ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の伊保田・油宇に戦艦陸奥記念館となぎさ水族館 

2019年10月31日 | 山口県周防大島町

           
           この地図は、国土地理院長の承認を得て、2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)            
         伊保田(いほた)と油宇(ゆう)は、屋代島の東端に位置し、北海岸(内浦)の沖に情島など諸島
        が、南海岸(外浦)には片島が浮かび、両地区を狭隘な県道60号線(橘東和線)が結ぶ。
                 1889(明治22)年町村制の施行により、双方が合併して各1字をとって油田村として存
        立していたが、昭和の大合併で東和町となり、現在は周防大島町の一部区域である。(歩行
        
約6.5㎞)


           
         JR大畠駅から防長バス周防油宇行き(8:58)に乗車、瀬戸内海を眺めながら約1時間1
                5分のバス旅を楽しむと、終点のバス停には10時10分に到着する。(復路は13時)

           
         バス停から海側へ向かい三差路を左折して通りを歩く。

           
         海へは1m幅の路地で結ばれている。

           
         周防大島八十八ヶ所第71番札所へは左の狭い道に入る。

           
         階段を上がって行くと家並みが見えてくる。

           
         札所とされる薬師堂。
 


           
         通りは湾に沿って緩やかに湾曲している。国勢調査によると油宇の人口は299人・1
        68世帯とされ、空家と住宅地跡が目立つ。

           
         東の港前で海岸通りと合わす。

           
         海岸通りにも隙間なく家が建っていたようだが、今では空地が目立つ。

           
         三叉路に灯籠があり、左道の奥には鳥居が見える。

           
         約550mの海岸通りを歩くと県道に合わす。

           
         この付近は塀が並ぶが海岸沿いであったのであろう。

           
         油宇は東に保木鼻、西に西の鼻が南に突き出て、凪の時は海上が油を流したようになる
        ので名付けられたと云われる。

           
         西港の灯台。

           
         大きな山門の下は石段で、山門には天井絵が全70枚あるとか。

           
         山門は檀家の大工と住職が工夫しながら建てたと云われる。

           
         元は真言宗であったが江戸時代初期に浄土宗となり、明治初期に和田の西浄寺と合併し
        て浄西寺となる。

           
         浄西寺石塔婆(浄西寺三尊碑)は、鎌倉期の1202(建仁2)年造立で、在銘石塔物として
        は瀬戸内海地方最古の石塔とされる。当初は、阿弥陀、観世音、勢至の三尊碑であったが、
        勢至碑が失われて二基だけ残っている。右の阿弥陀碑は上部が欠けているが、左の観世音
        碑はほぼ完全な状態である。

           
         境内から見る油宇集落。1866(慶応2)年の四境の役大島口の戦いで、幕府軍艦・富士
        丸と大江丸が油宇を攻撃する。寺の石垣に被弾跡が残されていたようだが見落とす。

           
         新宮神社の鳥居と油宇公民館。

           
         神社の創建年月は不詳だが、1648(慶安元)年に再建される。参拝を終えてバス停に
        戻る。

           
         伊保田バス停に降り立ち、旧油田村役場の位置を確認すると、油田小学校下で現在は民
                地になっているとのこと。

           
         バス路線を引き返して小学校下に辿り着くと、既に周囲には民家が建って痕跡は残され
        ていない。

           
         門構えの家も存在する。

            
         海側が玄関のようだ。 

           
         通りには平入りの民家が並ぶ。

           
         遊ぶ子供がいないのか草ぼうぼうの児童公園。

           
         深広寺(真宗)の門には、猪が境内に入るので夜間は門扉を閉める旨の貼り紙あり。

           
         旧道の東端で県道351号線(油田港線)に合流する。

           
         海岸線を見ながら引き返す。

           
         伊保田港にはJR柳井港駅までの防予フェリーがあるが、1日4便と少なく柳井港駅ま
        で約1時間20分を要す。情島への離島航路も発着する。

               
         海岸線を歩くこと15分(約1㎞)で陸奥記念公園。沈没現場の海を望む丘には、海底よ
        り引き上げた船体の一部が展示してある。(副砲)

        
         1947(昭和22)年に引き上げが試みられたが、作業は困難を極め中断する。1970
        (
昭和45)年に作業が再開され、8年に及ぶ作業の末、船体の75%が引き上げられる。(
        舷艦首) 

        
        
         1921(大正10)年に完成した戦艦「陸奥」は、連合艦隊の旗艦として活躍していたが、
        1943(昭和18)年6月9日伊保田沖で謎の大爆発を起こし沈没する。(副砲とスクリュー)

        
        
         丘には沈没した方位が示されている。右手の柱島で荼毘に付されたため、洲鼻と呼ばれ
        る浜には「陸奥英霊の墓」が、沈没地点の方角に建立されている。

           
         陸奥記念館の入口には主錨が置かれている。

           
           
         陸奥記念館には海底から引き揚げた船体の一部や、将兵の身の回り品。それに遺族から
        提供された手紙や資料が展示されている。


           
         向かい側には日本一小さい「なぎさ水族館」があるが、バス時間の関係で入館を残念し
        て
記念館前バス停からJR大畠駅に引き返す。      


周防大島町の沖家室島は海上交通の要衝地 

2019年10月31日 | 山口県周防大島町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         沖家室島(おきかむろじま)は屋代島中部の南海上にある島で、人が住んでいる島としては
        大島郡の最南端に位置する。屋代島本土との間に潮流の早い沖家室瀬戸があり、面積0.
        94㎢の島は、洲崎と本浦の2つの集落に分かれている。室町時代には海賊の根拠地であ
        ったという。(歩行約3㎞)

        
         1983(昭和58)年3月18日離島振興法により架橋された沖家室大橋、その下を流れ
        る海峡は「セト」と呼ばれている。

        
         大橋の袂に民俗学者・宮本常一の手紙の一文を記した碑がある。「此の橋 全国同胞の
        協力によってできました。感謝します。沖家室島民」と刻まれている。

        
         蛭子神社の御旅所境内地には架橋の記念として、ヨットの帆をイメージした大理石製の
        モニュメントがある。

        
         沖家室大橋から眺める州崎集落。

        
         萩藩は藩境に位置するこの地に、往来する船を監視する御番所を設置し、島の有力者で
        ある石崎氏を船究役に任命し、公用船を置き御船倉を設けた。屋根は萱葺きで簀子(すのこ)
        4枚が設けられ、縦14.5m、横4mであったとされる。

        
         この船倉跡地には、昭和の終わり頃まで造船所があり、所有者であった原氏の寄付によ
        り、史跡として整備される。

        
         右手に旧道が海岸線と平行している。

        
         漁師町特有の狭い路地に軒を接している。昭和初期までは旅館の他に、造船所、釣針屋、
        散髪屋などもあったそうで、対岸の佐蓮(され)の人々は「沖家室に行けば何でもそろう」と、
        伝馬船でやってきたという。

        
         ここに御番所があったそうで、そこで使用されていた井戸は、昔からどんな渇水期でも
        水枯れしなかったとのこと。地元ではこの井戸を「御番所ガワ」と呼んでいる。

