ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市吉見は旧山陽道沿いの集落 

2021年05月14日 | 山口県宇部市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         吉見(よしみ)は厚東川と同支流の大坪川が合流する地域で、厚東川中流域の低地に位置す
        る。往古、吉見氏の住居があったことから地名となる。(歩行約5km)

        
         JR厚東駅は、1900(明治33)年船木駅として開業する。後に厚東駅と改称したが、
        新幹線の開通に伴い新幹線の高架下に移転する。(🚻使用不可)

        
         駅前の先が国道2号線。

        
         国道2号線を小郡方面へ進むと、山手側に進入道がある。 


        
         浄土真宗の円生(えんしょう)寺は、1873(明治6)年地内にあった西生寺と西円寺が合併
        する。西生寺は厚東氏の建立した持世寺ゆかりの寺として存続していた寺であった。

        
         寺の裏道を下ると県道宇部美祢線。

        
         麦畑の道を西進する。

        
         集落内で旧山陽道と合わす。この付近の街道は、参勤交代や役人・武士の通る「官道」
        で、一般庶民は厚東川沿いの「わき道」を利用していた。
         このため、「殿さまだけが通る道」が訛って「どんだけ道」といわれるようになった。

        
         旧山陽道は国道2号線に合流する。

        
         厚東川中学校の校門前辺りに吉見氏館があったと推定されている。津和野吉見氏と吉見
        村の関係は、吉見氏の先知行地であったとされる。

        
        
         正覚寺(真宗)は、寛正年間(1460-1466)地内の下岡に真言宗として創建されたが、15
        36(天文5)年大洪水によって被害に遭い、一切を流失したので現在地に移転。のちに浄土
        真宗に改宗された。

        
         街道から離れて山手に入ってみる。

        
         集落は国道2号沿線に集中する。

        
         石碑は破損してコンクリートで補修されているが、何の碑かは知り得なかった。

        
         尾越の坂道から狭い道を過ごすと国道2号線に出る。

        
         下岡交差点で国道下り側に移動。

        
         交差点から国道に沿うと、旧山陽道は左に分岐する。

        
         厚東川の左岸東方にある霜降岳には、山頂に厚東氏が築城したと伝える古城跡がある。
        築城年代は正確には明らかでないようで、地下(じげ)上申や風土注進案などは、厚東氏7代
        武光(平安末期から鎌倉初期)の頃としている。

        
         旧山陽道を道なり進むと、左折する道に出会う。

        
         左折すると左手に田地へ下る道がある。

        
         萱曲(かやまがり)古墳は直径約13mの小円墳で、玄室と小さな前室に短い羨道をもつ横
        穴式石室墳がある。古墳時代後期のものとされ、この地方の有力な豪族が埋葬されたこと
        がうかがえると説明されている


        
         県道と山陽本線下岡踏切を横断して持世寺温泉へ向かう。

        
         厚東川手前で下岡集落に入る。

        
         下岡神社の創建は鎌倉期の1289(正応2)年とされ、1868(明治元)まで疫神社と称
        した。当社は旧吉見村の総鎮守で、祭礼では「おはぎ神事」という特有の神事が伝承され
        ている。

        
         神社参道から畦道と思われる荒道を進む。

        
         山陽本線と新幹線の橋梁を潜る。

        
         1900(明治33)年山陽鉄道が敷設した赤い煉瓦積みが残されている。 

        
         新幹線下を歩けばJR厚東駅に戻ることができる。


岩国市美川町の椋野は清流線沿いの小さな集落 

2021年05月06日 | 山口県岩国市

        
                      この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         深い谷を形成する中を錦川が東南流し、わずかな平地に椋野(むくの)集落がある。(歩行
        約0.5km)

        
         椋野は四馬神、根笠、南桑と違って、国道筋に集落はなく椋野橋を渡った駅周辺に集落
        を形成している。

        
         Ⅿ商店前の橋梁を潜る。

        
         1960(昭和35)年岩日線の椋野駅として開業するが、単式ホーム1面1線である。

        
         集落は線路で2分されている。

        
         傾斜地に石積みして屋敷地を確保し、細い階段道で家々が結ばれている。

        
         駅北の橋梁を潜り線路に沿う。

        
         次の橋梁を潜ると鳥居が見えてくるが、付近の民家は無住状態である。

        
         河内神社の創建年代や由緒は知り得ず。

        
        
         再び駅前に戻って線路の山手側を歩く。(旧町道滝山線)

