ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市高瀬は種田山頭火の妻・咲野さんと島地黙雷のふるさと

2021年02月28日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         高瀬(たかせ)は山村地域で、島地川ダムに源を発した島地川が南流し、川に並行して国道
        376号が走る。住宅は南西部の大原・殿明周辺に集中する。
         地名の由来は、川筋に岩石が多く、そのために川の瀬音が高いことから地名になったと
        考えられる。(歩行約3㎞)

        
         この地を訪れるためのバス便は、JR福川駅前から3便、山口市堀から2便と利便性は
        よくない。サン・スポーツランドに駐車してバス停を出発地とする。(🚻あり)

        
         バス停前の建物はお店だったような構えである。

        
         国道をこのまま進むと、1981(昭和56)年島地川上流に建設されたダムがある。

        
         高瀬川左岸の集落風景。

        
         国道を分けて県道串夜市(やじ)線に入る。

        
         県道を上がって行くと、種田山頭火句碑入口を示す案内がある。

        
         高瀬は種田正一(山頭火)の妻・咲野さんのふるさとである。1889(明治22)年5月、
        佐藤家の長女として生まれ、防府の周南女紅(じょこう)学校に学び、1909(明治42)年に
                種田正一と結婚する。
         1916(大正5)年種田酒造は倒産し、一家は熊本へ夜逃げ同然に引っ越す。その後の咲
        野は波乱にみちた生涯を送り、1968(昭和43)年9月熊本で没す。享年80歳であった。

        
                  「住みなれて 茶の花の 咲きつづく」 
         咲野さんの生家入口に山頭火の句碑がある。この句は1933(昭和8)年山口市小郡の「
        其中庵」で、庭に咲く白い茶の花を見て詠んだとされる。妻の故郷に咲く茶の花とダブら
        せたのかも知れない。

        
         咲野さんも今とは家並みなどは違うが、生家から眺めたであろう高瀬集落。

        
         西迫下地区から秋字明(しゅうじみょう)地区への道。

        
         地下(じげ)道として、米光から島地川の流れと逆方向に、和田、中村、小津を通り、熊坂
        峠を越えて仁保津に至る道であった。(高菅酒店付近)
     
        
        
         地形に沿って家並みが並ぶが空家も目立つ。(高瀬川)

        
         左手の家屋で家並みは消えるが、江戸期の地下(じげ)道は往来する人も少ないし、整備も
                十分でなかったようだ。

        
         集落の最上部に総鎮守の河内神社がある。一の鳥居は明治29年11月吉日、二の鳥居
        の左側はひび割れしているが、寛政□□年9月吉日とある。 

        
         もと河内社と権現宮を相殿していたが、1864(元治元)年に高瀬神社と改称し、さらに
        1952(昭和27)年に河内神社と改めた。創建の年月は知れないが、阿州(徳島)一宮平岡
        大明神を勧請して秋字明、西迫、殿明の氏神とした。
         現在の本殿は江戸期に建立されたものだが、拝殿は1928(昭和3)年に再建された。

        
         石州瓦の建物が山裾に並ぶ。

        
         島地川ダムと特産の和田丸太原木(檜・杉)と、ホタルがデザインされた特定環境保全下
        水道のマンホール蓋。

        
         石組みと調和する土蔵。

        
         目の前のサン・スポーツランド付近に、1971(昭和46)年廃校になった高瀬小学校が
        あったとされ、周囲の家々はダム建設で移転を余儀なくされて転居したという。

        
         三汲寺(曹洞宗)は、1622(元和8)年創建の古刹だが、現在は専任の住職不在である。
        集落の人口減少で寺族の生計を支えられないことなど、山村集落がもつ1つの課題でもあ
        る。

        
         同寺は代務住職の関与を得ながら現状維持されているが、住職の高齢化もあって先行き
        に不安を残す。

        
         高瀬八十八ヶ所霊場は老僧が四国の霊場に倣って、1820(文政3)年から4年がかりで
        開創する。(同寺に1番札所) 

        
         下って行けば高瀬峡への道と合わす。自然豊かな美しい渓谷だそうで、渓谷に沿って2.
        2㎞の自然歩道には奇岩などが楽しめるという。 

        
         集落道の途中に門構え、茶室のある民家がある。松田敏樹(1838-1903)宅のようで、萩藩
        では諸役を歴任し、1889(明治22)年町村制施行による選挙で山口町初代町長となる。
        子・松田稔も和田村長など歴任し、地域の発展に貢献したという。

                
        
         サン・スポーツランドから狭隘な山道を3㎞ほど進むと、左手に専照寺(浄土真宗)入口
        がある。
         1638(寛永15)年に毛利輝元の家臣・菅田正五郎によって建立された。明治初期に西
        本願寺の宗教改革に尽力した島地黙雷が生まれた寺でもある。
 
        
         
         島地黙雷(しまじもくらい)は、1838(天保9)年同寺住職の4男として生まれ、29歳で
        島地の妙誓寺の住職となる。信教の自由を求めて上京し、政教分離を明治政府に認めさせ
        るなど神道の下にあった仏教の再生に尽力し、西本願寺の執行長になどを歴任したが、1
        911(明治44)年寂、79歳。            


山口市小郡の仁保津は勤王庄屋の林勇蔵が活躍した地

2021年02月25日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         仁保津(にほづ)は椹野川の中流域右岸に位置し、平地は少なく、山口線、国道9号が川
        に並行して走り、その山手側に集落が立地する。(歩行約5.5㎞) 

