ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市黒川は農家村落から混在型に変容

2024年02月28日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         黒川は椹野川左岸の平地にあって、今山の西南麓、高倉山の西北部に位置する。地下上
        申、風土注進案などには、平野村、恒富村の名があり、矢原村を含んでいた時代もあった。
        明治になって平野、恒富を合わせて黒川村となった。(歩行 約5.4㎞)

        
         JR新山口駅から防長バス県庁行き(山口大学経由)約30分、平川小学校前バス停で下
        車する。この路線は平日のみの運行となっている。

        
        
         平川小学校を過ごすと、隣の中学校グラウンドは多くの車が駐車されており、何事かと
        思ったら高倉荒神社の祭りであった。

        
         露店が並ぶ沿道の角に、「恒富八幡宮」と刻まれた大きな石碑がある。

        
         露店を眺めながら歩くが、昭和の時代には参道や境内には、各種の作物の種苗や、農機
        具・機械など農家日用の雑貨を扱う露店が並んでいたという。

        
         百段もあろうか急な参道石段。

        
         鐘楼を挟んで2つの石段があり、参拝を済まされた方にお聞きすると、手前が恒富八幡
        宮の階段、奥側が高倉荒神社の階段と教えていただく。

        
         氏神は吉田の平清水八幡宮であったが参拝するには遠いため、1680(延宝8)年に平清
        水八幡宮の分霊を勧請したのが、恒富八幡宮の始まりとされる。

        
         荒神社の起源について風土注進案は、大内氏の始祖と伝える琳聖太子が渡来し、海上守
        護の霊神として高倉村(現防府市高倉)に創建する。5世多々良茂村の時に荒神を遷座させ
        て、山名も高倉山と名付けられたと記す。
         社は人家に遠い山上にあって参拝も維持も容易でなかったため、1911(明治44)年に
        この地へ仮遷座する。1914(大正3)年に正遷座となったが、その年の7月12日に大粒
        の雹(ひょう)が降り、稲や野菜に大きな被害が出た。世上では「移転が荒神の神慮にふれた」
        と思い、神威とも感じて信仰が高まったとされる。 

        
         荒神祭には「おためし」という年占(としうら)神事がある。境内に湧き水(神水)があり、
        節分の日に水量を計り、その年の米の豊区を占う。
         今年は「早稲(はやて)七合八勺・中稲(なかて)七合八勺・晩稲(おくて)八合、水六合」で、
        結果を記した札が本殿などに張り出された。これによると晩稲の苗の方が出来がよさそう
        と占いされたが、結果は如何に? 

        
         人通りの少ない別の参道を下る。

        
         正面が神社のある諏訪山で周囲は団地化されている。 

        
        
         広沢寺(こうたくじ)は大内氏が山口を本拠して栄えた頃、大内盛見の子・教幸が豊前国馬
        岳において敗死したので、山口市古熊に菩提寺として建立されて広沢寺と号した。
         1872(明治5)年この地にあった泉福寺が廃された際、跡地に移転してきた。

        
         右の宝篋印塔には「元和五己未」(1619)の銘があるが、左は無記銘である。

        
         泉香寺山の山名は、明治初期まで南麓にあった泉福寺(現広沢寺)に由来する。登山道は
        墓の東端から山道を上がると、平坦地の左側に山頂への道がある。(少し上がって分岐を見
        返す)

        
         一本道なので迷う心配はない。

        
         平坦地の山頂には日清戦争凱旋碑が立ち、この碑の建設中に経塚が見つかったという。
        経塚は経典を地中に埋納した塚で、経筒の中に納められていた経巻は、腐って何経かわか
        らなかったという。

        
         山頂には城跡を示す看板が取り付けてあるが、築城に関するものは不明とされる。恒富
        氏の出城との見方もあるようだ。

        
         農家を中心として構成されてきた村落的な社会構造であったが、新たな住民が転入した
        ことで、混在化した地域となっている。

        
         泉香寺山と広沢寺。

        
        

