松の廊下における刃傷事件で長矩が切腹した後、剃髪して瑶泉院(よ
          うぜんいん)
と称し、三次藩江戸屋敷に引き取られる。生涯をかけて長矩と義士の菩提を弔う
        一方、義士の遺族に心を砕き、その処遇に尽力したという。
         45歳で没した後、夫が眠る泉岳寺に葬られ、遺髪はふるさと三次に持ち帰られ、遺髪
        塔に葬られた。 

        
         吉祥院(真言宗)は平安期の834(承和元)年、弘法大師の勅命を受け秦氏の支援により開
        基した寺で、三次町では一番古い寺とされる。その後、3度の戦禍で焼失し、4度目の本
        堂は、1939(昭和14)年建て替えのため、仮本堂に移されたところで第二次世界大戦に
        入り、戦後は財閥解体のため再建叶わず現在も仮本堂のままという。江戸期には浅野家の
        祈祷寺院であったという。

        
         妙栄寺(日蓮宗)の縁起によると、1648(慶安元)年三次藩主・浅野長治が、母・寿正院
        の菩提供養のため創建した。その後、2度にわたる火災で焼失したが、浅野家の保護で復
        興したとある。

        
         稲生武太夫(1735-1803)は三次藩士の子で、16歳の時友人と肝試しに真夜中の比熊山に
        登ったところ、平太郎(幼名)のもとへ毎晩のようにお化けが姿を変えて脅かしたが、少し
        もひるまず三界の魔王も降参したという。
         この物語は文学作品や絵巻物となって伝えられ、日本の代表的な妖怪物語の1つとなっ
        ている。

        
         臨済宗の西江(せいごう)寺は、もと天台宗で日叡尾山の麓にあったと伝え、中世、この地
        方の領主・三吉氏が菩提寺として再建し高源寺と称した。1533(天文2)年山陰の尼子氏
        に攻められた際、兵火に遭うが、のち三吉氏が比熊山城に入城したとき、寺も城内に移転
        した。
         福島正則の時代に当地方を支配した尾関正勝は、高源寺を菩提寺として現寺号に改め、尾
        関山城近くの現在地に移したという。

        
        
         卯建が似合う町の看板を見て石畳通りに入る。

        
         風物詩「鵜飼」と市の花である花桜がデザインされたマンホール蓋。 

        
         行燈には「もののけ」の絵柄。

        
         この敷地は「万寿乃井」の銘柄で明治初期から130年余り営み、2003(平成15)
        に幕を下ろした酒造蔵跡である。かってここに9棟の酒造蔵が建っていたが、この仕込み
        蔵は明治前期に建てられ、昭和前期に増改築されもので桁行31m、梁間9.8mと長大な
        蔵である。(説明板より)

        
         竈(かまど)には地蔵尊が祀られており、右手にある高さ18mの煙突と竈が繋がっていた。

        
         右手は茶房と宿泊施設、見える山が比熊山で、1591(天正19)年三吉広高が当山の東
        方4㎞の地にあった比叡尾山城を比熊山城に移した。当初の山名は日隈山の字を当ててい
        たが、日を比叡尾の比とし、山の形が熊の寝る姿に似ることから隈を熊に改めたという。

        
         三次町は山陰と山陽を結ぶ交通の要地であり、広島城下からの雲石街道は現在の国道5
        4号線とされ、街角に高さ110㎝の石柱道標がある。
         しかし、ここは街道の分岐点ではなかったようで、示された方向の行先も当てはまらな
        いという。他に尾道からほぼ現在の国道184号線沿いに三次に達する石見路(赤名越)、
        三次からまっすぐ北に延びる雲伯路、庄原・東城を経て備中へ延びる備中新見路があった
        とされる。 

        
         薬局前の道が尾関山・鳳源寺方面の道で、商家に袖卯建が見られるようになる。 

        
         屋号の入った袖卯建が並ぶ。

        
         雲石街道筋であったため敵の侵入を防ぐ策として、カギ型道路(桝形)が2ヶ所設けられ
        ており、ここは北からの侵入を防ぐもので、南の本通り南端にも設けられている。これは
        三次小学校の北側辺りに、藩主の居館があったことによるものと思われる。

        
         カギ型となった箇所にある三勝寺(浄土宗)は、天文年間(1532-1555)に松尾長門守三勝が
        一族の菩提寺として創建する。その後、三次町に移転し、三次藩初代藩主・浅野長治が現
        在地に再移転させて今日に至るとされる。

        
         袖卯建はないが街路灯と犬矢来、「木綿兎(もめんと)」の看板が目を引くが、人形作家・
        辻村寿三郎さんの工房とのこと。

        
         袖卯建の町家が並ぶ先で上市・栄町通りから本通りに入る。

        
         左右の建物に挟まれて窮屈そうにみえるのがえびす神社。由緒等がないので詳細は知り
        得なかった。

        
         専法寺(真宗)は室町期の永正年中(1504-1521)頃に創建された真言宗の寺であったが、の
        ちに浄土真宗に改宗したというが、創建時は別の場所だったようだ。それにしても寺の多
                い町で、すべての宗派が集まっているようにも思える。

        
         万光小路の先に櫓のような三階建ての建物があり、所有者にお聞きすると、3畳半程度
        と狭いが急階段を上がれば三次町が一望できるとのこと。
         ちなみに小路は、三次藩居館の北東に浅野家の祈祷所として建てられた万光院観音寺へ
        の参道であったという。廃寺となった後もその名が残されたという。

        
         本通り(約1.4㎞)の町並み。

        
         白蘭酒造は1904(明治37)年吉舎町で吉舎酒造として創業、1918(大正7)年に三次
        に進出し、のち現社名に変更されたとか。カーテンは閉じられ人の気配が感じられないの
        で廃業されたと思われる。

        
         通りを1つ過ごすと、旧広島銀行三次支店の建物がある。1924(大正13)年広島県農
        工銀行三次支店として建てられたルネサンス様式の洋風建物で、のち日本勧業銀行三次支
        店となる。1950(昭和25)年から55年もの長い間、広島銀行の支店として使用された。
         江戸期にはこの場所に堺屋という商家があり、「御客屋」として幕府の要人や藩主の休
        憩・宿泊所を担う本陣であった。