        
         仁保津駅の山手側に山口農業高校が移転するのに伴い、1972(昭和47)年4月仁保津
        駅仮乗降場として、山口線の上郷~大歳間に設置された。 
         1987(昭和62)年の国鉄分割民営化された際に駅となるが、駅構造は設置時と同じで
        単式ホーム1面1線を有する地上駅である。

        
         権現堂踏切を渡って椹野川に出ると、この橋の名も権現堂で、川の右岸と左岸を繋ぐ橋
        として利用度が高い。

        
         橋の先に熊野神社。

        
         熊野神社の創建年について定かではないが、この地域を東大寺が開墾して立荘した荘園
        が
あった頃からのものとされる。この地にあった東陽寺の鎮守として、紀伊の熊野本宮か
        ら勧請したという。
         鳥居に刻まれた文字は風化して読めないが、1702(元禄15)年赤穂浪士の討ち入りの
        あった年に建立されたという。

        
         1871(明治4)年現社号に改称されるまでは椹野大権現と呼ばれ、椹野24ヶ村の総鎮
        守であった。社殿内にある古い神号額は「節野大権現」となっているが、節野とは椹野の
        ことで、大和朝廷期に東方方面の俘虜を連れてきたことから俘囚(ふじゅう)郷と呼ばれてい
        た。

        
         熊野神社に向かって右手の道を進み、中国自動車道の函渠を潜ると白滝観音堂がある。
         昔、諸国行脚のお坊さんが権現山山中の岩窟で十一面観音像を見つけ、村人にお堂を建
        てて祀るように頼んだとされる。僧の名をとって白滝観音というが、母乳の出ない人に霊
        験あらたかという。

        
         観音堂には江戸期の鋳物師・武波豊久が制作した鰐口が吊り下げてある。直径約20㎝
        と小さいが、銘に「十方施主智浄信女」天明八戌申(1833)とある。

        
         国道9号を横断して多門寺へ向かう。

        
         坂を上がって行くと寺の屋根が見えてくる。

        
         耕作地の台地上に猿田彦大神が祀られているが、天孫降臨のときの道案内をしたと伝え
        られる神である。江戸中期頃から庚申信仰と習合し、邪霊を防ぐ道祖神として信仰される
        ようになったといわれている。

        
         古くは永福寺といい真言宗の寺であったが、山口市小鯖にある禅昌寺の玉峰玄台和尚が
        再興し、曹洞宗に改宗して寺号を多聞寺とした。現在の本堂は、1879(明治12)年火災
        に遭い、同じ町内の妙湛寺の本堂を移築したものとされる。

        
         国道9号に戻り小郡IC方向へ進むと、国道沿いに一段高くなった邸宅があるが、幕末
        期に大庄屋を務めた林家である。

        
         石垣に使われているのが結晶片岩といわれる扁平な石で、綾織状の組み合わせには重厚
        感と美しさがある。

        
         結晶片岩を使った石垣は、国道よりも北側に多く使用されているとか。

        
         山口農業高校への坂道を
上がる。

        
         小郡上郷児童館入口に林勇蔵翁についての案内がされている。1813(文化10)年吉敷
        郡矢原村で生まれ、14歳のとき仁保津の林家の養子となる。1864(元治元)年高杉晋作
        らが挙兵すると、金銭的に支援した勤王庄屋であった。矢原村の大庄屋・吉富簡一(旧名・
        吉富藤兵衛)とは親戚関係にあり、彼に尊王攘夷思想を与え、簡一も金銭面の援助や自ら諸
        隊を組織している。

        
         明治維新と日本近代化の先駆者でもあった林勇蔵は、1899(明治32)年9月に87年
        の生涯を終える。座像は自らが苦労して改修した椹野川の方向に目を注いでいるといわれ
        る。

        
         勇蔵座像の傍に2つの祠が並んでいる。右は稲荷大明神で左は賽の神・道祖神である。
        昔は椎木峠トンネルに近い山中にあり、三方からの小径の接点にあった。1871(昭和4
        6)年座像が復元された際に当地へ移された。

        
         同じく勇蔵座像のかたわらに「孝子(こうし)・太郎吉」の碑があるが、1869(明治2)
        年林勇蔵らによって建立された。太郎吉は幼少よりよく父母に仕え、病弱であった弟妹の
        養育に献身した。父の死後は一層農耕に励み、一生独身を過ごしたという。1860(万延
          元)
年81歳で没す。

        
         中央に「あめんぼ」の親子を配し、周りに「SLやまぐち号」がデザインされた旧小郡
        町のマンホール蓋。

        
         右手に山口農業高校校舎を見ながら山手に向かう。 

        
        
         林勇蔵が段丘の山林・畑を開いて水田とするために掘削した灌漑用トンネル。銅山の堀
        師の力を借りて延長82mのトンネルを完成させ、10.4haの新田が開発された。

        
         さらに峠へ上がって行くと、椎の木トンネルの上に「藩主巡覧記念碑」の案内がある。

        
         2つ目の道標に沿うと段上に上がる道が消滅している。

        
         1863(文久3)年5月藩主・毛利敬親は林家を訪ね、椎の木峠傍の山頂から新たに開墾
        された墾田を視察する。これを記念して林勇蔵が建立した碑には、「この栄光を忘れずに
        村人よ、耕作に励みましょう」と刻まれている。

        
         椎の木峠の先に椎の木峠トンネルに通じる溜池を神泉塘といい、林勇蔵は水の供給源と
        なる溜池をつくるためにも苦心惨憺(さんたん)した。池は3つあり「神・霊・龍」と池に高
        貴な名が付いている。その場所までは一旦下って上り返さなくてはならず、峠で引き返す。
 