        
         御番所跡から山手側に入って行くと、以前は段々状に家があったようだが、崩壊もしく
        は空家となっている。

        
         沖家室にはいたるところに共同井戸があったようだ。これは最上部付近にあるもので、
        井戸が一種の社交場にもなっていたという。

        
         路地裏歩きで地元の方をお見かけすることはなかった。

        
         路地には郵便局や商店もあったようだが、郵便局は海岸通りへ移転し、商店も閉店され
        て集う場所が失われていた。(旧角忠商店付近)

        
         空家のためか損傷が激しくなりつつあり、蔵は消滅したようである。金井家の横に観音
        堂へ上がる石段がある。

        
         観音堂奥から伊予灘を眺めることができる。1662(寛文2)年建立の観音堂は、179
        0(寛政2)年に再建され、本尊は聖観音菩薩で行基の作と伝えられる。

        
        平地が少なく山裾に民家が集中している。

        
         路地に倒壊寸前の建物。

        
         本浦へ通じていたトンネルが残されている。

        
         往来する車は釣り人など島外の人で、島民に会えたのは自転車で通行された方のみだっ
        た。

        
         沖家室島にも弘法大師伝説が残っている。一人の旅僧が喉を潤すために、一軒の家を訪
        ねて水を求めると貴重な水ではあったが老婆は差し出した。すると僧は「渚に行って波打
        ち際を掘れ」といい、海岸を掘ると真水が湧いて飲むことができたとか。この井戸を弘法
        大師井戸として弘法堂を祀ったが、井戸は道路工事のため埋め立てられたという。

        
         1873(明治6)年に開校した沖家室小学校は、1989(平成元)年児童数の減少により
        閉校する。

        
         蛭子神社は漁業を主な生業としてきた沖家室島の総鎮守とされる。創建年月は不詳だが、
        当初、洲崎に鎮座していたが、1872(明治5)年現在地に遷座する。

        
         蛭子神社から本浦の町並み。

        
         本浦には寺の門前と旧道沿いに2つの商店街と、昭和初期まで造船所、文具店、豆腐屋、
        銀行、役所、医院などがあった。

        
         石組みの上に民家が続く。

        
         萩藩の要衝地であったことから、大島郡内では沖家室と地家室の2ヶ所に高札場が設け
        られた。

         
         山口県の天然記念物とされる「アコウ(赤榕)」の木は、水無瀬島より持ち帰ったものと
        される。

        
         群山(くんさん)は大韓民国にある港町であるが、そこで財を成した柳原氏が、贅を尽くし
        て建てた木造二階建ての邸宅である。現在は「群山荘」として沖家室出身者用の宿泊所に
        なっている。 

        
         海岸通りに置かれている常夜燈。

        
        
         泊清寺(はくせいじ)は沖家室島唯一の寺で、江戸期には萩藩主や参勤交代で島に立ち寄る
        九州の大名の本陣を務めた。

        
         泊清寺の境内にある「ふか地蔵」は海の守り本尊とされ、船が遭難しかけた時、一心に
        ふか地蔵を念じたところ助かったという話が伝えられている。

        
         ここが海岸線であったのであろう防波堤が残されている。

        
         波止場は太公望のメッカとなっている。

        
         1947(昭和22)年に開校した沖家室中学校は、1966(昭和41)年時代の波に押し流
        されて閉校となる。

        
         かつては蛭子神社の御旅所から大漁旗を立てた船に神輿を乗せ、洲崎の御旅所まで海上
        を渡御したという。祠は中学校近くにあったが、道路整備の際に現在地へ移転する。(現
        在はトラックで神輿を運搬) 

        
         海を眺めながら海岸線を歩いて洲崎に戻る。国勢調査によると、人口137名・80世
        帯。高齢化率も高い地域である。 

        
         波止場は太公望のみならず、海鳥たちにとっても良き場所のようだ。

        
         かつて「せと丸」という小さな渡船が、対岸の佐連との間を毎日数回行き交う渡船場が
        あった。 

        
         牛ヶ首岬と分岐する地点に、シーボルトが上陸したとする碑がある。1826(文政9)
        9月長崎から江戸参府の折に沖家室に停泊。その時に牛ケ首に上陸し、周辺の植物採集な
        どをしたとされる。 

        
        小積・大積地区にある厳島神社。 


萩の浜崎は伝統的建造物保存地区

2019年10月27日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         浜崎は萩市街地の北にあって松本川河口の左岸に位置し、西は菊ヶ浜に面する。浜崎は
        築城以前から
の漁村であり、海上交易の中継地であったと思われる。城下町成立後は漁港
        であるととも
に、商港として萩城下に開かれた海の玄関口となった。(歩行約4㎞)

           
         新山口駅から防長バス東萩駅行き約1時間30分、萩バスセンターで東回りの循環まあ
        ーるバス(松陰先生)に乗り換える。定額の100円で雁島バス停までは約5分で行くこと
        ができる。

           
         左手の路地に入ると新堀川に出会い、左折すると芳和(ほうわ)荘が見えてくる。

           
         旅館「芳和荘」は大正時代初期に建てられたもので、この界隈は明治期から花街として
        賑わい、当旅館も「梅木」という遊郭だった。

           
         建物は外から見ても味わいがあり、屋敷塀も美しい。

           
         萩藩御船倉は藩主の御座船や軍船を格納していた。このような船倉が4つ連続していた
        とのことだが、現存するは1基で、屋根を葺いた旧藩時代の船倉としては全国唯一の遺構
        とのこと。(国指定史跡)

           
         内部を見学する機会を得て中に入ると、奥行き27m、間口8.8mの三方を玄武岩で
        壁を築き、上部に瓦屋根を葺いている。(ときにコンサート会場になるとか)

           
         前面は木製扉だったとのこと。

           
         問屋町筋の右手が旧小池家土蔵、左手に西村、中村家住宅。

           
         小池家は穀物商で港から荷揚げした荷物を保管した蔵とのこと。その後は材木商に転身
        され、蔵は住吉祭りに関する展示場となっている。

           
         昔は船宿だった中村家。

           
         問屋町筋を抜けると正面に魚市場があり、少し右に行くと対岸の鶴江への渡しがある。
        午前7~11時、午後1~3時、午後4~6時に運行され、ボックス内の連絡ボタンを押
        すか、大きく手を振れば迎えに来てくれる。(無料)

           
         浜崎のメインストリートである浜崎本町筋に入ると、東棟と西棟が連なる藤井家がある。
        海産物問屋・魚問屋を営み、1851(嘉永4)年築の西棟、1820年代(文政年間)築の東
        棟は
、どちらも厨子
(つし)二階建てである。
         戸自体がはずせる蔀戸や跳ね上がり大戸があり、この蔀戸を開けて、ここに商品を並べ
        て売っていたとされる。

           
         左へ曲がる所にある大嶋家は、白壁の虫籠窓が目立つ。

           
         1856(安政3)年築の斉藤家は、切妻造り厨子二階建てで、二階外壁は貫を通した真壁
        造りとし、手摺りを巡らしている。

           
         家前には旧式の丸ポストと、目の細かい格子戸が風情を感じさせる。

           
         斜め向かいには明治中期に建てられた三層構造の池部家。蒲鉾製造を営んできた家で、
        1930(昭和5)年道路拡張のため、表側2間が斜めに切り取られた珍しい形をしている。

           
           
