ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の安下庄は大島みかん栽培発祥地 

2020年12月12日 | 山口県周防大島町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         安下庄(あげのしょう)は屋代島の中央山地にある嵩山の南東に位置し、安下庄湾の海岸砂
        州に立地する。 
         1889(明治22)年町村制施行により、東安下庄村と西安下庄村が合併して安下庄村と
        なる。1955(昭和30)年に日良居村と合併して橘町となるが、現在は周防大島町東安下
        庄と西安下庄である。(歩行約5.2㎞)

        
         JR大畠駅から防長バス町立橘病院行き約40分、橘庁舎前で下車する。

        
         湾に浮かぶ嵩山。

        
         往古は天台宗の安楽寺と称していたが。室町期の1548(天文17)年に泉州の吉村宗次
        の嫡子・吉村清三郎が得度して,宗信と号し浄土真宗に改宗する。

        
         往古には正受院と称した快念寺(浄土宗)は、
1606(慶長11)年安下庄の正分・庄領主
        吉井元武が堂宇を再建し、元武の法名(快念居士)をとって快念寺と改称する。
         1866(慶応2)年6月7日幕府軍艦長崎丸が安下庄を砲撃し、第二次幕長戦争が開戦す
        る。15日には松山藩軍が安下庄に上陸して戦闘後に占領する。それから数日間、当寺(本
        陣)、安楽寺などを陣所にする。
(周防大島八十八ヶ所1番札所あり)

        
         古川沿いを川下へ向かう。

        
         長尾八幡宮は、平安期の977(貞元2)年宇佐八幡宮より勧請し、安下庄大畠の地(現在
        地の後方)に創建される。後に白窪の地に移され、更に現在地へ遷座する。

        
         慶長年間(1596-1615)に災禍があったが、1916(大正5)年に再建された現在の社は、入
        母屋造に唐破風の拝殿と、流造に千鳥破風を備えた神殿である。

        
         宮川に架かる宮橋。

        
        
         往還筋の建物は近現代のものがほとんどである。

        
         円錐な秀峰・嵩山は別名「大島富士」と呼ばれ、標高619mで裾野にはみかん園と集
        落が広がっている。

        
         1866(慶長2)年6月16日三手に分かれて屋代に向けて進軍した松山藩軍は、長州軍
        と嘉納山などの山上3ヶ所で激突した。この戦いは長州軍の勝利で終わり、安下庄の占領
        はわずか5日間で幕を閉じる。
         戦場の1つであった源明山頂上に「四境之役大島口戦跡碑」が建立されている。

        
         西安下庄に山口銀行の支店があるが、2017(平成29)年11月営業窓口が停止された
                よ
うだ。郵便局やガソリンスタンド、病院など日常生活に係わるものは整っている。

        
         旧安下庄郵便局は道路一段高く構えた2階建ての洋風建物である。1931(昭和6)年広
        島逓信局建築部局舎係で作成された局舎図面集に則って建築されたものである。外部は下
        見板張りの壁と上げ下げの窓、玄関は中央からやや右に寄せて設けている。

        
         日蓮宗妙法寺。

        
         旧橘町のマンホール蓋は、特産のみかん、砂浜、奇勝立岩、空海山が描かれているが、
        特定環境保全公共下水(市街化区域以外で設置される下水道)だそうだ。 

        
         県道大島環状線に出会うが、この先も民家が続いているが、同じような光景と思われる
        ので海岸通りを引き返す。

        
         地元の方による北風を受けず、久賀よりも2~3度暖かいという。バスは小松港経由大
        畠駅行きとなるので、橘庁舎前まで戻らなければならない。

        
         海岸線に恵比須神社。

        
         狭い路地を抜けるが、どこを歩いても綺麗な町筋だった。
      


周防大島の久賀は屋代島の中心だった町 

2020年12月10日 | 山口県周防大島町

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         久賀(くか)は北を安芸灘に面し、沖合5㎞には属島の前島がある。南は山麓で大部分が急
        傾斜で山地が56%を占め、湾に沿った平地に民家が集中する。
         湾岸堤防に沿って東西を国道437号が一直線に走り、山手側に旧道が並行する。(歩行
        約5㎞)