        
        
         町並み整備事業が行われたようで、2008年に訪れた時よりも様変わりしていた。

        
         三次人形は美しい光沢が特徴で、現代でも節句人形として愛用されているようで、旧暦
        の3月3日の初節句に男子・女子ともに人形を贈る風習があるとか。

        
         1927(昭和2)年旧三次銀行本店として建てられたもので、洋風石積み建築を模した造
        りとなっている。のち建物は芸備銀行中町支店となり、1951(昭和26)年から1977
          (昭和52)年までは三次郵便局として利用される。さらに市歴史民俗資料館を経て、
現在は
        辻村
寿三郎人形館となっている。

        
         袖卯建と正面の鬼瓦に「正」の字が見られるが、民族美術館とされる建物のようだ。

        
         本卯建のある建物と鍵型となった道路、その先に赤い巴橋が見える。

        
         浅田薬店だった2階には大看板と袖卯建には「て」の文字が残る。1720(享保5)年三
        次藩が広島本藩に合併され、1758(宝暦8)年には家臣団も広島城下に引き揚げると、城
        下町から宿場町・在郷町となる。

        
         照林坊(浄土真宗)の山門、本堂、鐘撞堂など8点が国有形文化財に指定されている。

        
         住吉神社は西城川が馬洗川に合流する地の西岸に位置する。三次から高田郡吉田(現安芸
        高田市吉田)へ通う川船が、三次勘定奉行支配から町方に払い下げになると、1758(宝暦
          8)
年川船の持主たちが摂津国の住吉神社より勧請したとされる。寺戸の福谷山麓に祀った
        が、1814(文化11)年に現在地に遷座する。

        
         くるるんバス巴橋バス停に赴くと、待ち時間が長いので距離にして1.1㎞程度なので駅
        まで歩く。


安芸高田市の吉田は毛利氏の城下町だった地 

2022年09月21日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         吉田は可愛(えの)川が南北に流れ、その支流多治比川が東南流して町の中心である吉田で
        合流する。この両河川に沿って町が開けている。
         1889(明治22)年町村制施行により、可愛・郷野・高原・丹比・吉田の5ヶ村が合併
        して吉田村が発足する
。のち、町制施行して吉田町になるが、昭和初に年分割して消滅す
        る。昭和の大合併で新たな吉田町を経て。現在は高田郡の全6町が合併して安芸高田市と
        なり、市役所は旧吉田町に設置されている。(歩行約6㎞)

        
         JR向原駅からバス便があるものの便数が少なく、JR吉田口駅からだと6~7㎞ほど
        歩かなければならない。JR横川駅(9:50)から広電バス広電吉田出張所行き1時間30分、
        安芸高田市役所前バス停で下車する。

        
         麓から眺める郡山(標高402m)

        
         3本の矢羽根の上に、毛利元就の有名な逸話「百万一心」の文字、町の花木であった「
        ツツジ」と「モクセイ」がデザインされたマンホール蓋。

        
         「おはか道」の石碑を見て坂道に入る。

        
         旧少年自然の家の敷地は、毛利元就の居館であった御里屋敷跡との伝承がある。

        
         この敷地には1968(昭和43)年に廃校となった大江中学校があり、元就臨終に際し、
        3本の矢の訓えを論じたという逸話にちなんで、1956(昭和31)年中学校生徒会の手で
        碑が建立された。
         長男の隆元は元就よりも先に亡くなっているので史実ではないが、子供たちに向けて書
        いた「三子訓戒状」が元ネタのようで、子供たちの結束を大事に考えていたのは事実であ
        る。 

        

         敷地内の一段上に毛利元就の像。

        
         道を隔てて左側の「青教吉師の跡」の碑は、この地に広島県青年学校教員養成所があり、
        卒業生が当時を偲んで建立したとされる。

        
         大通院谷川(内堀?)の橋を渡ると、毛利元就火葬場跡とされる地がある。元就は157
        1(元亀2)年6月14日御里屋敷において、75年の波乱人生を閉じた。遺骸は翌15日に
        大通院に移され、戒名を洞春寺殿日頼洞春大居士とし、初七日の法会を営んだ後、この火
        葬場で荼毘に付されたという。

        
         大通院谷公園から眺める吉田の町並み。

        
         公園の上部に毛利輝元墓所への案内を見て石階段を上がる。

        
         毛利隆元(元就の長子)は、1563(永禄6)年九州の大友氏との和議が整い、帰陣して尼
        子氏との戦いに援軍として向かう途中、佐々部(安芸高田市高宮)にて急死する。(41歳)
         翌年には菩提寺の常栄寺が建立されたが、関ケ原の戦い後に毛利氏が長州に移封させら
        れると、山口にあった国清寺(大内盛見の菩提寺)を常栄寺とした。隆元の急死後、元就は
        孫の輝元を後見とする。

        
         隆元の墓所から引き返すと、正面に元就墓所への参道がある。

        
         鳥居の左手辺りに洞春寺があったとされるが、1573(天正元)年元就の三回忌にあたり、
        孫の輝元が菩提寺として創建した。輝元の広島移城の際に広島城下へ移り、毛利氏防長二
        州に移封されると山口へ移転、さらに萩城下に移されたが、1869(明治2)年再び山口に
        戻された。

        
         石段を上がって行くと右手に「毛利一族墓所」があるが、1869(明治2)年郡山城内や
        城下にあったものを、この洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものである。
         左側に3基の墳墓が並ぶが、左から毛利興元(元就の兄)、中央に興元の子・幸松丸、右
        に隆元の正室・尾崎局(大内氏の重臣内藤興盛の三女)と、一角の右側には郡山城初代城主
        毛利時親から八代豊元までの合墓である。 

        
         「百万一心礎石」の由来によると、この文字を分解すれば、一日・一力・一心となるが、
        日を一にし、力を一にし、心を一にして事にあたれば何事も成し得るという共同一致の精
        神を示すものとされる。