         明治時代の看板が目を引く中村船具店は、江戸期の建物で古い漁具などが展示してある。

           
         村田荒物店付近から見返る。

           
         旧山村家は江戸時代に建てられた商家で、道路側に店、その奥に居住用の建物を別々に
        にする表屋造りである。一旦室内(土間)に入り、再び外(中庭)に出ると玄関があり、商売
        の領域と私的領域を分けるという商家の建て方がなされている。

           
         かっては山村船具店として商いをされた山村家の仏壇と神棚。神棚の両脇に微笑む恵比
        寿様と大黒様が置かれている。

           
         通りに面して3つの格子があるが、表玄関側から太格子、親子格子、平格子と組み方・
        作り方が違う。

           
         当時の引札(取引先が宣伝のために使用した広告チラシ)を見ることができる。

           
         1931(昭和6)年築の旧山中家は、本二階建てで店間と座敷を有する。海産物を扱う商
        いをされていたとのこと。

           
         うなぎの寝床とされる奥行きの長い商家。

           
         北国問屋を営んだ浜崎の豪商・須子家の建物は、1700年代後期に建てられたとされ、
        馬繋ぎ棒が残されている。

           
           
         1652(承応元)年浜崎の商人が大坂へ向かう途中、時化(しけ)にあって住吉大明神に祈
        ったところ、浜崎の船だけが無事だったことから、1656(明暦2)年大坂の住吉社より鶴
        江に勧請する。1659(万治2)年現在地に社地を拝領して遷座する。

           
         玉垣に沿って左へ進む。

           
         中島治平(1823-1866)は、1856(安政3)年32歳で長崎に留学し、英蘭語を学び、西
                洋理化学を修め、コレラの予防法を伝えたため士籍に列せられる。萩に戻ると製鉄、製茶、
        ガラス製造の必要を建白し、1866(慶応2)年に舎密局(せいみきょく)総裁となったが、同
        年この地で病没する。

           
         田中家は夏みかんや鮮魚の商いを行っていた商家で、立派な門が特徴。

           
         梅屋七兵衛は幕末の商人で、代々、浜崎で北国問屋を営む家に生まれ、七兵衛の代には
        酒造業を始め、藩の武具方の用達も行っていた。藩の密命を受け、命がけで長崎に鉄砲千
        丁を買い付けに行くなど明治維新に貢献する。

           
         この旧宅は七兵衛が晩年を過ごした隠居屋で、ここでお茶やお花を楽しんだと思われる。
        (2015年撮影。現在は一般公開されていない)

           
         この先、徐々に標高が高くなるが、海からの風が当たる場所され、「吹上通り」と呼ば
        れている。

           
         江戸から明治期にかけて油屋・蝋屋を営んでいた林家。

           
         大嶋家は明治期、呉服屋を営んだ後に醤油製造元となる。

           
         泉福寺は、1641(寛永18)年毛利家から橋本に寺領を拝領して創建されたが、何度も
        水害を受けたので願い出て現在の地に移転したという。

           
         当寺は吉田家の菩提寺で「松陰21回猛士」と記する位牌が安置されている。また、戦
        後日本共産党のリーダーとして活躍するも、晩年には旧ソ連のスパイだったことが発覚し、
        除名された野坂参三の菩提寺でもある。

           
         藤山家は大正時代「藤山商店」として雑貨商を営む。(この付近までが伝統的建造物群
        保存地区)

           
         保福寺跡には「身代わり地蔵」があり、古くから庶民の信仰を集めていたが、明治初年、
        海潮寺に合併したという。寺の墓地には吉田松陰と密航を企てた金子重輔の墓がある。

           
           
         住宅街の中に「野山獄跡」があり、道を隔てて庶民が入る「岩倉獄」がある。元々は長
        州藩大組藩士・岩倉孫兵衛が酒に酔い、同じ大組藩士・野山六右衛門の屋敷に切り込むと
        いう事件が起きた。喧嘩両成敗ということで両家は取り潰しとなり、長州藩はその屋敷跡
        に牢獄を建てた。切り込んだ岩倉側に非があるとし、士分以外の庶民の牢が岩倉獄とされ
        た。(上段が野山獄) 

           
         常念寺は毛利輝元が萩城の築城時に宿舎にした寺。表門は京都の聚楽第の裏門として建
        てられたものを輝元が豊臣秀吉から拝領し、1633(寛永10)年に寄進、移築したとされ
        る。

           
         唐樋町に位置する高札場跡。萩と三田尻(防府)結ぶ萩往還道の起点となる場所である。

           
         高札場跡を南進すると萩バスセンターがある。


萩・土原の武家屋敷跡を巡る (萩市)

2019年10月26日 | 山口県萩市

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         土原(ひじはら)は東に松本川が流れ、その左岸の沖積デルタに立地し、中央部を国道19
        1号が走る。かつては静かな農村風景が見られたようだが、国道の開通により急速に発展
        する。
         地名の由来について、沼沢地であったが流砂土によって洲ができ、それが土取場になっ
        たので土原というようになったという説がある。(歩行
約3.5㎞)

          
         JR萩駅かから萩まぁーるバス(東回り)で本町バス停下車、市街地方向へ歩いて
次の信
        号を右折すると土原十日市筋。

           
         1865(慶応元)年11月幕府が第2次長州征討を発令したのに対し、萩藩は藩を挙げて
        抗戦する決意を固めた。
         1866年3月9日に藩儒宍戸備後介が、大義名分を書いて藩主の内覧を経て、書を3
        6万部木版印刷して藩内に配布した長防臣民合議書印刷所跡である。

         
           
         広沢真臣(1834-1871)は柏村家の4男としてこの地で生まれ、藩命により広沢を名乗り、
                第二次幕長戦争では長州側を代表して厳島で勝海舟と休戦講和を結ぶ。
         維新後は参与など歴任し、木戸孝允と共に重きをなしたが、1871(明治4)年1月東京
        麴町の私邸で暗殺される。この暗殺事件は迷宮入りとなり真相は今日まで不明である。

           
         戊辰戦争では会津落城に際し、山川健次郎(のちの東大総長)ら会津の少年を託され、書
        生とした奥平謙輔(1841-1876)の誕生地。
         明治期に政府の腐敗を憤り、1876(明治9)年に前原一誠らと萩の乱を起こすも敗れ斬
        首される。(碑は拘置所前)


           
         白根多助・専一の旧宅地跡。多助(1819-1882)は現山口市吉敷で太田直猷の7男として生
        まれ、白根家の養子となる。藩財政の維持に尽力し、維新後は明治政府に出仕し、埼玉県
        令などを務める。
         息子の専一(1850-1898)は、明治政府で内務官僚や貴族院などを歴任するが病没する。

           
         警察署前交差点の角に長井雅楽(うた)の旧宅地跡がある。雅楽(1819-1863)は開国論者で、
        1861(文久元)年に「航海遠略策」と名付けた開国貿易を基本とした公武合体論を建言す
        る。一時期は藩の動向を支配する力を持つが、攘夷派が勢力を盛り返すと激しい非難を受
        け、1863(文久3)年朝廷を誹謗した責めを負って自邸で自刃する。