        
         JR大畠駅(10:30)から防長バス町立橘医院行き20分、総合庁舎前バス停で下車する。

        
         バス停向い側の維新百年記念公園は第二次幕長戦争の古戦場で、この戦役において
活躍
        した人々の功績をたたえた記念碑
「精忠不朽之碑」(右)、倉敷代官所及び総社浅尾藩陣屋
        を襲撃した事
件で斬首された隊士の碑(中央)、大坂で憤死した勤王庄屋伊藤惣兵衛(1814-
        
65)の「贈従五位伊藤君の碑」(左)の碑がある。

        
         旧道を大橋側に戻ると左手の山口県大島総合庁舎前には、楢崎剛十郎(諱は義綱)顕彰碑
        がある。楢崎は大野毛利家の家臣で第二奇兵隊の参謀を務めたが、1866(慶応2)年4月
        4日石城山に駐屯する同隊が暴発した際、制止しようとしたため暗殺される。碑文に
は「
        不攘金剛 第二奇兵隊参謀楢崎義綱君碑銘」とある。

        
         1866(慶長2)年6月第二次幕長戦争の際に、町は幕府軍の攻撃を受けて焼失してしま
        う。

        
         旧道筋は近現在に建てられた家が並ぶ。 

        
         寺の案内はないが「南無妙法蓮華経」のお題目があるので妙法寺と思われる。

        
         寺の向い側に追原(おいばら)社・天満宮がある。詳細不明だが天正年中(1573-1591)以前
        より道免にあったという。

        
         1651(慶安4)年大島宰判の勘場が久賀に置かれた。215年間続いたが第二次幕長戦
        争で町とともに建物が焼失する。その後、勘場に充てる家もなく屋代に移ったが、189
        6(明治29)年勘場跡に郡役所が設置された。(農協の敷地付近)

        
         町の中心だった大通りはシャッターが目立つ。(東天満町より古町方面)

        
         覚法寺(真宗)の開基は伊予国河野氏の家臣であった藤木信茂の第2子信雄という。山門
        左手には大洲鉄燃の生誕地を示す石柱あり。

        
         1834(天保5)年鉄燃は覚法寺住職の次男として生まれ、第一幕長戦争の際は、大島の
        同志たちと真武隊(のち第二奇兵隊に発展)を組織し、第二次では護国隊を率いて勇戦した。
         1888(明治21)年本願寺執行長となったが、老衰を理由に職を辞し、郷里に帰り19
        02(明治35)年4月入寂す。

        
         境内の「贈正五位大洲鉄燃師碑」には、
                孤島に身を起こし 護国の大義を防長に唱え
                仏法を修めて国を護り み仏の威光を広く知らしめ
                ここに天子の恩賞を浴せしは 永久不滅の名誉なり
                           (大正8年 陸軍大将寺内正毅撰文)

        
         人通りもなく同じ町並みが続く。(古町界隈)

        
         1866(慶応2)年阿弥陀寺は幕長戦争の兵火により焼失したが、当時の建物は総檜材を
        用いて荘厳を極めたものであったという。創建は天文年間(1532-1555)とされるが、由緒未
        詳である。

        
         玉神社は浦方の鎮守神で、漁人・商人によって祀られてきた。久賀市はいつ頃始まった
        かは明らかでないが、市は年2回開かれ、玉神社前の広場を中心に行われたという。

        
         旧道を中心として左右に路地が走る。

        
         津原川と宮崎川に挟まれた地は三角州となっている。

        
         「柳井地域広域水道」の「送水管空気弁」の文字がある。地図には金魚の形をした旧周
        防大島の4町のほかに、柳井市、旧大畠町、旧由宇町、田布施町、平生町、上関町が描か
        れている。

        
         御旅所風な場所に「記念物 幸松 昭和2年3月建設」の石碑があるが詳細不明である。

        
         宮崎川左岸を川上に向かい正面の森を目指す。(奥の山は嵩山)

