この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情復 第467号)
俵山は周防灘に注ぐ木屋川最上流およびその支流域に位置する。県道34号線(下関長門
線)が南北に走り、中央部の大羽山に長門市支所や学校が集中する。中心部から約2㎞北西
の正川流域に俵山温泉街がある。(歩行約5㎞)
JR小月駅からサンデンバス青海島行きバス1時間10分、俵山病院前バス停で下車す
る。
県道281号線(俵山長門古市線)に沿うと、俵山温泉北側の山裾に麻羅(まら)観音がある。
(バス停から約900m)
室町期の1551(天文20)年中国地方の雄・大内義隆は家臣の陶晴賢に攻められ、湯本
温泉の大寧寺で自刃する。末子の歓寿丸は女装してかくまわれていたが、捕らわれてここ
で殺害される。男児の証として、男根を切り取り持ち去られたのを哀れんで社を建てたの
が始まりとされる。
観音様を祀っている小さな祠の辺一面には沢山の巨大な男根が立っている。子宝に恵ま
れない人や精力増強の願いを託す参詣者が多いとか。
小さな堂に奉納品が並んでいる。
俵山温泉バス停近くに熊野神社がある。 応永年間(1394-1427)に紀州の熊野から勧請さ
れたと伝えられる。
祭神から温泉とは直に結びつかないが、湯町を含む木屋川流域の鎮守神として崇敬され
ているようだ。
熊野神社から見る俵山温泉の町並み。
昔ながらの湯治場風情を残す数少ない温泉地である。
細い一本の道路に沿って温泉旅館が建ち並ぶ。
温泉街の歩道に描かれている白猿。
温泉は源泉の少ない湧出量を守るため、内湯をもたず外湯に通うという、古くからの湯
治場のスタイルが今日まで続いている。
湯町の経営は28軒の独占となり、各宿が1株づつ所有したが、戦後に崩れて1978
(昭和53)年には44軒となった。(泉屋旅館付近)
亀屋旅館付近の温泉街。
昭和初期頃に建てられた木造3階の旅館。
路地奥にも旅館が並ぶ。(左手は町の湯)
松屋旅館前が外湯の「町の湯」
「町の湯」の先に薬師堂と温泉閣がある。
薬師寺縁起によると、応永年間(1394-1427)の頃に薬師堂に併せて正福寺が建てられた。
1870(明治3)年に寺は瀬戸崎の西円寺と合併して廃され、薬師堂のみが残された。
俵山温泉を見つけた白猿は薬師如来であったという伝承により、古くから正福寺薬師堂
には温泉の守護神として薬師如来が祀られている。
1928(昭和3)年に公民館として建てられた木造2階の温泉閣は、現在は会議場や催事
場などに利用されているとのこと。
もう1つの外湯だった「川の湯」は、2008(平成20)年に老朽化のため閉鎖されたが、
泉源は白猿の湯に引き継がれている。
2004(平成16)年にオープンした白猿の湯は、温泉のほか、レストラン、ペットの湯
などが併設されている。
温泉街を歩くと大きなホテルや高級な旅館もなく、素朴で情緒ある湯の里である。
川沿いにあってゲンジボタルの舞う姿が見られるとか。
町の湯から川沿いへの路地。
川を挟んで右岸にも旅館が並ぶ。
昼間の裏通りは閑散としている。
蔵を見るとバス停近くに出る。
亀甲模様に「下水」の文字だけのマンホール蓋。
俵山温泉バス停(14:46)から再びバスに乗車する。途中の大羽山地区が俵山村の中心地
で、公民館の地に村役場があった。
田中バス停で下車する。
俵山温泉から湯本温泉へ2㎞ほど進むと、右手奥の山裾に真言宗の能満寺がある。
平安期の806(大同元)年に弘法大師が唐からの帰朝の折、この地に立ち寄って創建した
と伝えられる。
同寺の僧・光憧(こうどう)は脱退兵を援助したことで罰せられたが、新政府によって発せ
られた神仏分離令が、廃仏毀釈運動を引き起こしたことが援助の要因ともされている。
能満寺門前を右へ300mぐらい上がって行くと、来島又兵衛旧宅がある。来島家は家
を継ぐ子供がなかったため、遠縁の娘に継がせ藩士・喜多村家の次男を婿養子に迎えた。
養父の死後、来島家累代の名前を継承して来島又兵衛となる。
又兵衛夫婦は妻の郷里である美祢市厚保に移っており、長く俵山に住むことはなかった。
田中バス停よりJR小月駅に戻る。