           
         奥平家は大組士(300石)に属する中級武士であった。桁行26.65m、梁間5mの長
        屋門(表門)は江戸期末期に建てられたとみられ、門構えや4ヶ所に出格子窓など
が設けら
        れるなど、当初の形態を残しているとされる。

           
         藩政改革に手腕をふるった周布政之助(1823-1864)の旧宅地跡。攘夷運動を主導する一方、
        開国の時代に備え伊藤博文ら密航留学生5名をロンドンに送り出すが、政権交代により追
        い詰められて現山口市矢原の吉富邸にて自決する。(享年42歳)

           
         周布家の真向いは入江・野村兄弟の誕生地で、足軽の入江嘉伝次の子として生まれる。
        入江九一(1837-1864)は吉田松陰から高く評価され、松門四天王(久坂、高杉、吉田稔麿)の
        一人とされる。1864(元治元)年の「禁門の変」で戦死する。

         野村靖(1842-1909)は親戚の野村家を継承し、イギリス公使館焼き討ちに参加し、第二次
        幕長戦争でも活躍する。1871
(明治4)年には岩倉遣欧使節団に随行して、のちに内務・
        逓信大臣などを務めるが出張先の鎌倉で病没する。 

           
         井上勝(1843-1910)は「長州ファイブ」の一人として、1873(文久3)年イギリスへ密
        航留学する。鉄道建設に生涯を捧げ「日本の鉄道の父」と呼ばれた。鉄道院顧問として視
        察中のロンドンで客死する。2006年(平成18)年ワンコイントラスト運動で旧宅門が修
        復された。

           
         藩政末期に萩町奉行を務めた小川家は大組士(500石)に属し、長屋門は桁行27.39
        m、梁間6mで出格子窓と下見板張りの壁が組み合わされている。入口は袖付きの観音開
        きで、潜ると小さな中庭の先に長屋門珈琲「カフェ・ディカル」がある。

           
         左折した右手は楢崎彌八郎(1837-1865)の旧宅地跡。1862(文久2)年勅使・三条実実
        に随行して江戸に赴き、将軍に攘夷を迫るなど攘夷運動に奔走する。禁門の変に加わり、
        のち俗論派の手によって野山獄に投じられ、獄中にて斬罪された「甲子殉難十一烈士」の
        一人である。

           
         三叉路を右へ進むと、50mほどで前原一誠(1834-1876)の旧宅がある。

           
         前原は倒幕運動の志士として活躍し、維新後は参議などを勤め、大村益次郎死後は兵部
        大輔を勤める。大村の方針である「徴兵制」に反対したため木戸孝允と対立し、徴兵制を
        支持する山縣有朋に追われるように下野する。1876(明治9)年新政府に批判的な士族た
        ちを集めて「萩の乱」を起こしたが、敗れて斬首される。旧宅には晩年住んだ建物が現存
        するとのこと。

           
         三叉路まで戻って左手を進むと大和國之助(1835-1865)の旧宅跡。攘夷運動に奔走し、高
        杉晋作らとイギリス公使館の焼き討ちに参加する。8月の政変後は藩主などの復権に尽力
        するが、長州藩内の主導権を俗論派が握ると、野山獄に投じられ、獄中にて斬罪された「
        甲子殉難十一烈士」の一人である。

           
         この地には史跡などは少ないが、激動する時代の中で新しい時代を求め、若くして人生
        を終えた人々がいたことを記憶に留める地でもあった。

           
         JR東萩駅からバスでJR萩駅に移動する。


萩・川島は風情ある藍場川に旧湯川住宅 (萩市)

2019年10月26日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         川島は市街地の南東部、松本川と橋本川に挟まれた三角州の突端に位置することで地名
        の由来にもなっている。大半が住宅地で中央部を南東から北西にかけて藍場川が流れる。
        (歩行約3.3㎞)


           
         レトロなJR萩駅舎は、半円形のドーマー窓を有する白壁に、柱や梁が露出するハーフ
        ティンバー構造となっている。1925(大正14)年に開業した当時の佇まいを見ることが
        できる。(国登録有形文化財)

           
         懐かしい木製改札ラッチと、駅舎前には大正末期から昭和にかけての電話ボックスが復
        元されている。

           
         駅前から萩循環まぁーるバス(松陰先生)に乗車して椿町バス停で下車する。(100円)

           
         橋本橋を渡り右岸上流へ向かう。

           
         左手に厳島神社旧址之碑がある。

           
         鳥居左手の路地に入ると、山県有朋旧宅跡碑がある。松下村塾で学び、高杉晋作の奇兵
        隊に参加して明治維新に功績を挙げ、後に首相の座に2度就いた。

           
           
         山縣伊三郎(1858-1927)は勝津兼亮と山縣有朋の姉(壽子)の次男としてこの地に生まれた。 
        叔父・山県有朋の養子となり、内務官僚としてとして鉄道の国有化を進めた。(下段は20
        15年当時)

           
         阿武川が橋本川と松本川に分岐する場所が三角州の頭で。太鼓湾と呼ばれる藍場川への
        流入口がある。

           
         御山路神社跡となっているが、水害を防ぐ神が祀られていた。

           
         藍場川最上流にある旧湯川家。一段高くなっている石橋は、舟による荷物の運搬が行わ
        れた名残りとのこと。

           
         湯川家の表門橋。

           
         石橋を渡って屋敷内に入ると、川沿いに階段があって洗い物や水が汲めるようになって                  
        いるが、“ハトバ”と呼ばれている。

           
         湯川家は禄高23石の武士だったそうだが、座敷や茶室などが用意されている。明治初
        期に改築されているとのことで、それ以前の建物だとされる。

           
         この屋敷は藍場川の水を管理する屋敷で、古地図には「樋番(水の番人)」と記されてい
        るとか。
         また、池泉式庭園は水量を見るためのもので、これにより流す量を監視していたとされ
        る。

           
         首相の座に3度就いた桂太郎(1848-1913)
は、1847(弘化4)年に平安古(ひやこ)で生ま
        れる。3歳の時に川島へ移り住んだ思い出の場所に、1909(明治42)年に現在の家屋を
        新築する。

           
           
         1744(延亨元)年に小溝を開削して拡幅された藍場川は、阿武川と新堀川を結ぶ全長2
        ,415.6mの水路で、農業用水、防火用水、物資運搬の舟運に利用された。

           
         
                 藍場川沿いの筋かえ橋を渡り、少し進むと右手に臨済宗・善福寺がある。1429(永亨
          元)
年指月山麓に創建されたが、萩城築城のためこの地に移された。
ためこの地に移された。       
         
           
         境内には江戸初期の武将で茶人・古田織部(1543-1615)が考案した織部燈籠がある。十字
        架に似た形状からキリシタン燈籠とも云われる。

           
         萩の歌人・竹内八郎(1899-1974)は萩の浜崎で生まれ、同志社大学を卒業して銀行勤務を
        経て、地元の高校教員となり県内の歌誌などに参加する。碑には「家ごとに 池を構へて
         水を引き 朝夕清き 藍場川流る“とある。