        
         郡山城の搦め手に設けられた毛利元就の墓標には「はりいぶき」が植えられている。

               
                「本丸800m」「しろあとのぼり口」の道標に従うと、右手の苔生した宝篋印塔は、
        元就葬儀の導師で洞春寺開山の嘯岳(しょうがく)禅師の墓とされる。
師は1599(慶長4)
        10月に没するが、この墓は1788(天明8)年山口の洞春寺によって建立された。

        
         遊歩道には距離標もあって歩きやすいが、木々の生長で展望を得ることはできない。

        
         やがて二の丸下の御蔵屋敷跡に上がる。城内の要所にあることから当主に近い家臣屋敷
        跡と考えられるとか。

        
         釣井の壇は御蔵屋敷より1段下った本丸の西にあり、現在は枯れて水はないが、深さ4
        m、直径1.5mの石組みの井戸が残っている。

        
         二の丸跡。

        
        
         1523(大永3)年に宗家の郡山城を相続した元就は、郡山の南東にあった城(本城)を郡
        山全山に拡張する。本丸に城主の屋敷があったと思われ、北側の山頂部には櫓台が設けら
        れた。

        
         清神社への道を下ると右手に勢溜の壇があるが、御蔵屋敷の下段を堀切(人工的な堀)で
        区画した大小10段からなる郭群で、軍勢が集い出陣を待つ場所とされる。

        
         下って行くと満願寺跡分岐。由緒は不詳とのことだが奈良期の740(天平12)年行基菩
        薩が当地を訪ね、郡山に寺を建立したと伝える。この寺も毛利氏の移動を共にし、広島城
        下、萩城内に移転、現在は山口県防府市にある。(寺跡は訪ねず) 

        
         隆元の居所だったとされる尾崎丸跡入口を過ごすと、カメラスポットの案内があるので
        立ち寄ると、吉田の町並みが一望できる。

        
         本丸まで600mの道標からの上りは階段状であり、上りも大変だが下りも膝に負担が
        増す。

        
         市街地を見下ろす展望台には、布で毛利家の家紋が掲示されている。

        
        
         大師堂と88体の石仏。

        
         1915(大正4)年興禅寺跡(臨済宗)を郡山公園として整備されたもので、寺は毛利氏が
        広島に開府したのに伴い、城下の竹屋村(現広島市中区)に移ったが、その後も江戸期を通
        じて広島に留まった。

        
         清(すが)神社は郡山城築城以前から存在し、祇園社と称していたという。

        
        
         変則交差点を直進すると徳栄寺筋。寺(真宗)は三上土佐守の次男が各地の合戦で殊功を
        あげていたが、足を負傷したことで出家を志す。のちに光明坊と称す一寺を開基したのが
        始まりとする。

        
         安芸高田署を右折すると、可部と三次を結ぶ約46㎞の雲石街道筋である。

        
         商店が立ち並んでいたと思われるが、シャッターやカーテンで閉じられている。 

        
         路地奥の福泉坊(真宗)は、平安期の長元年中(1028-1037)天台宗の寺として創建されたが、
        兵火に遭い甲立郷(甲田町)に再建された。
         室町期の1532(天文元)年に覚正(俗称村上氏)が、吉田村内に寺を移して真宗に改め、
        のちに毛利氏の広島移城・防長二州への移封などがあったが、吉田に帰り現在地に寺を建
        立したとされる。

        
         いろは旅館は江戸末期の創業とされ、道に面した建物の一部は築300年を経ていると
        いう。街道はここで右折して多治比川へ向かう。

        
         右折する角には「土生玄碩(はぶげんせき)生家」の看板と、歴史を感じる建物がある。玄
        碩は代々医家の家に生まれ,大坂などで外科や内科を学んだ後、帰郷して開業する。18
        03(文化5)年広島藩の藩医となり、江戸において藩主の6女(南部利敬の正室)の眼病を治
        療して名声をあげる。
         1810(文化7)年幕府の奥医師となったが、シーボルトから瞳孔を広げる薬を貰い、お
        礼として将軍拝領の紋服を与えたことが発覚して財産没収・禁固となるが、後に赦免され
        る。

        
         袖卯建も現存する。

        
         新旧2つの看板と袖卯建がある商家。

        
         これも看板建築の一種だろう。

        
         街道沿いの一角に商業の神である恵美須社が祀られているが、由緒によると広島市中区
        胡町にある蛭子神社は当社を移したものされるが、現在もこの地にある経緯は不明とのこ
        と。

        
         見飽けることのない建物が続く。 

        
         多治比川に架かる稲田橋で引き返し、恵美須社の角を左折して高林坊前の通りからバス
        停に戻る。

        
         高林坊(真宗)は、室町期の天文年中(1532-1555)高田原(旧甲田町)に創立されたが、吉田
        にも当寺を開基して同号を用いた。本寺との紛争を経て独立したという歴史を持つ。


北九州市門司区に和布刈神社と城跡・旧軍遺構

2022年09月16日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制の施行により、田野浦村、門司村、小森江村の3ヶ村が合併
        し、文字ヶ関村が発足する。合併後の村名について門司村にしようとしたが、異議が唱え
        られ文字ヶ関村となる。1898(明治31)年門司市に移行し、現在は北九州市門司区であ
        る。
         和布刈(めかり)は企救(きく)半島の最北西端、関門海峡に面する。地名はわかめ刈りの神事
        で有名な和布刈神社の所在地であることによる。(歩行約8㎞、🚻古城山以外はポイントに
        あり
) 

        
         JR下関駅から長府経由のサンデンバスに乗車し、みもすそ川バス停で下車する(@260-)

        
         門司城跡がある古城山(標高175m)

        
         関門国道トンネルは、1937(昭和12)年建設に着工したが、第二次世界大戦の勃発に
        より資材不足もあって工事は中断し、着工から21年の歳月をかけて1958(昭和33)
        に開通する。全長3,461mのうち海底部分は780mで、トンネルは上が車道、下が歩
        道の二段構造となっており、下関側の人道入口から地下55mまでエレベーターで降りる。