        
         山頭火の句碑「春風の 鉢の子 一つ」、SL貴婦人号と小郡桜が描かれ、SLのプレ
        ートに「おごおり」の名が刻まれたマンホール蓋。

        
         国道まで戻ってJR仁保津駅に戻る。
  


周防大島の佐連は屋根瓦製造が盛んだった地 

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。 
         佐連(され)は屋代島の南端部(外海)に位置し、海上に沖家室島が浮かぶ。地家室の枝村で、
        もとは葭ヶ久保(あしがくぼ)と呼ばれ葭がたくさん生えていたところというが、「佐連」と
        いう地名の由来については知り得なかった。(歩行約1.3㎞)

        
         フイリップ・フォン・シーボルトは、1823(文政6)年オランダ商館の医官として来日
        し、長崎市内に蘭学塾兼診療所を開設する。シーボルトの江戸参府紀行によると、182
        6(文政9)年3月3日上関と室津を通過して牛ヶ首沖に碇を下ろし、翌日に上陸して動植物
        を観察して同日出船したとある。

        
         佐連の南400mに位置する沖家室島に、1983(昭和58)年3月全長380mの沖家
        室大橋が完成する。

        
         1933(昭和8)年宿望であった防波堤が構築され、その竣工を記念して、当時の菊山嘉
        男知事の揮毫による「入和制水」の碑が湾頭に建立される。1933(昭和8)年8月に山口
        県知事に就任して農漁山村経済更生計画を推進したが、3年後に宮城県知事として転任す
        る。

        
         沖家室大橋が架橋されるまでは、沖家室島への渡船「瀬戸丸」が発着する港であった。

        
         火の見櫓の半鐘は、火災・洪水発生時に鳴らされたもので、鐘の打ち方が定められてい
        たとか。現在はサイレンとか行政無線に役目を譲っているが、この小集落の鐘は現役か、
        それとも集落のシンボル的存在として残されているのかはわからない。

        
         町営バスのスクールバス白木線佐連バス停。周防下田から片添ヶ浜、沖家室島、佐連を
        通って地家室、外入を周回する路線である。「スクールバス」となっているが、一般利用
        客も有償で混乗できるとのこと。

        
         バス停付近から見る県道橘東和線に沿う家並み。(佐連会館に🚻あり)

        
         佐連山登山道と案内された道を上がると、奥の院があるが由緒など詳細はわからず。

        
         集落内の広い道を山手に向かう。

        
         道なりに進むと左手に日吉神社の鳥居、その左手にはデイサービスセンター山王苑。

        
         日吉神社は慶長年間(1596-1615)近江国坂本にある山王総本宮日吉大社を勧請したと伝
        わる。旧社号は山王権現社といい、1871(明治4)年に現社号に改められた。

        
         山腹に白いガードレールが見え、集落が一望できるようなので境内裏手から佐連川に沿
        って急坂を上る。

        
         みかん畑の中に家屋が見えるが、その多くが空家のようだ。

        
         展望地から眼下に佐連の集落、左手に沖家室大橋と沖家室島、青い海の先に伊崎の鼻。

        
         往路を引き返して高台に上がると家並みが広がる。

        
         石組みの大きな井戸。

        
         墓地の傍に周防大島八十八ヶ所の札所である地蔵堂がある。敷地内に住職の墓があるの
        で寺があったのだろう。詠歌は「心から 南無阿弥陀仏 称うれば 弥陀のみ園に 往き
        て生まれん」とある。

        
         路地に入ると釜で何か煮ておられたのでお聞きすると、ひじきを水戻しして蒸し煮して
        いるところとのこと。最近は取れる量が少なくなったこと、高齢で海から重たいひじきを
        持ち上げることが困難になったこと、ひじきに不純物が付いて商品価値が低下したことな
        どをお聞
きする。

        
         戦国期の1575(天正3)年伊予の豪族・河野水軍は土佐の長曾我部元親に敗れ、流転の
        後、
この地に移住したのが河野惟久とその郎党で、集落の大部分はその子孫であると伝承
        されている。

        
         この地も海岸から山手にのびる路地と水路が数本あり、その路地を繋ぐ道である。(西村
        酒店付近) 

        
         佐連は良質な粘土が産出されたため、これを原料に瓦工場が多くあった。大正中期より
        衰退が始まり姿を消したとのこと。(集落の地家室側)

        
         海岸部に御旅所。

        
         水路は蓋がされて通路となった所もある。

        
         三方を山に囲まれて東風の強風を受けないのか、それとも改築されてしまったのか、漆
        喰で塗り固められた屋根を持つ民家は見られなかった。


周防大島の外入は花咲く夕陽の里と銘打った集落 

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         外入(とのにゅう)は屋代島の中央、安下庄湾の東に位置し、集落は南西に面した入海の海
        岸砂州に立地する。
         地名の由来は、「外海にて何れの村よりも入り込む村故外入申伝候事」とある。(歩行約
        3.5㎞)

        
         JR大畠駅から防長バスで周防下田バス停で下車して、スクールバス白木線(一般混在型)
        乗り換えることは可能だが、滞在時間が短いこともあって車を利用する。(海岸部に駐車)

        
         海岸道路を伊崎方面へ向かう。

        
         大波・強風対策の典型的な家の造りで、海側に納屋兼作業場を建て、その後ろ側に主屋
        を建てるという形式をとっている。

        
         恵比須さんが祀られている。

        
         波消しブロックが海岸線に沿ってずらりと並ぶ。

        
         海に向かって細い路地が短冊状に設けてあるが、それを繋ぐ道は設けられていない。
        
        
         山に降った雨をスムーズに海へ流し出す水路も見られる。

        
                