        
         宮崎川に架かる石造7.2mの太鼓橋を渡り、八田(やあた)八幡宮の参道に入る。

        
         第2鳥居を潜ると247段の石段は、途中で左に折れてL字型となっている。

        
         石段を上がった所が見晴台とされるが、木の生長で展望を得ることはできない。反対側
        に明治以来2,734柱が祀られる護国神社がある。

        
         神社裏の維新墓地には、伊藤惣兵衛や楢崎、世良のほか、第二次幕長戦争や戊辰戦争で
        散った大島出身者23名の霊標が、玉垣に囲まれた中に並ぶ。

        
         「幸の石垣」といわれ、石垣の中にある5つの扇型を石を見つけて幸せになろうとあ
        る。(右手は手水舎)

        
         八田八幡宮は、貞観年間(859-876)山城国男山八幡宮(現岩清水八幡宮)より勧請したとさ
        れるが明らかでない。社殿の周囲には回廊が設けてある。

        
         平安期の1180(治承4)年南都焼討によって焼失した東大寺再建の大勧進に任命された
        俊乗坊重源は、用材を求めるため国司として周防国へ下る。用材を求める一方、国土の平
        定と布教活動のため領内を巡回する。この地へ立ち寄った際、諸病に悩む民衆のために石
        風呂を創建したと伝える。(説明板より)

        
         花崗岩と粘土で築造された石積式蒸風呂で、史料で存在が確認できるものとして日本最
        古のものとされる。(国重要有形民俗文化財)

        
         薬師堂(石風呂薬師堂)境内から見る久賀歴史民俗資料館。周防大島出身の民俗学者・故
        宮本常一氏の指導を受け、農耕・漁労・瓦の制作・日常生活の用具とハワイ移民資料が保
        存展示されている。(諸職用具は国重要有形民俗文化財)

        
         老いた人たちが「老いても嫁の手を煩わすことなく、健康で幸せな生涯を全うできる」
        という霊験から嫁不要(よめいらず)の観音様と呼ばれるようになったとか。ここには嫁いら
        ず観音とぼけ封じ観音の2体が祀られている。

        
         この地域の地形は北向きで、8月頃から3月頃まで北からの風を受ける。荒天のときは
        船で海岸に近づけず築港は長い間、地域の課題とされたが、江戸末期と明治初期に2つの
        波止が築造された。

        
         1826(文政9)年庄屋の伊藤惣左衛門は、久賀の漁業・海運業の発展を考え、家財を傾
        けて波止の築造に乗り出す。しかし、当時の技術的制約から立地上やむを得ず、村里から
        離れた道もない大崎鼻に築造される。

        
         約半年をかけて造られた総延長90m、築上(高さ)5.2mの堤防は、地元で「古波止」
        と呼ばれている。船繋、船荷の積降ろし用に用いられた施設であった。

        
         古波止から見る久賀の遠景。

        
         古波止は村外れにあって十分に機能していなかったが、当時、幕末の幕府軍攻撃で覚法
        寺が焼失したため、再建の話が持ち上がったが、住職大洲鉄燃はこれを断り、久賀の発展
        のため新しく波止を築造することを説いた。着工から約4年の工事の末、1879(明治1
        2)年3月に新波止は竣工した。
         
        
         碑文を刻み後世に伝えることと、築港事業を斡旋・発起した人々の名を刻み顕彰する久
        賀築港碑が建立されている。


下関市王司は宅地化と商業開発が進む地

2020年12月01日 | 山口県下関市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         王司(おうじ)
下関市の東部に位置し、域内の北側を神田川が東流して周防灘に注ぐ。南
        西は才川地域と接し、海側は江戸期から明治期に埋築されて塩田が営まれた。地名の由来
        は、域内の南西端にある四王司山にちなむという。
         1889(明治22)年町村制施行により、神田、山田、員光、宇部、才川、松小田の6ヶ
        
村が合併して豊東前村が発足。1898(明治31)年王司村に改称する。(ルート約3.6
        ㎞)

        
         JR小月駅からサンデンバス下関駅行き約10分、王司病院前バス停で下車する。ちょ
        うど1年前に新設されたバス停は普通便のみが停車する。

        
         バス停から国道を横断すると宇部八幡神社御旅所に永富独嘯庵(どくしょうあん)の顕彰碑
        がある。独嘯庵は江戸期の医師・学者で精糖業の創始者である。1732(享保17)
宇部
        村で生まれ、京都の山脇東洋などに医術を学ぶ。30歳のとき大坂で開業するが、
               1766(明和3)年「油断して川へ嵌(は)まるな独嘯庵」の句を残して35歳で病没する。