        
         海底を歩いて山口県と福岡県の県境を跨ぐ。下関側400m、門司側380mの地点で
        ある。

        
        
         地下60mからエレベーターで地上に出ると、目の前に関門海峡の景色が広がる。

        
         神社横には明治期に廃止された和布刈砲台があったことを示す石碑、連歌師・飯尾宗祇
        の句碑「舟みえて 霧も追門(せと)こす あらしかな」がある。赤い社は早鞆稲荷で、傍に
        は猿田彦大神の碑もある。

        
         松本清張の小説「時間の習俗」の一部が文学碑。

        
         1941(昭和16)年高浜虚子は満州・朝鮮旅行の途次、和布刈神社を訪ねている。「夏
        潮の今退(ひ)く平家亡ぶ時も」

        
         和布刈神社は九州の最北端に位置する神社で、関門海峡に面して社殿が建っている。社
        伝によると、神功皇后が新羅から帰途の折に創建された伝わる。祭神は潮の満ち引きを司
        る神とされ、海峡の守護神として崇敬を集めているという。
         神功皇后自ら神主となって早鞆瀬戸のワカメを神殿に捧げたという古事にちなみ、毎年
        旧暦の元旦に神職がワカメを刈り取り、神殿に供えて航海の安全と豊漁を祈願する和布刈
        神事が行われる。

        
         社殿前の石段下に海中灯籠が立つ。 

        
         一般駐車場の片隅にトンネル建設中に亡くなられた殉職者52名と、病没者37名を慰
        霊するため、1958(昭和33)年3月建設省によって慰霊碑が建立される。

        
         
この付近に旧陸軍の砲台があったとされるが、海岸道路の新設などで消滅する。大砲は
        隠してあって、有事の際には敵艦隊を真横から攻撃するのが任務であったという。

        
         潮見鼻に立っている門司埼灯台は、1924(大正13)年初点灯された。塔の高さが7.6
        mと規模は小さめだが、狭い関門海峡を行き交う船の安全の守るため、その役割は大きな
        ものがある。

        
        
         灯台東側の岩場に、円形の水輪と三角の火輪のみの五輪塔が置かれているが、壇ノ浦の
        合戦で海の藻屑と散った源平の人々を供養した塔と思われる。隣には同様な趣旨で建立さ
        れた句塚がある。

        
         和布刈潮風広場への道。

        
         広場には色鮮やかな遊具のようなものが設置されているが、よく見るとタコをモチーフ
        にした滑り台だった。

        
         観光トロッコ潮騒号の終点である関門海峡めかり駅の横に、電気機関車と寝台客車が展
        示してある。
         1961(昭和36)年山陽本線と鹿児島本線の一部が電化されたが、山口側は直流、門司
        側は交流であったため、関門トンネル用の交直共用の機関車が開発された。機関車のEF
        30型と寝台客車はその当時に使用されたオハフ30型だが、現在は内部等を見学するこ
        とができない。 

        
         広場から山登りを開始すると、右手に唐人墓が案内されている。

        
         1864(元治元)年イギリスなど四ヶ国連合艦隊は、長州藩の不当な攻撃に対し、下関の
        砲台を攻撃し、兵士を上陸させて壊滅させた。
         この戦いで連合艦隊側もかなりの死傷者を出し、各国は戦死者を門司の大久保海岸一帯
        に埋葬する。フランスも同海岸に埋葬していたが、1895(明治28)年フランス人宣教師
        ・ピリオン神父が現在の石碑に建て替えたが、その後、諸事情で何度か移転して現在地に
        落ち着いたという。

        
         古城山を目指して車道を歩くが、車は一方通行のため下ってくる車に注意が必要だ。

        
         九州自動車道、めかりPA、門司港ICと橋脚が集中する下を見上げながら上がって行
        く。(急坂ではないが真夏日)

        
         和布刈第2展望台から関門橋、下関市街地を望む。

        
         同じく門司レトロ地区。

        
         第2展望台から山頂に向かうと木製デッキの山手側に、有田焼陶板で作られた高さ3m、
        長さ44mの「源平合戦絵巻」がある。

        
         関門橋と並行して関門連系線(送電線)が設置されているが、門司側と下関側の鉄塔距離
        は1,872mである。

        
         車道右手から山頂への遊歩道があり、その先に山の神を祀る小祠がある。

        
         旧陸軍によって関門地区の防衛のため、下関・門司地区に要塞施設が構築される。ここ
        古城山砲台は、1890(明治23)年に構築されたが、日露戦争(1904-1905)後は日本沿岸
        を脅かす敵国はなくなり、明治末期頃に廃止された。
         
周囲を石垣(堡塁)で囲まれた倉庫部が残されているが、倉庫の内部を見ることはできな
        い。

        
         倉庫前から山頂部の観測所に通じる階段が2ヶ所あり、左側には柵があって入れないが、
        右手の階段は上がることが可能である。2つの階段の間には石垣で窪みが設けてあるが、
        用途は不明であった。

        
        
         連絡通路を上がって行くと、山頂には観測所の円形コンクリート遺構は残存しているが、
        内部は土で埋もれて内部を知ることはできない。

        
         観測所の周囲にも遺構らしいものが残されているが、砲台は旧国民宿舎付近に設置され
        ていた。

        
         門司城は都を追われた平知盛が、源氏との一戦に備えて築城したと伝えられる。その後、
        城主が入れ替わりながら続いたが、1615(元和元)年幕府の一国一城令により、約400
        年におよぶ歴史を閉じる。明治期に陸軍の要塞とされたため遺構は消滅したようだ。

        
         ここに新潟県出身の宮柊二(みやしゅうじ)の歌碑「波の間に降り込む雪の色呑みて、玄海
        の灘今宵荒れたり、まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば」がある。