            
         外入も古い郷と新しい浜をもつ典型的な集落の1つでもある。県道地家室白木港線に入
        ると、大きな屋敷構えを見せる。

        
        
         往還道入口には「外入旧跡ハイキングコース」と銘打った案内板がある。

        
         ここが地家室往還道の入口のようだ。

        
         県道に戻るとスクールバス三下バス停と待合所。

        
         ここにもL字型の大きな屋敷がある。浜の家並みは妻方が海側を向いており、強い風や
        波を防ぐための工夫がなされている。

        
         山田神社参道入口の灯籠には文化七庚午(1810)とある。

        
         浜と郷との境はわからないが、山手側に比較的古い家屋が散見できる。

        
         山田神社の創建は不詳であるが、五穀の不作が続き、疫病も流行したため伊勢山田の外
        宮より勧請し、五穀の豊穣を祈ったという。旧
社号は山田権現社といい、境内に亜熱帯性
        のヤマモガン、ヤマビワ、暖地性のサカキカズラの樹木がある。

        
         境内裏手に廻ると西光寺(浄土宗)があるが、もとは西光山清龍寺と
称する禅寺であった
        という。1588(天正16)年巌島の合戦の戦功をあげた磯兼加賀守が領主となり、当寺を
        菩提所と定める。元和年中(1615-24)三田尻(現防府市)へ領地替えになると、寺領が召し上
        げとなり住僧もなく衰徴する。1619(元和5)年兼応が浄土宗道場として再興、改宗した
        という。

        
         磯兼氏の墓が西光寺墓地にあるとのことだが、案内がされていないので鎌倉後期のもの
        と推定される宝篋印塔を探し求めたが、他に宝篋印塔があって特定することができず。

        
         墓地から見る西側地域。

        
         県道に戻って安下庄方向へ進むと、生活に欠かせないガソリンスタンドがある。

        
         門構えをみせる屋敷。

        
         こちらの門構えは浄念寺(浄土真宗)で、1704(宝永元)年安下庄より移転する。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、西方村・地家室村・沖家室島・外入村の区域
        
をもって家室西方村が発足する。1941(昭和16)年白木村に改称し、昭和の大合併まで
        この地に村役場が置かれていたという。左手の建物は白木多目的共同利用施設で、周防大
        島町白木出張所が併設されている。

        
         金魚の形をした島で、外入は魚の尾柄(びへい)に当たる位置にあるため、内海の下田(
          たた)
とはわずかな距離にある。

        
         他地域と比較すると漁船は数は多い。

        
         波止埋立・御大典記念碑とあるが、1928(昭和3)年昭和天皇即位の記念と思われる。

        
         金刀比羅宮から見る西泊。白木山には1941(昭和16)年旧軍の防空広角砲台が設置さ
        れたが、村民(ほとんどが女性)が建設に従事する。同年11月にそれまでの家室西方村を
        砲台にあやかって白木村と改称する。

        
         漁港を見守るかのように建立されている金刀比羅宮は、1932(昭和7)年に勧請され、
        浜にあった恵比須神社、三宝荒神と弁天山にあった弁財天が合祀された。

        
         駐車地まで戻って、三下バス停から県道を約1㎞の坂道を走行すると、外入の給領主で
        あった磯兼屋敷跡がある。

        
         戦国期から江戸初期にかけて磯兼景盛・景通・景綱3代の屋敷跡である。この地は領民
        の様子、航路が眺望できる最良の場所であった。
         しかし、関ケ原の戦い後に毛利氏は防長二国に減封されたため、景綱は三田尻(現防府市)
        に移り、約60年間の給領主時代が終わる。現在は屋敷跡に石垣の一部が残り、下の段は
        馬場、上の段は屋敷地であったとされる。

        
         跡地前から見える外入の集落と外海。


周防大島の地家室は帆船時代の港町 

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         地家室(じかむろ)は屋代島の東部、白木山南麓に位置し、南(外海)に面した入海の砂州に
        立地する。
         地名の由来は、東・西・北の三方を山で囲まれ、南は海に面した日受けの良い場所で、
        室のように暖かであることにちなむという。
         また、三方を山に囲まれ、地下の家のごとくであるのをもって地家室となったという。
        (歩行約2.0㎞)

        
         周防大島町の町営バスは、周防下田(したた)を起点にスクールバスとして運行されている
        が、一般利用者も有償で利用することができる。但し、通学用バスのため集落を散歩する
        には利便性が悪い。(漁港に駐車)

        
         集落は郷と浜、それに埋め立ての磯上地区に分けられる。

        
         山手に通じる路地は、路地と路地を繋ぐ道がないため、入れば引き返さなくてはならな
        い。

        
         帆船時代は港町として賑わった集落である。湾は真南に向かって開いているので、南風
        (地元では「まじ」という)が強く吹き、台風の時期には海は荒れるが、それ以外は湾の両
        端に突き出ている岬と、集落の背後の山で防ぐことができる。(東端の集落付近) 

        
         路地の先に高台。

        
         高台から見ると集落は海側に家が集中している。

        
         路地は複雑な地形になじむように展開しているので魅力的だが、空地になって先が見通
        せると、ミステリー感が失われて楽しみも半減する。

        
         大正期に普及した手押し井戸ポンプを見かける機会が少なくなったが、絶滅を進めたの
        は1945(昭和20)年~1955(30)年代に電動井戸ポンプと水道の普及だといわれて
        いる。
         手押しポンプだと
ライフラインが被害を受けても、水を汲み上げることができる優れも
         のである。(路地と路地が繋がった道)