           
         国道262号線を横断して小橋筋に入ると、直線的に藍場川が流れる。

           
         林百非(ひゃくひ・1796-1851)はこの地に生まれる。萩藩士で南画家、兵学者で幼少期の吉
        田松陰に軍学を指
導した人物である。

           
         心地よい水辺空間である。

           
         山県有朋の旧宅地で、汲月堂とは父・有稔(ありとし)の書斎の号で、有朋が文武に励んだ
        家跡でもある。
         藍場川に沿うと県道64号線(萩三隅線)に出会う。まぁーるバス橋本町バス停よりバス
        センターで下車し、JR新山口駅行きのバスに乗車する。
   


山口市徳地の鯖河内に重源上人創建の寺と天神の滝 

2019年10月17日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         鯖河内は島地川支流である串川上流域の山間部に位置し、川の南側を県道9号線(徳山徳
        地線)が走り、川北の旧道に沿って集落が形成されている。
         風土注進案には「串鯖河内村」とあるが、明治になって分かれて独立した、1889(明治
            22)
年の町村制施行により、再び両村および巣山村と合併して串村になる。佐波郡徳地町を
        経て、現在は山口市徳地鯖河内である。(歩行約5.1㎞)

        
         
バス便があるものの利便性が悪いため車での対応とし、安養地バス停の広場に駐車する。

        
         法光寺(曹洞宗)は、鎌倉期の1186(文治2)年奈良東大寺再興のため、この地に下向し
        た俊乗坊重源上人が杣事業の拠点として安養寺を創建する。明治初年に域内にあった正法
        山楞厳庵と鶯梅山林光寺を合併して現寺号となる。


        
         石造十三重塔は重源上人がこの地に用材を求めた際、「天下泰平、国家鎮護、杣事業の
        安全」を祈願し、大般若経の一字一石の写経を埋めて塔を建てたと伝えられている。この
        塔は鎌倉後期のものとされる。(市指定文化財)


        
         法光寺阿弥陀堂には木造阿弥陀如来座像他4躯が安置されている。安養寺創建とともに
        造られたもので、この像の年輪が東大寺の仁王像(国宝)の年輪と同じということがわかっ
        たとのこと。(住職談)


        
         重源上人800回忌供養のため、東大寺にある重源供養塔の3分の2で表現されている。
        (2005年建立)


        
         急な石段を上がると白山神社で農業の神とされる。

        
         谷筋に安養地集落。

        
         バス停から串川上流へ向かう。(右手は串小学校)

        
         右手奥には大きな農家住宅(T邸)

        
         右手の太陽光発電設置地に串村役場があったとのこと。

        
         向い側にある集会所は旧郵便局の建物が活用されており、当時はこの付近が串村の中心
        地であった。

        
        
         さらに串川上流へ向かうと向河内橋。

         
        この先の上角(こうづの)集落は山間の小さな集落である。

        
         県道9号線の足谷橋で旧道に入ると、緩やかな上り坂である。

        
         ひっそりと佇む集落内で人影を見ることはない。

        
         会えたのはネコさんだけでだった。 

        
         流れる沢音のみが聞える。

        
         藁を保存するために「としゃく」が作られているが、この原風景も数年先には見ること
        ができないかも‥

        
         二宮金次郎の像が残る元串小学校跡地は、公共機関などの複合施設になっている。

        
         廃止された串保育園。

        
         河岸段丘の地に建つ民家(K邸)も無住である。

        
         酒店だった田中邸も傷みが進んでいる。

        
         天神の滝まで足を延ばす。

        
         薄暗い道を上って行くと滝ヶ迫集落があり、やっと高齢男性に出会える。「生活するの
        には車が不可欠。車がないと生活ができず町に移住する以外に方法がなく、いずれは集落
        が消えるであろう」と、実情を話してくれる。

        
         さらに上って行くと滝入口の案内がある。

        
         天神の滝の由来は不明のようだが、滝上に防府天満宮から勧請した祠があるそうだ。滝
                の高さは約20mで、地元住民の手によって再生された。右手の階段を上がれば林道に出
                ることができる。

        
         再び法光寺を眺めて集落を離れる。


山口市徳地の八坂は旧石州街道(三田尻街道)沿いに集落

2019年10月15日 | 山口県山口市

            
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         八坂は西部を佐波川が大きく湾曲し、東部から三谷川が地内で佐波川に合流する。佐波
        川の左岸を国道489号線が走り、旧道は防府と石州を結ぶ街道であった。地名について
        川の傍で坂というものはなくはっきりしないという。
(歩行約3.4㎞) 

           
         堀バス停から防長バス佐波川行きバスに乗車して、横野バス停で下車する。

           
         下八坂集落には庭の広い農家住宅が旧道に沿う。

           
         右手に妙見社の大イチョウを案内する木柱がある。

           
         土蔵の先に大イチョウが見えてくる。

           
         鎌倉期の1244(寛元2)年に創建された妙見社が、火災により焼失した際に植えられた
        と伝えられている。樹齢700年余りと推定され、高さ37m、目通り幹回りは約12m
        の巨樹である。
         遠方からよく望まれるため、昔はこの樹の黄葉によって麦の蒔きつけ時期を知ったとい
        う。

           
         災難を取り除き、人の寿命を延ばす福徳があるとされる妙見社。

           
         長閑な里風景が広がる。

           
         旧石州街道であるが石碑等は少ない。(猿田彦と地蔵尊) 

           
         一旦、国道489号線に出て、右手の旧三谷川商店街に入る。

           
         1955(昭和30)年代には右手に旧農協や中国電力の散宿所があった。

           
         洋品店、豆腐屋、精肉店などが建ち並んでいた界隈。

           
         当時の面影は失われている。

           
         三谷川手前の左手には、料理屋だった看板が残されているが、いつ頃まで営業されてい
        たのだろうか。

           
         隣はタクシー営業されていたようで車庫が現存する。

           
         三谷川に架かる三谷川橋。

           
         郵便局、派出所は三谷川の南側に移転しているが、過去の中心地はこの先にも続く。

           
         この付近に医院2軒と薬局があったとされる。

           
         有近家住宅の対面には、映画館と3軒の旅館があったようだ。(旅館は看板もあって営
        業されているようだ) 

           
         有近家(国重要文化財)は江戸時代から酒造業を営むとともに、明治時代には周辺の農地
        や山林を所有する当地方有数の地主であった。

           
         1892(明治25)年築の主屋は街道に面して建てられたが、1924(大正13)年に曳屋
        して現在地に移したとされ、現在の屋敷構えが整えられた。
         1933(昭和8)
年には防府の毛利本邸を手本にしたとされる表座敷が増築された。(左か
        ら長屋、漬物小屋、米蔵)

           
         醸造場の敷地最奥に建つ長大な仕込蔵及び留蔵は、1923(大正12)年の建築である。

           
         1889(明治22)年町村制施行により、三谷村、八坂村、引谷村、船路村が合併して八
        坂村となり、この地に村役場が置かれた。

           
         村役場の対面に鍛冶屋、新聞屋、米屋などがあったが、現在は空地となっている。

           
         警察派出所だったとされる建物である。

           
         酒店だったのか下田日進堂の看板が残る。右の空地には防石バス八坂駅があった。

           
         地蔵堂の先に水路。

           
         理髪店だった先に大歳神社。

           
         八坂小学校のある集落に入る。

           
         妙壽院の山門(曹洞宗)