        
         山側に向かうと宇部八幡神社の一の鳥居。

        
         坂を上がって行くと周防灘が見えてくる。

        
         宇部八幡神社の由緒によると、平安期の866(貞観8)年宇佐神宮から勧請される。18
        74(明治7)年長府にある忌宮神社の末社となり、後に宇部八幡宮から宇部八幡神社に改称
        する。

        
        
         本殿の彫刻は見応えがある。

        
         境内に水神社跡の標柱があるが、農耕の豊穣を守護神として水の神を祀ったものと思わ
        れる。

        
         王司保育園前を過ごす。

        
         玉泉寺(曹洞宗)は、1876(明治9)年の火災により過去帳などを焼失したとされるが、
        1742(寛保2)年長門湯本の大寧寺29世を開山として創建されたといわれる。

        
         境内地より王司の町並みと周防灘。

        
         中宇部バス停前から国道を横断すると庚申塚。

        
         宇部一里塚は「地下(じげ)上申絵図」等の資料を基に、旧山陽道沿いに設置された。

        
         下関の「し」と市のシンボルマークの「ふぐ」、周りには海の波がデザインされたマン
        ホール蓋。

        
         海辺に下ってくると、橋の親柱が残る四差路に出る。

        
         次の通りに出ると右手に悪水溝が見えてくる。王司には「古浜、亀浜、千鳥ヶ浜」の3
        つの塩田が設けられ、本格的な製塩は1831(天保2)年から1839(天保10)年頃に始ま
        ったという。

        
         左手の千鳥ヶ浜は、北、東、南の3面を腰石垣の堤防を設えて、西の1面に悪水溝を掘
        削して分界としている。

        
         ナフコ長府店の隣、宇部字六町自治会館傍にある塩釜社がある。神社の由来によると、
        この付近は長府藩が塩・米作りのために干拓を奨励し、塩田や水田作りに従事する人たち
        を住まわせた。この神社は塩の安全増産を祈念して塩浜・製塩関係者等によって建立され
        た。

                
        
         橋柱のあった場所まで戻って、旧バス通りを長府方向へ進む。

        
         山口県漁協王司支店の先に旧三田尻塩務局長府出張所(現宇部西町公民館)がある。19
        05(明治38)年塩専売制が実施されると専売管理業務が開始され、後に専売局長府出張所
        となった。
         1955(昭和30)年代に宇部西町自治会に払い下げられ、今日まで公民館として活用さ
        れている。門柱とともに玄関横の守衛室(8㎡)もそのまま残されている。

        
         木造平屋建て瓦葺き寄棟屋根、面積186㎡の洋風建物である。玄関を入るとカウンタ
        ーを隔てて事務室があり、その横に所長室とがあったようで、現在も内部は当時の間取り
        を残している。

        
         右側の棟には検査室があって、船で運ばれてきた塩はここで検査され、2棟あった倉庫
        (解体)に一時収められ、再び送り出された。
         自治会では何度か大改造の話が持ち上がったそうだが、地域の歴史を語る貴重な財産と
        して、できるかぎり昔の姿を残すよう努力されてきたとのこと。

        
         この先の通りには家が点在する程度である。

        
         右手にNTT王司電話交換所の建物を見ると右折して、山陽本線南磯折第4踏切を横断 

        する。

        
         旧山陽道に出て小月方面に戻るが、旧国道と山陽本線に挟まれる格好でほぼ同じ道幅が
        続く。

        

         一里塚の左手には地蔵堂と先の大戦で亡くなられた方の顕彰碑が建つ。

        
         王司病院前の四差路を左折すると出発点のバス停前に出る。バスの便数は多いのでバス
        に合わせて、長府駅か小月駅に出ることができる。


下関市小月は交通の要路として栄えた町

2020年12月01日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         小月(おづき)は周防灘に注ぐ木屋川下流域にある地域で、古くから旧山陽道の宿駅として
        賑わいをみせていた。地名の由来について地下(じげ)上申は、山の尾(裾野)の里であること
        から尾付と称したが、転じて小月になったという。

         江戸期より小月村で、1889(明治22)年の町村制施行時もそのまま豊浦郡小月村とな
        り、1939(昭和14)年下関市に編入された。(歩行約4.4㎞)