        
         1615(慶長20)年萩藩は、地家室の未開の地を無給通・林久右衛門に与え、屋敷の中
        に林家が管理していた御茶屋があった。毛利氏の参勤交代は三田尻から大坂までは海路で、
        この御茶屋に一泊したとされる。残念ながら場所の特定はできなかった。

        
         神社への道は往還道であったため、この付近は車の通行が可能な広さを保っている。

        
         無住になって久しいようだ。

        
        
         1612(慶長17)年創建の中原神社は、地家室の総鎮守で旧社号は三宝荒神社と称した。
        三宝荒神は日本特有の神だそうで、不浄を許さない厳しさを持つことから、火で清浄が保
        たれる竈に祀られ、竈の神、火の神として崇敬されてきた。
         さらに人々の災いから守り、金銭を融通してくれる神として家の守護神となる。

              
         町指定の天然記念物であるイチョウの木は、高さ約20m、目通しの幹は約4.15m
        である。普通に見られる銀杏は細長いが、ここのは「ハート型」で丸いとされる。

        
         海岸部へ出ると広場に週2回の移動販売車が訪問中。

        
         西側は江戸後期に埋め立てられたもので、かっては遊郭や茶屋が建ち並び、道は煉瓦敷
        きであったという。

        
         半島の突端があることから良港であり、海路の要衝、船舶の碇泊所となったが、船舶の
        機械化により繁栄は没落し、寒村に化したといわれる。

        
        
         泉福寺(曹洞宗)は、1705(宝永2)年吉敷郡下郷村に創建されたが、1873(明治6)
        現在地に引寺再建される。本尊の薬師如来は秘仏とされ、25年日毎に開帳される。

        
         周防大島八十八ヶ所第83番札所。詠歌は「ありがたや 大慈大悲の 観世音 世渡る
        舟も 凪の波間に」とある。
         大師堂の前に置かれている石造香炉は、参拝者の焼香のため使われるもので、桶型にな
        っているのが珍しい。

        
         海岸部に残る石垣。

        
         波止から見る集落。駐車地に戻って約550mの坂道を車で上がると、第82番札所、
        往還道と加室合戦が案内されている。

        
         地家室から外入(とのにゅう)に至る山越えの往還道。外入村の境から海辺まで1.2㎞ほど
        あり、900mほどの急坂が続き、左右に田畑を見て民家の中を下る道とされる。

        
         南北朝の戦乱期、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)は、1338(延元3)
        天皇の命に奉じ、征西大将軍として吉野を発ち、伊予国忽那(くつな)島へ渡り豪族・忽那義
        範の援助を得て九州下向の機をうかがう。
         これを阻止せんと北朝方安芸国武田氏信が屋代島海域に侵攻すると、南朝方の忽那・土
        居勢は親王に加勢する。世にいう加室合戦の地として石碑が建立されている。

        
         札所と谷川を挟んだ向かい側に地家室の石風呂がある。戦後も一時期焚かれたようで、
        その時に石の間をセメントで塞いでいる。
         天井を削って高くして熱効率を高め、側面に石を積み上げて床を丸くし、床には石を敷
        き詰めている。一度に5~6名が入れるもので、1841(天保12)年頃から第2次大戦ま
        で利用されていた。この地は平地に乏しく段々畑の耕地が多く、体を痛めることが多く、
        作業前の慣らしと後の疲労を癒すために必要だった。

        
         第82番札所の詠歌は「海遠き 雲の上より 現れし 南無薬師仏 仰ぐ尊さ」とある。

        
         集落の先に見える島は沖家室島。


周防大島の船越は海岸線に沿って細長い集落

2021年02月20日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        船越(ふなこし)は屋代島の中央部に位置し、外海に面する入海の砂州に立地する。 
        地名の由来は、往古、屋代島は東西に分かれて、現在の下田(したた)と船越は海峡になっ
       ていた。常に船舶が航行し、船越の名称はこれにより付したといわれる。(歩行約1.7㎞)

       
        JR大畠駅から防長バスで周防下田バス停で下車して、スクールバス白木線(一般混在型)
       乗り換えることは可能だが、滞在時間が短いこともあって車を利用する。(海岸部に駐車)

       
        堤防の先が埋め立てられて役目を終えている。

       
        海岸道路を外入(とのにゅう)方向へ歩く。

       
        石垣で囲んで海岸側に納屋兼作業場、その奥に主屋を建てるという、この地方の典型的
       な家の構えである。

       
        山手から海岸への道は家と家の間に設けてあるが、水路は蓋がされたようだ。

       
        漁獲高の減少で大型船を使っての漁は、燃料代がかさむため出漁せず、もっぱら小型船
       が中心だそうだ。

       
        防波堤の岩に大漁を願って恵比須社。

       
       
        病気退散を願って疫神社が建立されているが、霊験あらたかであるとされ、近辺の方が
       持ち回りで管理清掃をされている。

       
        船越集落は南西に沿って海に面し、1㎞ほどの海岸線が続いている。

       
        細い水路であるが集中豪雨でも対応できているので、山手側の土地に保水力があるのだ
       ろう。

       
        山手側に進むと廃屋を散見する。

       
        集落の中央付近に自転車も格納できるほどのバス待合所。ここも町運営のスクールバス
       対応で、旧東和町の集落を周回する路線である。登校日とそうでない日で区分けされて4
       ~5便が運行されている。