        
         県道に合わす手前に「明石与次兵衛の塔」がある。佐賀県名護屋城にいた豊臣秀吉は、
        1592(文禄元)年母の急病を知り、急ぎ大坂城に戻る途中、関門海峡最大の難所とされる
        篠瀬で座礁したが、秀吉は危うく難を逃れた。
         船奉行であった明石与次兵衛は、その責任を負って大里(門司)の浜で割腹して果てたと
        いう。後に中津藩主の細川忠興が、瀬の上に与次兵衛の霊を弔うとともに、航海安全の標
        識として塔を立てたが、関門海峡改良工事で取り除かれて、一時下関の海中に沈められて
        いた。戦後、引き上げられて和布刈公園に再建されていたが、関門橋建設に伴い、197
        2(昭和47)年この地に移された。

        
         県道を門司港方面へ向かうと、1928(昭和3)年田野浦に竣工した福岡食糧事務所門司
        政府倉庫(旧門司米穀倉庫)を結ぶ貨物専用線が設けられた。現在は門司観光レトロ線とし
        て使用されている。

        
         線路を横断すると文字ヶ関公園内に「門司関址」の石碑がある。門司は都と太宰府を結
        ぶ重要な地であったため、飛鳥期の646(大化2)年に関所「門司関」が設けられた。 

        
         和布刈地区入口に和布刈神社一ノ鳥居。
         
        
                 ノーフォーク広場駐車場の片隅に戎・猿猴河童塚が祀られている。猿猴(河童)が悪いこ
        とをするので里人に捕らえられ、和布刈神社の神官に引き出された。神官は祭神の力で封
        じ込めようとしたとき、猿猴は二度と悪いことはしないと誓い、指差した石がこの石塚と
        いわれている。

        
         1884(明治17)年海軍は軍艦の燃料である石炭を備蓄する燃料倉庫を対岸に設置、さ
        らに隣接地を埋め立てて兵器修理所を建設する。その後、西海岸(現在の駐車場付近)を埋
        立して兵器製造所としたが狭隘であったため、1916(大正5)年小倉に移転する。

        
         レストランのある建物は、1973(昭和48)年にノルウェー海員教会として建てられ、
        ノルウェーやスウェーデンなどの海員の休憩施設としても使われていたものである。

        
         ノーフォーク広場は、1986(昭和61)年北九州市の姉妹都市であるアメリカバージニ
        ア州の港町、ノーフォーク市のイメージに合わせて整備された。(ベンチがある所は和布刈
        観汐公園) 

        
         関門海峡は6時間おきに潮の流れが変わり、潮流は最高で10ノット(時速約10.5㎞)
        とされ、古くから海の難所とされてきた。
         本州と九州を結ぶ関門国道トンネルではクルマ社会に対応できないため、約5年7ヶ月
        の歳月をかけて、1973(昭和48)年11月に高速自動車道として関門橋が完成する。全
        長は1,068m、海面からの橋桁までの高さは61mで、広場のベンチに腰掛けて行き交
        う船を眺めるのも一計である。

        
         めかり会館とめかり毎日荘の間に清水の湧く場所があり、その湧水を「平家一杯の水」
        と称していた。現在は双方の建物はなくなり、崖も改修されて岩場が再現されている。壇
        ノ浦合戦で平家の武士たちが、この湧水での喉を潤したことに由来するという。
         この先、和布刈神社までの遊歩道を歩いて往路を引き返すが、ノーフォーク広場から門
        司港に出て、関門渡船で関門海峡を船から眺めて唐戸に出るルートも捨てがたい。


宇佐市四日市は東本願寺・西本願寺の別院がある地 

2022年09月11日 | 大分県

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
                 1889(明治22)年の町村制施行により、四日市村、吉松村など5ヶ村が合併して四日
        市村が発足する。のち町制に移行して四日市町となり、さらに昭和の大合併で近隣の7ヶ
        村を合併して四日市町を継続する。1967(昭和42)年に四日市町、宇佐町、長洲町、駅
        川町が合併して現在の宇佐市となる。
         四日市は駅館(やっかん)川と伊呂波(いろは)川に挟まれた平野部に位置し、地名は四の日に
        定期市が開かれたことに由来するといわれる。(歩行約2.6㎞)

        
         JR宇佐駅から四日市行きのバス約25分、東新町バス停で下車する。

        
         バスの進行方向へ進むと、「四日市門前町 豊前日向街道」の案内がある。 

        
         次の分岐は参道に入らず右の道を進む。

        
         浄土宗の法然が「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽に行くことができると説く。こ
        の教えをさらに進めたのが弟子の親鸞であり、浄土真宗の開祖とされる。
         第11世の顕如の時代は織田信長と敵対する戦国時代で、延暦寺(天台宗)に寺を破壊さ
        れ、越前に逃れた後に京都山科に戻ったものの日蓮宗に敗れ、大坂石山の地に要塞ともい
        える巨大な寺院を建立する。ここで「石山10年戦争」といわれる織田信長との戦いは、
        やがて劣勢に陥り、「信長に従うか、反抗するか」で内紛する。顕如は和睦を選択するが、
        長男の教如は抗戦を主張したため、顕如は長男を廃嫡し、三男を跡継ぎにする。
         のち、豊臣秀吉の時代に本願寺の再興が許され、京都堀川に建てられたのが西本願寺(本
        願寺派)で、徳川家康の時代になると本願寺の勢力を分断するために、教如上人に目を付け、
        西本願寺のすぐ近くの烏丸に寺地を寄進して東本願寺(真宗大谷派)を建立する。これによ
        り、本願寺教団は東西に分裂することになる。

        

         東本願寺四日市別院には、真勝寺(東本願寺の末寺)という寺があった。1737(元文2)
        年寺の住職が東本願寺から隠居を命じられるが、それを不服として末寺11ヶ寺と門信徒
        1,300人とともに西本願寺派に転宗しようとしたため大騒動となった(別院騒動)。寺
        は幕府に没収され、その後の裁定で東本願寺に下付されることになり、東本願寺の別院と
        して今日に至っている。

         訴訟に敗れた西本願寺改宗派は、宇佐市川部にあった正明寺をこの地に移転させ、西本
        願寺別院を発足させたという。


        