        
         鉄橋を潜ると川岸の家々。

        
         線路の山手側とは対照的に区画化された中に民家が並ぶ。1983(昭和58)年当時の美
        川町が開発施策として手掛けた団地のようである。


岩国市の南桑はカジカカエルの生息地

2021年05月06日 | 山口県岩国市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         南桑(なぐわ)は中央を錦川が深い谷を形成して東南流し、地形は急峻で平地は極めて少な
        い。集落は錦川の沿岸及び見上げるような山の中腹に点在する。(歩行約2.9km)

        
        
         南桑駅と集落を結ぶ南桑橋。

        
         南桑駅は,1960(昭和35)年岩日線の駅として開業する。カジカカエルの生息地で夏に
        は川面から鳴き声が聞こえるとか。

        
        
         谷筋を錦川が中央を貫流するため、当地を含めた川沿いの集落は、岩国までの主要な交
        通路はなかった。人も物資も人や馬の背によって川筋まで運び川舟を利用した。

        
         川上から川下に向かって国道筋を歩く。

        
         民家の後背地に山が迫る。

        
        
         生活交通バス上柏川バス停付近は、ほぼ等間隔の家並みである。

        
         橋付近に旅館や商店だった名残りが見られる。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、南桑村と根笠村で桑根村が発足する。この地
        (南桑基幹集落センター)に村役場が置かれ、1955(昭和30)年まで村の中心地であった。

        
         センター付近に藩政期には御紙見取所、紙蔵、同見取会所などがあって、山代宰判の貢
        納紙の見取りが行われた。
         収納された紙は川舟によって河口の今津の紙蔵に収められ、海路で大坂市場に輸送され
        販売された。南桑に山代地方の紙蔵が置かれたのは、いうまでもなく運送の便によるもの
        である。
         1872(明治5)年学制が発布されると、翌年4月会所を仮校舎として南桑小学が開校す
        る。

        
         佐手集落まで足を延ばそうとしたが、急坂が延々と続くので学校が見える所でUターン
        する。

        
         国道と山裾の間に細い裏道がある。

        
         茲光寺(真宗)は、1899(明治32)年周東町高森にある受光寺の説教所として設置され
        たもので、1941(昭和16)年説教所から独立する。 

        
        
         清流線の車両は清流のブルー、桜のピンク、蛍の光のイエロー、森林グリーンのキャラ
        クター列車となっている。蛍の光であるイエロー(愛称はきらめき号)を見送って川下へ向
        かう。

        
        
         F医院近くの民家。

        
         カワツツジ、錦川がデザインされた仕切弁。

        
         片山酒場付近の家並み。

        
        
         古くは三斎大明神と称していたが、1871(明治4)年河内神社と改称する。創祀は正嘉
        年中(1257-1258)で、1732(享保17)年冷夏と害虫による大飢饉は、南桑地域でも多数
        の死者が出た。この死者の鎮魂と豊作を祈願して、1734(享保19)年9月に鳥居が建立
        された。

        
         1951(昭和26)年10月のルース台風で死者・行方不明73名、けが人359名、家
        屋喪失295世帯という甚大な被害を受けた。小学校敷地内に災害記念碑が建てられてい
        る。

        
         神社の石垣に錦川氾濫の水位がある。

        
         1986(昭和61)年河山中学校と桑根中学校が統合して美川中学校となったが、201
        7(平成29)年休校となる。

        
         山代誌によると、福成寺(臨済宗)は当地の佐手集落にあったという。風土注進案では文
        明年間(1469-1487)に建立されたと記す。 

        
         山と国道に挟まれた集落形態は、他の錦川沿いに見られる光景と同じである。

        
         古くは根笠村の扇野にあった東専寺(真宗)は、創建年代ははっきりしないが、1652
        (承応元)年現在地に移転したとされる。

        
         この先、トンネルで集落は終わる。


岩国市の赤谷に二輪草群生地

2021年05月06日 | 山口県岩国市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         天尾(てんのお)は旧岩国市域では錦川最上流に位置するが、近世の行政では川尻、赤谷、
        吉谷、深谷の4ヶ村に分かれていた。4ヶ村のうちで赤谷集落のみ錦川南岸にある。(歩
        行約3km)

        
        
         北河内駅は、1960(昭和35)年岩日線の駅として開業する。1987(昭和62)年国鉄
        分
割民営化により錦川鉄道に移管される。島式ホームを持ち錦川清流線における唯一の列
        車交換可能駅である。