       
        看板と自販機はあるが営業されていないようだ。

       
        シンボル的な火の見櫓。

       
        県道を進んで行くと第78番札所の案内がある。道路の向かい側には、1873(明治6)
       年創立の船越小学校があったが、1911(明治44)年西方尋常小学校に統合される。

       
        周防大島八十八ヶ所船越大師堂。詠歌は「世を照らす 大日如来の み光に 漏るもの
       なし 仰げ衆生は」とある。

       
        向かい合うようにある荒神社は民間信仰の1つで、生命を保つための食物を調理する台
       所の神として祀られている。この荒神信仰は瀬戸内海沿岸地方に多いとされる。

       
        崩壊の途にあるが、厨子2階の屋根に三角形の屋根が取り付けてあった古民家。

       
       
        大波と強風対策のため石垣が築かれ、木を植えるという方法もとられている。

       
       
        船越も家の建築年代が新しいのは潮風や強風にさらされるため、傷みやすく耐用年数が
       短いことによるようだ。


周防大島の馬ヶ原は長い海岸線とみかん畑

2021年02月11日 | 山口県周防大島町

       
               この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        馬ヶ原は屋代島の南海岸(外海)東部の入海に面し、砂州に立地する細長い集落である。
       油宇の人々が馬ヶ原に耕地をもっていたので出作に通っていたが、その一部の人が、江戸
       中期以降に住みついたものと伝えられる。(歩行約2㎞)

       
        集落へはバス路線終点の油宇から歩きとなるため車を使用する。(集落の東端に駐車) 

       
        長い海岸線に合わせて東から小浦、国友、吉上(きちじょう)、大田、小迫、枝越(えこし)
       小字が分かれているが、小迫を除いては山手から海までがその領域となっている。

       
        明治、大正、昭和の初め頃までは、石炭船の五平太船に乗って大阪まで石炭を運ぶ者が
       多かったという。

       
        旧道を挟んで海側は地割されたように海への路地があるが、山手側にはそれが見られな
              い。

       
        島内の他集落と同様に、山からの雨水を海に流すための細い水路が数本見られる。

       
        山手側の道はみかん畑に通じている。

       
        馬ヶ原は海岸近くに家を構え、背後に耕地や山をもつという定住方法がとられてきた。

       
        周防大島八十八ヶ所第73番札所の地蔵堂。御詠歌は「ありがたや この世のちの世 
       導いて 救いまします 地蔵菩薩は」とある。

       
        多くの家が改築されて昔の面影は残っていない。

       
        賑やかな時もあっただろうが、時代の流れとともに過疎というレッテルを貼られてしま
       うが、この先、何が待っているのだろうか。
 
       
        昭和の原風景が残る集落に癒しを覚える。

       
        集落の西端から海岸道路を東へ向かう。

       
        出漁中なのか漁港に係留されている船は少ない。

       
        カメを思い出すような片島が浮かぶ。

       
        海側に作業場などを設けて大波対策を講じてきたのであろう。

       
        屋根瓦に漆喰という家屋は少ない。

       
        お聞きすると「ひじきは岩場に生育し、長さ1mぐらいなったものを収穫し、天日干し
       するが、乾燥のムラをなくすために裏返す作業があり、手間と根気がいるよ」のこと。こ
       の先の工程をお聞きすることはできなかったが、この時期だと「鉄分の王様」といわれる
       ひじきの天日干しを拝見することができる。

       
        この辺りで見られる春の風物詩だそうだ。

       
        島内ではあまり見かけなかったが、防風林に囲まれた家がある。普及しなかったのは限
       られた屋敷地に木を植えることが難しかったと思われる。

       
        遠くから見ると白い屋根と思えるほど漆喰で固められ、海側に作業場を設けるという典
       型的な造りとなっている。

       
        二重に波消しブロックが施されている海岸線。海を眺めようとやって来た者にとっては
       邪魔な存在だが、住む者にとっては必要不可欠なものといえよう。

       
        石組みがあった付近が海岸線だったのであろう。そこに人が住み、自然の脅威と戦い続
       けた痕跡でもある。

       
        バスで終点の油宇から徒歩30分だそうだが、病院車が来るようになったとか。


周防大島の雨振と日向泊は金魚島の尾にあたる集落 

2021年02月11日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        雨振(あまふり)は屋代島の東端に位置し、内海の海岸沿いに集落が立地する。
地名の由来
       は、ここに絶世の美女であった「お振りさん
」という海女がいた。末永くこの人を忘れま
       いと、海女を雨として名前の振をとって雨振としたという。他
説によると、その昔、雨堀
       と呼ばれていたものが雨振とな
ったという。
        一方の日向泊(ひゅうがどまり)も屋代島の東端に位置するが、こちらは外海の湾入に立地す
       る。
        地名の由来については、神武天皇が三韓征伐の帰途、日向よりこの地に立ち寄ったこと
       で日向泊になった言うが真実はわからない。他説によると、日向藩が参勤交代で、この地
       に投錨、潮待ちをしたことから日向泊となったとも伝える。 (歩行約1.2㎞)

       
        雨振集落へは伊保田から迫り来る山裾と海との間に、離合もままならない狭い県道が約
       1.5㎞も続いている。2020年7月の豪雨で、土砂が県道に流入して、数日にわたって
       孤立状態となった地でもある。

       
        交通機関がないため車に頼る以外にない。(集落東端に駐車)