         現在の本堂は、幕府の工事許可は修理及び建て増しであったが、新築を強行し、185
        9(安政6)年に落慶法要が営まれた。(19間4面、正面29.5m、奥行き31.5m、高さ
        21m)

        
         東別院参道と交差する路地。

        
         真宗大谷派四日市別院は、この地域に勢力を有した渡辺氏が、中世末期に建立した真勝
        寺を前身とする。1744(延亨元)年に本山の別院となり、九州御坊と称し全九州の寺院7
        16ヶ寺を統括する。
         1865(慶応元)年に建てられた山門は、幕末動乱の際には兵火を逃れる。九州にある寺院
        の二重門としては最大の規模だそうだ。

        
         1825(文政8)年に再建された東別院の本堂は、二層屋根であったが幕末の動乱で焼失
        し、1880(明治13)年に再建された。

        
         勝福寺(真宗大谷派)は、東別院となる前の真勝寺の塔頭だったとされる。

        
         東別院の土塀筋。

        
         大乗院の階段下に行くと「鬼のミイラ」についての案内がある。名家の家宝として伝わ
        ったが、ある事情で手放すと、大乗院の檀家が購入したが原因不明の病に倒れた。鬼の祟
        りと考え同寺に安置したところ病が治ったという。ミイラは仏様として祀られており、見
        学は可能であった。

        
         左に西別院、右に東別院が並ぶ。

        
         市章とツツジがデザインされた宇佐市のマンホール蓋。

        
         旧日向街道から見る太鼓楼。 

        
         東別院前の旧日向街道を左折する。(左折後) 

        
         横町通りは石畳。

        
         江戸期には黒田氏、細川氏に続いて小笠原氏の領地であったが、その所領半分が召し上
        げになると、1700(元禄13)年この地に幕府の代官所(四日市陣屋)が置かれ、幕府天領
        として明治まで続いた。
         1868(明治元)年の御許騒動(討幕派の志士たちが陣屋を襲撃し、御許山に陣を構えた)
        で陣屋は焼失したが、この陣屋門は免れ、以後、宇佐郡役所、宇佐郡高等小学校、郡立農
        学校、県立四日市高等女学校、四日市高等学校へと変遷する中、それぞれの正門として使
        用されてきた。

        
         桜岡(さくらがおか)神社は室町期の1558(永禄元)年地頭職の渡辺氏が、旧居城だった肥
        前国鬼子嶽城から蛭子宮を遷座させたのが始まりという。市屋敷に祀られた後に細川氏の
        お茶屋跡に社殿が造営され、神社前に市を開いたのが「四日市」の起こりとされる。

        
         祭神は蛭子・稲荷・天神で、4月の稲荷祭りには子供神輿、9月の天神祭りには山車と
        神輿、12月のえびす祭りには御供物行列・神楽奉納されるという。(山車などの格納庫)
         四日市バス停よりJR宇佐駅に戻るが、往路はここまで乗車した方がベストだった。


宇佐市の長洲は漁師町、酒蔵と神社を巡る

2022年09月10日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、長洲村と金屋村が合併して長洲村が発足する。
        のちに町制施行して長洲町、昭和の大合併で柳ケ浦町、和間村と合併して長洲町となるが、
        1967(昭和42)年宇佐町、駅川町、四日市町と合併して宇佐市に移行する。
         その長洲は中津平野の東部、駅館(やっかん)川の河口右岸に位置し、北は周防灘に面する。
        地名は駅館川の本支流に挟まれ中洲であったことに起因するという。(歩行約4㎞)

        

         豊後高田から大分交通四日市行き15分、長洲支所前バス停で下車する。

        
        
         県道中津高田線を避けて裏道を歩く。 

        
         鳥居が見えたので立ち寄ると、長洲神社境内は長洲葵保育園と共用になっている。

        
         賀茂大神宮、賀茂宮などと呼ばれ、地元では流れ勧請と伝えるが、賀茂皇大神宮由来に
        よると、奈良期の731(天平3)年賀茂別雷神が住江に流れ着き、満潮時に現在の本殿があ
        る中小路に着いたという。
         当地の産土神として崇敬され、5月3~5日の執り行われる葵祭りは、江戸中期頃に豊
        前国に疫病が流行、これを鎮めるため始まった祭りだそうで、山車が長洲の町を練り歩く。

        
         神光寺の突当り左折すると天満宮。 

        
         もとは真言律宗だったそうだが、鎌倉期の1326(嘉暦元)年象山禅師の再興と伝える曹
        洞宗の神光寺。
        
        
        
         正面の壁に「賀久酒場」の文字入り鏝絵。 

        
         当地にはいろんな神社が存在するが、ここは八坂神社。 

        
         とよきん醤油付近の小路。

        
         四ッ谷酒造がある通り。1919(大正8)年四ッ谷酒造場として四ッ谷兼八が創業する。
        創業者の名前を商品名とした麦焼酎「兼八」を中心に焼酎造りをされている。

        
        
         鳴海製麺工場付近の民家。

        
         製麺工場の向い側に春日神社。この付近にもう一軒製麺工場もあるが、長洲麺の起こり
        は江戸期とされ、宇佐平野の小麦と海岸沿いの塩、駅館川による水が潤沢だったこと

        麺作りが盛んになったという。

        
         製麺工場から淡島神社への通り。

        
         淡島神社は奈良期の740(天平12)年頃移住民の永住の地となり、宇佐神宮の護神であ
        るえびす神を勧請し、洲の小高き処(高杜)に祀ったという。

        
         1789(寛政元)年創業の久保酒造は、もとは酒造業を長くされてきたようだが、現在は
        麦焼酎「久保」をメインに焼酎造りをされている。

        
         久保酒造の酒蔵を見ながら直進すると貴船神社。鳥居がないのでこの石柱が注連石だろ
        う。 

        
         三角洲及び浜に家が密集していたため、火災は大惨事になることが多かったという。
        1703(元禄16)年には寺社在家5~6軒を残す大火、1732(享保17)年には宮社3ヶ
        所を残して全焼するという大火に見舞われている。