        
         2010(平成22)年岩日線開業から50周年を迎えたことを記念して、転轍器標識2基
        が保存されている。

        
         駅前から県道本郷周東線を進む。

        
         二輪草の群生地・徒歩5分と駅前に案内があるので立ち寄ることにする。(線路北側を南
        河内駅方向へ歩く) 

        
         今年は桜同様に春の花は開花が早く、二輪草は姿を消していた。

        
         NT3001形気動車は、ブルーのボディカラーと清流に泳ぐアユとヤマメがデザイン
        されている。(愛称はせせらぎ号)

        
         赤谷川沿いの集落。

        
        
         天尾小学校は、1879(明治12)年吉谷に創設され、その後、現在地に移転する。19
        47(昭和22)年天尾小学校と改称し、1952(昭和27)年校舎が改築された。

         
         河内神社の創建年代・由緒等については知り得なかった。

        
         河内神社手前から見る家並み。

        
         主屋に付属する大きな民家。

        
         旧小学校校舎は耐震化に問題があって、グラウンドを挟んだ向かい側にあった天尾中学
        校校舎(1998(平成10)年廃校)に移転する。2013(平成25)年児童数減少により休校
        となり、杭名小学校への通学となっているようだ。建物の一部は地域の方が「こんやく工
        房」として活用されている。
 

        
         白壁に囲まれた民家。

        
         赤谷川が県道と並行する。

        
         専隆寺(真宗)は、1598(慶長3)年小庵を創立して「長尊坊」と称していたが、16
        97(元禄10)年現寺号になったという。

        
         県道が右へ湾曲する付近で民家が途絶える。

        
         消防庫付近で散歩を終えて引き返す。


岩国市美川町根笠の集落と沈下橋を巡る 

2021年05月06日 | 山口県岩国市

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         根笠(ねかさ)は険しい山間部にあり、錦川に沿って国道、錦川清流線が走り、集落は河川
        渓谷や山の斜面を開いた狭小な地に点在する。(歩行約4.1km)
 

        
         根笠駅は、1960(昭和35)年岩日線の駅として開業したが、その後、錦川鉄道の駅と
        なる。単式ホーム1面1線の地上駅である。

        
         駅の山手側にある民家には踏切が存在しない。

        
         岩国市生活バス・根笠駅前バス停に下ると、公衆トイレが設置されている。根笠川に沿
        って周東方面へ向かう。

        
         自販機のある所が集落唯一の食料品店。

        
         「春山淡治にして笑うが如く」の光景に錦川の水が勢いよく流れ下る。

        
         川漁用の舟だろうか点検中。

        
         鉄橋を渡るNT3002気動車は、ピンクのボディカラーと沿線に咲く桜がデザインさ
        れている。(愛称はひだまり号)

        
         道祖基橋より旧町道長走線に入る。

        
         錦川清流線の鉄橋下を潜り、錦川右岸を川上へ向かう。

        
         旧町道は錦川と清流線に挟まれる。

        
         途中に2軒の民家。

        
        
         長走集落は2ヶ所の高架橋下が出入り口である。

        
         傾斜地を石組みにより屋敷地・耕作地を確保している。

        
         集落の傍にある中電錦川第二水力発電所は、1927(昭和2)年発電開始した水路式で落
        差は約120mとされる。

        
         長走の沈下橋は、錦川に架かる3つの沈下橋では最上流にある。

        
         沈下橋は車の走行が可能である。

        
         沈下橋を上がると国道。

        
         車の運転中だとこの風景を味わうことができない。

        
         渡里(わたり)橋まで約1.2kmの国道は、歩道がないため車と出会う毎に避けなければな
        らない。

        
         根笠は錦川の右岸が長走集落、左岸の国道筋が舟津集落。(建物は山清旅館)

        
        
         地名の由来を地下(じげ)上申は、「往古は山之内と称していたが、当地の者が多人数で他
        所から帰る途中、車軸を流す大雨が降り出し、岩屋に駆け込んだところ一滴も漏らず、天
        晴(あっぱれ)の笠、永代張替えの要もない笠であることから、その後、根笠と称したという。 

        
        
         舟津集落も傾斜地に張り付くように家々が並ぶ。

        
         鳥居がないので寺院のようであるが、詳しいことは知り得ず。

        
         世帯数も多くない舟津集落。

        
         緑と清流に囲まれた集落であるが、後背地の崩壊による危険と国道の騒音という環境下
        にある。

        
         NT3004形気動車は、蛍の光であるイエローのボディカラーと、清流沿いに群舞す
        るホタルがデザインされている。(愛称はきらめき号)     