           
         茅葺き屋根をもつ山門は、高さ約6m、幅約7m、奥行きが約5mで、2012(平成2
        )年に屋根修理が行われた。

           
         天文年間(1532-1555)に大内氏の家老・陶興房が創建し、当初は大幻院と称し
ていた。

           
         墓標のようなものが並べられているが、案内板もなくわからないままとなる。

           
         国道に合わすと正面に旧八坂中学校。

           
         佐波川右岸を散策する予定であったが、佐波川沿いに道がないことが判明し、サッカー
        広場バス停より堀バス停に戻る。  


大津市の坂本は寺群と日吉大社のまち 

2019年10月10日 | その他県外

             
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         坂本は大津市の北部、延暦寺および日吉神社の門前町として栄えた町。1889(明治2
          2)
年町村制施行により、坂本村と穴太村の2村が合併して改めて坂本村となる。その後、
        昭和の大合併で大津市に編入されて今日に至る。(歩行約4.5㎞)


        
         1974(昭和49)年湖西線が開通すると同時に叡山駅として開業し、1994(平成6)
        9月比叡山坂本駅に改称する。

        
         駅から京阪電鉄・坂本比叡山駅までは、約740mの距離である。

        
         日吉大社一ノ鳥居傍には、日吉大社の門を守る神・大神門(だいしんもん)神社がある。

        
         通りには古い町家も見られる。(蔵は置き屋根形式)

        
         江戸時代には延暦寺の僧侶でありながら、妻帯と名字帯刀が認められた「公人(くにん)
        と呼ばれる人々が住んでいた。その住居のひとつが旧岡本邸である。(有料施設)

        
         御田(みた)神社の由緒によると、古い時代から大きな井戸が信仰の対象とされ、神社とい
        う形態より以前から農耕祭祀が行われたのが神社の起源だとされる。社殿は一間社流造で、
        入口の井戸に注連縄があるので信仰の対象物と思われる。 

        
         生源寺(しょうげんじ)は伝教大師・最澄が、奈良期の767(神護景雲元)年8月18日この
        地で生まれたと伝わる場所に建立された。
         1571(元亀2)年織田信長の比叡山焼き討ちで全焼し、現在の本堂は1595(元禄4)
        年に再建されたものである。

        
         大将軍神社の創祀年代は不詳のようであるが、日吉大社境外108社の1社である。天
        台宗開祖の伝教大師の産土神であり、坂本中の総社である。

        
         坂本の蕎麦は比叡山の修行僧の滋養源として育てられてきた。1716(享保元)年創業と
        いう歴史ある鶴㐂そば屋さんは、築130年とされる入母屋造りの建物で、国の登録有形
        文化財に指定されている。

        
         この辺りにあった南大寺が火事で焼失し、その後に造られた道というのが「作り道」の
        由来である。参拝者の宿が軒を連ねていた作り道には、今も古い町家が建ち並んでいる。

        
         折りたたみ式縁台(ばったり床几)が備え付けてある。

        
         御殿馬場入口にある榊宮社(さかきのみやしろ)の創建は、日吉大社の創建と同時期であると
        される。日吉大社山王祭では天孫神社から曳いてきた神籬(ひもろぎ)の榊が、ここに留め置
        かれ、日吉の社殿前から大宮の社殿前へ参進する慣習になっているという。

        
         昔は皇族が天台座主になる場合が多かったので、滋賀院が重要な役割を果たしていた。
        今も現天皇の健康を祈願するため、御衣(天皇の着物)をお迎えして、山上の根本中堂でお
        祈りをする行事が、毎年4月が行われている。この御衣が通る道であるので御殿馬場と呼
        ばれる。

        
         両脇は「穴太石積み」といわれる石積みが続く。

        
        
         坂本の里坊の中では、特に格式の高いのが滋賀院門跡とされる。165(元和元)年慈眼大
        師天海が後陽成上皇から京都御所の建物を賜り移築したもので、江戸末期まで天台座主の
        居所であった。

        
         天台宗務所を過ごすと権現馬場に出る。

        
         日吉東照宮に通じる権現馬場は、両脇に里坊が建ち並んでいる。見返れば琵琶湖を見る
        ことができる。

        
         滋眼堂(じげんどう)は比叡山の再興に尽くした天海大僧正(?-1643)の廟所であり、境内に
        は新田義貞や紫式部、清少納言の供養塔などもある。 

        
         1646(正保3)年建立の本堂は、虹梁(こうりょう)や火灯窓、床を張らない江戸初期の禅
        宗様式を基本としている。

        
        
         1623(元和9)年に3代将軍徳川家光が京都に上洛した際、日吉東照宮創建の命を受け
        た天海上人が徳川家康の御霊を祀るため、日光東照宮の雛型として創建する。その際に本
        殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式が用いられた。この年に日光東照宮の社殿改築が
        始められている。

        
         この社殿様式を基本にして、日光東照宮が創建されたといわれている。延暦寺の末寺だ
        ったが神仏分離令により、日吉大社の末社となり現在に至っている。(社殿と唐門、透塀が
        国指定重要文化財)

        
         日吉大社に向かうと右手の霊山院は、延暦寺の僧侶隠居所であった里坊とのこと。

        
         六角地蔵堂は、日吉大社の摂社である早尾神社の参道沿いにあり、正式には早尾地蔵尊
        である。本尊である石地蔵尊は、伝教大師最澄上人の自作と伝えられている。

        
         第3世天台座主・安恵が里坊として創建し、第18世座主の良源(元三大師)が、入山修
        行の決意を固めた地であることから「求法寺」と名付けられた。

        
         日吉大社参道の大宮川に架かる大宮橋は、木造橋の形式をそのまま用いた反橋である。
        両側に格座間(こうざま)を掘り抜いた勾欄が取り付けてある。もとは木橋であったが、16
        69(寛文9)年石橋に造り替えられたといわれる。(国重要文化財)

        
         山王鳥居は神仏習合の信仰を表す独自の形をしているため、合掌鳥居とも呼ばれている。
        日吉大社の創建は不明とされ、紀元前70(崇神天皇7)年に日枝山の山頂から現在地に移さ
        れたという。全国3,800の分霊社(日吉、日枝、山王神社)の総本宮である。

        
         西本宮楼門は、二階建てで階上に縁があり、入母屋造りの檜皮葺き建物である。158
        6(天正14)年頃とされているが、正確な時期はわからないという。(国重要文化財)

        
         楼門の四隅の棟木には神猿(まさる)が、屋根を支えるように楼門を守っている。お猿さん
        は神様の使いで「神猿」と呼ばれ、「魔が去る。何よりも勝る」として縁起のよいものと
        されてきた。

        
         西本宮拝殿は吹さらしの舞殿形式で、祈祷などの神事が行われる。1586(天正14)
        に建てられたもので国重要文化財に指定されている。

        
         織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社もすべて焼かれてしまう。現在の西本宮本殿
        は、1597(慶長2)年築とされる。後方の軒が短く、軒先がⅯ字型の断面を呈する日吉造
        りとされる。(国重要文化財)

        
         白山宮も織田信長の比叡山焼き討ち後、1598(慶長3)年に本殿が再建されたが、三間
        社流造りの檜皮葺きで、装飾金具が少なく簡素で地味な建物である。(国重要文化財)