         大きな屋根を目印にと思ったが、真宗にしては大きな屋根を持たない西向寺である。寛
        永年間(1624-1644)に創始されたが、その後大破して天和年間(1681-1684)に中興された。
        小寺ではあるが当地区の生え抜きの寺とのこと。

        
         蔵持ちの農家住宅が多く見られる。

        
         1935(昭和10)年11月に設置された警鐘台。

        
         西京グリーンタウン入口にある三界萬霊(西のお地蔵さん)には、賽銭が盗まれた旨の貼
        紙がしてある。

        
         西京高校から正面に見える堂山?を目指す。

        
         山の麓に庚申塔や地蔵尊が並ぶ。この付近に古墳があるとのことだったが、見つけ出す
        ことができなかった。 

        
         お堂の中は木造の仏像。

        
         子供を抱いている地蔵は子安地蔵とも呼ばれ、妊婦の安産を守護する地蔵尊で、安産以
        外にも子授けなど妊娠を祈願する地蔵尊でもある。

        
         吉野橋から菜の花を見て、薬師バス停よりJR新山口駅に戻る。


山口市平井は農村集落から山口大学移転により一変した地域

2024年02月22日 | 山口県山口市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工下ものである。
         平井は山口盆地の東南部、椹野川左岸に位置し、姫山とこれに続く山地の西南にあたる。
         1889(明治22)年町村制の施行により、平井村と黒川村が合併し、双方の1字をとっ
        て平川村となる。吉田は明治まで吉田村と平井村の2ヶ村であったが、明治になり合わせ
        て平井村となったので吉田は消滅する。山口大学がこの地に統合移転したのを機に、19
        66(昭和41)年12月に復活した。(歩行約6.2㎞)

         
         JR防府駅からJRバス山口駅行き約31分、宮島町バス停で下車する。

        
         立体歩道橋を利用して椹野川左岸を下る。

        
         井手ヶ原橋は県道501号線(山口秋吉台自転車道)の橋として架橋された。(歩行者も通
        行可)

        
         蔵のような造りだが用途など知り得なかった。

        
         水難防除の地蔵尊。

        
         豊年橋上流にある矢歴井堰。

        
         江戸末期から明治初期に「大場橋」として木橋が架橋されたが、1901(明治34)年関
        係地区の協議によって、資金を投入して強固な橋に架け替えられた。
         橋名が「豊年橋」に変更されたが、この年はたまたま豊作であったことや、改修によっ
        て山口の町家から肥料である糞尿の汲み取り車が通れるようになり、さらなる豊作が期待
        できるとして、この名が生まれたと伝える。

        
         豊年橋資金提供者であろう名録碑と地蔵尊が建立されている。

        
         七夕ちょうちんがデザインされた山口市のマンホール蓋。

        
        
         寺内正毅(1852-1919)は農家であった宇多田家の三男としてこの地に生まれ、8歳の時に
        宮野にある母の生家である寺内家(微禄ながら士分の家)から養子に迎えられた。
         士分の習いとして文武両道に励み、のち整武隊に入って美東絵堂の戦い、第二次幕長戦
        争では芸州口、戊辰戦争では各地を転戦する。維新後はフランスに留学し、陸軍で功績を
        重ねて陸軍大臣・元帥・朝鮮総督となる。1916(大正5)年10月に内閣総理大臣となっ
        たが、1918(大正7)年9月米騒動の責任をとって総辞職し、翌年に病没する。

        
         農村の原風景が広がる地域だったようだが、山口大学が移転してくると学生アパートや
        寮、一般住宅が建ち並び様相が一変している。
         右手に見える山が姫山は、九州筑前の女流勤王歌人である野村望東尼が、幕末の攘夷運
        動に身を捧げ、高杉晋作の縁故により長州に身を寄せる。山口や湯田の客舎にあった頃、
        朝夕に姫山を仰ぎ、1865(慶応元)年福岡藩の迫害により、玄界灘に浮かぶ姫島に流罪さ
        れたことから、姫島を姫山に重ね合わせたものと思われる。
                  憂かりにしこぞの姫島思いでて
                     むかふ平井のもとのひめ山