美祢市秋芳町の江原はウバーレの中に集落 

2021年05月03日 | 山口県美祢市

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         江原(よばら)は於福台と別府台との間にできた摺り鉢状の窪地で、集落は北部の山麓と別
        府台の東麓などに散在する。
         カルスト台地に多く見られるような窪地を「ドリーネ」といい、このドリーネがいくつ
        も組み合わさった窪地を「ウバーレ」というが、江原地形はウバーレの典型的な地形とい
        う。(歩行約2.4km)

        
         別府の堅田から県道銭屋美祢線に入り、約4.6kmの狭隘な道を走行すると江原多目的集
        会所がある。(🚻あり)

        
         県道を横断すると左手に火の見櫓があり、半鐘が取り付けてあるので現役と思われる。

        
         集落内は坂道であるが階段は見られない。

        
         下ってくると主屋と納屋兼作業場、蔵を持つ大きな民家。

        
         安楽寺(真宗)は、1649(慶安2)年大津郡渋木にある浄土寺の門弟であった浄西という
        僧が、この地に建立したと伝える。明治期に本堂を再建したが、1940(昭和15)年9月
        20日に起こった江原大火の難にあって焼失したという歴史を持つ。

        
         東の道へ下る。

        
         江原には川はなく、雨水は標高約170mにあるこの吸い込み穴から地底に消えるが、
        大雨の時は吸い込みができず、この一帯が浸水するとのこと。

        
         岩屋と云われる所で、家のすぐ傍に石灰岩の岩柱が立ち並び、岩の避けるように民家が
        建てられている。

        
         1940~1980年代に葉タバコの生産が盛んになり、標高の高い所まで畑地となっ
        たが、葉タバコの生産終了で広がっていた畑地は、植林地化などで大きく変化したようだ。

        
         土壁の建物は葉タバコ乾燥小屋で、焚き口で燃料を燃やすと、鉄管の内部を通る空気の
        熱が室内全体に回り、タバコの葉を乾燥する仕組みになっていたとか。(使用中止後屋根形
        態が変わったようだ)

        
         寺前に戻るとお堂の側に横田黙助先生の碑がある。16歳で吉田松陰の門下生となり、
        36歳で江原の寺小屋の先生となる。30年間で約600人を教え、1916(大正5)年逝
        去(享年81歳)

        
         集落道から見る岩屋。

        
         寺先から見る風景だが、集落中央を南北に1本の道が走る。

        
         2間×2間程度の小規模なタバコ乾燥小屋が各家に建設されたそうだが、これが本来の
        タバコ乾燥小屋のようで、換気用の屋根が取り付けてある。

        
         1940(昭和15)年の大火では、集落の大部分の建物が焼失したが順次再建された。

        
         傾斜地に造成された屋敷地は段状をなしている。

        
         屋敷は南向きを基本とし、主屋と納屋兼作業場があるという共通性をもっている。

        
         こうした家屋にも遭遇する。

        
         右折すると水神様への階段。

        
        
         水神社の創建年代や由緒を知ることができず。

        
         別府小学校江原分校は、1873(明治6)年美祢郡第二嘉万小学校設立により支校として
        設立される。その後、嘉万・堅田簡易・別府小学校の分校と変遷するが、1984(昭和5
          9)
年廃校となる。

        
         地形の底部分から見る家並み。

        
         1964(昭和39)年に簡易水道が敷設されるまでは、井戸水と天水を利用していた。井
        戸のない家は近隣の家から飲料水を確保し、生活用水や農業用水などは天水溜をつくり利
        用した。

         
         2つ目の吸込み穴は標高140mの最低部にあり、流入した雨水は地底に消え下嘉万地
        区の湧水となる。

        
         吸い込み口から県道までは長い急坂。

        
         複雑に窪んだ地形の低い部分に、建物が様々な方向に密集している。

        
         江戸期から麦などの穀物及び根菜類など水はけがよく、痩せた地質でも栽培できる作物
        を作ってきた。 

        
         墓地の一角に尚義館師・横田黙助先生の墓碑が建つ。

        
         お会いした方に吸込み口に案内していただくなど、心温まるもてなしに感謝して集落を
        後にする。


美祢市秋芳町の秋吉は秋芳洞と赤間関街道秋吉宿

2021年05月03日 | 山口県美祢市

               
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         秋吉は厚東川以東の秋吉台南縁と秋芳洞から流れる稲川流域に位置する。
         地名の由来について風土注進案
は、往古、この地が沼地であった頃に芦が茂っていたた
        めアシヨシといい、康永年間(1342-1345)に田畑が開かれるようになって、秋吉と称したと
        いう。(歩行約4.5km)