       
        道路部分が海側へ拡張されたようで、堤防と波消しブロックで集落が守られている。

       
        各家の玄関は道路側でなく、海を背にして設けてある。

       
        過去にはこの墓標の数ほど人家があったとされる。

       
        家屋は解かれ、門柱に岡本邸だったことを示す表札が残されている。

       
        神社と札所は集落内に移築したと案内されている。

       
        参道は豪雨とイノシシによって無残な姿になっている。

       
        第69番札所のお堂は健在だが、土砂崩れでお堂に近寄ることができない。

       
        観音堂の山手側に背丈ほどの雨振神社があるが、由緒等は知り得なかった。

       
        家の背には切り立った山があり、屋代島では海と山が一番近い集落でもある。

       
       
        このプレハブに観音堂と神社が移され、神仏習合の形で祀られている。高齢化でお参り
       できないことや参道の荒廃もあって、集落の総意で遷座させたとこのと。 

       
        山の雨水を海に流す水路と、最奥民家への道が並行する。

       
        大正から昭和にかけての帆船時代には、潮待ちなどで隆盛をきわめたが、戦後の不況も
       あって衰退し一寒村となる。

       
        お店だったと思われるが役目を終えたようで、食料品等は週2回の移動販売車で対応し、
       その他の物資は約29㎞離れた久賀で買い求めるとのこと。

       
       
        集落の東西中央付近に、雨振公民館と広い屋敷地を構える民家がある。

       
        集落西側の民家。

       
        雨振集落の東に両源田という小集落があるそうだが、雨振から引き返して峠越えをして
       外海に出る。(雨振の西端より)

       
        日向泊は周防大島町の外海では一番東端に位置する。

       
        伊予灘を隔てて遥か伊予地を望む地は、村上氏の陪臣小田氏が慶長年間(1596-1615)か
       ら居住する。国境の浦として沖行く船、特に伊予に対する見張り役を務めたが、伊予から
       来て伊予を見張ることになったという。 

       
        雨振集落とは対照的にモダンな家が並ぶ。

       
        小さい湾だが美しい砂浜と穏やかな海が広がる。

       
        遠くに浮かぶ島の名はわからないが愛媛県のようだ。 

       
        山裾の民家は無住のようだ。

       
        大した農地がないので、漁業に励み、生け簀に魚を活けておけば、大坂などの出買船が
       買っていった時代もあったようだ。

       
       
        集落西側に周防大島八十八ヶ所第70番札所。詠歌は「波間ゆく船も たやすく泊まる
       らん 慈悲心深き 日向泊りに」とある。


周防大島も西方に服部屋敷とトンボロ現象 

2021年02月11日 | 山口県周防大島町

       
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        西方(にしかた)は屋代島の中央部に位置し、湾入した入海の海岸砂州に立地する。この地
       は大字西方で、西方、下田(したた)、長崎の3つの小字で構成されている。
        
地名の由来は、中世・島末荘西方の中心が当地にあったことによるという。(歩行約5.
              8㎞)

       
        「道の駅とうわ」に駐車して、周防長崎バス停を起点に散歩する。

       
        道の駅では物産直売所と2階にレストラン、その他おさかなセンター、チャレンジショ
       ップなど「買う・食べる」ことができる。

       
        国道から集落に入ると、すぐ左手の路地に石垣が残っているが、ここがもともとの海岸
       線で海側が埋め立てられたようだ。

       
        旧道に出合うと正面に東和中学校、ここを右折して久賀方面へ向かう。

       
        人に会うことはなかったが、会えたのがネコだけだった。

       
        今は国道側と違って車も通らず静かな道筋であるが、1924(大正13)年長崎の西端が
       埋め立てられ、長崎と下田が続いたことにより飛躍的に発展したという。

       
        地下(じげ)上申によると、干潟の浜といっていたが田地になったので下田(したた)という
       ようになったという。
        そして、下田八幡宮ももとは干潟八幡宮だっただろうともいっている。

       
        海側から境内に入るが、社殿は参道の正面にあらず、方角がはっきりしないが、南()
       
に向く形で建てられている。

       
        下田八幡宮は、貞観年間(859-876)宇佐神宮が神託によって岩清水へ勧請される時、奇瑞
       (きづい)があって当地にも分祀されたものという。往古は村内の下田浜に鎮座していたが、
       いつの頃かは不明だが現在地に遷座されたという。

       
       
        この付近には漆喰で塗り固められた屋根を持つ家屋は存在しなかった。この地も強い潮
       風などにさらされるため、家が痛みやすく耐用年数が短いことに起因しているようだ。

        
        背後に白木山があるためか、川幅のある立田川が海に注いでいる。

       
        旧道の家並みに変化が見られず、左折して札所に参詣する。

       
        下田大師堂は高台にあって集落が眺められる。

       
        周防大島八十八ヶ所第60番札所(下田大師堂)。詠歌は「ありがたや 大日如来の み
       光に 遭うもの誰か 闇のあるべき」とある。

       
        どうように出発地に戻ろうか思案つつ集落内をトラバースする。

       
        県道109号(白木山線)に合わすと、漆喰塗り屋根の民家に出合う。

       
        県道を上がって行くと、城を思わすような造りの中に眷竜寺(けんりゅうじ)がある。 

       
        鎌倉時代に普済大聖禅師が開いたとされる古刹で、大島では三蒲の松尾寺、橘の普門寺
       とともに禅寺として、古い面影をとどめている。

       
        境内裏手から見る西方。正面に見える山は嵩山か?