        
        
         1868(明治元)年創業の小松酒造は途中で製造を中止されたそうだが、2010(平成2
          2)
年に製造を再開されている。白麹仕込みの純米酒「豊潤」という銘柄は、さっぱりと切
        れの良い酒だそうだ。

        
         小松酒造から豊前長洲駅と柳ヶ浦駅までは同距離にあると思えたが、長洲に来たので長
        洲の名がある駅に戻ることにする。

        
         鹿児島本線に長洲駅があるため、こちらは豊前長洲駅といい、1911(明治44)年に開
        設された。

        
         「ギャラリーのある無人駅」と銘打って駅舎内にはいろんなものが展示されている。

        
         島式ホーム1面2線を有する地上駅だが、跨線橋のみの乗車方法である。


豊後高田市に昭和30年代の町並み 

2022年09月10日 | 大分県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         豊後高田は周防灘に面する国東半島西部の基部にあり、東を桂川が下る。(歩行約2.8
        ㎞)

        
         1909(明治42)年に開業した宇佐駅。

        
         駅前から大分北部バス13分、豊後高田バス停で下車する。

        
         バスターミナルに到着すると乗降場は鉄道の旧豊後高田駅ホーム跡である。国東半島の
        玄関口であった豊後高田から宇佐駅を経て、宇佐八幡駅まで結ぶ8.8㎞の大分交通宇佐参
        宮線があった。
         1916(大正5)年に開通したが、1965(昭和40)年8月にバス路線と競合するため廃
        線となる。(ここで活躍した機関車は宇佐神宮境内に保存)

        
         「JRの駅もなければ、マックも無え!」というが、鉄道があった証として駅通り商店
        街のアーチが輝く。(先に昭和ロマン蔵を見学) 

        
         バスターミナルを出ると右手に昭和ロマン座という一画があり、昭和ロマンが漂う施設
        である。
         その一角にある長い建物は、野村家が小作米を収蔵するために、1937(昭和12)年に
        設営した米倉倉庫である。

        
         有料の東館には駄菓子屋の夢博物館、チームラボギャラリーがあり、北蔵の無料ゾーン
        には昭和の商店街、夢町小学校がある。

        
         ボンネットバスで昭和の町商店街や桂川沿いをミニ周遊できる。ここが出発地で料金は
        無料だそうで、1957(昭和32)年製造の昭和生まれのバスである。

        
         無料で足湯が楽しめる「ぶんごたかだ温泉座」と、隣は昭和の懐かしい学校給食が味わ
        えるカフェ。

        
         朝が早いこともあって人がまばらな駅通り。

        
         突き当りを右折すれば新町商店街。

        
         外灯や店の構えなど正に昭和の商店街。

        
         ウエガキ薬局や隣の漬物屋「こうこう屋」さんは右書き看板


        
         旧豊後高田市の市章と蜘蛛の巣状がデザインされたマンホール蓋。

        
         「肉のかなおか」さん付近の町並み。

        
         1933(昭和8)年に旧共同野村銀行として建設されたが、その後、買収合併を経て、1
        993(平成5)年まで西日本銀行高田支店として使用された。現在はホテル清風別館の展示
        施設に活用されているが、2階建てに見えるが銀行に多い吹き抜け平屋建てで、2階壁面
        に沿って窓を開閉するための回廊が設けてある。

        
         野村財閥屋敷跡を挟んで擬洋風建物が並ぶが、右手の佐田屋さん
はこの町で最も古いお
        店だそうで、16
94(元禄7)年創業という。

        
         大正期から続く千島茶舗と手造りの店・和楽天。

        
         変則四叉路から桂川に至る道が中央商店街。 

        
         昭和の町展示館は、1933(昭和8)年築の大分合同銀行(現大分銀行)の建物で、木造平
        屋一部2階建てである。
         のち、高田信用組合(現大分県信用組合)が使用したが、2004(平成16)年に銀行業務
        を終えて展示館として活用されている。


        
         金庫も健在。

        
         旧中津信用金庫の建物。

        
         1915(大正4)年創業の亀屋呉服店は、1929(昭和4)年建築の木造3階建て店舗。

        
         1788(天明8)年創業の瓦屋呉服店は、明治期には珍しい瓦屋根だったことから、地元
        では「瓦屋さん」と呼んだことがそのまま店名となったという。(左隣は釘屋金物店)

        
         桂川橋袂にある煉瓦造2階建ての建物は、1921(大正10)年築の旧共立高田銀行だっ
        た。廃業後、様々に転用されたようで、現在はパン屋さんが入居されている。

        
         下駄と木製サンダルを履いた愛らしい像は、昭和の町のシンボルと思われる。

        
         桂橋の先は玉津商店街。

        
         商店街に入るとシャッターも目立つが、そば処の看板も目立つ。豊後高田は蕎麦の産地
        で、生産ー加工ー手打ちが同じ土地で行われているため、おいしい蕎麦が味わえるとのこ
        と。

        
         玉津プラチナ通りまでは観光客が来ないためか、ちょっと寂しい通りとなっている。

        
         通りに背を向ける北野神社は、室町期の大永年間(1521-1528)京都の北野天満宮から勧請
        されたという。

        
        
         高田城は1632(寛永9)年に入部した松平重直が、1639(寛永16)年(一説には入部
        後まもなく)幕府の許可を得て、当地を城地として高田藩が成立する。
         しかし、1645(正保2)年木付(杵築)に移封となり、この城は廃城となる。その後、島
        原藩領となったが飛地支配のため、旧本丸に陣屋が設けられた。

        
         桂川の右岸、周防灘に面する美和台地の舌状部に位置し、西方は10mほどの断崖、南
        方は桂川に臨む10~20mほどの崖、東と北は台地に接して堀や土塁で構成されている。
        堀は農業用ため池として活用されてきた。(跡地には桂陽小学校や公民館) 

        
         敷地内に「従是東南嶋原領」の石柱が立っているが、どこからか移設されたものと思わ
        れる。

        
        