        
         県内屈指の観光地であるため各地からバスで訪れることができる。新山口駅(10:10)か
        ら防長バス約40分、終点の秋芳洞バス停で下車する。車だと近辺に有料駐車場がある。

        
         観光センター脇にある石碑は、「秋芳洞」は読めるが碑文は風化して読めない。

        
        
         昭和の時代になって秋芳洞と秋吉台が天下の観光地として脚光をあび、特に終戦後の観
        光ブームに恵まれ、広谷の商店街は急激に繁栄し、旅館や休憩所を兼ねた土産物売店、飲
        食店などが300mにわたって軒を並べた。今もそうした店は健在であるが、廃業された
        店もちらほら見かける通りになっている。

        
         この先は有料施設だが、その手前を左折する。

        
         自住寺を禅寺として開いた寿円禅師は、南北朝期の1354(正平9)年旱魃に苦しむ難民
        救済のため、入洞修法して願いが叶うと恩を仏天に報謝して竜ヶ淵に入寂する。村人たち
        は禅師の徳を偲び、遺体を火葬にしてその遺灰と土を混ぜた遺灰像(ゆいかぞう)を造った。
         この遺灰像は秋芳洞入口にある開山堂に祀ってあり、誰でも見学できるそうだが、現在
        はコロナ感染防止のため拝観できない。

        
         秋芳洞から流れ出る稲川の右岸道。

        
         最初の橋で左岸へ移動すると山口秋吉台自転車道。3本目の橋を渡って曽和集落に入る。
        (右岸道は悪路)

        
         山裾の家々を結ぶ集落道を川下へ向かう。

        
        
         曽和の湧水(通称・青池)は、秋吉台の南端の崖下に湧出する湧泉池。やや細長い池に木
        の葉が浮いているが、まさに名にふさわしい色を見せる。

        
         再び稲川の右岸に出て自転車道を南下する。途中、車道を横断しなければならないが、
        普段であれば交通量は少ないと思われる。

        
         上里集落。

        
         正面に曹洞宗の自住禅寺。

        
        
         自住禅寺は、平安期の807(大同3)年弘法大師開闢(かいびゃく)の千手観音鎮護の霊場と
        して伝わる。1870(明治3)年長門の大寧寺に合併して廃絶したが、1879(明治12)
        再び復興した。その後、境内の観音堂より出火して旧伽藍を全焼したが、1907(明治4
          0)
年に域内の岩永にあった西岸寺の本堂を移転改築したもので方形の屋根を持つ。

        
         上里集落は更新された家が続く。

        
         集落内を抜けて秋吉中学校を過ごすと車道に出る。

        
         車道を下ってくると右手に秋吉八幡宮がある。参道入口に江戸末期の1861(文久元)
        に造られた文久の石灯籠がある。
         割石を丁寧に組み上げた上部に入母屋型の屋根を張り出させた灯籠を置いている。当初
        は同八幡宮の御旅所近くにあって秋吉宿の常夜灯の役割を果たしていたが、道路拡張工事
        により、1968(昭和43)年現在地に移転された。

        
        
         風土注進案によると秋吉八幡宮は、「嘉祥年中(848-851)に百済国帝、大津郡の海岸に漂
        着後この所に遷住し、御卒去後霊を祭りて総鎮守とす」といい、鎌倉期の1192(建久3)
        年宇佐八幡宮より勧請し相殿したという。

        
         境内に鐘楼があるが、当社に社坊・正福寺があったとされる。

        
         境内から見る秋吉宿。右側は瀬戸、左側は里といい、秋吉宿を挟んで集落が異なる。

        
         秋吉宿は赤間関街道中筋にあたり、絵堂宿と河原宿の中間にあった宿駅である。172
        0(享保5)年新宿に指定されたため、
人夫8人、馬が5疋が常備され、宿役人が目代所に控
        え、人夫・馬は交代勤務していた。

        
         化粧地蔵尊と小さな祠が収められている。

        
        
         両側には古い民家が残る。

        
        
         商店が軒を連ねていたが、今は廃業された店もある。街道はバス停前の四差路で右折す
        る。

        
         街道とは反対側の裏道。

        
         防長バス新山口駅行きに乗車できる。