        
         東本宮楼門は三間一戸で入母屋造りの桧皮葺である。様式は西本宮楼門と同じようだが、
        一階部分が高く、二階部分が低い形式となっている。

        
         東本宮本殿は織田信長焼き討ち後、1595(文禄4)年に再建されたが、西本宮より9年
        後である。様式は西本宮と同じ日吉造りで、国宝に指定されている。

        
         東本宮を出て坂を下る途中に、猿のような石が見送ってくれる。

        
         止観院も延暦寺の僧侶の隠居所であった里坊の一つとのこと。

        
         日吉馬場の両側には石垣を構えた里坊が連なる。

        
         律院山門屋根には唐獅子の飾り瓦。

        
         穴太衆の技術による石垣が際立つところである。比叡山で修業を積んだ僧侶たちが天台
        座主の許しを得て、住む込む隠居坊(里坊)がびっしりと並んでいる。

        
         里坊の入口の門は石垣から少し後退し、石垣に変化を与えている。里坊の門の大半は薬
        医門であるが、なかには優雅な曲線をみせる向唐門もある。

        
         帰リは坂本比叡山口駅バス停からJR比叡山坂本駅に戻る。


滋賀の長浜は琵琶湖北の城下町 (滋賀県長浜市)

2019年10月09日 | その他県外

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         長浜は姉川によって形成された扇状沖積平野に位置し、西は琵琶湖に面する。地名の由
        来は坂田郡誌によると「古之今浜なりしに天正2年、羽柴秀吉古城修築し、江北の政所と
        なし時、武運長久を祝し長浜と改む」とある。(歩行約4.8㎞)

        
         2006(平成18)年に完成した橋上駅のJR長浜駅は、初代駅舎をモチーフにデザイン
        された。

        
         駅西口から線路に沿うと旧長浜駅。現在は鉄道資料館として活用されている。

        
         1882(明治15)年完成の敦賀線の駅舎で、現存する開業当時の駅舎では最古である。
        東海道本線が全通するまでは、長浜ー大津間は連絡船が運行されていた。

        
         当時の待合室や出札口を人形で再現されている。

                
             中庭には旧長浜駅29号分岐器ポイント部(鉄道記念物)もある。

        
         この建物の裏側には、長浜の鉄道史に関する鉄道文化館があり、D51蒸気機関車、E
        D70型交流機関車が保存展示されている。

        
        文明開化を伝えるイギリス式駅舎の窓には、煉瓦がはめ込まれている。
      
        
         旧長浜駅の向かい側には、長浜の迎賓館「慶雲館」がある。1886(明治19)年実業家
        の浅見又蔵が明治天皇の京都行幸計画を知った際、航路から鉄道に乗り換える時間に滞留
        する施設がないことに気付く
。自ら所有する地に行在所を私費で建設したが、工事は同年
        11月3日から翌年の2月21日の朝に完成する。同日13時前に長浜港に到着され、同
        館で昼食休憩された後、13時45分の列車に乗車されたという。建物などは長浜市に寄
        贈されて一般公開されている。

        
         あさひ橋の先に長浜浪漫ビール。

        
         湖上交通の拠点だった長浜は、木造船の廃材を利用した舟板塀(壁)が見られる。舟板は
        水に浸けられていたので雨水などに強く、防火の役目も果たしている。

        
        四差路に「北こく道」と「下舟町」の標柱がある。

        
         玄関先に馬を繋いだという石「馬つなぎ石」が残されている。廻船問屋時代に荷物を運
        んで来た馬や、船から下ろした荷物を積む馬を繋いだとされる。

        
         北国街道筋に蔵の宿「旗籠(はたご)白忠」がある。江戸期に白木屋忠左衛門が創業した油
        問屋「白忠」の町家を宿に再生したという。

        
         北国街道を北進する。

        
         長浜幼稚園の地には、本陣を務めた吉川三右衛門の屋敷があったとされる。長浜は主要
        な参勤交代のルートから外れたものの、大名行列が通る際には、本陣として休憩所をを提
        供する。

        
         見どころの多い長浜の中で、古い町家が並ぶのは北国街道沿い。

        
         安藤家は賤ケ岳合戦で秀吉方に協力し、長浜の自治を委ねる「十人衆」として長浜の発
        展に尽力する。江戸期は十人衆の筆頭である三年寄として活躍する。明治以降は商人とな
        り呉服問屋を営む。

        
         北大路魯山人が長浜に逗留中に残した篆刻看板。九尺の一枚板に「呉服」と彫られてい
        る。

        
         1905(明治38)年から土蔵、本屋、書院と建てられ、1915(大正4)年に全館が完成
        する。「古翠園」と名付けられた池泉回遊式庭園は、どの部屋からも眺められるように設
        計されている。

        
         千鳥破風を載せた望楼は浄琳寺の太鼓櫓。もとは天台宗だったが小谷城落城後、尊勝寺
        から移転する。街道に面して門があるが非公開のため閉ざされている。

            
         黒壁7號館古美術の西川(手前)と、隣は8號館の翼果楼。

          
         札ノ辻の東北角に建つ黒壁ガラス館は、1900(明治33)年築の第百三十銀行長浜支店
        の建物で、その壁が黒塗りだったので「黒壁銀行」と呼ばれていた。

        
         市街地の中心部を東西に走る大手門通り。

        
         「長浜のっぺいうどん」は長浜付近で昔から親しまれている郷土料理で、出汁に片栗粉
        を混ぜた餡かけを、茹で上ったうどんにかける。具には、味を含ませた特大の椎茸に、麩、
        みつ葉などを加え、土生姜がトッピングされている。(茂美志屋さん)

        
         土田金物店跡は「まちづくり役場」として再利用されている。

        
         大手門通りに面する曳山博物館は、長浜八幡宮の祭礼で使用される曳山2基が展示され
        ている。

         
         左の月宮殿は重層で上の層は六角円堂、下層は方形となっている。1785(天明5)年作
        とされる。右の春日山は四
柱造りのむくり屋根で、上・中・下の三つの部分に分かれてい
        る。建造年代は不詳とのこと。

        
         大手門通りから表参道へ曲がる手前にある文泉堂(本屋)さん。

        
         御防表参道を右折して宮町通りを直進する。

        
         宮町通りと国道8号線が交差する角に道標があり、多にくみ(谷汲)道と刻まれている。
        谷汲とは西国三十三ヶ所巡礼の谷汲山華厳寺のことで、ここから東へ進んで岐阜県に入る
        道のようだ。

        
         長浜八幡宮参道入口。

        
         平安期の1069(延久元)年源義家が後三条天皇の勅願を受け、石清水八幡宮より勧請す
        る。八幡宮としては珍しい神明造の本殿となっている。

        
         大通寺表参道には大通寺(御坊)移転の功労者「お花ぎつね」のオプジェがある。江戸初
        期頃には長浜城跡に
あったが、賑やかな場所に移転させる運動が起こる。賛否両論があり
        京都総本山(東本願寺)にお伺いを立てるため、双方が出向くことになる。
         賛成派は舟、反対派は陸路で京都に上がることとし、反対派は野洲(やす)の茶店でお花さ
        んという優しい娘が接待してくれたので、気に入って酒を飲んで酔いつぶれる。翌日は野
        洲川が大水で、引くこと5日待って京都に入るが、すでに賛成派が裁可を得ていた。反対
        派の人々が往路を引き返すと、茶店は跡形もなく妖術で茶店に滞在させて遅らせたという。
        (昔話)