         左手の計(はかり)屋醸造元は、カネオトの商標で知られる醤油・味噌の老舗で歴史を感じ
        る。

        
         昭和時代の宮町警察官立寄所。

        
         映画のポスターがあるので元映画館だったのだろうか。

        
         銭湯もそのまま残されている。

        
         飲食街を過ごしてバスターミナルに戻る。


高水は高水神社から旧山陽道今市宿 (周南市)

2022年09月03日 | 山口県周南市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、原・樋口・清尾の3村が合併して高水村が発足
        する。昭和の大合併で高水・三丘・勝間・八代の4ヶ村が合併して熊毛町となるが、現在
        は周南市の一部である。
         高水(たかみず)は、烏帽子岳南麓の丘陵地帯および島田川の支流である石光川流域に位置
        する。江戸期には
樋口の今市に宿が設けられたが、呼坂宿の予備的な存在であったようだ。
         (歩行約6.7㎞、🚻駅と寺) 

        
         JR高水(たかみず)駅は、1934(昭和9)年徳山~岩国間が全通して山陽本線の駅となる
        が、10年後に柳井駅経由が山陽本線に変更されると岩徳線の駅になる。設置当時は高水
        村であったため駅名となり今日に至っている。

        
        
         駅前から山越えをして清尾(せいのお)地区に入る。島田川上流である石光川流域の低地お
        よび丘陵地に位置する。地名の由来は、高水権現の社頭が多くあり、清浄なる月並みの行
        事を執行し、夫婦岩の尾崎に社を設けたので清尾になったと伝える。
   
    
        
         河村□□翁之碑と読めたが功績は知り得ず。

        
         夫婦岩は高水神社裏の清尾山山頂にある2つの巨大な石で、共に高さ8m以上に及ぶ。
        熊野権現をこの地に勧請した折の影向石と伝えられ、修験道では大日如来として礼拝され
        たとも伝わる。(左前方の山頂)

        
        
         真言宗善通寺派の三光寺は、高水神社の7坊の1つであった三蔵院跡に開山する。(19
        49(昭和24)年設立)  
         域内には百余体の諸仏をはじめ豆地蔵、周南七福神とされる弁財天が祀られている。

        
         高水神社入口の向い側に「河村先生之碑」があり、2つの「河村碑」が存在するが、河
        村なる人物の一人に河村道篤(1842-1920)という人がいる。
         1889(明治22)年高水村が発足すると初代村長に推され4ヶ年にわたって務める。の
        ち、1898(明治31)年に高水村塾が設立されると、初代塾長に就任して15年間その職
        を全うする。

        
         高水神社参道には155基の石燈籠が並ぶが、御田頭祭(7月中旬)には献灯される。

        625(寛永2)年の古文書によると、参道で流鏑馬が行われていたとか。

        
         平安期の天徳・応和年間(957-964)に紀州熊野三所大権現を勧請し、この地に社を建立し           
        て高水三所大権と称した。明治の太政官通達により権現号を廃止し、「高水神社」と改め
        る。

        
         高水神社より約150m先に宍戸家の家老だったされる家があるが、樹木と草に覆われ
        て近づくことができない。

        
        
         夫婦岩を見返り、岩徳線の函渠を潜ると樋口地区。烏帽子岳南麓の丘陵地帯および島田
        川の支流である石光川上流域に位置する。地名の由来について風土注進案は、往古、樋口
        某という人が居住したことに因むという。

        
         旧山陽道を左折して今市新町筋を進むと、正覚寺山門前に出る。門前に宮川視明が開い
        た磨鍼塾(まんしんじゅく)という私塾があったが、1880(明治13)年に没すると後継者が
        なく中絶する。
         1898(明治31)年4月塾出身者3名が発起して正覚寺敷地内に高水村塾を開設する。
        後に高水中学校、新制高水高校と変遷したが、時代は農村部における私学経営を揺るがし
        はじめたため、1954(昭和29)年岩国市へ転出して現在の高水学園となる。

        
         手前は中所括襄(なかじょかつじょう)先生頌徳碑。優秀な人材を徳修館に送って学ばせたと
        いう。
         奥側は塚本与十郎顕彰碑で、明治初期に萩で竹細工の技術を習得し、地元の人たちに現
        金収入の道を拓いた。

        
         正覚寺(浄土宗)は、寛永年間(1624-1644)三丘の給領主であった宍戸就尚の室(正覚院)菩
        提のために建立された。

        
         1798(寛政10)年に建立された山門。

        
         今市橋を渡ると今市宿に入るが、西隣の呼坂宿までわずか半里(約2㎞)と近い距離に宿
        場が設けられた。東隣の高森宿の間に中山峠があり、峠越えの準備や越えてきた人たちの
        休憩のため設置された。九州の大名が時々小休憩したが、本陣がないので正覚寺あるいは
        岡田彦左衛門の屋敷が当てられたという。(なまこ壁の蔵がある一角にかっては有海酒屋が
        あった。) 

        
         左手に妻入りと平入の商家が並ぶ。中央が酒販売を営む竹本本店であるが、醤油製造を
        営まれたこともあるとか。

        
         門のある民家傍に北へ向かう道があり、道標には「北 米川、川越、桑根村約4丁(約
        436m)上り 西へ八代、中須村道」と刻字されている。この道が高森の外れから鳴川・
        成川を経由して、今市に至る鳴川道(成川道)である。

        
         坂を上がって行くと右手に碑があるが、「長谷川‥」までは読めたが以下は読めず。

        
         長い上りが続く。

        
         正面に山陽新幹線、右手に高水小学校が見えてくる。

        
         大歳神社について風土注進案には、出雲大社より勧請されたとあるが年月日は記されて
        いない。

        
         中央に旧熊毛町の町章に「くまげ・おすい」、その周囲にナベヅルが描かれたマンホー
        ル蓋。

        
         道標まで戻って西進する。(町田酒店付近から見返る)

        
         何が祀られているかわからなかった。 

        
         今市の西外れから少し上り坂となる。

        
         その先でJR岩徳線の辻堂跨線橋を渡る。