       
        正面におむすびのような形をした我島、右手に真宮島。

       
        県道を下って行くと神宮寺。下田八幡宮の別当(上席の僧)寺であったという。

       
        下田八幡宮南参道を過ごすと第63番札所。詠歌は「武士の 長崎氏を 偲ぶれば 千
       手観音 利益尊し」とある。

       
        東和中学校前に出て旧道を進む。

       
        旧道筋に漆喰塗り屋根のある民家はここだけだった。

       
        瓦が飛ばされないよう瓦の継ぎ目に施されている。

       
        国道に出ると手摺のついた高台がある。

       
        海岸台地に上がると山本萬之丞翁頌徳碑がある。翁は1861(万延2)年にこの地で生ま
       れ、代々の農業に従事する。1897(明治30)年頃、林家の畑に蜜柑の枝変わりをみて、
       一枝とってざぼんを台木にして接ぎ、自家の山畑に植えた。
        今日の大島蜜柑は、半ばこの系統に属するもので、恩を謝し徳を称えるとある。(民俗学
       者・宮本常一撰)

       
        台地から見る西方の町並み。旧道と国道の分岐点付近から右側は埋め立てられた新地と
       思われる。 

       
        道の駅に戻ってくると、盛土された中に服部屋敷があるが、もとは林家の分家で、後に
       萩の士族の株を買って服部を名乗ったという。域内あった屋敷は、1994(平成6)年に移
       築復元したものだが、いつ行っても見られるものでなく予約が必要と張り紙がしてある。

       
        服部家の生業は農業の他、酒屋、網元、廻船業と手広く行っており、島外や島末の人々
       の来訪者を考慮した屋敷構えとなっているとのこと。1885(明治18)年築の建物には、
       正面及び裏門敷地内に中庭用の門と坪庭に通じる潜り門があり、用途に応じて人々を区別
       したとされる。

       
        建物は主屋、吊屋を含む長屋、土蔵の3つがあり、主屋には客用の便所と風呂、家人用
       の便所がある。間取りは本百姓の四間六(しまろく)と呼ばれる間取りのようである。(海側
       から見る屋敷) 

       
        沖に浮かぶ真宮島の手前の島との間に、干潮時に砂の道が現れるトンボロ現象が見られ
       るとのこと。服部屋敷裏門前を通って道の駅に戻る。


周防大島の神浦は揚げ浜塩田があった地 

2021年02月05日 | 山口県周防大島町

       
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        神浦(こうのうら)は屋代島の北海岸(内海)東部の入海砂州に立地する。地名は浦中に疫神
       の新宮大明神、浦沖に弁財天が古くから祀られていることから神浦と名付けられたとい
う。
        域内は浜の市の他に、東・西、ワキ、サンギヤの6地区からなる集落で、18世紀中頃、
       
他の集落と同じように揚げ浜塩田が盛んに行われた地でもある。(歩行約1.8㎞)

       
        内海と外海の地を散策することにしたが、バスは1日3便と少ないため車で訪れる
(横
       断歩道の所に神浦バス停)

        
        1889(明治22)年の町村制により、神浦、和佐、森、平野村の4ヶ村が合併して森野
       村となる。その後、東和町を経て、現代は周防大島町神浦である。バス停前にあった店も
       閉じられたようだ。

       
        周防大島は金魚の形をした島であることから、金魚島と呼ばれているそうだ。東西に長
       く神浦は尾びれの部分に位置し、
山は急峻ではないが、雨水を海に流すための水路が域内
       に数本見られる。

       
        住宅は海に背を向けて建っている。

       
        海からの強い風と波によって屋根の破損を防ぐため、瓦は漆喰で塗り固めてある。

       
        東端から見る集落の海岸線。堤防と波消し
ブロックで大波対策がされている。

       
        静かな域内に飛来して爆音を残して飛び去る。

       
        集落の東端に新宮神社。

       
        神社の由緒がないのでわからないが、「新宮」とあるので熊野三山の熊野速玉大社(新
       宮)に関係するのか、新しくこの地に社を移したので、新宮と名付けたという2つが考え
       られる。

       
        旧道に入ると住宅入口に樹木の潜り門が見られる。

       
        門構えのある家の手前には、海へ通じる路地の中央に井戸と、その横には塀と石柱に支
       えられたタンクが置かれているが、防火用に関係するものだろうか。

       
        門構えのある民家。

       
        白く見えるほどに塗り固められた屋根。

       
        2010(平成22)年度調査によると、35の世帯数・人口61人の集落であったが、1
       0年も経過しているのでもっと減少していると思われる。(旧道から山手側に入ってみるが
       空家が目立つ) 

       
        ガスボンベはセットされているが雨戸は閉じられている。

       
        中央に旧東和町の町章、周囲には町木のサクラ、鯛、みかんの花と実がデザインされた
       マンホールで、市街化区域外の特定環境保全下水道として整備されている。

       
        中央付近で和佐集落への道が横断している。(左手に神浦公民館)

       
        1889(明治22)年に周防大島八十八ヶ所が創設され、この地には第66番
札所がある。

       
        第66札所(神浦大師堂)の本尊は地蔵菩薩。詠歌は「神の浦 幼な子どもに 拝みけり
       地蔵菩薩の 慈愛の深さを」とある。

       
        ここに上がれば神浦集落が見渡せる火の見櫓。半鐘もスピーカーもないのでホースを干
       すのが役目のようだ。先の大戦で鉄の供出が行われ、そのほとんどが木製で代用されたよ
       うで、鉄製のため戦後以降に建てられたものと思われる。

       
        火の見櫓を過ごすと民家は歯抜けした感じで建っている。

       
        西端に墓地があるが、集落内に寺は存在しない。1632(寛永9)年正覚寺が創建された
       が、1684(貞亨元)年に小泊へ移ったので隣集落の森、平野の寺が門徒とのこと。 

       
        国道を東進して出発地に戻る。