        
         1901(明治34)年山陽鉄道の厚狭駅と馬関(現下関)駅間の開業と同時に小月駅が設置
        される。単式・島式の複合型2面3線のホームを持ち、駅前にはロータリーを設けている。

        
         小月駅前には西市からの木材輸送を目的として、1918(大正7)年10月に18.2㎞
        を結ぶ長門鉄道が開通する。クルマ社会の到来とともに、急激に発達したバス輸送に利用
        者移転が始まったため、1956(昭和31)年4月廃止された。

        
         交通量の多い旧国道沿いを厚狭方面へ向かう。

        
         木屋川近くの京泊交差点を左折する。

        
         県道を北上すると旧山陽道に合わす。この先が旧吉田村と旧小月村の境辺りである。
 
        
         山裾を西へ向かう。

        
         参道入口には「南無妙法蓮華経」とお題目が刻まれている。

        
         本照寺(日蓮宗)は清末阿内の川口寛吾が仏門に帰依し、18
79(明治12)年に創建され
        た。
         境内に大きな銀杏があるが、「火事の時に銀杏の木が水を吹き消火に役立つ」とされ、
        多くの寺社に銀杏の木が見られる所以だそうだ。

        
         境内から見る木屋川と周防灘。
 

        
         左手に京泊堤を過ごす。

        
         小月小学校前に旧国道を示す標柱がある。「昭和初期に国道2号が開通し、旧国道と呼
        ばれるようになった」と説明書きがある。

        
         小学校の北側を通り、西外れの四差路を右折する。

        
         小月神社の門前に出る。

        
         小月神社は、1909(明治42)年若宮八幡宮(下の宮)に小月八幡宮(上の宮)を合併して
        小月神社と改称した。末社に水神社と恵比須神社が
ある。

        
         神社境内には、1929(昭和4)年に建てられた自然石の献穀記念碑がある。これは児林
        真琴という人が献穀したことを記念した碑だそうで、新嘗祭は天皇が全国各地の新殻を神
        に供え、天皇も食するという祭事であり、現在は勤労感謝の日とされている。

        
         鳥居前で左折してまっすぐに西へ向かう。

        
         小月川手前の小月神社御旅所には大きな庚申塚がある。刻まれた「庚申」の文字の窪み
        には米2斗(30㎏)が入るとされる。

        
         庚申塚の先にある浜田川が旧長府藩と清末藩の境で、旧山陽道は突き当りを左折するが、
        
横断歩道先の民家にはパン工房の看板が見える。

        
 
         三差路を右折した先に明円寺(真宗)がある。室町期の1457(長禄元)年大内義隆の家臣
        であった木村俊守が、無常を感じて小月小島に庵を建て、のちに得度して開基したとされ
        る。

        
         本堂右手の建物は清末藩藩邸の一部が移築されたもので、屋根瓦に藩紋が見られる。

        
         明円寺から旧山陽道に戻ると、本町通りは古来より交通の要衝として栄え、藩政時代は
        半宿としての役割を担い、中市蛭子通りと呼ばれていた。

        
         西蓮寺(真宗)は、安土桃山期の1582(天正10)年藤ヶ谷に一宇が建立されたが、江戸
        期に現在地へ移転した。

         
         本堂外陣には柱が1本もない造りである。(本堂は施錠されている)

        
         下関市の「し」とシンボルマークの「ふぐ」、周囲には海の波がデザインされたマンホ
        ール蓋。

        
         県道を西へ右折する角に高さ1.2mの道標がある。「右かみかたへ 左とよたへ」と刻
        まれている。

        
         本町通りには白壁の町家が数軒見られる。(次の四差路を左折)

        
         右手に観音寺(曹洞宗)への裏階段がある。由緒は不詳だが、現在は火除け開運の霊場と
        して有名で、本尊の聖観音菩薩は清末藩家老内藤家の持仏とされる。

        
         階段から小月の町が一望できる。

        
         「見廻り通り」と記された石標がある。下市は宿場町、茶屋町は歓楽街で栄えたため、
        武士が庶民の暮らしや治安を見て廻ったと紹介されている。(小月駅に通じる道あり)