        
         姫山の北を流れる仁保川と間田川が合流する地点から、九田(くでん)川が南流し、灌漑用
        水路が枝分かれしながら、この一帯の田圃を潤してきた。

        
         姫山から西尾に伸びた峰尾に、平井の産土神である日吉神社がある。

        
        
         日吉橋を渡り石段を上がって行くと、右手に日吉神社横穴古墳がある。古墳時代末期の
        墳墓とされ、内部は2畳くらいの円形で高さは背丈より低い。6基あったとされるが入口
        部分が崩壊しており、1基のみを確認することができた。

        
        
         参道から見る域内。 

        
         石段を上がると石灯籠が並ぶ長い参道である。

        
         平安期の943(天慶6)年近江国の日吉大社より勧請し、平井の西(古宮)にあったが、1
        625(寛永2)年に火災で社殿を焼失する。日吉山に遷座して現在に至るが、創建年を立証
        する史料がないとのこと。

        
         県道61号線に沿って南流する九田川は、その昔、小郡方面から舟が荷物を積んで広瀬
        橋付近で陸揚げされ、そこから各方面へ配送されたと伝える。(平井地区と吉田地区の境)

        
         1941(昭和39)年山口大学は、山口市平川地区に総合移転することを決める。196
        6(昭和41)年下関市長府にあった農学部が移転し、各部が順次吉田キャンパスに移転する。
        1973(昭和48)年経済学部を最後に総合移転が完了する。

        
         1905(明治38)年に設立された山口高等学校の地に、第4代鷲尾校長のブロンズ製胸
        像が石造台座に載せられていたが、第二次世界大戦のさなか鉄類の供出で台座のみが残さ        
        れていた。経済学部が吉田キャンパスに移転し、旧校舎の取壊しに際して地中に埋められ
        る仕儀となる。これを惜しまれた松永祥甫氏(山口市鋳銭司)が、自宅に20数年間保存さ
        れてきた。   
         東亜経済研究所の竣功に際し、台座正面に鷲尾校長のリレーフ、台座に萩ガラスを用い
        て旧講堂の尖塔を模した照明器具が載せられた。

        
         平清水八幡宮は社殿が山中にあっても、人里に近く、左右に樹木が茂る平坦な参道であ
        る。

        
         鳥居前に2つの饅頭状の土山があるが、内にあるのが千珠、外にあるのを満珠と呼ぶ。
        これは祭神の神功皇后が三韓征伐のとき、住吉大神の化身である龍から、干珠満珠の2つ
        を授けられた神話に因むものとされている。

        
         平安期の809(大同4)年宇佐八幡宮より勧請したと伝える。現本殿の建立年代は、室町
        初期のものとされ、神社建築としては県下最古のものとされる。

        
         本殿の両側面には、柱と柱との間の上方に蟇股(かえるまた)があるが、蛙が正面を向いて、
        足をついているような形であるのでこの名称がある。牡丹などの絵が描かれていたが、長
        い歳月のため剥落してわからなくなっている。

        
         社号の「平清水」は、社殿の右側に湧水があり、日照りでも豪雨でも水量が一定して増
        減がなく、不思議な現象から名称になったと伝える。

        
         明治政府は古社寺建築などの保護を図り、保存資金交付の道を開く。1885(明治18)
        年保存資金として300円が内務省か交付され、1937(昭和12)年には国庫補助を受け、
        本殿の修復を行ったことなどが国費記念碑に記されている。山口県知事戸塚九一郎が碑を
        建立したとある。

        
         再び山口大学構内に戻って、構内にあるバス停より湯田温泉まで乗車する。