        
         大通寺山門から南に続く御坊表参道。石畳が敷かれ、両側には白壁に格子窓の町家が並
        ぶ。

        
         1808(文化5)年に起工して、33年後(1841年)に完成した総ケヤキ造りの大通寺
        山門。

        
         天正年間(1573-1592)頃にできた寄合道場を起源とする真宗大谷派の長浜別院で、「御
        坊さん」と呼び親しまれている。境内には伏見城の殿舎を移した本堂、玄関、大広間と舎
        山軒、蘭亭など国重文の建物が並んでいる。

        
         大広間(国重文)は書院造りで、床、帳台構、違い棚、付書などが上段の間に並べられて
        いる。

        
         書院の新御座には狩野永岳筆の琴棋書画図。下段12面には江戸後期に京都で活躍した
        岸駒(がんく)筆の金地墨画梅之図。

        
         脇門は旧長浜城の追手門と伝える。

        
         ゆう壱番街通りの親玉本店界隈。

        
         黒壁11號館のステンドグラス館と2階は太閤ひょうたん。

        
         賑わいのある黒壁ガラス館(札ノ辻)付近にある蔵。

        
         右手に滋賀の食品などを販売する黒壁5號館(黒壁アミス)。

        
         豊臣秀吉の没後、その遺徳を偲んで町民たちが建てた豊国神社。徳川幕府から取り壊し
        を命じられたが、商売の神・恵比寿宮を前立して、奥にひっそりと像を祀って江戸時代を
        過ごしたとされる。

        
         内堀と二重の外堀との間には家来の屋敷があった。
 
        
         織田信長から小谷城を与えられ、湖北3郡の城主となった豊臣秀吉が、1574(天正2)
        年に長浜城を築城する。

        
        博物館には築城の様子が描かれている。

        
         天守より長浜の町並み。

        
         城の用水に使われていた井戸は、いくつかあったようだが、その一つとして「太閤井戸
        」があった。天守台下の琵琶湖岸にあり、厚さ3mぐらいの板で囲まれていたとのこと。

        
         江戸初期の一国一城政策で廃城となったが、1983(昭和58)年秀吉時代を想定した天
        守閣が建てられた。

        
         駅西口にある御馬屋跡の碑。


木之本は北国街道筋に町家が並ぶ (長浜市)

2019年10月09日 | その他県外

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         木之本は湖北平野の北縁、田上山南麓の小規模な扇状地に立地する。木之本地蔵で知ら
        れる
時宗・浄信寺の門前町として発展し、門前を北国街道が南北に通り、北国脇街道が南
        へ分岐する交通の要衝であった。(歩行約2㎞)

           
         1882(明治15)年に長浜駅と柳瀬駅間の開通により木ノ本駅が開業する。2006(
                   成18)
年に橋上駅舎に改築されるとともに、旧駅舎より北寄りに移動する。

           
         駅を出ると線路に沿って「石畳の道」へ向かう。

           
         アーバン銀行前を左折して地蔵坂(石畳通り)を緩やかに上って行く。

           
         ベンガラ塗りの格子が美しい「Book Caféすくらむ」さん。

           
         次の角を右折して路地を入ると「くつわの森」があり、ウワミズサクラに似た花が咲く
        「イヌザクラ」の巨木がある。(市指定の天然記念物)

           
         お菓子屋さんが並ぶ町家。

           
         坂を上がって行くと正面に時宗の浄信寺がある。

           
         日本三大地蔵の一つで、眼病守護の仏様には参詣者が絶えない。また、賤ケ岳合戦にお
        いて秀吉軍の本陣が置かれた寺でもある。

           
         標柱には「木之本 札ノ辻跡」とあるが、往来の多い地に、藩が法令または公示事項を
        民衆に周知するために、高札を立てたので札の辻と呼ばれる。

           
         古い町家が残っている。

        
         木之本宿の本陣だった竹内五左衛門邸。
    
           
         竹内家は薬局を営み、1893(明治26)年に日本薬剤師免状の第1号を取得されている。
        軒先には薬の看板がずらりとぶら下げられている。

           
         冨田家は近江国守護職の京極家に仕える武家だったが、1533(天文2)年に京極家が没
        落すると当地に移り住み、造り酒屋を営む傍ら庄屋を務めた。明治天皇北陸の際は岩倉具
        視が宿泊する。建物は、1744(延亨元)年築とされる。

           
         蓮如上人ゆかりの明楽寺(真宗大谷派)は、鎌倉期の建久年間(1190-1199)に山城国安井村
        (現京都市右京区)創建され、当初は真言宗の寺であった。
1391(明徳2)年現在地に移り、
        1595(文禄4)年に改宗する。
         境内に蓮如上人腰掛説法石があり、山門の右手には入母屋、桟瓦葺きの太鼓櫓がある。
        (本堂改修中)

           
         江戸末期創業の醤油屋さん。看板も創業当時を踏襲して右書きスタイルである。

           
         問屋を営んだいた藤田庄左衛門宅跡には、明治以降に旧江北銀行の建物が建てられる。
        その後、警察署、滋賀銀行と変遷したが、元銀行のレトロな建物は「きのもと交流館」と
        して活用されている。

           
         袖壁が目立つようになると、南木之本村の庄屋だった竹本家と右手は岩根醤油店。

           
         1852(嘉永5)年創業のダイコウ醤油店。

           
           
         街道を南に歩くとT字路になり、北国街道と北国脇街道が分岐する。道標には「みぎ京
        いせみち ひだり江戸なごや道」とある。北国街道は鳥居本で中山道に合わし、往還道は
        関ヶ原、大垣に連絡する。

           
         札ノ辻まで戻ると、木之本地蔵院前に菓子乃蔵・角屋さん。

           
         袖壁が付けられた町家が続く。

           
         元庄屋だった上坂家は、1847(弘化4)年に建てられ、一階には千本格子が施されてい
        る。

           
         北国街道南側の街並み。

           
           
         1532(天文元)年創業の造り酒屋である山路酒造さんは、宿場町時代には脇本陣や伝馬
        所も務めていた。格式ある表門の当時の繁栄を物語っている。

           
           
         「馬宿平四郎」の看板がある町家の隣には、木ノ本牛馬市跡の石碑が立っている。昭和
        の始め頃まで年2回の牛馬市が開かれ、街道沿いの民家が馬宿となっていたという。平四
        郎家も古くから馬宿として、多くの牛馬を取引していたとされる。
         戦国時代の武将、後に土佐藩主となる山内一豊が妻の内助の功により得た名馬は、ここ
        で買われたと伝えられる。

           
         2階屋根の受け梁を漆喰で塗り籠めたように見える町家。

           
         向かい側も同じような造りとなっている。

           
           
         旧街道から駅へ向かうと、余呉町出身の弁護士・杉野文彌が、1902(明治35)年に創
        設した「杉野文庫」を前身とした江北図書館がある。
         1937(昭和12)年に建てられた建物は、100年以上にわたって民間の力で運営され
        てきたとか。
         短い歩きであったが、北国街道筋の木之本宿は情緒にあふれ、見応えのある町並みであ
        った。